藤堂夏樹は見知らぬ駅で一人電車を待っていた。
妙な夢だと思った。
明晰夢というやつだろう。これが夢なのだとはっきり分かる。
だというのに感覚はやけにリアルだ。意識はあるのに体は動かない。ぬるりとした生暖かい風が吹いて、その温度に背筋が冷たくなった。
『まもなく…電車が来ます……。それに乗ると、とても怖い目に遭いますよ』
アナウンスが流れる。涼やかな少女な声だった。
静かな語り口は、声の主の性格を表している。きっと控えめな女の子なんだろうな、なんてくだらないことを夏樹は考えていた。
しばらくすると駅に電車が入ってきた。
電車と言ってもそれは動物園にあるような“おさるの電車”だ。
怖い目に遭う、そう言われたが夏樹の足は勝手に動き出した。
自分の意思ではなく、誘われるように、操られるように、夏樹は一番前に乗った。
目の前には猿が、夏樹の後ろには数人の顔色の悪い男女が一列に座っている。
『次は活けづくり……活けづくり、です』
走り出して間もなく、新たにアナウンスが流れる。
活けづくり? それ、駅の名前か?
疑問に思っていると、急に後ろからけたたましい悲鳴が聞こえくる。
驚きに振り向けば、広がる赤。
飛び散る臓器、艶かしいほどの肉の断面。
漂う鉄臭い血の香りが、夢と現の境を曖昧にさせる。
そうして悲鳴が消える頃、電車の一番後ろに座っていた男は刃物で体を切り裂かれ、それこそ魚の活けづくりの様になっていた。
『次はえぐり出し……えぐり出し、です』
最後尾の男は死に絶え、次は二番目に座っていた女性。
小人が現れ、彼女の眼球をスプーンで抉り出す。
つんざく声、血。此処に来てようやく分かった。この電車に乗ったものは、後ろから順番に殺されていく。
そして夏樹は乗ってしまった。
いつか、自分にも順番は回ってくるのだ。
やばい、近付いてきている。逃げなきゃ。逃げるって、何処に?
焦りから脂汗を垂らし、けれど体は動かない。
気分は絞首台へとのぼる囚人。避けられない師へと、一歩ずつ近付いている。
ぶしゃあ、と嫌な音が響き、肉片が飛び散る。
夢から覚めないと、大変なことになる。いったい何時に為ったら朝は訪れるのか。
早く覚めろ、早く覚めろ。何度も心の中で、呪文のように唱える。
『次はひき肉、ひき肉。です』
けれど、また新しいアナウンスは聞こえてきて。
『終点。朝、です。次は、あなたまで回るかもしれませんね』
そこで、夢は終わりを告げた。
『……長き夜の 遠の睡りの 皆目醒め 波乗り船の 音の良きかな』
最後に、誰かがそんなことを言った気がした。
◆
「ああああああああああああああああ!?」
あまりの恐怖に意識が覚醒する。
勢いよく目を見開けば、天井は映らない。代わりに妹の里香がこちらを覗きこんでいた。
「わあぁ!?」
突然の大声に驚いて、わたわたと距離を離す。
その動作が何だかとても可愛らしくて、先程の恐怖も和らぎほっと息を吐く。
よかった、夢から覚めたんだ。
心配そうにおろおろとしている里香に夏樹は笑い掛けた。
「おお、おはよ」
「お、おはよ。おにぃどうしたの? なんかうなされてたけど」
「いや、ちょっと夢見が悪くて。つーかお前なんで俺の部屋に?」
「え? 朝一番のおにぃの背後を取ろうと思って」
「なにそれこわい」
相変わらず里香はよく分からなかった。
「おはよ母さん」
「うん、おはよう夏樹。顔を洗ってきて、ご飯もうできてるから」
「はーい」
リビングに入ると旅行から帰ってきた母親が朝食を準備してくれていた。
正直「母親」と言っておかないと、下手すると姉弟と勘違いされてしまうくらいに夏樹の母親は若々しく可愛らしい。
昔からそうだったらしく、夏樹の父親は「一目見た瞬間、リアルに恋したんだよ、俺は」と今でも言っている。
そういう恋人夫婦だから、二人きりで旅行に出かけることも結構ある。子供としては、夫婦仲が良くていいと思う反面いい加減砂糖吐きそうになるイチャツキぶりを見せつけるな、という非常に複雑な心境だった。
「いただきまーす」
言われた通り顔を洗ってきて、味噌汁、ごはん、鮭の鉄板な朝食を食べ始める。
うむ、うまい。
