結婚。
この言葉を出すだけで女性は色めき立ち、反対に多くの男性はこころにわずかなわだかまりが発生する。
結婚の意味自体は語るまでもないだろう。しかしその結婚自体を語れと言われれば、某掲示板ではレスが濁流のごとく押し寄せ、2スレ3スレと続くに違いあるまい。
早い話、人の数だけこの結婚に関しての価値観はあるのだ。
しかし結婚生活ではなく結婚という焦点に関しては、きっとだれしも憧れを抱くと思う。
なんせ愛する人と共に行う神聖な儀式だ。心は言い難い思いで、その器をあふれ出んほどに高まる。
そんな結婚を行う式の計画、つまり『ブライダルプラン』だ。
夫婦となる理想の男性像と女性像を、いかにパンフレットに載せるかという問題が式を行う側には出てくる。
やはりその理想像は雑誌やテレビなどで見る、華々しいアイドルであれば人は惹きつけられるだろう。
そのためにこの混沌とした事務所にもその依頼が舞い込んできた。
しかし、一方でこんな言葉がある。
『結婚式前にウエディングドレスを着ると婚期が遅れる』と。
「……それで、この依頼を私に受けて欲しいと」
彼女は渡された資料を読みながらそう切り出した。
彼女自身、仕事であれば何でもこなそうというやる気と意欲はある。
しかしこの心に沸き立つ感情はまったくの別物であった。
「向こうの希望で、和久井さんにやってほしいと」
「そう……」
「不満ですか」
不満……ではない。
仕事にそのような感情を持ち込むという前提すら、彼女の心の中には存在しなかった。
しかし……。いや、せっかく彼が信頼して受け持ってくれた仕事だ。
結局のところそれを受けるという事実は変わらない。
「いえ、問題は無いわ」
「そうですか」
「……プロデューサー君は、これに関して何か私に思うところがない?」
「いえ、無いですけど」
「……そう」
「あ、そういえば」
何かを思いついたようにプロデューサーは手をポンっと軽く打ち合わせた。
「結婚式前にウェディングドレス着ると婚期遅れるらしいですよ、ドンマイです 」
「私には何でプロデューサー君がそんないい笑顔しているのか分からないわ 」
うちの事務所は今日も平和です。
第九話「いいわ。魅せてあげる」
和久井留美。26歳。
かつては秘書の仕事していたが、わけあってクビになってしまった。
そして当てもなく町を歩いているところを、いろいろと追い詰められすぎてやばいことになっていたプロデューサーにスカウトされた。
その仕事ぶりはかつて務めていた仕事を容易に納得させられるほど堅実。
寡黙で必要最低限の言葉と表情の変化ではあるが、逆にそれが落ち着きがあっていいと好評である。
趣味の欄に仕事と表記するあたり、その気真面目さが伺える。
それはこの事務所に来ても変わらないのだが……。
「答えなさい、何であんないい笑みをしていたのかしら。ね、軽く話してみてくれていいのよ?」
「あの、和久井さんが掴んでいる肩が悲鳴どころか断末魔あげてるんですけど。肩の骨がみしみしいってますよこれ」
「まぁ仕事であれば私は構わないわ。元々仕事が趣味なようなものだしね」
「あ、感覚がなくなってきた。やべぇ、何この新境地」
「まぁそれはとりあえずおいておいて、その肩を抉られたくなければ満足な説明を頂戴?」
「すっげぇ、いつも自然に笑えてないわくわくさんがすんげぇいい笑顔にマジで抉られる五秒まえぇぇぇぇぇ!?」
ベクトルが少し変わってしまった。
そうしなければこの事務所で生きていけないという生存本能が彼女を変えたのであろう。
「ふぅ……。それにしてもこの私がウェディングドレスを着ることになるなんてね」
「ち、ちひろさん。な、何か冷やすものを」
「……本当に、人生ってわからないものだわ」
「あ、このコールドパックですが300モバコインです」
「ちょ、俺最近やっているのはGREE なんで」
「……二人とも、ちょっと」
「はぁ!?あの課金の鬼どもに魂を売ったんですか!?あなたそれでもモバマスのプロデューサーなんですか!?」
