マスターシーン ザクソン郊外
ターバの村から南へ徒歩で3日。さらにザクソン近郊から祝福の街道を外れ、西へ向かうこと半日。
アラニア王国の騎士爵であるピート卿の屋敷は、鬱蒼とした鎮守の森にほど近い、小高い丘のふもとに建っている。
妖魔や獣に備えて外周をぐるりと石壁で取り囲み、門扉は樫材を鋼鉄で補強した頑丈なもの。飾り気は少ないが剛健でどっしりとした門構えは、屋敷の主人の人柄を如実に表していた。
そんなピート卿の屋敷にターバ神殿からの便りが届けられたのは、夏の終わりの夕暮れのことだった。
イメーラ夫人が腕を振るう厨房は、夕食の準備もすっかり佳境だ。
夫が釣り上げてきた2匹の鮎を塩焼きにして、スープは夏野菜と豚肉の腸詰めを煮込んだポトフを。自家製ワインは井戸水につけて冷やしてあるし、デザートには木イチゴと林檎のパイが用意してある。
火にかけられた鉄鍋から食欲をそそる匂いが漂う中、パンの付け合わせは何にしようかと厨房を見渡していたイメーラ夫人は、常になく上機嫌な夫が食堂に入ってくるのに気がついた。
「イメーラ、ニース様から便りが届いたぞ」
平服姿のピート卿が丸められた羊皮紙を掲げてみせる。
「シン殿がついにレイリアを神殿から連れ出して、所帯を持つことにしたそうだ」
「まあ、それはおめでたいこと」
イメーラ夫人が目を細める。
「ニース様はやっと17年前のイメーラの気持ちが分かった、と書いてある。シン殿は自分以上にレイリアを守り抜いてくれるだろう、とも」
その意見には、全面的に同意だった。
シンの誠実な人柄も、圧倒的な強さも、夫妻は身をもって知っている。何しろ彼がいなければ、ふたりともあの邪教の騎士に殺されていたのだから。
「それにしても、よく神殿からお許しが出ましたこと。ニース様のご尽力があってさえ、至難の業だったのではありませんか?」
夫妻にとっては最愛の我が子であっても、レイリアが“亡者の女王”ナニールの魂を受け継いだ転生体であることに変わりはない。
400年前のアラニアに戦乱と破滅をまき散らし、邪神カーディスの依り代となるべく調整された“ひとつの扉”たる魂。
その存在を封印する墓所の守り手として、ピート卿もニース最高司祭も、望まぬ苦労をずっと続けてきた。アラニア宮廷やターバ神殿は、レイリアを野放しにすることを決して望まないはずなのだ。
「そのあたりについて話があるから、ターバまで来て欲しいとある。誰が見るかも分からない便りに書けるはずもないからな」
羊皮紙をぽんとテーブルに置いて、ピート卿は戸棚から皿を取り出して並べていく。
もう20年間も連れ添った夫婦だ。そのあたりは以心伝心というもの。
「それなら旅の用意をしなければなりませんね。ターバまでは3日ほどでしたか? ザクソンの村で道中の保存食を買ってきてくださいな。村に銀貨を落とすのも仕事のうち、と仰っていたでしょう?」
「それなのだがな」
ピート卿は眉を曇らせた。
「便りを届けてくれた雑貨屋のモートに聞いたのだが、ザクソンでは保存食が売り切れらしい。旅人がいつになく多くて、大量に買われていったそうだ」
狩人が狩った獲物と、女子供が集めた森の恵みで作られる保存食は、村にとって貴重な銀貨収入の手段になる。
ザクソンは妖魔の襲撃があったばかりで、今は復興のために何かと物入りだ。販売が好調なのは喜ばしいことなのだが。
「うちにある物で日保ちするのは、黒パンと干し肉、それに果物くらいかしら。お酒はどうしますか?」
「道中では控えた方がいいだろう。ターバまでの道中で賊が出るとは思えないが、妖魔には警戒しなければならん」
「分かりました」
イメーラ夫人は頷くと、厚手のミトンでポトフの鉄鍋を食卓へと運んだ。
「それではたんとお召し上がり下さい。ターバへ行くのなら、お料理を残すともったいないですからね」
