誰もが知っている都市伝説がある。
曰く、“初恋は実らない”。
初恋の人と結婚した、そんな実話もあるというのにこの都市伝説は今尚語り続けられている。
そして、知らぬ者がいないと言えるほどに有名な都市伝説の女がいる。
彼女のことを、藤堂夏樹は今も時折思い出す。
「なっきてさ、案外モテるよねー」
昼休みの教室。
いつも通り久美子と一緒に昼食をとっていると、しみじみとそんなことを言ってくる。
なんだそれ、と視線を送れば、彼女は至極真面目な顔だ。
「だって金城さんでしょ。それに里香ちゃんに八尺様。数えただけでなっきのこと好きな女の子三人もいるじゃん」
「待て、なぜ妹を数に入れる」
実際妹はかなり夏樹に懐いているが、当たり前のように好いている女の子メンバーに入れられるのは少しばかり問題である。
しかし猿夢、メリーさんに八尺様。
そうそうたるメンバーだ。好かれて嬉しくない、という訳ではないが、なかなかに引っかかるところがある。
まあ、そういう人達に縁があるということなのだろう。
「ちなみに、モテる秘訣は?」
久美子がおどけた風に聞き、しかし夏樹の表情には一抹の寂しさがある。
そもそも妹が都市伝説で、幼馴染が都市伝説。母親もそんな感じだし。
秘訣、と言う訳ではないけれど。案外抵抗がない、と言うのが友好的になれる要素の一つなのかもしれない。
ああ、でも。
いろいろと理由を考えていた時、夏樹は懐かしい女性の横顔を思い出してしまった。
「……初恋の人が、そうだったからなぁ」
だから自然と言葉が零れる。
呟いたのは、答えになっていない答え。けれど夏樹にとっては繋がっていた。
あの手の人達に好かれるのは、きっと初めがそうだったからだ。
“彼女”との出会いがあったからこそ、都市伝説を怖いと思っても、哀しい道のりを歩いてきた彼女達に優しくなれる。
つまりは叶わなかった初恋ゆえの今だ。
「えーと、はい?」
“彼女”のことは、幼馴染の久美子も知らない、夏樹だけの思い出だ。
だから久美子はこてんと小首を傾げ、不思議そうな顔をしている。
詳しく話すのは躊躇われるけれど、いつだって傍にいてくれた久美子に隠し事をする気にもなれない。
だから夏樹は静かに、何でもない事のように言った。
「初恋の人の影響だと思う。俺の初恋の相手、口裂け女だったからさ」
口裂け女。
1979年の春から夏にかけて日本で流布され、社会問題にまで発展した都市伝説である
「わたし、キレイ?」と問い、その答えによって鎌で斬り殺す女性の怪異。おそらくはもっとも有名な都市伝説の女だろう。
……昔語りなんぞするほどに歳を取ったつもりはないけれど。
口裂け女の物語を聞く時、藤堂夏樹はどうしても感傷的になってしまう。
赤いコート。長い黒髪。顔の半分を覆うマスク。手にした鎌。
夕暮れに映し出されたシルエットは、しかし恐怖よりも哀切を誘う。
なにせ中学生の頃、藤堂夏樹は二つの都市伝説を同時に経験した。
初恋は実らない、口裂け女。
この二つは、今も彼の胸に刻まれている。
「そういや俺、明日休むから」
「えぇ、どしたの?」
その言葉を口にするのはちょっと胸が痛いけど。
心配をかけないように夏樹は小さく笑った
「知り合いの結婚式に呼ばれちゃってさ」
ここから先は、昔話。
甘酸っぱくもなれなかった、中途半端な初恋の話。
◆
夏樹がまだ中学二年生だった頃、近所のみさき公園に毎日通っていた。
勿論、根来音久美子はそのことを知らない。流石に一番仲のいい女の子と一緒に行くのは躊躇われた。というか、恥ずかしかったのだ。
今日も今日とてコンビニで菓子パンと飲み物、キャンディーなんかを買ってきた。公園に入れば、いつものようにベンチには“彼女”がいる
