シーン10-1 祝福の街道
奇妙な集団がターバ神殿を目指して移動している。
その数およそ150。
ピート卿のもたらした情報に、ライオットは即座に反応した。
馬を引き出して跳び乗り、祝福の街道を南へ向かったのだ。
土煙を上げて疾駆するライオットにピート卿が続き、二騎に増えた騎馬は尋常ではない勢いで針葉樹の森を駆け抜けていく。
「ピート卿、本当に助かりました! いきなり神殿前に来られては準備もできませんから!」
「あなたは私たち家族の恩人だ! お役に立てたなら何よりです!」
馬蹄の響きや耳を切る風音に負けないよう、大声で言葉を交わす。
ライオットにとって、ピート卿の来訪は文字どおりの天恵となった。
今日まで影も形も掴めなかった敵がいよいよ姿を見せたのだ。
いま自分ひとりで先走って戦端を開く気はないが、正体と武装を確認するだけでも絶大な意味がある。
だがもし、敵が偵察を許さずにライオットに手を出してくるならその時は。
「遠慮なく返り討ちにしてやる」
口の中で呟き、片頬を吊り上げて笑う。
ここしばらくは策士のように立ち回り、リュイナールやアウスレーゼにシンとレイリアの離脱を認めさせたり、男爵夫人護衛のため神官戦士団に助言したりしていたが、ライオットの本領は剣士だ。
小難しい理屈をこねて言い負かすより、剣を振って叩きのめす方が性に合っている。
たまには何も考えないで大暴れしたいという自分もいるのだから。
「ライオット殿!」
そんな物騒な妄想に身を委ねながらゆるやかな坂道を登ると、隣を駆けるピート卿が合図して馬脚を緩めた。
合わせて速度を落としながら振り向くと、ピート卿はその上品な容貌に緊張の色をたたえて遠方を示す。
「見えてきましたぞ。あの集団です」
坂道を登りきった街道は、小高い丘から川に向かってゆるやかに下っている。
その坂道の彼方、遙か遠方に、ちょっとした集団が行列を作って歩いているのが見えた。
いったん馬の脚を止め、目を細めてその集団を観察しながら、ライオットはいぶかしげに問いかけた。
「ピート卿、あれで間違いないんですか?」
統一された軍装や旗印などは持っておらず、それどころか服装までバラバラな様子は、まるでツアーコンダクターに率いられた観光客の一団だ。
2台ほど馬車を伴っているから、団体行動をするつもりはあるのだろう。
だが動きには規律も緊張感もなく、あれが戦闘集団だとはとても思えなかった。
「さよう。王都の商人が率いる一団で、ターバ神殿に陳情に行くと申しておりましたな」
「陳情に行く?」
芸もなく繰り返し、眉をひそめて集団を見直す。
物見の兵を見て追撃を仕掛けてくる展開を予想していたライオットにとっては、肩すかしもいい所だ。
「神殿を襲うのではないのですか?」
「とんでもない。あの一団に戦闘は無理だと思いますよ。近寄って見ればライオット殿にも分かります」
どうしますか、と視線だけで問うピート卿に、返す言葉は決まっていた。
「ではちょっと行って見てきます。ピート卿はここでお待ちください。もし私が連中に負けるようなら、全力で神殿に戻ってルージュに知らせてもらえると助かります。1人で助けに来い、間違ってもシンとレイリアは連れてくるな、と」
「まるで誘拐犯のような台詞ですな」
ピート卿が苦笑しながらうなずく。
「承りましょう。ですがその懸念は無用です。あの連中に襲われることはないでしょうし、仮に襲われてもライオット殿が負けるなどあり得ません」
「そう願いますよ」
小さく笑ってライオットは馬腹を軽く蹴り、馬に合図を出す。
“鉄の王国”へ救援に行った時から付き合いのある馬だ。
栗毛の馬体は肉付きもよく頑丈で、金属鎧に大盾という重装備のライオットを乗せても軽々と駆けてくれる。
白銀の鎧に青い耐魔のマントと金髪をなびかせ、炎の魔剣を佩いたライオットの外見は、物語に出てくる騎士の姿そのものだ。
それが自分たちに向かってくるのに気付いたのだろう、先頭を歩いていた男が合図をして、謎の集団は歩みを止めた。
近づくにつれ、ライオットの脳裏には疑問符だけが大きくなっていく。
