多分どこかで捨ててきたのだと思う。
見つからないのならそういうことだろう。
◆
とある日曜日の午後、藤堂夏樹は駅前の噴水広場できょろきょろと辺りを見回していた。
今日は折角の休み、昼食がてら買い物でもと思い、待ち合わせの最中である。
相手は女の子なのだが、そう色っぽい話ではない。
なんせ一緒に出掛ける女の子は藤堂里香(とうどう・りか)、つまり二つ下の妹である。兄妹二人して恋人もおらず、休みの日はどうにも寂しくていけない。
それに耐えかねたのか、
『おにぃ、今日は私とデートね!』
里香はそう元気よく宣言した。
普段なら幼馴染の久美子と遊びに出かけたり、八尺様と一緒に散歩したり、最近では同じクラスの金城奈緒という女の子と図書館に行くこともある。
しかし今日に限ってはなんの予定もなく、ならば偶には妹の相手をするのもいいだろうと夏樹はデートとやらをすることになった。
そして、同じ家だというのに里香の要望で待ち合わせなんぞをしているのだが、肝心の妹は未だ現れない。約束の時間からもう20分も待っている。あいつ、忘れてるんじゃなかろーかと思い始めた時、ちょうど携帯が鳴った。
「おーい、おせーよ」
きっとあいつだろうと、何も考えず電話に出る。名前を確認もしなかった。
そうしてスピーカ越しに聞こえてきたのは女の子の声だった。
『もしもし私メリーさん。今あなたの家の前にいるの』
……それはあまりにも有名な都市伝説。
“メリーさんの電話”だった。
物語は以下のように流れる。
とある少女が引越しの際、「メリー」と名付けられた古い外国製の人形をやむを得ず捨ててしまった。
その夜、少女のもとにいきなり電話がかかってくる。
『私、メリーさん。今、ゴミ捨て場にいるの』
少女は気味悪く思い電話を切るが、すぐにまたまたかかって来て
『私、メリーさん。今、郵便局の近くにいるの』
電話がかかってくるたびメリーさんの現在地はどんどん自分の家に近づいてくる。
『私、メリーさん。今、あなたの家の前にいるの』
ついにすぐそこまで来てしまった。
怯える少女。 思い切って玄関のドアを開けるが、そこには誰もいない。
そして再び鳴る、最後の電話。
『私、メリーさん。今、あなたの後ろにいるの』
その後少女がどうなったかを知る者は誰もいない。
それがメリーさんの電話。
けたたましく電話を鳴らし、そっと背後に忍び寄る都市伝説。
話の筋書きは夏樹も知っている。
だからふと思い出す。
ああ、そういえば捨てたっけ。
昔々、今の家に引っ越す前のこと。
大切にしてきた筈のものを、夏樹は捨てたのだ。
◆
多くの類型において“メリーさん”というのは少女が名づけた名前になっているが、おそらくこれは間違いだろう。
祖母から贈られたという点、そして西洋人形という点を下敷きにすれば、贈られた西洋人形は“メリー人形”だったとした方が自然だ。
メリー人形を説明するには、まず“青い目の人形”について語らねばならない。
青い目の人形は、昭和の初めにアメリカから日米親善使節として日本各地の小学校に贈られた、数多くの人形をさす言葉である。
当時日米関係は政治的緊張から悪化の一途をたどり、対立を懸念したアメリカ人宣教師のシドニー・ギューリックは、少しでも日米間の緊張を緩和しようと親善活動を行っていた。
その一環として日本の小学校に贈られたのが青い目の人形だ。
これらの人形はシドニー・ギューリックの「日本の雛祭りに人形を送ろう」との呼びかけによって全米から集められたもので、それぞれ名前を持っている。
例えばナンシー。
例えばパトリシア。
例えばキャサリン。
そして例えば、“メリー”。
メリーと名付けられた人形は一体ではない。日本各地の小学校にメリーさんの人形は贈られることになる。