「おねーさん、これ。差し入れ」
「アリガ…トゥ……」
殆ど喋れないから、返ってくるのは呻き声ばかり。それでも夏樹は何度も何度も声をかける。二人でベンチに並んで座る、いつの間にか時間は過ぎて。そんな夕暮れ時が、夏樹のお気に入りだった。
“彼女”と知り合ったのは、本当に偶然だ。
お世辞にも真っ当とは言えない出会いだった。というか、そもそも“彼女”自身が世間一般の感性から言えばまともではなかった。
「やっぱり、飴好きなの?」
「……ゥ」
こくんと頷き、飴をかみ砕いて呑み込む。
口の中のものがなくなったのを見計らってペットボトルのヨーグルトドリンクを渡すと、彼女はマスクを取ってそれを乱雑に煽る。
唇の横から垂れたのは、仕方のないことだろう。
「おいしい?」
「ウン……」
笑顔と共に吊り上る、裂けた口角。
有体に言えば、彼女は口裂け女だった。
* * *
彼女との出会いは、思い返すと恥ずかしい、ひどく情けないものだった。
学校帰り、友達の家で遊び、その帰りのこと。空はもう夕暮れに染まり、誰そはか彼と問うような時間帯に差し掛かる。
今日の晩御飯はなにかな、なんて考えながら小走りに家路を辿る。
『うわあああああああああああああああああああああああああああ!?』
しかし突如聞こえた野太い悲鳴。
はっとなって顔を上げれば、自分のすぐ横を猛烈な勢いで走り抜けていくサラリーマン。
何事だ?
夏樹の好奇心旺盛なところが幸いしたのか不幸だったのか、彼は何の気なしに先程のサラリーマンが出てきたT字路へと足を向けた。
角を曲がり、そこにいた“彼女”を見て、びくりと肩を震わせる。
真っ赤なベレー帽、真っ赤なロングコート、真っ赤なハイヒール。
腰まで伸び打長い髪は手入れがされていないのか、水分がなくパサついている。
他の特徴は、細身で長身くらいか。
そこまでだったら、よかった。
けれど、彼女の手には赤錆の付いた、刃物として使えるかも分からないような、くすんだ鎌があった。
そして赤に統一された出で立ちだからか、唯一白い口元を覆うマスクがやけに目を引く。
初めて見る彼女のことを、夏樹はよく知っている。
寧ろ知らない人を探す方が難しいだろう。
元祖ともいうべき、都市伝説の女。
彼女は、口裂け女だった、
1970年代、驚異的に流布された都市伝説。
学校帰りの子供の前に一人の若い女性が現れる。
マスクをしたその女は問う。
『ワタシ、キレイ?』
きれいだ、と答える。
『そう、これでも……?』と言いながら、女はマスクを外す。
するとその口は耳元まで大きく裂けていた。あまりの恐怖にその姿を見た者は死に至る。
きれいじゃない、と答える。
容姿をけなされた彼女は激昂し、答えた者は鎌や鋏で斬り殺される。
どちらにしても死に至る。
都市伝説の中でも圧倒的な知名度を誇る、かつて子どもたちを恐怖のどん底へ陥れた存在である。
彼女との出会いは、全くの偶然で。
逃げなかったのは、足が竦んでいたからで。
情けなく体を震わせて、夏樹は立ち尽くしていた。
口裂け女の物語を知らない訳がない。
問われれば、殺される。
走って逃げないと、ああでも、彼女は足も速い。
逃げても、殺される。
出会った時点で終わり。口裂け女はそういう怪異。
だから────
ぐぅぅぅぅ。
────いきなり鳴った彼女のお腹の音に、夏樹が目を点にしたのは仕方がないことだろう。
怖くなかったと言えば嘘になる。
逃げても追い掛けられて殺される。そういう逸話がある以上、逃げた所で意味はない。
