午前10時40分 東都警察病院 703号室「あのさ、……警察の人は、召喚者のところに居た時のこと、訊いてくるの?」少し迷ったが、話の流れ次第では質問しておきたかったことを、訊いておく。まともな答えが得られない確率が高いのも、また徒労になる恐れが高いのも承知の上。ただ探偵として、この事件のすべての元凶になったらしい存在についての手掛かりを得るチャンスは、逃したくない。「ちょっと! コナン君…… そのことは」「構わないよ」妃弁護士が慌てて俺をたしなめようとする、その声を、『彼女』が遮る。右手を小さく挙げて、『蘭』らしさの全く無い『サキュバス』の声色で、ゆっくりと告げた。「構わないよ、妃弁護士。『被疑者』として答えよう」あえて『妃弁護士』の呼び方に重点を置いた口振りだった。俺の背後で、そう呼ばれた本人が思い切り息を飲む。『お母さん』と呼ばず『妃弁護士』と呼ぶ、――自身の振る舞いを強調する、分かりやすい方法。「……ありがとう」ともあれ、礼を言った俺に無言の会釈を返してから、『彼女』は身体を動かした。ベッドの上、毛布の下に埋もれていた両脚を、俺達が立っている方向、つまり『彼女』から見て左側の床へ。置いてあったスリッパに素足を通すが、立ち上がることはしない。ベッドに腰掛ける『彼女』が、俺を見下ろす構図になる。自身の膝の上に両手を置いて、あらたまって『彼女』は答えた。「当然、警察はあの人の事を訊いてくるよ。でも、『わたし』は何も話さない事にしてる。 召喚されてから、あの夜に大阪に到着するまでの間に見聞きしたことは、ぜんぶ元の身体に置いてきた。『蘭』と融合した後に崩れていった、『サキュバス』の身体に、ね。 だから、あの人についての情報は、当日にネットに書き込んだことが全て。これ以上は、召喚者のことは何も喋らない」静かだが、迷いのない台詞だ。そして、こちらの追及を遮断する内容でもある。やはりこの質問に対しても、応答の型は決まっていたのだろう。「……そう」――今は引き下がるしか無いな。これから召喚者について何を訊いても、きっとまともな答えは返って来ない。ひとまず諦めた俺に、『彼女』が見せたのは笑みだった。硬い口調を少しだけ崩し、更なる言葉をぶつけてくる。「でもね、探偵くん。召喚者の事を喋らない理由はね、他にもあるんだよ? ヒントをあげるから推理してみると良い」「え!?」笑みを更に濃くしつつ、『彼女』は自身の髪を軽く掻き上げた。そのまま右手の指を立てて数字の『1』を示し、話を進める毎に指の数を増やしながら、つらつらとヒントを述べていく。「ヒント1つ目、【その理由が出来たのは、きのうの午後に覚醒してから】 2つ目、【『サキュバス』としては見たことがあるもの、『高校生』としては有り得ないものを見た】 3つ目、【人の名誉に関わること】 4つ目、【コナン君には何もないから楽だ】 事情を考えてみると良いよ。このヒントだけで分かったらすごいと思うけど。 実は人生に関わるくらい真剣に考えていることが有ってね、誰かに相談しようと思っていたの。……男の人には言いづらい内容なんだけど」話し方の雰囲気からして、『彼女』にとってきっと重大な事柄。ヒントを出す辺りでは『サキュバス』の声色で、顔にも声にも柔らかさが有った。が、後半は『蘭』の喋り方がかなり入っていて、表情にも真剣味が増している。――『男の人に言いづらく』かつ、『人の名誉に関わる』か。どんな内容の考え事、というか悩み事なのだろう?男である俺や、おっちゃんにとっては、少々問い詰めにくい。無理に追及しても、信頼関係が壊れるだけ。「かなり、色んな意味で難しいみたいだね」ともあれ、無難な感想を述べておく。推理で真実を当てる難易度は高そうだし、元々の考え事の内容もデリケートそうだ。『彼女』は俺の言葉に頷き、『蘭』寄りの声で答えた。「そうだね。 ……コナン君、お母さんが頼んだ別の弁護士さんがもうすぐここに来るから、その人達が来たら、君はお父さんと席を外してもらえないかな? お母さんと弁護士さんに、相談したいことがあるから。 ここは病院だから、自動販売機はどこかにあるでしょ? 