シーン12 ターバ神殿宿坊 執務室
ふとしたことで話題が途切れ、燈色の薄闇に静寂が降りた。
オイルランプの中で芯が燃える音を聞きながら、シンは横目で仲間たちの様子を窺う。
ライオットは完全武装のまま壁際のスツールで待機中。
ルージュはだらりとソファに身を預け、頬杖をついて、窓枠に寝そべるルーィエを眺めている。
レイリアは背すじを伸ばして姿勢よく座り、ランシュの煎れた紅茶に口を付けていた。
今、部屋の中にいるのはラフィットとランシュを入れても6人と1匹だけだ。
さてどうしようか、と考えたところで、ライオットが沈黙を破った。
「そろそろ時間かな。準備ができたかどうか見てくる。ついでに外を一回りしてくるよ」
立てかけてあった大盾を手に取り、シンに声をかける。
「じゃあ私も一緒に」
ローブの裾を捌いたルージュが、魔法樹の杖を取って立ち上がる。
「ランシュさん、そろそろ部屋を移るから荷物をまとめておいてね」
「部屋を移る、でございますか? 今から?」
ランシュが珍しく感情を見せた。
客間から執務室に引っ越すだけで午前中いっぱいかかったのだ。
夜も遅くなったというのに、今からもう一度と言われたら辟易するのも無理もない。
「この部屋は敵にバレてるかもしれないからね。今マッキオーレさんに頼んで、別の地下室を用意してもらってるの」
「敵が来るって分かってるのに、寝込みを襲われて被害が出たら馬鹿みたいだしな。昼間に話した予定のとおり、宿坊の神官たちにも全員退去してもらった。ピート卿にも神官戦士団の宿舎に行ってもらったし、今夜はここは空にする予定だ」
「神官の皆様は大聖堂で寝泊まりとか。妾のために申し訳ないことですわね」
ラフィットが目尻を下げる。
ライオットは軽く手を振った。
「どうかお気になさらず。“鉄の王国”へ向かった戦士団のうち、半分をこっちに戻してもらうことになりました。明日の朝には到着しますから、この窮屈な警戒態勢もそれまでの辛抱ですよ」
立て板に水とばかり、平然と噓を垂れ流すライオット。
シンは感心して親友を眺めた。
男爵夫人に対するミスリードは、シンではバレるから一言も口を挟むな、レイリアにも絶対教えるなと言われていたが、この様子を見れば納得だ。
これほど自然で堂々とした態度、シンやレイリアでは真似できる気がしない。
「では男爵夫人、いったん失礼します。半刻程度で戻ります」
青灰色のマントをひるがえし、大盾を携えたライオットが部屋を出て行く。
それに続いたルージュもラフィットに軽く会釈して、扉をくぐる寸前にシンを見た。
「リーダー、打ち合わせどおりで大丈夫。あとはよろしくね」
「ああ、任せろ」
「ルーィエも。いつまでも寝ぼけてないでちゃんと警戒してよ?」
「……うるさい。今日は朝から忙しくて、少しばかり眠いだけだ。何かあればすぐに起きる。半人前のお前らと一緒にするな」
英気を養うためと称してランシュに用意させた特製ハニーミルクを、ルーィエは子供のようにちびりちびりと舐めている。
王室御用達の最高級蜂蜜に生クリームと花の蜜を混ぜた特別な一皿らしく、一気に飲んで無くなってしまうのが惜しいらしい。
「レイリアさんは何があっても、リーダーから絶対に離れないように」
「はい、分かりました。ルージュさんもお気を付けて」
レイリアがにこりと笑みを返すと、両開きの扉が閉められた。
ルージュのヒールが床を叩く、小気味よい足音が遠ざかっていく。
急に人口密度の減った部屋に再び沈黙が降りた。
ラフィットはまるで表情を隠すように、目を閉じてティーカップを傾けている。
いや、たぶん“まるで”ではないのだろう。
ルージュがシンに向けた一言は、男爵夫人が《マインドスピーチ》の魔法で外と会話しているという意味だ。
自らボーカイユに情報を流し、襲撃を誘発しようとしている、とライオットは言った。
「いったい何のために……?」
ぽつり、と疑問が口から転がり落ちる。
