ざ、ざざ。
波の音が聞こえる。
夕暮れの潮騒は近く遠く、海は橙色に染まる。
『アタシはさ、これでいいって思ってる』
ひと夏の恋なんて、綾のあるものじゃないけれど。
少年は訪れた海で少女に出会い、僅かながらに交流を持ち、その心を垣間見る。
『だってあの人の娘なんだし。親コーコーくらいはしてやんなきゃ。あんまりに母さんが可哀相じゃん』
小麦色の肌の、活発そうな彼女。
なのに母親のためと語る姿は、どうしようもないくらい儚げで。
少し目を離したら潮騒に攫われて消えてしまうんじゃないかって思うくらい。
『だから間違ってても、このまんま。ひと夏の恋をして、体を開いて。多分来年もそうしてる。できれば相手がイケメンだったら嬉しいかなぁ』
『……そっか。ごめん、嫌なこと聞いた』
『ううん、こっちこそごめん。あと、あんがとね』
そうして少年は言葉を失くし寂しそうに俯いた。
だから少女は悪戯っぽく微笑む。
『だからさ。多分アタシは、アンタだけは好きにならないよ』
そう勝ち誇るように彼女は言って。
ざ、ざざ。
耳を擽る波音だけが、二人の間には流れていた。
◆
その少女と出会ったのは、高校二年の夏休みのことだった。
八月の前半、藤堂夏樹はクラスの友人たちと海へ訪れた。
去年も同じメンバーで来たのだが、今回は近場に宿を取り一泊二日遊び倒そうという計画だ。
立案者は同じクラスの女子で、長い髪が綺麗なクールな女の子。
本人は好んで目立とうとするタイプではないものの、基本的にしっかり者でこういう時にはリーダー役を務めることが多い。
「やっと着いたー!」
元気よくはしゃぐのは幼馴染の根来音久美子。当然ながら彼女も今回の旅行に参加している。
旅館を選ぶのはリーダーに任せきりだったので夏樹らも見るのは初めて。十室あるかないかの小さな旅館だが、趣のある佇まいをしている。高校生の旅行だ、もう少しぼろいところかと思ったが中々どうして値段の割に綺麗だった。
「結構綺麗な旅館だねー」
「おー、ほんとだ。なんか露天風呂もあるってさ」
「ほんと? 楽しみー。なっき、覗きに来たら駄目だかんね?」
「分かってるっつーの」
いや、興味がないとは言わないけども。
なにせ根来音久美子は可愛らしい容姿で、しかしてお胸の方も結構なものをおもちだ。
一緒に来たほかの女子メンバーも、ギャルっぽいが抜群のスタイルの女子がいたり、今回の旅行計画を立てたリーダーも胸の大きさでは負けるがスレンダーでいい感じ。思春期の男の子としては心惹かれてもしかたないところだろう。
ただし覗きは絶対しない、というできない。
そんなことをしたらメンバーがメンバーだけに色んな意味で命の保証がないのである。
「ようこそおいでくださいました」
玄関で夏樹らを迎え入れてくれたのは旅館の女将さんだった
なんというか、年齢はそこそこいってるみたいだけど分かり易い美人女将。高校生相手にも丁寧な接し方をしてくれる、優しそうな人だった。
「お待ちしおりました」
「よろしくお願いします」
リーダーと軽く会話を交わし、女将さんが教えてくれた部屋へ皆で移動する。
話では古い旅館と聞いていたけれど館内は全然綺麗でほっとした。これなら部屋や夕飯も期待できるというもの。
皆も同じ気持ちのようで、廊下を歩きながらも話は盛り上がる。久美子もうきうきと実に楽しそうだ。
「なっき、なっき」
「どした?」
「卓球台とかあるかな? やっぱり旅館に温泉といったら卓球でしょ」
「どうだろうな。個人的にはいつの時代のヤツだよ、っていうレトロゲームの方が趣深いと思うんだけど。てーか、みこ。何気にテンション高くない?」
「そりゃそうだよ。私だって皆で楽しみにしてたもん。……なっきと古い旅館の組み合わせには多少の不安がなかった訳ではありませんが、はい」
「ちくしょう、否定できねぇ」
