シーン5 ターバ神殿
ターバ神殿は今から400年前、ロードス全土に邪神カーディスの勢力が台頭していた時代、アラニア北部の民が抵抗の拠点として砦を築いたのがその始まりである。
神殿が建っているのは白竜山脈の尾根に寄り添う高台で、参道と言える〈祝福の街道〉から見上げる威容はまさに難攻不落だ。
門は正面にひとつ、裏側にひとつ。
街道から見上げる正門はマーファ教団の総本山にふさわしい荘厳なものだが、そこへと続く52段の石段は登るだけで一苦労だろう。
裏門へはなだらかな坂道で楽に上れるものの、その通路は馬車1台を何とか通せる程度の狭い道で、軍勢が攻めかかるには不向きなもの。
城壁内部にはマーファ教団の総本山たる大聖堂、巡礼に訪れる信者たちを迎える礼拝所、司祭たちの住む宿坊などが建ち並び、数百人の人々が生活している。
さらには信者たちに護符などを提供する販売所、財務担当司祭マッキオーレの肝煎りで新築された食事処など、さながら一個の街のようだ。
城壁2階のバルコニーにテーブルと椅子を用意して2人の客を迎えたライオットは、立ったままバルコニーの手すりに背中を預け、横目で賑やかな神殿の中庭を見下ろしていた。
「まさかこの席に呼ばれるとは思いませんでした」
最初に口火を切ったのは、すらりとした長身にストレートロングの金髪、切れ長の目をした美女だ。
背筋を伸ばして椅子に座る姿は、その美しさといい冷たさといい、まるで名工の手がけた美術品のよう。
彼女の名はアウスレーゼという。国王カドモス7世に派遣され、最高司祭ニースの護衛という名目でターバ神殿の監視役を務める密偵である。
「よくもまあ、私を相手に隠し通したものですね。先ほどロートシルト男爵夫人を見た時は目を疑いました」
彼女の正面に座り、険のある視線で串刺しにされているのは、王宮で宮廷魔術師の席を占める若き俊英、リュイナールだ。
端整な容貌と温雅な雰囲気の持ち主で、宮廷の女官たちから不動の人気を得ている。
美女の冷たい視線に晒されても穏やかに微笑んで受け流せる余裕が、彼の人気の秘密なのかもしれない。
「仕方がありませんよ。アウスレーゼ殿に話そうものなら、すぐにパーシア公爵に報告されてしまいます。パーシア公爵が知ってしまったら、翌日にはラスター公やノービス伯の耳に入るでしょう? 何もかも台無しではありませんか」
「ターバ神殿の内情をご報告申し上げるのが私の任務です。その情報をどう扱うかは陛下と重臣方がご判断なさること。臣下たる我らが報告を怠るなど不忠ではないですか」
「男爵夫人の情報を他人に洩らすことが忠義だというなら、あなたの忠義は本末転倒と言わざるを得ませんね。陛下のご意向と正反対を向いておられる」
ふたりはお互い、一歩も引かずに言い合いを続ける。
それだけ自分の仕事に信念を持っているのだろう。口調にはだんだんと棘が鋭くなり、目つきも危険な色を帯び始める。
そんな様子を他人事のように眺めながら、ライオットは思った。
灰色の魔女に喧嘩を売るアウスレーゼも、この冷徹な密偵を正面から叩き潰そうとするリュイナールも、どちらも命知らずの勇者と言えるだろう。
もし自分なら、どっちもごめんだ。
「ライオット殿、そういえばあなたも秘密主義でしたね。シン殿と何やら企てているそうではありませんか。あの日王宮でシン殿が述べたことは偽りですか? しかもこの宮廷魔術師まで、それを承認したとか」
業を煮やしたアウスレーゼが、怒りの矛先をライオットにも向けてくる。
「情報が早いな」
「それが仕事ですから」
「だけどリュイナールの言ったとおり、知っただけじゃ意味がない。報告するのは構わないけど、『何故』っていう裏付けがなければ情報の信頼性は半減すると思わないか?」
アウスレーゼが単なる物見兵のように、見たものを見たまま報告する権限しかないなら、それでもいい。
しかしこの密偵は、ターバという僻地で最高司祭ニースの監視を任されているのだ。かなり自由な判断をする裁量があるはず。
「情報は大切だ。その意見には全面的に同意する。だけど物事を判断するなら、できるだけ多方面の情報を統合するべきだ。たったひとつに頼ると、それが間違えていた時、取り返しのつかないことになる」
その意見に筋が通っていることを認め、アウスレーゼが渋々黙り込むと、ライオットはふたりに畳みかけた。
