シーン7 ターバ神殿
王都方面からの旅人から話を聞いてくれたら、誰にでも、どんな情報にも銀貨100枚を支払う。
ライオットが最初に〈栄光の始まり〉亭で依頼を出した時は、得られる情報にはさほど期待していなかったように思う。
どちらかというと、新米冒険者たちへの経済的支援や、それを通して“砂漠の黒獅子”一行の名前を広めようという思惑が強かった。
しかも、それすら計算ずくで始めたわけではない。
夕食時、所持金と相談しながら料理を削っている新米冒険者たちの苦境を見て、コーヒー代くらいおごってやるか、と思いついただけだ。
それでも警備のために神殿を出られないライオットにとって、情報の方から神殿に来てくれるというのは大きなメリットになった。
最初の1日は、その場で宿代を手に入れた1組だけ。
次の1日は、彼らから話を聞いたルーキーが4組ほど。
3日目には10組以上の冒険者たちがターバ神殿を訪れ、警備につく神官戦士団に「冒険者が来たらライオット殿を呼べ」と指示が回った。
その後も情報の提供はどんどん増え、依頼をしてから1週間、男爵夫人の到着から3日目の今日までに、ライオットは情報料として銀貨7000枚以上を支払っている。
最初の情報は、王都から帰ってきたベテラン冒険者たちの苦労話だった。曰く、道中の村で保存食が買えなかったから、戦士が狩りで食料を調達した。ザクソンの村では森の妖魔狩りに同行して、タダで宿と酒にありついた。
それだけなら笑い話として酒の肴にぴったりだ。
だが、似たような情報が何十件も集まれば意味が変わってくる。
「つまり、それなりに大きな人数が、野営をしながらターバに向かってるんじゃないか、ってことです」
窓から神殿の様子を見下ろすニース。
ニースの背中を守るように立つアウスレーゼ。
ソファに腰掛けるルージュとカザルフェロ。
ニースの執務室に集まった一同を見渡して、ライオットは言う。
「保存食ってのは、旅を始める時に買う物です。夏の間ターバ神殿への巡礼者は増えると分かりきってるんですから、売る側だってそれなりの在庫を確保するでしょう。なのに南のいくつかの村で在庫切れになり、しまいにはザクソンでさえ買えなくなった」
「お前さんの言うことは分からなくもないんだがな」
カザルフェロが渋い顔で首をひねる。
「要するに、ターバを攻撃するかも知れない軍勢が来てるってことだろ? だがな、それなら姿が見えないはずはないぞ。軍ってのは兵だけいればいいもんじゃない。仮に100人いたら、10日分として3000食の食料。予備の武器や矢玉。寝床を用意するなら毛布だけで馬車1台分だ。俺たちが神官戦士団を動員したとき、片道3日の“鉄の王国”に行くのに資材だけで馬車10台が必要だったんだぞ?」
それに加えて完全武装の戦士100人と騎馬100頭だ。
どれだけ頭のゆるい人間が見ても、物見遊山や交易には見えなかっただろう。
「それに、宮廷魔術師と3人で話したばかりではありませんか。現状、ターバ神殿を武力で正面攻撃できる勢力はありません。宮廷貴族はニース様やターバ神殿をうとましく思っていますが、それゆえに実害を加えることはできない、と」
アウスレーゼが切れ長の目でライオットを見る。
「仮に数百の軍勢を投入して神殿を落とし、ニース様を亡きものにしても、国内に広がる大混乱と反感はデメリットが大きすぎる。損得勘定のプロである宮廷貴族が、損を選ぶことなど考えられません。我々が警戒すべきは少数の隠密による破壊工作であって、正面攻撃ではない、と合意したはずですが」
神官戦士長として正面戦力の長を務めるカザルフェロも、国王直属の密偵として貴族社会の闇を知り尽くしたアウスレーゼも、ライオットの杞憂であると考えているようだ。
窓辺で背を向けたニースが無言を貫いていることもあり、場の雰囲気が易きに流れようとした時、ルージュが珍しく真剣な声を上げた。