ニース一行を迎えた時には比べるべくもないが、夫婦ふたりで囲む食卓には、過ごしてきた時間にふさわしい穏やかな雰囲気がある。
健啖ぶりを発揮する夫にシンの姿を重ねて、イメーラ夫人は考えた。
できればもう1つ2つ、レイリアに秘伝のレシピを伝授したいのだが、その時間はあるだろうか。
これから若いふたりにどんな困難が降りかかるにせよ、食事がその慰めになってくれることだけは、絶対に間違いないのだから。
シーン6 ターバ神殿
ロートシルト男爵夫人の滞在3日目。
神官戦士団に合流しての朝稽古を終えたシンとライオットは、カザルフェロ戦士長と連れだって食堂を訪れた。
普段よりも控えめだった訓練のせいか、食堂に集まった神官戦士たちは元気がよい。朝食担当の神官からシチューをよそってもらう喧噪も賑やかなもの。
昼間は女の園というイメージのあるターバ神殿だが、今ばかりは汗臭い男たちでいっぱいだった。
「もう少ししごいた方が良かったか?」
余裕たっぷりな部下たちの様子に、カザルフェロが舌打ちする。
男爵夫人の滞在中は、訓練中といえども防衛を疎かにできない。できることと言えば、宿坊前の広場で駆け足と軽い打込み程度が関の山。
普段は神殿の外まで連れ出され、体力の限界に挑戦している彼らにとっては遊びに毛が生えた程度だ。甘やかしていると言ってもいい。
「いや、元気の原因はそれだけじゃないみたいだぜ」
配膳の列に並んで先頭を見たライオットが、上機嫌に前を指さす。
腹をすかせ、色気より食い気を地で行く神官戦士たちが、にこやかに礼を言って朝食を受け取っている相手は、たいそう愛らしい金髪の少女だった。
ゆるく波打つ髪を後頭部で束ね、神官衣の袖にたすきを掛けた少女は、アラニア王国で最高品質の愛嬌を大盤振る舞いしてシチューをよそっている。
誰だ、新人の神官見習いか、そんな会話が今朝のトレンドであるらしい。
「こんなところで美少女のポニーテールを拝めるなんてな。朝からツイてる」
「どんだけポニテが好きなんだよ」
嬉しそうなライオットと、呆れて首を振るシン。
「自分だってレイリアのポニテに見とれてたじゃないか」
「レイリアは髪型で魅力が変わったりしない」
下らない会話をしながら列に並んでいると、やがて厨房の様子が見えてきた。
ラフィットは回ってくる戦士たちひとりひとりに声をかけ、礼の言葉には笑顔を返し、異性としての誘いは冗談交じりに受け流す。
まちがっても爵位持ちの貴族がやる仕事ではないが、男爵夫人はそれなりに楽しんでいるらしい。
「しかし本当にいいのか?」
カザルフェロは腕を組み、配膳に当たる男爵夫人の様子を眺める。
「警護云々はさておいても、あのバカどもの食事を用意させるなんぞ正気の沙汰じゃない」
「いいんじゃないか、本人がやりたがったんだから。掃除も炊事も洗濯も、見習い神官がやる仕事は全部やってみたいってさ」
ライオットが軽く応じた。
この男には、貴族に雑用をやらせることに関して何の抵抗もないらしい。
その様子にカザルフェロがため息をつく。
「お前さんはやったことがないからそう言えるんだ。200人分だぞ? 家庭の食事を料理するのとは訳が違う」
数名の下働きがいるとは言え、厨房は多忙を極める。
洗いや皮むきなどの仕込みが始まるのは、夜明け前、外がまだ暗いうちだ。
タマネギ100個、ジャガイモ50個、ニンジン50本、あらかじめ首を落として血抜きしておいた鶏5羽。当番皆で1時間かけ、涙を流しながら材料を一口大に刻み終わると、そろそろ窓の外が明るくなってくる。
そして気づくのだ。これだけ時間をかけても、全く調理が始まっていないことに。
夜が明ければ神官戦士団の朝稽古の声が聞こえてくる。早くしないと腹を空かせた男どもがおしよせてくると焦りながら、大鍋を火にかけて油を投入し、熱が回ったら、初めてそこで材料を入れられる。