「今日ふたりに来てもらったのは他でもない。俺から提案があるんだ。ここにいる3人は、それぞれが大事な情報を握っている。俺たちは、互いにそれを知りたい。今、王都で何が起こっているのか。これからターバで何が起こるのか。全部ぶっちゃけて、誤解無しに正しく共有しようじゃないか。お互い嘘は無しだ」
そしてライオットは、懐から銀色の指輪を取り出すとテーブルに置いた。
細かく古代語が刻まれた指輪は、どう見ても魔法の品。
「《センス・ライ》のコモンルーンだ。俺とアウスレーゼが使う。リュイナールは自分で魔法をかけてくれ。これで嘘のない、本当の情報が手に入る。異論のある者はいるか?」
想像以上にリスクの高い提案に、アウスレーゼもリュイナールも言葉を失った。
彼らが接しているのは国政の重要機密とも言える情報だ。おいそれと口に出せるものばかりではない。
「異論といいますか、さすがに何でも答えるという訳にはいきませんよ?」
困った顔でリュイナールが告げる。
おそらく、これで警戒心は跳ね上がったことだろう。だがライオットにとって、それは無視できるリスクだった。
「もちろん構わないさ。それならルールを追加しよう。答えられないと回答されたら、それ以上は追及しないこと」
「分かりました。私はそれで構いません」
そして2人の視線がアウスレーゼに向かう。
金髪の密偵は無表情に黙り込んでいたが、やがて深いため息をひとつつき、ライオットを見上げた。
「いいでしょう。ただし条件があります。最初に、さっきの質問に答えて下さい。シン殿が王宮で言ったことは嘘だったのか。そして、あなた方はこれから何をしようとしているのか」
「よし、これで決まりだな。先に指輪を使おう。コマンドワードは『真実を我に』だ」
コモンルーンを使うのに必要な精神点は15点。並の人間なら1回で気絶できる。
ふたりが大粒の魔晶石を粉にしつつ《嘘感知》の魔法を発動させると、ライオットは心から楽しそうに開会を告げた。
「本気でわくわくするな。この会議はきっと後世の歴史書に残るぜ。そこに当事者として参加して、俺たちはこれからロードスの歴史を動かすんだ。信じられないよ」
その言葉に、嘘はなかった。
神殿の中庭に設けられた休憩所のひとつで、カザルフェロ戦士長とシンが仲良くお茶をしているらしい。
そんな噂が広まり、手の空いた神官戦士たちによって事実が確認されると、その情報は驚愕の嵐となって神殿中を吹き荒れた。
ふたりの犬猿の仲は有名だ。“鉄の王国”の出来事によって敵対行動は収まったとはいえ、まさか一緒に茶を飲む仲になろうとは。
今も通りかかった女性司祭がシンに会釈し、一緒にいるのがカザルフェロだと知ると目を見開いて二度見し、何か見てはいけない物でも見たかのように足早に去って行く。きっと同僚のところに行ったら、今見たものを面白おかしく吹聴するのだろう。
休憩所には大きな円卓と椅子が8脚ほど備えられているが、シンたち2人の他には誰も寄りつこうとしなかった。
「どれだけ仲が悪いと思われてるんだろうな、俺たちは」
頬杖をつき、大聖堂の方向を眺めながら、シンはぽつりと言った。
視線の先には黒、金、銀の艶やかな髪が揺れ、楽しそうに語らいながら歩いている。
彼女たちの今日の予定は神殿内部の見学だけだ。護衛としては楽なもの。
「女は感情で生きてるからな。好き嫌いってのは永遠のもんだ。未来永劫ぶつかり合うと思われてたんだろう」
腕組みをして背もたれに身を預けたカザルフェロが、皮肉っぽく応じる。
「それにしてもお前さんの相棒、あれはいったい何者だ? 剣の腕はお前さんにタメを張る超一流、司祭としてはニース様に並ぶ《リザレクション》の使い手、政治と謀略を語らせれば宮廷魔術師と正面から渡り合えて、しかも要人警護の経験まであるのか。どういう生き方をしたらそんな人間ができあがるんだ?」
ロートシルト男爵夫人を迎えるに当たって、ターバ神殿で一番頭を抱えていたのはカザルフェロだろう。
ニースは「警備はよろしくね」の一言で丸投げしたが、そもそも神官戦士団とは妖魔相手の討伐部隊であって、重要人物を護衛した経験など一度もない。
神殿の警備というのも門番2人ずつ、あとは適当に2人一組で巡回、これだけだ。
重要人物の警備というのはどうやればいい?
