マスターシーン ターバの村
その男女が〈栄光の始まり〉亭を訪れたのは、日が暮れて夜も深まった頃のことだった。
1階の食堂は夕食の時間から酒の時間へと変わりつつあり、客たちの楽しげな笑い声が響いている。
いくらターバ神殿の近郊とはいえ、旅人が宿を訪れるには遅すぎる時間だ。
酒を楽しむ客たちはちらりと新客に目を向けたが、すぐに興味を失って談笑に戻った。
入ってきたのは恰幅のよい中年の男性と、妙齢の女性の2人組だった。
夫婦と呼ぶには年が離れているし、親子というには近すぎる。
仕立てはいいが戦闘には向かない平服を着ているから、冒険者ではないだろう。
宿の客層には似合わない来客を、女将は興味深そうに迎えた。
「いらっしゃい。こんな時間にずいぶん珍しいお客さんだね。泊まりかい?」
不躾な一言に、男性は気を悪くした様子もなくにこやかに応じる。
「行商人のまねごとをしておりましてね。馬車の調子が悪くて遅くなってしまいました。部屋は空いておりますかな」
「旦那様、真似事などと。女将、こちらの方は王都アランで――」
「いいから。ラクロワは下がっていなさい」
「……はい」
着ているものや言葉遣いから考えれば、大店の商人とその手代といったところか。
ふたりの関係を察した女将は、愛想よくうなずいた。
「二人部屋がひとつで良いかい? ひとり用の寝台が2つの部屋だ」
「それで構いません。それと食事もお願いしたい」
「はいよ。シチューとパンならすぐ出せるから、空いてるテーブルで待ってておくれ。部屋は食事が終わるまでに用意しておくよ」
笑顔で商人はうなずき、カウンターに2人分の銀貨を置くと、食堂の中央に空いていた丸テーブルに席を取った。
すぐにパンとウサギ肉のシチュー、それにジョッキに入ったエールが運ばれる。
女給に愛想よく礼を言うと、商人は間髪入れずにエールを傾けた。
左側に座った女性が、ほんのわずかな不満を滲ませながら小声で話しかける。
「デュクリュ様、本当にこちらに入ってよろしかったのですか?」
「心配要らないよ、ラクロワ。私を信じなさい――ほら来た」
ジョッキで表情を隠しながら周囲をうかがってた商人、デュクリュは、満足そうに目を細めた。
近づいてきたのは、壁際に席を取っていたふたりの冒険者だ。
まだ実戦で使ったことは無さそうな皮鎧に、数打ち品で低品質な剣。
年齢は若いラクロワよりもさらに年下、おそらく16~7歳というところだろう。
本気で冒険者をやる気があるのかと問いかけたくなるような鍛錬の足りていない体幹から見て、剣を持って向き合えば秒殺できるのは間違いない。
人生の荒波に揉まれたことのない幼い顔立ちといい、冒険者というより世間知らずの子供だな、と内心で酷評する。
無論、デュクリュはそれを表に出すほど愚かではない。
彼らには気づかぬふりでジョッキを呷り、声をかけられて初めて、驚いた様子で振り向いてみせる。
「商人さん、少しいいですか?」
「おお、これはこれは、冒険者様ですかな? 私のようなしがない行商人に何の御用でしょう?」
「僕ら、南から来た旅人に道中の話を聞かせてもらってるんです。商人さんは王都の方から来たんですよね?」
これから食事を始めようという相手に対して気づかいがないし、人にものを頼む態度でもない。
デュクリュは少年たちの評価をさらに下げながら、愛想よくうなずいた。
「さようです。おふたりはこれから王都に行かれるのですか?」
「そういう訳じゃないんですけど。ちょっと依頼を受けて、南の情報を集めてるんです」
「なるほど」
そろそろラクロワの不機嫌が、無表情を破って顔に出そうになっている。
愚かな少年たちと短気な部下に内心でため息をつきながら、デュクリュは助け船を出すことにした。