「別にいいだろ!?セト○リンが気持ち悪いんだ、俺はクリ○ッペ派なんだ! 」
30代後半の禿げかけたおっさんを無理やりにデフォルメ化したかのようなあのフォルムにプロデューサーは限界であった。
動きが気持ち悪いしなんていうか性的に無理であった。あれが目の前に現れたのなら、コンマ3秒で殴り飛ばす自信がある。
「GREEのクリノッ○こそが課金の権化、運営の犬なんです!あのかわいいフォルムで何万という女性を騙してきたんですよ!それに比べて見てくださいセトル○ンを!」
そういってちひろは禿げかけたおっさんをデフォルメ化した例のアレを携帯の画面に映し出した。
「何ていうか貢がせる気ゼロじゃないですか!キモかわいいじゃなくてキモイじゃないですか!ね、善意的でしょ?」
あまりに興奮しているためか、まったくフォローできていなかった 。
「精神に大打撃を与える時点でそれは不合格ですよ!人は金払ってでも癒しがほしいんですよ!」
「癒しが欲しいのならガチャ回してください!今は20連ガチャの時代ですよ!?私の笑顔も見れますよ!?」
「ちひろさんの笑顔はサラ金の受付のおねえちゃんと同じで、見ていてなんていうか不安になるんですよ!」
「ちょっとそこに直りなさい、二人とも」
頭に怒りの四つ角を出現させた留美の声は、心の奥底にまで響き渡るという代物であった。
「で、でも和久井さん! この人が○トルリンのことを馬鹿に」
「本音をいうとね、私もあれは無いと思うわ」
ちひろ、撃沈。
事務所のタイルの上で冷たくなりつつある姿を見てプロデューサーは冷笑していたが、そんな彼も留美の視線を浴びせられる。
その瞳、極寒の地。まるでプロデューサーの財布の中身のように吹雪が吹き荒れていた。
「最初の話に戻るわよ」
「戻らなくていいんじゃないかなーって♪」
「他の事務所のアイドルを真似する度胸は認めてあげるわ」
他のところのアイドルよりも、もっと自分が担当しているアイドルを見るべきではないか。
そう思って心の中と頭の中が乱れるも、自分らしくないとそれを振り払う。
かつての自分はこのような人間ではなかった。もっと冷静に物事を見ることができ、私情を交える事はなかったはずだ。
「プロデューサーは実力がある。それはこの事務所の誰もが認めていることよ」
「え、それ本当ですか。事務所のアイドルの沖縄土産が、自分だけゆびハブだったんですけど 」
「認めていることよ」
「この前担当しているアイドルの携帯で俺の登録見せてもらったら、下僕 って登録されてたんですけど」
「認めていることよ」
「この前の取材でプロデューサーはいません って答えられたんだけど」
「認めていることよ 」
「そ、そうっすか……」
思わずごくりとプロデューサーは唾を飲む。
さすがは秘書だ、微塵も躊躇いが無くこうも言ってのけるとは。
というか自分はここまでされて何でこの事務所いるんだろう。そろそろ泣いていいよね。
「貴方がもう少し真面目にやれば、そうも軽く見られることはないはず」
「その、ほら。事務所の空気をよくするためにですね」
「貴方が何故事務所の空気を良くしなければならないのかしら?」
「いや、自分はこの事務所のマスコットなんで 」
「ぶん殴るわよ 」
そのときのプロデューサーは語る、あれはマジでやりかねない目であったと。
しばらく氷点下の視線を浴びせていたが、諦めたかのように留美は目を床に落とした。
そして怯えつつ後ずさって退路を確保しようとしているプロデューサーをソファーに座るよう促した。
「プロデューサーは結婚を考えているのかしら?」
「へ、結婚?」
説教されるのかと身構えていたが、予想だにしない留美からの質問に体が一瞬固まる。
冗談で言っているかとも思ったが、この人はそういう類は好まない人だと知っている。
「いや、考える以前に無理ですって」
「何故かしら?」