失礼極まりないが久美子の言葉は間違ってもいない。
藤堂夏樹は何の因果か都市伝説と非常に縁がある。今迄幾度もその手のオカルトに遭遇してきたのだ、古い旅館になんて泊まったら何が起こるか分かったもんじゃない。
「まあでも? 今迄だってなんとかなったし? それに泊まるのは一晩だけ、流石にピンポイントでオカルトに遭遇するなんてことないだろ」
「え、なに? 率先してフラグ立てていくスタイル?」
「違うから。単にそう思い込んで自分を慰めてるだけだから」
「それはそれで哀しいなぁ。よしよし、大丈夫だよー」
微妙にへこんでいると久美子が優しく頭を撫でてくれた。
ちょっと嬉しかったけど、よくよく考えてみると気落ちした理由はこの幼馴染の発言にあるわけで。あれ、これってただのマッチポンプ? と思わなくもない。
まあでもいいか。気持ちよかったし。
「ささ、いつまでも悩んでても仕方ないっ! 荷物置いて早速海に行こうよ。皆で新しい水着買ってきたんだ」
「お、おー」
「あ、今えっちい想像した。なっきも男の子だねぇ」
「して、してねーですよ?」
本当はしたけど。
そこら辺は男の子の意地として認めるわけにはいかない。
とはいえ女の子にはそんなものお見通しなわけで、久美子はにまにまと面白そうに笑っていた。
そんな彼等を見る瞳。
旅館の女将さんは、騒がしい二人を遠くから、ただ眺めていた。
◆
青く重い空に照り付ける太陽。
熱せられた砂を踏みしめる感覚が夏を強く意識させる。
気の置けない友人達と野泊の旅行だ、楽しくならない筈がない。
夏樹や久美子は、それはもう全力で海を満喫した。
泳いだりビーチバレー、海の家で食べる微妙な料理だって海の醍醐味だろう。
「あー、流石に泳ぎ疲れた」
「なっき、体力ないなぁ。ほら、他の二人はまだまだ元気だよ?」
「いやね、奴らと同レベルで考えられたら困るんですけど」
海に来たメンバーの中には当然男子もいる。
夏樹以外の男子二人は運動部だったり武術をやっていたりと肉体派で、彼らと同等の体力は残念なことに持ち合わせていない。
という訳で、散々遊んで泳いで疲れたことだし久美子と一時休憩。レジャーシートとパラソルで作った休憩場所で、クーラーボックスに冷やしておいたドリンクでも飲みながら一息つこう。
「みこ、何飲む?」
「もちろんコーラ」
「相変わらずだなぁ」
「コーラは偉大だよ? 飲んで美味しく振って武器になる!」
「お前ジョセフ好き過ぎるだろ」
言いながら夏樹が選んだのもコーラ。そこまで押されるとなんだか物凄くおいしいような気がしてきた。
実際暑い夏には喉を通る炭酸が心地よい。冷たさが体に染み渡って、体も少しだけ楽になった。
「おいしー。なっき、この後どーする?」
「そだなぁ……」
結構泳いだし先に旅館へ帰ってもいいし、波打ち際で軽く遊ぶ程度でもいい。
さて、どうするかな。
なんて考えていると、ちょっとばかり不穏当な光景が目に入ってしまう。
「なぁ、いいだろ?」
「あっちの岩場でさぁ、イイコトしようぜ」
水着姿の女の子に二人の男が絡んでいる。
よく日に焼けた褐色の肌の、活発そうな少女。年の頃は夏樹らと同じくらいだろうか。くっきりとした目鼻立ちに健康的な肢体。夏の良く似合う美人さんである。
だからよからぬ輩も寄ってくる。
少女の左腕を掴んでいるのは、いかにも遊んでいるといった風情の若者だ。耳にはごつい三連のピアスをつけていて、外見はかなりいかつい、というか怖い。そういう男が二人で若い娘を取り囲み、下心を隠そうともせずにやついている。
「どうでもいいから離してくんない?」
「つれないなぁ、ちょっとぐらい付き合えよ」
少女の方は乗り気ではなく、強引なナンパに辟易としている。
そんなこと男たちも分かっているだろうに、逃がす気はないらしい。しっかりと左腕を固定し、逃げ道を塞ぎ、後は岩場にでも連れ込もうというところか。
