うちの地元には、昔から古い言い伝えがある。
海に出る時臍の緒を持っていると、波にさらわれても母親のもとへ戻って来れる。
土地柄漁で生計を立てる人が多かったから、そういうオマジナイが定着したんだろう。
でも、まあ、オマジナイはオマジナイで。
『いやぁあああああああああああ!? 七海、ななみぃぃぃ!?』
アタシは臍の緒のお守りを持っていたけど。
フツーに海で溺れて、フツーに死んじゃった。
『大丈夫、だいじょうぶよ、もどって、もどってこれるから……』
自分で言うのもなんだけど、母さんはあたしのことをすっごく可愛がってくれてたから、その分すっごい哀しかったんだろう。
きっと毎日泣いてすごしていた。
だから母さんは、嘘みたいなオマジナイを本気で信じた。
それで昔話に出てくる儀式なんて大真面目にやっちゃって。
周りの人から見たら気が狂ったようなものだろうけど、水のなんちゃらが岩を通す? とかそんな感じで。
信じられないことに、アタシは本当に生き返ったのだ。
でもやっぱりそういうのはどっか歪んでたんだと思う。
生き返ったアタシは、前までのアタシとは違って。
気を抜いたらすぐに死体に戻っちゃう。
どうすればいいのかは、なんでか知らないけど分かった。
“腐っていく肉は肉でしか埋められない。命を繋ぐものは命しかありえない”
アタシは他人の肉で壊れていく肉を代用することしかできない、正真正銘の化け物になっていた。
それが、辛くて。
こんなことしてまで生きていたくなくて。
『私はね、七海ちゃんが元気でいてくれればそれだけで幸せなの』
でも死ぬこともできなくて。
だからアタシは───
* * *
「よっす、七海ちゃんおはよー」
七海はなにかあると、いつもの岩場を訪れる。
溺れ死んだというのに、寧ろだからこそなのか、海を眺めていると何故だか心が安らいだ。
今朝も早くから岩場に足を運び、しかし今日は先客がいた。
昨日の少年。
勿論、藤堂夏樹である。
「アンタ、なにやってんの?」
「魚釣り。旅館で竿貸してもらったんだ」
言葉の通り、手にはリール式の竿がある。
もともとこの土地は釣り人にはいいスポットなのだが、流れの強い岩場の辺りはそこまで魚が釣れるわけではない。
実際足元のバケツには一匹も魚が入っておらず、それでも夏樹は釣り糸を垂らしたまま、寄せて返す荒々しい波をぼーっと見詰めていた。
「釣れないっしょ?」
「うん、全然」
夏樹は、やはり逃げない。
それが七海には奇妙に感じられる。この名も知らない少年は、彼女が人食いだと気付いた筈なのだ。
なのに怯えもせず、今もこうやって釣りをしたまま、あまつさえ欠伸までしている。
なんなんだろう彼は。男性経験豊富な少女をして理解しがたい少年だった。
「釣りならいいスポット教えたげよか? もう入れ食い状態の」
「いいよ、別に。考え事してるだけだし」
釣れれば楽しいだろうがそれ自体は本題ではない。
ああ、いや。寧ろもう釣れたと言うべきか。
夏樹が本当に待っていたのは魚ではなく彼女なのだ。
「かんがえごと?」
「そ、どうすればいいのかなって」
「なにがよ?」
「だから、君のこと」
彼はずっと考えていた。
七海をこのままにしておいていいのか。
人を食う化け物。普通に考えたら放っておいてはいけない類の存在だ。
幸い夏樹の近くには、その手の類をどうにかしてくれる“専門家”が存在する。その人を頼れば、一にも二にもなく助けてくれるだろう。
だからこそ彼は一人でここに来た。
少しだけ、彼女と話してみたかった。
「え、ナンパ? いやー、困るなぁ可愛いって罪だね」
「まあ可愛いとは思うけどさ。ちなみに本当に誘ったら付き合ってくれる?」
「あっ、ごめんねー? ないわー、いやマジで。アタシ細マッチョが好みなのー」
「さらっと人のコンプレックス打ち抜いてくんなチクショウ」
七海は胸を隠しながら一歩二歩退いた。
わざとらしく肩を震わせている辺り芸が細かい。ただ口元はにまにまと、完全に悪戯っ子の表情だった。
「なになに、アタシに興味津々?」
「否定はしない。ナンパするのもいいかな、とは考えた」
