午後12時47分 東都警察病院 603号室5階の父の病室に下りますね、という言葉と共に、星威岳 吉郎氏はこの部屋を出て行った。兄を殺した犯人を必ず捕まえてください、とも言いながら。ずっと無言で立っていて存在感が薄かった制服警官も、星威岳氏の退出を見届けると、無言で敬礼して部屋の外に移動。美和子はこの病室にひとり残される。これからどうするべきか、……警部に連絡を入れるべき、とすぐに考えが浮かび、支給品の携帯電話を取り出す。今後自分がどうするべきか指示を受けてないし、何より聴取の内容はすぐに報告すべきだから。RRR……携帯電話を開いた瞬間、まだ何もボタンを押してないのに電話のほうが鳴り出した。画面には、こちらが掛けようとしていた相手からの着信表示。すぐさま通話ボタンを押して電話に出た。「はい、佐藤です」「目暮だ。被害者の弟さんから話は聞けたかね?」――警部、私に別の指示を出すつもりなのかしら? それとも、何かの連絡事?一瞬だけ推測を頭の中で巡らせる。警部の視点からは、星威岳氏の事情聴取が続いているかどうかはまだ分からなかったはず、だ。聴取を邪魔しかねなかったこのタイミングで美和子に電話してくるのは、何か事情があるのか。だが何か理由が有るにせよ、自分からは、まず求められた内容を手短に報告するのが当然。「一通りは聞けました。今、話が終わったところです。被害者の遺体の身元が確認できるかたは、弟さんだけのようです。 それから、気になることが。……弟さんの以前の勤務先に、弟さん宛ての脅迫状が来ていました。脅迫状の現物は、その勤務先に保管されているようです」脅迫状の詳細を含め、聴取の結果について、説明を求められたならばもっと喋っていたかもしれない。でも携帯を通した警部の声は、そんな質問はしてこなかった。「そうか……。 ところで佐藤くん、監視カメラで判明したんだが、犯行可能な時間帯に談話室に入った被疑者が2人いた。その内1人は、君と同じ6階に居る。 606号室に居るはずの、片手を包帯で吊った男性だ。カメラの画像によると年配の男性らしい。 談話室で検証中の者達を向かわせて足止めをさせているから、今から事情を聴きに行ってくれ」「……! 分かりました。606号室ですね」なるほど、電話が来るはずだ。ここは603号室。604号室は存在しないから、606号室は隣の隣の部屋、という事になる。星威岳氏の聴取が終わっているのならば、自分に聴取に行かせるのはまぁ合理的な判断。警部はこちらの確認を肯定し、そして更に説明を加える。「ああ、そうだ。 君も聞いたと思うが、廊下で部屋への出入りを撮っているカメラは有ったから、被疑者は2人に絞り込めた。しかし、談話室内を映しているカメラは無いんだ。 別々のタイミングで談話室に入退室した2人のうち、どちらが犯人かまだ断定出来ない。念頭に置いておいてくれ」2人の共犯でもない限りは、二者択一の被疑者候補。どちらかが犯人。606号室のその男性をハナから犯人と決め付けて対応するのは、それはそれで問題がある。だが気を抜くことも決して許されない状況、か。「了解しました」指示が意味する内容を確かに頭に入れて、美和子は答えた。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~午後12時49分 東都警察病院 606号室ガラッ「失礼します」ドアを開けて、警部に指示された病室に入る。こちらに背を向けて立っていた警官が2人、同時に振り返ってこっちを見た。その内のひとりが、おそらく深く考えずに小声で呟く。「あ、佐藤刑事……」その声に小さく会釈を返して、美和子は部屋の中へ静かに踏み入った。自分を除いて、この部屋に居るのは4人。警部に指示されてここに来たらしい制服警官2名と、病室の主と思われるベッドで眠る女性と、……今回の件の被疑者候補であろう、腕を吊った老人。ベッドの上の老いた女性患者は、顔が酸素マスクで覆われていた。青白くやつれた顔で、両の目は固く閉じていて、……睡眠中というよりは、意識不明という表現が当てはまる。ベッドの横には心電図モニターも立っていた。今のところ音は出ていないが、画面を見ると心拍自体はきちんと捉えてはいるらしい。緊急時にだけ音が鳴る設定にでもしているのか。……肝心の聴取相手は、患者ではなく、ベッドの傍にいる男性の方だ。美和子はその男性に向き合う。「突然すいません、佐藤と申します。先ほど、そちらの談話室で、……自動販売機がある部屋で、人が殺されているのが発見されまして」日焼けした色の肌と、老けた顔に相応した白髪。