結局、ハルカの容体が安定したのは空が白むころになってからだった。
もうオーラが残っていない空っぽに近い状態だが、それでもなんとかハルカは「纏」を憶えた。だけどあのまま放置していたら間違いなく死んでいただろうなと確信できる。
「纏」が出来ない相手をサポートする手段として「周」がある。
オーラとは密度の高い方から低い方へ流れるのが自然な法則だ。ならば相手の体を覆うオーラの密度を、体内のオーラ密度よりも高くしてやればそれ以上のオーラは漏れ出ないことになる。
私は一晩中、自分のオーラでハルカの体を包み続けた。ハルカのただ漏れてるだけのオーラでは私のオーラの膜を破ることはできない。そして私のオーラの膜の中に充満していくハルカから漏れたオーラが、残存オーラの密度よりも高くなった状態を維持し続けて、ハルカの体に「纏」の感覚を覚えこませたのだ。とても時間がかかったが。
流石の私も疲労困憊だ。高等技術の一つである「周」を、人間大の、しかもオーラを放つ対象に広げ続け、それを六時間以上維持し続けなければならなかったのだから。あと一時間この状態を維持できたかと問われると自信はない。
普段ならとっくに起きて活動を開始している時間だが、流石に今起きていることはできない。
ひとまず休んでおくか、と考え寝室を出た。
すっかり私の定位置となった硬いソファーが、今日ばかりはとても心地よかった。
ぷるるるるっ、と飾り気のない呼び出し音が耳元で鳴った。
流石に疲れがまだ残っており、寝起きの頭がすっきりとしない。体を起こすのも億劫で、手探りで携帯を掴んで電話に出る。
「ふぁい、こちらアゼリアです」
このとき、あくび混じりの寝ぼけた声で返事をしてしまったのは失態だったと言わざるを得ない。
私の携帯に電話してくる人物なんて限られているというのに、何故相手の名前を見なかったのか。
「いつまでも寝ているとは、いい身分ですねアゼリア。上司である私が既に働いているんですよ。無能なら無能らしく、空いた時間でも私の役に立とうと尻尾を振ったらどうなんですか」
声を聞いた瞬間、顔をしかめた。朝からあの上司の声を聞かなきゃいけないなんて、なんて最悪な一日なんだろう。
「……申し訳ありません、カーティスさん。何か御用でしょうか」
「用事がなければ誰があなたのところに連絡を入れると思いますか。そのくらい察しなさい。まぁ、いいでしょう。仕事ですよ、アゼリア。昨晩組の金を持ち逃げした馬鹿がいます。まったく、余計な手間を増やしてくれるものですよ。こういう馬鹿は何故こうもゴキブリみたいに次から次へと湧いてくるのでしょうね。ボスは大層お怒りです。というわけで、あなたの仕事は害虫駆除ですよ。クズの死体と持ち逃げした金を回収して来なさい」
……マズイ、今日仕事が入るのはマズイ。
昨晩の疲労がまだ全然抜けていない。仮眠をとって若干の回復を見たとはいえ、残っているオーラは全力時の二割と言ったところだろうか。これほどの不調で戦闘に臨んだ経験は流石にない。たとえ格下が相手だとしても、今この状況で戦うのは危険だ。
ほとんどダメ元で、一縷の望みをかけて言う。
「……カーティスさん、お願いです。今日だけは勘弁していただけないでしょうか。いえ、ほんの少し、三時間程度でいいんです、時間を戴けませんか?」
「論外ですね。何故われわれがあなたの都合を聞かねばならないのですか。持ち出した金は、あなたの命よりも重いんですよ。それに逃げ出した馬鹿は、移送屋のコーラルに依頼をしたという情報が入っています。これだけ言えば状況は判るでしょう?」
「う……」
移送屋コーラルというのは、「移動」に関する何らかの念能力者だ。
能力の詳細は判らないが、おそらくは瞬間移動に類するものと考えられている。
その能力を用いた運送業は、裏の業界でも重宝されている。いかなる貴重な商品であっても安全かつ確実に目的地に届けられるのだから。
そんな能力者が依頼を受けたならば、コーラルが到着する前に持ち逃げした者たちを捕えなければ回収は難しいということだ。
「それともあなたは、組に逆らう気ですか……? それはよくないですね……妹さんが心配しますよ? 思わず寝込んで、もう二度と起きれなくなるくらいに……」
「な! そ、それだけは……!!」
「そう思うのなら、さっさと仕事に行きなさい。迎えの車をそちらへ向かわせました。詳細はそこで聞いてください」