「冒険者様、もうお食事はお済みですかな? 私どもはこれからでして。もしよろしければ御一緒にいかがですか? 王都では、世間話は酒を酌み交わしながらと相場が決まっております」
そして少年たちの答えを待たずに女給を呼び、簡単なつまみと酒を追加注文する。
全員に酒が行き渡ると、デュクリュはにこやかにジョッキを掲げた。
「それでは、大地母神のお恵みとこの出会いに感謝して」
ここまでは順調だが、さて、どうやって情報を吸い出そうか。
少年らと軽くジョッキを合わせながら考えをめぐらせる。
どこに耳があるか分からない以上、できればこちらからは話題に出したくない。
先方から彼の名を出してくれると助かるのだが。
そんな思惑を知ってか知らずか、少年たちは単刀直入に切り出した。
「実は僕ら、“砂漠の黒獅子”の依頼を受けて情報を集めてるんです。商人さん、彼らの名を聞いたことはありますか?」
「勿論ですとも。王都で“砂漠の黒獅子”が炎の精霊王を召喚し、邪教の走狗を成敗した武勲譚は、今や知らぬ者もないでしょう」
いきなりその名前を出してくれたことにほくそ笑みながら、デュクリュは大きくうなずいた。
自分たちの英雄が知られていることに気をよくしたのだろう、少年は嬉しそうに続けた。
「それだけじゃありません。彼らはザクソンの村で上位魔神を討伐し、ドワーフたちの“鉄の王国”ではドラゴンまで倒した上、犠牲になったターバの戦士長を《蘇生》の儀式で甦らせたそうです」
「なんと! それは凄まじい活躍ですな。魔神戦争の“六英雄”にも匹敵する功績ではありませんか! そんな“砂漠の黒獅子”から直接依頼を受けられるとは、冒険者様も将来有望なこと間違いありますまい!」
そこには何の関係もないでしょうに、と目に冷笑を浮かべたラクロワを、ちらりと一瞥してたしなめる。
今やるべきなのは未熟な少年の教育ではない。
任務を達成するための情報収集だ。
「それで冒険者様は、“砂漠の黒獅子”とお会いになったことはあるのですかな? できれば私もお目にかかってみたいものだ」
「残念ながら、彼らは今ターバ神殿にいます」
「ほう、神殿に。それでお戻りはいつ頃かご存じですか? 英雄殿に細工物のひとつでも売れれば親類縁者に自慢できるのですが」
すると、少年は気の毒そうに首を振った。
「彼らも神殿で依頼を受けたらしくて、外に出られないと言っていました。この村で会うのはちょっと厳しいでしょうね」
少し水を向けただけでペラペラとしゃべってくれる未熟な少年に、デュクリュは心からの侮蔑と感謝を向けた。
少年は依頼を受けて情報を集めているというのに、その集めている本人が情報の価値と重さをまるで理解していないのだ。
何たる愚者、何たる僥倖だろう。
この話の裏付けは〈栄光の始まり〉亭の女将からも取るとして、とりあえずは肉と酒で、少年の口をどんどん軽くするとしよう。
デュクリュはにこやかな笑顔で女給を呼び、少年たちのための料理を追加した。
シーン9 ターバ神殿
さまざまな思いが交錯する夜が明けた。
太陽が東の地平線から顔を出すと、皓い陽光が降り注いで影を明るく塗りつぶす。
青い空は雲ひとつなく晴れ渡り、肌寒ささえ感じていた冷涼な空気が一気に温度を上げていった。
夜明け前から始まった“鉄の王国”救援の準備はすでに佳境だ。
レイリアの部屋から中庭を見下ろせば、引き出された荷馬車には救援物資が満載され、点呼を終えた戦士団は部隊ごとに集まって指示を受けている。
前回“鉄の王国”へ派遣された時は上位魔神との戦いが確定していたから、どうしようもなく悲壮な雰囲気が漂っていた。
生きて帰るのは絶望的だという現実を全員が認識していたから。