近くのコンビニですぐに食べ物を買ってきて、口裂け女へ差し出したのは、仲良くなるためではなく恐怖心から。媚を売れば助かるかもしれない、そういう打算があったからだ。
発想としてはいじめっ子を前にした、パシリのヘタレと同じである。
しかしその時は、それが最善のように思えたのだ。
そうして夏樹は、口裂け女に食べ物を差し出す。
すると彼女は拙いながらも『アリガ……トゥ……』とお礼の言葉を絞り出し、受け取ってみさき公園のベンチで食べ始めた。
その隙に逃げてもよかった。なのに、逃げなかったのは何故だろう。
ただ彼女は、『ワタシ、キレイ?』とは問わなかった。
それに、あのサラリーマンが逃げたすぐに彼女と出会ったのに、マスクをしていた。
つまりそれは、マスクを取る前にサラリーマンは逃げて、けれど口裂け女は追わなかった証拠で。そのせいか、恐怖心は幾分か薄れていた。
『コレ……』
思い出の中の口裂け女は、離れた場所で覗き見ている夏樹に近付き、そう言いながらパンを渡す。
渡すと言っても元々夏樹が買ってきたものなのだから、何かが致命的に間違っている。
とはいえ、キミも食べない? と誘う彼女が優しいということだけは理解できた。
『あ、いただき、ます?』
そう答えて、おっかなびっくり彼女の隣に座り一緒になって、パンを齧る。
食べ終わったら彼女はもう一度お礼を言って、ふらふらと幽鬼のように公園を去っていく。
夕暮に染まる彼女の後姿が、何故かひどく寂しげに見えて。
もう怖くないのに、やっぱり夏樹は立ち尽くしたままで。
そんな意味の分からないやりとりが、最初の出会いだった。
* * *
「ウマ…ウマ……」
「おねーさん、それは口で言うことじゃない」
それが、何故か今では公園で並んで座っているのだから、人生とは分からないものである。
ころころと鼈甲飴を口の中で転がしてご満悦、そんな姿をかわいいと思ってしまう時
点で夏樹は結構ダメなところまで来ているのだろう。
最初の出会いから一か月。
学校帰り、夕暮れに染まる公園で口裂け女と一緒にもぐもぐコンビニのパンを食べたり飴を舐めたりするのが、最近の夏樹の日課になっていた。
自分でも「なんだこれ?」と思わざるを得ない。
幼馴染にくねくねがいて、メリーさんが妹である夏樹をしてそう思わせる珍妙な光景である。
二度目の接触は、夏樹からだった。
翌日、近くを探せばいるかな、くらいの気持ちで講演の周囲を探していると本当に口裂け女を見つけてしまった。
手にはコンビニの袋、彼女への差し入れがいっぱいある。
まだ少し恐怖はあるけれど、遠くから覗き見た彼女の目はやっぱりどこか寂しそうで。
それが嫌で、夏樹は勇気を振り絞って声をかけた。
『おお、お、おねーさん! ままっままた会ったね』
声が震えていたのは、愛嬌だと思っていただきたい。
殺されるかもしれない。頭ではそう考えながらも声をかけたのは、心のどこかで殺されないと思っていたから。
楽観ではない。夏樹や、逃げて言ったサラリーマンを見る目が寂しそうで。彼女が誰かを殺すなんて、どうしても思えなかった。
「でさ、みこのやつがさぁ」
「…ゥ……」
思えば、子供だったのだろう。
自分の判断が正しいのだと、意味もなく信じることが出来たのだから。殺されなかったのは結果論、同じくらいの確率で、無惨に死ぬ結末だってあった。
それでも、夏樹は殺されることなく、口裂け女とこうやって談笑するに至った。
彼女は殆ど喋らなくて、少しでも笑わせようと、必死になって話題を探して。
偶に笑ってくれると、なんだかとてもうれしかった。
彼女は、「ワタシ、キレイ?」と問わない。
夏樹も、怯えず逃げもしない。
当時は気付きもしなかったが。