ああいうのは、少し気分が悪い。
「ごめん、ちょっと行ってくる」
「なっき?」
ナンパをするなとは言わないが、女の子を無理矢理というのはいただけない。
しかたない、邪魔してこよう。
夏樹は立ち上がり、男たちを止めようと一歩踏み出して。
一瞬、少女と目が合い。
「じゃ、いいよ。ちょっとだけ遊んであげる」
しかしそれ以上進めなくなる。
乗り気でなかった筈の女の子は一転にっこり笑顔、男達に応え岩場の方へ行ってしまった。
さっきまであんなにも鬱陶しそうな顔をしていたのに。
助けようとしたはいいが、別に助けなんていらなかったというオチである。
「……ええー」
「なっき、大丈夫? 悪い男に絡まれてる女の子を助けようとしたけど空回りしちゃったみたいな顔してるよ?」
「……状況説明ありがとう。俺、もう旅館帰るわ」
意気揚々と一歩を踏み出しただけにすげー恥ずかしいんですけど。
まあ久美子が慰めるように頭を撫でてくれたから、ちょっとだけ救われた気持ちにはなる。
「よしよし、なっきが間違ってないのは私がちゃんと知ってるからね」
「……うん」
結局夏樹は居た堪れなくなり、そのまま久美子と一緒に旅館へ戻った。
けれど何故だろう、やはり先程の女の子が気になる。
笑顔で男達についていったけど。
一瞬目が合った時、彼女はひどく昏い目をしていた。
◆
他のメンバーに一声かけて旅館へ戻ってくると、玄関では女将さんが出迎えてくれた。
小さめの旅館だけに従業員は少ないのか、仲居がやるような仕事も彼女が受け持っているらしい。
「おかえりなさい。楽しんでこられましたか?」
妙齢の女性は嫋やかに微笑む。和服だからだろうか、いかにもおしとやかといった印象だ。
その頃には夏樹の気分も随分回復しており、「はい、すっかり楽しみました」と返事はちゃんと元気よく。女将さんもそれはよかったと優しく頷きで応えてくれた。
「ちょっと疲れたんで俺らだけ先に帰ってきちゃいました」
「あらあら。露連風呂の方はいつでも入れますので、もしよろしければどうぞ」
「あ、いーなーそれ。皆には悪いけど先に入っちゃう? なんならなっきも一緒に」
「ごめんなさい、うちには混浴はありませんよ?」
「いや、こいつの冗談なんで。俺はそんな気全くないので」
女将さんは振る舞いがおおらかでとても話しやすい。高校生相手でもしっかりとお喋りをしてくれる。
旅先での触れ合いという程ではないが、普段とはかけ離れた状況での雑談に夏樹も興が乗り、彼女の方は仕事中だというのに結構話し込んでしまった。
「たっだいまー!」
そうやって玄関に長いこと居たせいだろう。
背後から元気な声が聞こえてきた。
「ああ、七海(ななみ)ちゃん。お帰りなさい」
「うん、母さんただいま。お腹が減ったー」
女将さんの娘、らしい。
夏樹は振り返り少女の顔を見て、あんぐりと大口を開けた。
よく日に焼けた褐色の肌、くっきりとした目鼻立ちに健康そうな肢体。
娘は綺麗だったが、彼を驚かせたのはそこではない。
「……さっきの」
「ん、キミ、どうしたのかなー? っと、その前に“初めまして”って言わなきゃダメか」
七海、といったか。少女は夏樹の視線に気づき、張り付けたような笑顔を作ってみせる。
間違いない。
彼女は先程ナンパについていった女の子だ。それに今の態度を考えれば、一瞬だけ目が合ったのも覚えているらしい。
「アタシは七海、見ての通り母さんの娘ね。この度はウチの旅館に泊まっていただきアリガトーゴザイマスー」
「ふふ、七海ちゃん。ちゃんとお客様にご挨拶できましたねぇ」
「あはは、もう母さん、子供じゃないんだからそれくらいできるって」
母娘は笑い合い、七海は挨拶だけして「じゃあねっ!」とすぐさま旅館に入っていった。