それに比べれば、今回は単なる落盤事故の救助作業だ。
戦闘を想定していないから移動速度優先の軽装だし、雰囲気にも余裕が感じられる。
そんな神官戦士団とは対照的に、室内のレイリアは真剣な表情で実戦装備を整えていた。
「チェインメイルはきつくない? 髪が絡まないように気をつけて」
「はい、大丈夫です」
朝から部屋を訪れたルージュが、順番に装身具を手渡してくる。
翼をかたどった銀の指輪。
涙滴型の白い宝石があしらわれた耳飾り。
細い金の鎖のアミュレット。
左手片方だけの、なめし革の指なし手袋。
それらはシンがレイリアのために選んでくれた、強力な魔法の品だ。
チェインメイルの上から着たマーファの神官衣にも隠しポケットを作り、中には最高級の魔晶石が3個、ひっそりと縫い込まれている。
「あとは剣か。レイリアさん、この剣には慣れた?」
「はい。剣だけじゃなく、いただいた魔法の品も全部使って、ライオットさんの鬼のような訓練を受けましたから。本当にもうライオットさんときたら……」
泣きたくなるような、というか、実際泣きながら痛めつけられた訓練を思い出して、レイリアの顔に名状しがたい表情が浮かぶ。
ルージュの前でライオットを悪く言いたくないが、精いっぱい好意的に表現しても、あれは地獄としか言いようがなかった。
訓練場からシンもルージュも追い出し、ふたりきりになると、ライオットは実剣を使って容赦なくレイリアを切り刻んだのだ。
ふたりとも治癒魔法の使い手だから傷ひとつ残っていないものの、二の腕から前腕までざっくり斬り裂かれた激痛も、腹を貫かれた時のショックも、レイリアは全て覚えている。
そして訓練では絶対に味わえない、実際に自分の血を流しながら、相手の殺気を浴びながら戦うという経験を、嫌というほど繰り返したのだ。
「まあでも、おかげであの戦士長さんに負けなくなったらしいじゃない」
「訓練ならちっとも怖くないですし、魔法の品を使って全力でズルしてますから。それにカザルフェロ戦士長はライオットさんと違って剣が素直なので、何と言うか、対応しやすいんです」
それはかつてレイリア自身が、ライオットからもラスカーズからも言われた言葉だ。
強いことと勝てることは違う、と。
妖魔相手の田舎剣術では、剣技を修めた相手には勝てない、と。
ライオットの剣技と殺気に慣れた体でカザルフェロと向き合った時、レイリアはようやくその意味を理解できた。
「ズルを使いこなすのも実力だよ。そのための訓練でしょ?」
「もちろん分かってます」
革の剣帯に小剣を吊ると、最後にもう一度身支度を点検する。
魔法の品はほとんどが神官衣の下に隠れているから、外からは小剣を持っただけの軽装に見えるだろう。
見た目で相手を油断させるのも作戦のうち。
それが、シンがレイリアにチェインメイルを着せた理由だ。
「じゃあ髪をちょうだい」
「はい」
レイリアが数本の前髪を抜いて手渡すと、ルージュは懐から1体の人形を取り出した。
ディフォルメの効いた丸い体型の人形だが、後から黒い毛糸で長髪を付け足しているため、どことなくレイリアに似た雰囲気だ。
ルージュは受け取った髪を人形の腹部に押し込むと、衣装棚に並んだ動物の人形の中に座らせた。
つぶらな黒い瞳のレイリア人形は、まるで動物たちに守られたお姫様だ。
それを満足そうに見下ろしてから、ルージュはレイリアを振り返った。
「さ、準備ができたら行こうか」
「はい」
ミスリルメッシュで防護のルーンが縫い込まれたローブをひるがえし、魔法樹の杖を手に部屋を出て行くルージュ。
そのしなやかな背中を追いながら、レイリアは気を引き締めた。
訓練と準備の日々はもう終わり。
いよいよ、今日からは本番だ。
