第百三十一話 私はなにをどう、変わっていけばいいのかな 残暑が厳しい九月も過ぎ去り、秋の風が吹き始める十月が来た。 二学期の中間テストで学年七位を奪取した熱も、今は秋風と共に冷えては過ぎ去っている。 麻帆良祭ほどではないが、十月も浮き足立つようなイベントが目白押しであった。 部活動では二年生が部の先頭に立って、初めて行われる秋の新人大会。 はたまた、学内行事ではクラスの団結力よ再びと言いたくなる体育祭である。 だが盛り上がるクラス、校内を他所に美砂は登校するなり、ボケっと窓の外を見ていた。「おはようございます」 教室内に明るい声であいさつしながら入って来たのは、のどかである。 先日の日曜にむつきに抱かれ、そのまま添い寝して貰った彼女は色々な意味で変わった。「うむ、おはよう」「おはようアル、本屋」「おっはろー」 教室の後ろから入って来た為、席の近かったエヴァや古、明石がそれぞれのトーンで返していた。 これまでののどかであれば、挨拶の声が小さすぎて朝の喧噪に負けていたことだろう。 しかし恋の成就か女になったからか、彼女はおどおどすることが極端に減った。 完全になくなったわけではないが、クラスメイトの前では目を伏せたりすることもなくなっていた。 前向きに良く笑う様になり、むつきに恋をした直後よりさらに可愛くなった。「おはようございます、那波さん」「ええ、おはようございます。のどかさん……」 自称、のどかのライバルだった那波はにこやかにあいさつを返しながらも内心は穏やかではない。 日曜にのどかがむつきとデートしたことは周知の事実である。 その日を境に、急激にのどかが明るく人が変わったようになれば気になって仕方がないことだろう。 そんな彼女を案じつつも、今日は用事がと村上がすすっとそばを離れていく。「長谷川さん、長谷川さん」「ん?」 村上が名を呼びながら近づいたのは、千雨であった。 普段、あまり関わり合いがない相手なだけに、少し千雨は驚いた顔をしていた。「あのね、お願いがあるんだけど」「お願いって私にできることか?」「うん、長谷川さんじゃなきゃ、無理だと思う。私演劇部なんだけど。衣装担当の子が、手を怪我しちゃったの。それで衣装作りが停滞しちゃってて、長谷川さんに手伝って欲しいの」「あー……そういや、先週にネットアイドルの件、暴露したっけ」 ネットアイドルのサイトを見たのかと聞いてみれば、頷かれる。 それ以外にも麻帆良祭の時に、村上はむつきの乙姫スタイルの衣装を手伝ってくれた。 ネットアイドルのコスプレ衣装を見て、それがお願いすることに決めた後押しとなったのだろう。 どの程度手伝えば良いのかは後で聞くとして、中間テストも終わったばかりで暇と言えば暇だ。「んじゃ、昼休みにでもちょっと詳しく聞かせてくれ」「うん、ありがとう。お願いするね」 そんな村上のお願いを笑って引き受けた千雨を、ぽけっとした顔で美砂が見ていた。「ねえねえ、美砂。美砂ってば」「え、なに?」 朝から上の空が多かった美砂の目の前の席に、桜子が楽しげに座って来た。 美砂の前は鳴滝妹の史伽の席だが、彼女は良く姉の風花の席に近い場所にいる。 それが丁度桜子の席で有り、二人は休み時間などに席を交代していることが多い。 その鳴滝妹の席に勢いよく座った桜子が、美砂の目の前で手を振りながら話しかけて来た。「私、探偵とか向いてると思わない?」「なにそれ、唐突に……」 この親友兼恋敵は、何を突然世迷いごとを言い出すのか。「んー、ほら。アタナシアさんが言ってた努力の方向性。私って何ができるのかって考えてみて、この豪運を何時までも嫌ってるのは勿体ないかなって。上手い使い方を考えてみたんだ」「それで探偵って、探し物とか。まさか、犯人捜しじゃないわよね」「どちらかというと、探し物かな。