いきなりすぎて上手く反応できない。母親とは違い、なんというかテンションの高い、まさしくイマドキって感じの女の子である。正味ギャルっぽかった。
「ごめんなさいね、うちの娘が」
「いえ、そんな」
「親の贔屓目はあると思いますが、可愛いでしょう?」
何とも答えにくい質問である。
確かに可愛いがそう返せば下心ありと思われそうだし、それでなくとも隣に久美子がいる状況で他の女性を褒めるのはあまりに失礼ではなかろうか。
なんといえばいいのか悩んでいると、女将さんはそもそも返答には期待していなかったようで、にこにこと喜色満面といった笑みでどんどん話を進めていく。
「少々お転婆のきらいがある娘ですが、母想いで言うことをよく聞く、本当にいい子なんですよ。だから余計に甘くなってしまうのは私の悪いところですね
「へぇ。まぁ女将さん、見るからに娘さんのことが大切って感じだもんなぁ」
「ええ、勿論。あの子が元気でいてくれるだけで、私は幸せ……」
それはきっと親ならば当然の感情だ。
夏樹の両親やじいちゃんも、みんな大切な子供達には甘かった。
だから女将さんの言葉は別に気にするようものではなくて。
なのに、ぞくりと背筋が冷える。
幸せを語る彼女のぎらついた瞳が、夏樹には奇妙に思えてならなかった。
◆
つまり気になっていたのだと思う。
女将さんの奇妙な態度に、七海という少女の振る舞い。
どちらも不思議で、どこかズレているような感覚で、夏樹はあの母娘が気になっていた。
「わー、すっごい海の幸! 豪華だねー」
「こうも良い肴が揃っていると、酒の一つも欲しくなるな」
「……ごめん、流石にそれは無理かな。高校生で予約組んで学割もして貰ってるから」
散々海で遊んで夜は旅館の夕食。
この辺りは元々漁が盛んな土地で、刺身やらサザエのつぼ焼きやら夕食には様々な海の幸が並んでいる。
一緒に来た友人たちは予想外の豪華さに燥ぎ、勿論夏樹も豪勢な食事に舌鼓を打った。
「あー、食ったぁ」
「あれ、なっきどこいくの?」
「腹ごなしにちょっと散歩ー」
流石に地元の魚、新鮮で非常においしく、そのせいで食べ過ぎてしまった。
膨らんだ腹をさすりつつ夏樹は旅館の外へ出る。既に日は落ち、海風のおかげで涼しく過ごしやすい。しばらく夜の海を眺めつつ腹ごなしに散歩して、帰って露天風呂で汗を流してから寝るとしよう。
「はー、夜の海ってのもあれだな。趣深いっていうか」
一人で来た理由は特になく、なんとなくそんな気分だったとしか言いようがない。
ともかく散歩はそれなりにいいものだった。
ざ、ざざ。
夜風に揺れる海、耳を擽る潮騒も心地よい。そっと流れる海からの風が頬を撫でれば、自然と寛いだ気分になれた。
そうやってあてどなく歩いていると、旅館からほど遠くない距離にある岩場へ辿り着く。
そういえば昼間旅館の人が言っていたが、もう少し離れたところによく魚が釣れる場所があるらしく、釣り人達の絶好のスポットになっているという話だ。
「明日は早起きして、旅館の人に道具借りて釣りっていうのも……」
帰るのは明日の夕方だし、うん、それも悪くないかもしれない。
そう思いながら岩場へ視線を送れば、夜の暗がり、潮騒の中、人影を見つける。
「あれは……」
縁があるのか、それとも気にしているから目で追ってしまうのか。
人影は今日幾度か見かけた相手だ。
女将さんの娘で、確か名前は七海。彼女だけじゃない、岩場には男性の姿もある。
昼にナンパしてきた相手とはまた別人だ。垢ぬけた雰囲気で女性にも慣れた印象を受ける。
「…こんな田舎に君みたいな……」
「……えぇ、そう?」
「ああ……いつもこんな風に?」
潮騒混じりに少しだけ会話が聞こえてしまった。
二人は別段親しい訳ではなく、どうやら男の方は観光客らしい。
