週の始まり、月曜日。
ライフスタイルも多様化しているとはいえ、この日が週の働き始めになる、という人は多い。
朝食をとる時間も無かったのか、商店街で買ったらしいサンドイッチをバス待ちの時間の中に食べる会社勤めの壮年。
前日が休みだったからと羽目でも外しすぎてしまったのか、アルコールの抜けきらない欠伸を漏らす青年。
会社での休憩時間に皆で食べるつもりなのだろうか、大判焼きを朝から一人では食べきれない程注文する女性。
未だ小学生にも満たない、遊びたそうにうずうずしている子供の手を引きながら、保育園の送迎バス、その待ち合わせの場所に歩いて行く若い母親。
どこか気怠げに始まる、何てことのない週明けの風景。
──そんな風景に、ひどく人の目を引く存在が混ざり合っている。
外国人比率の高い冬木市では色の違う髪を見かけたとしてもそう珍しいものではない。
美しく、そして可愛らしい容姿。それもまた、これほどまでに整っている容姿の持ち主はそう居ないだろうけども、それもまた本質ではない。
それは一度目にしたら目を離せぬようになるような存在。
その身をサーヴァントシステムの枠などというもので括られ、貶められても、なお隠せない、存在としての輝き。
彼女の名は未だ誰にも語られていない。主に対してすらも、申し訳なさをその顔に表しながら、なお主の魔術の腕前ゆえに伏せている。
アルトリア・ペンドラゴン。夜のように暗い日々、と言われた戦乱の時代を駆け抜けた古きブリテンの王。国のために己の、性別、家庭、私心、全てを捨て、その身を捧げた名高き騎士王。
そんな身が穂群原学園の制服を着、通勤通学途中の人の流れに混ざっているとは誰が知ろう。
「……シロウ、どうもその、人の目が」
「あ、ああ。そうだな……」
目立つような服装ではないはずなのですが、と内心で溜息を吐くセイバー。胸の部分がだぶつくブラウスを指で引っ張り、着方の問題でしょうか、などとずれた思いを抱く。
「セイバーさんは綺麗ですし、目立つのは仕方ありませんよ」
衛宮士郎を挟む形で歩いている間桐桜が微笑を含んでそう言うと、セイバーはどこかきょとんとした表情をし、さしたる事でもないと思ったのか、ふむ、と曖昧に返した。
両手に花、多分にあちこちで用いられている言葉だったが、この時の衛宮士郎もまたその状態だった。右手にセイバー、左手に間桐桜。いつもより若干遅い時間に家を出たため、通学路に人の通りは多い。そして人とすれ違うたびに振り向く者がいる。通学時でこれなら、一緒に校門をくぐったらどういう事になってしまうのか──
「うん、やめよう。考えまい」
衛宮士郎は頭を振り、名物生徒会長として有名な友人の真似をして、喝、と雑念を払う。
◇
天ぷらの盛り合わせ、ほろりと角のとれた肉じゃが、刻み葱のソースがかかった鶏の唐揚げ、サラダ仕立てのカツオのたたき、出汁のかかった菜っ葉のおひたし、カボチャの煮物、香の物。
用意されていた料理の量と品数に慎二は呆気にとられていた。
間桐桜の快気祝いを兼ねて、という事だろうか、言峰神父に治療を受け、目を覚ました義妹と共に衛宮家に戻ると、待っていたのは取り留めのない献立ながら、十分ご馳走とも言える食事と、それを前に「待て」をさせられている穂群原学園名物の冬木の虎、藤村大河の姿。そして説明は既に済んでいたらしい、隣にはセイバーも静かに座っている。
「きたーっ! おかえり桜ちゃん! 士郎、桜ちゃん帰ってきたわよ! ほら頂きます……じゃなくて桜ちゃんも、慎二くんもほらほら座りなさい、事情は聞いてるから、さあ、食べよう、早く食べよう」
料理を前にテンションの上がっている藤村大河、そんな光景も割と日常茶飯事なのか、台所から姿を現した家主は一つ呆れの溜息を漏らす、気を取り直すように居間に顔を見せた二人に言った。
「今、シメのお吸い物作ってるから、もう少し待っててくれるか。あ、桜用の部屋は一応整えといた。離れの三部屋並んでる棟の真ん中、桜は判るよな」
