シーン11 ターバ神殿
太陽が大きく西に傾き、大地に落ちる影が長く伸びるようになると、石段の下で行われていた謎の活動もどうやら終了したらしい。
人々は柵の前から下がり、馬車に積んであった天幕を降ろして、野営の準備を始めるようだ。
「それにしても、亡者の女王を封印しろって叫んでるのは一体何なのかしらね。ナニールの魂なんて何百年も前にとっくに封印されてるのに」
正門の前で水瓶を準備していた女性神官が首をかしげる。
夏の昼間に、炎天下で延々と叫び続けるような内容とはとても思えなかった。
「そんなのどうでもいいじゃない。あの人たちと分かり合えるとは思えないわ。それより早くブローリオ司祭の指示をやりに行きましょ」
同僚の女性神官は、木のカップを盆に山積みしている。
これからマーファの慈悲でもって水を配りに行く、という名目で、彼らの人数を数えなければいけないのだ。
「さっさと終わらせて夕食にしましょうよ。今日は鶏肉のソテーが出るらしいわよ」
「うそ、ご馳走じゃない!」
「ルージュ様が鋼の衛兵を連れてきたおかげで、厨房で大量のバターが作れたんだって。本当にありがたいわ」
女性神官たちはいそいそと準備をすると、石段を降りて水を配り始めた。
この作業ももう6回目だ。
最初は警戒していた彼らも、若くて美しい娘が笑顔で労えば悪い気はしないのだろう。
半日経った今では、素直に礼を言って受け取るようになっていた。
女性神官たちも愛想を振りまきながら水を配り、相手の数を数えて報告するだけで、午後の神殿清掃を免除されている。
お互い損のない関係だった。
「デュクリュ様、今日はもうおしまいですか?」
「おお、これは神官様。何度も済みませんな。夏の日差しの下にいた我らにとって、あなたの配って下さる水はまさに神の恵みでありましたよ」
日よけのフードをかぶった男性と何やら相談していたデュクリュは、女性神官を振り向くと満面の笑顔で応じた。
フードの男性は神官たちに一礼して下がり、天幕の設営を手伝いに行く。
「ですが、今日はもうこれで終わり、我らも食事を取って天幕で休みますので、司祭様方にはこれ以上のご厚意は不要とお伝え下さい」
「分かりました。そのように伝えます」
「神官様も暑い中ありがとうございました。今宵はもう休めると良いのですが」
「そうですね。私たちも夜までと指示を受けていますので、これで最後になるかと思います」
「さようですか、それはよかった。本当に暑い中、お疲れ様でした」
「デュクリュ様も」
そして女性神官たちは、慣れた様子で水を配り始めた。
とはいえ並んで立っていた先ほどまでとは違い、今度は天幕の設営や食事の準備などで動き回っている相手だ。
数えるという作業は困難を極め、およそ倍の時間を費やしてしまった。
「ええと、1人多くなかった?」
「そう? 私は同じだったと思うけど……」
困惑して顔を見合わせるが、さすがにもう一度最初からやり直すわけにはいかない。
ブローリオ司祭からは、数えていることに気付かれるなと指示されているのだ。
「まあ、多い分にはいいんじゃない? 人数が減っていたら侵入されたおそれがあるから、すぐ報告しろって言われてるけど。多い分には侵入者はいないわけだし」
「それもそうね」
女性神官たちはうなずき合うと、すっかり軽くなった水瓶をかかえて52段の石段を登り始める。
結局、ブローリオ司祭には人数異常なしとの報告が上がり、このささやかな違和感が言及されることはなかった。
ラフィットが汗を流したいと言い出したのは、夕食を済ませた後、窓の外の茜色がどんどん深くなっていく頃だった。
ルージュの座るソファと衝立で隔てられた向こう側から水が跳ねる音が聞こえてくる。
直径1メートルほどの大盥にお湯を入れて、男爵夫人が沐浴をしているのだ。