ただ空気には相応の甘やかさがある。ひと夏の恋、というやつか。七海の無防備な振る舞いもわざと、なんならそういう仲になってもいいくらいの気持ちなんだろう。
「しっかし、まあ。すごいな、素直に……」
昼は二人組の男、夜はまた別の相手と。自然なボディタッチといい、ギャルっぽい外見に違わずお盛んなことである。
彼女いない歴=年齢の夏樹としては羨ましいやら寂しいやらである。
なんて考えていると七海だけ残して男の方が去っていく。なんならこの場でそういうことをいたすのではと思っていたので正直助かった。彼女は女将さんの娘。一応見知っている人の家族のそーゆーシーンは流石に居た堪れなくなってしまう。
夏樹はほっと一息、改めて七海を見る。
一人になった活発そうな印象の少女は、昼間の元気さが嘘のような静かさで海を眺めていた。
星の天幕の下、放っておけば波にさらわれて消えてしまいそうなくらい儚げで。
多分夏樹は、その切ないほど優美な情景に、少しの間見惚れていた。
「……ん? アンタ」
けれどそれは唐突に崩れる。
随分長い間目を奪われていたらしい。夏樹の視線に気づいた少女は、彼の姿を見つけて手を振り振り。こっちにおいでと手招きしている。
やっちまった。
夜に女の子を凝視している男、外聞悪いにもほどがある。
しかし流石に気付かれたなら無視はできないと、夏樹は素直に応じる。
「あー、どうも。こんばんは?」
「こんばんわー、お客さん。どしたのさこんな夜中に」
「腹ごなしの散歩に。えーと七海さん?」
「タメ口でいいよ、さんもいらない。ただの七海で。見た目は同い年みたいだし」
改めて接してみると七海は明るくさっぱりとした物言いで、思いの外喋りやすい。
ただその分男遊びをするような女の子には見えなくて、何か不思議でもあった。
「じゃあ、七海はこんな夜中にどうしたんだ?」
「夕涼み……なぁんて、見てたんでしょ?」
そう言って彼女が悪戯っぽく口の端を釣り上げるものだから、と夏樹は言葉に詰まった。
男女のあれこれを覗き見していたのもしっかりばれていやがった。
けたけたと七海は笑っているが、こちらとしてはなんともバツが悪い。
「ま、見られながら趣味じゃないからお帰りいただいたけど。アンタは覗き見が趣味ー?」
「あ、いや。そういうつもりじゃなかったんだけどさ」
「べっつに、気にしてないよ。昼の時も知られてるし。大体そんな初心でもないんだから、そのくらいでガタガタ言わないって」
まあ確かに、初心とは程遠い少女だ。
首元にある小さな赤みがそれを肯定している。夏樹がどこを見ているか分かっているだろうに、七海は隠そうともしない。
「ま、恋多きオンナってヤツ? 観光客は後腐れないから、この時期になると結構ね」
それどころか見せつけるようにほんの少し服の首元をずらした。
そうするとよく日に焼けた肌と真っ白な水着跡がちらりと見えて、恥ずかしさに夏樹は慌てて視線を下に逸らした。
いかにも思春期の男子らしい反応が面白くて、少女は悪びれずに笑う。
夏樹はむぅ、と小さく唸った。しかし文句はあれど顔は上げられず、悔しそうに足元を見つめるのみ。
するとなんだろう、夏の月の光を受けて、キラリとなにかが瞬いた。
「……え?」
不思議に思い目を凝らしてみる。
岩場には、ごつい三連のピアスが落ちていた。
何処かで見たデザイン。あれは、そうだ。昼間に彼女をナンパして輩が付けていたものと同じ。なんでこんなところに。拾おうと手を伸ばしかけて、しかし夏樹の手は途中でぴたりと止まる。
「どしたの?」
七海に声をかけられたからではない。
気付いたからだ。
ピアスは汚れている。べっとりと赤く、それに何かが付着している。
夏樹にはその正体がすぐに分かった。
くっついているのは肉のかけらだ。
つまり、あれは耳の────
「なぁ、君さ……」
ゆっくりと顔を上げ、まっすぐに七海を見つめる。