「はい。ええと、布団の収納に使っていた和室ですよね」
ならば、と昼間ざっと間桐邸から回収していた荷物を慎二は思い出し、口に出す。
「ふうん、なら出来るまでに桜の荷物だけ移しておくかね」
「いいけど慎二、あと五分くらいだぞ」
「早ッ」
「麩が戻るのを待ってるだけだしな」
肩をすくめて離れに歩いて行く慎二、その後を追いかけようとする間桐桜に、衛宮士郎は少し照れを含んだ声を掛けた。
「おかえり桜。具合が悪かったらしいけど、もう大丈夫なのか?」
「──あ。はい! ここに来るまでちょっとぼんやりしてましたけど、先輩の顔見たら元気になりました」
力こぶをつくるように腕を曲げて見せ、健在をアピールする間桐桜。
彼女が居間の障子を閉めた後、数秒経って、そんなに面白い顔だったか、と首を捻る様子はさすがの朴念仁っぷりであったかもしれない。
賑わう食卓、今か今かと期待に胃袋をわななかせていた猛虎が次々と料理を平らげ、その横で黙々食べるセイバー、何やら妙に機嫌の良い間桐桜、藤ねえ……と食べっぷりに若干呆れつつ、作り手としてやはり嬉しいのか甲斐甲斐しく世話を焼く衛宮士郎。そんな光景を目にしつつ、慎二もまたしいたけの天ぷらを取り、天つゆと大根おろしで頂く。
傘の裏側のみについている衣はさくりとほどよい噛み応え、肉厚の椎茸の中からは旨みと汁気が飛び出し、辛めの天つゆと混じりほどよい味に。
一通りを食べ終え、慎二はうん、と一つ頷き、四年来の友人に向かって言った。
「美味しいじゃないか、衛宮はプロの専業主夫になれるね」
「プロってなんだプロって、お代わりは要るか?」
慎二は言葉の代わりに茶碗を渡した。それを慣れた様子で受け取り、御飯をよそいに行く家主。
ようやく食べ方にも落ち着きを見せ始めた藤村大河が、ふーん、と興味ぶかげに慎二を見る。
「家の事は大変だったらしいけど、ここに居ついて自堕落になっちゃ駄目よ、慎二くん。料理は勝手に出てくる、お風呂はいつの間にか入ってる、気付くと掃除と洗濯も終わってる、なんて怖いぐらいに素敵な家なんだから」
「藤ねえはもう少し自堕落から抜け出してほしいんだけどな」
「……うう、士郎がお姉ちゃんをいじめるよぅ」
よよと泣き崩れる冬木の虎。もしかしなくても嘘泣きなので誰も心配していない所が一つ悲しいところであったかもしれない。
間桐家とはまるで違う食卓の風景。考えてみれば皆、血が繋がっていないんだよな、などとも思いながら、慎二は団欒とした食卓に感心するものを覚えていた。こういった雰囲気は誰が中心になっているかといえば、藤村大河であり、衛宮士郎であり、間桐桜であり、もっと言えば部屋に染みこんだ先代の風でもあるのかもしれない。
いずれにせよ──と内心で笑う。家政婦の作ったまともな料理でさえ魔術師としての調整のために毒を入れられる料理と比べたら天と地だろうか。出汁のよく効いたお吸い物、かまぼこと三つ葉と手鞠麩のそれを一口吸い、実家では一度も見た事のない表情を表にする義妹をちらりと見て、慎二は密かに長い息をついた。
やがて、じんわりとした暖かさが伝わるような食事の時間も終わり、藤村大河も家へ戻った。間桐桜は荷物の整理のため、と自室に戻り、居間には家主が入れたお茶をすする三人のみが残り、話の流れも自然、鉄と血の香りの漂うものへと変化した。
「さてと、そういえばお前のセイバーから話は聞いたかい?」
「俺の──って、慎二、そういう言い方はどうかと思うぞ。ただ、お前の立ち位置っていう事なら昼間聞いたよ」
「柳洞寺の魔女については?」
そう聞けば、衛宮士郎は真剣な顔でこくりと頷いた。
「聞いた、ただ本当なのか慎二。魂喰いなんて事させるような人間があの寺に居るなんて」
「信じられないかい? まあ、本心からでないにせよ、抵抗力を持たない人の心を表向き変えずに操る事なんて、一流の魔術師なら造作もないと思うけどね」
ましてや古代の魔女、コルキスの王女なら尚更だろう、と慎二がさりげに言うと、黙っていたセイバーが瞠目する。