八尺様の作るごはんも美味しかったが、母親の料理というのは美味しい以上に何となくほっとする。こういうのをおふくろの味というのだろう。
そんな食卓でキュウリ一本を丸かじりしている妹は、正直どっかで頭のねじを落してきたんだと思う。
「あ、おにぃ今私のこと馬鹿にしたでしょ? あのね、女の子は大変なんだよ?」
詰まる所ダイエット中な訳だが、せめてサラダにしろよと思わなくもない。
まあ里香の好物はキュウリなので、本人的にはあれで満足なのだろう。ちなみにもう引退しているが、妹は水泳部である。キュウリ好きで泳ぎが得意、何処のカッパだお前は。
あと友人の寺井明生は里香の競泳水着写真(盗撮)を持っている。スレンダーかつ出るとこ出てる里香ちゃんは最高、らしい。勿論当然のごとく写真は破り捨てておいたが
「おはよ、なっき」
「おー、じゃ行くか」
取り敢えず朝食を終え、背中に引っ付いてきた妹を引き離し、いつも通り久美子と学校に行く。
変わらない一日の始まりだ。
ただ、夏樹の胸の内には若干の不安があった。
昨夜見た夢。
人を殺す、猿の夢。
その話を、夏樹は前日の夜にインターネットで見ていた。
『猿夢』
物語を知ったもののみを死に至らしめる、夢の殺戮を現実へと変える都市伝説である。
◆
猿は、古来『山神』とされた。
人型でありながら人ではない異形で、山を縦横無尽に駆け回る。
古い時代、山は神や怪異の住まう場所であり、そこを自由に動く猿は山神の使者、時には山神そのものと考えられた。
時代が下れば神性は堕ち、神も妖怪に落とされる。いつしか山神であった猿は、“ヒヒ”、”サトリ“などの妖怪となった。
故に猿が怪異を引き起こす、というのは決して荒唐無稽ではなく、寧ろ彼等は獣の中でも高純度の怪異を内包する存在だ。
ただ猿の持つ性質は、本来夜や夢といったものとはかけ離れている。
日の出になれば騒ぎ出す猿は太陽と深い関係を持つと考えられ、猿は山の使者である同時に日神(太陽神)の使者だった。
そしてニホンザルの古い表記は“真猿”であり、“真猿”は“勝る”や“魔去る”に通ずることから、猿は退魔の象徴でもあった。
更に言うならば、神という漢字は『申(さる)に示す』である。
申は陰陽五行説において『金』に相当する干支であり、金は仏身を表す。
このことから、神は人の前に姿を現す時、猿の姿を持って示現すると考えられた。釈迦が神──『山王権現』と呼ばれる存在だ。
即ち古代日本において猿は魔を払い、夜の終わりを告げる太陽の神だったのだ。
では、猿の怪異でありながら夜の象徴たる夢と結び付く猿夢は物語として間違っているのだろうか。
実はそういう訳でもない。
夜・夢といった要素と結び付く猿も日本には存在している。
といってもその猿は日本特有のものではなく、ルーツを辿れば古代オリエントにまで遡ることが出来る。
それは一般にも広く知れ渡っている猿。誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。
『見ざる・聞かざる・言わざる』
いわゆる“三猿”である。
三猿は先程挙げた『退魔の象徴』であり、同時に夢……というよりも夜と睡眠に関係の深い猿である。
何故ならば、三猿は“庚申信仰”と強い結びつきを持つからだ。
庚申信仰とは中国道教における“三尸説”を根幹に、多種多様な思想・民間信仰・習俗が合わさった複合信仰である。
その中でも有名な考えが、“庚申待ち”であろう。
道教では人間の体内には三尸と呼ばれる三匹の虫がいるという。
そして六十日に一度の庚申の日に眠ると、三尸が体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされている。
しかし宿主が起きていると三匹の虫は体の外に出ることが出来ない為、庚申の夜は眠らずにすごすようになった。
これが庚申待ちである。
三尸説は日本に入って来た時、先程も少し触れた山王権現と結び付いた。
その結果、庚申信仰における主祭神は青面金剛となった。
青面金剛は三尸を抑える神であり、彼が使役する猿こそが三猿。
つまり三尸が天帝に人間の悪事を報告しようとすることを、「見ざる・聞かざる・言わざる」させるのがこの神の役割である。