腕の立つ護衛を、寝室から便所まで張り付かせればいいのか?
普通に考えても鬱陶しいその護衛を、重要人物様は受け入れてくれるのか?
酒を飲みながらそうシンに愚痴っていたのを小耳に挟んだライオットは、後日カザルフェロを訪ねて、3人一組の巡回とエリア警戒という概念を持ち込んだのだ。
巡回は常に3人一組。異常を発見したら、2人で対処。1人は現場から全速力で離脱し、応援を呼びに行く。
護衛は対象個人を守るのではなく、対象が動き回る区域を包括的に警戒する。出入者をひとり残らずチェックし、不審人物は対象に接近する前、エリアに入った段階で排除するというものだ。
ライオットが提案した警戒方法を、神官戦士団は実際に試してみた。
カザルフェロ自身が侵入者役となって、ある時は物陰に身を隠し、ある時は手加減無しで部下たちをなぎ倒しつつ、宿坊の客間を目指して突進したのだ。
そして、10回試したその全てで、カザルフェロは宿坊に入ることすらできず警戒部隊にに包囲されることになった。
「あいつの経歴は、北の大陸の聖堂騎士出身だ。その前は街の衛視みたいなこともやってた。そんなに特別な助言をしたのか?」
「3人一組ってのが厄介だったな。応援を呼びに行かれるのは本当につらい」
回数を重ねるごとに警戒側も練度を上げていき、楽に勝つためにはどうすればいいかというのを実戦で学んでいった。中級指揮官たちも知恵を絞り、戦士たちに警笛を持たせたり、場所ごとに細かく呼び名を決めたりと、対応は訓練ごとに洗練されていった。
最後になると、対処班は捕縛に挑戦すらせず笛を吹き続け、応援が来るまで時間稼ぎに徹していたほどだ。
「で、極めつけはこの休憩所だ」
正門から大聖堂に至る通路の脇に新設された、木造の小さな東屋。
四方に柱を立てて簡素な屋根をかけ、円卓を1つと椅子を数脚置いただけ。壁はせいぜい腰の高さまでしかないから、椅子に座ったとしても丸見えで、視線を遮るものは何もない。
これを神殿中に配置し、巡礼者のみならず、神官戦士団も休憩場所として活用するように提案したのもライオットだ。
正門から大聖堂へと続く人の流れを眺めながら、カザルフェロは素直に賞賛した。
「立ちっぱなし、歩きっぱなしは疲れるからな。公然と休憩をとれるだけで部下どもの稼働時間がえらく伸びた。おまけにここでなら、休んでいても変なやつが来れば一発で分かる。こいつは偉い奴が机上で考えたもんじゃない。最前線の部隊の知恵だぞ」
カザルフェロの視線の先では、男爵夫人が礼拝に来た農夫と何やら話している。
両手で葡萄がいっぱいに入った籠を抱えている農夫は、週に一度は必ず礼拝に来る熱心な信徒だ。
付近にいるのは丸腰の巡礼者と神殿の司祭だけで、不審な人影は見当たらない。
そんな状況も、こうして離れていると全体がよく見えるのだ。
「ずいぶんライオットのことを買ってるんだな。俺は人を指揮したことがないから、あんたたちのやってる事がよく分からない」
シンはめずらしく突き放した口調で答え、冷茶の入ったカップを傾ける。
その様子に苦笑して、カザルフェロはシンに顔を向けた。
「どうしたんだ、さっきからえらく元気がないな」
「俺にできるのは、剣を振ることだけだからさ」
テーブルに立てかけた2本の長剣を見つめて、シンはため息をついた。
「大口を叩いてあんたからレイリアを預かったのに、何の役にも立ってないのが、ちょっとな」
その姿は、まるでいじけた少年のようだ。
“鉄の王国”での英断や無双のイメージが強すぎて、カザルフェロには見えていなかった実物大の英雄の姿。