席を外したついでに、ミルクティーを買ってきてもらえたら、有り難いかな」そう言えば、妃弁護士とおっちゃんが、『彼女』のために別に弁護士を依頼した、という話は、以前おっちゃんから聞いていた。我が子が警察に殴られて、丸2日も意識を無くしていた、となって、逮捕されていなくとも弁護士を付ける気になったらしい。俺は返事をせずに振り返り、大人ふたりの顔を伺った。席を外すべきどうか、またミルクティーを与えるかどうか、どちらも小学生の俺が独断する事ではない。『蘭』の保護者が決めるべき事柄だ。困惑の感情を込めた俺の目線を受けた夫婦は、目配せで無言の意思疎通を交わす。……しばらくの思案の末、妃弁護士が口を開いた。「『蘭』。言う通りにするけど、自販機の飲み物を飲めるかどうかは、お医者さんに聞いてからね」親としても、弁護士としても、極当たり前の判断だ。『彼女』に悩み事があるなら、聞き出せないよりは聞き出せる方が良く、また、言いづらい内容なら尚更、希望を叶えて『彼女』の信頼を得た方が良い。とはいえ、飲食制限があるかどうか確認していない状況で、入院患者に飲み物を与えるのも、確かに不味い。「うん、分かった」『彼女』も異議は無いようで、母親の言葉にあっさり頷いた。直後、病室のドアが開く音がして、俺はまた振り返る。弁護士が来たのかと一瞬思ったが、実際は違った。「失礼します。毛利さん、検温です」バインダーを持った若い看護師が、ドアの傍で会釈しながらそう言った。これまでの話題の流れからすると、丁度良いタイミング。この看護師にミルクティーを飲めるか質問すれば良い。「あの、すいません。娘が『自販機のミルクティーを飲みたい』って言っているんですけど、飲ませて問題ないでしょうか?」 予想通り、『彼女』が体温計を受け取ってから、話しかける機会を見計らっていた妃弁護士が問いかけた。質問された方は、首を傾げて考え込んでから、少し自信無さげに答える。「確か、娘さんには食べ物・飲み物に制限はなかったと思います。……念のため、先生に確認しますけど。 あと、この階には自動販売機は有りません。1つ下の階の談話室まで行かないと買えないですね」なるほど、この病院の7階は、警官の見張りが立っている訳有り患者用の階っぽいから、自販機が無くても不思議じゃあない。医者がミルクティーに許可を出したならば、俺とおっちゃんは、6階の談話室でミルクティーを買ってから、この病室での女性限定の相談事が終わるのを待つことになる、のか。そのまま、誰も何も話さない静かな状況が数十秒。『彼女』の腋の下で体温計のアラームが鳴った頃、またしても病室のドアが開く。若干ふくよかな中年女性と、細めの体型の若い女性の計2人。共にスーツ姿で左胸にバッジを付けている。今度こそ弁護士だ。「あなた、『蘭』。私が依頼した弁護士さんよ、少年事件専門の」「そうですか! よろしくお願いします」「……はじめまして」妃弁護士の紹介を聞いて、おっちゃんは深々と頭を下げた。『彼女』も体温計を看護師に渡しつつ、父親に続いて挨拶を言う。体温計片手に素早く退室した看護師と入れ替わる形で、弁護士2人は病室へ入って来た。「はじめまして。弁護士の七市 里子(ななし さとこ)と申します。こちらも同じく、うちの事務所の弁護士で、神代 杏子(かみしろ きょうこ)です」「はじめまして、神代です、よろしくお願いします」――この言い方からすると、七市弁護士は事務所のボスで、神代弁護士がその事務所の若手、といったところか。もしそうで無かったとしても、まさか七市弁護士の方が若手、ということは無い。多分。「……良かった。弁護士さんがふたりとも女性で。男の人には言いづらい事で、相談事があったから」『彼女』が笑みを見せて、『蘭』の声色で言った、その台詞に、弁護士2人は当たり前ながら反応する。「あら、そうですか?」 顔は今のところにこやかだが、2人とも目は至極真面目だ。仕事として真剣に相談事を聞く気は、――有って当たり前だが、相談事を聞く気は、有るらしい。俺達が退出してから、『彼女』とこの弁護士達に良好な信頼関係が築かれると信じたい。「ええ、そのようで、……私と坊主はとりあえず外に出ておこうかと。 ……英理、話が終わったら携帯に連絡頼む。