「おー、男気あるね」
少しだけ、目が鋭さを増した。
その物言いが意味するところくらい夏樹にも分かった。
「じゃあ、やっぱりさ。昨日のナンパ男達ってさ」
「食べちゃったよ、二つの意味で」
「そっか」
竿がしなり、ちょっと期待して引き上げる。
釣れたのは空き缶、ベタ過ぎて泣けてきた。くすり、七海の口元に笑みが零れる。夏樹の情けない釣果にちょっとだけ肩の力を抜いてくれたようだ。
「やっぱ観光客狙い?」
「まーね、後腐れないし。なんてーの、ひと夏の恋ってやつ?」
「いいな、その響き。男子高校生としては憧れる」
「男って皆そんなんだねー。責任取りたくないってのがアリアリ。あ、私は相手しないからそういうのは他の女の子探すよーに」
「あれ、俺って狙われたりしてないの?」
「だからないって言ってんじゃん。アタシにだって選ぶ権利くらいあるの」
会話は和やかに進む。
七海は人食いだが恐ろしくはない。
だってちらりと盗み見た横顔は、痛ましく、寂しげで。
多分彼女こそが誰よりも“このままにしておいていいのか”と迷い続けてきたのだ。
「……最初は、さ」
絞り出す声は苦悩に満ちている。
どれだけ彼女は苦しんできたのだろう。
人を食うこと、そうまでして生きること。どちらも忌まわしいと自分を責めて。その心を想像するなんて、ただそれだけでも烏滸がましい。
夏樹に出来るのは、何も知らない行きずりの少年として、耳を傾けるくらいだ。
「うん」
「生き返ったのが嬉しくて。ほら、一応オトメですし? 好きな人もいたんだ。でもまぁ、えっちぃことするとね。ホントに食べちゃうんだ、アタシ」
リゾートバイトの都市伝説において、復活した子供は単なる化け物となってしまった。
きっと彼女も、紫色の肌の、そういう存在だ。
でも人を喰らい、人の姿を保っている。いや、保ってしまったというべきか。
都市伝説では失敗した儀式の足りない部分を、彼女は意図せずに埋めた。
多分その要素は“好きな人”。彼女が初めに食べた誰かが、七海という少女を成り立たせた。
「だから、女の子を食い物にするようなヤツだけ選ぶようにね。それからは気が楽になったかなー。だって無理矢理食われるんだもん、こっちが食い返しても問題ないっしょ?」
それを責めることは夏樹にはできなかった。
彼女は足りないものを他から持ってくることで“七海”足りえる。
人食いを止めれば、おそらく今の姿を維持できない。
その時にこそ少女は真実リゾートバイトの都市伝説に、紫の肌の化け物になってしまう。
『七海は、本当にいい子で』
『いつまでもあの子と一緒に居れたら私はそれだけで幸せなんです』
『お嫁には行ってほしくありませんねぇ』
『婿ならいつでも大歓迎ですよ』
釣竿を借りる際の、あまりにも楽しそうな女将さんを思い出す。
きっと彼女が間違った儀式をして、七海を蘇らせた。
母は、そうまでして娘と離れたくなかった。
その愛情を、どうして何も知らないガキが否定できるのか。
結局夏樹には、人を食う娘も、死者を蘇らせた母も責められない。
ただこうやって釣りをしながら、少し話すのが彼に出来る精一杯だった。
「童貞にそんな話しないでくださいお願いします」
「ありゃ、そいつはごめん。相手は……してあげらんないかな」
「いいですよー、だ。俺の初めては海の見えるホテルで恋人とって決めてるんだから」
「あはは、いいねーそれ。憧れだわ」
彼女にはもうできない。
躰で肉を食う化け物でありながら、ついぞ人の心を捨て切れなかった。
でも分かる。
そうまでして生きるのは、死ぬのが怖いからではなく母のため。
もう泣かせたくないから、歪な生に少女はしがみ付く。
「さってと、邪魔したね。んじゃ引き続き空き缶釣りを楽しんでください」
「おー」
適当なところで話を切り上げ、七海は踵を返した。
夏樹も呼び止めない。
所詮はただの行きずり。彼女の苦悩を知らぬ男に言えることなど何もないのだ。
「おっ」
くい、と竿がしなる。
今度こそはと引き上げれば、やっぱりそれは空き缶だった。
◆
リゾートバイトは「母が死んだ息子を蘇らせる」話である。