「大鍋1つで50人分だ。鍛えた神官戦士でも、でかいヘラで大量の材料を混ぜるのはきつい。タマネギだけのうちはまだいいが、ジャガイモだのニンジンだのを投入すると途端に重くなる。あっという間に腕がパンパンだぞ。おまけに、大鍋用のかまどは火勢も強烈だ。夏は意識がもうろうとしてくる」
自分自身も散々やらされた食事当番を思い出し、カザルフェロは遠い目で悟りきったような表情を浮かべた。
「大鍋の後ろでは、パン焼き用のかまどで白パンが焼かれてる。朝食用だけで600個。1回で50個程度しか焼けないから12回転だな。シチューの甘ったるい匂いと、パンの焼ける匂い、ついでに自分の汗の臭いに包まれながら、3時間立ちっぱなしで全身を動かし続けてみろ。昨夜から何も食ってないはずなのに、臭いだけで胃がもたれて気持ち悪くなる」
無口なカザルフェロが、常になく饒舌に語った食事当番の激務ぶりは、鮮明なイメージとなってシンとライオットの脳裏に描かれた。
料理をほとんどしないふたりは、どうやら食事の準備というものを舐めていたらしい。
現実は、おしゃれにオリーブオイルを垂らしながらフライパンを振って終わるような、そんな甘いものではない。
ターバ神殿の厨房は、正しく戦場と呼ぶべき場所なのだ。
「だから食事当番には敬意を示すべきだ。連中は朝食の配膳が終わったら200人分の食器を洗い、それが終わったらすぐに昼食の準備が始まる。昼食の後は夕食。夕食の後は朝食用のパン生地と肉の仕込みだ。俺に言わせればな、あそこで笑顔を浮かべる余裕があるのは奇跡的だぞ。俺やお前さんたちには絶対無理だと断言できる」
今日の当番にラフィットが入ったため、護衛としてレイリアとソライアも臨時当番に編入されている。
シンが厨房に目を向けると、神官衣にたすきを掛け、髪を後ろで束ねたレイリアの姿が見えた。
どうやら彼女は、シチューの大鍋を3つ同時進行で担当しているらしい。
汗に濡れて額に張り付く前髪や、真剣に煮え具合を確認する瞳。
いつもの穏やかな笑顔とはまるで違う。戦いに望む戦士のような横顔に、シンは吸い込まれるようにただ見入っていた。
「レイリア、後ろ入るからね」
「はい」
先が平たく広がった長いヘラを持ち、厨房の奥から出てきたのはソライアだ。
声をかけてレイリアの背中に寄ると、ソライアはヘラをくるりとしごいて構え、パン焼き竈の中へ差し入れた。
吹き出す熱気に目を細めて耐えながら、ヘラに金属の板を乗せて引っ張り出す。
そこにはきれいに並んだ白パンが50個、ふっくらと焼き上がっていた。
職人の目でパンを検分し、合格点を出したのだろう。ソライアは満足そうに頷いてパンを大きなバスケットに流し込む。
これでおよそ17人分。焼きたてパンのできあがりだ。
ソライアはヘラを竈に立てかけ、持ち手のついたバスケットを両手で持ち上げて配膳台に運ぼうとした時、初めてカザルフェロの姿に気づいた。
「カザルフェロ戦士長! おはようございます!」
雲間から陽光が差したように、表情が一瞬で輝いた。
屈託のない笑顔でまっすぐな好意をぶつける。
自分の言葉が相手に届く、たったそれだけのことが無上の喜びなのだと、見ている誰もが感じられるような笑顔だった。
「パンはいつもどおり3個でいいですか? 今なら私の愛で10個まで増やして差し上げますが?」
このキツい労働の最中、自分にはこんな笑顔を浮かべさせる力があるのか。
そんなソライアを見れば、さすがのカザルフェロにも感じるものはある。
「……要らん。3つでいい」
「ちょっと冷めてますけど、戦士長に特製のパンを焼いたので、これにしますね」
周囲の戦士たちが無言で見守る中、栗色の髪の少女は調理台の隅に置いてあった小さなバスケットを取ると、有無を言わさずカザルフェロの盆に載せた。
中にはハート形に膨らんだパンが3つ、白いナプキンの上に盛り付けられている。
冷めていると口では言うが、まだ湯気を立てるパンはどう見ても焼きたて。カザルフェロが食堂を訪れる時間に合わせて焼き上げたことは明らかだ。