私結構、探し物得意だし」「そう言えば、前に円がリップ探してた時も、箪笥の裏って一発で探し当てたっけ。でも、仕事選ばないと危なくない? 的中率百パーセントだからって、変な人たちが寄って来たり。埋蔵金とか」 今まさに、その勘にでも引っかかったのか、桜子がピーマンを生で齧ったような顔になった。 どうやら彼女が探偵業を始めると、非常によろしくない事態になるようだ。 駄目かと呟いて桜子は自分の席へとふらふら戻っていく。 親友兼恋敵同士、考えることは一緒だったようだ。 美砂が朝から考えているのもそれ、自分に何ができるのか考えていたのである。(私も昨日の夜から、考えてるんだけど……) アンニュイなため息をつきながら、改めて美砂は教室をぐるりと見渡した。 厳密に言えば、二-Aの教室内にいるむつきのお嫁さん達をだ。 水泳で全国クラスの実力を持つアキラに、歩く哲学小さな図書館こと夕映。 他にも医者を目指して頑張り中の亜子に、今しがた村上に頼られた衣装作りの千雨。 あやかは雪広財閥のお嬢様で、人の上に立つ品格があり、纏めるのが上手い。 小鈴や葉加瀬は同年代の枠を超えた頭脳の持ち主で、五月は既にプロ並みの料理家だ。 本当にむつきのお嫁さんたちは、人並み外れたスキルを持っていた。 さよは既にむつきの嫁としてのスキルは完備されており、木乃香も恐らくそれに近いことはできる。 刹那や古、真名は武道四天王のうちの三人だし、和美はあれで世渡りが上手い。 ザジは故郷ではやんごとない身分らしいし、曲芸手品部の花形のピエロもできる。 むつきに甘えてばかりで我儘ざかりのエヴァも、ネット碁の世界では超有名人らしい。「はあ……」 周りを見れば見る程、美砂は自分の凡庸さにため息をつきたくなった。 一番最初にむつきを好きになったのに、一番最初にその良さに気付き、恋人になったのに。 その自分が一番むつきにふさわしいお嫁さんから遠い気がする。 私が正妻だと、ことさら強調するのがその裏返しであるかのように。「エヴァンジェリン、本当にアタナシアさんは世界最強アルか。連絡先を教えて欲しいアル!」「む、古菲か。そうだな、姉は強いぞ。お前が望むのなら、そういう場を用意してやらんでもない」「ほほう……その話、詳しく聞きたいでござる」 何やら珍しく古がエヴァに話しかけていたが、そんなことをアタナシアは言っていたか。 長瀬も興味を持ったらしく、こっそり刹那も耳をそばだてている。 長瀬は違うが、本当に向上心が強い子たちであった。 その向上心が羨ましい、向上しようと思える指針とも言うべき何かがあることが羨ましい。「おはよう、皆。そろそろ、席に着いてくれるかな?」「高畑先生、おはようございます」「おはよう、明日菜君」 そうこう考えている内に、高畑が出席簿を持って現れた。 そう言えば、今日はむつきではなく本来の担任である高畑が来る日だったか。「そう言えば、ついに明日菜も騒がなくなったわね」「ん、なにがよ。柿崎」「いや、明日菜も少しずつ大人に、変わって来てるんだなって」 ついつい声に漏れた言葉を明日菜に拾われ、思ったままを伝えてみる。 物凄く奇妙なモノを見たかのような眼で見られてしまったが。 当人は自分の変化に気づいてはいないのだろう。 高畑の前で無闇矢鱈とはしゃがなくなったことに、むつきの前で時々恋に揺れる乙女であることに。(私はなにをどう、変わっていけばいいのかな) はふうと再びため息をつき、美砂は窓の外にある秋空をぽけっと見上げた。 千雨がそんな美砂を呆れたように見つめているとも知らずに。 村上はお昼休みに食堂ではなく、演劇部の部室へと訪れていた。 ロッカーや衣装ハンガー、舞台の背景用の木材などモノが雑に詰め込まれた部屋である。 今日は千雨への協力願いの為に、特別に部室の鍵を部長から借りて来たのだ。 