本当にちぐはぐな集団だった。
男も女も、それどころか子供の手を引いた母親や、杖をついた老人までいる。
先ほどの停止命令も、やっと休憩だと言わんばかりに街道に座りこむ者や、上着を脱いで汗を拭く者まで出る始末。
まるで統制の効いていない様子からは、とてもターバ神殿に手を出せるような集団には見えない。
見えないのだが。
「これがボーカイユだって言うなら、俺の想像通りでもあるんだよな」
ただ先祖が口約束を交わしたというだけで、平和な日常を投げ出してターバ神殿を襲えるはずがない、と。
どこに何人いるかも分からない末裔を何とか探し出し、襲う気にさせたところで、所詮は素人で、しかも烏合の衆だと、そう考えたのはライオット自身だ。
今ライオットの目の前に広がっている光景は、その予想を完璧に再現したものだった。
「さて……」
下馬するべきか、しないべきか。
万一の際に戦闘をするなら降りるの一択だった。
ライオットに騎乗戦闘のスキルはないし、馬を攻撃されて落馬、負傷というのが考えうる中で最悪の展開だ。
反対に、戦闘を回避して離脱するなら下馬すべきではない。
馬に乗り直すという余計な手間を省いて即座に撤退できる。
ほんの3歩の間悩むと、結局ライオットは騎乗したまま、彼らの前で馬を止めて彼らを見下ろした。
傲然とした態度に身分のある騎士だと思ったのだろう、大部分の者が頭を下げてライオットを迎えた。
「これはこれは騎士様、我らに何か御用でしょうか」
先頭に立っていた恰幅のよい中年男性が、にこやかに笑いながら声をかけてくる。
後ろの連中とは違って、金のかかった新しい服を着ているから、一団の指導的立場にあるのだろう。
「あなたは?」
「私はデュクリュと申します。王都で商人をやっております」
「何をしにここへ?」
「ターバ神殿にお願いの儀があって参上した次第。後ろにいる彼らは、私と志を同じくする者たちです」
そしてデュクリュと名乗った自称商人は、笑みの中でかすかに目を光らせた。
「ところで騎士様、よろしければ御尊名をお聞かせくださいませ」
「これは失礼した。私はライオットという」
その名を聞いて、商人の頬が嫌らしく歪んだ。
目を弓のように細くすると、わざとらしく大声を上げる。
「ライオット様! もしや“砂漠の黒獅子”の盟友で、ザクソンでは上位魔神を討伐し、“鉄の王国”ではドラゴンを討ち果たし、おまけにターバ神殿の戦士長様を《蘇生》させたという、あの“第三の導き手”のライオット様でございますか!」
圧倒的な賞賛に隠しようもない悪意を込めるという、なかなかに器用な真似をする商人に、ライオットも平然と応じた。
「いかにも」
「おお、拝見すれば、その鎧に刻まれたのは戦神マイリーの聖印! 紛れもなくマイリー教団の旗幟たるべき御方で間違いありますまい! であれば!」
芝居がかった動作で両手を広げ、わざとらしく言葉を切ると、デュクリュは顔にぬらりとした笑みを浮かべた。
「ライオット様はマーファ教団の信徒ではない。我々とターバ神殿の間に割って入り、我が物顔で誰何するというのは如何なものでございましょうな?」
声量を落とし、脅すように続ける。
「冒険者として依頼を受け、神殿の警護をなさっているのは存じております。ですがそれはあくまでも警護。あまり前に出られますと、口さがない者たちが申しましょう。マイリー教団の最高幹部が、ニース様の不在に乗じてターバ神殿を乗っ取ろうとしている、と」
「なるほど。あなたの言い様には一理ある」
ライオットは動じた様子もなく、馬上で鷹揚に頷いた。
「では警護として言わせてもらおう。徒党を組んで神殿に物申すとは穏やかではないぞ。何をしでかすか分からない集団に、ターバ神殿の門をくぐらせるわけにはいかない」
「何を仰いますか。慈悲深きマーファの信徒が、最高司祭に陳情することのどこに不安要素がございましょう?」
「徒党を組んで、のところだな。あなたが代表者なら1人で来ればよい。他の者は帰らせろ。信徒が最高司祭に陳情するのに、数を頼んで威圧するとは不敬であろう」