気持ちは嬉しい。
嬉しいが、よりにもよって部下たちの面前でハートとは。ここで素直に礼を言っては、戦士長の沽券に関わるではないか。
カザルフェロは脳裏でいくつもの対応を吟味したが、ひとつに絞り込むより早く、わき上がったブーイングに飲み込まれた。
「ハートのパンってどういうことですか戦士長!」
「ずるい自分だけ特別扱いですか!」
「俺にも1個下さいよ!」
「やかましい」
内心の困惑をごまかすように仏頂面を浮かべ、カザルフェロは部下たちを一蹴する。
「どうも体力が有り余っているようだな。午後の訓練は覚悟しておけよ」
「ひどい!」
「横暴だ!」
「そんなのいいから1個下さいよ!」
以前なら威圧感と緊張感で口答えなど思いもよらなかった部下たちだが、ソライアが大観衆の面前で想いを伝えて以降、カザルフェロに嫉妬混じりの親近感を抱くようになったらしい。
ならばこちらも、遠慮なく素顔を曝け出してやろうではないか。愛をささやく少女の相手は専門外だが、生意気な部下たちへの教育は得意分野だ。
「口答えとはいい度胸だな、貴様ら。ずいぶんと偉くなったと見える。その自信に見合うだけの実力があるかどうか、確認してみるか?」
オオカミが牙をむき出しにするような獰猛な笑顔で、カザルフェロは部下たちをじっくりと眺め回した。
引き際を誤ったことを悟り、戦士たちが口を閉じて脂汗を流す。
だが、処刑宣告を待つ重い雰囲気は、レイリアの声によって木っ端微塵に打ち砕かれた。
「ねえソライア、そのハートのパンは10個焼いたんですよね? 残りの7個はどうしたんですか?」
戦士たちの呼吸が止まった。
公然の人気を誇ったソライアはカザルフェロ戦士長にかっさらわれてしまったが、だからこそ、彼女の手作り愛情パンは垂涎のレアアイテムだ。
入手できれば、少なくとも3日は同僚に自慢できる。
「戦士長が食べるかと思って取っておいたけど、もう要らないみたいだし。順番が来たら普通に配る……」
ソライアが言い終える前に、食堂に大歓声が上がった。
戦士たちは一切の躊躇なくカザルフェロに背を向けて置き去りにし、配膳口に殺到した。
上官も部下もない。完全に早い者勝ちの流れだった。
必死に手を上げる者、ソライア好みのワインを提示する者、どさくさに紛れて恋を告白する者など、配膳口は汗臭い男どもが押し合う混沌としたありさま。
ソライアは引きつった笑顔で突き出されたトレイを見渡し、ラフィットは楽しそうに笑っている。
憮然と立ち尽くすカザルフェロの肩を、ライオットがぽんと叩いた。
「ソライアは大人気だな。ちゃんと応えてやらないと、横から取られちまうぞ?」
「うるさい」
返ってきたのはひどく力のない言葉だ。
どうやら色々と思うところはあったらしい。
「あんなに喜んでもらえるなら、私も作ろうかな」
戦士たちが大騒ぎで繰り広げる争奪戦を横目で眺めながら、レイリアがぽつりと呟く。
別に人気者になりたいわけではないが、単なる流れ作業でしかない食事当番の気分転換にはなるし、皆が喜ぶなら今までのお礼にもなるだろう。
ただ丸めるだけのパン生地を、細長く伸ばして折りたたむだけの簡単な工程だ。たいした手間ではない。
「お姉様が作るなら、妾も作りますわ」
ラフィットが悪戯っぽく応じる。
「生地を折る時、中に蜂蜜を入れたらきっと甘くなりますし、林檎や苺をクリームにして入れるのも面白そうです。今度お茶会でお出ししてみようかしら」
ソライアのハート形だけでも目から鱗が落ちる思いだったのに、ラフィットの女子力はさらに突き抜けている。
パン作りとは1食あたり600個、1日1800個をひたすら忍耐強く丸めていくだけの作業、と認識していたレイリアでは、どう頑張っても出てこない発想だ。
「ラフィット、それは美味しそうですけど、いくらあなたでも何百個も作るのは大変ではありませんか?」
