申の月五日。
農繁期も無事終えた桜尾軍が十分な兵糧を蓄えて西へ出立した。
「順門府公子、鐘山環殿を正式な順門府後継者と認め、それをお送りするべくその叛徒どもを討つ」
そうした題目を背負う軍、一万二千の総大将は、桜尾義種。
彼は馬には乗れず、輿を用いていた。
別にそのことが悪いとは環は思わなかった。古来、馬は操れずとも数万の軍を操った名将などいくらでもいる。
――だが、この女は白馬を好んで用いたという。
件の女を前に、鐘山環は歴史を振り返った。
「あらあら殿! お久しぶりでございます!」
監禁の労苦などおくびにも出さず、もしろその生活を満喫するかのように、勝川舞鶴は従軍中のある早朝、名津に立ち寄った主を出迎えた。
環はひそかに軍を抜けて、わずかな緋鶴党員を護衛にやってきたのだった。
「おぅ。お前も元気そうで。……必要以上に」
「そのおっしゃいようは心外ですが、そうですねぇ。鈴鹿殿もこうして侍女として側に置くこともできましたし、不自由はしておりませんよ」
自らの腰にしがみつくように再会を喜ぶ鈴鹿を、環は苦笑と共に撫でている。
「殿。言うまでもありませんが、この戦は天下分け目の決戦とお心得くださいませ」
「分かっている」
「それと策は既にお伝えしたとおり変更はありませんよ。あとは殿の器量次第」
「それも、分かってる」
そもそもこんなことを店の前で話して無事であること自体が、ここまでの準備が滞りなく行われている証左だった。
だがそれが面白くもないのか、まぁと童女のように口をとがらせ、不老の尼僧はふてくされた。
「それでは、何のためにこのようなところに? ……はっ、まさかたまりに溜まった鬱憤やらなにやらを、この私と鈴鹿殿で解消しようと……!」
「だぁ! 違うわ色ボケッ! だったらもっとマシな相手見繕うわっ!」
途端、女性二人からじっと睨みつけられる。
自分が昼間の往来で公子らしからぬ失言をしたことに気づき、気まずさから目をそらし、鈴鹿を除けた。
「まぁアレだ。なんだかんだ言っても、この策を考えたのはお前自身だ」
「……はて、なにやら話が見えてきませんが」
舞鶴の言葉は正しいと思う。
自分でもなにやら、よく分かっていないうちにここに足を運んでしまったような、そんな気がする。
だが、言わねばならないことまで見失ってはいなかった。
「だから、お前を信じなきゃ先に進めない」
「あれまぁ驚いた。殿は舞鶴のことを信じてなかったのですか?」
「信じてたよ。っていうか、信じざるをえなかった」
彼女が環に手を差し出して以来、その言動に振り回され、策を頼らざるを得ない状況に何度も陥り、そして今もなお自分は彼女の大計の歯車の一つに過ぎない。
「でもお前はさっき言っただろ。ここからは俺の戦いだ。だから、信じるなら盲進じゃなく、俺の確たる意志で命運を託したい。そのための、準備をしてきてな」
環は懐から、一切の本を取り出した。
薄く黄ばんだ表紙には『百年史』と銘打たれている。
王争期の流れを知ることのできる代表的な史書である。
当然そこに書かれていることには、目の前の不老の尼僧の名もあった。
自分も同じ資料で勉強していたはずだった。が、順門府の『百年史』には、舞鶴の名はなかった。特に自分が読む物に対しては、舞鶴の名は意図的に伏せられていたようだ。
「圭馬殿に借りた。他にも、いろいろ。あと、実氏殿からも出陣前に話を聞くことができた。お前がやらかしたことについても、何故俺に仕えたのかも」
舞鶴の顔には、さほど同様はなかった。
架空の人物、架空の宗教で世を支配しようと企んだ悪女は、空とぼけた面持ちで髪を梳き「あらあらあら」とわざとらしく嘆いてみせる。