自分の半分も生きていないこの青年は、何のことはない、自分やあのライオットという相棒に嫉妬しているのだ。
「気にするな。お前さんの出番はすぐに来るさ。できれば来て欲しくないが、どうせすぐに来るんだ」
まさか自分が“砂漠の黒獅子”を慰める日が来るとは。
感慨深くシンの横顔を見ながら、カザルフェロは思った。
それを嬉しく感じるということは、自分自身もまだまだガキなのだろう。
ラフィットたちの部屋が落ち着いた頃を見計らって、レイリアとルージュは再び客間を訪れた。
宮廷の匂いのする上品な礼儀で迎えてくれた侍女は相変わらずメイド服姿だったが、客間には様々な備品が持ち込まれて、空っぽだった先ほどとは大違いだ。
部屋の一角は家具類の配置まで模様替えされており、ドアから巧みに視線を遮られた先にはランシュの作業スペースが設けられたらしい。離宮で愛用していた紅茶から若干の茶菓子まで、来客の応対に必要なものはひととおり準備できるという。
部屋の奥にはドレスの薄絹を流用した几帳が置かれて、ラフィットの私的スペースはさりげなく覆い隠されている。
主人と使用人という立場を明瞭にしつつ、居心地の良さと明るさを両立させた見事な空間使いだ。
「すごい。まるで貴族のお屋敷みたいに華やかになりましたね。とても神殿の中とは思えません」
「これはセンスだね。私たちみたいな庶民には逆立ちしたって無理だ」
分かりやすい賛辞に、ランシュは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。ですが、ほとんどはルーィエ様のご助力の賜物でございます」
「俺様は品を手配しただけだ。全部お前の手柄だろう。お前を教育した主人の名誉のためにも、誇るべきは誇るのが侍女のあり方だぞ」
偉そうに論評したルーィエは、ソファに浅く座ったラフィットの膝の上で報酬を満喫している。
厨房から必要な品を運ばせた後も次々に出てくる不足品に対処し続け、結局最後まで客間の整備につきっきりだったのだ。
その報酬として侍女に膝の上での昼寝を要求したところ、暇を持て余していたラフィットが提供を申し出たことから、ルーィエは王国で最も美しい膝枕を手にしていた。
首や背中を男爵夫人の繊手が撫でるたび、目は心地よさそうに細められ、2本の尻尾は満足そうにゆらゆらと揺れている。このまま放っておけば間違いなく寝るだろう。
「お姉様、お待たせして申し訳ありません。ですがこの感触、癖になってしまいます」
柔らかな手触りを堪能しているラフィットが、悩ましげな顔をレイリアに向けた。
「本当に毛が艶やかで、暖かくて、ルーィエ様が息をするたびにお腹が動くのですわ」
「気持ちは分かりますがラフィット。ルーィエさんはルージュさんの使い魔です。それに昼食の時間もありますから、そろそろ行かないと」
ラフィットの幸せそうな時間を止めるのは気が咎めたが、今日は訪問初日だ。
案内するべき場所も、やるべき事も多い。
「ルーィエ、降りなさい。これから大聖堂の方に見学に行くんだから」
ルージュがきっぱりと命じると、銀毛の猫王はやれやれと言いたげな様子で立ち上がり、ひらりと床へ跳び降りた。
膝の上から暖かな重みが失われ、ラフィットは悲しそうな顔でルージュを見上げる。
「ルージュ様、ルーィエ様の寝床は部屋の隅っこと仰せでしたが、今宵は妾の寝台で御一緒してもよろしいでしょう?」
「それはちょっと問題があると思いますよ。ああ見えてもルーィエはオスですから」
「まあ、それでしたら、なおさら問題ありませんわ。妾、殿方を喜ばせる技術には自信がございますもの」