「メリーさんの電話」の舞台設定を現代の2000年代前後とするならば、少女の祖母にとってもっとも身近な西洋人形がこの“青い目の人形”。おそらくは若かりし頃通った小学校にはメリー人形があったのだろう。
しかし不幸なことに、太平洋戦争に突入すると、メリー人形は敵性人形という理由でほとんどが廃棄された。
中にはこっそりと保管されていたものもあるが、戦後に校舎改築を行った際行方不明になったものも多く、現存する数は非常に少ない。
皮肉なことに、メリーさんの多くは都市伝説と同じようにゴミとして捨てられたのだ。
さて、もう一つ注目したいのは、このメリー人形がそもそも雛祭りの人形として送られている点である。
女の子の日として有名な三月三日。雛祭りと言えば雛人形。
しかし雛祭りが元々呪術的儀式であったことは多くの有識者の知るところだ。
雛祭りの歴史は室町時代にまで遡り、しかしその頃の雛祭りは今のように豪奢な人形ではなく紙製。
そして扱いも現在とは大きく異なる。
紙製の雛人形を自身こすり付け、穢を人形に背負わせ川に流す。
この“雛流し”と呼ばれる風習こそが雛祭りの原型であり、雛人形は本来厄払いの儀式に使用される呪物だった。
ところが次第に人形は精巧な造りとなり、値段も跳ね上がる。そうすると川に流すのは勿体無いと、こうした風習は廃れていった。
そして、いつしか雛祭りの目的自体が変化し、「1年間子どもが無事だった事」を祝う、女の子の祭りとなった。
メリーさんの電話に登場する人形は、メリー人形であり、メリー人形は西洋製でありながら雛人形としての特性を備えている。
メリー人形は親善の証として贈られながら、戦争によって憎悪の対象となり捨てられる運命にあった。
雛人形はそもそも穢や厄をその身に溜め込み、川に捨てられる人形だった。
更に言えば、雛人形の「雛」とは、「雛形」を略したもので、雛人形とはもともと「人間を小さくした物」という意味を持っている。
つまり、「自分の穢を、自分と同じ形をした別の物に移す」と言う考えが雛流しの原義である。
此処から考えれば、メリーさんの電話という怪異を紐解く時に、“人形には魂が宿る”という定型句を用いるのは少しばかりずれている。
雛人形として贈られたメリーさんは、初めから穢れを溜め込み捨てられる運命にあり、いつか自分と“同じもの”になることが決定されている。
つまりメリーさんを動かしているのは魂ではなく、物語に登場する少女が捨てた穢れであると言えるだろう。
だからこそ、メリーさんの電話は「私メリーさん、今あなたの後ろにいるの」と締め括られる。
原典にて少女が殺される描写がないのは、結末が分からないから。
メリーさんは少女自身。彼女が背負わせてき厄そのものである。
ならば少女がどうなるかは、彼女がメリーさんに何を背負わせてきたかによって変化する。
故に結末は語られない。
メリーさんの電話は捨てられた人形の復讐譚ではなく、傘地蔵に代表される、因果応報を語る仏教説話に近い都市伝説なのだ。
だからきっと、あなたの後ろにメリーさんが来た時どうなるかも、あなたしか知らない。
◆
多分どこかで捨ててきたのだと思う。
見つからないのならそういうことだろう。
『これはね、メリー人形と言うのよ』
藤堂夏樹は東京に住む曾祖母が大好きだった。
明治三十九年に生まれた曾祖母は、元々は華族の令嬢様だったらしい。それだけに語る話も耳慣れないものばかり。昔あった話を面白おかしく話してくれる百歳近い曾祖母を、祖母よりも年上だから“おおきいおばあちゃん”と呼んで慕っていた。
そんな曾祖母がくれた古い西洋人形が、メリー人形だった。
『メリー人形?』
『そう。もうすぐ、妹が生まれるのでしょう? お兄ちゃんから、プレゼントしてあげて』
これは夏樹が六歳の頃の話である。