「ニース様、ボイル王とギムによろしくお伝え下さい。どうか道中お気を付けて」
ライオットが見送りの言葉をかけると、馬車に乗り込もうとしていたニースは足を止め、振り向いて苦笑を返した。
「あなたには、もっと文句を言われると思っていたのだけれど」
物言いたげなアウスレーゼを手だけで制し、穏やかな口調で続ける。
「でもありがとう。あなたたちがいれば安心して後を託せるわ」
ライオットの横には財務担当司祭マッキオーレ、それに神官戦士団の残留部隊を預かるブローリオ司祭の姿もあった。
ブローリオ司祭はカザルフェロ戦士長の腹心で、神官戦士団の実質ナンバー2だ。
ニースの強権発動で台無しになってしまった防衛計画を立て直すのは、事実上この3人ということになる。
「ところで“彼女”は?」
「客間です。シンとレイリア、それにルージュも付いてます。ただの神官見習いが見送りに来るのはおかしいから、この場は遠慮する、と」
名目上、ロートシルト男爵夫人はまだいないことになっている。
ニースに特別扱いされる見習いなど目立つだけだから、賢明な判断と言えるだろう。
「そう」
小さく頷くと、ニースはさりげなくライオットに近づいた。
周囲に聞かれないよう声をひそめ、だが断固とした口調で命じる。
「ライオット。万一の時は決して間違えないようになさい。守らなければいけないのはレイリアなのか、彼女なのか。あなたなら本末転倒な決断はしないと信じていますよ」
そしてライオットの肩をぽんと叩くと、ニースは司祭たちに顔を向けた。
「マッキオーレ司祭、昨日も言いましたが、あなたに神殿の全権を託します。あなたが必要と判断したなら、神殿の全てを自由に使いなさい」
「謹んで承ります」
「ブローリオ司祭。聞きましたね? 私の留守中、彼の言葉は私の言葉です。全力で支えてあげてちょうだい」
「無論です。どうかお任せを」
残される事務方と戦士団のトップが、格式張って頭を下げる。
そんな幹部たちを見つめながら、ニースはしばらく考え込んでいたが、やがて小さく吐息をもらした
「あなたたち3人にだけ話しておきましょう。実はね、私はマーファの《啓示》を受けたのです。今から2週間ほど前、まだ“彼女”がターバに来る前のことよ」
驚いたマッキオーレが顔を上げる。
最高司祭が神から直々に《啓示》を受けるなど、教団の運命を左右するような大事件ではないか。
無言で先を促すマッキオーレに、ニースは続けた。
「慈悲深きマーファは仰いました。もうすぐターバ神殿に悪意が襲来する。だが私は神殿にいるべきではない。全ては新しい風に委ねるように、と」
この場にいる者の中で、いちばん納得したのはライオットだった。
なるほどルージュの言ったとおり、これがシナリオの強制力というやつなのだろう。
GMの権能が神すら操るほどに世界を支配しているなら、シンが示したシナリオ攻略という視点は、まさに正鵠のど真ん中を射抜いていたようだ。
「とは言え私も困ってしまってね。色々と責任もあるし、啓示があったからと遊びに出かけるわけにもいかないでしょう? どうしたものかと悩んでいるうちに“鉄の王国”からの救援要請が来たのよ。そういうことかと思ったわ」
「つまり此度の出征は、マーファの思し召しということですな。ニース様がいつになく強硬でいらしたので少々戸惑っておりましたが、これで得心いたしました」
隆々たる体躯のブローリオ司祭が謹厳に応じる。
ライオットよりも頭半分高い長身と、分厚く膨れ上がった筋肉。
その迫力は司祭というよりパワーファイターだが、実直な人柄もあって、威圧感よりも頼もしさを感じられる人物だ。