もう一つ重要な点は、この神はそもそも疫病を蔓延させる悪鬼だということだ。
青面金剛は疫病神としての側面を持ち、そのことから三猿=三尸とする説もある。
だから三尸は彼の神がいると、何も見えなくなり、何も聞こえなくなり、何も言えなくなり、天帝への報告も出来なくなるという。
(ちなみに神道に置いては庚申における主祭神は猿田彦、ここでも猿である)
と、ここまで長々と語ったが、庚申信仰における重要な点を箇条書きにしていこう。
一つ。『特定の日に眠ると寿命が縮まる』
二つ。『六十日後、同じように眠ると寿命縮まる日が来る。(続きがある)』
三つ。『庚申信仰における主祭神は青面金剛、或いは猿田彦。どちらにしても猿に深いかかわりを持つ神である』
四つ。『庚申信仰における三尸は、日本に入ることで山王権現(猿神)と結び付き、三猿と近しい存在になった』
即ち庚申信仰の根本は、『眠ると死に近づく虫と、それを防ぐ猿』の構図。
そして一説によれば三尸と三猿は同一の存在。
ここまで言えばもうお分かりだろう。
庚申は『眠ると死に至る猿の夢』。
即ち猿夢とは、守庚申の亜種だと言える。
つまり物語が伝えるのは庚申信仰と同じく『因果応報』。
悪いことをすれば悪いことが返ってくるということ。
例えば、見るな・聞くなのタブーを破るなど、してはいけないことをすると猿夢に殺される。
事実、猿夢はそれを知るものの所にのみ訪れる。
「聞くなのタブー」を破った罰として、彼の夢は人を殺す。
あらゆる怪異における共通のルール。
結局は、清廉潔白な人間こそが最後には命を繋ぐのだ。
ここでもう一つの疑問。
猿夢の猿が庚申信仰における猿ならば、そいつは「喋ることが出来ない」ということになる。
ならば、アナウンスを流しているのは一体誰だろうか?
◆
「うーん、分からん」
夏樹は図書室で怖い話系の本を読んだりネットを調べて見たりと猿夢について調べてみた。
なかなか興味深い考察は見つかったが、どうにも決め手にかける。思い悩んでいると、隣で図書室に置いてるマンガNo.1「はだしのゲン」を呼んでいた久美子が不思議そうに問うた。
「さっきからなにに調べてるの?」
「いやー、俺昨日、猿夢見ちゃってさ」
「……なっきってさ、絶対呪われてるよね。八尺様の時といい」
それを言うならくねくねもだ、とは勿論言わない。くねくねは原因不明の怪談のままでいい。それくらい、久美子と過ごす毎日には楽しかった。
「そう言うなって。とにかく、分からないんだよ」
紐解くには庚申信仰だけでは足らない。猿夢は庚申信仰における三猿と、あと一つ何かが複合して造られた怪奇譚なのだ。だがそのあと一つが分からない。
「やっぱりアナウンスが引っ掛かるんだよな。あと最後のやつ、なんだっけ」
「最後のやつ?」
「いや、夢の最後でさ。長き夜の、目が覚めるとか船がどうとか、そういう短歌っぽいのを言ってたんだよ」
「ああ、“長き夜の 遠の睡りの 皆目醒め 波乗り船の 音の良きかな”?」
断片的な情報だけで久美子は見事に正解を言い当ててしまった。正直驚きである。
「みこ、凄いな! ていうかよく分かったな」
「なっき。これ、昨日の現国でやったよ? 回文になる短歌とか俳句。草の名は、知らず珍し花の咲く、とか。……もしかして、聞いてなかった?」
爆睡していました、とは言えなかった。
つつ、と目を逸らしながら完全な棒読みで夏樹は答える。
「……いやー、やっぱみこはすごいなー」
「目、逸らさない。今度私と一緒に勉強ね。というかなっきて頭いいくせに勉強下手だよね」
「そもそもあんま興味ないですし……あーあ、やぶ蛇だったか」
「猿の話じゃなかった?」
まさか命の危険が差し迫っているというのに勉強まで伸し掛かってくるとは。
変なところで打ちのめされた夏樹は、気を取り直して怪異の方に意識を向ける。
「で、それってどういう意味?」
「えーっと、待って。確かノートに……ああ、あった。進みゆく船は心地良く波音を立てるので、過ぎ去る刻の数えを忘れてしまい、ふっと“朝はいつ訪れるのだろう”と想うほど夜の長さを感じた……だって」