大鍋を混ぜる手は休めず、視線だけを向けると、金髪の少女は首を振った。
「お姉様、そんなに作っては意味がありませんわ。ほんの少ししかないから特別なのです。もし600個全部がハート形だったら、誰もあんな風に喜んでなどくれませんし、感想の言葉ももらえないはずです」
ハートの形に価値があるのではなく、カザルフェロのためだけに掛けた特別な手間に価値があるのだ。
ソライアとラフィットの間では言葉もなく共有されていた乙女心を、レイリアはようやく理解した。
「戦士長様、ライオット様、お皿をどうぞ。今朝は妾も一鍋だけシチューを任せていただいたのです。どうかご賞味下さいませ」
順番が回ってくると、ラフィットはにこりと微笑んでシチューをよそう。
「あなたが作ったんですか?」
ライオットが驚いて思わず口に出すと、ラフィットは心外とばかりに頬を膨らませた。
「妾だって、以前は家族に食事を作っておりましたのよ。お料理くらいできますわ」
生まれた時から貴族だったわけではない。王宮に召し出される前は、ラフィットひとりで一家8人分の食卓を支えていたのだ。
実家は決して裕福とは言えない農園で、子供といえども遊ばせておく余裕はなかった。
成長して畑作業を手伝えるようになるまで、家の中の仕事はラフィットがほとんど全部引き受けていたくらいだ。
「失礼しました。ありがたく頂きます」
「お口に合うか分かりませんが、率直な感想をいただければ幸いですわ。次に作る時の参考にいたしますから」
「まだやる気ですか……」
「今の妾は神官見習いですもの。当番はきちんと務めたいのですが、いけませんか?」
ラフィットは可愛らしく微笑み、ねだるように相手を見上げた。
男の庇護欲を刺激する控えめな口調と可憐な仕草。だが挑戦的に輝く瞳は、それが全部演技であることを隠そうともしない。
何と言われてもまたやります、ラフィットはそう宣言しているのだ。
「ライオットさん、止めても無駄ですよ。それにラフィットなら心配要りません」
すっかり諦めた様子のレイリアが、どこか虚ろな苦笑を浮かべて言う。
「この3日間で私は思い知りました。ラフィットは掃除も洗濯も完璧にこなしますし、裁縫や料理では私など足下にも及びません。むしろ私が教えを請いたいくらいです」
神官見習いとして扱うようにとは言われているが、実際にはラフィットは遊びに来ているだけだ。神官衣を着せて、少しばかり見習いの体験をさせれば充分だろう。
レイリアも最初はその程度の認識だった。
だが掃除をさせれば雑巾をしぼる手つきが、洗濯をさせれば洗い物の力加減が、どう見てもやり慣れているのだ。
今朝の食事準備でも玄人跣の包丁さばきを披露し、あげくの果てには「お姉様、まだなら手伝いましょうか?」とまで言われてしまった。
自分より年下の少女に、しかも普段から侍女に傅かれ、自分では着替えすらしないような宮廷貴族に、レイリアはジャガイモの皮むきで負けてしまった。
もちろん、最初から勝てない部分はたくさんある。
ガラス細工のように繊麗な容姿、見る者を惹きつける雰囲気、可憐な挙措、美しく着飾る技術、男爵夫人という貴族身分などだ。
それに加えてラフィットは、調理の腕は一流料理人のようで、葡萄酒の製法にも造詣が深い。家に入れば裁縫も洗濯もそつなくこなし、閨では国王陛下さえ虜にするほどの魅力があるという。
これでは、レイリアに分があるのは剣を取っての戦闘くらいだろう。
国王の愛妾に剣技で勝ったところで、女性としての値打ちが上がるはずもないが。
「こういうのを立つ瀬がないって言うんでしょうね……」
仕事に夢中で忘れていた劣等感を思い出し、レイリアにはめずらしい陰鬱なため息がもれる。
どうせならこの際だ。ラフィットに師事して“殿方を喜ばせる技術”のひとつふたつ伝授してもらおうか。
思考が見当外れな方向へ転がり落ちていくレイリアに、横からためらいがちな声がかかった。