至極あっさりと答えると、ふたりはしばし笑顔で睨み合った。
不愉快である、という思いは互いに隠そうともせず、だが表面上は礼儀と言葉を取り繕って対峙する。
「そもそもデュクリュ殿、ここにいかほどの人数を集めたのだ?」
「私を入れて148名でございます」
「そうか、大した人数だ。さぞや重大な陳情があるのだろう。だが、全員で押しかけてもニース様の執務室に入りきるはずもない。見れば女子供もいるようではないか。神殿内には夜を越す宿屋もないし、明るいうちにターバの村へ返すべきではないか?」
「どうかご心配なく。あの馬車には天幕も寝具も食料も用意してございます。ターバ神殿にご迷惑はおかけしません。我らは皆、ターバ神殿に直接のお願いがあって参上した身。皆で声をそろえて訴えたいだけなのでございます」
両者とも、口に出している言葉が本音でないことは百も承知している。
いかにして自分に有利な落としどころへ持っていくか、これはそういう勝負なのだ。
「そうは言うがデュクリュ殿。この街道は野営するのに安全な場所ではないぞ。つい先日もそこの川原にオーガーが出没したばかりだ。討伐した私が言うのだから間違いない」
「ですが我らは重大なお願いがあって参上するのです。ここまで来て戻るわけには参りませぬ。これは信仰の問題です。理屈ではないのでございますよ」
頑として言い張る商人に、ライオットはわざとらしく肩をすくめてみせた。
もとより口先だけで帰る相手ではないし、むしろ帰って雲隠れされても困る。
せっかく見つけた敵なのだ。
こちらの監視下でうまく転がさなくてはならない。
「分かったよ、じゃあもう好きにしてくれ。どうせ帰る気はないんだろうしな。けど人数と武装だけは確認させてもらうぞ。一応これも仕事だ」
分かりやすく態度を豹変させ、ざっくばらんな冒険者になりきるライオットに、デュクリュはいぶかしげに答えた。
「もちろんでございます。男が121名、女が27名。間違いございません。何なら荷馬車も御覧になりますか?」
「いいのか? それは助かる」
「なんの、構いませんよ。どうか存分にお改め下さい」
ライオットは馬をゆっくりと歩かせながら、《噓感知》のコモンルーンを発動させた。
その横ではデュクリュが指示して荷台の雨避け布をめくらせる。
荷馬車に積んであるのは保存食の山や毛布、天幕に使う耐水性の布などだ。
ライオットが危惧した弓や弩、矢玉の類はひとつもない。
「デュクリュ殿、この樽には何が?」
「樽はすべて水でございます」
「なるほど。この人数なら、そりゃ樽になるよな」
納得して頷くと、今度は人数と武装の確認にかかった。
じっくりと時間を掛け、先頭から末尾まで自分の目で見て回る。
人数はデュクリュの申告どおりで間違いない。
うち護身用の小剣で武装した者が20名程度。
服に隠れてしまうダガーは不明だが、鎧を着ている者はひとりもいなかった。
ピート卿の言ったとおり、これは戦闘を目的とした集団ではなく、平民が集まっただけの単なる群衆だ。
しばらくしてライオットが先頭に戻ると、デュクリュが声をかけてきた。
「ライオット様、いかがでしたかな?」
「デュクリュ殿の言葉どおりだったよ。これといって不審な点はなかった。最後に3つだけ確認させてもらいたいんだが、いいかな?」
「3つと言わず、いくらでもどうぞ」
そう応じるデュクリュの目に、笑顔では隠しきれない警戒心がにじむ。
ライオットは素知らぬふりで尋ねた。
「あなた方はターバ神殿や、ターバ神殿にいる者たちに危害を加える気はないということでいいな?」
「もちろんでございます」
「次。ターバ神殿に向かうあなたの仲間は、今ここにいる彼らで全てか? それとも他の場所にもいるのか?」
「他にはおりません。これで全員でございます」
「じゃあ最後に」
馬上からデュクリュを見下ろし、ライオットはわずかな表情の揺れも見逃すまいと目を細める。
「あなたは“ボーカイユ”か?」
その問いに対する答えには、しばらくの間があった。
ボーカイユの名をどこで知った?