部室の中央にテーブルを寄せ、パイプ椅子を四つ寄せて準備万端。 何故四つなのかというと村上も千雨も、それぞれ一人ずつ付き添いのような人がいるからだ。「ちづ姉、そんなに珍しい?」「ええ、子ども達と一緒に演劇を見ることはあっても、その舞台裏は知らないんですもの」 部室の隅にある大道具や古い衣装を前に、物珍しげにしていた那波に村上は声をかけた。 当初は一人で千雨とお話するつもりだったのだが、話を聞いてついて来たのである。 その真意は良く分からないが、千雨というよりはその付き添いの方に理由があるに違いない。 着いていっても良いかと聞かれたのは、千雨からもう一人連れて行くと聞かされた後だったからだ。「ちーっす、失礼するぜ」「あっ、いらっしゃい長谷川さん。演劇部の部室へようこそ」「うわぁ……結構ごみごみしてるけど、うちの部室とはまた意味が違うわね」 千雨が連れて来たのは、物珍しげに部室内を見ている美砂であった。「とりあえず二人とも、ちづ姉も座って。ご飯食べながらお話するから」 村上と那波はお弁当、千雨と美砂は菓子パンを食べながら説明を聞いた。 劇の内容はロミオとジュリエットを現代版にし、ロミオは男装女子、ジュリエットは女装男子。 なんだか早乙女が喜びそうな内容だが、一般的な視点からのコメディである。 現代版のロミオとジュリエットは既にハリウッドでも映画化されたことはあるが、それを男装女子、女装男子にするのは中学生らしい柔軟さか。 それで今回、村上が千雨にお願いしたいのはダンスシーンでのドレスだそうだ。「舞台は現代だから衣装は皆の私服を持ち寄るんだけど、ダンスシーンだけは流石にそれっぽい衣装が必要だから。長谷川さんにドレスをお願いしたいの」「ふーん、てか。カジュアルなので良ければ、既に何着か持ってんだけど。委員長に着て貰って、社交界に出て貰ったこともあるし」「えっ、本当?!」 まさか既に実物があるとは思わず、村上はお弁当を食べる手を止めて驚いていた。 最悪は演劇部の古い衣装を使いまわし、表面だけを新しく見えるようにお願いしようとしていたのだ。「何着か持ってくるから、劇のイメージを教えてくれ。王子、この場合ジュリエットが王子か? その衣装のイメージとか。あと着る奴、まさか男じゃねえよな?」「大丈夫、女の子。一部ネタバレになっちゃうけど、そのシーンだけは普通な格好に戻るから」 お弁当と一緒に持ってきた台本を机の上に広げ、そのシーンの状況を言葉で説明し始める。 王子の衣装はもちろんのこと、他の役者がどの立ち位置にいるのか。 背景がどんな色合いでスポットライトがどう当たるのか、事細かに千雨に説明していく。 村上の頭の中に小さな劇場があり、現在進行形で演劇がなされているようだ。 それに千雨が一つずつ頷き返し、村上の頭の中の劇場を自分の頭の中でも再構築していく。「ふふ、夏美ちゃん楽しそう」「凄いわね……」 こんな饒舌な村上は初めてと美砂が驚けば、那波も妹分のそんな姿に笑みを浮かべる。「おい、なに他人事みたいに言ってんだよ柿崎」「へ?」 傍観者と化していた美砂に、ふいに振り返った千雨が呆れた表情でそんなことを言いだした。 だが言われた美砂の方こそ、何を言われたのか分からなかった。 そもそも美砂は何故この場に自分が連れて来られたのか、聞いてはいないからだ。「他人事って、そりゃあ出来れば手伝ってあげたいけど……私、裁縫できないし」 もちろん、家庭科の授業レベルのボタンを縫い付けたりするレベルなら可能だ。 だが千雨レベルの衣装作りはもちろん、さよのように破れた部分をぬいつくろうのは無理である。 出来ない、そう思うとまるで自分がむつきの相手として劣っているようで胸が痛む。 知ってか知らずか、そんな美砂の反応を前に大きくため息をついた千雨が言った。