「は、はい……」
ギリッ、と奥歯が軋む。悔しさのあまり、握りしめた掌からは血が滴っていた。
「ああ、それだけでは不満でしたら、そうですね、褒美をあげましょう。今日の正午までに任務を完了できたなら、病院に行ってもいいですよ。特別に許可してあげましょう」
「……ありがとうございます。きっと、期待に応えてみせましょう……」
「それでは、せいぜい頑張りなさい」
ブチっと電話が切られた。
「くそっ……!!」
憎悪に近いほど嫌っている相手に逆らうことが出来ない。
いかなる理不尽な命令でも聞かなければならない。
自分の命など省みずに組織に仕えなければならない。
それが私に与えられた束縛だった。
私には、逆らうことの出来ない首輪が嵌められているのだから。
胸の中のムカつきを飲み干すように、水差しに入れられた水を一口飲んでから準備を始める。
残された水は、真っ黒に変色していた。
いつものパンツタイプのスーツに身を包み準備を整えると、程よく迎えの車が現れた。
後部座席に乗り込み、運転してきた黒服の男から渡された詳細を纏めた資料に目を通す。
今日の朝四時ころ、組の金庫を荒らしていた武闘派構成員ルーク・バンクス(32)は物音に気付いてやってきた構成員一名を殺害し、現金三千万ジェニーと二億五千万ジェニー相当の宝石類を奪い逃亡した。
ルーク・バンクスは逃亡に際し三名の念能力者を護衛として雇い、また移送屋コーラルに逃亡の依頼をした。彼自身もまた念能力者であり、オーラを高熱に変える変化系能力を持つ。
現在は郊外の倉庫内に潜伏しており、掃除人到着と同時に攻撃を開始するべく包囲網を広げている。
尚コーラルの到着時間が判らない以上、可及的速やかな対処が求められる。
書かれていたのはおよそこんな内容だ。
念能力者が合計四人、時間制限付き、さらにこちらは疲労している。状況は悪いと言わざるを得ない。
となれば、取るべき選択肢は一つしかない。奇襲をかけての短期決着だ。
どのみち私には長期戦に臨めるほどのオーラは残されていないのだから。
そう考えているうちに車は目的地である郊外の倉庫についていた。
倉庫は、なかなかに広い。見るからに分厚いコンクリートで作られており、見渡す限り正面の扉以外に入れそうな隙間はない。相手はどうやら、コーラルが到着するまで完全な籠城作戦に出たようだ。
「状況は?」
「あ、お疲れ様ですクエンティさん。敵は間違いなくこの倉庫の中にいます。立て篭もって出てくる様子はありません。ここを中心に狙撃班を三組配置しましたので、もしも顔を出すようならその場でハチの巣です。それと周囲に包囲網を敷いておきました。もしもコーラルのやつが近付いてきたらそこで足止めします」
「どちらも無駄だ。すぐに撤退させろ。奴らはコーラルが到着するまで籠城を決め込むつもりらしいから、まず出てこない。コーラルにしたって、やつは移動系の念能力者だ。包囲網なんかなんの意味もない」
「は、はいっ! 申し訳ありません!」
先行していた部隊のリーダーは念能力者ではなかったため、こうした思考をしてしまったのだろう。
念能力は万能の力ではない。しかし一方で、念能力者以外には対処が難しい力でもあるから、仕方がない。
「この倉庫の入り口はあの扉だけか?」
「はい。あの他には窓ひとつありません」
「そうか……」
これは正面から馬鹿正直に入ったら、放出系能力者のいい的だな。
せめて相手に一瞬でも隙を作らせる何かが欲しいところだ。
しかし、気になるところが一つある。
「これでは倉庫の中からこちらを見ることも出来ないな」
「え、ええ。それに関してはしっかりと調べました。こちらを覗けそうな穴もありませんし、近くに監視カメラの類がないことも確認済みです。あちらからも我々の状況は見えていません」
そんな筈はない。籠城という作戦を取る上で、相手側の動向が判らないというのは凄まじいストレスになるはずだ。
どこかにきっとこちらの動向を知る手段があるハズだ。機械でないのなら、きっと念能力で……
「あのカラス……」
ふと、遥か頭上で旋回しているカラスが目に入った。パッと見にはごく普通のカラスにしか見えない。
ゆっくりと、一定の速度でカラスは巡回している。コースを一度たりとも変えることなく、何周も何周も。
「先ほどの狙撃班はまだいるか? どこからでもいい、あのカラスを撃ち落としてみろ」