久美子の解説に、夏樹は少しだけ戸惑う。
確かに「朝はいつ訪れるのだろう」とは思ったが、心地好いとは欠片も思わなかった。なんというか、猿夢のアナウンスは非常に皮肉屋だった。
「あれ? でも猿夢の話に和歌なんて出て来たっけ?」
「ネットで調べたのではなかった筈なんだよな。うーん、何だったんだろうか」
和歌と猿夢。思い悩んでも答えは出てこない。
さて、どうするかと考えていると、図書室のカウンターにいる図書委員が、何冊かの本を片付けているのが見えた。
「ごめん、みこ。ちょっと離れる」
「ん?」
久美子の返答を聞かず、一直線にカウンターへ。
図書委員の女の子が片付けていた本に目を付けた夏樹は、同時に行動していた。
断っておくが、夏樹は頭が悪い訳ではない。学校の勉強に興味が無い為授業はよく寝ていたりしているが成績は上の下くらいはある。本を読むのは好きだし、考察や推測など頭を使うこと自体を楽しめる人種だ。
それはそれとして、三つ子の魂百までともいう。
子供の頃の性質というのは成長しても然程変わらない。つまるところ藤堂夏樹は頭が悪い訳ではないが、今もって基本的に好奇心旺盛で、我慢の利かない馬鹿だった。
「なあなあ図書委員さん!」
それ故に行動的で、判断が早いというのは彼の長所だろう。
読書や考察などが嫌いでない割りに、思慮が足りないのは短所だが。
「ひっ」
思わず大きな声で図書委員に話しかけると、怯えたように身を竦ませた。
見た目も眼鏡が似合う文学少女、何処となく気弱な印象だ。いきなり見ず知らずの男に声を掛けられて、かなり戸惑い視線をあちらこちらに泳がせていた。
しまった、興奮しすぎた。すぐさま謝ろうとして、しかしそれよりも早く後頭部が誰かに抑え付けられた。
「もう、ごめんなさいねー。うちの子が」
いつの間にか隣にいた久美子が、無理矢理頭を下げさせていたのである。謝ろうとしていたのだから、無理矢理って程でもないが。
「なっき、女の子は繊細なんだから。そんな怖い顔で迫らない!」
「いや、迫ったっていうか。ちゃんと謝ろうと思ってたし」
「言い訳しない。本当にごめんね、うちの子が」
「うちの子連呼すんなちくしょー」
夏樹と久美子のやり取りに怯えが少し取れたのか、カウンター越しに委員の女の子は少しだけ穏やかな顔を作った。
その表情を見て安堵した夏樹は、ようやく目的のものに手を伸ばす。
「悪い、これ借りたいんだけど」
それは図書委員が片付けようとしていた本の一冊だった。
表紙には猿の絵、本の題名は「猿でも分かる短歌」。いや、短歌で猿とはなんともタイムリーなタイトルである。
「あ、はい……」
「おー、ありがとう」
か細い声で、やはり気弱そうな女の子だったが、慣れているのか仕事はえらく早い。淀みなく手続きを終わらせ、直ぐに本を渡してくれた。
それを笑顔で受け取り、ぱらぱらとページをめくりながら久美子と一緒に図書室を出る。
「で、それ何かの役に立ちそう?」
「わかんねー。だけど、和歌をかじれば猿夢とコミュニケーションとれるかもしんないだろ?」
「うわぁ、猿夢と会話しようとか……」
何故かすごく呆れた顔をされてしまったが、夏樹はとても満足していた。
別に何か解決策が浮かんだ訳ではないが、幾分心は軽くなっていた。
◆
「次はひき肉、ひき肉です」
また夢の時間が来た。
夢は昨日の続きから始まる。そしてつんざく悲鳴も昨日と同じように。
この夢の中で殺されれば、そこで終わる。後ろにはあと三人、着実に順番は近付いてきている。
何かアクションを起こさねば、確実に藤堂夏樹は死ぬ。
「なあ、あんた誰?」
だから彼は動いた。
選んだアクションは「会話」。夏樹が命を繋ぐための条件は、“自分の番”が回ってくるまでに猿夢を、正確に言えば死のトリガーとなるアナウンスを説き伏せることだ。
「俺、猿夢に付いて調べたんだけどさ。話の構成を見るに、猿とアナウンスは別の存在なんだよな。猿夢の猿は、喋れない筈なんだから。なあ、この夢ってなんなんだ? それであんたは?」
アナウンスが止まった。最後尾は“ひき肉”にされたが、次の駅はまだ訪れない。まずは上々の滑り出しだろう。