俺達は下の階の談話室に行く」おっちゃんが、俺の手を掴んでから言った。予想通り、俺達は自販機のある場所で時間を潰すことになるのか。「ええ。分かったわ」妃弁護士が頷くとほぼ同時、開きっ放しだったドアから、先ほどの看護師が顔を出した。「あの、先生に伺ってきました。『飲み物に特に制限はないから、ミルクティーは飲んでも構いませんよ』だそうです」「じゃあ、僕達、『蘭姉ちゃん』が話している間に、下の階でミルクティー買ってくるね!」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~午前10時54分 東都警察病院 6階 談話室階段で1階分下りて廊下に出たすぐ横に、談話室はあった。そこまで広くはない部屋で、4人掛けのテーブルが2つと、部屋の隅に予備の椅子がいくつかと、看護師の話通り自動販売機があるだけの空間だ。中に居る人も、テーブルの上に突っ伏して眠っている、毛布を被った男性が1人居るだけ。部屋の入り口で、おっちゃんは一旦立ち止まった。ズボンのポケットから財布を出し、その中から出した500円玉を1枚、俺の目の前に突き出す。「坊主、お前も飲むならこれで買え。俺は要らねぇから。……『あいつ』の分のミルクティーは冷たいのにしとけよ」「ありがとう。……って言うかおじさん、この時期は温かいのはあまり無いと思うよ?」言いながらその500円玉を握り、談話室の奥の方、自動販売機へと再度歩を進める。一応被疑者でもある者に温かい飲み物は渡せない、のだろう。中身をぶちまけて周囲の人間が火傷すると困る、から…… !?――! この匂い……おっちゃんと一緒にテーブルの横を通り過ぎようとする、その時、『ある物』の匂いが、俺の鼻を付いた。足を止めて原因を探る。この匂いは、……血の匂いの元は、奥の方のテーブルで突っ伏している、この男性!「おい坊主、何やってんだ!?」眠っている『ように見える』男性の傍に駆け寄り、テーブルに投げ出された腕を取る。掴んだ手首は冷たく、手首を触られたことに対する男性側の抵抗も無く。……最悪な事だが、――俺の指先では脈が見つからねぇ!「おじさん! この人、脈が取れない!」おっちゃんにとっては予想外の叫びだったらしい。俺の言葉を理解するのに一瞬の空白があったが、内容を把握すると驚いた顔でこちらに駆け寄って来て、その男性の腕をおっちゃんも掴む。「! 何だと!? ……本当だ、」「病院の人誰か呼んできて!! すぐに!」考えさせる時間を与えないタイミングで、おっちゃんの目を見つめて喚いた。ここは病院の病棟だ。看護師か医者か、医療関係者はすぐ見つかるはず……!!「お、おう!」言葉の勢いに半分呑まれる形でおっちゃんは頷き、ここを飛び出して行く。談話室を出ていくその背中を最後までは見ずに、俺は男性側に再び目を向ける。「大丈夫ですか!? 僕の言葉、分かりますか!」男性の応答は無く、身体は冷たいまま。一縷の望みをかけて、心臓マッサージや人工呼吸はやるべきだ。男性の顔を、可能ならば身体ごと動かそうとして、被っている毛布を払い除ける。そこで、顔の下、テーブルの一部に血が広がっていること、更に男性が背負っているリュックサックが、変な形をしていることに気付く。――まさか……!!リュックサックの上から軽く手を触れ、その形と硬い感触から『あるもの』を想像した。脱がして背中を確認しようと肩紐に手を掛けた瞬間、ドタドタと足音が聞こえた。おっちゃんが、呼んだらしい看護師2人と部屋に飛び込んで来る。「大丈夫ですか!? お客さん!」もしもリュックサックの下が想像通りならば、これは事件だ。心配そうな顔でこちらに走り寄って来る看護師達に、俺は、大声で先ほど気付いた内容を告げる。「看護師さん! この人のリュック、形がおかしいんだ! まるで、……背中に、何か刃物が刺さっているみたい!」「何だと!?」血相を変えたおっちゃんが、慌ててリュックサックを脱がしに掛かった。あっさりと脱げたリュックサックの下、露わになった物を見て、看護師達が息を呑む。男性の背中には、俺が言う通り、ナイフが真っ直ぐに刺さっていた。※5月18日~7月1日初出 11月22日 第2部ー2~4を統合・大幅改稿しました