第七十七話 もう、この関係も終わらせないとな 特別修学旅行の七日目は、近衛家での朝食から始まった。 正直むつきは二、三度顔を覗かせるだけで昨晩は夕食を食べ損ねたのだが。 宴会場にも使われた巨大な客室にて、お膳で運ばれてきた。 運んできたのはもはや少し見慣れた感のある巫女さん達である。 むつきとしては、この光景が一番の土産話になるのではないだろうか。 もちろん、羨ましいだろうと悪友達に自慢する意味で。 ただ何故だろう、むつきの前にお膳やらお茶、ご飯をよそってくれた巫女さん達は皆同じような反応をしてきた。 他の子達には一杯食べてくださいという笑顔付きなのだが。 妙に表情を硬くし、ちらっと眼が合うとポッと頬を染めてそそくさと引き返していく。(これ、千草さん経由で昨晩のアレが広まっているのではなかろうか) 千草の姿は見えないが、刀子は隣のテーブルにいた。 ちょっと視線を向けると眼があったが、さっと目を伏せてそらされる。 恥ずかしがっているとかではなく、後ろめたさを胸に秘めたような。(いい加減、結婚しないって言った手前。もう、この関係も終わらせないとな) だらしないのは自覚あり、重々承知なのだが。 分かっていてそうし続けるというのも、かなり性質が悪い。 刀子のお婿さん探しもしなければならないし、誰か伝を辿ってお見合いなど出来ないだろうか。 とは言っても、自分の伝など大学時代の悪友しかいない。 沖縄に行った時に爺ちゃんがいれば、聞いてみるのも良いだろう。 どうかいてくださいと願っていると、トンッと背中に何かがもたれて来た。「ん? て、明石どうした? お前、低血圧か?」「あら、ごめん。アキラ」「そっちに謝るのか」 むつきが座る席の後ろは四班のテーブルであり、もたれかかって来たのは明石であった。 眼不足のようにめをしぱしぱとさせ、ふらふらしながらアキラに謝っている。 とりあえず、一番詳しそうな隣にいた佐々木に尋ねてみた。「昨日の夜になんかあったのか?」「普通に枕投げしてたけど。くーへが勝ったよ?」「ありがたく泊めていただいた部屋で。いや、俺もか」 むしろ枕投げの方が健全な分、ましだろう。 色々と汚れてしまったシーツは、千草が笑いながら後始末をしてくれたのだが。「何故か昨日は眠れなくて、うぅ……眠いにゃあ、先生今日は私がおんぶの日」「あほか、アレは春日が怪我を。そうだ、春日。お前足の調子はどうだ?」「ばっちりッス。良く効く薬を巫女さんから貰ったッスから」 食事時前に少しお行儀は悪いが、昨日の夜まで包帯をしていた足をあげて見せてきた。 包帯の姿は全くなく、陸上で鍛えたそれはもう健康的な足であった。「うりうり、先生視線がちょっとやらしくないッスか。背負われている間、何度お尻をさわさわされたことか」「お前、俺がお前を背負って山を登ってきたのがどれだけ辛かったか。触ってないぞ、本当だぞ。ひそひそ、すんな。何時も通りの春日だ」 隣同士ひそひそと、もちろん何時もの事なので本気でそうしている者はいないのだが。 その何時もを知らない巫女さん達が、むつきを指指しヒソヒソと。 美砂とアキラも、むつきの両脇にて背中越しに次は春日かと。 良いから前をむきなさいと、そんな二人をちゃんと座らせ。 そろそろお膳も皆の前に行き届き、全員揃ったのだが今日は特別にもう一人。「いや、申し訳ない。仕事が立て込んでいまして」「お父様、こっちやで。明日菜とうちの間、大奉仕やて」「詠春さん、お茶も淹れました。あっ、詠春さんだと割りと普通に会話ができた」「急に娘が二人に、いやいや」 近衛のみならず、おじさん分を補給だとばかりに明日菜もお世話に終始する。 