笹ヶ岳。
国外へ脱出した環ら一党の居住の跡を、銀夜麾下の武者たちが見聞していた。
調査が出遅れたのは、彼らの主が長らく不調であったこともあるが、その姫君も本調子とはいかずともいくらかの容色を取り戻し、陣頭に立っていた。
そんな折に、ふらりと一人の武士が立ち寄った。
長めの二本を腰に差し、深編み笠をかぶった男は、残暑にじりじりと照らされている。
「……おい、そこの者」
それを認めた武士の一人が、男に近寄った。
続いてその組下たちが動き、五人がかりで男を取り巻いた。
「この場は今、立ち入りを禁ずるという触れが出ているのを知らぬか」
「笠を解き、姓名を明かされたし」
男は名乗らなかったが、首肯し、笠を解くことには同意した。
それが、己の正体を明らかにする、手っ取り早い方法だと知っていたからだ。
太陽の下、男の張った頬骨が露わになると、武士は息を呑み、ただちにひれ伏し、己の無礼を詫びた。
何がどうなっていることやら、ぽかんと大口を開ける配下を叱り、自分と同じく地に手をつかさせせ。
「お、大殿じゃ! 順門府公、鐘山宗善様、お成りじゃ!」
かつてその小山の城塞を堅守した男が、再び足を踏み入れた瞬間だった。
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その男、鐘山宗善がやって来てから数刻後には、娘の銀夜の指揮の下、見事な営所が出来上がっていた。
砦自体はとうの昔に棄却されていたが、それでもその整然とした陣割りは、当時の面影を思い起こさせる。
と同時に、この砦を上社に奪われて、自身も奸計によって焼き払われそうになった苦い記憶も蘇った。
とは言え、娘の指揮と無駄のない動きには、満足していた。
「病と聞いていたが、急な来訪にも動じず、中々に見事な統率ぶりではないか」
「父上にもご心配をおかけいたしました」
だが、久方ぶりに見た娘の姿は、大きく変じて見えた。
政変の直後の堂々たる威光は薄れ、疲弊した白鳥のような惨めさがあった。
病んでいた直後の様子を知らない宗善であったが、これより酷いとはどれほどのものであったのか、想像がつかない。
「それよりも父上、文にてお知らせするつもりでしたが、近々桃李府の出兵が行われるとのこと」
「汝の読みどおりに、か」
「いえ、本来ならば派閥争いに巻き込まれ、環が討たれることこそ最善でした。 この結果は中の下というところでしょう」
悔しげな本人以上に不満を残していたのが、宗善であった。
――何故、銀夜ともあろう者が勝手な真似を……
周囲には改めて表明したこともなかったが、彼のもっとも嫌う行為は、独断専行である。
結果が自分の企図していたことと一致すれば良い。違っていても、良い成果を生めばまぁ許そう。
だが、勝手に動かれた挙句に自分の足を引っ張られると、激しい怒りに駆られる。
『順門崩れ』の際も、宗善は配下の突出が原因で敵の逆襲を受け、それによって砦を失陥したのだ。
あるいはそれが起因して、独断を憎むようになったのかもしれない。
――寺など、坊主など、宗円の墓など灰燼に帰せば良かったのだ。いや、朝廷のご心証を思えば、そうすべきであった。
つまらぬ体面にこだわって大魚を逃したものだ、と内心で思った。
当事者でしか汲めない事情があるだろうから、あえて口にはしないが。
娘を始め、失敗を失敗として報告しないばかりか、それを繕おうと勝手に動く。
思い出しただけでも、当時の腹立ちがぶり返してきそうだった。
――朝心斎がついていながら、何をしていた?
いや、おそらくはそもそもの発案が朝心斎なのかもしれない。
二十年以上の付き合いでようやくわかったことだが、あの老人と自分の思想には隔たりがある。
朝心斎は秩序や朝廷のために命を賭ければ、それが必ず成果に繋がると考えている。
兄宗流暗殺の件は、彼の息のかかった者の挺身により功を奏したが、生命を対価とした賭けがいつも成功するとは限るまい。
「……父上? 本題に入ってもよろしいですか?」
と娘の声に我に返り、無言で頷く。
銀夜もまた姿勢を改めて整えた。
「近く行われる桃李府との戦、願わくば私に采配を任せていただきたい」
宗善は、しばし沈黙していた。
それを、逡巡と捉えたのだろう。銀夜は膝を擦って近づき、己の理と利を解いた。
「朝心斎の密偵によらば、敵は大軍と言えど率いるのは暗愚な義種。猛将典種は病床。羽黒圭輔は風祭軍の防戦に手一杯。また最も危惧すべき実氏もまた、その援護の準備に忙しく、西進の余裕はないとのこと。一方我ら、未だ桃李府内の調略こそ難航しているものの、すでに朝心斎のツテにて朝廷と連絡を密にし、約定どおり風祭府も動きました。また今年は自領は豊作、動員兵力は二万を超えましょう」
常と変わらぬ、理路整然とした長広舌。
うちかけた薄紫の玉衣は、その受け答えの見事さゆえに下賜されたものであるという。
「……もとより不服などない」
だが、気にかかることはある。
――環の名が出ぬのは、何故か?