「お姉様、お鍋が焦げます」
本当に立つ瀬がなかった。
見習いの仕事と称して神殿中を遊び回っている女主人の留守を守り、ランシュは今日も与えられた客間で過ごしていた。
黒のロングワンピースに白のエプロンドレスとホワイトブリム。古式ゆかしいメイド装束を頑ななまでに着続け、よく言えば素朴な、悪く言えば田舎くさいターバ神殿にあって、この客間だけは優雅な貴族文化を堅守している。
「それにしても、お前の主人が下働きのまねごとをしててもいいのか? お前なら絶対に止めると思っていた」
2本の尻尾をゆらりと振りながら、銀毛の猫王がランシュを見た。
もう3日間も共に過ごした間柄だ。ルーィエの見るところこの侍女の忠誠は本物で、主人の不利益を座視する性格とも思えないのだが。
するとランシュは、茶器を用意する手を休めて苦笑を浮かべた。
「私はラフィット様にお仕えする者です。私の役目はラフィット様の望みを叶えることであって、何が正しいか、何をすべきか、私ごときが判断するなど僭越でございましょう」
あの愛らしい女主人が姉と慕う女性との逢瀬を楽しみたいというなら、ランシュは全力で主人を美しく磨くだけだ。
そして主人が貴重な時間を楽しんでいる間、ランシュには別に為すべきことがある。
白磁のソーサーを6つ並べ、少しずつ注いだミルク。
中にはホニングブリューの最高級蜂蜜と、皿ごとに異なる隠し味を効かせてある。
ソーサーをテーブルに並べ終えると、黒髪の侍女は控えめな微笑にほんの少しだけ楽しそうな色を加えて、ルーィエに一礼した。
「用意が整いました。ご賞味をお願いします」
ルーィエが満足そうに髭をふるわせてテーブルに跳び乗る。
「いつも済まないな」
「いいえ。こちらこそお付き合いいただいてありがとうございます。誰もいない部屋でひとり過ごすのは、さすがに退屈でございますから」
ラフィットが外で遊んでいる間、ルーィエはこうして饗応されるのが定例になっていた。
毎日毎日同じメニューでは侍女の沽券に関わる、と思ったのだろう。2日目からは少しずつ味に変化がつくようになり、3日目の今日はついに6皿だ。
中に入れる隠し味も果物、甘味と来て、今日はハーブ系らしい。甘いミルクに清涼感のある匂いが漂っている。
「本日はリンデンフラワー、ジェニパーベリー、オレガノ、バーベインなどをご用意いたしました。甘みの強いものが中心ですが、本来はお茶にして飲むものですから、ルーィエ様のお好みには合わないかもしれません。最後にはお口直しもございますので、まずは感想をいただければ幸いです」
「ふむ」
ルーィエはワインを味わうソムリエのような態度で、匂いをかぎ、一口舐めては偉そうに論評していく。
ランシュは丁寧に頷きながらメモを取り、やがて6皿目の感想を書き終えると、満足そうに頷いた。
「ルーィエ様のお好みが、おおむね把握できたように思います。今までの中で一番高評価だったのは、ラズベリーのジャムを加えたものではございませんか?」
「そうだな、あれは美味かった」
「逆に、今日のハーブはやはりお口に合わなかったご様子。また、ジャムは同じでもオレンジピールの苦みはあまりお好みではないのですね?」
「ああ。せっかく蜂蜜を入れているのに、苦くしては味が喧嘩するだろう。若干の酸味なら味を引き立てもするが、苦いのと臭いのはダメだ」
「仰るとおりでございます」
ランシュの見るところ、ルーィエの味覚は幼児と同じだ。
今日ルーィエに提供したハーブは、大人の女性が好む清涼感のあるものが中心。つまり、6皿にわたって不味いものを飲まされ、ルーィエの精神状態は不満が強まっているはず。
ここで逆方向に振ってやれば、高評価に補正が加わるだろう。
黒髪の侍女は背すじがぞくりとするような緊張感を味わいながら、最後の一皿を用意にかかった。