当人が口にした通り、娘が何人にもと照れ照れしていた。 少し悪かった顔色もにこにこ顔でちょっと良く見えも。 そんな近衛の父親が席についた所で、よそ様のそれも家長がいるが一度むつきが立った。 ご馳走様の時に一言貰うかと思いつつ、少し声を大きくして言う。「待ちきれないだろうから、手短に。賑やかなのは良いが、騒ぐなよ。んじゃ、両手を合わせて。頂きます」 本当に手短に済ませてから合掌させ、頂きますと大合唱だ。 そこからは、そこからもか。 普段通り、朝からハイテンションな朝食の始まりであった。 近衛家にて用意されたのは、山菜の炊き込みご飯と白味噌と大根の味噌汁。 ごま豆腐にお魚の煮物にお新香、お好みで海苔や卵といった日本の朝食そのものだ。 ただ関東勢が多い中で白味噌というのか、ちょっとしたアクセントか。「これスープですか?」「うわ、白味噌とか。初めて食べる。んっ、さっぱりしてて夏には良いかも」「美味しいです」「あらあら、こういうお味噌汁も良いわね」 鳴滝姉はお椀を手に恐る恐る、釘宮がまず飲むのを見てからと微妙に慎重だ。 特に気にせず飲んだ釘宮は、おっと顔を明るくしてまだ日差しの柔らかい陽の光を窓越しに見つめていた。 松屋では赤出汁が基本なのだが、彼女としては合格のようである。 毒見役というわけではないが、釘宮が美味しいと呟くと次々に皆が口をつけた。 鳴滝妹も、那波も一口汁を啜っては、釘宮の様におっと顔を明るくして美味しいと呟く。「美味しい美味しい、五月ちゃん白味噌って他にどんな料理があるの?」「そうですね、お味噌汁と同じくお魚をぶつ切りに荒汁にしたり。他に汁ものではお雑煮なんかもありますよ。同じ味噌ですから、赤味噌で出きる事は大抵できます」「ほほう、それは一度食べてみたいですね」「白味噌って何処で買えるんだ。近衛、これ分けて貰えねえか?」 むつきと同じテーブルでは、美砂もお気に召したようで四葉に調理法を聞いていた。 ただそれは、自分で調理というわけではなく、ひかげ荘でのご飯を期待してだ。 方眉を上げた夕映や図々しい事を言い出した千雨もそれは同じ。 というか、むつき自身を含め、もう少し色々知りたい、食べたいとは思っていた。「せやな、うちも白味噌は久しぶりやし。ちょっと持って帰ろうかな。明日菜は白味噌は大丈夫え?」「うん、普通に美味しいわよ。釘宮も言ってたけど、夏は白の方が良いんじゃない? ほら、一晩経って煮詰まっちゃうと赤って辛いじゃない」「煮詰まってしまっては、白もさほど」 桜咲は京都出身だけあって、白の良さも悪さも知っているようだ。 だが概ね白味噌は好評で、他のおかずも美味しい美味しいと食べている。 この旅で皆が少しグルメになったように思えた。 まあ、主に歴史など社会科の勉学の旅であったが、四葉の願いも含まれていたので当然か。 ただ本来望んだのはお高いお店なのだが、そこの所はどうなのだろう。 聞いてみたいのだが、四葉はちょっと席が遠いのでと思っていたところにである。「早速お代わりを」 四葉がそんな事を言いつつ、おひつのそばで待機中の巫女さんの下へ。 途中すみませんと、一班と四班のテーブルの間を歩きむつきの背後を通る。「大変、大切な事を教えていただきました。美味しいものは皆で食べてこそ。高くて美味しいお店と、私は少し子供っぽい憧れを抱いていたようです」「いや、お前子供だからね。今度、な。そうだな。お前がドレスの似合う年頃になったら、俺もタキシードで決めてやるよ」「その時はお願いします。その時まで、私の隣は空けておきますので」 こっそりとした囁きあいだが、返しも見事、子供らしくない言葉であった。