ぱっと表情を明るくし、両手を握ってアピールするラフィット。
とっさに反応できずにルージュが絶句していると、ラフィットは元気よく立ち上がり、レイリアの左腕に絡みついた。
「では参りましょうお姉様。ランシュ、後はよろしくね」
「行ってらっしゃいませ」
レイリアを引っ張るようにして客間を出て行く黄金の髪の少女を、ルージュは感心して見送った。
なるほど、貴族はこうやって既成事実を重ねていくのか。
ルージュが反対しなかったという事実を作り、あっという間に話題を変えて、もうそこには触れさせない。
相手を煙に巻いて自分のペースに巻き込んでしまえば勝ちというわけだ。
「ルージュ様、主人が失礼をいたしました。申し訳ございません」
「別にいいですよ。ルーィエが寝る場所は、ルーィエが自分で決めるでしょうから」
故意に謝罪を曲解して、無視されたことは気にしていないと伝える。
『じゃあ私は行ってくるから。ないとは思うけど、お茶とかに毒を入れられないように気をつけて見ててよ?』
『ふん、誰に言っている? お前こそ男爵夫人に振り回されて警戒を疎かにするなよ』
いつものように皮肉を言いながらも、ルーィエは上機嫌を隠せていなかった。
美人の主従にちやほやされ、膝を堪能したのもあるだろうが、それ以上に高級品の蜂蜜が効果を発揮したらしい。
文字どおりのハニートラップだ。
ルージュは内心でため息をつくと、黒髪の侍女に手を上げて別れを告げ、レイリアたちを追った。
さすがにラフィットは女優だ。他の司祭や神官たちの目のある廊下では、レイリアに指導を受ける見習い神官になりきり、半歩後ろを控えめに歩いている。
階段を降り、食堂や厨房をのぞいてから外に出るまで、すれ違う女性司祭たちの注意を引くこともなく、「今度の見習いは可愛いらしい娘ね」という程度の感想しか持たせていないようだ。
「どうでしょう、お姉様。なかなか神官っぽいと自負しているのですが?」
宿坊から外に出ると気が緩んだのだろう、ラフィットが澄ました顔のまま、レイリアに小声で問いかけた。
神殿に入ったばかりの14歳の少女が、神官衣に袖を通した嬉しさをこらえ、背伸びをして大人っぽく振る舞っています、という役作り。
客間にいた時の妖艶さは消え去り、子供っぽさ、微笑ましさを漂わせる雰囲気は満点だ。
「いいと思いますよ。ものすごい美人なのに、残念な雰囲気でオーラを消してしまうルージュさんみたいです」
「ちょっとレイリアさん。それ褒めてないよね?」
「ルージュさんはそれでいいんです。その顔でオンナっぽい雰囲気なんて出されたら大変なことになりますから」
レイリアは答えながら、媚態を作って男性を誘惑するルージュを想像しようとして、すぐに諦めた。
ダメだ。違和感しかない。
「妾は、ルージュ様には寵姫より女王の方が似合うと思いますわ」
礼を失しない程度にルージュの顔を見ながら、ラフィットは言う。
「ルージュ様は本当に、ルーィエ様と似ていらっしゃいます。誰かに従属するのではなく、誇り高く、自らの意志によってのみ立つ、孤高の月のようで」
国王の愛妾として宮廷に閉じ込められ、人生を選ぶ自由すら奪われた自分とは、まるで対照的に。
ほんの一瞬だけそんな羨望をほのめかした後、ラフィットは悪戯っぽく続ける。
「アラニア宮廷に入ったら、そんな方は一日で干されてしまいますけれど」
「謙遜しようとしたら、こっちも褒めてなかったよ。しかも上げてから落とすとか無慈悲すぎる」
肩をすくめるルージュに、神官衣のふたりは顔を見合わせて笑った。