「既に真名も把握しているのですか?」
「ああ、その名を呼ぶのはちょっと怖いから言わないけどさ」
聞きつけられたら面倒、とばかりに肩をすくめる。
アルゴナウタイ、ギリシャ神話を囓ったものなら大抵は知っている話。数々の名のある英雄達が集った一大冒険。その主役とも言えるイアソンと神の悪戯により結ばれた、古くはエウリピデス、新しくはグリルパルツァーにより語られる悲劇の王女。
セイバーもそれは聞きかじった事があるようで、深く頷く。あるいは聖杯からの知識かもしれないが、それは見ている慎二にも衛宮士郎にもわかり得ぬ事だった。
「ならば予測されるのは──」
「神話通りなら策を用い、毒を使い……ってところかな。火を吐く雄牛を連れ、竜の牙を畑に撒いて骨だけの戦士を作るかもしれない」
「手兵があるとすれば分断を図った上でのマスター狙いとなりそうですね」
「は、正面からなんて戦っちゃくれないよ、きっとね」
「はい、幾たびもそのような敵とは相まみえました。覆すなら相手の盤上に乗らず、予測を超える速さで一気呵成に切り裂くのが良いでしょう」
今にも攻め込もうという姿勢を見せるセイバー。
ただ、彼女のマスターである衛宮士郎はいきなり戦いとする事に乗り気ではないようで、待ったをかける。
「駄目だセイバー、歯がゆいかもしれないけど今は待ってくれ。マスターが誰か知っておきたい。明日、学校で一成に当たってみるから」
「……イッセイ? シロウの友人ですか」
「ああ、その柳洞寺の住職の息子なんだ。最近のことを聞くだけでも分かる事はあると思う」
「なるほど、シロウにそんなつながりがあるのでしたら理解できます。明らかにできる情報は明らかにしておくべきでもありますし」
セイバーはふむ、と頷き、お茶を一口飲む。
衛宮士郎はほっとした様子で続けた。
「だから明日は、俺が帰るまで待っていてほし……い、んだけど、さ」
「──シロウ」
言葉を言い切る前にあからさまに文句の有りそうな顔でセイバーは詰め寄っていた。
「まさか私を連れずに学校に行くつもりだったのですか?」
「だ、大丈夫だ。セイバー。日中はよほど人気の無い場所にでもいかない限りは仕掛けてこないだろうし、ほら、慎二のライダーは霊体化できるしさ」
セイバーの迫力に押され気味の衛宮士郎に味方するわけでもなく、慎二はにやりと笑った。
「それなんだけどさ、僕は明日学校は休むつもりなんだ。間桐の家から本格的に物を回収したいしね」
薄情者、と目で語る衛宮士郎。その通りさ、と頷く慎二。
やがて寸劇に飽きたのか、慎二は小さく溜息を吐いて言う。
「大体さあ衛宮、多分、明日は遠坂が高い確率で学校に居るよ? サーヴァント無しで登校なんてしてたら肩を震わせて、舐められたものね、なんて言いながら追いかけてくると思わない?」
「……ああ」
化けの皮が剥がれてそう時間も経っていないというのに、その想像は衛宮士郎の中で確かに、と思わせるものだったらしい。どこか遠い目をして、ゆっくりと頷く。
「しかしまあ、馬鹿だね衛宮。セイバーに桜の制服でも着せて普通に学校に行けばいいじゃないか。身長似たようなモンなんだし。さすがに授業を受けるわけにはいかないだろうけど。学校についたら人目を忍んで校舎の側面、非常階段側あたりから登って屋上で待機すれば良いんだし」
「……慎二、そこに至るまでの過程で俺はどれだけ誤魔化しつづけなけりゃならないと思う?」
「方便で命が助かるなら頑張って口を動かす事だね」
む……と言葉に詰まる衛宮士郎。
「確かに、その通りだった。俺だけじゃない、桜や藤ねえも居るんだしな」
どうやらまた自分を度外視した思考が回ったらしい、と慎二は肩をすくめる。
セイバーも微妙な違和感を感じ取ったものらしく、不思議そうに小首を傾げていたものの、結果良ければ、と思ったのか、一つ頷き、慎二に向かい、言った。
