自分の勤め先は、いろいろとおかしいのではないのだろうか。
ある晴れた日のこと。
一仕事を終えてようやくお昼ご飯に在りつかろうと箸を掴んだ瞬間、ふとそう思った。
自分はアイドル事務所に勤めている。
なんと社長直々にスカウトされてここで働き始めた。
あの時の社長の姿は今でも目を閉じればすぐに思い出せる。
貫禄があるスーツ姿。何故か覚えようとしても覚えられない、想像の中でさえもやがかった顔。
『君、なんかティンってくるものがあるね!ぜひうちで働かないか?』
控えめに評価しても変人だった
だが大学四年目の秋にして内定先がゼロの自分は、そんな変人の差し伸べた手を振り払う事は出来なかったのだ。
不況の波にもまれて、お祈りメールの波にももまれて精神肉体共に疲弊していた自分。
そんな自分にとって社長の差し伸べた手は、仏様やキリストが差し伸べた手に等しかったのだ。
まぁやけになっていた感は否めない。何の詳しい説明もなく案内された先は、今の仕事場であるアイドル事務所だった。
そこで話されたのはアイドルの新時代の到来。
日本各地のごく普通の一般人の中からアイドルをスカウト、そんな彼女達と共に最高峰であるSランクを目指すという『シンデレラガールズ』の企画。
Sランクとはアイドルの人気をランクで評価したものだ。基本AからFまであり、アイドルランクと呼ばれている。
つまりこの企画はそれらのランクを飛び越えたさらに上を目指そうというものだ。……一般人で。
確か必死に思い出した記憶によると、武道館でライブを行っていたアイドルがランクCだったはず。
……CD100万枚突破ようやくBランクと呼べるレベル。
その上のAランクとなると、有名所の765プロダクションのアイドルである世界的歌姫『如月千早』が国民名誉賞をもらっていたはずだ。
同じく765プロダクションのアイドルである『双海亜美・真美』の姉妹にいたっては、年間納税者ランキング1位である。
つまり簡単に言えば、国民栄誉賞貰えて年間収入五億円以上でAランクアイドルと呼べるわけだ。
その上、Sランクアイドルとなるともう社会現象を起こしたというだけでは済まされないレベルじゃない。
なんかもうやばいレベル、何がやばいってマジでヤバイ。歴史の偉人になるレベルである。卑弥呼・織田信長と同じように歴史の教科書に載るレベルである。
そんなSランクを狙うアイドル事務所。ようするに今自分が座っている事務所、かなり外装が寂れていたんだが。
そしてアイドル事務所なのに、アイドルの姿が見あたらないんですけど。ふと目に入ったスケジュールボードらしきものが、真っ白でお豆腐みたいになってるんですけど。
この時点で果てしない地雷臭を嗅ぎ取っていた。
目を向けた先にあったホワイトボードは妙に真新しく、まるで買ってきた新品をそのまま取り付けていたように思えた。
そう言えばこの事務所にある備品、妙な事にどれも新品かそれに近いものに思えるが……。
あ、何か嫌な汗が止まらない。
例えるなら付き合っていた彼女に『できちゃったの……』と結婚前に言われて吹き出たような汗が止まらない。
ところで、今アイドルは仕事中で出払っているとか……え?アイドルはこれからスカウトする?そうですかそうですか。
誰がするの?ってその指は何ですか。自分の後ろには誰もいませんよHAHAHAHAHA。
え、俺?