つまりは怪異としてではなくただの「おねーさん」として彼女は此処にいて。
そんな「おねーさん」に会うために、夏樹は毎日公園へ訪れる。
幼馴染の久美子にも内緒、二人きりの秘密の会話は、夏樹のお気に入りの時間になっていた。
毎日が楽しいと、夏樹は素直に思っていた。
きっと口裂け女も。
こんな日々がずっと続いていくと、思っていた。
◆
口裂け女の起源として語られる説は非常に多い。
有名なところでは以下のものだろうか。
・江戸時代、農民一揆の後に処罰された多くの農民の怨念が、特に犠牲者の多かった白鳥村(現・郡上市)に今なお残っている。
これがいつしか妖怪伝説となって近辺に伝播し、時を経て口裂け女に姿を変えた。
・明治時代中期、滋賀県信楽に実在した『おつや』という女性がいた。
山を隔てた町にいる恋人へ会う際、山道で妙な男に襲われないよう、白装束に白粉を塗り、頭は髪を乱して蝋燭を立て、三日月型に切った人参を咥え、手に鎌を持って峠を越えたという。
この姿が口裂け女を想起させ、噂として定着した。
・CIAが噂の拡散度合いと速度を調べる為に流したデマ。
・整形手術が失敗し、醜くなった容貌。その恨みから自身の容姿をけなす者を殺すようになった。
比較的近代の怪人だからか医療ミスを起源とする説は多い。
しかし本来口裂け女は非常に古い歴史を持つ怪異で、一説によれば1754年まで遡ると言われている。
江戸時代の怪談集『怪談老の杖』には、江戸近郊に狐が化けた「口裂け女」が現れた話が記されている。
雨の町を歩く青年は、道の途中でずぶ濡れの女を見つける。
体を壊してはいけない。傘に入るよう誘うと、振り向いた女の顔は、口が耳まで裂けていた。
青年はあまりの恐ろしさには腰を抜かし、気がつけば老人のように歯が抜けた呆けた顔になり、言葉も話せなくなった挙句、息を引き取ったそうだ。
同じく江戸時代の話に、「吉原の怪女」と言うものがある。
吉原の遊郭で、女郎たちの話し声を廊下で耳にしたとある客が、何を話しているのか聞こうと座敷へ近づいた時、同じ座敷へと歩く太夫の姿があった。
客の男が戯れに裾を引っ張ると、太夫は振り返って顔を見せる。
すると振り向いた女の顔は、日月のごとく輝く眼と耳まで裂けた口という恐ろしい容貌をしており、睨みつけられた男は気を失って倒れてしまったという。
江戸時代における口裂け女は、能動的に人を殺す存在ではなく、百鬼夜行と同じく「出会ったら不幸になる」類の怪異である。
都市伝説の口裂け女とは相違点も多く、現代の口裂け女と等号で結ぶのはおかしいと考える者も多い。
口の裂けた女に対する恐怖というイメージの大本ではあるかもしれないが、現代の口裂け女そのものではない。
これらは、口裂け女という“古典妖怪”と考えるべきだろう。
現代の、“都市伝説として”の口裂け女との関係性を考えた時は、八尺様を引き合いに出すのが理解しやすい。
山姫・山女といった古典妖怪は時代が下ると共に忘れ去られ、現代において追加要素付きでリメイクされ新しい怖い話「八尺様」となった。
同じように一部の人間が知っていた「古典妖怪・口裂け女」に様々な追加要素を与えられ「都市伝説・口裂け女」は生まれたのである。
妖怪としての口裂け女は、出会うと不幸が起こる怪異であり。
都市伝説の口裂け女は、問いを投げかけ間違えたら殺す怪異である。
一見すれば別物としか思えないが、現代の都市伝説・口裂け女を紐解く時、江戸時代の怪談は避けては通れない。
そして、口裂け女を考察する上で、非常に重要な資料が存在する。
一定の年齢の方ならば読んだこともあるのではないだろうか?