「お湯加減はいかがでございますか?」
「少しぬるいくらいがちょうどいいわ。それにしても、まさか炎の魔剣でお湯を沸かすなんてね」
いくら大きいとは言え、盥は盥だ。
お湯はぺたりと座ったラフィットの腰までしかないから、メイド装束の腕を捲ったランシュが何度も湯を掛けながら、たおやかな背中に洗い布を滑らせる。
ラフィットの満足そうな吐息と水滴の弾ける音。
衝立で姿が見えず、音だけというのがまた扇情的だ。
男が聞いたら喜びそうだなと考えながら、ルージュはソファにだらりと身を預けた。
『警戒中のレイリアさんが顔を赤くしてるから、きっと男爵夫人が色っぽい何かを見せつけてるんだと思う。腰のくびれを強調する感じで自分の肩を撫でるとか』
『そういう実況中継はいらないから』
念話で繋がったライオットから呆れたような返事が返ってくる。
肘かけに頬杖をついて衝立を眺めながら、ルージュは目を細めた。
『じゃあどういうのが知りたいの? 男爵夫人が服を脱いでいくのを見てたレイリアさんの様子とか? きっと誰かさんの前で脱ぐ自分自身と重ねたんだろうけど、かなり洒落にならない表情をしてたよ。ちょっと悪戯したくなっちゃった』
『シンには絶対言うなよ。どっちも可哀想だからな』
『レイリアさんが妄想好きなのはリーダーももう知ってるでしょ。今さらだよ』
『やめてやれ。頼むから』
ライオットがため息の思念を送ってくると、ルージュは小さく笑った。
右手を顔の前にかざし、中指にはめた細い指輪を見つめる。
『じゃあ仕方ないから、暇つぶしに真面目な話をひとつ』
七色に輝く小さな指輪は“灰色の魔女”からもらった魔法の品だ。
その効果は魔力視とでも言おうか。
世界に満ちるマナを可視化し、発動した魔法の効果を読み取るという便利極まりない能力を持っている。
『いま私とライくんは《念話》してるじゃない。カーラの指輪を通して見る世界だとね、私とライくんは光の細い糸で繋がってるの。まるで糸電話の糸みたいに』
『へぇ。まっすぐ直線で? だとしたら人を探すのにも便利そうだな』
『それで見るとさ、驚いたことに、この部屋に私と同じ糸を伸ばしてる人がもうひとりいるんだよね。男爵夫人なんだけど』
その言葉に対して、ライオットはにわかに反応できなかった。
奇襲攻撃で夫を絶句させたことにささやかな満足を覚え、ルージュはさらに追撃する。
『光の糸が伸びてるのは南だね。正門の外。祝福の街道に向かってる』
『……つまりボーカイユの連中の方向か』
強ばった思念。
『方向としてはね。さすがに距離までは分からないから、正門外のデモ隊に繋がってるのか、それともずっと先まで伸びてリュイナールさんとでも話してるのか、そこまでは分からないよ』
ルージュは背もたれから身を起こすと、ローテーブルのティーカップに手を伸ばした。
『ただ確かなことは、男爵夫人が私たちに隠れて外と情報のやりとりをしてるってこと。まだ憶測でしかないけど、男爵夫人がボーカイユに情報を流してるって考えるとさ、色々と辻褄が合うんじゃない?』
自分が守られるべき立場ではない、という考えも。
男爵夫人が単身でここにいるという情報が敵に流れたことも。
故意に情報を流せば敵を操れる、と言ったことも。
ランシュは絶対に情報を洩らさないと断言したことも。
男爵夫人本人がわざと自分の居場所を敵に教えて、襲撃を誘発しようとしていると考えれば、全てが説明できるのだ。
『言われてみればそうだな。離宮に仕える騎士がノービス伯に密告したとは言っていたけど、その騎士が裏切ったとは言っていなかった。敵にここを襲撃させるために、男爵夫人の命令でわざと情報を流したってことか』
『分からないのはたったひとつ。何のために、って事だけ』
自分の命だけでなく、レイリアの身まで危険にさらして、何をしたいのか?