韜晦すべきか、認めるべきか?
今ここで奇襲すれば、ライオットの命を奪うことは可能か?
デュクリュの脳裏に浮かんだ迷いは、おおかたそんなところだろう。
やがて、無言で答えを待つライオットの前で、デュクリュは深々とため息をついた。
「やれやれ、本当に端倪すべからざる方ですな、あなたは」
そして深々と一礼した後、まっすぐにライオットの目を見上げる。
「いかにも。私は“ボーカイユ”。古き栄光を受け継ぐ者でございます」
「そうか。答えてくれて感謝する」
馬上から会釈を返すと、ライオットは神殿の方向へ馬首をめぐらせた。
ボーカイユたちが襲いかかる気配はなく、立ったまま見送るデュクリュに、ついでとばかりに言い足す。
「返礼というわけではないが、神殿側に水と食料くらいは提供するように言っておくよ。もし怪我人や病人が出たら教えてくれ。治癒魔法なら俺にも多少覚えがあるから」
「死者を《蘇生》させるほどの奇跡、多少とは申しませんぞ」
「その代わり、神殿の中には入れないからな」
「承知いたしました」
満足そうな笑みを残すと、ライオットは馬腹を蹴って駆けだした。
デュクリュはどんな顔で見送っているのだろう。
忌々しげにしているか、平然を繕っているか。
いずれにせよ、戦力と思惑を丸裸にされて虚心ではいられまい。
「ターバ神殿に害を与えないというのは噓。他に仲間はいないというのは本当。ボーカイユだというのも本当」
敵の数は男121、女27、計148。
ただし剣を取って戦闘ができそうな人数は片手で数えきれる程度で、その技量はシンやライオットどころかレイリアにも及ばない。
実際に戦いになれば苦もなく片付くだろう。
だが。
「いるもんなんだな。こっちの世界にもああいうのが」
口先で揚げ足を取って相手を萎縮させ、声の大きさで論点をごまかそうという手口。
数を頼んで集まり、周囲の迷惑を顧みず、司法官憲の説得には全く耳を貸さない態度。
要するに、警視庁機動隊時代に嫌というほど相手をした、自称市民団体のデモ隊そのものだった。
相手のやり口さえ分かれば、対応するためのノウハウは充分だ。
予想以上の情報が集まり、我知らず頬が緩んでしまう。
「いかがでした、ライオット殿」
「充分すぎる成果でした。相手の正体も狙いも分かりましたよ。早く帰って歓迎の準備をしないと」
丘の上で待っていたピート卿に答え、馬を並べて神殿へと取って返す。
ずっと抱いていた不安の大部分が解消されて、ライオットの足取りは軽かった。
シーン10-2 ターバ神殿
晩夏とはいえ、昼下がりともなれば、それなりに強烈な陽光が降り注いでくる。
日差しをさえぎる物のない神殿正門前に集まったボーカイユの一団は、52段の石段の下から壮麗な正門を見上げ、暑さに負けじと声を合わせて何やら叫んでいた。
どうして石段を登ってこないかというと、ライオットの指示で急ごしらえの柵が設置されているからだ。
柵と言っても大した物ではない。
腰ほどの高さまで支柱を打ち込み、その上に横板を渡しただけの、手すりに毛が生えた程度の代物だ。
相手がその気になればくぐることも乗り越えることもできるし、壊すことだって簡単だろう。
シンにそれを指摘されると、ライオットは事もなげに答えた。
「それは関係ない。何ならロープを1本張るだけだっていいんだ。下にいる連中がそれを越えて入ってくることはないよ。少なくとも今はな」
石段の上、正門からその光景を見下ろしながら、シンが首をひねる。
「どうしてそう言い切れる?」
「連中は俺たちに手を出す口実を与えたくないからさ」
この世界は日本とは違う。
人権などという概念はないし、身分の上下が現実に存在している。