「助言を感謝します慎二。学校での守りはお任せ下さい。貴方の妹、桜もまた必ず守りましょう」
生真面目なセイバーに対しても慎二はひらひらと手を泳がせ適当に応対し、席を立つ。じゃあ、僕もそろそろ荷物を片付けたいんでね。と居間を後にした。
長い廊下を渡り、突き当たりの大きな離れ、その中庭に面した部屋が慎二に割り当てられた部屋だ。
明日、間桐家跡から回収すべき物のリストを頭で作りながら障子を開け、照明をつけようと下がった紐を手で探った時だった。
暗さに慣れた目が微かな輪郭を捉える。
その自らの内に沈んだ目はこんな暗がりこそがふさわしいと、慎二もふと思わないでもない。
とはいえそんな感傷も一瞬。
かちかち、と紐を引き、容赦無く明かりで照らし出した。
急に明るくなったせいか、座卓の前に座っていた少女は我に帰ったかのように少し驚いた顔で、目をしばたたかせている。
慎二は半眼になってそんな少女のつむじにチョップをかました。
「……痛いです兄さん」
「そりゃすまないね、あまりにもホラー風味だったんでつい手が出ちゃったよ」
そして、どう返せば良いのか判らなくなったのか、視線を伏せる間桐桜の対面に座る慎二。
沈黙がしばし広がり、時間だけがただ過ぎる。
やがて、やむなし、とばかりに慎二は頭を掻くと、話を促した。
「で、桜。何の話だよ。あまりグズグズしてると──」
言いかけ、何も考えてなかったのか、言葉に詰まってしまい。ふと思いついた事を言う。
「ライダー、セイバーはとりなしてやる。衛宮をつまみ食いしていいぜ」
「──だ、だだ、駄目、駄目よライダー!」
慌て出す義妹をにやにや眺めつつ慎二は矛先を緩めない。
「なーに、あの鈍すぎる奴にはそのくらいの刺激は必要さ、上手く行けばお前、明日は衛宮がお前を意識しちゃって仕方ない、なんて事になるかもしれないよ」
「あ、え? 先輩が……意識……あぅ」
「手の一つ、ではありますね。食事の時の様子を鑑みても、サクラと彼の仲は近すぎて逆によく見えていない。そう、この時代ではショック療法と言うのでしたか、夢とはいえサクラの豊潤な体を堪能させれば──」
「ほ、ほうじゅ……たた、たんのー、う、先輩……駄目、駄目わたし」
いつの間にか実体化していたライダーが口を添える。
顔を真っ赤に染め、かたかた震える間桐桜。その目は潤み、ただの羞恥のみではない含みがある。しかし、何かを振り払うように首を振り、様々な感情の入り乱れたそれを追い払った。
ふう、と息を吐いて落ち着くと、慎二を真っ直ぐ見て──気が負けたように視線は下がってしまった。
まったく、と慎二は髪を乱暴にかき上げて言う。手を差し伸べる、などは自分のキャラじゃないのに、なんて思いながら。
「自分の事情を明かすかどうか、か?」
「……はい」
明かりを点けるのを忘れるくらいに思い悩んでいたのだろう。ただ……と慎二は違和感をも同時に感じる。なにせ四年間隠し通した秘密。もっと長く思い悩み、相談に来るとしてものっぴきならなくなった後、と予想していたのだ。
「ふうん。なるほどね、何か事情があるとしたら、桜じゃなく、衛宮か?」
間桐桜はおずおずと顔を上げ、こくりと頷き、話し始めた。
かつて衛宮士郎の鍛錬風景を見てしまった事。
魔術回路を毎日毎日、最初から作り直していた、半ば自殺行為の鍛錬。
見なかった事にしてしまった、間桐桜の心にいつまでも残る後悔。
「止めなくちゃ、って思ったんです。でも、魔術師とは思われてないわたしの言葉じゃ先輩は止まらない。あんなに毎日続けて固まった魔術回路……大きな魔力で動いてない回路を動かして、切り替えを覚えさせようとしてもわたしの魔力なんて刻印虫にみんな食べられてるんです。他のやり方なんてわたしがお爺さまにされた事くらいしか知らない……そんなの、そんなの先輩にするなんて出来るわけない」
一度口が動き始めれば、後は堰を切ったように言葉が溢れた。
自殺紛いの鍛錬法、そんな事を誰に言われるでもなく自発的に毎日繰り返し行う。