「誰も、お前にそんなことは期待してねえよ」「じゃあ、なんで連れて来たのよ」 流石にそのため息の向き先に気づいた美砂がイラついた様に語尾を荒らげる。 突然の緊迫した空気に村上はおたつき、那波もあらあらと困った様に頬に手を当てていた。「私の衣装を誰よりも映える着こなしが出来るのがお前だからだよ」 一瞬、千雨が何を言っているのか美砂には理解できなかった。「私が一番最初にお前にコスプレ趣味のこと話した時に、勧誘しただろ。なんで勧誘したか分かるか?」「同じ趣味の仲間が欲しかったから、私の使い道はちょっと違ったけど……」「まあ、それもあるが。大鏡の前でポーズを決めるお前を見て、私は驚いた。衣装の出来栄え以上に、綺麗に見えたからだ。お前は衣装に合わせて、それを着た時に人からどう見られるか。意識してじゃねえが、本能的にわかるんだよ」「長谷川……急に人を持ち上げて来て、キモい」 それが照れ隠しなのかは不明だが、千雨は額を引くつかせながら美砂の首にきつく腕を回した。 暴言のひどさもそうだが、自身も背中がむずがゆく手仕方がなかったからだ。 そして美砂の首を絞めつけながらも、その耳に届くだけの声量で続ける。「良いから、聞け。あんぽんたん。私はな、先生の正妻はお前にしか務まらねえと思ってる」「長谷川、ちょい痛い痛い!」 タップを続ける美砂ではあったが、それは殆どフリであった。「殆どの子は、大なり小なり先生に救われて恋をした。けどお前だけが違う、特別なんだよ」「私だけ?」「確かにお前も救われた口だが、逆に先生を救い返しただろ? そんなのお前だけなんだよ」 特にひかげ荘にいる期間が浅い子ほどそれは顕著で、むつきが凄く弱くてもろかった頃を知らない。 さらには風俗に金をつぎ込んで散財していた頃の事も。 むつきは美砂と付き合う様になってから、辛いときは彼女に慰めて貰うようになった。 自分の弱いところを受け止めて貰い、引っ張り上げて貰うことさえあったのだ。 美砂以外の子たちがむつきを知ったのは、そのどん底から少しずつ強くなってから。 特に最近お嫁さんの一人に加わったのどかなどはそうであった。 彼女にとってむつきは強くて優しい王子様であり、その根底に弱さや脆さがあることを知らない。「だから、後からしゃしゃり出て来た奴に負けんな。美しさを求めて何が悪い。そりゃ、自分の美しさだけを求めりゃ、先はない。でもお前は美しく見せることを人に伝えることができる」 今や首を絞める腕に力は全く入ってはおらず、美砂はその千雨の腕に触れながら考えた。 確かに美砂は千雨の衣装作りを趣味を知ってから、コスプレに付き合うことが多々あった。 それを直接作ることはできないが、出来上がったとに何処が良くて悪いか意見を言ったこともある。 千雨は自分で着ることもあるが、どうしても見た目に拘って着る人の気持ちが欠けることがあるのだ。 元からネットアイドルとして写真を撮る一瞬のことを考えているだけの方が多かったからだろう。(いずれ劣化する若さに任せた肉体美だけじゃない。綺麗になるってそれだけじゃない) むつきのお嫁さんとしては、いずれ素っ裸に剥かれてしまうのだが。 綺麗だねと言って貰える衣装の着こなし、今はまだそんなに必要ないが化粧やネイルアート。 年月を経て容姿はいずれ年相応になっても、手に入れたそれらは劣化しない。 千雨の言う通り流行を追う目や、綺麗に着飾る方法は一つの技術として誰かに教えられる。 それを仕事にしても良いし、何時かできた子が女の子なら教えてあげる事もできるだろう。 決して美しさを追い求めることは無駄でも何でもないのだ。「そっか……」「そうなんだよ」 そう呟いた千雨は美砂の首から腕を外し、驚いていた那波と村上にすまんと手で誤った。