「この職業を納得してくれて、自分の給料に満足してくれる人なんていません」
アイドルという若い女性を対象とする職業だ。それに急な予定に加え、出張だって突然舞い込んでくる。
誰だって自分との夕飯ではなく、アイドルのご機嫌取りの食事を優先する男を好ましく思えるはずがない。
それに自分の給料はマジで低い。忙しさと労働にまったく見合ってないといってもいい。
まぁやりがいはある、もんくは垂れるがこれほど自分にあった職場はない。
ただ夫婦二人で生活するのにはきつすぎる。奥さんに働いてもらうしかないが、そのがんばりに報いられる気がまるでしない。
いや、社長はあれで真面目であるから事務所がもう少し落ち着けば大幅にあげてくれるだろう。現に何回かは打診してはくれている。
だがマジできついし、アイドルが増えまくっているせいでそうもいかない。なんていうか最初の段階でアイドルデビューさせまくった自業自得である。
例え給料があがっても、その頃には既に自分もぎゅうぎゅうの予定が詰まったプロデューサー。
家庭なんて顧みられないし、子供の顔だって見ている暇がない。
「というわけで既に恋愛関係は諦めてます」
「そう……」
「まぁでも最近はお嫁さんを見つけたんですよ」
「ラブプラス って言ったら階段から突き落とすから」
「……」
他称『プロデューサー殺しの留美』である。
あのプロデューサーの暴走を止められる数少ない一人だ。他の人にもプロデューサーはいなくても彼女はいて欲しいと言われているぐらいである。
「まったく。貴方は本当に計画性が無いのね」
「いや~、躊躇っていたら今頃ここでプロデューサーしてませんて」
軽く笑い飛ばしてプロデューサーは自分のデスクへと座る。
そして何気なく机の上をあさり出すが……。
「あれ、次のイベントの資料が……」
「これじゃないかしら?まとめるのなら手伝うわ」
「いや、そう何度も手伝ってもらうのは」
「一応事務処理分の仕事は、アイドルの職業とは別にお金をちゃんともらっているから」
「マジで?俺残業代すらでないんだけど」
秘書の仕事をしていたからか、時たまプロデューサーの仕事を留美は手伝う。
なんせ万年人手不足な事務所、彼女のような事務処理経験者はこの事務所にとって欠かすことのできない存在である。
留美自身、この時間をとても好ましく思えている。
彼が担当しているアイドルは多かれど、彼の仕事を共に共有できるアイドルは自分以外にいない。
多くのアイドルが触れることのできない彼の領域に、私は自然に偽ることなく入り込めるのだから。
パソコンから目を外し、彼の顔を横目で眺める。
もちろん、彼が気がつかぬようにそっと。
真剣な目でパソコンの画面を見つめる彼の顔。
知らず知らずのうちに彼に惹かれていく自分がいる。
彼はアイドルを限界以上にデビューさせてしまったというが、それは彼が優しすぎるからだろう。
彼のおかげで少女達は諦めていたアイドルになれた。
認められず、苦しんでいた少女達へ彼は手を伸ばした。多くの人が通り過ぎていく中で、彼は歩み寄り、その手を掴んで立ち上がらせた。
彼のおかげで何人のが自分の魅力に気がつけたのだろうか。
多くの人の波に埋もれていく自分という存在、その個性を見つけ出して磨き上げたことで、少女達は新たな自分を知った。
彼のおかげで何人が希望を、夢を得られたのだろうか。
今まで考えることも無かった新たなる道筋。見つけることができなかった、自分が自分として輝ける道程。それは彼女たちにとって、それはどれほど温かく優しかったことか。
何よりも自分がその一人だった。
生き甲斐にしていた仕事を無くし、これまで自分を支えていた全てが消え去った。
むなしかった。ふと自分を立ち返って振り返った道程には、何もありはしなかったのだから。
考えることは無かった。考えるということを思いつくことさえ無かった。
故に心には空虚な言いようのない思いだけが残ってしまった。
そんな時だった。彼に出会ったのは。