「カザルフェロさんもアウスレーゼさんも、考え方が甘いんじゃないかな?」
普段のわがままな姿は影を潜め、紫水晶の瞳が怜悧とさえ言えそうな光を浮かべて楽観論のふたりをなで切りにする。
「宮廷貴族が軍勢でターバを攻める恐れはないから、南に謎の集団がいても構わないの? 逆でしょそれ。南で得体の知れない集団が食料を買い集めてるのは何故か、軍勢じゃないなら誰だ、って考えるべきじゃないの?」
それに反論しようとしたアウスレーゼを手で制して、ライオットが口をはさんだ。
「まあ、まだそれが“集団”だと決まったわけじゃない。戦士長が言ったとおり、集団が動くのは目立つはずなのに、そういう話はひとつもなかったからな。だから推論とか憶測はさておき、単純に事実だけを共有しよう」
その事実も伝聞をはさんでいる以上は不確実なのだが、あえてそこは黙っておく。
「ひとつめ。大量の保存食が売り切れて買えなくなった。どれくらい売れたのかは不明だ。ふたつめ。それだけ多くの人数が動いてるはずなのに、宿屋が満員になったという話や、酒場で食事がとれなかったという話はない。ひとつもない」
警視庁機動隊時代、ライオットは大人数の部隊を動かす時に必要な物を目の当たりにしてきた。
武器や防具といった装備は個人管理でも何とかなるが、どうしても必要で、個人ではどうにもならないものが3つある。
食事と、寝床と、便所だ。
この3つは人数分だけ絶対に使うし、使うためには前もって準備しておかねばならない。
王都からターバへ至る道は大部分が原野だから、便所はまあ、その辺で用をたすとしてもいいが、残る2つは平等に使用するはずなのだ。
「俺たちも王都に行った時、野営しなかったとは言わないよ。それでも途中にいくつかある宿場町や村では、食料を調達して宿屋に泊まった。村で食料を買うなら、同じ人数分だけベッドが必要になるのが普通だと思う。でも今回はそうじゃない」
必要とされた物資のバランスがちぐはぐなのだ。
「そうね。神殿への巡礼者が増える時は、ターバの宿屋も大盛況だものね」
窓の外から視線を外し、ニースが振り向く。
旧知の魔術師からの急な依頼と、ロートシルト男爵夫人の突然の来訪。
良くも悪くも、今のターバ神殿には宮廷の権力バランスを崩す重要人物が集まりすぎている。
何事もなく終わってくれればいいと思っていたが、裏を返せば、それは何事もなく終わるはずがないという予感だったのだろうか。
「いいでしょうライオット。ルージュさんとふたり、今日の夕食までなら神殿から出ても構わないわ。それでどこまで行くつもり?」
「とりあえずザクソンとトアールは見てみるつもりです。余裕があればビルニまで」
考えていることはお見通しか、と思いつつ、ライオットは答えた。
売れた保存食の数さえ分かれば、相手の規模を推し量る助けにはなる。あとは買っていった相手の風体、売れた時期などから移動速度も読めるだろう。
わずかな可能性ではあるが、もし投機目的の買い占めだとすれば、買った商人がどんな人物なのか判明するかも知れない。
「結構。くれぐれも気をつけて」
ニースが最終的な許可を与えると、アウスレーゼが険のある声で異を唱えた。
「恐れながらニース様。私は反対です。今この時期に神殿を手薄にするなど。敵の思うつぼではありませんか」
「その敵って誰? 思うつぼって、敵の思惑は何なの? それが分からないから調べようとしてるんでしょ」
ルージュが冷たく切り捨てる。
アウスレーゼは国王からニースの護衛と監視を命じられているだけの密偵だ。
ニースさえ守れれば、ロートシルト男爵夫人の生命はどうでもいいと考えているかも知れない。彼女にとっては、ニースを守る壁は厚ければ厚いほどいいし、その壁の外でいかなる被害が出ても関係ないのだ。
だが、その程度の認識で防衛方針に口をはさまれるのは迷惑千万というもの。
「これは用兵の話だけどさ。もしアウスレーゼさんがニース様を害そうとしていて、手元に100人の兵がいるとするじゃない」