「……寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔」
返ってきたのは答えではなく和歌。昨日までなら疑問符を浮かべるだけで終わったが、今日は違った。さっそく寝る前に読んだ本が役に立つ。
「近寄って見れば誰だかわかるでしょう。夕暮れにぼんやりと見た夕顔の花じゃ誰だかわからないでしょうし……。源氏物語だな」
何とも雅やかだ。
猿夢はこう言っている。近くに寄って見なければ、誰かとはわかりませんよ。私の正体を知りたいなら、お会いしましょう。
死に至る夢にいながら、夏樹はくすりと笑った。猿夢はまるで恋の駆け引きに誘っているようだ。
「じゃあ、会いたいって言ったら会ってくれるのか?」
「春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなくたたむ 名こそ惜しけれ」
「おい待てやこら」
思わず言葉が荒くなる。
これは百人一首にもある歌だ。内容は「でも友達に噂されたら恥ずかしいし……」というようなものである。誘っといてそれはあんまりだろう。
「次は、引き伸ばし。引き伸ばし、です」
やっちまった。選択肢のミスで順番が進んでしまった。
プレスのような機械に掛けられ、最後尾の男が血を撒き散らし“引き伸ばされた”。これであと二人。
もっと慎重にすすめないといけない。性急に進められるのは好きじゃないようだ。
和歌で返してくるということは名前を直接聞くといった方法も意味がない。なら、次の一手はこれだ。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今一度の 逢ふ事もがな、ってのはどうだ?」
私は間もなく死んでしまうのですが、あの世に於ける思い出として、せめてもう一度逢ってほしいものです。
今一度も何も、まだ一度も会っていない。しかし死に往く者が会いたいと願う短歌だ。今のシチュエーションにはぴったりだろう。
「のちにまたあひ見むことを思はなむ この世の夢に心まどはで」
「うおお、そう来るか」
やばい返歌が来た。
この世の夢には惑わされず、あの世でまた会うことを願っています。
つまり死ねってか。一緒に死んだら会ってあげるってか。しかも猿夢にかけて夢の短歌で返してくる辺り、相手の方が一枚上手だ。
夏樹は引き攣った表情になった。だが、相手の反応自体はいい。短歌で攻めるのは悪くないようだ。
「な、なら! 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ!」
私の身は姿を見せてくれないあなたに焦がれているのです、と夏樹が言う。
「うぅ……よ語りに人や伝へん たぐひなく憂き身を 醒めぬ夢になしても」
またかよ畜生!?
アナウンスは返す。夢に消え去るとしても、噂になったら恥ずかしい。
どんだけシャイなんだよ怪異。夏樹は思わず突っ込んだ。いや、でも反応はある。このまま積極的に攻めれば、或いは。
「つ、次は……串刺し、串刺し、です!」
そしてまたミスってしまった。最後尾の女性はその身を貫かれ死に絶える。ふわりと漂う血の香り。あと一人。次の次には夏樹の番だ。
迫り来る死を前に鼓動が脈打つ。
落ち着け。会話自体は好感触だ。後はがっつかずに自然な流れで相手の正体を知るか、この電車を止めさせるか。
「大丈夫だ」と夏樹は自分に言い聞かせ、思考を働かせる。
まずこのアナウンスは、自分から恋の和歌を使って誘うような仕草を見せた。
しかしこちらが攻めると躱すのではなく恥ずかしがる。おそらく相手は女性、恋愛経験はあまりない夢見がちな少女だ。いや、ネカマという可能性も否定はできないが。
ともかく相手が少女と仮定して、夏樹は次の一手を打つ。
「まずは……風かよふ寝ざめの袖の花の香に かをるまくらの春の夜の夢」
風が運んできたのは花の香なのか、それとも夢の中のあの人の香なのか、私はいったい目覚めているのか、夢の中にいるのか。
漂う彼女の香りが血の匂いでは些か物騒ではあるが、と夏樹は微かに笑ってみせた。
そして更に短歌を続けて見せる。
「そんで、寝られぬをしひて我が寝る春の夜の 夢をうつつになすよしもがな!」