『というわけで、アイドルやりませんか?今なら洗剤がついてきますけど』
『……警察呼ぶわよ』
『大丈夫です、この前そうやって呼ばれた警察をアイドルにスカウトしたんで』
『大丈夫な要素が無いのだけれど』
目を閉じれば、すぐに思い出す。彼と共に歩んだこの道を。
『最近会った友人に目つきが柔らかくなったって言われるの。君のおかげ?』
『マジっすか。最近会った友人に死んだ魚みたいな目になったねって言われたんすけど』
気がつけば貴方の隣にいる自分が好きになっていた。
『縛られないのはいいものだわ……』
『……ま、まぁ人の趣味は人それぞれですから』
『これまでの生活では考えられなかったもの……』
『ぐ、グラビアの仕事はキャンセルしときます』
『別にグラビアの仕事をしてもいいのだけれど、どうしてかしら?』
『いや、縄痕が』
『意味が解ったわ。ちひろさん、ちょっとそこのカッターとってちょうだい。あれを切るわ』
『ちょ』
私は……。
『貴方のような人にもっと早く出会えていたら……なんてね。何よ。思ったことを口にしただけなのに、そんなに変?』
『いいんじゃないですか?でももっと早く出会えたらって、そのときプロデューサーしていませんよ』
『いえ、早く出会えたとしても。貴方は私のプロデューサーだったと思うから』
席を立つ留美を不思議そうな顔で見つめるプロデューサー。
彼女は静かにちひろのデスクに近づき、その上に置かれていたプライダルプランの企画書を手に取る。
「プロデューサー。貴方はアイドルの恋愛をどう考えているの?」
その言葉にプロデューサーは大きく肩をふるわせた。
「え、まさか和久井さん。好きな人でもいるんですか?」
「まぁ、気になる人がね」
「……OH」
ついに、ついにうちにも来たか。来てしまったのか。
プロデューサーは顔を青くした。
恋の季節だか何だか知らないが、あれはアイドル業界にとって大恐慌の季節である。
一瞬にして事務所の株が大暴落する季節だ。下手をしなくてもクビをつる役目はプロデューサーだ。職務と物理的、両面という超コンボをくらう羽目になる。
まだ若いアイドルであれば、「気のせい。飯食って出すもの出せば問題ない」とか言えればいいのだが、相手は和久井さんである。
子供なら鼻で笑ってやれるが、大人の女性では話が違ってくる。
なんせ後がない。
和久井さんも26だ。年齢的はちょうど良い時期だ。
これを逃したとして、果たして将来は良縁に巡り会えるかといったら……あれだ。うん、あれである。
その、重いというか想いというかさ。それが段違いなのだ。
「えと、それって気の迷いとか生理だったとか、ちひろさんに変なもの飲まされた とかじゃないですよね?」
「流石にちひろさんでもそれはないと思うけれど。そして冗談でこんなことは言わないわ」
頭を抱えて唸るプロデューサーに留美は視線を落とした。
大人であるが故に、若い子達のように我が儘に振る舞うことはできない。
「……ごめんなさい。無理よね、今の話は聞かなかったことに」
「あ~いいんじゃないですか。アイドルのお付き合いも」
「え?」
驚く留美をよそにプロデューサーは肩をすとんと落とすと、力なく笑う。
「いや、だってある程度男女の付き合いでそこらへんの感を磨いておかないと、これだって時に変な男にひっかかりますよ?」
「今の私が言うのも問題だけれど、アイドルは原則恋愛禁止ではないのかしら」
「まぁそれはそうですよ。でも愛なんて病気みたいなもんなんですから。無理に治そうとしたら絶対に悪化して変な感じにこじれますって。それで仕事に影響出たらそれはそれでいやだし。もちろん問題があるなら洗脳してでも止めますけどね。ちひろさんがいますから」
恋愛自体は悪いものではない。
むしろそれは推奨されるべきものだ。だがこの仕事上、どうしても問題がある。