「悪い、悪い驚かせた。別に喧嘩してたわけじゃなく、私らは普段はこんな感じだ」「あー、びっくりした。私が喧嘩させちゃったかと思って、凄くびくびくしちゃった」「喧嘩する程、仲が良いと言っても限度があるから。駄目よ、長谷川さん。首を絞めたりなんかしちゃ」 千雨がそう言うも、まだ村上と那波は半信半疑。 された美砂の方が怒ってはいないかと、チラチラ俯き加減の美砂へと視線を泳がせている。 だが次の瞬間、パーンっと千雨の背中に美砂の手のひらが叩きつけられた。「痛った!」「よし、分かった。夏美ちゃん、私にもう一回、説明を聞かせて!」「てんめ、この野郎……」「ほら、長谷川よそ見しない。まあ、アンタの衣装をどれでも着こなせるのは、彼氏持ちの可愛い美砂ちゃんしかいないから。しょうがないわねぇ」 にやにやと笑う美砂を前に、千雨は必死に握り込んだ拳を振るうのを耐えていた。 しかし折角気を利かせて助言してやったと言うのに、この仕打ち。 絶対何か他の方法でやり返すと、心の閻魔帳に刻み込んで震える拳を静かに机の上に置いた。「む、村上……続きをするか。大丈夫、この馬鹿なら猫の手ぐらいには役に立つ」「長谷川さん、セリフと顔が真逆なんだけど。ちょっと、いやかなり怖い」 落ち着いてと村上が持ち上げた手もどこまで効果があることか。 喧嘩でこそなかったがこれでは話が進まないと、美砂は自分で乱した空気を入れ替えることにした。 今朝方、二人の会話を小耳に挟んだ時も、まだ慌てるようなことでもないのだ。 それに当初から少し気になっていたこともある。「ところで、那波さんはどうして夏美ちゃんについて着たの? 私は一応理由があったみたいだけど」「ええ……夏美ちゃんから、柿崎さんも来るって聞いたものだから」 意外や意外、那波の口から目的が美砂と言われ、当人はもちろん拳を握っていた千雨もその手を緩めた。「その、お恥ずかしい話なのだけれど……」 美砂の思惑は一部上手くいき、那波が両手を大きなお胸の前でもじもじさせたことで完全に空気が変わる。 彼女がそんな仕草を見せる要因は、むつき以外に考えられなかった。 だが恋愛相談にしては、それで美砂を選ぶ理由が分からない。 何処からか美砂だけでなく、千雨までむつきの毒牙に掛かっていることを知っているわけでもないだろう。 そもそもそれなら、美砂ではなく千雨も名指しに加わっていなければおかしな話だ。「のどかさん、一皮剥けたって言うのかしら。凄く可愛くなったでしょう?」「んー、確かに。同じクラスの地味友達と思ってたけど。すっかり置いていかれちゃった」「宮崎への評価が低かったのか、自分への評価が低いのか。そりゃ、迂闊な一言だ」「夏美ちゃん、後でみっちりお化粧教えてあげる。大丈夫、そばかす消すだけでも凄く変わるから」 千雨の言う通り、美砂のとても良い笑顔に村上は気圧されてしまった。 断ろうにも断れない、凄く良い実験材料を前にした科学者のように美砂が笑っていたからだ。 遠慮するではなく、また今度となんとかその視線をかわし、話の中心をまた那波に渡す。「そうなの、夏美ちゃんたら自分に自信を持ってくれなくて。こんなに可愛いのに」「渡したそばから、ちづ姉が裏切った!」「いや、まあ順番に処理してこうぜ」 途端に那波が村上の頬をえいっと突きながら話をまぜっかえした為、千雨がそれはまた今度と横に侵せた。「そうそう、のどかさんが女の子として一皮剥けたって話だったわね。先生とのデートの後で」「あー……」「あー……」 特に後半の一言で、千雨も美砂も声をただ上げて納得するしかなかった。 一皮むけたというか、乙女の膜がなくなったというか。 のどかが物理的にも精神的にも乙女を脱したのは、ひかげ荘の住人なら誰しも知っている。 知っている上に、その瞬間を見ていてくださいとお願いされ、しっかり見ていた。