「は……あのカラスですか?」
「そうだ。早くしろ」
不可解そうな顔をしているが、説明する必要はない。
あのカラスは動きがあまりに不自然すぎる。私の予想だとまず間違いなくあれは念獣だ。
おそらく視覚の共有が可能なタイプ。あの眼を通じてこちらの動向をうかがっているのだろう。
果たして、それは証明された。
銃弾は確実にカラスの右翼を貫いたが、カラスは痛みを感じた様子もなく同じ動きを続けている。
「ちっ……こちらの動向は丸見えというわけか」
あのカラスはきっと偵察用の念獣で、戦闘力がない代わりに消滅させることも難しいタイプだろう。
ただでさえオーラが少ない状況で、そんな相手にオーラを消費するわけにはいかない。
まぁ、やることはどうせ変わらないんだ。
短期決戦。基本は何も変わらない。ただ不意打ちが利かなくなったというだけのこと。
正午まではもうあまり時間がない。さて、早いところ片付けるかと意気込んで、扉の前に立った。
くそったれ、と俺は心の中で毒づいた。
年下のくせに厭味な上司に我慢して我慢して、この組で働き始めてもう十五年にもなる。命がけの仕事だというのに、俺の給料は大して良くならないし、ちょっとのミスで愚痴愚痴と文句を言われなければならない。俺の有能さを理解してない低能な上司め。あのカーティスとかいう奴は絶対いつか殺す。
で、いい加減むかついて、こんな仕事やってられるか! と組の金を退職金代わりにもらって逃げ出したら、こんなときだけは仕事の早い雑魚どもがもう追いすがってきてやがる。
本当にムカつく連中だ。大体こんな金、組織全体から見たら二束三文みたいなもんだろうが。今までの俺の組への貢献を考えれば、もっと貰ってもいいくらいだ。
だがまぁ、それもすぐに終わる話だ。移送屋のコーラルがここに来れば、あとは遠い国に送ってもらって、ほとぼりが冷めるまでおとなしくしていればいい。そうだな、東にあるジパングとかにでも行こうか。
「おい、ルーク。今念能力者が着いたみたいだぜ」
「ああ、マジかニコル。どんな奴だ?」
メガネをかけた痩せぎすの男、ニコルが声をあげた。
今回の逃亡に際して雇った念能力者三人は前からの知り合いの奴らで、今回の儲けの半分をおれが、残り半分を三人で分けることになっている。
外にいるカラスの念獣と視覚を共有しているニコルは俺たちの生命線だ。外の状況が判らなかったら行動の取りようがない。
「若い女だ。まだ二十歳にもなってないんじゃないか、こいつ。セミロングの黒髪を首のところで軽くしばってる。化粧気はないが、かなりの美人だな」
「……アゼリアかよ」
「お、知ってんのか、ルーク?」
金髪を刈り上げている男、カールは興味津々といった様子で聞いてきた。美人な女と聞くとすぐ反応しやがる。
「能力は知らないけどよ、そいつはアゼリア・クエンティ。確かまだ十七歳くらいだったかな? とにかく若い小娘だ。そのくせ俺様を差し置いて、組織最高の殺し屋の称号なんか貰ってやがるムカつく奴さ。はっ、大した経験もねぇくせに、どうせボスの寝室にでも潜り込んでその称号をもらったんだろうよ」
「ほうほう、そいつぁ楽しみだな。そいつが強いのが戦場だろうとベッドの上だろうと、どっちみち楽しめるだろ?」
「ちっ、状況見てから言いやがれ、バズゥ」
筋骨隆々の大柄な男、バズゥは傷だらけの顔を嬉しそうに歪めた。戦闘好きで女好きか。野蛮人一歩手前だな。
だがまぁ、こんな奴らでも俺の命が懸かってるんだ。存分に働いてもらうぜ。
「……やべーな、その嬢ちゃん、俺の念獣に気付いてやがるよ、ぜってー」
「別に気にすんなって。どっちみち入ってくるにはそのドアからしか道はないんだ。そしたら入ってきた途端俺の的さ」
カールは自信満々の表情で愛用の二丁拳銃を構えた。
「おいおい、お楽しみは取っておいてくれよ。せめて夜の楽しみくらいは」
「おー、そいつはもちろんだ。金も女も一度に手に入るなんて、最高だなこりゃ」
「違いねぇ」
野太い声で笑い合う二人の声に、俺は苛立ちを隠せなかった。命がかかってるってのに、こいつらは……
「おい、来る―――」
来るぞ、と最後まで言われることはなかった。
ダンプカーでも突っ込んできたようなとんでもない音がすると、金属製の巨大な扉がひしゃげながら一直線にこっちに向かって飛んできた!