それだけが皆目見当もつかなかった。
『男爵夫人がレイリアさんを慕ってることだけは間違いないから、自分やレイリアさんを殺して欲しいわけじゃない。じゃあ死なない程度に危ない目に遭ったとして、そこに何の得があるのかが分からないんだよね』
『表向きは死んだことにしたいのかもな。そうすれば国王の寵姫っていう立場から逃れられるだろう』
ライオットの言葉は脊椎反射で出ただけの当てずっぽうだったが、自分でも意外に当たっているのではないか、と思えた。
ラフィットがロートシルト男爵夫人として宮廷にいるのは、彼女自身が望んだからではない。
国王の目に留まり、権力で召し上げられたからだ。
その代価として彼女には貴族身分が、彼女の家族には金貨銀貨の山が与えられ、物質的には贅沢な生活が送れるようになった。
だがその実態は、権力と金銭で作られた牢獄の囚人でしかない。
好きでもない男の閨に侍り、懐妊を怖れる王族に暗殺者を放たれる毎日。
逃げだそうにも、豊かさを覚えた家族は彼女の帰還を望まない。
ちょっと想像しただけでも地獄としか言いようがない生活だ。
彼女はそんな孤独にどれほど耐えてきたのだろう。
未来への夢も希望も奪われた彼女が宮廷からの脱出を目論んだとして、それを誰が非難できるだろうか?
『リュイナールさんは――灰色の魔女は絶対に認めないだろうね』
権力の一極集中を嫌い、安定のために複数勢力の均衡を目論む“灰色の魔女”カーラ。
以前、王都アランでカーラ本人が言ったのだ。
ラスター公やノービス伯の権勢に対抗するために、ラフィットが産む王子が必要だと。
ラフィットを王妃にするために、ニースとターバ神殿の後見が必要だと。
その策謀がある程度うまくいっている今、カーラがラフィットの自由を認めるはずがなかった。
『そうか。俺たちとカーラの対立軸は、シンの王になりたい発言でも、レイリアのターバ神殿離脱でもなかったんだな。レイリアが男爵夫人に同情して、彼女を権力闘争の場から連れ出そうとした時、決定的に対立するんだ』
『そこがカーラの逆鱗だもんね。権力の均衡、“魔女の天秤”を揺らす者は誰だろうと許さない』
『“魔女の天秤”か』
カストゥール王国の滅亡期、ロードスを半ば征服した“亡者の女王”も。
混乱期を勝ち抜き、ロードス統一を目前にしたエルベク王国も。
今から30年前、世界を恐怖のどん底に突き落とした魔神王も。
魔神王を討ち果たすため、六英雄を結束させ、百の勇者を率いた栄光の王子も。
強くなりすぎた者はことごとく、カーラの手によって歴史から退場していった。
呪われた島が白にも黒にも染まらぬよう、数百年間縛り続けてきた灰色の呪縛。
その根源が“灰色の魔女”カーラだ。
『できれば敵対したくないけどな』
『さっきの予想は外れてくれた方が嬉しいよね』
だがもし、現状に耐えきれなくなったラフィットが行動を起こしたら。
レイリアがどう反応するか、それを見たシンがどんな道を選ぶか。
ルージュには、さほど悩む余地はないように思えた。
ロートシルト男爵夫人の湯浴みによって執務室を追い出された男どもは、宿坊1階にある食堂に集まっていた。
ニース以下の神官戦士団主力が不在とはいえ、それでも神殿には百人近い人数が残っている。
夕食後の厨房は後片付けに大わらわで、カザルフェロ戦士長が評したとおり、まさしく戦場と呼ぶべき忙しさだ。
その窮状を知っているにもかかわらず、マッキオーレ司祭は空気を読まずに食事当番の神官を呼びつけると、人数分の葡萄酒を運ぶよう命じていた。
「あんたは鬼か」
「世の中には素面ではできない話もありますからな」
シンが苦言を呈すると、マッキオーレは事もなげに笑う。
「そうでしょう、ピート卿?」
「さようですな」
上品に口髭を整えた壮年の騎士は頷いた。
「私も物見遊山でターバまで来たわけではありません。まずはニース様と直接お話ししたかったのだが、お留守では仕方がない。いきなりシン殿に聞く他ないのですが」
そこでピート卿は言葉を切り、意味ありげにシンを見る。
「何でもシン殿は、レイリアを連れ出して所帯を持つことにしたとか?」