それは何と愚直で、衛宮らしい事だろうか、と慎二は内心妙に腑に落ちるものをも感じる。
間桐桜は、大きく息を吐くと、自嘲げに微笑み、静かに頭を振った。
「……いえ、それもわたしが逃げるための理屈かもしれません。先輩には普通の後輩、魔術師じゃない当たり前の人間として見て貰えたから……それを、放したくなくて」
でも、と小さく呟き、一呼吸の間を置き、続ける。
「先輩は……戦うつもりなんですよね」
「被害が出れば真っ先に戦うだろうさ」
「魔術も、使うんですよね」
「そりゃ相手も魔術師だしね」
慎二はどこか放り投げるように返答を返す。
間桐桜は俯き、無意識か胸の前で手を揉み絞り、黙り込む。
まだ自発的に動く事は難しいか、と慎二は思った。間桐家に入る以前の義妹の性格は判らない。ただ、間桐臓硯の調教によるものか、根本のところからして他動的だ。
もしかして、幼い頃に別れた姉の話をすれば、負けじと動くだろうか──と、ふと頭によぎり、慎二は自身の思考に辟易する。それこそ方向性は違えど、間桐臓硯と同じ頭の巡らし方だろう、と。
「あー……やだねぇ、これも遺伝か」
口の中で小さくぼやく。
ただ、そんな爆弾を抱えたまま魔術行使をしていたのだとすれば、衛宮士郎は危ないというレベルではない。実感こそ湧かないものの、慎二もまた知識として魔術回路の暴走、暴発がどういう事態を招くかは知っている。
いざとなれば勝手に借りに思ってくれているらしい遠坂に衛宮士郎の魔術的な部分を丸投げ──そんな事も頭の片隅で考えながら、思考がぐるぐるループしているらしい義妹に向かって言う。
「明日、衛宮は学校に行くつもりらしい。聖杯戦争まっただ中だってのに。ま、お前も何食わぬ顔で一緒に登校すればいい。家の始末の方は僕一人で十分だ。それで一日考えるんだね」
慎二は話は終わり、とばかりに腰を上げ、無造作に部屋に摘まれているダンボールの整理にとりかかる。
どこか自失の体で静かに部屋を出て行く間桐桜、その背に向け、ふと思い出したかのように声をかけた。
「桜、お前はさ、もう自分で決めてもいいんだぜ?」
「……兄さんは……厳しいです」
細い嘆息と共に出された微かな声、それを当然のように慎二は黙殺し、人の気配が離れたのを見計らい、独り言でも言うかのようにライダー、と、サーヴァントの名前を口にする。と、話の途中で霊体となっていたライダーがふわりと実体化した。
「……気付いていましたかシンジ」
「いや、気配なんて判らない。何となく居るかなとカマをかけてみたら当たったわけさ」
あまりに適当なその言い様に、せめてもう少しもっともらしい屁理屈でもこねてくれないか、とも思いつつ、そんな内心などおくびにも出さず、ライダーは誤魔化すように長い髪を一房かき上げた。
和室にしばし沈黙が訪れ、慎二が荷物を整理する音のみが響く。
その手を休めないまま、ぽつりと言った。
「陳腐な表現ながら、篭の鳥ってやつだね、あいつは」
「……自由が怖いのでしょうかサクラは」
「さあ? あいつの気持ちはあいつにしか解らないけどさ、ただ戸惑ってるだけじゃないかね。何せ十一年、あの爺さんの命令で動くように仕込まれてきたんだから」
口ではそう言いながら、慎二は未だに迷うものを覚えている。
あの流れのままでは間桐桜が死ぬ事は確実なようだったので、ああいう手段をとった。
だが、肝心の本人がそれを望んでいなかったらどうなのだろうか。
馴染んでしまった虫の住み処で息絶えた方が楽、今更白日の下に出ても身を灼かれ苦しむばかり、そんな事を思っていたとしたら──
「は、それはそれで、ま、いいか」
その時は自身がただの道化であったというだけだろう、そんな事を思い、慎二は密やかに笑った。
◇
朝の衛宮家はそれは慌ただしかった。
いつもより人数が二人も増えた分、それはそのまま作る者の負担となる。
とはいえ質を落とすのも衛宮士郎の沽券に関わるというもの。
結局どういう形になったかといえば、衛宮士郎と間桐桜の師弟でもって、台所を忙しなく動く事となっていた。