間の悪いことに、それはラフィットの耳にも入ってしまった。
目を開けて外界に注意を向けたラフィットと、ばっちり視線が交錯する。
「シン様、何か?」
小首をかしげて問いかけるラフィット。
ごまかすか、切り込むか。
ほんの一瞬で即断し、シンは真正面から問いかけた。
「男爵夫人はこれからどうしたいのかな、と思いまして」
「どう、と申されても。できれば今夜はレイリアお姉様と一緒に眠りたいな、とは思っておりますが」
困惑するラフィットに、シンは首を振った。
「そういうことじゃなく。あなたのこの先の人生の話です。これからどんな身の振り方をしたくてターバに来たのか、聞いてませんでしたよね?」
「シン、それは立ち入りすぎですよ」
あわててレイリアが止めに入る。
相手はただの少女ではなく、れっきとした爵位を持つ貴族だ。
仲良くなって親しげに話すことと、立場を弁えずにプライベートに踏み込むことは話が違う。
「ごめんなさいラフィット。今のはシンが不躾でした」
「いいえ、構いませんわお姉様。別に聞かれて困ることでもありませんし」
レイリアにふわりと微笑み返すと、ラフィットはシンを見た。
「妾はどうしたいか、でしたね。妾が願うのはお姉様と一緒に暮らすことです。夜は一緒の寝台で抱き合いながら眠って、朝は一番最初におはようの挨拶をして、昼は畑で野菜を作ったり、牛の世話をして乳を搾ったり、そういう何でもない普通の暮らしが理想ですわ」
夢見る少女のように手を組んで、空想の幸福を語ってみせる。
広くはないが温かみのあるログハウス。
家畜小屋には数羽の鶏と牛が1頭いて、少女たちに毎日卵と牛乳を恵んでくれる。
ラフィットが牛の乳を搾っている間、レイリアは畑から朝露に濡れるトマトを収穫し、ふとした瞬間に目が合って微笑みを交わすのだ。
室内に戻ればテーブルには手編みのクロスが掛けられ、白い皿の上でスクランブルエッグとベーコンが湯気を立てている。
まるで舞台女優のモノローグのように、ラフィットの言葉はシンの脳裏に牧歌的な情景を描き出した。
だが次の瞬間、ラフィットは表情だけでその夢想をかき消してしまう。
組んでいた手を下ろせば、その顔はすでに国王の寵姫のもの。
少女らしい幼さは完全に消え、代わりに年齢不相応に厭世的な微笑が浮かぶ。
「ですが残念ながら、その生活は妾には許されません。国王陛下もリュイナール様も絶対にお認めにならないでしょう」
なるほど、うまい、とシンは思った。
最初から身構えていなければ誤魔化されただろう。
少しずつ、ほんの少しずつ話題をずらし、ラフィットはシンの問いに答えていない。
シンたちが罪悪感を覚える内容で話を終わらせ、それ以上立ち入らせないようにする。
現にレイリアは話術に嵌まり、それに気付いていないはずだ。
だがこれだけは聞いておかなければならない。
「あなたは死にたいですか?」
あまりといえばあまりの言葉に、ラフィットでさえ二の句を継げない。
「シン!」
レイリアが思わず腰を浮かせた。
「真面目な話です。もし男爵夫人が望むなら、敵の暗殺者を阻止しないでここに通してもいい。レイリアを一緒に連れて行かれるわけにはいきませんが、その他のことなら俺はあなたの希望を聞きます」
「駄目ですよシン! 冗談じゃありません!」
「レイリア、俺も冗談で言ってるんじゃない。繰り返すがこれは真面目な話だ」
シンはスツールから立ち上がると、ソファに座るラフィットを見下ろした。
「男爵夫人。悪いけど俺たちは強い。故意に手を抜かない限り暗殺者は全滅しますよ。そうしたらあなたは無事に宮廷に戻ることになる。それでいいんですか?」
それは、お前が暗殺者を呼び込もうとしていることを知っているぞ、という通告だ。
その上でシンは、その目的を問うているのだ。
敵を撃退して欲しいのか、それとも襲撃を成功させたいのか。
その詰問を、ラフィットは正確に理解した。
これ以上の韜晦が不可能であるということも。