妹が出来ると両親から聞かされて、それが嬉しくて“おおきいおばあちゃん”とそのことばかりを話していた。
オレ、おにいちゃんになるんだ。どうしよう、うまくできるかな。女の子と遊んだことなんてないしさ。
エコー検査で生まれてくるのが妹と決まって、喜びはしたけど、同じくらい不安だった。子供ながらに、妹と上手くやれるか悩んでいたのだ。
『それならこの人形を上げる』
それを見かねた曾祖母はメリー人形をくれた。
妹が大きくなった時、これをプレゼントして、一緒に遊べばいい。そうすればきっと仲良くなれるから。
曾祖母はそう言って優しく微笑んでくれた。
『……なれるかな』
『勿論』
『……うん!』
そうして受け取ったメリー人形は、夏樹の宝物になった。
妹が生まれてきたら、このお人形で一緒に遊んで、仲のいい兄妹になるんだ。
両親は子供の名前をもう決めていた。里香。それが新しい家族の、自分の妹の名前。
いつかで会う日が楽しみで、夏樹は毎日毎日母親のいる病院へ通った。
おかあさん、だいじょうぶ? りかちゃん、まってるからね。
無邪気に語り掛ける小さな夏樹を、両親は微笑ましく眺めていた。
『……………え?』
けれど、妹が生まれてくることはなかった。
“流産した”。
父親がそう言った。言葉の意味は分からないけれど、俯く父親とすすり泣く母親の様子から、それがとても悲しいことだと知れた。
『ごめんね、夏樹。ごめんね……』
『どうしたのおかあさん』
『里香ちゃんね、来れなくなっちゃったの』
涙を流してこそ謝る母親にこそ、夏樹は泣きたくなった。
泣かなくていいのに。勝手に期待したのは自分で、そりゃあ妹が出来るのは楽しみだったけど、おかあさんを泣かせたかった訳じゃない。
だから夏樹はこう答えた。
『おかあさん、俺、大丈夫だよ。だから泣かないで。平気だから、おかあさんが平気でいられるように頑張るから!』
その翌日、夏樹はメリー人形を捨てた。
大好きな曾祖母から貰った人形でも、これは妹の為のもの。きっとこれがあると母親は余計に悲しむと、子供ながらに理解できた。
メリーさんを、燃えるごみの日に捨ててきた。
一緒になって、いろいろなものを。
妹が生まれてこなくて、一番悲しんでいるのはおかあさん。
だから捨てた、メリー人形を、妹が生まれてくることが楽しみだと笑った日々を。
泣いているおかあさんを慰めたいと思った。
だから捨てた、おかあさんに甘える自分を、守られるだけだった子供な自分を。支えることは出来なくともせめてもう一度笑ってほしいから。
いろんなものを捨ててきた。
そうして子供を捨てた夏樹は殊更子供で在ろうとした。
馬鹿をやって、町中を走り回って、元気で、手のかかる子供でいよう心に決めた。
お母さんが「このバカ息子!」と怒って、自分の世話に大変な思いをして、忙しい毎日に急き立てられて……生まれてこなかった妹のことを、いつか忘れられるように。
家族の中で夏樹が一番に、里香という妹のことを、ゴミ捨て場に捨ててきた。
みんなみんな大切だった。
妹を楽しみにしていたのは嘘じゃない。
夏樹だって、里香のいる未来を想像していた。
『リカねぇ、おにいちゃんとけっこんするの!』
マンガなんかでよくあるパターン。
里香は昔からお兄ちゃん子で、いつも一緒にいて、“お兄ちゃんと結婚する”なんてことを言う可愛らしい娘だった。
『お前その人形好きだよなぁ』
『えへへ、メリーさん可愛いでしょ?』
夏樹が贈った西洋人形は里香のお気に入り、で何処へ行くにも一緒だった。
無理矢理お人形遊びに付き合わさることもあるのかもしれない。
でも捨てた。
そんな妄想はいらない。
いらなくなったものはさっさと捨てて、今自分に出来ることをやろうと思う。
だから夏樹はメリー人形を捨てて、ゴミ捨て場を背にして歩き始めた。