その資料は、妖怪や都市伝説を取り扱った学校の怪談的ホラーアクション。
かの有名なマンガ「地獄先生ぬーべー」である。
作中、ぬーべーは口裂け女を犬神憑きであると語っている。これは数多い解釈の中でも、かなり真に迫った考察と言える。
というのも、口裂け女は動物霊と非常に親和性の高い怪異だからだ。
怪談老の杖では正体が狐。
絵本小夜時雨に描かれる「吉原の怪女」では、顔に毛の生えた毛むくじゃらの容貌、つまり獣の怪異として描かれている。
現代の都市伝説もまた同じ。
そもそも口が裂けた容貌自体イヌ科の動物の特徴であるし、現代の口裂け女には目が狐、声が猫というあからさまな動物としての特徴がある。
つまり古典妖怪としての口裂け女の正体は、動物。
おそらくは狐。もっと言うのならば、“来つ寝”であった。
来つ寝とは、狐の語源である。
日本霊異記には、とある男が来つ寝を妻として子を孕ませるという話が記されている。
実はこれが日本最古の獣娘・キツネ娘が登場する話だったりするのだが、口裂け女とは然程の関連性がある訳ではないので割愛。
重要なのは日本霊異記において、来つ寝が娼婦・遊女として扱われる点だ。
怪談老の杖では直接的にキツネが正体とされている。
「吉原の怪女」は作品の中で狐とは語られないが、絵巻では遊女であり獣の怪異として描かれるところを見るに、その正体は来つ寝と考えられる。
だから、江戸時代の口裂け女は能動的に人を殺さない。
彼女の正体は狐。故に、人を化かして“びっくりさせる”のが本懐。
本来、彼女自身の気質は決して危険なものではない。
そしてこれらの怪談が狐、来つ寝──遊女に端を発し、その上で不幸になるという点を加味すれば。
口裂け女の原義とは。
「男が口裂け女(遊女)と出会い、不幸(散財? 性病?)になる」
つまり女遊びの末に不幸になる、男の自業自得を描いた物語であると言える。
更に付け加えれば、口裂け女と言えば鎌であるが、鎌にも隠された意味がある。
実は、鎌というのは古い時代、“密告”の隠語であった。
これを考えると「男が口裂け女(遊女)と出会い、最後には鎌(密告)で殺される」。
完全に女遊びがばれて家庭を駄目にした男の末路である。
(おまけとして、西欧では赤はハンセン病患者・娼婦などを意味する色である。勿論、これが関係あるかどうかは分からないが)
そして、こういった口裂け女=遊女を元に作られた都市伝説もまた、然程危険な存在ではなかった。
実際、最初期の口裂け女は人を殺さない。
1979年3月に発売された「週刊朝〇」において報道された口裂け女の行動はこうなっている。
『赤いコートの女が道端で問う。“綺麗だ”と答えると家までのこのこついてくる。“ブスだ”と答えるとマスクを外し、耳まで裂けた口を見せつけびっくりさせる』
美人と答えるとマスクを外す、今に伝わる都市伝説とは逆。
このように本来の口裂け女は、ブスだと答えても人を殺さない。
そして綺麗と言われればほいほいついて行く。
そもそも口裂け女という怪異は殆ど恐怖要素のない、それどころか褒められたらすぐについて行く元祖チョロインなのである。
では何故、彼女は人を殺すようになったのか。
なんで『ワタシ、キレイ?』と問うのだろう。
◆
「なっき、一緒に帰ろーよー」
「ごめん、みこ。ちょっと用があるからさ!」
「えっ、あっ……もう」
毎日のように、公園へ行く。
もう怖いなんて思う訳がない。気分は近所の年上のお姉さんとの語らい。放課後が楽しみで仕方がない。
「おねーさんって、そう言えばどこに住んでるの?」
「ジン……ジャ」
「じんじゃ、神社。ここの近くだと、ああ、あそこの小っちゃいとこ。なんだっけ、名前?」
そう言えば、口裂け女の説話には神社や公園に住んでいるといったものがある。成程、事実だったかと一人頷いている。
そんな子供っぽい仕種を眺める彼女の目は、いやに優しく見えて。
はたと視線が合った夏樹は、思わず顔を赤くしてしまう。
口が裂けていて、それを隠す大きなマスクをしているけれど。彼にとって彼女は、お話によく出てくる「きれいなおねえさん」なのだ。
「あ、はは。そ、そうだこれ! 差し入れの飴!」
照れ隠しから差し出した飴を、口裂け女は嬉しそうに受け取る。