格好は、水色のポロシャツと濃緑色の長ズボン。右手にギプスを巻いて包帯で吊っているものの、顔色自体は、さほど問題無いように見えた。60から70歳くらいの、農業か何かしている人、……美和子が抱いた男性の第一印象はそんな感じ。「そいだけは今、おまわりさんから聞きました。それで、その部屋に行った人に事情を聞いとんのでしょ?」訂正。どこかの地方で農業か何かをしていて、見舞いか看病で東京に出てきた人、だ。どの地方か分からないが、方言丸出しの喋り。これから話す言葉の意味が理解できるだろうか、若干不安を覚えつつも、質問を投げかける。「……はい。失礼ですが、お名前とお住まいをお伺いしても?」「オイは、霧島 権兵衛(きりしま ごんべえ)て言います。九州から、その妹の見舞いに来てます。 うちの妹、肺癌で、いつ死んでも不思議じゃ無かそうで、妹から目ぇ離したく無かとですけどねぇ」最初に自分自身を指差し、会話の流れからベッドの上の患者を指し、霧島氏はそう言った。少々面食らったが、『オイ』は『私』なのか。そういう方言なのか、この人の出身地では。言っている内容がこちらの理解通りなら、この場所での聴取なら問題無いだろうが、……いや、こちらが正しく理解できているのか、一応確認したほうが良いのか?「えっと、……そちらの妹さんが肺癌で、いつ死んでも不思議じゃ無いから、目を離したくない、と」彼はギプスが無い方の腕で後頭部を掻きながら、申し訳なさそうな顔をした。「あー、それで合ってます。すんませんね、訛(なま)りが取れんで。 妹の息子の嫁さんが、昼の1時半にこの病室に来るそうで、それからなら、ここを離れても良かとですけど。 捜査はもちろん協力しますけど、……いつ妹が急変してもおかしくない状態で、家族が誰ひとり妹に付いてないのは、……ちょっと。 普段は嫁さんが、妹の面倒を見とるとですけど、今日に限って『オイが妹を見とるから、貯まった家事でもやっとかんね』って言って、オイが嫁さんを帰らせてしまったんですよ、今朝に」口振りからして、この病室に、他の付き添いの親族は居ないらしい。今ここからこの人を動かしたら、後で警察にクレームが来かねない。仮に警察で事情を聞いている間に妹さんが急変した場合は言うまでも無く、そうでなくとも警察に対する悪感情は持つだろう。今の時刻は12時50分くらいだ。この人の言っていることが確かなら40分後にお嫁さんが来るから、それまではここから目を離さない形で、監視を兼ねて事情を聞いていた方が良い、のだろうか?「では、妹さんの家のお嫁さんが来られるまで、ここでならば、お話を伺ってもよろしいですか?」「そりゃあもちろん良いですよ、人が殺されたんですもんね」流石に、殺人事件の捜査協力依頼そのものを拒否する気は無いようだ。美和子の問いかけに、思い切り頷いて真顔で了解する。自分が人殺しだと疑われていることも、薄々分かってはいるのかもしれない。非協力的な態度を取って変に疑われるのも、本人にとっては嫌なはず。「では、今日、事件現場になった談話室に入られたのは、いつだったか分かりますか?」「確か、10時半になる前です、オイがあの販売機の有る部屋に行ったのは。 喉乾いて、この病室にはお茶置いてないから、自販機のを買おうと思って。看護師さんに聞いたら、『自動販売機はあの部屋に有ります』って言われたとです。 こんな腕でも、お茶買う分には問題無かですから。財布から小銭出したり仕舞ったり、ペットボトルのフタ開けたり、時間は掛かるとですけどね」答えつつ、包帯で吊られた右腕を、顔の高さまで上げてこちらに見せた。怪我した場所は指先では無く、もっと下。手の甲か手首のあたりらしい。確かに人差し指から小指までの指は、ギプスが装着されている範囲からは外れている。指の曲げ伸ばし自体は不自由ながらも可能で、実際にこちらに示して見せる。これならば人を刺すのも問題無い、……否、もう片方の左腕に怪我が無い時点で、そもそも人を刺し殺すのに差し障りは無い、のだが。「そうですか。……その時、談話室の中には、誰か居ましたか?」霧島氏は一瞬遠い目をしたものの、自信の有りそうな口振りの答えを美和子に返す。「……机に突っ伏してる方が、1人おられましたけど、他には誰も。 誰か人が居れば、ボトルのフタ、開けてもらおうと思ったとですけど、……毛布被って寝とらす方を、起こすのもどうかと思って」机に突っ伏していて寝ていた、毛布を被っていた。――間違いなく、被害者。仮にこの人が犯人ならば、一番嘘を吐きやすい事柄。