ライオットの『最高司祭に対して不敬だろう』という言葉にデュクリュが反論できなかったのは、それが当たり前の事実として共有されているからだ。
本来なら、こんな無礼な行動を取れば神官戦士団に追い払われて終わる。
それがされないのはここが最高司祭ニースのお膝元で、できるだけ暴力は避けようという彼女の方針があるからだ。
とはいえ、そこには自ずと限界がある。
ここは公共の広場でも道路でもなく、独立国家並みの自治権を有するマーファ教団の総本山だ。
部外者の野放図な要求を受け入れる謂われはない。
「あいつらが着いた時、下に行ってデュクリュとかいう商人にはっきり言ってきた。集団としてこの柵を越えることは許さない。陳情があるなら最高司祭代行が対応するから、代表者を1名選出して申し出ろってな」
ここまでは許す、ここからは許さないと線を引いて示したわけだ。
石段下に作られた柵はその境界線で、それを侵したら実力行使の対象にする。
それを最初に告げられてしまったから、ボーカイユはそれを踏み越えることができない。
言うなれば、ライオットの先制攻撃で出鼻をくじかれたといったところか。
「さすがですな。我らには思いつきもしない方法だ」
腕組みをして集団を見下ろしていたブローリオ司祭が、関心しきりに唸る。
ライオットはひらひらと手を振った。
「ちょっと経験があっただけですよ。それよりブローリオ司祭。定期的に男女別の人数を数えて報告させる件、確実に頼みます」
「お任せあれ。女性神官に水瓶を持たせ、飲み物を配るふりをして半刻ごとに数えるよう指示してあります」
「では、あとの話は中でしましょう。日陰とはいえ外は暑い。ピート卿も御一緒願えますか?」
「よろしいのですかな。私は部外者ですが」
「卿がいなければあいつらに乱入されてましたよ。今日の殊勲者です」
ピート卿が頷くと、ライオットは正門から石段の下を見下ろした。
正門が落とす影の中でさえこれほど暑いのだ。
炎天下、ライオットの意地悪で日なたに抗議場所を設定されたボーカイユは、ただ立っているだけでも体力を削ぎ落とされていくだろう。
そんな環境で大声を上げ続けるなど、もはや自傷行為だ。
「本当は過度に絡んで、神官戦士団の方を消耗させたかったんだろうけどな。疲れるのはお前らだけだ。気の毒に」
ボーカイユが何を叫んでも、中に入ってこない限り無視しろと厳命してある。
戦士団は交代で休憩を取れるようシフトを組んであるし、配置場所は正門前の日陰だ。
昼の間はこちらが有利に進むだろう。
緒戦はターバ神殿側の勝利と言ってよかった。
宿坊の2階にあるニースの執務室は、ロートシルト男爵夫人の居室、兼、作戦司令室としての改装が完了していた。
寝台を4つ運び入れて、うち2つは男爵夫人とランシュが、残りの2つは室内で護衛につく冒険者組が交代で使う。
部屋の中央は棚や衝立で仕切られ、居住空間の反対側に移設されたソファセットは会議テーブル代わりだ。
シンたちが執務室に戻ってくると、そこで紅茶を飲んでいたレイリアが立ち上がって迎えた。
「お帰りなさい、シン。外の様子はどうでした?」
「ライオットが立てた計画どおりらしい。悪くないんじゃないかな」
シンはソファには行かず、2本の大剣を背負ったまま、壁際に置かれたスツールに腰かけた。
ライオットも腰の長剣を降ろさず、背の高い丸テーブルを挟んでシンの対面に座ると、大盾を肘置きの代わりにしてもたれ掛かる。
完全武装のまま緊張を解こうとしない戦士たちに、ラフィットが気遣わしげな視線を向けた。
「それでは疲れてしまいませんか? せめて剣を置いてこちらに座られては?」