衛宮士郎は右のフライパンで炒め物をし、左の小鍋で野菜に火を通し、グリルで魚を焼きながら、レンジで様子を見ながら野菜を蒸す。
その横で投入される具材を、そのおっとりした見た目からは想像もできない器用さで皮を剥き、さくさくと切りそろえ、合間を見ては完成した品を盛りつける間桐桜。
最初から最後まで分担して食事を作るという事はあまりしない二人だったが、その効果は大層なもので、わずかな時間にも関わらず、お弁当にも詰められる、九種類のおかずが食卓に並ぶ事となった。
これにより朝からご満悦の藤村大河の姿があったのだとか。その効果かは定かではないが、珍しくその日はHRに余裕を持って間に合う事ができたらしい。
学園の制服を着ても、どこかオーラのようなものを放つセイバーと、内心の不安でか、いつもに増して寄り添いたがる間桐桜。そんな二人に挟まれ、困惑を含んだ目で助け船を求める衛宮士郎。
慎二はそんな友人の無言のヘルプを一笑に付し、ひらひらと手を振り、交差点で別れる。向かうのは学校とは別方向、南の間桐邸、遠坂邸のある道だった。
住宅地の坂の上、雑木林が目立つようになり、閑静、というより幽霊でも出てきそうな鬱蒼とした感じが強くなる。
教会の手配なのだろう。どこの工事現場だというのか、立ち入り禁止の看板がついたフェンスと布で敷地は囲われ、外からは見えないようにされている。古びた門を開け、敷地の大量の間桐邸の残骸、そして地面が柔らかくなったせいか、根から倒れている木々をぐるっと眺め渡す。
「……うっわ、やれやれだ、こりゃ手間だなあ」
文字通りに自業自得であるのだが。それでもなお、慎二の口から呆れたようなぼやきが出た。せめて崩れの少ない二階より上の蔵書や魔道の品、日常生活には欠かせない証明書や実印、でも掘りだそうと、廃墟じみた瓦礫の山に手をかけ、普通の人間には持ち上げるのも難しそうな石材をひょいと何でもないように放り投げる。その光景は、知らないものであれば思わず目を剥き、見間違いだったかと首を振ってしまいそうなものだった。
オリジナルと違い、兵器として調整されたアームズを移植された体は、たとえナノマシンが人体の擬態をしている状態、いわばスイッチを切っている時においても、その身体能力は人間が持ちえる最高水準のものでバランスを保たれている。
むろんそれは肉体情報を構築するプログラムに手をいれる事により改変も可能なものだったが。言ってみればそれはエグリゴリにかつてあった猟犬部隊のごとき強化人間(ブーステッドマン)の能力にすら近いものとなる。並外れた反射神経、反応速度、それに十分応えるしなやかな筋繊維、頑丈極まりない骨格。
バーサーカーを止めたのは力ではない、と慎二は衛宮士郎と遠坂凛に説明をした。
勿論それも嘘ではない。ただ、全てでもまたない。
その説明の違和感に気付いたのはきっとセイバーのみだっただろう。
一撃一撃が音を置き去りにするほどの速さ、それはいくらフェイントすらない直線的な動きとはいえ、人が反応できるものではない。
さらに──もしかしたら優れた直感をもつセイバーは感じ取ったかもしれない。
日常では相対することのまずない速さを持つ敵、そんなものを相手どる事に間桐慎二は慣れていたのだと。
◇
冬のどこか力弱い日も、雲一つない青い空に高々と上がり、暖かくなった事を喜んでいるのか、ヒヨドリがどこかで井戸端会議でもするかのように数羽で鳴きさざめく。
「あー。陽気が良すぎる、何か色々どうでもよくなってくる。太陽の馬鹿め、爆ぜろ」
スポーツバックを背負い、空に向かって無茶な事を言う慎二。
瓦礫の山と化した間桐邸の中から必要と思われる様々なものを掘り出し、即日で動いてくれる運送業者と貸倉庫を手配、二ヶ月の短期契約を結んで荷物を運び入れ、当座必要なものだけ選り分け──などとやっているうちに、時間は昼も過ぎた頃になってしまっていた。