投げつけられた言葉に、一瞬でシンの背筋が伸びた。
唐突に始まった『お義父さん、娘さんを下さい』イベントに、ライオットが同情を顕わにする。
緊張したシンは顔を強ばらせ、視線を彷徨わせた。
「いやその、所帯だなんて」
「ほう、違うのですか? レイリアと一緒になるつもりはないと?」
「いや、それはありますが、違うんです。俺はレイリアを守るために」
「愛しているわけではないが、守るために?」
「あ、愛?!」
顔を真っ赤にして口ごもるシン。
気持ちは確かめ合ったのかも知れないが、「愛してる」とはっきり口に出したことはまだないのだろう。
ピート卿とイメーラ夫人のような円熟した関係など、今のシンとレイリアには望むべくもない。
ちょうどそこへ女性神官が盆を持ってやってきた。
マッキオーレ司祭とブローリオ司祭、シン、ピート卿にはジョッキ入りのワインが配られる。
そしてライオットにだけノンアルコールの葡萄果汁を差し出しながら、女性神官は小声で尋ねた。
「レイリア司祭をお呼びしましょうか?」
「大丈夫だよ。これは男同士の話だから女性がいると困るんだ」
ライオットは女性神官に礼を言うと、早く立ち去るように促す。
「はい、あの……」
「俺に気を遣ってくれたことには感謝する。だけど他の話はまた後日だ」
ライオットが下戸だと言うことを知っている人間は、ターバ神殿にもそう多くない。
わざわざ公言したことはないし、宴席があれば乾杯程度には口を付けるから、よほど注意深く観察しなければ気が付かないだろう。
以前からライオットへの好意を隠そうとしないこの女性神官は、その数少ない例外のひとりだった。
「すみません。けど私、いつでも待ってますから」
ぺこりと頭を下げ、胸の前に盆を抱いて厨房へ戻っていく女性神官に、ブローリオ司祭がぽつりと洩らす。
「まさに命知らずと言うべきですな。ターバに隕石の雨が降らねばよいのですが」
「ルージュには絶対黙ってて下さいよ。皆の平和のためにも」
「いやあ、青春ですなあ」
好々爺のように笑みを浮かべるマッキオーレ。
年若い女性神官の無謀な戦いを各々が評価し終わると、注目は自然とシンに戻った。
全員の視線を集めて諦めた様子のシンは、大きくため息をついてマッキオーレを見る。
「レイリアのことはどこまで口に出していいんだ?」
「ここにいる5人は全てを知っておりますよ。厨房の神官たちには聞こえないようにお願いします」
「分かった」
ひとつ頷くと、シンはまっすぐにピート卿を見返した。
その顔からは先ほどまでの動揺が噓のように消え失せ、風格と呼べそうなものまで漂わせている。
「こんな慌ただしい中で話すべきことではないと思いますが、これから始まるのは戦いだ。後悔を残すのも嫌なので、俺が考えていることを話します。俺が決めたのは、レイリアを連れ出して所帯を持つとか、そういうことじゃないんです。それはもっと先の話で、その前にまずやらなきゃいけないことがある。マーファ教団やターバ神殿ではレイリアを守れないから、守れる場所を俺が作るって事です」
話の導入でいきなりターバ神殿を斬って捨てるシン。
想像以上に不遜な内容にピート卿は驚きを隠せない。
「それはまた、大胆な発言ですな」
「事実ですから」
腹を据えたシンは、口先だけの批評には小揺るぎもしない。
「亡者の女王はアラニア王国とマーファ教団の仇敵だから、その魂は封印して然るべき。そう主張する人は宮廷にも神殿にもいるでしょう。ニース様が健在なうちはいいですよ。反対勢力も六英雄には遠慮があるし、発言力では負けていないから。でもニース様に不予があったらどうするんです? 次の最高司祭はアラニア宮廷に抵抗してレイリアを守ってくれますか? 俺はそうは思いません。この先レイリアの隣にいようと思ったら、ニース様に代わってそういう諸々からレイリアを守る力が、絶対に必要なんだ」
個人の色恋という範疇を大きく跳び越えて王国や教団との関係を問いかけるシンに、ピート卿は答える言葉を持たなかった。
卿は騎士として宮廷の指揮下にあり、娘のレイリアはニース最高司祭に預けてその庇護下にある。
宮廷もターバ神殿も、ピート卿にとっては格のちがう上位存在だ。