「どうかお気になさらず。男爵夫人の方こそ周りがうるさくて済みません。面倒な来客が片付くまでの間、どうか御容赦下さい」
「とんでもありません。妾は皆様と一緒なのがありがたいくらいですわ。それに何よりレイリア様が隣にいて下さるのですもの」
ライオットはちらりとルージュに視線を向ける。
澄ました顔でティーカップを傾ける銀髪の魔術師は、夫の視線に気付いても何の反応も示さなかった。
合図がない。
ということは《噓感知》の魔法に反応がなかったということだ。
「シン様、ライオット様、どうぞこちらを」
気配を消して用意をしていたランシュが、音もなくハイテーブルに飲み物を並べる。
女性向けの繊細なカップではなく、武骨で大きなマグカップだ。
「冷やした紅茶に桃の果汁を入れました。レイリア様推奨のメニューでございます」
「ああ、あれか。暑い日にはぴったりだよな。ありがとうランシュさん」
屈託のない笑顔で礼を言い、シンがさっそく口を付ける。
マグカップになみなみと注がれた冷茶は、繊細な甘さと清涼感を両立させた絶品だ。
いつもレイリアが煎れてくれるものには微かな渋みも残っているが、これには雑味が全くない。
ただ純粋に旨いとしか感じない味に驚きを隠せないでいると、ふと、悄然とした様子のレイリアと目が合った。
オールマイティといえるようなラフィットの能力に劣等感を刺激されているところに、お茶を煎れるという単純作業でも格の違いを見せつけられて意気消沈しているらしい。
「まことに。いや、これは素晴らしい風味ですな」
マッキオーレの隣に腰を落ち着けたブローリオ司祭は、レイリアの微妙な雰囲気をかき消すように手放しで賞賛した。
「ごめんランシュさん、お代わりある?」
「はい。すぐにお持ちします」
ライオットがあっという間に1杯目を空にすると、ラフィットは誇らしげに微笑んだ。
「ランシュのお茶は王都でも有名なのですよ。貴族の茶会では、来客にどのような物を用意できるかで主人の格が評価されます。お茶はその最初にして最重要のもの。ランシュのお茶を楽しむためだけに、妾に味方してくれる貴族の方々もいらっしゃるくらいです」
農民出身のラフィットが貴族の一員として認められるために、ランシュの煎れる紅茶は極めて強力な武器のひとつだ。
「ですからレイリア様、どうかそんなお顔はなさらずに。ランシュにお茶で勝てないことを嘆くのは、シン様に剣で勝てないことを嘆くのと同じことですよ?」
勝てる者など世界のどこにもいないのだから。
そんな言葉で慰めて、ラフィットはふわりと微笑んだ。
レイリアの顔に思わず苦笑いが浮かぶ。
他人が自分より優れているところに嫉妬しても仕方がない、と。
自分の本分にこそ誇りを持て、と。
ザクソンの村で薬草師の少女に話したのとまったく同じことを、今度は自分が年下の少女に諭されてしまった。
「そうですね。ごめんなさいランシュさん。これは本当においしいです」
「お褒めにあずかり光栄でございます」
冷静な表情を崩さないメイドの顔に、ほんのりと誇らしげな朱が差す。
2杯目を受け取ったライオットは、マグカップを左手に持ったまま部屋を見渡した。
応接ソファにはラフィット、ルージュ、レイリアの女性陣に加えて、神殿からマッキオーレ司祭とブローリオ司祭、そして早朝から朗報をもたらしてくれたピート卿にも同席してもらっている。
ランシュは茶器を収めた棚の脇で壁際に控え、ルーィエはいつもどおり窓枠に登って、外を監視しながらハニーミルクを堪能していた。
これにシンとライオットを加えた総勢9名と1匹が、これから始まるターバ神殿防衛作戦の司令部を構成することになる。