極力こちらの雰囲気を変えないように努めながら、質問を続ける。「眠っていたその人、顔見知りかどうか判断はつきましたか?」「んー、……顔は見てないけど、赤の他人だと思います。東京には、オイの妹家族以外は、元々の知り合い居(お)らん、……あぁ、居(い)ない、ですからねぇ。 寝てた人の顔なんて、覗き込む気にも無らんかったですけど」美和子の背後の警官が変な顔を見せたようだ。それですぐ気付いて、通じないかもしれない方言を言い直す。いや、実際美和子もこの発言は訊き直すつもりだったから、それはそれでいいのだが。「霧島さんを含めて、眠っていたその人に話しかける人は、居なかったんですね?」念押しの質問。自信満々の頷きと共に、力強い答えが来た。「オイは話しかけてません。他に部屋に入って来る人も居ませんでした。他に人が居(お)ったら、ペットボトルのフタ、開けてくれないか頼んでたと思います」「……そうですか」これまでのところ、この人の話に矛盾や不自然な点は無い。ただ、犯人とも犯人でないとも、今の時点ではどっちも判断できずに決め手を欠いている。お嫁さんが来るまでの時間稼ぎを兼ねて、事件現場以外のことの雑談を交えながら、更に不自然な点が無いかを見るのが最善、か。「ところで、話は変わりますけど、……ギプスをつけているその怪我、妹さんの病気とは、もちろん、関係は無い、ですよね?」兄の腕の怪我と、妹の肺癌。両方が同じ原因というケースは、常識的に考えて皆無。たぶん。霧島氏はギプスを左手で撫でながら、当たり前のように頷いた。「これ、オイの地元での交通事故ですよ。 先月の下旬の昼間でした。道を歩いてたら、すぐ近くで車同士が派手にぶつかって、はずみで車のタイヤがオイの所まで飛んできたとです。慌てて避けたけど、腕にたまたま当たって…… 結局、手首が脱臼しとったとですけど、『ぶつかった先が胴体じゃなくて、まだ良かった』って、地元で掛かった医者に言われました」珍しい経緯での怪我だ。交通事故で負傷する人間は珍しくないが、飛んできたタイヤで通行人が負傷するケースはあまり聞かない。医者の言葉もごもっとも。仮に胴体に当たっていた場合、負傷するのは肋骨とか内臓。下手したら死んでいる。ひとまず負傷の経緯は真実と仮定して頭に置いておく。嘘を吐いていればすぐバレる類の話だと本人も分かりきっているだろうに、本物の警察相手に嘘を吐く意味が無い。「そうだったんですか……。 ところで、更に話が変わりますがもう1つ質問です。……妹さんのお宅のお嫁さんが後で来られるとのことですが、妹さん御家族はどこにお住まいで、どんな御仕事をされているんですか?」時間稼ぎと矛盾点探しを兼ねて、また問いかける。対する霧島氏から帰ってきた答えは、これまた想像を超えていた。住所はともかく、妹家族の事情が。「家は、東京の、杯戸、……どこやったかな、細かい番地は忘れたけども、とにかく杯戸です。 妹の息子は医者です。息子の嫁さんは、元看護婦で、妹の息子と結婚してからは主婦だって聞きました。 妹も、前は、医者、でした。……捕まるくらいのヤブ医者で、オイはよう知らんのですけど、なんか医療ミスで患者さん死なせてしまって、警察に捕まっていたって聞いてます。 業務上なんとか罪で捕まって、しばらくして釈放されて、それから体調不良になって、調べたらかなり進んだ肺癌だったそうで。 まだ、こっちでの地方裁判所の判決が出とらんけど、『たぶん判決前に亡くなって裁判打ち切りになるんじゃなかろうか』、って、妹の家の嫁さんは言ってましたね」一応、この説明も事実、……なのだろう。理由はさっきと同じ。調べればすぐ真偽が分かる話なのに、わざわざ嘘を吐く理由が無い。「……そ、そうでしたか」ベッドの上の女性、――霧島氏の妹は、美和子が入室してから今に至るまでずっと眠ったまま。酸素マスクで覆われた顔は、本当にやつれ果てていて血色が無く、まさしく生命が消える寸前の病人そのものだ。医師としての過失の有無を裁かれるよりも前に、この女性は死んでいくのだ。きっと。※9月23日初出 11月26日 第2部ー13を改稿しました モブキャラ霧島 権兵衛の喋り方の参考にしたのは、2013年9月末に亡くなった作者の親戚です。 喋り方を思い出しながら書いたので、地元の人から見たら変に思う箇所があるかもしれません。 個人的な話で恐縮ですが、親戚が亡くなったのはSS速報VIPで、この作品の元になる安価SSの第2部を連載していた頃になります。移動で○時間掛かる場所まで法事に出たのが、きのうのことのようです。あれからあっという間の1年でした。