その権威に疑問を持つことはないし、逆らうなど考えたこともない。
墓所が崩れ、“亡者の女王”の魂が解放されたあの事件から17年。
単なる騎士の掌には収まらない問題をニースに預けてきたピート卿にとって、今のシンの言葉は、目を逸らして先送りにしてきた現実を容赦なく曝き出すものだった。
「だから将来、アラニア宮廷やマーファ教団がレイリアをあの墓所に封印しようとした時、俺がレイリアを守ります。もちろん単なる冒険者じゃ話にならない。だからその時までに、俺は王になります。アラニア王国を全部まとめて敵に回しても屈しない、強い国の王に」
「王に、なる?」
あまりと言えばあまりな台詞に、ピート卿も唖然とする他ない。
シンの目を見れば、彼が本気なのは分かる。
だが、その言いようはあまりにも非現実的だった。
「細かい話は今回の件が片付いたら、レイリアと一緒に話しに行きます。イメーラ夫人にも挨拶をしたいですから。けど言っておきますが、俺たちは本気ですよ?」
誰も通ったことのない道ではない。
風と炎の砂漠を統一し、交易都市ライデンを吸収し、火竜山の魔竜を討てばロードス島最強の王国が手に入るというのは、すでに史実で先人が証明している。
シンはただそれに先んじて進めばいいだけだ。
「俺はレイリアがこの世の誰よりも大切だし、これから先もずっと一緒にいたい。だから彼女が自分の道を決めようとする時、それを邪魔する奴らは全力で潰します。潰せるようになってみせます。彼女と所帯を持つのはその後の話です」
掛け値なしの本気でシンが宣言すると、ピート卿は複雑な表情で黙り込んだ。
ニースやカザルフェロ戦士長がいれば、きっとその内心を理解してくれただろう。
自分が世界そのものだと思って信じて疑わないものを、その常識の壁を、シン・イスマイールは遠慮なく破壊して、しかもその先に道を示してみせるのだ。
だから、否応なしに理解させられる。
自分とシンでは見えている景色が違うのだ、と。
愛しい女と結婚するのは後回し、その前にまず王になる、などと。
この若者は口で言っているだけではなく、本気で実現させるつもりなのだ。
ピート卿が歩んできた50年の人生の中で、これほど大きな“器”を感じた相手はニースだけだった。
「私も司祭の端くれです。今まで数えきれないほどの新婚夫婦を見てきましたし、その両親とも話をしてきました」
短い沈黙を破ったのは、マッキオーレの落ち着いた声だった。
「ですが、これほどの覚悟でもって親に挨拶をした婿殿を、私は知りません。マーファの司祭として言わせていただきますよ。ピート卿、あなたは本当に果報者だ」
「まことに」
しみじみとピート卿が頷く。
レイリアと話した時、娘が言っていた『シンの隣に立つのに相応しい女性になりたい』という言葉。
それがどれほど重い言葉だったのか、ピート卿はようやく理解できた。
恋に頬を染めるのではなく、まるで戦場に赴く戦士のような表情を浮かべていたのは“シンの隣に立つ”とはどういうことか、そのためにどんな道を歩かねばならないのか、正しく理解していたからなのだ。
娘の覚悟を理解すれば、ピート卿の選ぶべき道もまた、ひとつしかなかった。
「シン殿、よく分かりました。その時が来たら、是非私にもお声がけ下さい。麾下に馳せ参じて忠誠を誓いますよ」
この場では冗談めかした微笑を浮かべ、自分の半分も生きていない青年に言う。
今はまだ冗談半分ということでもいい。
だがそう遠くない将来、この言葉は現実になる。
ピート卿はそれを確信していた。
「その時もお願いします、ピート卿。ですがその前に、今日もご協力をお願いしたいことがあるんですが」
いい雰囲気で治まりかけた時、横からライオットが口を挟んだ。
あなたは本当に空気を読まない方ですなあ、というマッキオーレの視線を意に介さず、ルージュに投げつけられた爆弾をそのままテーブルに放り出す。
「ロートシルト男爵夫人が敵に情報を流し、襲撃を誘発した疑いがあります。だからちょっとした罠を張ろうと思いまして」
とんでもない事をしれっと話すライオットに、全員がため息をついた。