「ちぃっ!!!」
自分の能力に対する自信に恥じない、見事な早撃ち。カールは二丁拳銃をすばやく構えると、計十六発の念弾を一息に打ち切って扉を迎撃する。
「くそぉっ!! 止まらねえ!!」
だが、暴力的なエネルギーを蓄えた鉄塊はその速度を緩めようとはしない。カールの能力は八発の念弾を打ち切ると再装填が必要となる。結局三十二発もの念弾を撃ち込んで、ようやく鉄の扉は粉々になった。
「おい! 気をつけろ、てめーら! どっかその辺にあいつが……」
いる、という必要はなかった。
粉砕された扉の陰、飛び散る破片を縫うようにして、絹糸のような黒髪が靡く。
こいつ、扉の陰に隠れて、一気に間合いを詰めてきやがった……!!
長い足が鞭のようにしなる。俺は不意を打たれて何も反応出来てない。やべぇ!!
「ふんっ!!」
ナイスだっ! そんな喝采が心の中で巻き起こった。脳内会議はスタンディングオベーションだ。
横から飛び込んできたバズゥは馬鹿でかい鋼鉄のハンマーを振り回して、空中で蹴りを放とうとしていたアゼリアをぶん殴った。殺ったか……!?
「浅いか!」
攻撃を紙一重で避けたのか、アゼリアは空中で容易く体勢を立て直し、滑るようにして着地する。
今のでおとなしく死んでおけばいいものを……!!
「行け! 奈落の獣!!」
ニコルの両脇に二体の念獣が出現する。
3m近い巨大な黒毛の猩々と、鋭い牙の隙間から舌を垂らした黒い野犬だ。
猩々はまるでダンプカーのように正面から、黒犬は俊敏な動きで回りこみ、背後からアゼリアを襲う。そしてその攻撃の隙間を縫うようにカールの念弾が飛び交った。
前後左右から、死角を突き、逃げ道をふさぎ、一瞬の間隙すらないコンビネーションが炸裂する。
しかし―――当たらない。
怒涛の攻撃を受けてもアゼリアは崩れない。二人の攻撃を紙一重で見切りながら、冷徹な紫の瞳で俺のことを観察してきやがる……!
くそっ、使えない奴らめ!!
「何やってやがんだ!! どいてろ、てめーら!」
オーラを右拳に集める。
「硬」により一か所に集中したオーラは、とてつもない熱量を放つ球体と化す。
「小さな太陽!!」
文字通り太陽のような熱を振りまきながら、オーラの塊はアゼリアに向かって飛ぶ。
灼熱の大気はその進路にあるものを焼き尽くしていく!
「くっ!」
突然変化した攻撃のリズムに対応できなかったのか、アゼリアは俺の攻撃を避けはしたものの、体勢を崩した。
そこに振り下ろされる、巨人のような猩々の両拳。アゼリアには先ほどまでのように紙一重で見切る余裕などなく、大きく飛び退くしかない。
それが悪手だ……!