死者の復活というモチーフ自体は、説話において然して珍しいものではない。
例えばグリム童話の『杜松の木』では、殺された子供が拾い集められた骨から復活する。
ばらばらになった死骸を集め、何らかの手段を講じることで、死んだ者は肉をつけ魂を戻す。
所謂反魂の儀式というのはしばしば民話の中に現れ、しかも成功例は少なくない。
逆に失敗例も同じように存在する。
『撰集抄』では、僧侶の西行が反魂の術で死者を甦らせている。
心を共有できる友人が欲しいと思った西行は、骨を拾い集めて藤の糸で結び、その骨に薬を塗り、いちごやはこべなど様々な植物の葉をもんだり灰にしたりして骨につけ、水で洗い、安置した。
しかる後に香を焚いて反魂の術を行った。ところが、そうして甦った人間には心がなかったという。
ここで重要なのは復活の儀式においては、“足りないものを他から持ってくる”必要があるという点だ。
そして基本的に、儀式を成功させれば死者の復活は有り得る。
その意味でリゾートバイトの女将さんは、儀式を明確に失敗しているといえるだろう(その点は原典でも言及されている)。
さて、死者蘇生の説話においてよく見られるキーワードに『鳥』と『植物』がある。
グリム童話の杜松の木では鳥が歌を歌い、西行の反魂の術では植物を使って死者を蘇らせる。
植物は冬に枯れ春に芽吹く。そこに人々は永遠性、不死を見出し、洋の東西を問わず植物には転生や再生を成す力があると信じられた。再生信仰と呼ばれるもので、神話で豊穣伸が復活するエピソードが多い理由の一つである。
鳥はそもそも多くの説話で魂の象徴として扱われる。
どちらにしても決して邪悪なイメージはなく、寧ろ復活後は鳥のように自由に振る舞え、花が咲くように美しさを得られる。
実は死んだ後、死ぬ前よりも美しい容姿や優れた能力を得て復活するというテンプレは、古い説話には多く見られる。
つまり復活の儀式自体は外法というほどのものではないのだ。
しかしながらリゾートバイトは怖い話として成立する。
それを成立させるのは、化け物よりもむしろ女将さんの存在だ。
母の愛と妄執を主題とするストーリーは都市伝説や説話、伝承において比較的ポピュラーな部類である。
有名どころを上げるのならば、やはり飴屋の幽霊などに代表される『赤子民話』だろうか。
飴屋の幽霊は、死んだ後三途の川を渡る為の六文銭で子供に飴を買い育てる母親の霊の話。
このような死んだ母親が子供を育てる母の愛と妄執の物語、その類型を総称して赤子民話と呼ぶ。
ただリゾートバイトの都市伝説と赤子民話では、同じく『母の愛』、『死を乗り越える』、『死後も共に在ろうとする』などのキーワードを有しながらその趣は大きく異なる。
赤子民話において母親は、『子供の為に成仏の機会を捨て』、『子の未来の為に怪異へと為る』。
しかしリゾートバイトは逆。
これは哀しい母の愛だと体験者は語るが、その実母親は『哀しみから子供の成仏の機会を奪い』、『自身の幸福の為に子を怪異へと変える』のである。
つまり一般的な赤子民話では子供が主体であり、リゾートバイトでは母が主体。
そもそもこの都市伝説は、『母の愛』ではなく『母のエゴ』を語る。
故にリゾートバイトは怖い話だ。
ただしそれはホラーとしてではない。
この都市伝説における恐怖の根本とは、子を自身の延長と考え、過干渉や過保護で子供の将来を駄目にする母親そのもの。
リゾートバイトの化け物とは、青紫の肌の子供ではなく女将さんのこと。
本当は、リゾートバイトの都市伝説は、怪談ではないのである。
◆
「お世話になりましたー!」
空はもう夕暮れに染まっている。
一泊二日の旅行もお終い、皆で集まって元気に挨拶。
女将さんは旅館の玄関では見送りに来てくれた。
楽しかった、また来たいといつものメンバーは口々に言う。
その中で夏樹だけはどこか浮かない顔で、少しの逡巡の後女将さんに声をかけた。
「あの」
「はい、どうかしましたか?」
返ってきたのは、あまりにも穏やかな微笑み。
女将さんには一切の憂いもなく、ただ嫋やかに、曇りのない心で笑っている。