「それでね、私少し焦ってしまって。先生と何か特別なことがあったのか。出遅れてしまったのではないかって」 それは相談する相手を間違えている気もしたが、言えるわけもない。「だから、柿崎さんに聞いておきたくて」「そりゃ、恋愛では私の方が先輩だけど。一体何を?」「だからね……」 ごにょごにょと肝心な所を濁す為、那波の言葉が聞き取れない。 胸元では手弄りは続行中で、かぁっと火照った頬は真っ赤だ。 それは美砂や千雨が何を言いたいのか聞こえず眉を潜める度に強くなってくる。 どうしたのと村上に顔を覗き込まれ、さらにそれは強くなった。「ちづ姉?」「夏美ちゃん……耳、塞いで貰ってても良い?」 せめてこの妹分にはとでも思ったのか、夏美の純粋な瞳を前に那波がそんなことを言いだした。「私、そんなに役に立たないかな。ちづ姉とは随分付き合い長いけど、相談一つ受けられないかな?」「うぅ……」 だがその純粋な瞳を向けられ、逆に退路を塞がれてしまった。 先程までならまだ何でもないと言えたが、今行ってしまえば村上を信頼していないと同義になってしまう。 これはもう意を決して言うしかないと那波は、両手を膝の上に置いた。 落ち着けと心の中で念じながらキュッと両足を引き締め、どうにでもなれと言った。「エッチなことをしたことのある柿崎さんに、その時のことを聞いてみたかったの!」「あっ、なーんだ。初めてセックスした時のことを聞きたかったんだ」「んだよ、勿体ぶりやがって……恥ずかしがるようなことか?」 だが那波のそれこそ人生を賭けたような叫びは、美砂と千雨にさらっと流された。 それはもう、宿題を忘れた子が仲の良い子に見せてとお願いした時のような軽さであった。 胸の谷間や腹と乳房の間にかいた汗でさえ引っ込んだ。 それぐらいに衝撃的な反応であった。 オナニーですら恥ずかしい単語だと思っていた那波が、歪曲してセックスについて聞いたのに。 なんだと美砂も千雨も肩の力を抜いた様子さえ見せていた。「ち、ちちち……ちづ姉、まさか!」 だから那波の言葉に、真っ赤に顔を火照らせパニックになった村上の様子が逆にほっとししてしまう。「うんうん、本屋ちゃんの様子を見て那波さんはこれしかないって思ったんだ」「ええ……実は、以前。それとなく誘ってはみたのだけれど」「嘘、ちづ姉。一体何処で?!」「ほら、孤児院の倉庫の整理を頼んだ日、夏美ちゃんに閉じ込めてってお願いしたでしょ。結局、院長先生が閉じ込めてくれたのだけれど。あっ、もちろん何もなかったわ。ちょっと怒られただけで」 詳しく千雨と美砂がそのことを聞いてみると、確かになにもなかったろう。 その頃は、むつきは勃起不全に掛かっていて立てなかったのだから。「悪いけど、私は殆ど酔った勢いだったから。ちょっとおぼろげで……長谷川は痛ッ?!」「お前は本当に……なんで私まで非処女だってバラしてんだよ!」「ぁっ、やっちゃった。めんご」「超、むかつくぅ!」 こいつの面倒なんか見るんじゃなかったと後悔してももう遅い。 村上は腰を抜かしたように呆然と、那波は口元に両手を置いて他にもいたなんてと驚いていた。「はあ……で、那波は具体的に何を聞きたいんだ?」「ぐ、具体的にですか?」「それが分からなきゃ、答えられねえよ。体位だとか、破瓜の瞬間は痛かったのかとか。あるだろ?」「もしかして、那波さん。セックスに明確な手順があるとか、思ってる?」 気軽に尋ね返す千雨と美砂を前に、那波と村上はもはや宇宙人を見る目である。「ないんですか?」「ないよ。その時々で。たぶん、那波さんが妄想してる通り、甘い言葉を囁かれてキスして優しく押し倒されて、後はお任せってこともあるし。ふとした瞬間に、ムラムラしたって後ろから覆いかぶさられることもあるかな」「まあ、先生も大人だし、そこんところは大丈夫だろ。