「ああ、別にふしだらな関係になれっていうわけじゃないですよ。たくさん付き合ってたくさん経験して、そんで解ってきたときにこの男だって結婚すればいい。元々恋愛ってそんなものじゃないですか。その頃には『恋』と『愛』の違いも解りますから」
和久井さんは大人ですから、そこらへんは解ると思います。
唖然とする留美にプロデューサーは頬杖をかきつ、次に頭をかいている。
「そりゃ仕事上はやっては駄目ですよ。売り上げに関わってくるもんですから。でもうちらはファンに夢を売りつけることは当たり前ですが、アイドルにも希望を見せてあげないと叩かれるんですよ。本当に面倒くさいことに」
「そんなこと言ったら、また他の子に白い目で見られるわよ」
留美は解らない。
これが恋なのか、それとも愛なのか。
何せこんな想いを感じたのは、生まれて初めてなのだから。
「ま、ともかくお付き合いは否定しませんよ。ただどうせなら最高5年は待ってもらいたいかなって」
「5年?」
「5年、5年あれば間違いなく和久井さんをSランクに押し上げますから」
Sランクアイドルにして生きる伝説、スーパーアイドル日高舞。
アイドル史どころか日本史に名前を残す偉業を成し遂げた。
13歳でデビュー、活動期間が僅か3年にもかかわらずファーストCDから5連続ミリオンをたたき出した。
そして日本だけではなく、世界が注目するアイドルの頂点を決めるアイドルアルティメイトの優勝者。
他にも様々な逸話がある。
○1回のフェスで10アンコールは当たり前。アンコールの影響による帰宅難民が数十万単位で発生したため、彼女のライブの日は終電という概念が消える。
○ぐっとガッツポーズしただけで5万枚CDを売り上げた。
○一人フロントで攻撃値三十万を悠々と超えて見せた。バック?そんなものはない。
○武道館ライブ終了後に彼女のマイクを見たら、最初から壊れていることが解った。
○司法・立法・行政・日高舞
などと全盛期の日高舞伝説は某掲示板でコピペ扱いされるほどだ。
そんな彼女が結婚引退した時。
その人気に比例した批判の嵐が巻き起こったかといえば、そんなことはなかったのだ。
伝説となったアイドルの結婚。それこそ燃やすための素材は山ほどあったが、誰もがその素材を燃やすことを恐れ、手を触れることはなかった。
いつからかこう言われることになった。
Sランクアイドルは人の法にと倫理に縛られるものではなく、壁を越えた何かであると。
故に歴史上の偉人のように、あらたな倫理を創り上げていく、それがSランクのアイドルであると。
「Sランクになれば誰も恋しようが結婚しようが何も言われませんからね。それまでちょっと待っていてくれると嬉しいです。そりゃ待てないって言うのなら社長やらを巻き込んで相談しなくてはいけませんが」
本当に、この人は……。
留美はこみ上げてくる温かい衝動に、思わず笑み浮かべる。
私をSランクアイドルにする?本気?
いや、本気なのでしょうね。彼はいつだって本気だ。
そしてそれを実現し、成し遂げてきた。だから私はそんな彼の姿にあこがれを抱き、いつしかその姿に見とれるようになった。
だから……。
「このプライダルプランの企画、受けるわ」
「へ、ああ。良いんですか?」
「構わないわ」
表情が一切変わることのない留美の顔、しかしプロデューサーは彼女が微笑んでいるように思えた。
珍しい、機嫌がここまで良い和久井さんは久しぶりに見た気がする。
「そうね、Sランクアイドルになれば誰にもこの恋路は邪魔はされない。いえ、させない」
「そうですね~」
「例えそれが認められなくても認めさせることができるから。なんせSランクアイドルだもの」
「……へ?は、はぁ。その和久井さん?何か心なしか背後に拳王が見えるんですけど」
「そうよね、そして相手もその愛を拒むことはできないわ。なんせSランクアイドルだもの」
「……和久井さん。俺の頭上に輝く7つの星が見えるんですけど。おかしいなぁ、ここ事務所の中なのになぁ」
働きすぎたのかな?そろそろゴールしちまうのか俺?