「……いえ、七海さん。カワイイ、ですよね? ちょっと話したんですけど。すごい、いい子で」
「ええ本当に。母想いの、優しい子なんです」
ああ、知っている。
七海は人でいる為に、母を悲しませない為に、男を喰らう。
間違いだと理解しながら、苦悩に苛まれながら。
それでも死んで楽になるなんて選べなかった。
「私は、本当に幸せ……こうやって、七海ちゃんと一緒に暮らせる。それだけでもう何もいらない。あの子がいてくれるなら、それでいいんです」
「大切に、してるんですね」
「ええ。だって、愛しい娘なんですもの」
だから七海は娘で在り続ける。
腐っていく肉は肉でしか埋められない。命を繋ぐものは命しかありえない。
ならきっと、歪な愛情に応えられるのもまた、歪な愛情以外存在しない。
「そう、ですか。……女将さん、お世話になりました。どうかお元気で」
「はい。もしよかったらまたお越しください」
これ以上何も言えなくなって、夏樹は丁寧に頭を下げた。
後は、最後にもう一度だけ彼女に会っておきたい。
「みこ、ごめん」
「んー? どしたの、なっき」
「ちょっとさ、離れるから。すぐ戻るな」
「おけー」
「……簡単に認めるなぁ」
「なっきのことだから、また馬鹿やってるんでしょ? 早く行ってきなって、皆には説明し解いてあげるから」
嬉しくなることを言ってくれる。
にししと笑う幼馴染に感謝して夏樹は駆け出す。
行先は当然あの岩場。別に約束したわけではないけど、そこで彼女は待ってくれているような気がした。
幾度となくひと夏の恋に身を委ねた
そうやって何人もの人を食べてきた。
つまりは怖い話だ。
この海では毎年観光客が姿を消す。
そういう、都市伝説が流れている。
ざ、ざざ。
橙色に染まる波が泣いている。
訪れた岩場、西日が眩しくて目を細める。
手で光を遮りつつ、ゆっくりと歩く。
「お、どしたのー、お客さん?」
辿り着いた先、朗らかに笑う少女。
やっぱり、彼女はそこで待ってくれていた。
「いや、もう帰るから一応挨拶をと思って」
「あ、そうなの? じゃねー、お元気でー」
「軽いなぁ」
「重くされても困るでしょーが」
「そりゃそうだけど」
テンポのいい会話は小気味がいい。
恐怖はない。それがおかしいとは分かっているのに、どうしても彼女を恐ろしいとは思えなかった。
「他の人にはアタシのこと話したの?」
「いいや。信じてはもらえるだろうけど、別に騒ぐようなことじゃないし」
「ふーん、変なヤツー」
七海には、夏樹が奇妙に感じられていることだろう。
人食いの化け物を前にして、人を殺したと知りながら、恐怖も嫌悪もせずに平然と振る舞う。
普通に考えれば、こんな奴気持ち悪くて近寄りたくもない筈。なのに最後の挨拶にまで来て、本当に変なヤツだ。
「なんかないの?」
「え?」
「だから、化け物ーとか。人を食うなとか、そういうの。そもそもさ、フツーはもっと怖がるでしょ」
「言うことはないし、怖くもない。ただ、少し悲しい」
「アタシが?」
「何にもできない自分が」
リゾートバイトの都市伝説は、偶然訪れた僧侶に呪いが解かれ、最後に女将さんがよみがえらせた息子に食われることで幕を下ろす。
しかし七海の物語は終わらない。
母はただ娘を愛し、娘は母の為に人を喰らい。
この先も、海辺の怖い話は続いていく。
それをどうにもできないことが悔しくて、少し悲しい。
そしてどうにもできない夏樹に何かを言う資格なんぞ、初めからないのだ。
「でもさ、聞きたいことは一つだけあるんだ」
「んー、なに?」
「いいのか?」
いいのか、問いはただそれだけ。
でも彼女には十分に伝わった。
一度死んでいるのだ、死ぬのなんて怖くない。
人を喰らって生きるなんて嫌だ。
七海は心底そう思っていて。
でも母さんが泣くから。
自分が死ぬことで泣いて、苦しんでしまうと知っているから、七海は人食いに身を落とした。
それでいいのかと夏樹は言う。
己が意志ではなく、他人の為に化け物として生きる。
そうやってこれからも生きていくのかと。
そんなに苦しまなくてもいいじゃないかと、彼は縋るような真摯さで問い掛ける。
「アタシはさ、これでいいって思ってる」