「なっ!」
大きく飛び退いた先で、アゼリアの目が驚愕に見開かれた。
着地先の地面が、ない。
否、それは正確ではない。そう、確かにコンクリートだったはずの地面が、いつの間にかドロドロに溶けた沼のようになっている……!!
「ふふん。かかりおったな。溶解鉄槌……このハンマーでぶん殴った、生物以外のものは、みな溶ける」
バズゥは得意げに嘯きながら、巨大な鉄槌を肩で遊ばせている。
見れば倉庫内の他の場所にも、同じような液体化したコンクリートの部分がいくつもあった。
カールとニコルが戦っている間に、バズゥはそこら中に罠を張っていた。
「そして……」
バズゥがハンマーを振り上げる。
両足を捕えられているアゼリアに避わす術はない。
「終わりだぁ!!」
今度こそ、殺った! そう確信した。
全力であのハンマーを打ち下ろされて生きているなんて不可能だ。これで、組最強といわれた奴を殺した……! この俺が……!
「なんだよ、バズゥのやつ結局殺っちまったのかよ。お楽しみが無いじゃねーか」
戦闘よりもこの後のことを楽しみにしていたらしいカールは、つまらなげに言って拳銃をしまった。
何はともあれ、これでしばらくは大丈夫というわけだ。ふつふつと喜びが湧いてくる。
「よーし、よくやったぞ! ……バズゥ?」
俺が密かな喜びを噛みしめながら、功労者であるバズゥを労おうとしたその時。
ゴトン、と音をたてて、バズゥ自慢のバトルハンマーが落ちた。鋭利な刃物で分解されたように粉々になって。
そしてズズズッ、と奇妙な音がしたと思うと……ずれていた。
バズゥの、上半身と、下半身が、斜めにずれていった。
重い音をたてて地面に落ちる上半身。立ったままの姿の下半身が、どこか滑稽だった。
「ふぅ……ギリギリ間に合ったか」
アゼリアは、使い手が死んだことで能力が解除され、再びコンクリートとなった床から、埋もれていた右足を引っこ抜いた。
まるで埃が払われていくように、足を固めていたコンクリートはボロボロとはがれていく。
その体には、巨大なハンマーで打ちすえられたような跡は何一つない。
一体、こいつは、何をしやがった……?
「つ、捕まえろ、奈落の獣!」
いち早く意識を取り戻したニコルが念獣に命じる。
立ちはだかる猩猩は、アゼリアと比べるとまるで大人と子供くらいの大きさの違いがある。
その山のような巨体が、体でアゼリアを抑え込もうとして、その瞬間アゼリアの姿が消えた。
「うわぁあああっ!!」
まるで台風を直接ぶつけたような衝撃が迸ったかと思うと、猩々の巨体が吹き飛んだ。
ニコルを護るように控えていた野犬も、その後ろにいたニコルも巻き込んで、巨体は壁に叩きつけられて消滅した。
今の一瞬で猩々の懐に入り込んで、たったの一発で吹き飛ばしたっていうのか……?
「な、何しやがったてめえ!」
カールは半ば恐慌状態に陥っていた。両手に構えた二丁拳銃を、後先考えずにアゼリアに向けて乱射する。
だが、当たらない。
まるでアゼリアの周りにバリアでも張られているかのように、念弾は着弾の直前に左右に逸れていく。
「ち、畜生畜生畜生!!」
再装填し、それしか知らないかのように発砲を続ける。
しかし結果は変わらない。撃ち手の意思に反して、念弾がその敵を貫くことはない。
「ちっく……しょ……う……」
そして、カールも倒れた。
唇が紫色に変色している。これは、チアノーゼ……?
「手こずらせてくれたな……」
アゼリアの声が響く。
凛として、力強い声だ。しかしそこには隠しようのない疲労が含まれている。
よくよく見てみると、アゼリアのオーラは力強さがかなり失われている。これは、チャンスか!?