と思わず恐れおののいて妙に輝く星を見つめて乾いた笑いをしているが、その星の原因は彼自身である。
ちなみに拳王様のゲージはMAXだ。いつだって小足で十割の準備はできている。
「最初にプロデューサーが言ったこと、覚えているかしら」
「へ?あ、ああ。あれっすよね……セ○ルリンの」
「駄目、私の目を見て」
気がつけば留美はプロデューサーの鼻先三分まで距離を詰めていた。
早業である。その動き、まさにトキ!
思わずプロデューサーは後ずさろうとする。しかし彼は自らのデスクに座っているのだ。逃げられるところなどありはしない。
「貴方のせいで私の第二の人生が始まったのよ。……いいの。後悔してるわけじゃないわ。一緒に歩んでくれるんでしょ」
「そりゃプロデューサーですから歩まざるを得ないというか。……あと和久井さん、距離が近いというか」
「留美ってこれからは呼んで」
「あの、留美さん?距離が」
「私……和久井留美はずっと貴方のそばにいると誓うわ。それがプロデューサーとアイドルの関係でも、それ以上でも……」
吐息を間近に感じるようになり、プロデューサーが頬を引きつらせようとした。その時。
「ちひろ、復活です!プロデューサーさんクリノ○ペなどという幻想に惑わされてはいけません、そして私はグリーアイドルマスターなんて断じて認めてたまるものかぁ!」
運営の犬……ではなく事務員千川ちひろ、復活。
「大体モバゲーでモバマスが売れたからってアイマスに手を伸ばすグリーは気に入らないんですよ!私たちが必死になって携帯ゲーム業界で築きあげた栄光と市場を横からかっ攫おうとするその根性が気にいらねぇ!」
「あの、ちひろさん。キャラが変わってます」
「携帯ゲームでアイドルマスターという市場を取り込むことがどれほど難しいと思うのですか!?ソーシャルゲーだからって敬遠してしまった人たちに少しずつアイマスとは違ったモバマスの魅力を広げていき、認めてもらえたからこそ今のモバマスがあるんですよ!」
「……ちひろさん、今私はプロデューサーと」
「画面の配置にも気を使い、私たちは1人1人、150人を超えるモバマスアイドルに制作者は魂を込めました!開発者自ら課金を躊躇うこと無い、真の愛を込めました!それはただの金儲けにあらず!ただ1人でも多くのプロデューサーの心を得るためだけに!故に私たちは最初は765プロだけにしか興味を持てなかった多くのプロデューサーをモバマスアイドルに取り込むことに成功し、新規のプロデューサーの心を掴み、オリコンランキング入り、ついには漫画化まで行き着くことができたのです!」
「……あの~ちひろさん?その、スタミナドリンクが欲しいなぁって」
「オリジナル性を大きく持たせた!地雷と言われ、こんなのアイドルマスターのアイドルらしくないと蔑まれても私たちは新たなるアイマスの境地を目指した!」
「……気持ちは分かったけれど、今は私とプロデューサーの」
「バハムートのように絵を美しく、アイドル1人1人に個性と魅力、そして何よりも魂を込めた!前例が無いほどに詳細な設定を決めあげ、他のアイドルゲーにはないアイドルマスターの魅力をモバマスに受け継ぐ努力を積み重ねた!」
「「……あの、ちひろさ」」
「既にモバマスのアイドル達は携帯ゲームに収まるほどがないほどに成長できました!敬遠していた気むずかしい765ファンのプロデューサーさん達にも少しずつ受け入れてもらうことができました!信用を、信頼を、モバマスは少しずつ積み上げ、そして何より先人達のアイドルマスターがあるからこそ今があるのです!それを」
プロデューサーと留美は、訳も分からないちひろの気迫に押されるばかりであった。
言っていることはまったく解らない。だが彼女には、ちひろには2人を寄せ付けぬ気迫があった。