朝心斎の策の標的であり、今回の桃李府の大義名分となっている。
確かにその実兵力は微弱であるだろうが、無視をするには無理がある。
当人としては、あえて名を出さぬことで己が歯牙にも掛けていないと表明したかったのだろうが、それがかえって違和感を浮き彫りにしていた。
――いや……考え過ぎか。
優位が揺るがぬのは、事実である。それを信じようとした。
「笹ヶ岳が、そうさせるのやもな」
「は?」
「ここに立つと、『順門崩れ』を思い出す、胸が鳴る」
一瞬怪訝な表情を見せた銀夜だったが、自信と誇りに満ちた笑顔を取り戻した。
居並ぶ精鋭達を背にして、強く頷く。
「承知しております。かつての父上らと同様、この地を侵す者らをたちまち壊滅してご覧に入れましょう」
そう答えた娘に対し、一応の肯定を示しつつ、景色を望見する。
かつて眼下の山野を埋め尽くしていた無数の敵は、官軍であった。
――今この胸の高鳴りは、勝利者たる昂揚ゆえか? あるいは敗北者としての悪寒か? 鐘山家の長としてかつての大勝に思いを馳せるゆえか? 朝臣として大敗の再現を危惧しているのか?
一体、どういう立ち位置で、どういう予感を案じているのか?
この曖昧な感情に対する結論だけは、容易にできるものではなかった。
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「宗善殿」
山を下る際、そう声をかける者がいた。
朝廷より正式に府公として認められた宗善を、そのように呼べる者など順門府内で、あの老人以外にいなかった。
「……何用か? 朝心斎」
振り返ると、老僕に扮した銀夜の近臣は相応の礼を行ってから、口上を述べた。
「この戦に勝利すれば、主上の順門府に対するおぼえもめでたいことでしょう。加えて、国内における宗善殿の方針転換こそ正しかったのだと、未だ去就を決めかねる輩も骨身に染みて理解することでしょう」
取り残されたように、蝉の生き残りがジワジワとか弱く鳴いている。
「……まさか、それだけ言うために呼び止めたのではなかろうな?」
「は、無論それだけではありませぬ」
だがそこから続く言葉も、今さら言うべきほどもない利得や、宗善の決断に対する賛辞であり、まるで中身のない空虚なものだった。
暑さのせいか、頭痛がひどくなる。
だが、それとなく流されるはずだった、
「そして次期府公たる銀夜殿の立ち位置も、より盤石なものに」
という一言が、宗善の意識を確たるものとし、汗を引かせた。
「……誰が」
「は?」
「誰が、そのようなことを明言したっ……?」
「そのようなこと、とは?」
「余は、娘を府公にするとは、言ってはおらぬ」
怒気を孕んだ低声に、老臣の顔は、さっと青白くなった。
己の失言に、ようやく気づいたための、顔色の変化だった。
身を翻して再び下山を始めた宗善を、朝心斎が追った。
「し、しかしこの度の大戦の総大将を任せるということは、そうしたことを示唆すると」
「銀夜めがそう申したのか?」
「言われはしませぬが」
「態度には、出たか」
袴の裾に縋るが如く飛びつく老臣を、彼は振り払った。
そもそも、宗善とて男子がいないわけではない。銀夜には二人の弟が存在している。
いずれも年少で将器としては銀夜に遠く及ばないが、それでも彼らを差し置いて女を武家の当主にすることなどあろうはずがないではないか。
そんなことまでわざわざ声明としなければならないのか?
銀夜を此度の総大将に任命したのは、その才能を買ってのことである。
本来ならば自身で出向きたいところだが、国内は未だ安定したとは言い難い。旗幟を鮮明にしない輩は、十把ひとからげに存在している。本拠板形城を空にするわけにはいかなかった。
不安定な状況下にあるのは、桃李府のみならず自分たちも同様だったのだ。
だと言うのに、目先に囚われ失敗を言いつくろうため無用な出兵を招いた銀夜に、強い嫌悪感を抱いたのは確かだった。
彼女に連なる家臣達にも。
――銀夜や家臣だけではない。この朝心斎も、環も、舞鶴や諸士ことごとく……
これと正しい道がある。
そうすべきだという筋道が、先人たちによって示されている。
だと言うのに、何故誰も彼もそれに従おうとしない?
「答えなど、とうに出ている」
百万石の順門府公の呟きを拾う者はいなかった。
それに是非を問える者も、いなかった。