「さっちゃんの隣は永遠に予約済み。うちと一緒やな、先生」 そうにっこり笑って亜子に言われ、どう答えて良いものやら。 四葉が望んだらなと考えてしまう辺り、もう戻れないのだろうか。 教師としての自分、恋人としての自分。 公私をできるだけ分けて、折り合いつけてやっていくしかないのだろう。 完璧に公私をつけるなら別れるの一択だが、出来るはずもない。 もはや、世間様にバレた時と同じぐらい目の前が真っ暗になってしまう。「お前ら良く噛んで食べろよ。今日の観光は、今までとちょっと違うからな」「どこへ行くのですか? すけじゅーるには、ここだけ詳細がありませんでしたけれど」「そろそろお教えいただけても、よろしいのでは?」 もぐもぐと行儀良く、口の中のものを飲み込んでからさよとあやかが尋ねてきた。 別に喋ってしまっても特に問題はないわけだが、サプライズという奴である。 楽しい旅も一週間近いので中だるみを避ける為もあった。 秘密とウィンク込みでやってみたら、思い切り噴き出された。 いやそこでポッと頬を染められても、それはそれで困るわけだが。 和気藹々と、少しだけひかげ荘を思いだしつつ、美味しく京都の朝食を頂いた。 その後は近衛の父親から、木乃香をよろしくお願いしますと挨拶があった。 当然、皆ははーいと大合唱で、当人は照れ照れといつもの様に笑っている。 巫女さん達も、自分達にもこんな頃がと微笑ましそうにされた。 朝食後は、速やかに各自手に持つを纏めて、またあの大門前に集合であった。 お出迎えと同じように、巫女さん達が石畳の参道に並んでお見送りである。「それでは、大変お世話になりました。本当にありがとうございました」「皆さんも、はい」「ありがとうございました!」 むつきが代表で近衛の父と握手した後、雪広の号令で皆が頭を下げた。 最近寝泊りはずっと超包子の車両の中だったのだ。 ちょっと特殊な民宿だったが、お風呂も広くて色々と解放的だったのだろう。 それはもう、もの凄く良い笑顔でのお礼であった。「こちらこそ、うちの娘をよろしくお願いします」「お父様、それ二回目やて。恥ずかしいな、もう」「詠春さん、木乃香の事は任せて。うん、私が責任を持って友達します!」「神楽坂、お前お世話されてる方じゃなかったっけ?」 オジコンが炸裂している神楽坂に突っ込むと、ギシっとその体が固まった。 そして近衛の父にはにこにこしつつ、むつきの後ろに回りこんで背中を抓ってきた。「先生、協力してくれるんじゃなかったの!」「誰も言ってないだろ。てか、近衛の父親相手にマジになんな。高畑先生にチクるぞ」「ごめんなさい」 一瞬で神楽坂が大人しくなり、ほら班に戻れとシッシと追い払う。 改めて、お世話になりましたとむつきが挨拶していると、視界の隅にあの人が。 巫女さん達の後ろの方に、昨晩は別の意味でお世話になった千草だ。 悪戯っぽい笑みで唇を一指し指でなぞり、投げキッスである。 幸い生徒に見つかりはしなかったのだが。「先生、別に外でナニしようと構わないけど。変な病気とか貰ってくんなよ」「うるせえ、反省してんだよ。もう、俺はお前らだけだ」 恋人達にはしっかりと見つかり、特に千雨に止めろよなと注意されてしまった。 今夜はお前らだけだとハッスルするとして、本当にこれが最後。 お世話になりましたと挨拶して、旅立ちであった。 特別修学旅行七日目の最初の目的地は、京都タワーであった。 これまでの歴史を絡めた観光地や、食事情を絡めた社会見学ともまた違う。 ちょっと普通の観光っぽい場所である。 