「“砂漠の黒獅子”シン・イスマイール様」
ラフィットは表情を引き締めてソファから立ち上がり、軽く頭を下げ、スカートの左右を摘まんで膝を曲げる。
カーテシーと呼ばれる格式張った宮廷儀礼だ。
自分より身分が上の相手に対して最上級の敬意を示すもので、間違えても平民の冒険者ごときに与えていいものではない。
ランシュは蒼白になって唇を噛みしめたが、何とか沈黙を保った。
「妾は今の生活に色々と不満はございます。ですがお姉様のいるこの世界で、もう少しだけ生きていたいのです。伏してお願いいたします。どうか暗殺者から妾たちをお守り下さいませ」
その言葉に噓はない、と思った。
この少女は今でも色々と隠し事をしているのだろう。
わざわざ暗殺者を呼び込もうとした理由も分からない。
それでも、宮廷に閉じ込められ、家族に見捨てられてもなお、レイリアという希望があるから生きていたいという一点において噓はないと、シンには思えたのだ。
「分かりました。顔を上げて下さい、男爵夫人。俺は宮廷の礼儀作法なんか知りませんけど、それはかなりヤバいやつなんでしょう? あなたの侍女が今にも襲いかかってきそうだ」
「……ランシュ?」
ラフィットはスカートから手を離して顔を上げ、壁際の侍女に視線を向けた。
「申し訳ございません」
メイド服姿のランシュが深々と頭を下げる。
腰の前で重ねられた手の甲に深々と爪痕が残されているのを見て、ラフィットは小さくため息をついた。
「まあいいわ。あなたは部屋を移る準備とやらをしなさい」
「かしこまりました」
そして表情を切り替えて、気を揉んでいるレイリアに笑いかける。
「心配させてごめんなさい、お姉様。全部終わったらきちんと説明しますわ。お姉様にも、シン様たちにも。お約束します」
「その、言いたくないのなら無理に話すことはありませんよ?」
ためらいがちなレイリアの言葉に、ラフィットは首を横に振る。
「いいえお姉様。妾は今、シン様に大変な恩情をかけていただきました。きちんとお話しするのが最低限の礼儀ですわ。納得は無理でも、理解はしていただけると思うのです」
「できればリュイナールと対立しない内容だといいんですが」
「ごめんなさい、それは無理ですわね」
即答したラフィットと目を合わせ、シンが思わず苦笑した。
どうやらこの少女は、この機会に宮廷から逃げだそうとしているらしい。
政治や謀略はシンの領分ではないから、後始末をライオットに丸投げするのは、すでにシンの中で確定事項だ。
何だかんだ言ってもそういう後ろ暗い話が得意だから、任せておけばうまくやってくれるだろう。
「ルーィエ様、申し訳ございません。ミルクの皿を下げてもよろしいでしょうか?」
「ちょっと待て。まだ半分しか飲んでないんだぞ。これをどうする気だ?」
木製の雨戸を閉めた窓際では、窓枠に置いた皿をめぐって猫王と侍女がやり合っている。
「残念ですが移動とのことですので。お残しになるようでしたら処分致します」
そう言って謹厳に礼をとるランシュ。
残すという選択肢はなかったらしく、ルーィエは眠そうにしながらミルクを舐め始めた。
ふたりの平和なやりとりを眺めながら、シンは背中の剣を確かめた。
自分にできるのは、この剣の届く範囲を守ることだけだ。
それでいいと思っていた。
だがこれから先は、それでは全然足りない。
精霊殺しの魔剣が象徴する砂漠の民の英雄という立場。
ドワーフ族の宝剣が持っている“鉄の王国”との友誼の証。
そういう目に見えないものを使って、目に見えない敵と戦っていくのだ。
レイリアが望む未来を守るために。
その先に男爵夫人の笑顔が必要だというなら、今回は宮廷そのものが敵だった。
「シン、その……」
ラフィットの進む道を察して、立ち塞がる敵の大きさをようやく理解し、レイリアは思わずソファから立ち上がった。
シンたちはその困難を予見して闘う覚悟を決めていたのに、レイリアだけは単純に暗殺者を追い払えばそれで終わると、そう軽く考えていたのだ。