「それじゃあそろそろ始めようか。今のところ巧くいってるけど、あいつらだって外で騒ぎに来たわけじゃない。敵の目的は男爵夫人を亡き者にすることだってのを忘れるな。これから始まる本番に向けて、それぞれの役割を再確認しておこう」
正門前に集まったデモ隊もどきの連中は、要するに陽動だ。
派手に騒いで神官戦士団の目と手を引きつけておき、その隙を突いて本命の精鋭がラフィットを直接狙うのだろう。
「結局のところ、リュイナールやアウスレーゼと話し合った時と結論は同じってことさ。今のアラニアにターバ神殿を武力で正面攻撃できる勢力はない。少数の暗殺者が襲ってくるしか考えられない。そのとおりになった」
現状の説明に続くライオットの総括に、ブローリオ司祭が質問する。
「つまり表にいるあの連中とこれから来る暗殺者は、雇い主が同じというわけですか」
「ブローリオ司祭の仰るとおりです。もっと正確に言えば、暗殺者は表の集団の中に紛れ込んでいます。あいつらに外から来る増援はありません。これは《噓感知》の魔法で確かめたので確実です」
「……なるほど。だから定期的に人数を確認しろと指示なさったのですな」
意味不明な指示の目的を理解して、ブローリオ司祭は大きく頷いた。
中に入ってこないはずのボーカイユの人数が減っていたら、つまり暗殺者が離脱して独自の行動を始めたということ。
神殿側は厳戒態勢を取らねばならない。
「来るのは間違いないのでしょう。問題はいつ来るか、ですが」
落ち着いた様子でティーカップを傾けながら、マッキオーレが言う。
「神官戦士団の人数にも限りがあります。警戒を続けていれば緊張も緩む。あまり焦らされるのも愉快ではありませんな」
「あいつらの大部分はただの民衆だ。先制攻撃するのは駄目だぞ」
シンが首を振った。
そんなことをすればニースが激怒するのは目に見えているし、そもそもシンの流儀にも反する。
「分かってるさ。向こうから来るのを待つしかない。それは仕方ないけど、前兆はあるだろう。連中は男爵夫人がどこにいるか知らないはずだ。この部屋に内通者でもいない限り、必ず調査する手間が必要になる」
ライオットたちが王都でスーヴェラン卿の屋敷を強襲した時、アラン衛視隊は屋敷の見取図を用意し、戦闘部隊とは別に4個班20名もの突入部隊を編成する必要があった。
どこにいるか不明な要人を襲うというのは、それほど不確実で手間がかかるのだ。
プロの暗殺者が行き当たりばったりで実行するはずがない。
必ず事前調査が行われるはずだ。
ライオットはラフィットを見た。
オブラートに包む気などこれっぽっちもなく、単刀直入に疑念を向ける。
「男爵夫人、あなたは昨夜言いましたね。裏切り者がいると知っていても、利用できるなら放置すると。そこにいるランシュさんが外に神殿の情報を洩らす心配はありませんか?」
ラフィットは笑みを消して真正面からライオットを見つめ返した。
その顔にはわずかな動揺もない。
「妾の全てにかけて保証いたします。ランシュが妾を裏切ることも、ランシュが外に情報を洩らすこともありえません」
端然と座したまま、ラフィットは最初から最後まで視線をそらさなかった。
「そもそも、妾だって殺されたくはないのです。裏切るかもしれないと疑う余地のある者なら、最初からこのような場所に連れて参りません。ランシュの忠誠は絶対です。ライオット様の御懸念は杞憂だと断言いたしますわ」
その姿は14歳とは思えないほど凜として揺るぎなく、何かを隠しているようには見えない。
壁際に控えていたランシュもライオットの前に進み出ると、片膝をついて頭を垂れた。