ころころと口の中で転がす様は、外見以上に可愛らしい。邪気が無いとでもいうのか。数多を殺す都市伝説には相応しくないのだが、そうとしか思えなかった。
しばらく話を続け、夕暮れはいつの間にか夜へ近付き、そうすればお別れの時間。
いつも彼女の方から「夜道は危ないから早く帰れ」と促す。
そういう時、口裂け女のおねーさんはいつだって優しげで、同時に何処か寂しそうな顔をしていた。
幼い夏樹にも、それが如何な感情に起因するくらいかは分かる。
夜道は危ないも何も、彼女自身が「夜道は危ない」と言われる要因の一つ、恐怖の代名詞だ。
自分でもそれが分かっているからこそ、彼女は泣き笑うような表情で夏樹を見送る。
それが悲しくて、夏樹は何も言えず俯いた。
一か月以上彼女といるのだ。知っている、彼女が人を殺していないって。
そもそも、口裂け女は人を殺さない。夜道で誰かをびっくりさせるだけの怪異。だというのに、「自分みたいなのがいると危ない」なんて言って夏樹の心配をしてくれる。
そんな彼女が夏樹は、当時は気付かなかったけれど、きっと大好きで
「……うん、帰る。あ、でもさ。夜道は怖いから、途中まででいいから一緒に帰ってくれない?」
だから、そう言った。
俺は知ってるから。貴女が優しい人だって、俺はちゃんと知っていると伝えたかった。
「…ア…ゥ……」
「さ、行こうよ。遅くなったら母さんに怒られるし!」
そう言って無理矢理彼女の手を引っ張って、暗い夜道も足取りは軽く。
少しでも彼女が笑えればいいのになんて、そんなことを夏樹は考えた。
『口裂け女が男の子を攫うところを見た』
そんな噂が流れ、かつてのように学校でも集団下校が義務付けられたのは、三日後のことだった。
ホームルームで教師は言う。
口裂け女が現れたという噂が流れている。
本当かどうかは分からないが、刃物を持った危ない女性が町にいるのは事実。
警察も監視を強めている。
小学校では集団での登下校が決まった。
中学校ではそんなことはないが、キミ達も放課後は寄り道をせずに帰りなさい。
「うわあ、口裂け女ってなんだか懐かしい響きだねー」
話を聞いた久美子はそんな風に呑気な調子。
けれど夏樹は混乱していて、いまにも泣きそうだった。
頭の中がぐるぐる回っている。
“俺のせいだ。俺が、あんなことしたから”
二人一緒の帰り道、なんて喜んでいた自分を殴り飛ばしてやりたい。
あんなことをしたから、おねーさんが大変なことになっている。
放課後になり、夏樹は弾かれたように走り出し、一直線へ公園に向かった。差し入れなって買っている暇はない。
はやく、はやくおねーさんのところに行かないと。
走って、転んで、痛くて涙が滲んで。
でも、早く。彼女に、会いに行かなくちゃ。
そうして辿り着いた、夕暮れに染まるみさき公園。
夕日に伸びた長い影。
赤いコートの貴女は、いつものベンチの前でぼーっと空を眺めていた。
「お、おねーさん!」
警察が巡回していると聞いたけど、この辺りにはまだ姿も見えない。
よかった。最後の力を振り絞って、夏樹は口裂け女の傍まで駆け寄り、呼吸を整えるよりも早く口を開く。
「おね、おねーさん。俺、あの。警察が! 口裂け女の噂があって!」
考えが纏まらない。気ばかりが急いて、出てくる言葉は支離滅裂で。
夏樹はもう完全に泣いていた。迷惑をかけてしまった。俺が、あんなことをしたから。
ごめんなさいと言いたくて。でも、うまく形になってくれなくて。
なのに、彼女は。
そっと優しく、頭を撫でてくれた。
「ゴメン…ネェ……」
そうして目を細め、潤んだ瞳で彼女は言う。
口裂け女は謝る。迷惑をかけてゴメン、私みたいなのが傍にいてゴメン。
でも、
「でも、うれしかった……ありが、とう、ね」
それでも、会えてよかったと。
そう言ってくれた
だから分かった。
彼女は、ここでさよならをしようとしている。
「違うんだよぉ、俺。おれ……」
本当は、もっと一緒にいたかった。
並んで飴をなめて、いろいろ話して、貴女が笑ってくれる。そんな時間が大好きだった。
嬉しかったって、ありがとうって。
そう言いたかったのは、俺なんだよ。
でも後から後から涙が溢れて。嗚咽に阻まれて、結局何も言えなくて。
