地田豊房。
彼らの中では言わずと知れた、流天組の副頭目。
常に温和で個性の強い組の内にて調停役を買って出ることが多かった。
環自身、下っ端時代にこの男にだけは蔑視された記憶がないし、この旅の中でも、大州や魁組の力量を素直に認めていたこともある。
中立的で、仲間意識が強く、自身は常識人ではあるが、環や舞鶴の突飛な言動に対しても理解のある人物。
それが、彼の姿をしたその男が、真の謀反人だった。
「ちょ、ちょっと待って、くださいよ! 地田綱房って言えば」
「あぁ」
始の声に、環はアゴを上下させた。
「『順門崩れ』の十年後に、病死している。公にはな。当時幼かった豊房は、父の早逝を哀れに思った父宗流に、近臣として召し抱えられた」
だが、その元禁軍の大将は死んでなどいなかった。地下に潜伏していた。
そして宗善とひそかに連絡をとりつつ、順門府内で反宗流体制の動きを扇動した。
元々暴君の下で酷使されていた諸将だ。それに宗善のお墨付きという正当性があれば、説き伏せるのは容易かっただろう。
朝廷ともつながりがあったに違いない。
でなければここまで早期に、叔父の順門府公就任の印可は下りなかっただろう。
「大州、覚えてるか? 俺が出会ったはじめ、お前に何を与えたか?」
「銭だろ。公基銭」
朝廷が流通せしめている公的な硬貨、それが公基銭。
と、そこでこの受取人は「あぁ」とちいさな声を漏らした。
「なんでそんなものが逆賊の順門府にある? 佐咲らが持っていた? あの時点じゃ、まだ順門府内の内紛でしかなかったはずだろ」
すでにその時点で、環は朝廷の暗躍を悟った。
と、同時に朝廷をつなぎをつけられる人物に疑念を持った。
海運でもって各勢力につながる幡豆家をはじめとした盤龍神宮、商家。そして元朝廷の家柄。海賊の残党。
だから誰が敵で誰が味方か判別がつかなかったあの当時は、極力それを見せたくなかった。
そこまでじっと聞いていた豊房は、穏やかな目をしていた。
「あぁ」と天を仰ぐ。
やや厚みの欠けた唇からは、常に一般論や常識を聞かされてきた。仲間を気遣う言葉、「俺たちは仲間だ」と、臆面もなく聞いたこともある。
それと同じ口から彼は、
「もう少し、早く殺しておけば良かったよ」
平然と、そんな言葉を吐き出した。
「もう、止めよう。地田さん」
長く続く痛ましい沈黙を、色市始が破った。
「これまでずっと一緒にやってきたじゃないか!? だからっ」
だが、始のすがるような説得に対する豊房の返答は、
「黙れ文弱の徒が」
一転し、ぞっと底冷えするような、十年近い付き合いの中で、今まで見たこともない顔だった。
「貴様を仲間に引き入れたのは、失敗だった。まさかここまで足を引っ張ってくれるとはな……っ」
おおよそ仲間に対するものではない罵声を浴びせると、他の者は皆一様に顔をしかめた。豊房はせせら笑うように彼ら一人一人の顔を見回した。
「物心ついた頃から、朝廷を敬え、逆賊順門を憎めと父から呪詛の如く教えられてきた。その首魁や息子の面倒を忠臣面で見守り、監視させられた。……言っておくがな。私は最初からお前らのことがヘドが出るほど嫌いだったよ。薄汚い逆賊の糞虫どもが」
「地田ァッ!」
環は吠えた。
己だけを罵るのであればまだ耐えられた。だが地田豊房は、彼が付き合ってきた友人たちをも否定した。
その認識が、環の感情を増幅させて突き動かした。
それを自覚した瞬間、環は冷静になるように努めた。
自分の心をなだめ、呼吸を整える。
「始の言うとおり、もう終わりだ。お前の正体は露見した。銀夜は実氏殿の増援さえ知らない」
「そうだな」
と、この状況に対してだけは、環と豊房の見解が一致していた。
……表面上、だけは。
「だから、もう銀夜姫の雪辱など関係ない。環、お前は王朝のために、今ここで死ね」
豊房はそう言って右手を挙げた。
彼ら五人の樹上から、十数人の男たちが音もなく地上に降り立ち、刀を手に環たちに襲いかかる。
瞬く間に数人単位に分かれると、その攻めを遮ろうとする由基、良吉、大州、始らを取り囲む。
いや、色市はすぐにへたれて背を丸めてしまったから、彼の受け持ち分を他の三人が背負うことになった。
自然、環と豊房を繋ぐ一本の道が出来上がった。ためらわず漆黒の刺客はその第一歩を踏み出した。
「死ねぇ!」
豊房の剣は鋭く、その気炎は激しかった。
戯れに剣術ごっこやケンカでしていた棒振りとはまるで別。殺人の剣。
常人の二歩の距離を半歩で越えて、大上段に刀を振り上げた。
環は唇を噛みしめる。
逃げることは念頭にない。背を向けることこそ死を意味することだと知っていた。
彼の腰には守刀はとうにない。そんなものはとうに大渡瀬で二束三文で買い叩かれた。
そんな因果がめぐりにめぐって、悪友であったはずの男の凶刃を、徒手空拳にて迎えうたなくてはならなかった。
二人の影が重なった。
環の帽子が、散った葉の褥に落ちた。
肉の音がする。
口の中に血が溢れ、鉄の味が満たした。
身体が熱い。
ぶつかってきた豊房の身体が重かった。二人の間で弾けた血潮が、頬にかかって燃えるようだった。
遅れて、由基の環を呼ぶ声が聞こえた。どこか遠く感じた。
――自分を守る武技ぐらい、教わっている。荒事にだって慣れている。
だが、それがなんだというのだろう?