春の夜の夢を現実にする術はないものか。
春の夜の夢で揃えてみた。直接会いたいと謳うのではなく、この夢の逢瀬が現実でも在ればいいと夏樹は言う。
さて、どうでる? 待ち構えていると、数瞬の間を置いてから声が聞こえてきた。
「照りもせずくもりもはてぬ春の夜の おぼろ月夜にしくものぞなき」
春の夜の、明々と照っているのでもなく、曇っているのでもなく、おぼろな月にまさるものはない。
そしてアナウンスは何処か寂しげに告げた。
「……ながむれば山よりいでてゆく月も 世にすみわびて山にこそ入れ」
山から出た月もこの世にすみ侘びて山に帰ってゆく 私もそうなるのでしょう。
夏樹が「春の夜の夢を現実にする術はないものか」と詠んだのに対し、アナウンスは二つの短歌を合わせ「春の夜に映えた月は美しいが、世に住み詫びて月は山に帰る」と返した。
つまり彼女は夢が現実に為ったら、あなたはがっかりすると言っているのだ。
これで確信が持てた。この猿夢には庚申信仰における因果応報だけではなく、別のなにか、おそらくは現実に存在する意思が介在している。
そしてそれは多分、どこか自分に自信を持てない、そういう女の人だ。
「次は吊し上げ、吊し上げ、です」
真後ろの男が首をつって死に、これで次は夏樹の番。もうすぐ、自分は死ぬ。
おそらく次の言葉が最後。此処で選択肢を間違えれば、そこでアウトだ。
ならばどうするか。思い悩んでいると、アナウンスから再度声が聞こえてきた。
「活造り。串刺し、ひき肉。あなたの最後は、どうしますか?」
短歌以外の問いかけ。
遊びは終わりということか、それとも別の意図があるのか。
どちらにせよ次で決まる。
夏樹は少し俯き、しかしすぐさま顔を上げ、不敵に笑ってこう答えた。
「恋ひ死ねとするわざならし むばたまの夜はすがらに夢に見えつつ。……焦がれ死に、なんてどうだろう?」
あなたが一晩中夢に出てくるのに会えないなんて、焦がれ死にしろというのか。
呆気にとられたのか、二の句を告げられなくなるアナウンス。
その隙に最後の歌を彼女へ贈る。
「あとは、そうだな。うつつには 逢ふよしもなし ぬばたまの 夜の夢にを 継ぎて見えこそ、ってとこか」
さて、彼女はどう返してくれるだろうか。
短歌で命のやり取りをするなんて初めての経験だった。中々楽しかったし、結果がどうなっても満足だ。
だから夏樹は穏やかな気持ちで彼女の答えを待ち────
────そこで、目を覚ました。
◆
それから、猿夢を見ることはなくなった。
アナウンスの彼女が最後の歌に何を思ったのかは分からない。しかし何も起こらなかった、ということは結局彼女の興味は引けなかったのだろう。
それが何となく残念だったが、とにかく命は助かった。結果だけ見れば喜ばしいことではあった。
そうして数日経ち、必要のなくなった「猿でも分かる短歌」を返す為夏樹は図書館に訪れた。
今は調べ物もない。一直線にカウンターへ向かい、図書委員に本を差し出す。見れば借りた時と同じ委員だった。
「……あの、間違ってます」
か細い声で、少女は言った。
「え?」
声を掛けられたことが意外で、夏樹は目を見開いた。
改めて見ると、彼女の顔には覚えがある。というか同じクラスの女の子だと今更ながらに気付いた。
確か名前は、金城奈緒(かねしろ・なお)、だったか。
同じクラスといっても話したことは殆どない。教室でも一人で本ばかり読んでいる、眼鏡をかけた長い黒髪の、物静かな女の子だ。
「あれ、もしかして返却の仕方違った?」
「あ、いえ。あの…そうじゃなくて……」
彼女はもじもじと躊躇いがちに、頬を染めながら、それでも言葉を絞り出す。
「恋ひ死ねとするわざならし むばたまの夜はすがらに夢に見えつつ……この歌は、現実ではほとんど会えないのに、夢で逢うから焦がれて死ぬんです。だから、間違ってます」
“あの時”はあなたとはまだ会っていないのだから、あのタイミングで“焦がれ死に”なんて使うのは間違っていると彼女は言う。
つまり、そういうこと。
彼女が、猿夢のアナウンスだ。
「……夢のこと、覚えてる?」