ただし、むつきが組んだスケジュールが普通の観光であるはずがない。 いや昨日は、もの凄く普通の観光だったが、京都故仕方がない部分も。「京都タワーね。けど、東京タワーに比べると若干しょぼいよね。高さも約三分の一だし」「聞かなきゃよかったかも、それ。なんかありがたみが減だね」「でもでも、京都タワーは高さこそ負けますが色々と特徴があるんですよ。一切鉄骨が使われていなかったり、あの阪神大震災を耐えたモノコック構造だったり」 朝倉がタワーを見上げて写真一枚と余計な事を呟き、村上が苦笑いしていたが。 今日も小さなガイドさんである宮崎は絶好調であった。 後半のモノコック構造はむつきも初耳だが、震災を耐えたという事でその凄さが分かる。「のどか、なんでそれをもっとはやく。東京タワー×京都タワーじゃなくて、京都タワー×東京タワーだったなんて。これはイケる!」「コミケが近いのにいけないジレンマでパルがおかしく……元からでしたね」「皆、ウザなったら言ってや。うちがトンカチするから」 ついにトンカチが名称から動詞に昇進していたが、皆一斉にウザいと言った為に早乙女は沈む事になった。「はいはい、静かに。と言うわけで、説明するまでもなく。今日の目的は京都タワーだ」 ぱんぱんといつものように手を叩き静かにさせる。 これまた普段通り静かになる生徒達だが、これまでの特別修学旅行とは少し違う。 何せ彼女達は理由も聞かされないまま着替えさせられていたからだ。 今までずっと着ていた制服から、体操着にである。 季節柄、上はともかく下は短いパンツとあって、結構一目を引いていた。 もちろん、写真を撮ろうなどという不埒な奴は田中さんがホールドアップだ。「先生、凄く嫌な予感がするッスけど。なんで体操服? 出来れば、女子中学生の健康的な生足が見たかったって理由が良いんッスけど」「春日、お前もっと俺に感謝しろよ。何故エロネタを持ってくる。それと、嫌な予感は間違ってないぞ。今日はこれから、この京都タワーを特別に階段で上ります!」 どうだっとばかりに、京都タワーを仰ぐように手を振った。「えー、めんどくさいです。先生が一人で上れば良いじゃん!」「旅行で筋肉痛とかありえない。あっ、もしかしてその後でエステとか」「そんなお金出すぐらいならウサギ飛びで踏破してやるわよ!」「ほほう、これはなかなか良い修行に。古、それに刹那も重りいるでござるか?」 悲喜交々というか、嫌だと率直に言った鳴滝姉はまだ良い。 美砂、お前は何を夢みているのか、少しはウサギ飛びと言い出した神楽坂を見習え。 あと長瀬や古、桜咲は自重しろ。 落とせばアスファルトが砕けそうな重りは何処から取り出した。「でも、次の俺の台詞を聞いたら。お前ら、そんな事ばっかり言ってられないぞ。お前ら、この一週間ずっと超包子の車両内で食っちゃ寝してたろ?」 昨日の近衛の家へ行く為の山登りは置いておいて、まさにその通りであった。 移動は全て車両で、観光地についてはちょっと歩いてまた車両内。 むつきのそんな指摘に、気付かなかったとばかりに彼女達の脳裏に思い浮かんだのは一つだ。 一体どんな数値をたたき出すのか、思いだしたくもない体重計である。 たかだか一週間でそこまで増加するとも思えないが、そこは若い乙女達であった。「先生、登る前にラジオ体操しよう。どこか、場所ないかな!」「フォアグラ」「言うじゃないか、ザジ。ところで、楓。重りはまだあるか?」 佐々木はまだしも、ザジの余計な一言で龍宮までも重りを欲していた。 効果覿面だなっと慌てる彼女達を、悪戯成功とばかりに笑って眺める。 すると、誰かが背中から抓るようにお肉を掴んで来た者がいた。