自分の考えの浅はかさが恥ずかしくなる。
俯いて歩み寄るレイリアを、シンは柔らかく抱きしめた。
「大丈夫だ。俺が守りたいものを守るように、レイリアもそうしたらいい。誰かに決められたルールじゃなくて、自分の心に従って決めるんだ。俺が君に望むのはそういう生き方だから。敵が誰だろうと関係ない。俺が一緒に戦うよ」
ささやくシンの言葉に、レイリアが安心したように目を細める。
「はい。ありがとうございます、シン」
華奢な肩を抱いた腕に、硬い鎖帷子の感触が伝わってくる。
今のレイリアは、悲惨な運命に翻弄され、ただ守られるだけのヒロインではない。
自分の足で立ち、運命に抗おうとするひとりの人間だ。
それを実感して表情を緩めたシンに、ラフィットが拗ねた声を投げかけた。
「さすがシン様は頼りになりますこと」
仲睦まじく抱き合ったまま、シンは堂々と笑い返した。
「羨ましかったら、あなたも国王かリュイナールに頼むんですね」
「どちらも御免ですわ」
「じゃあライオットを貸しますよ」
「妾、まだ死にたくないと申し上げたはずですけれど」
わざとらしく頬を膨らませるラフィット。
苦笑したレイリアがシンから離れて、腕を広げる。
「では代わりに私でいかがですか?」
「お姉様!」
目を輝かせてラフィットが立ち上がる。
すると、そこに横からランシュが声をかけた。
「ラフィット様。ルーィエ様がお休みになってしまわれました」
表情は平坦だが、声音には困惑がありありと浮かんでいる。
これから移動なのにどうしよう、そんな内心が聞こえてくるようだ。
レイリアに抱きつこうとしたのをタイミングよく邪魔されて、ラフィットがため息混じりに視線を向ける。
「起こして差し上げなさい。今夜はこの部屋では休めないのでしょう? 他にどうしようもないではありませんか」
「ですが揺すっても効果がなく」
尻尾を巻き込み、そこに顔を埋めて寝息をたてるルーィエは、まるで銀色の毛玉だ。
ミルクをきっちり飲み干しているあたりに意地を感じるが、どうやらその後に力尽きてしまったらしい。
「仕方ありません。シン様、窓を開けて空気を入れ換えても?」
密閉した空間でいくつものランプを燃やしているから、酸素が薄くもなるだろう。
シンも空気が篭もっているのは感じていた。
「分かりました。男爵夫人はいちおう窓から離れて下さい。外から見えないように」
その言葉に従い、ラフィットとレイリアが出入口側に移動すると、ランシュは木窓に手をかけた。
「では開けます」
振り向いた侍女と、主人の視線が絡み合った。
無表情の下に万感の思いを込めたラフィットに、ランシュは穏やかな微笑みを返す。
扉の向こう、宿坊の廊下から剣撃の音が響いてきたのはその時だった。
マスターシーン
大聖堂の隣に立つ背の高い鐘楼。
その一番上には、大人2人分ほどもある大きな鐘が設置されている。
大聖堂の屋根よりも高いそこは、神殿全体を見渡せる要所だ。
当然神官戦士団の戦士も配置されていたが、彼は今、喉を斬り裂かれてもがき苦しんでいた。
噴き出す血を必死に両手で押さえ、流れ出す生命を留めようとする。
「警笛というのはいい手でしたが、喉が切れてしまうと息を吹けませんからね。残念ながら音を出せません」
足下を転がり回る戦士を冷たく見下ろし、隻腕の騎士は逆手に持ち替えたレイピアを延髄に突き立てた。
戦士はあっけなく生命を断ち切られ、全身を弛緩させて動かなくなる。
無駄口を叩きながらも鮮やかな手並みで見張りを始末した騎士の背後では、若い女が短剣を鞘に納めていた。
「騎士様、御助力感謝いたします」
「ボーカイユに協力するのは王家に忠誠を誓う騎士として当然の務めですよ」
白皙の美貌にうっすらと笑みを浮かべ、隻腕の騎士は背後の女を流し見た。
密偵らしく闇に溶け込む漆黒の革鎧。
騎士とは対照的に、物音ひとつ立てずに2人目の見張りを殺した短剣の技量には刮目すべきものがある。