ルージュはローブの裾を捌いて立ち上がり、アウスレーゼに正面から対峙した。
全員の視線が集中するのを感じながら、芝居がかった動作で魔法樹の杖を床に突く。
「ターバ神殿には100名の神官戦士団と優秀な冒険者たちがいて、彼らにいなくなってもらわないとニース様には手が出せない。そんな時アウスレーゼさんなら、手元の兵士を素直に神官戦士団にぶつける?」
目障りな冒険者も神官戦士団も、別に死んでもらう必要はない。一時的にどこか遠くへ行ってくれれば、それで事足りるのに。
ルージュは桜色の唇に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「私ならそうはしない。例えばターバの村が野盗の集団に襲われて火の海になったらさ、ニース様がどう反応するかなんて考えるまでもないんじゃないの?」
情け容赦ない指摘に、ニースとカザルフェロの顔が強ばり、アウスレーゼも苦々しくその言い分を認めた様子。
村を焼いて終わりではない。ニースの命令で戦力を分散させる神殿側に対して、襲撃側は好きなところに戦力を集中できるのだ。
あとは欲しい首ひとつに狙いを絞って突撃するだけでいい。
「……相手が本気なら、神殿に籠城するのは下策ということね。ライオット、ルージュさん、そうなる前に止められる?」
ニースの言葉に、ライオットは肩をすくめた。
「できるできないの前に、何を止めればいいのか、そもそも止めるべき何かはあるのかすら、今の我々は知らないんですよ」
孫子曰く、戦いに勝つには5つの条件があるそうだ。
戦うべき時と戦うべきでない時をわきまえる者は勝つ。
自軍と敵軍の戦力差に応じた戦術をとれば勝つ。
君主から兵卒まで、目的を同じくしていれば勝つ。
自軍の準備を整えて、準備の整わない敵軍に当たれば勝つ。
戦いを有能な指揮官に任せて、君主が口出ししなければ勝つ。
ライオットには、ターバ神殿が満たしている条件はひとつもないように思えた。
マスターシーン “鉄の王国”鎮魂の間
上位魔神が暴れ回り、150名近い戦士の命が奪われた悪夢のような出来事から、間もなく1ヶ月が過ぎようとしている。
彼らは戦士であると同時に、強靱な採掘工であり、優秀な細工師であり、他の誰にも代わることのできない父や夫でもあった。
人口が数千しかないドワーフ族の王国にとって、150という数は決して小さくない。
若い働き盛りの男たちであれば尚更だ。
それを一斉に失い、王国を回す社会基盤はあちこちで綻びを生じさせた。残された者たちは涙を流す余裕もなく手当てに追われ、この1ヶ月は日常と呼べる時間を取り戻すための戦いだった。
「しかし王よ、これでようやく一段落ですな」
マイリー神殿の長を務める老司祭が、秋の斜陽のように落ち着いた声音を向けた。
激戦の舞台となった鎮魂の間は丁寧に清められ、物言わぬ骸となった化石竜の前には祭壇が設けられている。
老司祭以下、マイリー神殿の司祭15名による祈りの儀式を終え、今は犠牲者の家族や友人たちが祭壇に供物を捧げているところだ。
酒を好んだ戦友には、火酒のボトルを。
夫を失った細工師の妻は、生涯を刻み込んだ銀細工の最高傑作を。
小さな子供たちは、外の草原で摘んできた白い花束を。
それぞれが想いを込めて、最後の別れを告げるべく祭壇に向き合っている。
「そなたにも皆にも、苦労をかけた」
祭壇の脇に立つ“石の王”ボイルは、粛然と列を作るドワーフたちの横顔を神妙な面持ちで見つめていた。
「鎮魂の間をここまで清めるのは大変だったであろう。水を運ぶだけでも気が遠くなるような作業だ。ましてや落とすべき穢れが祖霊の遺体ではな」
魔神の邪法に操られた数百もの遺体は、戦斧で打ち払われ、軍靴で踏みにじられて、隧道は腐肉の海のようなありさまだった。