深山町の中心部にほど近い場所を歩きながら、慎二はふと目に入った看板を見て思い出す。
「そういえば新しく健康ランドが出来たんだったっけ、新都ならともかくこっちじゃ珍しいな」
何でもレジャー施設と見紛うばかりの豪勢なものらしく、各種の湯に加え、思いつかないものがないというくらいに充実した場所なのだとか。日本では珍しい中東風というのがウリらしい。
「確か、わいわいどぼーんだったっけ。作った奴のネーミングセンスを疑うね」
慎二はどうでもよさげに毒づきながら足を向ける。服は途中で適当に買い込むか、と考えつつ。人から遙かに外れた体とはいえ、重労働をすれば汗はかくし、まとわりつく埃は不快だ。丁度一風呂浴びたい気分でもあったのだ。
そして、ゆっくりと歩を進める慎二、そのはるか後ろで異常が存在していた。
──少女がいる。
幼い、とさえ言える少女。
どこからどう見ても目立つ少女だった。
日本ではほとんど見る事のない、月に照らされた雪のような銀色の髪、アルビノのごとく白い肌、ルビーのような赤い瞳。
どこからどう見ても目立つのが当然の少女は、なぜか人の目につくこともなく、悠然と深山町の通りを歩いている。平日の昼過ぎということもあり、人通りはそう多いわけではなかった、それにしても深山町の中心部分に近い道、歩いている人が皆無、というわけでもない。
少女の方を何故か誰も見ないのだ。誰一人の視界にも入らず、視線も受けない、そしてそれを不思議にも思わない。そんな異常、もし監視カメラなどで観測している者がいればその違和感に気付いたかもしれない。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。バーサーカーのマスターであり、聖杯戦争の参加者の一人。
彼女は幼い容姿には似合わぬ冷徹な目で慎二の背中を追っていた。
とはいえ、それは本来の目的とは程遠いものだっただろう。彼女の目的となる人物は、背丈は同じくらいでも、まるきり違う赤毛の少年だったのだから。
調べさせておいた限りでは学校の帰りに彼は商店街を通る事が多い、土地をよく見知っておく事も兼ね、お目付役の目を誤魔化し、初めて触れる外のセカイというものを堪能していた矢先の事だった。
バーサーカーを一方的にやり込めた、ただの人間が歩いていた。
そう、あれだけの事をして、魔術の世界からの目で見れば相も変わらずただの人間そのものなのだ。
手が変化した時などはそれすら薄れて、もはや大気のマナすら通り抜けているのではないか、というくらいに、それは魔術の目から見れば存在がなさ過ぎた。
得体が知れない。
ただその一言に尽きる。
バーサーカーがいれば、多少の策やイレギュラーは力でねじ伏せられるはずだった。自分のちょっとした私怨、おまけにアインツベルンの千年の悲願も今度は成功に至るはずだった。
砂上の楼閣のごとくその自信、自負が崩れ去る。
何よりも──あの時、あの夜。バーサーカーは初めて命令に直接逆らったのだ。
「わたしは……追いなさいって言ったのに」
バーサーカーは、退いたのだ。結果的にそれが正しい判断だったとしても、どこかわだかまりが残る。
相手が、ヘラクレスと並び立つような大英雄であればまだ納得もできただろう。ただ、相手は吹けば飛ぶようなもの──とイリヤスフィールが判断していた存在だった。
自分の判断が決定的に過ちだったという事を理性においては理解しつつ、なお心に引っかかりを覚える。
それが何なのか、イリヤスフィールはその人生において、知った事がなかった。
雪空の中、過酷な環境に投げ出されてもなお、アインツベルンを統べる翁の手の平の上で厳重な管理をされていたイリヤスフィールは、知る事がなかったのだ。
「あなたは、わたしが殺してあげるんだから」
ふと口から漏れた自分の言葉に気付き、銀の少女は意外そうな面持ちで手をぽんと打つ。
これが敵意なんだ。とあらためて理解した感情の名前を口に含み、イリヤスフィールは嬉しげに頷いた。