「横からかっさらうだけではなく765の新規アイドルと共に!?オリジナルではなく自ら765の公式アイドルを作り上げると!?しかもしょっぱな全員声つき!?なんですかこの優遇度は!?公式さんは私のことが嫌いなのですか!? 」
「いや、ちひろさんのこと好きな人って相当な色物というか 」
思わずプロデューサーが頬を引きつらせながら呟くと、目聡く聞き取ったであろうちひろが彼の方を振り向く。
涙目である。鼻水だらだらである。
もう女性としていろいろOUTな顔である。
そのままちひろは留美を押しのけてプロデューサーの腰に抱きついた。
「うぅぅぅプロデューサーさん、私を、私を捨てないでくださいよぉぉぉぉぉ。アーケードやらアニメ派のプロデューサーさん達が向こうに行くのは目に見えているじゃないですかぁぁぁぁ」
「ちょ、ちひろさん抱きつかないでくださいよ!?つうか鼻水汚いですって!?」
「どんなに頑張っても取り込みづらかったり、取り込めなかった層をあんなに簡単に取り込もうとするなんて狡いですよぉぉぉぉぉぉぉ。事前登録で『千早』さんを『千原』なんて間違えてるのに、アニメアイドルマスター柄なんて酷いじゃないですかぁぁぁぁぁぁ」
「酷いのは今のちひろさんの顔ですから!?ほら、鼻ちーんして、ね?」
「うう、ちーん」
鼻を赤くするちひろの介護を行うプロデューサーを見て、留美は大きくため息をついた。
もうこうなったらどうしようもない。最後までいけるかと思ったが、今日はどうやら運がなかったらしい。
「……ふぅ。そろそろ仕事の時間よね、行ってくるわ」
「あ、だったら俺が送りますよ」
「自分の腰をよく見てから言うべきね。大丈夫よ、近いから私1人でも大丈夫」
「ジュピターとか876プロまで出せるなんて酷いですよぉぉぉぉぉぉ」
「あぁ……その、すいません」
訳の分からないことを泣きながら言い続けるちひろに、流石のプロデューサーも押され気味である。
腰に両手を回して放さないちひろの顔に手を押し当てるわ、挙げ句の果てに鼻の穴に指を入れるというフェミニスト団体がみたら狂乱の嵐を起こしそうなことまでやらかしている。
しかし、このちひろもまったく放す気がない。
そんな様子を冷めた目で留美は眺めつつ、扉をけたたましく閉めて出て行った。
「……私が結婚前にウェディングドレスを着る責任、とってもらうわ」
どうやら顔の色以上に腹の中は真っ赤、煮えくり滾っていたようだ。
「勝つわ。私は……負けない」
事務所のドアノブを一回転、愛おしむように撫でる。
そして目を暗く輝かせると、一歩。また一歩と廊下を歩み、エレベーターへと向かった。
「アイドルとしても、女としても」
カン・カンと彼女のヒールの音が遠ざかって行く音がやがて聞こえなくなると、プロデューサーはやや大きく息を吸い込み、吐きだした。
「重ぇ……」
「うぅ、見捨てるなんて許しませんよぉぉぉぉぉぉ。私とプロデューサーさんはモバコインという魂の鎖 で繋がれているんですからぁぁぁぁぁ」
「こっちも別の意味で重ぇ…… 」
モバコインを購入する際に「え、マジでこんなんに金掛けんの俺?いいの?昼食一回分だよ?」といった嫌な汗。
あれがモバコインの鎖のせいだとしたら、生々しすぎてやるせなくなる。
「だ、大丈夫ですから。この事務所辞めませんから、ね?」
「本当、ですか」
マジ泣きであった。
流石にこれはいろいろ酷い、もうこれアニメとか絵で表現していい顔じゃない。
化粧がナイアガラで顔がボンビラス星状態だ。
「先に留美さんに言いましたが、自分はアイドルを見捨てません」
「うぅプロデューサーさん……今のプロデューサーさんはとても格好良く見えます」
「いつもは?」
「吉幾○と同レベルです 」
「今は?」
「梅沢○美男レベルです 」
どうしよう、ちひろさんの基準が解らない。
頬を引きつらせるプロデューサー。それをよそにようやくちひろが立ち直り、笑顔を見せてプロデューサーから放れた。
と、その時。