だが女の本領は魔術師だ。
その能力は導師級で、発動体として魔力を増幅する高価な指輪まで用意しているという。
アラニア王家直属の暗殺者部隊“影のボーカイユ”のひとり、魔術師ラクロワ。
ラスター公爵とノービス伯アモスン卿の連名による命令を受け、ラフィット・ロートシルト男爵夫人暗殺の任を帯びた襲撃者のひとりだった。
「ラクロワ殿、手筈は?」
「承知しております。ニースの執務室の窓が内側から開く。メイドの姿を確認したら魔術で攻撃する。機を合わせてデュクリュ様たちが突入してとどめを刺す」
「よろしい。それと分かっていますね?」
「はい。レイリアという司祭だけは生かして捕らえるとデュクリュ様から。ですがよろしいのですか? 炎の魔術を使えば室内の者は残らず重傷を負いましょう。下手をすればその司祭も死にます」
「その心配はない」
ラクロワに続いて階段を上ってきた長身の男が、低い声で応じる。
黒いローブに長大な魔術師の杖。
秀でた額と思慮深そうな瞳。
その視線には、まるで魂が射竦められるような威圧感があった。
「たかが《火球》の魔法ひとつで倒せるような甘い相手ではない。手加減など考えず、渾身の魔力を込められよ。そなたが仕損じればデュクリュ殿が死ぬ」
「はっ」
この黒の導師は自分より明らかに格上だ。
ラクロワは素直に頭を下げると、鐘楼から宿坊を見下ろした。
ここからニースの執務室までおよそ40メートル。
普通に発動したのでは魔力が拡散してしまい《火球》はその半分しか届かないだろう。
マナを圧縮し、高威力で速く鋭く射出しなければならない。
「心配めさるな。そなたが魔術を発動させるまでは、周囲の警戒と敵の排除は我らが請け負う。心ゆくまで魔力を練り上げればよい」
「承知しました。後背はお任せします」
隻腕の騎士と黒の導師が“影のボーカイユ”に接触してきたのは3日前。
ターバ神殿内部の情報を驚くほど詳細に提供し、ロートシルト男爵夫人の居場所を突き止めたのも彼らだ。
襲撃の具体的な計画が策定できたのは、その情報があってこそだった。
この騎士がノービス伯子飼いの始末屋であることは裏社会では有名で、今回も伯の命令で動いていることは想像に難くない。
ラクロワは意識を切り替え、鐘楼の壁際に立つと、目を細めて宿坊を見据えた。
宿坊2階の南端にある大きな窓。
今は木製の雨戸が閉まっていて中は見通せないが、そこに対象がいるはずだった。
正門前に表のボーカイユたちが大挙して押し寄せて大騒ぎをしている。
若い娘がいなくなったとか、神殿の司祭が無理やり連れて行ったとか、今すぐ助け出せとか、騒いでいる内容は事実無根で荒唐無稽なもの。
だがそれでも、150人近い集団が大挙してヒステリックに叫んでいるのだ。
神官戦士団の警戒は最高レベルに引き上げられ、ブローリオ司祭は予備兵力を動員して正門を固めざるを得なかった。
前庭を巡回していた神官戦士たちも正門方向に気を取られたため、今、宿坊の入口付近には警戒の穴が開いている。
「ふん、小細工だな。“影のボーカイユ”はずいぶん臆病と見える」
建物の陰に隠れ、宿坊をうかがう人影が2つ。
ひとりは巨大な戦斧を持った戦士だ。
褐色の肌に2メートルを超える巨躯。
鍛えられた身体にはわずかな毛皮を巻いただけで、その肌は大部分が顕わになっている。
暗黒の島マーモに住む蛮族、ナグ・アラの戦士だ。
「私どもに次はありませんからな。失敗が許されない以上、打てる手は全て打ちますとも」
もうひとりは小太りの中年男。
昼間は商人として朗らかな笑顔を浮かべ、表の一団の引率者として神官たちとも親しく接していた男だ。
だが今は漆黒の革鎧に身を固め、毒を塗った2本の短剣を油断なく構えている。
アラニア王家直属の暗殺者部隊“影のボーカイユ”の首領。
名をデュクリュという。
「それでいつまで待つつもりだ? ライオットとかいう孺子と小綺麗な女魔術師も出て行った。中はこれ以上手薄にならんぞ」