「マーファの仰る新しい風が誰なのか、マッキオーレ司祭にもよく分かっておりましょう。我らは全力でお支えします。ニース様、どうか御心安らかに吉報をお待ちください」
事務方のトップであるマッキオーレは、神殿の経営状況を大好転させたシン・イスマイールに返しきれない借りがある。
ブローリオ以下の神官戦士団は、カザルフェロ戦士長を甦らせたライオットにとてつもない恩義を感じている。
そうでなくとも、上位魔神の脅威や邪教の魔手から神官戦士団とレイリアを守り抜いたのは、他でもない彼ら冒険者たちだ。
今このターバ神殿に、彼らのことを疎ましく思う者はひとりもいない。
マーファの言う悪意の正体は分からないが、ターバ神殿はシンたちと一枚岩になって対応できるだろう。
「よろしく頼むわね」
その一言に様々な思いを込めて、ニースはにこりと笑みを浮かべ、そして馬車の中へ姿を消した。
護衛のアウスレーゼがそれに続き、キャビンのドアが閉じられると、馬車はゆっくりと動き出す。
ドワーフ族の友邦“鉄の王国”救援のため、カザルフェロ戦士長以下、神官戦士団の大半が神殿を離れたのは、ロートシルト男爵夫人の滞在6日目の早朝だった。
居残りの司祭たちは通常業務に忙殺され、わずかに残った神官戦士たちも門衛や巡回に出払ってしまったため、宿坊の中にはほとんど人が残っていない。
神官たちの私室が並ぶ2階に限れば、残留人員はゼロだ。
おかげでメイド服姿のランシュが堂々と廊下を歩いても、それを見とがめる者は誰もいなかった。
「けど本当にいいのか? ニース様の執務室を勝手に使ったりして?」
ライオットとふたりで客間に置いてあった寝台を運びながら、シンがマッキオーレに胡乱げな顔を向ける。
茶器の入った箱を持ったマッキオーレは、事もなげに笑った。
「神殿にあるものは何でも自由に使ってよい、と言われておりますからな。シン殿も私の言葉はニース様のお言葉だと思ってお聞き下さい。何なら『最高司祭代行』とお呼びいただいても構いませんぞ」
「誰が呼ぶか」
軽口の応酬をしながら肉体労働にいそしむ男どもに、両手いっぱいにラフィットの衣装をかかえたランシュが無言で続く。
ニースが留守にする間、ラフィットの居室を宿坊裏側の客間からニースの執務室に移すことになったのだ。
理由はいくつかあるが、最も大きいのは「広いから」だ。
これから神官戦士団が戻るまで、警備範囲は大幅な縮小を余儀なくされる。
それに伴ってレイリアとシンは常にラフィットに張りつき、夜間も同じ部屋で護衛に当たることになった。
ラフィットとランシュを合わせて4人もの男女が寝起きするには、客間では狭すぎる。
それに比べてニースの執務室は倍以上の広さがある上、神殿を一望できる一等地だ。
万一の時に神殿全体を見て判断ができるという点からも、拠点にするにはうってつけの部屋だった。
「シン、お疲れ様です」
ニースの執務室は廊下に面した扉が両開きで、寝台を横にしたまま通ることができる。
入口で扉を開けていたレイリアは、悪戯っぽい笑顔をマッキオーレにも向けた。
「最高司祭代行も。室内の準備は順調ですよ」
「これはしたり。聞いておられましたか」
マッキオーレは悪びれもせず、好々爺のように笑う。
執務室に入ると、年齢相応にはしゃいだ様子のラフィットがシンを差し招いた。
「シン様、寝台はこちらへ。ああ、真ん中に隙間はあけなくて結構です。ぴったりくっつけて並べて下さいませ」
客間から運び入れたベッドが2台、窓から離れた壁際に並ぶ。
他にはニースが元々使っていた豪奢なものと、シンの部屋から持ち込んだ簡素なもの、計4台だ。
「くっつけるは構わないけど、これ誰と誰が使うんです?」
「もちろん妾とレイリアお姉様ですわ」
「いやいや、男爵夫人はニース様の寝台じゃないんですか?」