岩盤にこびりついた腐肉を油で焼き、灰を水で洗い流し、香を焚いて腐臭を消して、ようやく儀式を行えるまでになったのはつい先日のこと。作業に当たった司祭たちは、きっと心身共に消耗を極めたことだろう。
「それでも、我らは生きておりますからの」
穏やかに微笑む老司祭。
永久の炉を守るために散っていった戦士たちには、それすら許されなかったのだから。
怒りも悲しみも、感じることができるのは生者の特権だ。
だからこそ、今はそれを与えてくれた戦士たちに心からの感謝と供養を手向けるのが、生き残った者たちの義務だった。
14人の司祭たちが唱う鎮魂の歌は、荘厳な調べとなって薄暗い闇に染みこんでいく。
祭壇から連なる篝火の向こう、鎮魂の隧道の入り口にいる2人のドワーフの耳にも、その祈りの歌は聞こえていた。
「戦力になりそうなのはボイル王以下、戦士20名、司祭15名といったところですかな。あとは有象無象の民衆と言っていいでしょう」
ひとりはまだ年若い戦士のようだ。
鎖帷子に包まれた腹回りは痩せていて、一人前の男なら当たり前の口髭も生えそろっていない。
端整な顔立ちをしているのに、どこか粘着質な印象を持つ男だった。
「願ってもない。かような千載一遇の好機に逢うとは、卿の神の恩寵に感謝すべきであろうな」
隣で応じるのは、黒髪に黒い瞳の神官風ドワーフ。
手には複雑な意匠の杖を持ち、思慮深そうな目が鋭く細められる。
「とはいえ、長居は無用だ。さっさと火をつけて帰るとしよう」
「承知」
若いドワーフは左手に抱えていた布袋の中から、薄汚れた壺を取り出した。
蓋には厳重な封が施され、日に焼けて黄色くなった封印には上位古代語の呪文が書き込まれている。
近くにいたドワーフ戦士が怪訝そうに様子を見ていたが、彼は意に介せず、無造作に封印を引きちぎると、壺を祭壇へと放り投げた。
内側から破裂するように壺から蓋がはじけ飛び、数百年分の妄執と怨念が凝縮した黒い霧が爆発的に拡散する。
目を刺すような刺激臭。
黒霧が祭壇付近のドワーフたちを飲み込むと、怒号と悲鳴が鎮魂の間に充満した。
ボイル王の避難を命じる大声が響き、王を守ろうと戦士たちが壁を作る。
鎮魂の間は大混乱に陥り、逃げ惑う群衆に篝火が蹴り倒されて焦げ臭い煙が上がった。
「ここまでは前回と同じですが、さてさて、今度は何が出るやら」
「何が出ようと構わぬ。今度こそ放置するだけよ」
2人のドワーフは鎮魂の間の毒煙と混乱から逃れるように、足早に隧道へと引き返していく。
ちらりと背後を振り返れば、黒い霧の中に屹立する上位魔神の姿が見えた。
雄牛のものを逆さにしたような巨大な角、ちょっとした剣ほどもある鋭い牙。両手持ちの大鎌を手にしてドワーフどもを睥睨する姿には、前回のギグリブーツなどとは比較にならぬ威圧感があった。
「上位魔神レグラムだな。“賢者の学院”の導師程度では太刀打ちできない魔力を持つ上、戦士としても卿よりずっと強靱であろうよ」
「でしょうね。さすがの私もあれと戦おうとは思いません」
「倒すには“砂漠の黒獅子”が必要だな」
「此度もうまく呼び出してくれると良いのですが」
皮肉っぽく言葉を交わす2人は、“鎮魂の隧道”の中ほどで足を止めた。
瓦礫こそきれいに片付けられているが、ここは前回の騒動で岩盤を崩した場所だ。天井は木材で補強されているが、周囲よりもかなり脆くなっているはず。
「警戒は任せる」
「お任せあれ」
黒髪のドワーフは魔法の杖を振りかざし、古代語魔法の詠唱を始めた。
ドワーフ族にはマナを操る能力はなく、したがって魔術師もいないはず。
だが“鎮魂の間”から広がる大混乱は、そんなささいな不審点など容易に流し去ってしまう。
「急げ! ボイル王をお守り参らせよ!」
大隧道で警備に当たっていた戦士たちが、2人には目もくれずに“鎮魂の間”へと突入していく。
「羽虫どもが。自ら進んで罠にかかりに行くとは愚かな」
冷めた目で見送りながら嘲弄する。
だが、視界の隅にひとりのドワーフ戦士を認めて、若いドワーフはわずかに眉を上げた。