この猫王の高い知性と鋭い洞察力、明敏な注意力はさすがという他ない。レイリアやルージュはまるで子供のように扱っているが、ルーィエはまぎれもない強敵だ。
アザーン諸島の幻獣ツインテールキャットには、一切の毒物が通用しないという。
ならば、毒物によらない手段でルーィエを無力化しなければならない。
その役目を果たすために、ランシュが知恵と知識と経験を振り絞って考案したのが、この一皿だった。
「ラフィット様は特殊なお薬を服用なさいますので、王宮の薬草園からポーションベリーを少しだけ分けて頂いております。これにとある花の蜜を加えてジャムにしてみました。こちらは自信作でございますよ。何度もお出しできる物ではありませんが、お口直しにお召し上がり下さい」
ミルクには粗い生クリームを溶かし込んでムースに似た食感を出し、蜂蜜とジャムが折り重なるように層を見せる。
見た目にも味にも、香りにもこだわり抜いた品だった。
一口舐めたルーィエはぴんと尻尾を伸ばし、驚いた様子でランシュを見上げる。
「こいつは凄いな。今までのとは比べものにならない絶品だ。ざらりとしたミルクの食感もいいし、蜂蜜とジャムが溶けきってないから、染みこむような甘さと少しだけ尖った甘酸っぱさが交互に楽しめる。お前は本当に優秀な侍女だ」
「お褒めにあずかり恐縮でございます」
ランシュは内心の焦燥を儀礼的な微笑の下に押し込めて、優雅に一礼してみせた。
味と食感には自信があったが、問題はそこではない。
「おかわりはあるのか?」
「申し訳ありません、本日のところはそれだけです。滞在中にはもう一度お出しできるように努めますので、どうかご容赦下さい」
「そうか……」
ルーィエは残念そうに応えると、舌を動かす速度を少しだけ緩めた。
子供っぽく楽しみの時間を延ばそうとしたのだろう。
だが注意深く観察するランシュの目には、それだけではないように見えた。
「ルーィエ様、昨夜はラフィット様の護衛であまり眠っていらっしゃらないご様子。慣れない環境でお疲れもありましょう。よろしければ私の膝をお使い下さい。ラフィット様のお戻りまでまだ時間がございます」
「うむ……そうだな。では言葉に甘えて借りるとしよう。お前は本当に気がきく侍女だ」
特製ミルクには未練がある様子だが、睡魔の誘惑には勝てなかったらしい。
ランシュがソファに深く腰掛け、エプロンドレスを広げて寝床を用意すると、ルーィエはすぐに膝に跳び乗ってきた。
柔らかい銀毛の背中を、ランシュの細い指がそっと撫でる。
わずかに身じろぎをしたあと、ルーィエの柔らかい腹がゆっくりとした呼吸に変わった。
ゆっくり50ほど数えてから、小声で呼びかける。
「ルーィエ様、お皿は片付けてもよろしゅうございますか?」
猫王の耳はぴくりとも動かなかった。
眠りをもたらす砂の精霊に屈服したルーィエは、軽く揺するランシュの手にも反応を示さない。
湧き上がる歓喜を抑えきれず、ランシュの唇に笑みが刻まれた。
「では失礼して、残りは私が頂いてしまいますね」
ランシュは手を伸ばして皿を取ると、ルーィエが残したミルクを口に含む。
薬効を極限まで高めるポーションベリーに、強力な睡眠薬として知られるラザリアの花の蜜。
その効果は絶大で、ランシュはやがて立ちくらみのような目眩を感じた。
この即効性はまるで魔法薬だ。ツインテールキャットを相手にしても、期待どおりの効果を発揮したのは間違いない。
薄れていく意識の中、なんとか皿の中身を飲み干す。こんな物を残しておいて、万が一にも分析されては大事に障る。
中身が空になったのを確認したところで、ランシュの意識は限界を迎えた。
腕はソファに崩れ落ち、皿は床に転がって小さな飛沫を飛ばす。
後にはただ、猫を抱いたまま眠る見目麗しい侍女の姿が残るのみ。
部屋に戻ってきたラフィットとレイリアにからかわれ、赤面して恐縮するランシュの姿が見られるまで、まだしばらくの時間が必要だった。