無力さを痛感する。
人より殺しの術が二手三手長けているというだけで。
人より二人三人多く殺せるというだけで。
――旧友を、一人殺めるというだけで。
なんの意味もなかった。
左手の鎌が、豊房の長刀に食い込む非音曲的な残響が、耳にこびりついたままだ。
――臓腑に達した。もう助からない。
腹に突き立てたの逆の鎌から、豊房の絶望と無念が伝わってきた。
「双鎌術……『蟹鋏』……っ。……ふん、とんと、忘れていたな。まだ持っていたのか、そんなもの」
「忘れたと言いながら、こいつらが目に入った一瞬、あんたの太刀筋は鈍った」
かつて流天組の下っ端として、格好をつけて振り回していたもの。
それで皆の苦笑や嘲笑を買いながらも、それでも満ち足りていた青春。
もう戻れないあの時代にあって、目の前の男も、笑ってくれていた。
その関係が遠からず破綻することを知りながら、なお。
そしてその一瞬生じるであろう隙に、自分は活路を見出したのだ。
悪く言えば、相手の感傷につけ込んだ。
呆れるほどに身勝手かつ好意的な解釈をすれば……信じていた。
地田豊房にとって、流天組で過ごした日々は、憎悪と嫌悪の対象であったのかもしれない。
それでも、そこは彼の居場所ではあったのだと。
「舐めるな。クソガキ」
次第に力を失いつつある声音を、豊房は振り絞る。
「この私にも、秘したままに冥府へ持って行きたいものが、ある。何もかも貴様の思い通りにされて、たまるか」
――わかっている。わかっているから、もう何も言うな。
彼ら凶器は、主の脱力に伴って互いに絡み合い、もつれ合ってこぼれ落ちた。
諸々に言葉に尽くせない思いと共に、鐘山環は友を抱きしめた。
鮮血に濡れたその背に回した指の震えを、豊房は嗤う。
「呆れるほど、業腹な男だ。死に行く者さえも……籠絡する気か、貴様」
「……それが俺の選んだことだ」
――相手がどう受け取ろうと、どんな謀略を生もうと関係ない。それで、俺が俺の言葉を表せるのなら。
そして今、一身にその思いを受ける豊房は、くつくつと喉を震わせた。
その声が枯れ果てて聞こえなくなるまで、彼は笑い続けた。
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おのれを含めた、この世のすべてをあざ笑うかのような死に顔だった。
だが、環がそのまぶたを下ろしてやると、いつもの地田豊房の微笑があった。
環が彼の身体を横たえさせた時にはもう、周囲でも由基たちが敵の始末をつけた後だった。
勝利ではあったものの、素直に互いの無事を喜べるはずもなかった。
あの亥改大州の悪相でさえ、わずかに歪んでいた。
「地田さん」と震える始の呼び声が、環の心を苛んだ。
複雑な思いを抱いて、遺体をじっと見下ろしながら、
あるいは
と環は思った。
あるいは、この人は俺たちを始末するためではなく、死を覚悟し、清算するために、ここに来たのではなかったのか、と。
表沙汰にできない計画が露見したばかりか、逆用された。銀夜の暗部として、その証を自身もろとも葬る気だったのか。
おのれが朝臣であるという自負が、逆賊の首魁たる環に挑んで倒れるという栄誉と自滅の道を選ばせたのか。
あるいは、もしかしたら、流天組の裏切り者として、彼は処断を望んでいたのだろうか。
自ら進んでその責めを負うことで、共犯者である始に類が及ばないようにしたのではないだろうか?
環は首を振る。
すべては闇の中だった。
真実は、今わの際の言葉どおりに、秘したままに豊房自身が持って行った。
「最期まで、世話かけちゃったな。地田さん」
ポツリともらした環の一言が、止まっていた周囲の時間をも動かした。
「どうする、地田の遺体? 銀夜に引き渡すか? それとも首を切って曝すか?」
大州が示した選択肢は、いずれも、受け入れがたいものだった。あえてそう言って、汚れ役を負った気もするし、環の器量と裁定をあえて試しているようにも思えた。
由基もそれを承知しているだろう。厳しく睨めつけながらも、いつものように激しく食ってかかることはしなかった。
環はそれに対して、はっきり否と表明した。
銀夜は豊房の名どころかその存在さえ知らないかもしれない。
朝心斎こと綱房は、そんな無垢で無知な主に憚って、我が子の死と存在を伏せるかもしれなかった。
どのみち、まっとうな人の弔われ方をされるとは思えなかった。それに彼に死を招き入れた者としての責任が、環にはあった。
「牧島村の寺に。あそこなら、静かに眠ることもできるだろ」
そう言って改めて担ぎあげた豊房の身体は、自らを支える力を失った分、重い。
その重荷を、誰に委ねるまでもなく、環は一人で背負っていた。
「意地っ張りめ」
戦巫女は重なる二人の背へ、吐き捨てるように言った。
「重くなったらお前らに泣きつくさ」
と少年は答えた。
結局彼は、誰に背負わせることなく一人で行った。
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その後、同宗の小寺にて菩提を弔われた彼は、ひっそりとした墓地の下に眠らされた。
その亡骸を持ってきた少年たちの意向によって、彼の頭は南東へと向けられた。
まだ見ぬ都の方角へと。
一度も王都に足を踏み入れることのなかった無名の朝臣の魂が、飛んでいけるように。
自然、足は西へと向けられる。
だがそこには、いつか気が向いたら再びこの地に帰ってこられるようにという、友人たちの祈りが込められていた。