「おとなしく盗んだ金の在処を言え。そうすれば楽に殺してやる」
「へ、へへっ! てめぇだってずいぶんとお疲れのようじゃねーか。そんなんで、この俺様に勝てるとでも思ってんのかコラァァァァ!!」
再びオーラを込める。先ほどの攻撃をさらに超えるオーラが拳に集中した。
「燃え尽きやがれぇ!!」
熱風を纏う熱の塊を叩きつける。砲丸ほどの大きさの塊は、アゼリアにぶつかった瞬間に熱風と炎をまき散らし、爆風が埃を舞い上げて視界が曇る。
……だが、それも一瞬。
中心から風が吹き広がり、埃を吹き散らしていく。中心からはやけど一つないアゼリアが姿を現した。
「てめぇの能力……風か!」
「そういうことだ。この空間の大気は今、私の支配下にある。おまえの攻撃が私の体まで届くことはない。もう一度だけ聞こう。盗んだ金はどこだ?」
「こ、この糞アマ……!!」
アゼリアは俺のことを、つまらないものでも見るかのような眼で見てくる。路傍の石を眺めるような、そんな無感情な視線を向けてくる。
舐めやがって……! 俺のことを見下しやがって……! 許せねえ、殺す! 殺す!! 殺す!!!
「舐めんじゃねぇぇぇぇぇ!!直接触れば関係ねーだろ!!」
こいつは、跡形も残さず灰にしてやる……!!
俺はアゼリアに向かって、全身のオーラを熱に変えて突っ込んでいった。
「そうか……残念だ」
それを、アゼリアは、降りかかる火の粉を振り払うように、片手を薙いだ。
一瞬で目の前に現れる、巨大な竜巻。
全力で突進する俺は、千の刃に突っ込もうとする体を止めることが出来ない。
裁断機に掛けられる使い古した用紙のように、俺の体が根元から刻まれていく……!!
「ぎゃああああああああああああああああ!!!!」
断末魔の声さえ、暴風の中でかき消されて、俺の意識は霧散した。
「任務完了」
「盗まれた金が見つかりました!」
「おー、よくやった! 早くボスに連絡しろ!」
「了解です!!」
盗まれた金の探索は黒服たちに任せて、私は倉庫の外で体を休めていた。
安っぽい缶コーヒーが今ばかりは美味しく感じる。これが命の味だろうか。
実際、今回の戦闘は紙一重だった。
相手の念能力との相性と、運。今回私が生き残れた理由はその二つだろう。
何度となく危うい場面もあった。特にあのデカイ男の、物体を溶かす能力に捕まった時は完全に敗北を覚悟した。得意げに能力の説明をしている僅かな時間がなければ、死んでいたのは私の方だっただろう。
私の能力、『大気の精霊』は放出系に属する能力で、オーラを溶け込ませた大気を自在に操ることができる。この能力の優れている点は相手に極めて気付かれにくいということ、それと応用が利くということだ。オーラは大気中に溶け込んでいるので、「陰」を使わなくとも「凝」をしなければ微細なオーラを認知するのは難しい。そのため相手の思慮の外から奇襲することが出来る。また、応用が利く能力なので戦闘の幅が広い。
だが一方で弱点もある。その一つが発動までの若干のタイムラグだ。この能力は大気にオーラが溶け込まなければならない。そのためにはほんの数秒とはいえ、能力発動までに時間を要する。一度発動してしまえばその後のタイムラグはなく、また事前にオーラを大気に浸透させておけば何の問題もない弱点だが、それでも咄嗟の場面で数秒間という負担はあまりに重い。もう一つは発動中は肉体を守るオーラが減るということだ。この能力は顕在オーラ量、すなわち体外にとどめておけるオーラ量が能力の強さを決める。だがそれは能力を発動している間は、自分のまわりに「堅」でとどめておけるオーラの総量が減らすことに他ならない。そのため接近戦と同時に能力を使用するには、オーラ量の見極めが重要となる。
今回は残されたオーラが少なかったので、できれば肉弾戦で倒したかったが、相手は能力を使わずに倒せるほど甘い相手ではなかった。危険を負ってでも『大気の精霊』を使わなければならなかったのだ。
「お疲れ様です、クエンティさん! カーティスさんもきっと喜んでると思いますよ」
「ふん、あの男を喜ばせたくてやってるわけじゃないがな……それに、あの男がこんなことで喜ぶはずがない。いつもみたいに厭味の一つでもよこすだろうよ」