「先生も、少し運動なさった方がよろしいのではないでしょうか」 それはちょっとむつきとしては歓迎したくない方向に内助の功を発動させたさよだった。「いや、俺は先に上で待ってる予定で。神多羅木先生が後ろからお前らを」「それなんだがな、乙姫。むつみが登ると死ぬし、一人でほうっておけん。悪いが、お前が登ってくれ。刀子をつけてやるから」「むっくん、頑張って」 ちょっと引きつりながら、当初の予定を口にしたわけだが。 神多羅木がむつみを放っておけないと言い出し、話が妙な方向に。 後は頼んだと、むつみの肩を抱いてそそくさとエレベーターホールの方へと行ってしまった。 待って待ったとむつきが手を伸ばすも、乙女と言う名の亡者達に掴み取られてしまう。「先生、私太ってないよね。痩せるから、一緒に頑張ろう」「乙女の禁句にあっさり触れた先生が悪いやんね」「やべ、私も途中で死ぬ。先生、潰れたら負んぶしてくれ。色々悪戯しても良いから」「くっ、中途半端に体力のある自分が恨めしくも」 一般のメンバー、要はひかげ荘メンバーにわらわらとまとわりつかれた。 アキラや亜子、この辺りはまだ割りと普通なのだが。 千雨は最初から諦めてしまっている。 夕映はちょっと自信ありそうだが、その口ぶりからわざと駄目とか言い出しそうだ。 やべえ失敗したと思っても、もう遅い。 ひかげ荘は百階段だが、京都タワーはさらにその上の二百八十五段。 しかもタワーなので登っても登っても風景は変わらず精神的な意味でもキツイ。 行きたくねえと抵抗を見せたむつきであったが、結局は引きずり込まれる事になった。 とは言っても、ひかげ荘の百階段に数年前から慣れているむつきである。 確かに風景が延々と変わらないのは辛いものがあるが、黙々と登るだけであった。 時折、走ろうとする者を注意しつつ、最後尾から刀子と一緒に登っていく。 本当に黙々と、生徒達は騒がしいが最後尾だけちょっと沈黙が痛い。「と、刀子さん。あの……運動が得意とは聞いてますが、大丈夫ですか?」「はい、乙姫先生。さすがに季節柄、汗一つとはいきませんが」 にっこり微笑んで返されたのだが、何故か呼び方が元に戻っていた。 怒られない方がおかしいのだが、一体何処に怒っているのかビクビクしてしまう。 思い当たる事が多すぎて、もはや分からない程に。 そんなむつきの様子に気付いた刀子が、溜息を一つついた後にこう言った。「怒ってなんかいませんよ」「でも、呼び方」「ええ、本気でそろそろこの泥沼をなんとかしないと。その決意の現われと思っていただいて結構です。それから乙姫先生も宜しければ、また葛葉とお呼びください」「葛葉先生、ですか」 言われた通り呟いては見たが、刀子の方がグッと強く唇を噛み締めていた。 幾ら表面上では踏ん切りをと言っても、心の底からはまだ難しいのだろう。 だから尚更表面を、まずは形からとでも言うように呼び方を変えたのか。「女盛りと威張ってみても、もう三十ですから。駄目なら次と、割り切る事も必要ですから」「すみません、惑わせてしまって。手伝える事があれば、何でもします」「そう言う、中途半端な優しさが一番困るのですが。期待せずにいますね、乙姫先生」「期待せずを良い意味で裏切れるようにしますよ、葛葉先生」 改めて元に戻した呼び名を呟きあい、今までとは異なる笑みを見せあった。 恋人一歩手前から、ただの同僚という立場に変えての笑みだ。 ギスギスした空気も少し和らいだのは良いが、螺旋階段の手すり越しに覗き込む影が。「こら、エヴァ。危ないだろ、止めなさい」「ふん」 何が気に食わないのか、不満気に鼻を鳴らしてトントン登っていってしまった。 