一先ず素敵な一夜とか、大人びたとか考えは捨てた方が良いぞ。いや、マジで予備知識なんて役立たずだから」「そうそう、年上が相手の時は全部やってくれるから。全部、相手の言うことにはいって答えるぐらい? キスするよって言われたら、はいって答えて。脱がすよって言われたらはいって答える感じ」 美砂の脱がすという言葉で、那波本人はもちろん夏美も彼女の胸に視線が注がれていた。 想像したのだろう、美砂が言った通りむつきにキスするよと言われ、脱がすよと言われた場面を。 那波が自然と胸を隠す様に腕をきゅっと交差させたのは仕方がないことだろう。 それこそその時にならなければ、那波がどういう行動をとるかは分からない。「そ、それじゃあ……良く聞く、天井の染みを数えている間にって」「うん、そんな感じで良いと思う。結構名言だと私は思うよ。お互い初めてなら、協力しあわなきゃいけないけど、先生はそうじゃないんだし」 なにか、美砂の言葉に違和感を感じたが、那波はそれを気にしなかった。 気にする余裕がなかったとも言える。「最後に、これが本当に最後。あの……避妊の仕方なんだけれど」「事前にすること前提なら、先生が用意するだろうけど。那波は迫る側だからな。超に言えば、ピルくれるぞ。あいつそういう商売もしてるから」「そうそう、私たちも超りんからピル用意して貰ってるから。中出しの方が喜んでくれるし。いいな、初めてで中出し。超りんの協力がなかった頃は、先生全然中出ししてくれなかったから」 あははっと当時を思い出し美砂が笑った時、そこで確実に時が止まった。 那波が瞳を大きく開いて驚きと共に美砂を凝視している。 一時遅れて話題が話題なだけに真っ赤な顔を両手で覆っていた村上も、美砂へと振り返った。 彼女が先ほど、なんと言ったのか。 個人名かどうかは凄く微妙なところだが、先生がと言っていた。 美砂本人も、口が滑ったとばかりに冷や汗をかいて、固まっている。「いや、こいつの彼氏は塾で講師やってる大学生でさ」「そ、そうなの。彼ってば、ベッドの中でも先生って呼んであげると凄く興奮してつい癖で」 千雨のナイスフォローに乗っかり、美砂がまいったねと架空の彼の恥部を暴露する。 だが村上は兎も角、那波の疑いの眼差しは弱まる気配はなかった。「柿崎さん」「な、なに?」 美砂の声が少し裏返り、疑惑の眼差しはますます強くなったが、ふいにその視線が和らいだ。 気のせいなどではなく、普段の那波のクラスメイトを思いやる優しいまなざしであった。「こうして相談している私の台詞ではないですけれど。気を付けてくださいね。乙姫先生みたいな、良い人はなかなかいないんですから」「んだよ、のろけかよ」「あはは、私の彼も負けてないもん」 多少意味ありげではあったが、那波の言葉に千雨も美砂も笑って答えられた。 そのまま一部ぎこちないながらも那波の相談は続き、ピルを予め飲んでおくことで決着はついた。 -後書き-ども、お久しぶりですえなりんです。約一年ぶりの投稿になります。影が薄い、薄いと言われたメインヒロインのお話です。特に意図したわけではないですが、ひかげ荘のヒロインたちは原作とは異なる将来像、夢を抱きます。特に顕著なのが亜子や千雨、今回は美砂になります。原作の美砂が将来どうなったか忘れましたが、ひかげ荘のお話の中では美容関連に進む決意をしました。発端はむつきに綺麗と思われ続けたいだけですがwあと最近加わったヒロインと美砂との微妙な差別化ですかね。一応美砂もむつきに救われてますが、救い返してもいます。ですが一部の子にとっては、むつきは救ってくれる王子さまでしかないとか。のどか辺りが、王子様としてしか見てない感じですね。次回更新は未定ですが、久々に更新してみました。