マスターシーン
夕日が西の地平に沈んでからおよそ半刻。
星空の下に造られた川原の宿営地を、天高く噴き上がる爆炎が明るく照らし出した。
灼熱の衝撃波が辺りを打ち払い、巻き込まれた山賊が黒焦げになって宙を舞う。
「前衛は横陣2列! 近衛は馬車の直衛! 乱戦だけは避けなさい!」
魔法の杖を敵に向けた宮廷魔術師リュイナールの声が鋭く戦場を貫く。
「敵はただの山賊です! 訓練どおりに動けば我らの敵ではありませんよ!」
王都アランを出発して9日目。
近衛騎士10名、兵士50名の護衛を伴ったラフィット・ロートシルト男爵夫人の馬車は、夜を明かすために宿営地を設けた川原で山賊の襲撃を受けていた。
「敵の数はおよそ50弱です。リュイナール様、連中は正気なのでしょうか?」
リュイナールの副官を務める銀蹄騎士、ヴェッセル卿が首をかしげる。
貴族身分と正魔術師の資格を持つエリートだが、貴族にありがちな驕りはなく、能力、識見、忠誠心の全てを高い水準で兼ね備えた逸材だ。
リュイナールが腹心として選び抜いた人物で、10年後には王国の中枢に席を占めているだろう。
「どうせ陽動でしょうが、それにしても舐められたものですね」
夜襲というのは、敵が寝静まってからやるから意味があるのだ。
食事を終えたばかりで休養も充分、兵士は全員がまだ起きており、見張りも始まったばかりで警戒が緩んでいないところへ夜襲など、ほとんど何の意味もない。
防壁代わりに荷馬車を並べ、その間に展開した兵士たちは、喚声を上げて突っ込んできた山賊どもと正面から激突していた。
激突する体勢を整える余裕があったのだ。
一列目の兵が大型の盾で正面から受け止め、二列目の兵が盾越しに槍を突き込む。
訓練を受けた職業軍人は、ただ剣を振り回すだけの山賊が叶う相手ではない。
危なげなく突撃の勢いを殺すと、自分たちは戦列を崩さず、乱戦に持ち込まれないよう鉄壁の陣形を維持していた。
その兵士たちの壁の後方では、騎士10名が男爵夫人の馬車を囲んで四方を警戒する。
陽動を無視し、本命の暗殺者に備えるのが彼ら近衛騎士の任務だった。
「ヴェッセル卿、行けますね?」
「いつでも」
打てば響くような副官に、リュイナールは満足そうに頷いた。
「よろしい。騎士2名を連れて後背に回り込みなさい。無理に攻撃する必要はありません。それと間違っても頭目は殺さないように」
「お任せを。ロデレール! ドゥーツ! 私に続け!」
銀蹄騎士の地位は近衛騎士の一段上に当たり、護衛部隊の中では名実共にリュイナールに続く序列第二位。
同行する騎士たちを完璧に統制しており、その命令は一切の遅滞なく実行される。
騎乗した3騎が宿営地の後方から戦場を迂回して飛び出していくと、リュイナールはそれを隠蔽するように炎の魔術を用意した。
『万能なるマナよ、破壊の炎となれ!』
呪文と共に頭上に炎が生まれ、腕の一振りで光条となって山賊たちの右翼に突き刺さる。
轟音とともに炎が巨大な華となって戦場の一角を塗りつぶした。
熱波が渦巻きながら山賊の群れをなぎ払う。
髪が一瞬で燃え融け、鎧ごと肌が焼けただれていくという地獄を味わって、川原に悲鳴と絶叫が充満した。
「怯むな! 押し込め! 乱戦に持ち込めば魔法は撃てねえ! さもないと死ぬぞ!」
山賊の首領らしき男が、意外と的確な指示を出している。
それを見たリュイナールが楽しげに嗤った。
何をしたところで無駄だ。
たかが50程度の山賊が何をしたところで、訓練された兵士を相手に勝てるはずがない。
更なる指揮を下そうとしたその時、リュイナールはふと目を細めた。
額に指を当てて《マインドスピーチ》の魔法に応じる。
『ルージュ殿ですか?』
『うん。リュイナールさん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど』
『すみません、今ちょっと取り込んでおりまして』
視線の先ではヴェッセルが戦場の側方に回り込み、横から貫くように《ライトニング》の魔法を放っていた。
集団の真ん中を走り抜けた雷撃と悲鳴に、山賊たちはひどく動揺したようだ。