逃げることはしなかった。
身構えも、怯えも、僅かな動揺さえみせない。
慣れていたからか、麻痺していたのかもしれない。
まさかこの少女が、と想像を信じきれていなかったというのもある。
理由はどうあれ最悪を思い浮かべながらも、夏樹は先程までと変わらない調子で接する。
「ほら、アタシってばさ、エロい体してるじゃん? オトコの中には“無理矢理に”ってヤツらもいてさぁ。そういうヤツらなら、別にいいと思わない?」
それが功を奏したのだろうか
少女の態度もまた大した変化はない。
「あ、言い忘れてたけどさ」
だけど今迄の経験が雄弁に告げている。
「実はアタシ、もう死んでるんだよね」
けたけたと、明るく笑う七海。
その無邪気さに、夏樹は静かに理解した。
七海は、他者の肉を喰らい、己が命を繋ぐ理外のあやかし。
───つまり、彼女は、人食いだった。
◆
リゾートバイトは某掲示板に投稿された都市伝説である。
夏休み、とある海辺の旅館へ三人の少年がバイトをしに行った。
女将さんはとっても優しい。いいところだなぁと少年たちは喜んだが、一つだけ不思議な点がある。
一般開放されていない旅館の二階へ、女将さんは毎日食事を以って上がっていくのだ。
『女将さんさ、二階にいっつも飯持ってくけど、あそこ誰かいんの?』
『病人?』
『ちょっと探検してみようぜ!』
優しい女将さんの奇妙な行動。
夏のテンションもあったのだろう。好奇心を掻き立てられ、少年らは二階へと昇っていく。
けれどそれは、探検というほど楽しいものにはならなかった。
電灯のない、人一人通れるかという狭い階段。
漂う何かが腐ったような臭いに吐き気を催す。
なんだろう。パキッ、パキッと奇妙な音が聞こえてきた。
違う。鳴っているのは足元。何かを踏み潰している、その音だ。
彼らは誘われるように進み、突き当り、踊り場へと辿り着く。
一際強くなった腐臭と、眼前の光景に言葉を失くした。
踊り場の角には、大量に積み重ねられた残飯。
それが腐り、ハエが集っている。
奥の部屋の扉は、大きな板を釘で打ち付け、開かないようにしてあった。
板にはおびただしい数のお札。
まるで、なにかオゾマシイものを封じ込めるかのように。
ガリガリガリガリガリガリ……
その想像は多分間違っていなかった。
扉の向こうには何かがいる。
爪で壁をひっかいているのか、ガリガリと嫌な音が鳴り続けている。
『ひゅー…ひゅっ、ひゅー……』
更に不規則な呼吸音が聞こえてき、そこで限界だった。
あの扉の奥には、得体のしれない何かがいる。
女将さんは、ソイツに飯を持ってきていたんだ。
そうと気付いた少年たちは一目散に逃げ出す。
一階へ戻ってきた彼らは、自身の体についている奇妙な欠片を見て絶句した。
それは爪だった。
パキッ、パキッ、という気色の悪い音は、大量の爪を踏み潰していた音だったのだ。
もうこんなところでバイトはしていられない。すぐさま女将さんにバイトを辞めたいと伝えれば、意外なことに彼女は「しかたないねぇ」と笑顔でそれを認めた。
その上、いきなり辞めると言い出したのに、これまでのバイト代を封筒に入れて渡してくれた。
帰りのお弁当としておにぎりを、お土産代わりにと巾着袋も持たせられた。
そこに不可解なものを感じつつも、助かったとばかりに彼らは旅館を離れる。
ただし助かってはいなかった。
少年らは狭い廊下で確かに視た。
暗闇に蠢く四つの影を。
見てはいけないものを見てしまった時点で、彼らはあやかしに取り込まれている。
呪いは既に成就してしまっているのだ。
……少年たちの遭遇した怪異は、のちに一人の僧侶によって紐解かれる。
この地方に伝わる一つの伝承。
おぞましくも哀しい、母の愛の物語である。
彼らがバイトをしに来た海辺周辺は土地柄漁師が多く、そのため一つの古い民間信仰があった。