「はい、少しは。死んでいく人たちの死に方を伝える役目を夢で与えられて。抜け出せなくて、口だけが勝手に動いて。……でも、藤堂君が助けてくれました」
彼女もまた猿夢に囚われていたのか。
やはりアナウンスと猿夢は別の存在だった。
「何にもしてないと思うんだけどなぁ」
「そんなこと…ないです……。私に、気付いてくれました」
たおやかに少女は笑う。
その笑顔が本当に穏やかだったから、その分くらいは誇ってもいいような気がした。
ところで、倩女離魂(せいじょりこん)という物語をご存じだろうか。
倩女という娘には王宙という従妹がいた。
二人はいつしか恋仲となり、しかし倩女の父親は資産家の青年に娘を嫁がせることにしたのである。
倩女と王宙は結婚させてくださいと頼むが父親は取り合わない。結局倩女は資産家の青年と結婚することになった。
彼女が他の男と結婚する様など見たくないと、王宙は住んでいた土地を去ることにした。
誰にも告げずに家を出て、船に乗って故郷を離れた。
しかし船に乗ろうとすると聞き慣れた声がした。振り返れば、そこには倩女がいた。 彼女は「わたしも一緒に連れて行って・・・・・・」と願う
それは王宙も望んでいたことだ。二人は自然と手を取り合い、駆け落ちを選んだ。
五年の月日が流れた。
幸せな日々を過ごす二人は、けれど何処か後ろめたさもあった。だから二人は話し合って、故郷に帰って両親に謝罪することにした。
二人は子どもを連れて船に乗り、故郷に着いた。
まず最初に、王宙だけが倩女の家に行き、両親に謝罪することにした。
王宙が駆け落ちのことを謝ると倩女の両親は、「そんな馬鹿げたことがあるはずがない」と驚いた。
意味が分からず聞き返せば、王宙が故郷を離れたあと、倩女はまるで魂が抜けたようになって、じっと家で寝ているのだという。
そんな馬鹿な。王宙は倩女を迎えに行った。
すると、それまでずっと家で寝ていた倩女が起き上がり、船から来た倩女をにっこりと笑って迎え、二人の倩女が合わさって合体して一人になったそうだ。
これが倩女離魂。
魂が体から離れ、愛しい人の元へと辿り着いた物語である。
この話は中国のものだが、体から魂が抜けだす話は世界各国に多く残されている。
日本においては生霊信仰がそれに相当する。江戸時代には体から生霊が抜け出し歩きまわることは病気の一種、いわゆる『離魂病』として認知されており、かつて夢とは生霊が遊び歩いている間に見ている光景と解釈されていた。
そして生霊が歩き回ることを「あくがる」と言い、「憧れる」という言葉の由来とされている。
「憧れる」は、古くは「あくがらす」。あたかも体から霊だけが抜け出して意中の人のもとへ行ったかのように、想いを寄せるあまり心ここにあらずといった状態を「憧らす」と呼んだ。
つまり想う心は体を抜け出し、心を注ぐ彼の人の元へと辿り着く。
あなたが見ていた夢で逢った誰かは、いつか現実で出会う人だ。
それが猿夢の最後のピース。
庚申信仰と生霊信仰の複合系。
因果応報によって死に至り、死の訪れを生霊が告げる怪異譚。
誰かの想いをトリガーに引き起こされる、想う人・想われる人で共有する死の悪夢。
だから猿夢を打破する方法は簡単だ。
猿夢のアナウンスを”口説き落とす”。
そうすれば、死は決して訪れない。
「成程、“夢の中夢もうつつも夢ならば、覚めなば夢もうつつとしれ”ってことか」
夢の中では、夢を見ている人にとっては夢こそが現実。
ならば夢から覚めても、見ていた夢は現実と変わらない。
『続後拾遺和歌集』にある覚鑁上人(かくばん しょうにん)の作だ。
昔から論じられていることではあるが、夢と現実の境など曖昧なものだ。
だから夢で出会った怪異と現実で再会するなんてこともあるだろう。
夏樹にとって幸運だったのは、怪異の正体が淑やかな少女だったことだ。
「というか、金城さん。もしかして俺のこと」
「え、あの、そうじゃ…なくて……」
生霊となった彼女が猿夢として夏樹の夢に現れたのはもしかして。
そんな期待を持って彼女を見れば、何のことはない第一声で否定されてしまった。
けれど金城奈緒はほっこりとした暖かい声で言葉を続ける。