「私も身命を賭してお誓い申し上げます。私がラフィット様を裏切ることなど決してございません。ですが私の存在のせいで主人が疑念を受けるならば、もとよりライオット様に救っていただいた命、今この場でお返し致したく」
なんとも過激な発言だ。
だがそれより怖ろしいことは、その言葉にひとかけらの噓も誇張もないことだった。
主人を疑うくらいなら今ここで私を殺せと、ランシュは本気でそう言っているのだ。
ライオットはルージュと視線を交わし、主従の言葉に噓がないことを共有すると、素直に頭を下げた。
「すみません男爵夫人、それにランシュさんも。失礼なことを言いました」
「ライオット様を赦します」
ラフィットが貴族然とした態度でうなずく。
「ですがその上で申し上げますわ。どうかお気になさらず。先ほどのお言葉は必要があってのものと理解しております。ライオット様のお立場では当然の疑念ですもの」
その言葉にもまったく噓はない。
ルージュはルーィエに念話で感嘆した。
『男爵夫人は大人だよね。とても14歳とは思えない。それにランシュさんの忠誠心もすごい』
『当たり前だ。こいつは本物の忠義者だぞ。俺様も保証してやる。このメイドが男爵夫人を裏切ることはない』
『王都で初めて会った時も、男爵夫人の盾になって暗殺者から守ってたしね』
その言葉どおり、内部の情報が洩れないという前提であれば、基本的にはこの執務室に籠城する作戦だ。
男爵夫人の護衛としてシンとレイリア、それにルーィエが張りつき、何があろうと離れない。
暗殺者の索敵は神官戦士団の、迎撃はライオットとルージュの役目になる。
回復魔法の使い手は分散させたし、戦力の相性もいい。
男爵夫人を守りきることは難しくないはずだ。
そこまで考えて、ルージュはふと思った。
『そういえば、昨日の男爵夫人の噓は何だったのかな?』
これほどの体制を取らせているのに、ラフィットは自分が守ってもらう立場だとは考えていないらしい。
もしや殺されたいと思っているのか、という仮説もあったが、それは先ほどの言葉で否定されてしまった。
現状では情報不足という結論になり、一言でも多くしゃべらせること、ラフィットと話す時は常に《噓感知》を発動させておくこと、この2点だけは決めてあったのだが。
『男爵夫人は全然噓をつかないから、手がかりが増えないんだよね』
ちらりと横を流し見たルージュの視線の先で、ラフィットはギクシャクとした空気を魔法のように霧散させ、いつの間にかピート卿と楽しげに談笑していた。
国王の愛妾であり、爵位を与えられた貴族であり、自分自身も周囲の雰囲気も望むままに変質させてしまう超一流の女優。
その演技力はまさに底なしで、素の彼女自身を見たことなどただの一度もない。
彼女はいったい何を感じ、何を求めて行動しているのだろうか。
『そうか。私たち、彼女が何をしに来たのかすら知らないんだ』
愛妾として懐妊祈願に来た?
そんなお題目は噓に決まっている。
では、ただの気分転換でレイリアと遊びに来たのか?
自分が王族の暗殺者に狙われていることを知りながら、レイリアを巻き込むことを承知の上で?
男爵夫人が本当にレイリアを大切に思っているなら、そんなことをするだろうか。
するはずがない。
今日この執務室でも見たとおり、彼女の精神は年齢不相応なほどに大人だ。
自分の子供じみた我儘のために、レイリアの危険を許容するほど未熟ではなかった。
ではなぜ、今この状況になっているのか?
『何かあるんだ。私たちに見えてない何かが。そうじゃないと不自然だ』
そっと目を伏せ、表情を隠すようにティーカップを傾ける。
その“何か”を見つけることが今回の勝利条件であるような気がして、ルージュは細く長く吐息をもらした。