「まあ、それはおっしゃるとおりですな」
ニース以下の神官戦士団主力は“鉄の王国”に派遣中で、残った戦士団も正門に釘付け。
おまけに冒険者たちは半数ずつに分かれて別行動だ。
状況はうまく行き過ぎなほど計画どおりに進み、宿坊の中はこれ以上ないくらい防衛力が落ちている。
できれば正門から何人かの部下に突破してもらって、神官戦士たちに警笛を吹かせるまで待ちたかったのだが。
「あまり欲をかきすぎて、ライオット殿とルージュ殿が戻ってきては本末転倒というもの。そろそろ参りますか」
隻腕の騎士のもたらした情報では、宿坊にいた神官たちは皆大聖堂に移動しており、中には1人も残っていないという。
ラクロワの攻撃が開始されるまで、内部に潜んで機を待つこともできるだろう。
デュクリュは音もなく駆け出すと、宿坊の出入り口に張りついて聞き耳を立てた。
中からは足音も話し声も聞こえない。
意外にも気配を殺して続いてきた蛮族の戦士と無言で視線を交わし合い、一息に扉を開いて中にすべり込む。
事前の情報どおり、宿坊の内部は静まりかえって人の気配すらなかった。
廊下にはランプが燃えているものの、生活感のない明かりはどこか白々しい。
しばらく動かずに周囲を警戒し、やはり人はいないという結論に達すると、ようやくデュクリュは吐息をもらした。
「それにしても戦士殿、お見事な隠密の技量ですな」
「これくらいできなくては、闇の森では獣を狩ることもできん」
「このまま2階へ進み、近くの部屋に隠れて待機しましょう」
「分かった」
床板が軋む音をたてないよう、壁に沿って歩くデュクリュ。
内側に向かって開け放たれた食堂の扉の手前でも、慎重に気配を探り、無人を確信してから歩みを進める。
その瞬間、デュクリュの全身が総毛立った。
訳も分からないまま警鐘を鳴らす直感に身を任せ、反射的に後方へ跳ぶ。
理性が危険を察知するよりも早く、襲いかかった鋼鉄の槍が床板を砕き、飛び散った木片が頬をかすめた。
「…………ッ!」
後方へ宙返りをしながら間合いを取り、同時に手に持った短剣を投擲。
刃に塗られているのは即効性の致死毒、ダークブレイドだ。
当たればかすり傷でも確実に仕留めることができる。
回避の困難な胴体中央を正確に襲った黒い短剣は、だが、澄んだ金属音と共に火花を散らして弾き返された。
ゆっくりと食堂から廊下へ出てきたその敵の姿を見て、デュクリュの背に冷や汗が噴き出す。
「馬鹿な、アイアンゴーレム?!」
古代遺跡の奥深くか、賢者の学院の研究室にでも行かなければお目にかかれないような代物だ。
間違えても大地母神マーファの神殿で食堂から出てくるような存在ではない。
その鋼の肉体は無尽蔵の耐久力を備え、デュクリュが持っている短剣ではかすり傷を付けるのがやっとだろう。
狭い廊下を塞ぐように槍を構える鋼の衛兵に、気が遠くなるような思いで対峙する。
すると後方から、喉を鳴らして愉快そうに笑う声が聞こえてきた。
「こいつはまた、想像以上のお出迎えだ。どうやら司祭長も一杯食わされたな」
蛮族の戦士がデュクリュの横に進み出る。
「戦士殿、これは」
「悪かったな。どうやらうちの情報に漏れがあったらしい。こいつは俺様が引き受けるからお前は先へ進め」
鋼鉄のゴーレムを倒すには、破壊できるだけの質量で真正面から殴り倒すしかない。
今ここでそれができるのは、戦士が持つ巨大な戦斧だけだった。
「承知しました。ご武運を」
「おう」
蛮族の戦士はにやりと笑うと、戦斧をしごき、雄叫びを上げて鋼の衛兵に襲いかかった。
巨躯の全力を振り絞った横殴りの一撃。
威力といい迫力といい尋常ではない攻撃を、衛兵の槍は真正面から受け止める。
激甚な衝撃音と火花が散り、あまりの衝撃に鋼鉄でできた槍が半分ほども削れていた。
「どうする? あと2~3回も受けたら折れちまうぜ?」
戦斧と槍を噛み合わせたまま、渾身の力で押し込みながら、犬歯を剥き出しにして獰猛に笑う。