「でも、藤堂君のことは…時々見てました……。私、図書室によくいますから。本を読んでるけど元気で、ちょっと変なとこもあるけど楽しくて。憧れ、てたのかもしれません」
“恋する相手”ではなく“こういう人”になりたいという意味で。
引っ込み思案で一人で本ばかり読んでいた彼女にとっては、同じ本好きだけど友達と馬鹿をやれる夏樹は憧れだったのかもしれない。
……もっとも夏樹が図書室で本を読んでいた理由は、好き以上に八尺様とかくねくねとか割合のっぴきならない状況のせいだったりするのだが。
「なんか、照れるな。じゃあ……俺は、藤堂夏樹。よろしくな」
いきなりの自己紹介に、奈緒は不思議そうに小首を傾げた。
その仕種がやけに可愛らしくて。にやりと夏樹は笑った。
「名前教えてくれよ。今度夢で逢えたなら、しっかりと君の名前を呼びたいんだ」
そう言って、赤く染まる顔こそが見物だった。
これで猿夢の話はおしまい。
猿夢の中で会った生霊は、少しばかり照れ屋な女の子だった。
猿夢が消えた訳ではない。日々の悪行は変わらず彼の中に在る。それでも彼女が居たからこそ猿夢が引き起こされたならば、今後夏樹が猿夢を見ることはないだろう。
血生臭い出会いではあったが、そんなに悪いものでもなかった。
付け加えるのならば、夢における死という結果は悪いものとも限らない。
夢は常に寓意を孕んでいる。
そして夢における死は「願いの成就の象徴」である。だとすれば、猿夢で死んだ者達は、案外現実世界で誰かと結ばれているのかもしれない。
そう思えば猿夢もそんなに怖いものではない。
この二人がどうなるかは、誰にも分からないことだけど。
ちなみに猿の異称を“ましら”と言い、これは獣の中でも和歌によく詠まれる言葉である。
洋の東西を問わず山は神聖な場所であり、詩人にとっては詩的な霊感を与えてくれる場所だった。ならばこそ山神と同一視された“ましら”───猿は、和歌と切っても切れない関係にあった。
「でさ、まだ答え聞いてないんだけど」
「うぅ…えう?」
顔を真っ赤にして照れ続ける少女。
まだ混乱から立ち直れていない奈緒に夏樹は言った。
「だから、“うつつには 逢ふよしもなし ぬばたまの 夜の夢にを 継ぎて見えこそ”」
夢の終わりに彼女へと送った短歌。
現実には会うこともないだろう。ならばせめて、私の夢に毎夜出て来てはくれないか。
猿夢の続きを望む無謀な言葉。彼女はこれにどう返してくれるのだろう。
「ゆ、“夢路には足もやすめず通へども うつつに一目見しごとはあらず”……です」
なるほど、そうくるか。
今度は夏樹が顔を真っ赤にする番だった。
おまけ 猿夢と仮面。
今回は猿夢、三猿と悪夢の関連性、そしてその打破がのお話のキモですが、実はこの題材を十年以上前に取り扱ったものがあります。
そう、「女神異聞録ペルソナ」です。
初代ペルソナの主人公の初期専用ペルソナは『セイメンコンゴウ』。これは今回のお話でも触れた「青面金剛」のことです。
そして初代のペルソナのセベク編は「少女の悪夢に取り込まれた主人公たちが、現実へと帰還する物語」です
主題自体が悪夢の打破であり、その主人公がセイメンコンゴウなのは非常に面白い。
青面金剛は死に至る夢を抑える神であり、悪夢を相手取るには相応しい存在と言えるでしょう。
そして更に言えば主人公の後期ペルソナはヴィシュヌ。
ヴィシュヌは青面金剛のルーツでもあり、同時に太陽神としての特性を持ちます。
ヒンドゥー教における釈迦はヴィシュヌのアヴァターラとする説があります。とくれば本編中でも軽く触れましたが、釈迦が神───山王権現、つまり猿神が関わってきます。まあヴィシュヌはいろんなものを取り込む神なのでそこまで言及していくと何でも言えてしまいますが。
それはそれとしてヴィシュヌは太陽神であり、目覚めを意味する神です。
死に至る夢を抑える神から最終的に目覚めを意味する神に変化することは寓意的で、流石アトラスと言わざるを得ません。
アトラスは猿夢が流布される以前から、死に至る夢を打破していました。
つまり猿夢に対抗するTは寺生まれのTさんより藤堂尚也ってことです。
気になった方は中古でプレイしてみてはいかがでしょうか。
ステマ終了。