妙に懐いていた最近とは異なり、やや違和感のする態度だ。 子猫は本当に気まぐれで、良く分からない事が多い。「なんなんですかね、アレ」「さあ、意外と張り合う相手が減って詰まらないとでも思っているのでしょう」「張り合う?」「こちらの事です、お気になさらずに」 良く分からなかったが、刀子はエヴァと仲が良いのか。 囲碁できるんですかと話を振って見たり、極々普通のお話をしながら階段を登る。 コレまでとは違い、多少刀子から壁を作っている感じを受けたが。 多少の寂しさは俺が悪いんだと自己完結をさせ、できる限り笑う。 少しずつ関係が元に戻っていく事に互いに納得させ最後尾を歩いていく。 その五分後ぐらい、ゆっくりと歩いていたので五十段を過ぎた頃だろうか。 螺旋階段なので上は見えないが、ガコンと階段に何かがぶつかったような音が聞こえた。 それから直ぐになにやら生徒達がざわめき始める。 二人で不審げに眉を潜め見合い、何かあったかと次の階段に足をかけた時であった。「先生、裕奈がこけた。眠さマックスでふらふらしてる」「アイツ、そこまで。佐々木、お前は走るな。刀……葛葉先生、先に行ってみてきます」 緊急時に咄嗟に以前の呼び名が飛び出しかけたが、即座に訂正して階段を一段飛ばしであがっていく。 確かに朝食中から眠いとフラフラしていたが、運動中に寝入る程とは。 判断ミスったと思いながら螺旋階段をぐるぐる回ると、立ち止まっている集団がある。 個々の体力が有るため、さすがに今は班行動ではなく階段に座る明石の周りはバラバラの班員であった。 と言うか、下に呼びに来た佐々木を除き、仲良し四人組のアキラと亜子だ。「おい、明石大丈夫か? 螺旋階段だから、こけても下までごろごろはいかないと思うが」「あはは、大丈夫。眠くてだらだら歩いてたら、思ったより足上がってなくて」「裕奈運動神経良いから、咄嗟に腕ついてた」「でもぶつけた腕が赤くなっとる。ちょい痛そう。昨日、美空が楓ちゃんから貰ったって薬貰ってくる」 急ぎ階段を走ろうとした亜子を何よりもまず、引き止めた。 こんな場所で慌てて走れば、二次災害は確実だ。 階段に座り込んでいる明石に目線を合わせるように、むつきはしゃがみ込んだ。 それから明石の腕を看て、一言断ってから足の方も傷の具合を看た。 と言っても医者の知識なんぞないので、変に紫色になったりしていないか。 他に明石自身に痛いかを聞いたり、まず確認したのは動けそうかだ。「足より、腕が痛い。それ以上に眠い」「痛い思いしたのにまだ眠いとか。とりあえず、俺が上まで背負うか。腕でも足でも、痛くてしょうがなかったら言えよ」 階段の途中で明石に背を向け、負ぶされと背中を差し出した。 眠いと言った通り、明石はまだふらふらしており、アキラと亜子の手を借りて負ぶさる。 最初はかなりずり落ちそうな体勢だったが、むつきがよいせと背負いなおす。 それでちゃんと背負えたのは良いのだが。 ふらふらしている明石は当たり前だが、むつきの背中に密着しているのである。 そして明石はアキラにサイズ的に迫ろうかと言う巨乳少女であった。 つまりは、二人の間で大きなボールがむにゅむにゅするのである。「アキラ、ごめん。おっぱい大きくて、当たってる」「なんだ、その俺以外への気遣いは。余裕あるなら、歩かせるぞ」「眠いにゃあ、動けないにゃあ」 無理と必死に抱きつかれ、溜息をつきながら背負って立ち上がった。 狭い螺旋階段での事だ、上に向かう為にくるりと百八十度回転する。 するとバッチリ、お嫁さん二人と目が合った。「裕奈、凄い。