「きゃあああああああああああああああああああああああああ!? 誰かぁ!?」
公園を除いていたのは、一人の主婦。
“口裂け女泣かされている男の子”を見て、救いを求めて叫びを上げる。
それで、お仕舞。
口裂け女は男の子に手出しをせず、逃げ出す。
手を伸ばそうとしても、彼女の足は速いから、するりとすり抜けて。
公園の出口で彼女は振り返り、最後の未練を絞り出すように呟く。
『ワタシ……』
キレイ? と、言葉が続くことはない。
彼女は夏樹に背を向け、今度こそ振り返らずに去っていく。
迷いのない歩みは、或いは颯爽と呼べるかも知れなくて。
何も言えないまま、夏樹は彼女の背を見送った。
あの時、なんといって返してあげればよかったのか。
夏樹には分からなくて。
中途半端なまま、恋にも為れなかった物語は、こうして終わりを告げた。
◆
口裂け女は原義において狐=来つ寝でしかなった。
しかし時代は下り、彼女の存在が流布されるに遵い、そのままではいられなくなった。
ただ人を驚かせるだけだった彼女は、その歴史が古いために様々なものを背負わされる。
誰かが語る。
「農民一揆で処刑された農民たちの呪いが、彼女を作ったのだ」
その手には、鎌が持たされた。
誰も殺すはずのなかった怪異は、殺す術を手に入れてしまった。
誰かが語る。
「いやいや、そのモデルはおつやという女性だ」
情念をもって動く女性。
丑の刻参りを思わせる服装から、殺害を是とするキャラクターが付けられた。
「整形手術の失敗」から誰かを憎む心。
「精神病院からの脱走者」から異常な精神性を与えられた。
口裂け女は都市伝説として成立する際、成立した後も。
原義から離れ様々な要素を背負わされていく。
もはや始まりを知るものは誰もいない。
だから口裂け女は問う───『わたし、キレイ?』と。
そうしなければ、口裂け女は自身を定義できない。
彼女は都市伝説でありながら妖怪であり、同時に現実の犯罪者であり、整形手術の被害者であり、亡霊であり怨霊であり。
もはや自分が何者かもわからなくなる程違うものに変わってしまった。だから彼女は問わなければならない。
『わたし、キレイ?』と。
それは容姿の美醜を問うているのではなく、その問いを口にすることで、自分は口裂け女という怪異であると知らしめる。
そうしなければ、彼女は自分を定義できない。
歴史を長く持つが故に、幾つも派生は生まれた。
長くを生きたが故に、はじまりを失くした。
もはや自分が何者かも思い出せなくて、何者でもいられなくなった女。
それが、口裂け女という怪異だ。
都市伝説として誰かを殺して、町をさ迷い、帰る場所も分からない。
それでも彼女は問う。
綺麗と言ってくれる人でも、醜いと罵る人でも、まあまあなんて上から目線で語る人でもない。
自分が何者であるかを教えてくれる誰かを探して、彼女は夕闇を歩く。
『ワタシ、キレイ?』
おねがいだからおしえてください。
わたしは、だれですか?
口裂け女はいつだって、そう問うている。
◆
そうして訪れた、「知り合いの結婚式」の当日。
夏樹は郊外の古びた教会にいた。
結婚式なんて言っても、客は誰もいない。新郎新婦二人だけ、見ているのは夏樹だけ。
こんなので結婚式なんて呼べるのかは分からないけど。
それでも新婦は嬉しそうだった。
「ヒサ…シブリ……」
「うん、久しぶり。おねーさん」
大きなマスクを付けた若い女性。
あの時出会った口裂け女は、再び夏樹の前に姿を現した。
もう何年も経っているけど、あまり外見は変わっていない。
強いて言えば赤いコートが白いウエディングドレスに変わったくらいだろうか。
でも、全身白装束は赤と対を為す口裂け女の特徴。だから、別段不思議なことでもない。
「びっくりしたよ、いきなり手紙なんて来るからさ」
「ゴメン…ネェ……」
でも、君には知っていてほしかったから。
誰からの祝福もいらないけど、君にだけは一緒に喜んでほしかったから。
彼女の目がそう言っている。
二人だけの結婚式に、夏樹だけは呼びたかった。
案外彼女は弟のように思っていてくれたのかもしれない。
恋心は一方通行でも、ちゃんと彼女の方も思っていてくれたと知ることが出来たから。