ちひろの突貫により崩れた、プロデューサーの机。そこから何かの資料がこぼれ落ちた。
それはプロデューサーとちひろの間に狙ったように飛来。
「ん?これなんですか?」
「え、あ……」
ちひろが不思議に思ってみて見るとそこには。
『グリーにて新規プロデューサー募集中!一緒に765プロでお仕事してみませんか?』
『初心者でも大丈夫、ベテランの赤羽プロデューサーと律子プロデューサーが丁寧に教えてくれます』
『保険全完備、交通費支給、ク○ノッペ配給』
『モバマスから担当アイドルを引き抜いてきた来られた方にはさらに』
恐ろしいほどの静寂の帳が事務所に降ろされた。
「……プロデューサーさん、これなんですか?」
「あ~ほら、なんか事務所に入ってたチラシなんですよ。だから、ほら。つい他の広告と同じように机にぽいっと」
「それにしてはマーカーでご丁寧に線がひかれていますね」
空気が凍る。
「クリノッ○配給ですか」
「○リノッペ配給ですね」
恐ろしいほど堅い笑顔のちひろがプロデューサーを見つめる。
それを見てプロデューサーは目をさっとそらした。
「これ、最後に担当アイドル引き抜きがうんたらかんたらかいてあるんですけど」
「かいてますね」
「そういえばさっき、私が本当ですかって尋ねた時。プロデューサーが言ったのってアイドルだけですよね?ねぇプロデューサーさん私はどうしたんですか?」
「あ~ほら、ちひろさんにはあれがいるじゃないですか」
「あれ?」
「セトル○ン」
ちひろの後ろから例のおっさんみたいなあれがちょこちょこと歩いてくると、ちひろを慰めるように腰を優しくぽんぽんと叩く。
ちひろはそれを殴り飛ばした。
鮮やかな右フックであった。
「この野郎、さてはアイドル引き連れてグリーに行くつもりですねぇぇぇぇ!?させません、させませんよおぉぉぉぉぉ!」
「いや、だって条件いいし先輩が指導してくれますし、ク○ノッペがいるし」
「ふざけないでくださいよ!私だって本音を言えばセト○リンよりクリ○ッペがいいんですよ!?なんでうちはあれでOK出したんですか!?」
「ぶっちゃけやがったこの女!?というかさっき殴り飛ばしたセ○ルリンが青い血流してるんですけど!?」
「もうこの際他のアイドルはどうでもいいからこの私をグリーに連れてってくださいよ!仕事しますよ、ものすっごい仕事しますよ!?」
「貴方は一番仕事しちゃ駄目な人間ですよ!?何人殺すつもりですか!?」
「貴方は今まで課金した額を覚えているんですか!?」
「無課金です」
「貴方本当にプロデューサーですか!? 」
「プロデューサーですよ!?」
「プロデューサー、もちろん私も私も連れてってくれるのよね?いえ、私しか連れて行かないわよね?」
「何時からいたんですか留美さん!?」
それから社長が来て3人を叱りつけるまでこの騒ぎは続いた。
この事務所は今日も平和である。
■ ■ ■
留美さんって重い女ってよくいわれます。
でも『重い』を『想い』にしたらあれだよね、いいよね。自分にはどストライクですよ。
故に気がついたらこうなっていた。後悔はしていない。
ちひろさんの部分はめっちゃ過激にやりました。そして台風の中心である目って穏やかですよね。いや、何がとはいいません。
ひつまぶしはモバマスだろうがグリマスだろうがアイマスだろうが大好きです。ついでに瀬戸留鈴も大好きです。
搾取ですって?無課金には関係ありませんHAHAHA。もし小梅ちゃんウエディングが公式で来たら本気だす……。
……待ちますとも、一年も待ったんです。あと50年は待てる。モバマスがとまっても待ちます。
今後もしグリマスキャラが登場するのであれば、その度にちひろさんは暴走モードに入ります、たぶん。
そしてプロデューサーがイケメンだって前回の感想で書いてくれた人がいましたが、よく考えてみてください。そんなことはありません。