漁師の家に子が生まれると、その子は物心がつく頃から親と共に海に出るようになる。この土地ではそれがごく普通のしきたりだった。
ただ漁は危険との隣り合わせ。子を案じる母は、我が子に御守りとして臍の緒を持たせる。
臍の緒は母子を繋いでいたもの。
だから例え波にさらわれ行方不明となっても、臍の緒を手繰り子は母のもとに還ってくる。
この地域では古くからそう信じられてきた。
『ああ、愛しいわが子よ。どうか、どうか無事でいて』
『生まれる前、私と繋がっていたように』
『どこにいようとも私の元へ帰ってこれるように』
『この臍の緒を離さずに持っていて』
しかしその願いが叶えられることはなく。
漁で行方不明になった子供たちは溺れ死に、二度と帰ってこなかった。
その筈だった。
にも拘わらず、一人の女が喜色満面で語る。
『子供が、子供が帰ってきた!』
彼女もまた漁で子供を失い、哀しみから長らく臥せっていた母親だった。
周囲の者は当然信用しない。波にさらわれて生きているとは思えないし、そもそも母親が海で子を失ったのは三年も前のことだった。
また子供を見せてくれと言っても、彼女は“もう少ししたら見せられるから待っていてくれ”とはぐらかすばかり。
だから皆は思った。
『ついに気が狂ったのか。きっと彼女は哀しみのあまり、在りもしない幻を見ているのだろう』
しかしとある夜、近所の人間がその母親が散歩しているところを目撃する。
しかも楽しそうに。暗がりでよく見えないが、どうやら子供と手を繋いでお喋りでもしている様子だ。
ということは、子供が帰ってきたというのは本当だったのか!
なのに気が狂ったなどと、こいつは悪いことをしてしまった。
反省した人々は母親の家を訪ね謝罪した。
『何も気にしていません。この子が戻って来た、それだけで幸せです』
そう言った彼女は心からの笑みで、帰ってきた子供を見せてくれた。
青紫色の肌。
膨張した体躯。
髪の抜け落ちた頭。
腫れ上がった瞼に、どこも見ていない互い違いの瞳。
口から何か泡のようなものを吹きながら、“子供”は母親の呼びかけに反応し奇声を発する。
そこには彼女の子供がいた。
古い信仰は確かに真実だった。
子供は臍の緒を手繰り母のもとへ帰ってきたのだ。
命を落とし、化け物になっても。
女将さんは、伝承に登場する母親と同じだった。
同じく漁で息子を失くし、同じく悲しみに伏せり。
だから同じく帰ってきてほしいと願い、彼女と同じことをした。
分かたれた子供は臍の緒を手繰り母のもとへ帰ってくる。
つまり、臍の緒を媒介とした死者蘇生の儀式である。
愛しい子供を失った母は、外法に手を染めても、親子で仲良く暮らした幸福の日々を取り戻したかった。
ただし伝承にある死者蘇生は失敗で終わる。戻ってきた子供が化け物になってしまうのだ。
それではいけないと、女将さんは子供の魂が帰ってきた時、使える容器を欲した。
やはり器は息子と同じ年頃がいい。
そうして彼女はバイトという名目で、“器になりそうな年齢の少年”を三人ほど集めた。
『ああ、我が子よ。もう一度一緒に暮らしましょう。その為になら、お母さんは何でもします』
『外法の儀式も苦ではない。どれだけ爛れた容貌でも愛おしい』
『でも一緒に暮らすのなら、ちゃんとした姿であるに越したことはありません』
『だから、彼等を……』
バイトの少年たちは最初から、生贄として集められた。
彼らに降りかかった呪いとは即ち、儀式によって憑りついた魂。
女将さんの子供の、ではない。母の強すぎる情愛は、自身の息子ではなく、得体のしれない何かを呼び寄せてしまった。
これがリゾートバイトの都市伝説。
夏休み、少年たちが遭遇した母の愛と妄執のお話。
幸いなことに呪いは解かれ彼らは助かったが、二度とその旅館に近づくことはなかったという。