おねーさんのために、夏樹は弟として在ろうと決めた。
「おめでとう、おねーさん。俺、自分のことみたいにすっげぇ嬉しいよ」
「アリガ…トゥ……」
今なら分かる。
あの時、なんで彼女が『ワタシ、キレイ』と問わなかったのか。
それは、口裂け女ではなく。何者でもない、ただの「おねーさん」として傍にいようとしていてくれたから。
そんなことに、後になって気付くんだから、どうしようもないと夏樹は苦笑を零した。
ちらりと、遠くで待っている新郎に目をやる。
口裂け女と結婚する彼は、目が見えないらしい。
目が見えないから、彼女を恐れない。だから結婚しようと思ったのか。
或いは、他に理由があったのか。
分からない。おそらくは、あの日去って行ってから彼女にもいろいろあったのだろう。
それは彼女と彼の物語。夏樹には立ち入れないストーリーだ。
初恋にも為れなかった物語は終わった。今の夏樹の立ち位置は、彼等を祝福する脇役。
人が知ることの出来る範囲には限りがある。
どれだけ聡明な人間でも、どんなに努力しても、人は自分の見ているものしか見えていない。
だから彼等の物語は、彼等しか知り得ない。
頭では分かっている。けれどそう思うことが、少し切ない。
「な、そろそろ時間だろ? 新婦さんが新郎待たせちゃダメじゃん」
「…ウン……」
そう言うと躊躇わらず、小さく手を振ってから、口裂け女は彼の下へ駆けていく。
白い大きなマスクは相変わらず。
あの頃の赤いシルエットではなく、純白のドレスを纏う彼女は。
口元は見えないけれど、きっと心から笑っているんだろう。
自分には出来なかったことだ。
それを新郎の彼はやってのけた。この結末は当たり前だった。
これで口裂け女のお話はおしまい。
夕暮をさ迷い問いかける怪異は、道行きの果てに大切な人の下へ辿り着く。
口裂け女が白い衣服を着るのは、返り血が目立つようにだと語られる。
でも、きっとこれからの白は意味合いが違う。
……それが他の誰かの為だというのは、やっぱり切ないけれど。
「あーあ、ちくしょう。さえないなぁ俺」
彼女には聞こえないよう、舌の上で言葉を転がす。
多分、初恋だった。
まだ子供だった頃、恋をして。
哀しそうに笑うからを、心からの笑顔が見たくて。
貴女には笑っていてほしくて。
でも、今はもう貴女を受け入れてくれる人がいるんだね。
それが嬉しいような、ちょっとだけ寂しいような。
ああ、違う。きっと一番は、悔しいという感情だ。
「……やっぱり、初恋って実らないんだなぁ」
ぼやくように言えば、何かを思い出したのか、軽やかに口裂け女は振り返る。
そうしてマスクをしていても分かるくらいの笑顔を浮かべていた。
どうしたの? なんて問わない。
彼女の言葉を邪魔してはいけない。
一度深呼吸をして、スカートの裾をつまみ。
くるりと舞うようにドレスをたなびかせ、お決まりのセリフを彼女は言う。
「……ワタシ、キレイ?」
口裂け女の問いは、もう都市伝説としてのものではない。
けれど夏樹は悔しいから、素直に綺麗だなんて言えなくて。
でもいつか恋した人を醜いなんて思えなくて。
だから涙が零れないよう精一杯の笑顔で答える。
「それは旦那さんに聞いてくれよ、これからお嫁さんになるんだろ?」
何者にも為れなかった口裂け女は、大切な人に出会って自分を定義する。
狐ではなく、娼婦ではなく、人を殺す怪異ではなく。
“あなたのお嫁さん”
そんなありふれた言葉が、今の彼女。
その相手が自分じゃなくて悔しいなんて、幸せそうな彼女の前では口が裂けても言えそうにない。
「うれしかった、ありが、とう、ね」
以前も聞いた言葉は、以前とは違う意味で。
夏樹ははっきりと理解する。
ああ、これで。俺の初恋は本当に終わったのだ。
「こちらこそ。俺、おねーさんに会えてよかった」
強がりだったけど、掛け値のない本音。
彼女が本当に綺麗だったから。
隣にいるのが自分じゃなくてもいいかなんて思えた。そう思えたことが誇らしかった。
並んで立つ、中の良さそうな新婚夫婦。
眩しくて、視界が滲む。
見上げれば青い空、彼女の門出に相応しい。
夏樹は大きく口裂け女に手を振り。
いつかの恋に、はっきりと別れを告げた。