歩きながら、零れる涙を止められなかったことを、夏樹は今でも後悔している。
多分、どこかで捨ててきたんだろう。
見つからないのならそういうことだ。
幼い子供でいられた日々は、こうして何処かに行ってしまった。
◆
そして、メリーさんは走る。
『今、公園を通り過ぎたの』
走って走って、あの人の元へと向かう。
捨てられた人形は、何度も電話をかけて、持ち主の元へ帰る。
その結末は、誰も知らない。
『今、コンビニの前にいるの』
メリーさんの電話を紐解く際、重要な二つの古い説話がある。
それは“カッパ”と“傘地蔵”である。
カッパの起源を語る際、もっとも有名なものは「堕ちた水神」説であるが、そもそもカッパの起源説話は地方によって多種多様で、一概にこれと決めることは出来ない。
しかしここで“メドチ”や“ひょうすべ”と呼ばれる東北のカッパの起源説話に触れたいと思う。
何故、カッパが川に棲むようになったか。
この起源を、東北では“捨てられた人形”に求めている。
ある有名な大工が宮殿を建てる時、人夫が不足して約束の期日に遅れそうになり、木を組み合わせてたくさんの人形を作り、魂を吹き込んで人足にして働かせた。
しかし無事に建物は完成した後、必要のなくなった人形たちを川に棄てたという。
この人形がカッパとなった。
棄てられた人形は、人を恨んで子どもを川に引きずり込んで殺す。
カッパが川に引きずり込んで人を殺すのは、そこが自分の領域だからではなく、かつて自分が人に同じことをされたからそれを返しているのに過ぎないのだ。
傘地蔵に関しては今更説明するまでもないだろう。
お爺さんから受けた恩を返す為に、地蔵は動きお爺さんの元へ辿り着く。
古来より人形とは人の雛型であり、受けた恩を返すことも受けた怨みを返すことも、彼等にとっては当たり前のことだった。
だからメリーさんの電話は、単体では怪談にはなり得ない。
メリー人形はあくまで、されたことを返す存在。
人形を捨てたことのない人の下に来るはずがないし、来たとして、あなたがその人形を大切にしていたなら何も起こらない。
ただし、捨てたことに対する報復くらいはあるかもしれないが。
『今駅が見えてきたの』
ともかく、メリーさんは走る。
あなたの元へたどり着く為。
いつか捨てられた想いを、あなたへ届ける為に。
◆
何度でも言うが、妹の里香は生まれてくることが出来なかった。
ならば、二歳年下の妹である里香は何者なのだろう。
分からないままそれを受け入れた。両親も、夏樹も。歪なまま、家族を構築してしまった。両親が何故それを受け入れたか、どれだけ考えても、夏樹には分からない。
分からないまま、悪戯に時が過ぎて。
母親を慰めたくて子供は捨てたけれど、大人になれる訳でもなく。
子供でも大人でもない自分は、こうして今も妹が来るのを待っている。
「しっかし遅いなぁ」
あの頃より少しは大きくなって、でもやっぱり大人にはなり切れなくて。
それでも背が高くなって声は低くなった。力も強くなって色々なものを持てるようになったのに、何故だか昔持っていた筈のものが重く感じられて、持ちきれないものが増えていった。
そうして捨ててきた沢山のもの。
幼い憧れだったりとか、純粋に笑える心だったり、あるいは何も知らずにいられた子供の自分。
例えば、妹が欲しいと思っていたことも。
みんなみんな、道行きの途中で捨ててきた。
誰にだってあって、誰だって捨ててくる。
自分はそれが分かり易かっただけ。
みんな気付かないうちに、メリーさんを捨ててくる。
電話がまた鳴った。
夏樹はそれを取り、受話器の向こうから少女の声が聞こえてくる。
『今、駅前の広場にいるの』
さて、彼女は一体誰なのだろうか。
メリーさんの電話を素直に考えるのなら、捨てられた人形?