兵士に当たる正面圧力が目に見えて減少し、側方から後方へ回り込もうとするヴェッセルたちに気を取られている様子。
『ああそう。ところでさ、今日は男爵夫人と話した?』
戦況に注意を向けながらの念話に集中できない。
リュイナールの脳裏に男爵位を持つ何名かの貴婦人の顔が浮かんだが、すぐに首を振って打ち消す。
ルージュは宮廷の茶会に興味があるわけでは無いだろう。
「前衛! 余裕があっても前に出るな! 追撃は禁止だ!」
腰の引けた山賊を突き崩そうとする兵士たちを、あわてて引き留める。
今はまだだ。
頭目を生け捕りにするまでは、敵に総崩れになってもらっては困る。
『ええと、男爵夫人、ロートシルト男爵夫人のことですか?』
『他にいないでしょ』
たくさんいるんですよ、という文句は飲み込んだ。
さすがに今ここで面倒な相手と二正面作戦をする余裕はない。
「お頭! 後ろに回り込まれた!」
「ご自慢の魔法騎士か、クソが! 正面からじゃ勝ち目はねえ! 馬を狙って潰せ!」
相変わらず的確な判断をする頭目に感心しながら、いくつかの呪文を思い浮かべる。
《ルーンロープ》で頭目を拘束してしまうか。
《スタンクラウド》で周囲ごと行動不能にするか。
殺していいなら簡単なのだが、生け捕りにして背後関係を吐かせるとなると使える呪文は限られる。
だが高位の魔法は負担も大きい。
これから本命の暗殺者も来ることを考えれば、この程度の相手に魔法を無駄撃ちするのは避けたかった。
『で、どうなの?』
『ロートシルト男爵夫人とお話ししたのは、ターバへお連れした時が最後ですよ』
すると、ヴェッセルに率いられた騎士たちは敵の右翼から後方、そして左翼へと回り込んでいく。
威力は低いが目立つ《エネルギーボルト》の魔法を放ち、注意を引きつけることも忘れないが、接敵して白兵戦をする気はないらしい。
追っても徒歩では追いつけないし、弓も騎馬も用意していない山賊にとってはひどい嫌がらせだろう。
「なるほど、いい動きです」
たったの3騎で、お前らの後方にも敵がいるぞ、と牽制しているのだ。
退路を塞がれたわけでもないのに選択肢から後退を消され、最初の勢いは完全に失い、山賊たちはただその場に留まるだけの集団に成り下がろうとしている。
『そう、ありがとう。ところで取り込み中って何してるのか聞いてもいい?』
『ちょっと山賊に襲われておりまして。ああ、戦況は心配無用です。これから包囲して殲滅するところですから』
その時、近衛騎士がいる後方から怒号と剣撃の音が上がった。
やはり別働隊がいたらしい。
『そうなんだ。こっちも今夜あたり本番が始まりそう』
『くれぐれもお気を付けて。もし助けが必要なら呼んで下さい』
『分かった』
短いが熾烈な戦闘の末、近衛騎士のひとりが報告に来る。
「リュイナール様、敵3名を発見、始末いたしました。我が方に負傷者はありません。敵はまっすぐに男爵夫人の馬車を目指しておりました」
「素晴らしい、よくやりました。近衛は引き続き馬車の周囲の警戒を」
「はっ!」
手放しに賞賛されて、騎士は誇らしげに戻っていく。
リュイナールは満足そうな笑みを浮かべて戦場に向き直った。
兵士たちは危なげなく山賊を押さえ込み、後方のヴェッセル卿たちは順調に山賊をかき回している。
あとは頭目を確保して尋問するだけだ。
「それなりに頭の回る男ですから、それなりに情報を持っているといいのですがね」
せめて直接接触した貴族の正体くらいは聞き出したいところだ。
ラスター公爵の差し金か、ノービス伯爵の陰謀か、それに応じて天秤に乗せる重りを適切に調整する必要があるのだから。
リュイナールは右手の杖を真っ直ぐ前に伸ばした。
『万能なるマナよ、不可視の縛鎖となれ』
上位古代語の詠唱に応じて、山賊の頭目に魔力の網が絡みついて動きを封じる。
「な、何じゃこりゃあ! 動けねえぞ! どうなってやがる!」
「お頭!」
頭目ごと大混乱に陥った山賊たちを睥睨し、リュイナールは高らかに命じた。
「もう遠慮はいりません! 全軍前進! 蹂躙なさい!」
兵士たちが上げる鬨の声が、戦場に響き渡る。
その声で、戦いの趨勢は決した。