「プロデューサーさんどうかしたんですか?まるでこの世の苦悩を全て噛み締めたような顔になっていますけど……」
「いや、人間やればできるって本当なんだなって。本当だったんだなって。本当だったんだなって」
「ちょ、プロデューサーさん!?」
いろいろあった。思い出すだけで記憶の濁流が今の自分を押しつぶすような錯覚さえ覚えるほどに。
スカウトしようと町まで出かけたら、大声で助けを求められて警察を呼ばれた事なんて当たり前。
人を雇う余裕が無くて、会社に一週間缶詰とか数え切れないほどあった。毎日がデスマーチだった。
プロデューサーという名のマネージャー勤務により、若い女の子との付き合いでストレスがマッハ、胃がバーストした。
アイドルプロデューサーってアイドルの側にいられるんでしょ?アイドルと結婚するプロデューサーもいるんだし、夢のような生活なんだろうなって思うヤツ。
夢を持つ事は良い。ただ夢は覚めるものだ。自分が覚めたように。
アイドルには猛烈な個性が求められるんだ。そして自分はその個性と嫌でも向き合う仕事を求められているわけだ。
ぶっちゃけ胃が死にます。死ぬどころか腐れて行きます。光の速度で。
社長、休ませてください。
もう疲れたんです。もう廚二病だったり永遠の17歳だったり永遠のニートだったりヤンデレだったりレディースの頭はってたりわかるわなんて連中の相手は、所詮凡人で普通な自分には無理だったんです。
仕事の面接で面接官に『普通ですね、いや悪くはないんですけど』とか言われてお祈りメール出されまくった人間に、こいつらの相手は無理なんです。
なんて言って何回も辞表出したっけ。全部却下されたけれど。
お母さん、健康な子に産んでくれて本当にありがとう。
もしもそうじゃなかったら入社一ヶ月目で一生立てない体になっていました。
思わず乾いた笑いを溢す自分に、目の前の女性は頬を引き攣らせながら同じように乾いた笑い溢した。
「は、ははは。……疲れているようですね。スタドリ、飲みます?」
「……いただきます」
でももう大丈夫です。やっと何人かが軌道に乗ってきて、事務所の経営も順調で、うちのアイドルをテレビで見かけることも当たり前になってきました。
今ではさらに個性的なアイドルが……いや個性的すぎる子が増えましたが大丈夫。私は元気です。
そして自分は一人では無いのだ。決して一人でここまでこぎ着けたわけではない。
社長……はぶっちゃけあんまり役に立たなかったけれど、というかお飾りに等しかったなあの人。
社長はともかくたった今、自分に栄養ドリンクを差しだしてくれている女性こそ、暗黒期を乗り切った戦友とも呼べる存在なのだ。
どんな時でも今のように笑顔で笑いかけてくれた。
辛いとき、苦しい時をお互い励ましながら乗り切ってきた。
そう、彼女がいたからこそ俺は……。
「それじゃ、100モバコインいただきます」
「え?」
「一本100モバコインですよ、100モバコイン」
伸ばした手が止まった。
【習作】うちの事務所は今日も平和です(アイマス&モバマス)
星印が印刷された瓶入りのドリンク。
製造会社が不明。何の成分が入っているのかすらも記載されていないという、現代消費社会に対する喧嘩腰っぷり。
しかし飲むと疲労肩こりがすっきりと取れてしまう謎の栄養ドリンク。
その名も『スタミナドリンク』。訳して『スタドリ』。
それを片手に目の前の女性はやたらと人がよい笑みで笑いかけてきた。
「……100円じゃないんですか?」
「100円じゃないんです」
「100円じゃダメなんですか?」
「100円じゃダメなんです」
「……」
「……」
「タダじゃないんですか?」
「何を言っているんですか?」
静寂が事務所に満ちる。
「モバコインってあのモバコインですか?」
「どのモバコインか解りませんが、モバコインは一つしか無いと思います」
「モバゲーのあれですか?」
「モバゲーのそれです」
再度静寂が事務所を覆った。
自分のズボンのポケットから最近新調したスマートホォンを取り出して見つめる。
そしてその流れのままにちひろさんを見つめる。うん、良い笑みだ。感動的だな。
この人の笑顔はたまにもの凄い不安というか、言いように無い気持ちにさせられる。
具体的に言うなれば、消費者金融のお姉ちゃんがお金を借りに来た人間に見せる笑みに似ている。何故かそんな気がする。
「俺、モバコイン持ってないんですけど」
「じゃぁ購入しないといけませんね!」
まぁ、何て言い笑顔なんでしょう。
「クレジットカードが無くてですね」
「ネットマネーでも構いませんよ?」
「ちょうど切れているんですけど」
「あらら……」
そう言って笑顔のまま手に持ったスタドリを鞄にしまい直す。そんなポニーテールが可愛らしい女性の名前は『千川ちひろ』。
年齢不詳(乙女の秘密らしい)。俺が来る前からこの事務所にいた謎の女性である。
暗黒期のうちの事務所を共に乗り切った、アイドル達に次ぐパートナーと言えるべき存在である。実際彼女がいなかったら俺はこの事務所どころか、この地上にいないだろう。
そして何故かことある事にこの『スタミナドリンク』を勧めてくるうちの事務員である。
世の中には、ある特定の食べ物に中毒性を覚えてしまう人間がいるらしい。
例えば、ラーメン二郎のデカ盛り大味ラーメンに魅了された人間は『ジロリアン』と呼ばれるそうな。
しかしこの女性はジロリアンのように、このスタドリを愛してやまないわけでは無い。
というか彼女自身がスタミナドリンクを飲んでる姿を見たことが無い。
だが彼女は何故か俺が疲れた素振りを見せる度にこのスタドリを勧めてくるのである。
それもわざわざ自分の鞄から取り出して。
まるでヤクルトのおばさんである。自転車の前横後ろにクーラーボックス括り付けてヤクルトを売りに来るあれである。
だが彼女は別に仕事がスタドリ売りというわけではない。うちの事務所はアイドル事務所であり、彼女はそこの事務員である。
ましてやこの製造元不明のスタドリ製造会社の社員ではないわけで……。
しかもモバゲーでしか使えないモバコインで支払わないといけないらしい。
……何でモバゲー?