そうして動きの止まった戦士と衛兵の横を、デュクリュは疾風となって駆け抜けた。
これほどの騒ぎを起こしたのだ。
あとは警戒も何もない。
2段飛ばしに階段を駆け上がり、繰り返し響く剣撃の音に背を押されるようにして、上階の廊下へ飛び出す。
ニースの執務室は廊下の突き当たりだ。
そこから警戒した護衛が出てくる前に、脇の小部屋に忍んでラクロワの攻撃を待たねばならない。
左右にいくつも並ぶ扉のうち、執務室に近いひとつが開いているのを目に留めて、そこに飛び込もうとした刹那。
室内から伸びた銀色の剣光がデュクリュに襲いかかり、反射的にかざした短剣を弾き飛ばされた。
そこから始まる連続攻撃を勘と反射だけでかいくぐり、廊下の半分程まで押し戻されてようやく間合いを取る。
腰から予備の短剣を引き抜き、自分の油断に歯がみしながら相手を見れば、そこに立っていたのは長剣を構えた壮年の騎士だった。
「やれやれ、宿坊には誰も残っていないと聞いていたのですがね」
破裂しそうな心臓と荒れた呼吸を整えながら、あえて軽口を叩く。
この騎士の顔には見覚えがある。
暗殺対象の関係者として調査した者のひとり。
「正確には、神官は残っていないと聞いていたのだろう? 案ずるな。私は神官ではないから、貴公の情報が誤っていたわけではない」
“亡者の女王”の墓所の守人にして転生体レイリア司祭の父親、ピート卿だ。
「ふむ。貴公の顔には見覚えがあるぞ。今朝祝福の街道で会った商人だな。ニース様への陳情にしては随分と物騒な訪問ではないか」
「ピート卿。私の行動は王家の勅命を受けてのもの。どうか邪魔をなさらぬように願いたい。事と次第によっては、卿の行動はすべて宮廷に報告致しますぞ」
「好きにせよ」
つまらなそうに鼻を鳴らすと、ピート卿は腰に吊していた革袋を外し、口を広げて中身をばらまいた。
鉄の転がる音と共に、針金を曲げて作ったらしい無数の金属片が廊下中に散らばる。
「これは……撒き菱?」
「さよう。貴公の短剣と似たようなものが塗布してあるから、せいぜい踏まぬように気をつけることだ。ああ、まさか卑怯などとは申すまいな? 暗器のたぐいは貴公の本領なのだから」
デュクリュのブーツは、足音を消すために厚布を重ねて膠で固めたものだ。
騎士の軍靴と違って鉄底ではないから、この程度の撒き菱でも容易に貫かれてしまう。
ピート卿を相手に機動力で戦うしかないデュクリュにとって、この場、この状況は厄介としか言いようがなかった。
「我らにあなたと敵対する意思はありません。ピート卿、どうかここは引いていただきたい。卿も我らも、王家に対して忠誠を誓う僚友ではありませんか」
「できんな。この扉の向こうには、我が娘だけではなく、我が主君もいる。貴公のような暗殺者を通せるはずがなかろう」
撒き菱の海の反対側で、ピート卿は油断なく剣を構える。
相手は王家直属の暗殺者だ。
どのような攻撃をしてくるか知れたものではない。
「忠告しよう。命が惜しければこのまま王都へ帰ることだ。さもなければ貴公の信じる神の御許で後悔する羽目になる」
「それこそできない相談です。王命の重さは、騎士たる卿もよくご存じでしょうに」
ピート卿まで4歩。
その間合いを詰めるために足を踏み込めそうな場所を探りながら、デュクリュはじわりと膝を沈め、呼吸を測った。
かすり傷ひとつでいいのだ。
ピート卿の裏をかき、短剣を投じて体にかすらせれば勝敗は決する。
「ならば、最後にもうひとつだけ忠告しよう」
暗殺者の思惑を知ってか知らずか、ピート卿は生真面目に付け足した。
「私はザクソンの郊外で、妖魔や不死の怪物を相手に泥臭く戦ってきた男だ。王都の騎士のようにお上品な戦い方はせぬから、そのつもりでな」
言いながら、空いた左手を腰の後ろに回す。
何を出してくるにせよ、今より状況が好転することはないだろう。
腹を決めたデュクリュは、ほんの半分だけ呼吸をずらして床を蹴った。