先ほど魔神封印の壺を解放する時、自分たちを注視していた戦士だ。どうやら何かを察して追いかけてきたと見える。
「貴様らには見覚えがあるぞ。その杖、その目。カザルフェロ戦士長に剣を折られて逃げ出した邪教の使徒じゃな?」
戦士は戦斧を両手で構えると、狼が唸るように睨みつけてくる。
「違う、と言ったら信じるのですか?」
自身も戦斧を構えながら、若いドワーフが鼻で笑う。
無駄な戦闘は避け、隠密行動を優先するようにとの命令ではあるが、導師が呪文を詠唱する時間は稼がなければならない。
他に手段がないならば、白銀の戦斧に血を吸わせるのもやむを得ないではないか。
流血と殺戮への期待に歪んだ笑みが浮かぶ。
「どうやら前回の魔神騒ぎも貴様らの策略と見える。戦士たちの仇、今ここで討たせてもらう」
それ以上の時間を与えまいと、ドワーフ戦士が一歩踏み出したその時、隧道の薄闇を切り裂いて、深紅の光が天井へと突き刺さった。
一拍遅れて、強大な魔力で練り上げられた破壊魔法が、熱波と爆風の華を咲かせる。
天井を補強する木材が粉々になって炎上し、火の雨となって隧道いっぱいに降り注いだ。
隧道全体が震え、重い岩盤が軋む不気味な音が鳴った。
一度は崩落し、もとより弱体化していた天井だ。ほんの一カ所に穴が開けば、それを支えられる強度などない。
「いかん! 崩れるぞ!」
叫んだ声は誰のものか。
大量の岩塊が一斉に崩落し、地響きと土煙が“鎮魂の隧道”を埋め尽くす。
篝火の光を遮られ、闇に沈んだ世界で、岩盤の崩落はどれほど続いたのだろう。
根源的な不安をかきたてる音と振動が静まり、舞い上がった土煙が落ち着くと、そこには完全に閉塞された隧道があった。
「残念ながら戦士殿、お仲間の仇を討つ機会には恵まれなかったようですな」
喉を鳴らして嗤う若いドワーフの前では、崩落に巻き込まれ、半身を土砂に押し潰されたドワーフ戦士が苦悶の呻きを飲み込んでいる。
「おのれ、邪教めが……」
「おお怖い怖い。視線で人が殺せるなら、私など十回は死んでいるでしょうな。ですがあなたの手に戦斧はなく、土に埋まって立つことすらできず、私が振り下ろす斧を防ぐこともできますまい」
埃まみれになった体を不愉快そうに払いながら、若いドワーフが戦士の眼前に立つ。
すると、杖を持ったドワーフがつまらなそうに口をはさんだ。
「殺すなよ。その者には、我らのことを余さず報告してもらわねばならぬ」
「もちろん承知しておりますとも、導師様」
にたりと濡れた笑みを浮かべ、若いドワーフは戦士を見下ろした。
「命拾いしましたね。あなたは運がいい。お名前をうかがっても?」
胸から下を土砂に埋もれたまま、ドワーフ戦士は歯ぎしりしながら邪教の使徒を睨みつけた。
「……ギムじゃ。貴様の名は?」
「あなたごとき雑兵に聞かせる名などありませんよ。あなたはね、ただ報告すればいいのです。侵入者が上位魔神を“鎮魂の間”に放ってボイル王を襲った。隧道は崩落し、王の生死は不明、とね。雑兵には雑兵なりの役割というものがある。簡単でしょう?」
背後で黒髪のドワーフが《転移》の呪文を詠唱するのを聞きながら、思い出したように付け加える。
「いいですかギム殿。必ずシン・イスマイールを呼ぶのですよ? 敵は上位魔神だと伝えるのをお忘れなく」
次の瞬間、ふたりのドワーフの姿はかき消えた。
魔法で転移したのだ、と悟ると、それまで敵愾心と憎悪で保たれていたギムの意識が、急速に遠くなっていく。
この自分が希薄になっていくような感覚は、血の流しすぎだ。どうやら土砂の下で大量に出血しているらしい。
「おのれ邪教めが……シンよ……」
ギムは力なく呟き、そして意識は闇に落ちた。
“鎮魂の間”からは激しい剣撃の喧噪が漏れ聞こえ、“大隧道”側からも異変を察知したドワーフたちが駆け寄ってくる。
しかし、ドワーフたちが侵入者の情報を得るのは、ずっと後のこととなった。