「……ちひろさん」
「はい、何でしょう?」
「ちひろさんってモバゲー好きなんですか?」
「私、携帯ゲームはやらないんですよね。なんかことある事にお金支払わせる気満々な、あのがめつい携帯ゲームの態度が気に入らなくて」
そう憤慨して可愛らしく頬を膨らませているが、何故だろう。
激しい違和感を覚えた。それも怒りを催すほどの。
「じゃぁ何でモバコインで請求……」
「禁則事項です」
「いや、ちひろさん。流石にちひろさんはそのポーズが許される年齢では」
「……何か言いました?」
「いえ、何でもないです」
別に同僚が弱っている時ぐらいタダでもいいじゃないかと思うが、何故か彼女は必ず要求してくるのである。モバコインを。
そんな謎の人物であるが、彼女の奇行はこれだけではなく。
・バレンタインデーにチョコをモバコインで売りつけてきた。
・サマーライブイベントのアイドルバトル(アイドル同士のライブバトル)で押し切れずに終わった際、お金を払ったらその相手方のアイドルと戦わせてあげますと言われた。
払ったら相手方のアイドルを引きずり出してきてくれた。
・さらに引きずり出すに釣れてその請求の金額が上がっていった。
・記念日に買ってきたケーキの代金をモバコインで請求された。
など語りきれないほど多いのである。ツッコミどころが多すぎて困る。
彼女は何者だろうか。もしかしてヤの付く人達の娘さんなのだろうか、そしてモバコイン中毒者なのではないかと疑惑まである。
ただ分かる事は、彼女がどうしようもなくモバコインを欲しているということ。モバゲーやってないのに。
流石に不思議に思い、今回のように聞く事はこれまでもあったが、そのたびに毎回誤魔化されてしまう。
ただ彼女の差しだすスタドリは、異様なほどに効果が絶大だ。これがなければこの事務所の暗黒期を乗り越えられなかったほどに。
例えご飯を食べられない日だろうと、徹夜した日であろうと、このスタドリを一本飲むだけで何故か元気100倍。
頭があんパンなヒーローが、まるで大リーグ並みの速さをコントロールを誇るバタ子の投球で新しい頭を得たときと、同様の効果が得られると思って良い。
ただこのスタドリ、先ほども語った通り中身が一切不明だ。
もしかしたら違法の薬物が入っているかもしれない。少なくともそう言われたら信じてしまうだろう効力をこれは持ってしまっている。
差しだされた当初は朦朧とした意識で飲み、忙しさを乗り切るというかこの事務所で生きていくためにも、一切何も考えずに飲み続けてきた。
しかし段々と事務所が落ち着いてくるにつれて、『これ、大丈夫なんですかね?』と心配になってきた。
この大丈夫には健康的な問題から、日本の法律まで幅広い意味が込められているのだが……。
少なくとも今のところ麻薬のような中毒症状は無く、健康は悪くなるどころかすこぶる元気である。
ただやはり俺はその怪しすぎる中身が気になるわけで……。
「……そのスタドリって、何が入っているんですか?」
聞いたら駄目だろうと思いつつも、長年の悩みを払拭すべく聞いてみる事にした。
するとちひろさんはしばらく悩む素振りを見せたあと、何かを思い付いたように俺に目をキラキラさせながら俺に笑いかけてきた。
「私の愛がたっぷり入っていますよ♪」
もの凄く体に悪い気がしてならないんだが。
加えてその笑顔が妙に黒々しく思えてしまった自分は、心が汚れているのだろうか。
結局、気が付けばコンビニでネットマネーを購入し、今日もいつもと変わらず彼女から渡されたスタミナドリンクを飲みながら仕事に励む自分。
……うちの事務所は今日も平和です。
■ ■ ■
ふと今日もモバマスをやっていたら思い付いたネタ。
いや、ちひろさんは天使やで。ほんまに。良い笑顔しているもん。
取り合えず、うちのフロントを全部書き終えるまでがんばってみます。
無課金の自分にはあまりちひろさんは悪魔には見えないんですが、友人は彼女を悪魔どころかサタン扱いしてました。なにそれこわい。