「舞鶴の恥ずかしい過去まで聞き出して、いったいどうなさりたいので? 字面に人のウワサでは、本当に人の本性が分かると?」
「だが、事実だろ?」
「はい」
なんの臆面もなく、舞鶴は頷いた。
そのことに若干の肩すかしと、その半分ほどの憤りを感じる。
「それでどうでございました? 舞鶴が行いの数々は?」
「ぶっちゃけた話、引いたわ。長生きと言えども、よくもここまでできるもんだと、な」
だが、と。
環はそこで一度言葉を切った。
できるだけ慎重に、一語一語に気を遣いながら、舞鶴に伝える。
これだけを伝えるためだけに、自分はここまで忍んでやってきたのだから。
「だからお前は……人の世に絶望したんだろ」
一瞬、ただの一瞬だった。
彼女の表情から喜怒哀楽すべての表情も、暖かみも冷たさも抜け落ちて、人形のように変じたのは。
それが、刹那的に彼女が見せた素顔であったのかもしれない。
すかさず、語を重ねた。
「お前がいつ、どこの国で生まれ、どういう経緯でここに渡ったのかは知らない。だけど、お前は真実、己の信じる教えを、混沌としたこの世に広め、己のいた遠き国で為しえなかった世を作ろうとしたんだろ」
だが、できなかった。
あるいはその教えに従えば、人々ことごとく救済されたのかもしれない。
魂を救う真理であったのかもしれない。
だが、いずれの王者も、己以外のものによる世の統一を拒んだ。
民は、半ばそこに陶酔しながらも、半ばは信じず目前の食をこそ求めた。
やがて、純粋な気持ちから生じたはずの御仏の教えは、エセ坊主どもに横取りされた。民から搾取して、君主に取り入り、彼らの腹を満たす手段へと成りかわった。
そして彼女も……あるいは自らのこの国に行き着いたことこそ、仏の導きと信じた彼女もまた、人々の浅ましさに絶望して、策謀と軍略を振りかざし、現実的な王朝の完成を求めた。
だがいつまで経っても少女の姿の天才軍師は、さぞ王に嫉まれただろう。同輩にはさぞ、畏怖されたことだろう。当代の名君に愛されても、次代の王にはその存在の大きさを疎まれただろう。
だから彼女は国を転々とした。だから何度も手段を変えた。
だがそうして平和のために尽力すればするほどに戦乱は昏迷を極めた。
血みどろの果てに彼女が得た悟りとは、変化のない人々に対する絶望だった。
舞鶴は目を細めている。
懐かしむように。あるいは、そのまま永遠の眠りについてしまいたいと願うかのように。
その反応を窺いながら、環は肩をすくめた。
「……ま、実際お前がどう考えたかなんて読めるはずがない。ただの当て推量だよ。だが、もし本当にその通りというなら」
環は己の帽子を掴み、むしり取った。
己の素顔で、軍師と対峙した。
「俺はお前を失望させたりしない」
舞鶴の表情はそのままだった。
だが、わずかに息を嚥下する音が聞こえた気がする。
「俺は、お前が手を差し伸べた俺で居続ける。それがあの時、『鐘山環に天下を統べる器量がある』と言い放った、お前を信じるという証になるから」
そこで、言葉は区切れた。
これ以上なにも口にすることはできなかったし、何より、舞鶴の伸ばした両腕が、環の首の裏に回ったからだった。
ポトリ、と。
動揺するあまり、帽子が手からこぼれ落ちた。
「お、おい!」
鈴鹿の手前、慌てふためく環に対し、歳を重ねないその女は、
「嬉しゅう、ございます」
か細い声で、心に染みる甘やかな声音で、告げた。
「嬉しゅうございます。殿。……そのお言葉だけで、舞鶴はあと五百年は生きていけます」
「……まだ生きる気か、お前」
何を意地を張っているのか、鈴鹿までが再び背から環に飛びつき、挟み込まれる。
彼女らの抱擁は、心地よさよりも圧迫感の方が勝った。だが、ふしぎと悪い気はしなかった。
帽子のない環が見上げた空は、いつもより広く見えた。