「いやー、今回ばかりは感謝してると思いますよ。なんせ今回の主犯のルークって、カーティスさんの部下でしたからね。ボスの怒りがカーティスさんにも向くんじゃないかって冷や冷やしながら、慌てて事後処理に走ったって専らの噂ですよ。おっと、今のはオフレコでお願いしますね」
「いや、口が軽すぎだろ……」
先行していた黒服たちのリーダー―――確かスミスとかいったか―――は長身、オールバックにサングラスと、いかにもな格好をしていながらも、やたらと気さくで口が軽い奴だった。なんていうか外見とのギャップがある。
しかしそういうことか。あの男が自分から部下に褒美の話を持ち出すなんて、ずいぶん珍しいことがあるものだと思ったが、自分の尻に火が付きそうで形振り構わなかったということか。
「まぁ、そういうことなら、あのルークとかいう奴には感謝しなきゃならないな」
「え、なんでです?」
「いや、こっちの話さ。ところで誰か一人運転できる奴を寄こしてくれないか。帰りの足が必要なんだ」
「ああ、それでしたら自分がお送りしますよ。どちらまでです?」
「そうか? それじゃあエル病院まで頼む……ああ、途中で花屋にも寄ってくれるか」
「了解です! ささ、どうぞ乗ってください」
病院に行くのは一月ぶりくらいだろうか。
変わりないだろう彼女の顔を思い浮かべながら、ぼんやりと窓越しに空を眺めた。
うっすらと雲のかかった、中途半端な天気だった。
「あら、クエンティさん、こんにちは。お見舞いかしら?」
「こんにちは、エルマ先生。あの子はその後、どうですか……?」
「……現状維持、と言ったところね。もっと大きな病院に行って最新の設備を使えば話は違ってくるんだけど……残念ながら、かかる費用が三ケタは違ってしまうわね」
「そうですか……いえ、先生方のお力には感謝しています。これからもどうか、あの子をお願いします」
「そう言ってもらえると助かるわ……」
小太りで人の好さそうなおばさんのエルマ先生にお礼を言って別れ、私は通いなれた道を進んだ。
通り過ぎる看護師たちや、休憩中の先生たちもほとんどが顔見知りだ。なんせもう十年にも渡りお世話になっているのだから。
エル病院の七階、日差しの良い個室。そこには一人分の表札だけが掲げられている。
――- ‘Violette Quenty’
この病室を訪れる人は少ない。
病院の関係者の他には私くらいのものだろう。その私も、カーティスの許可が下りなければここに来ることは出来ないので、よくて一月に一度といったところだろうか。
いつ来ても、変わることがない閉じた世界。変化があるとしたら、私が来るたびに入れ替える花束と、部屋の主のわずかな成長くらいのもの。
広い窓から差し込む光。窓辺に置かれた花瓶と、萎びてきている花束。ベッド脇の机に置かれた古いクマのぬいぐるみがこの部屋の年月を物語る。
私はその変化のなさに胸が痛くなりながら、花束を入れ替えた。
「久しぶりだね……今日は、特別に許可が下りたんだ。どう、何か変わったことはあった……?」
返事はない。
この静寂が、何よりの答えだった。
左腕に刺さった点滴の針。口から鼻にかけて覆う呼吸補助器具が痛ましい。
部屋の端には心電図や脳波を測定するための機械、その他にも様々な医療器具が置かれている。
十年前から眠り続ける少女。
その体は三年前から大病に患わされていた。
彼女が目を覚ますことを何よりも願っている。
彼女がもう一度笑いかけてくれるならば、どんなことにでも耐えてみせる。
私に残された最後の家族。
たった一人の、大切な妹。
けれど、その眼が開かれることはない。
「ヴィオレッタ……」
ベッドの上に長い黒髪を靡かせて、最愛の妹は今日も変わらずそこにいた。
〈後書き〉
戦闘シーンって難しい……息をのむような臨場感あるバトルシーンを書ける方をリスペクトする毎日です。
アゼリアは最強には程遠いですが、結構強い設定です。これで弱かったら、遥の運んでくる心労に耐えられなくなるので……
才能で言ったらズシよりも下くらいのつもりですが……そこのところを表現していけたらと思います。
次回はアゼリアとヴィオレッタの話。遥が影薄いです。
それでは次の更新の時に……