だから七海は素直に心の内を明かした。
ひと夏の恋なんて、綾のあるものじゃないけれど。
少年は訪れた海で少女に出会い、僅かながらに交流を持った。
ならこれくらいは、夏の思い出で済む話だろう。
「だってあの人の娘なんだし。親コーコーくらいはしてやんなきゃ。あんまりに母さんが可哀相じゃん」
小麦色の肌の、活発そうな彼女。
なのに母親のためと語る姿は、どうしようもないくらい儚げで。
少し目を離したら潮騒に攫われて消えてしまうんじゃないかって思うくらい。
「だから間違ってても、このまんま。ひと夏の恋をして、体を開いて。多分来年もそうしてる。できれば相手がイケメンだったら嬉しいかなぁ」
「……そっか。ごめん、嫌なこと聞いた」
「ううん、こっちこそごめん。あと、あんがとね」
初めから意味のない問いだった。
多分何を言ったって彼女には届かない。
もうとっくの昔に心は決めている。
既に死んだ身ならば、母の為に化け物として生きよう。
七海は、そういう道を選んでしまった。
「だからさ。多分アタシは、アンタだけは好きにならないよ」
でも、勝ち誇るように言ったその言葉は、きっと彼女の本音だ。
ひと夏の恋の果てに人を喰らうあやかしは、夏樹には恋をしないと。
その意味を。そこに込められた好意を間違えるほど彼は鈍くなかった。
「……ちぇー、俺モテないなぁ」
「あはは、そう言いなさんな。アンタならすぐに似合いのカノジョができるって」
けれど気付かないふりで口にはしない。
聞き返したら彼女の優しさを無駄にしてしまう。精一杯の強がりで、夏樹は目を逸らす。
ざ、ざざ。
視線の先には橙色の海が広がり、空との境界さえ朧げで。
耳を擽る波音だけが、二人の間には流れていた。
◆
こうして一泊二日の旅行は終わり、夏樹は帰りの電車の中でぼんやりと流れる景色を見詰めていた。
久美子やリーダー、他のメンバーは遊び疲れて眠りこけている。
夏樹も正直疲れていたが、なぜか眠くはならなかった。
「浮かない顔だな」
「……じいちゃん」
まだ起きていたメンバーの一人が声をかけてきた。
同じクラスの男子で、“じいちゃん”というのはあだ名みたいなものだ。
高校に入る前からの付き合いで仲もいい。だから気を抜いて、夏樹はふと呟く。
「なあ、じいちゃん。ひと夏の恋って寂しいな」
「どうした、急に」
「いや、ちょっとさ。……なんにも言えなくて、お互い誤魔化して。肝心なことには見ないふりをして。なんだったんだろうなーって思っちゃってさ」
ただの雑談だ。それで何かを得られるなんて思っていない。
だけどじいちゃんは小さく笑みを落とし、諭すような穏やかさで応えてくれた。
「それでいいんじゃないか」
「え?」
「形に残るものなどないかもしれない。けれど、夢のままに終わるからこそ美しいものもあるだろう」
「そう、かな」
「報われるばかりが想いじゃないさ。例えひと夏の、瞬きに消える触れ合いだったとしても。確かにお前は少女の心を救ったんだ」
まるで見てきたように言うものだから、思わずぎょっとしてしまう。
けれどじいちゃんは相変わらず無表情で「少し寝ておけ」と言うだけ。夏樹には彼の胸中は測れず、言われるままに取り敢えず目を瞑る。
やっぱり、眠れない。
余計なものばかり瞼の裏に映るせいだ。
思い浮かぶのは母の為に人を捨てた少女のこと。
儚いまでに美しい、海辺に潜む愛情のこと。
これでリゾートバイトのお話はおしまい。
きっと彼女は来年もまた恋をするだろう。
ひと夏の恋に身を委ねて、その度に誰かを喰らい。
母の安寧の為に、どこにも行けず苦悩する。
毎年あの海辺では観光客が一人二人姿を消すだろう。
哀しい都市伝説はこれからも続いていく。
その中で。
僅かに触れ合っただけの少年のことを、彼女は時折にでも思い返してくれるだろうか。
結局夏樹は眠れず、うっすらと目を開ける。
電車は走り、景色は押し流されていく。
あの海は既に遠くなり、多分もう行くことはないのだろうなと思う。
けれど広がる夕暮れの空は、橙色の海を思わせて。
幻視した少女の微笑は、潮騒の向こうに消えていった。