「妾はこちらでお姉様と一緒に寝ます。あれはランシュがお使いなさい」
「ご冗談を。絶対に嫌でございます」
こればかりは譲れないと、ランシュが思いきり顔をしかめる。
普段は表情を変えない使用人の本気を見て、ラフィットはシンに視線を向けた。
「ではシン様がお使いになるしかありませんわね」
「男が使うとかありえないでしょう。男爵夫人が使わないならレイリアですよ」
シンの当然の主張は、即座に却下された。
「駄目ですわ。お姉様は妾と一緒に寝るのです。妾は最初からそれを楽しみにターバ神殿まで来たのですよ? 本当なら同じ寝台で同じ毛布にくるまって、夜が更けるまでおしゃべりを楽しむはずだったのですわ。眠る時はお姉様に抱きついて体温を分け合い、朝起きたら一番におはようを告げるはずだったのです。やっとその機会が来たのですから絶対に譲りません。妾の予定を邪魔したのはランシュなのですから、責任を取ってニース様の寝台はランシュがお使いなさい」
「絶対に嫌でございます」
運んできた寝台を床に下ろし、ライオットが疲れた肩を回す。
まあ常識的に考えて、ニースの寝台を他人が使うというのは厳しいだろう。
これは客間にでも運び出して、レイリアの部屋からもう1台持ってくるしかない。
ミスリルプレートに大盾を背負ったまま寝台を運ぶのは重労働だから、できればやりたくはないが、他に解決策がないなら仕方ない。
そんなことを考えていると、窓から中庭を見下ろしていたルージュが声をあげた。
「ライくん、裏門の方に誰か来たみたいだよ。騎馬が一騎。門番の人が止めてる」
「騎馬? 珍しいな。どこかからの使者か?」
ターバの村の冒険者たちは馬など使わないし、リュイナールなら魔法で連絡してくる。
ルージュに並んで窓辺に立ち、ライオットは目を細めた。
一般的な茶色のマントに、どうやら金属鎧を着ているようだ。
胴鎧や腕当て、脛当てなどまで身につけているから、実戦にも耐えうる重装備だ。
ここからでは顔が見えないが、門番の様子からすると敵ではないらしい。
すると、窓枠で朝寝を決め込んでいたルーィエがつまらなそうに口を開いた。
「見て分からないのか半人前ども。あれは司祭の父親だ」
「司祭って言われても陛下、ここは司祭だらけで誰だか分からないんだけど」
頑ななまでに名前を呼びたがらないルーィエに、ライオットが苦言を呈する。
銀毛の猫王は、苛立たしげに尻尾で窓枠を叩いた。
「そこにいる黒いののつがいだ。他にいないだろうが」
「つがいだなんてそんな。私たちまだそこまで進んでませんよ」
頬に手を当てて照れるレイリアにルージュが生ぬるい視線を向け、ラフィットは不満そうに頬を膨らませる。
運んできた茶器をテーブルに置くと、マッキオーレも口を挟んだ。
「ルーィエ殿、いちおう私も司祭なのですが」
「……そうか、お前のことは商人だと思っていた。すまなかったな。これからは最高司祭代行と呼ばせてもらおう」
「お願いですからニース様がお戻りになったらやめてくださいよ? あれは心和ませるためのささいな冗談ですからな」
「うるさい最高司祭代行。お前はさっさと話のできる部屋を用意しろ。すぐに必要になるぞ」
持ち込んだ私物を整理しながら、ランシュはそっと冒険者たちに視線を向けた。
口を開くたびにふざけはじめ、真面目にやろうという様子はまったく感じられない。
それでも彼らには抜け目がなく、ランシュがターバに来てからというもの、一度としてレイリアをひとりにしていないのだ。
これまでは銀髪の魔術師か猫王が必ず同行していたし、今日からはそれにシン・イスマイールが加わるらしい。
各種の茶葉の容器にラザリアの花の蜜をそっと紛れ込ませ、ランシュは唇を引き結んだ。