先生との背中でおっぱい潰れてる。けど、後ろに引っくり返ると危ないからちゃんとしがみついとらなあかんよ」「先生、恥ずかしがっちゃ駄目だから。危ないよ」 怒るどころか、当たり前だがそんな場合じゃないと注意された。 いやむつきも分かっているのだが、小さな子供のように明石がぐずるので余計胸が押し付けられるのだ。 反応してしまいそうで、非常に困る。 反応したらぶっ殺すぞと脳内で息子を注意しつつ、追いついてきた刀子に説明した。 特に問題はなさそうで、様子を見ましょうと。 怪我に関しては刀子が少し知識があるようで、簡単に看てくれたが問題ないらしい。 足もあって軽い捻挫ぐらいと、刀子が先に看に来た方が良かったかもしれない。 一先ず、問題ないという事で最後尾の集団は上を目指した。「裕奈、裕奈。本当に大丈夫?」「平気、眠いだけ。うぅ……ゆっさゆっさされて、余計眠く。電車に乗ってる時みたい」「分かる、心地良い揺れってあるよね」「朝は終点やから良いけど、帰りとか偶に寝てて電車乗り過ごすやんね」 刀子と二人だけの時とは違い、少女が集れば賑やかなものだ。 といっても、短い時間とはいえ今明石は寝ておかないと今日一日に響きそうである。 余り構って寝させないでおくなよと、一言注意であった。 明石自身、喋られない事に残念そうだったが一時の事である。 とりあえず、上につくまでの短い時間だけでも寝ておいた方が良い。「うぅ、麻帆良祭でもここまで。悔しいにゃあ。でも、なんで眠れなかったんだろ」「友達の家だから、興奮してたんじゃないのか」 アキラ達が三人でお喋りするのをむつきの背中越しに見ながら悔しげに明石が呟いた。 答え返すことでまた眠るのを邪魔するかもしれないが、本当に明石はふらふらだ。 多少のお喋りは容認しても問題なかったかもしれない。「違う、興奮してたとかじゃなくて。お母さん、思い出した」「ホームシックか? クラス内で、親と近い位置で暮らしてるのお前だけだし」「お父さん、ちょっと会いたいかも。お父さん、先生背中大きい。おんぶされたの何時ぐらいぶりだろ。お父さんの背中みたい」「お前の年頃の娘とか、俺幾つだ」 勘弁してっと言っていると、段々明石の口調が大人しく弱々しくなっていった。 むつきの背中に揺られ眠くなったのもあるが、明石教授を思い出したからかもしれない。 本格的にホームシックだなとは思いもしたが。 父親代わりは今だけだと、ずり落ちてきた明石を良いせと背負いなおす。 すると明石も今まで以上に、恐らくは無意識下でキュッと強めに腕を回してきた。 同じぐらい胸も押し付けられたが、我慢我慢だ。「桜子とくーへいなくて良かったね、先生。あっ、そうだ。アキラ、前からおんぶして貰う?」「まき絵、裕奈寝ちゃったみたいだから」「それに先生、動けなくなっちゃうやん」 言外に、亜子は今夜違う意味で抱っこして貰うしと笑っていたが。「むに、お父さん」 そんな明石の寝言ごと背負いつつ、むつきはなんとか上まで京都タワーを制覇した。 先程エヴァがしていたように、上の階段から手すり越しに時折見つめる人影がある事に気付かないまま。 -後書き-ども、えなりんです。察しの良い方でなくとも、裕奈の寝不足の原因はお判りでしょう。そこで裕奈にフラグを立てつつ最後に誰かさんにもたてつつ。次回までこの寝不足は引っ張ります。あと、エヴァが不機嫌だった理由ですが。刀子とは度々喧嘩してましたが、普通に男を取り合うというシチュが楽しかっただけです。600年生きててそんなシチュなかったでしょうし。本音ではもうちょっと楽しみたかったのでしょう。さて、次回は土曜日です。