メリー人形が雛人形なら、自分自身。
それとももっと、得体の知れない何かなのか。
けれど彼女はこう言ってくれる。
『おっきくなったら、おにぃと結婚するの!』
それは確かに、昔夏樹が抱いた想像で。
だから多分、彼女は帰って来ただけなのだ。
いつか捨てた想いが、少しばかり形を変えて。
***
私は走る。
私を捨てたあなたの元へ。
お母さんの為に、自分の心を捨てて笑った。
泣かせたくないから振り返ることもしなかった。
でも知っている、去り際に流した涙のことを。
生まれることさえなかった私を愛してくれた。
生まれることさえなかった私の為に、泣いてくれた。
捨ててきたものはいくつもある。
大切に抱えて、それでも零していったものは数え切れない。
優しいあなたは、きっとそれを悲しむだろう。
だから私はあなたの後ろに。
あなたが取りこぼした想いを、残さず拾っていけるように。
何度でも、何度でも、電話をかけて。
何度でも、何度でも、あなたの後ろに。
私は、その為に還ってきたのだから。
***
『今、駅前の広場にいるの』
またも電話がかかってくる。
彼女が何者かは分からないけれど、怖くはない。彼女の傍にいると、あの頃のように笑えるから。
夏樹は困ったように、小さな笑みを浮かべる。
「まあ、それでいいんだろうな、きっと」
長く生きていればそんなことだってあるだろう。
その是非を問うことは出来ないけれど。
いつか、失くした想いは巡り巡りのあなたの元へ。
メリーさんの電話の語るストーリーは、つまりそういうことだ。
これでメリーさんの電話のお話はおしまい。
原典と何も変わらない。捨てた人形が巡り巡って帰ってきただけのこと。
子供だった自分や、生まれてくることさえなかった妹への愛情とか、昔抱いた未来への想像なんかも。
全部全部引き連れて、メリーさんは帰ってきた。
そうして最後のコール。
夏樹は電話に出ようとして、
「へっへー、おにぃ、お待たせ!」
後ろから抱き付いてきた妹に、思わずたたらを踏む。
降りる気は毛頭ないらしい。里香は後ろから覆いかぶさる形で夏樹の頬と自分の頬を擦り合わせてご満悦である。
「おい、離れろよ」
「だめー、おにぃの背後は私専用だもん」
「なにそれこわい」
メリーさん専用の背後。ぞっとする表現ではある。
ああいや、“さとるくん”や“リカちゃん”が来れなくなると考えれば、そう悪いことでもないか?
そんなことを思いながら、夏樹は鳴り続ける携帯電話を取る。
「はい、もしもし」
自分の声と、里香の持つ携帯から発される声が重なる。
もう辿り着いたのだから、電話に出る必要は出ない。けれど夏樹は敢えて出た。
お話の終わりには、ちゃんと“オチ”をつけないといけない。
「メリーさん、いまどこですか?」
おどけたような夏樹の物言いに、メリーさんは背後から、そっと夏樹を抱きしめる。
そうして静かな笑みで紡ぐ。
生まれてくることが出来なかった女の子は、何かの間違いか、小さな奇跡か、彼の下に辿り着いた。
自分のせいで泣かせてしまった彼に、いつか言えなかった言葉、いつも言いたかった言葉がある。
だから少女は耳元で囁くように言った。
「今、あなたの後ろにいるの」
ちゃんと、あなたの後ろにいるよ
今も、これからもずっと。
ちなみに、メリーさんの解釈にカッパを用いたが、カッパには天敵がいる。
カッパは人だけではなく、馬を川に引き摺りこむことが多い。その為、馬を守護する動物とはとかく相性が悪い。
さて、では馬を守護する動物とはなんなのか。
たとえば日光東照宮には紙厩舎と呼ばれる馬屋がある。ここは神の使う馬がおわす場所であるが、神馬を守る為にとある動物の彫刻がある。
誰もが一度は聞いたことがあるだろう。
『見ざる・言わざる・聞かざる』
所謂、三猿である。
猿は元々が太陽神の使いである為、獣でありながら非常に強い退魔でもある。そして馬を守護するその特性から、カッパの天敵であると考えられた。
カッパの起源を人形とするならば、猿は人形退治のエキスパートであるともいえる。
だから以下の流れもまた、当然の帰結であろう。
「あの…もしもし……」
『はーい、久美子ちゃんでーす。珍しいね、金城さんから電話くれるなんて』
「今、駅前…にいるんですけど……。藤堂君が、その、女の子と抱き合ってて」
『分かった、今すぐ行く。ちょいと詳しく話をきかせて』
その後どうなったかもまた、彼らしか知らないことである。