他愛のない話題で笑い合うという、ふつうの14歳の少女ならごく当たり前の日常。
それがラフィットにとっては、普通でも当たり前でもないのだ。
貴重な時間を惜しむように会話を続ける少女たち。
楽しそうな黒と金の後ろ姿を眺めながら、ルージュは少し距離を取ってゆっくりと歩みを進めた。
正門から大聖堂へと続く参道に合流すると、道沿いの小さな休憩所でシンとカザルフェロ戦士長が警戒に当たっていたが、どうやら少女たちの目には入らなかったらしい。
ルージュがひらひらと手を振って挨拶すると、シンは肩をすくめ、カザルフェロはカップを掲げて挨拶を返してきた。
「お姉様、あそこで売っているのは護符ですよね?」
「ええ、そうですよ」
ふと目にとまった販売所を指さして、ラフィットが尋ねる。
「戦乙女の護符、というのは何ですの? 戦神マイリーの神殿でもありませんのに」
「あれは魔神戦争でニース最高司祭とともに戦った英雄たちを讃えて、ということになっています。詳しいことはニース様とマッキオーレ司祭しか知らないのですが、あまり詳しく教えてくれないので、実は私もよく分かりません」
そのことを尋ねると、ニースもマッキオーレも微妙に生ぬるい笑みを浮かべたので、それ以上聞けなかったのだ。
「“百の勇者”のどなたかでしょうか」
「おそらくは。それも、ニース様とマッキオーレ司祭がここまでするのですから、きっと大切な誰かなのでしょう。絆を無くしたくなかったのだと思いますよ」
戦乙女が“百の勇者”なのであれば、存命している確率は低いのだろう。
それでも、今は会えなくても、いつか再会できるかも知れない。
あなたのことを決して忘れない、その意思表示なのではないだろうか。
「もし会えるなら、是非お会いしてみたいです。だって、希望さえ捨てなければ再会できる、それを私たちは知っているのですから」
少しだけ遠い目で微笑むレイリアに、ラフィットは顔をほころばせた。
どうやらその言葉は、女優が役作りを忘れてしまうほど彼女の琴線に触れたらしい。年齢不相応な大人びた雰囲気で、しみじみと頷く。
「いいお言葉ですね。希望さえ捨てなければ再会できる、ですか……。妾も願掛けに1枚買っていこうかしら」
「いいですね。1枚で銀貨30枚です。ラフィットに買ってもらえれば、マッキオーレ司祭が喜びますよ。宣伝に使っちゃうかも知れません」
「ごめんなさいお姉様。お財布を置いてきてしまったわ」
少女たちがおかしそうに笑った時、横から穏やかな声がかけられた。
「レイリア司祭、ご無沙汰しております」
「カントナックさん。いつも礼拝に来て下さってありがとうございます」
そこに立っていたのは、葡萄がいっぱいに積まれた籠を両手に抱えた、初老の男性だった。 ターバ近郊の農園主で、毎年のように大量の葡萄酒を寄進してくれる。神殿で飲まれているワインは大部分がカントナック農園の品だ。
信仰の熱心さもさることながら、経済面でもターバ神殿を支える重要な信徒のひとりである。
「なんの。今年もマーファのお恵みで葡萄が大豊作でしてな。無事に今年初めての収穫ができましたので、神に感謝を捧げに参った次第です」
豊かな実りを素直に感謝する農園主。
すると、それまで控えていたラフィットが眉を曇らせた。
「横から口をはさむ失礼をお許し下さい。カントナック様、それはピノ・ノワール種ですよね?」
「さようです、お若い神官様。葡萄にはお詳しいようですな」
「私の父も王都の近くで葡萄を作っておりまして。実家にいた頃は、よく作業を手伝ったものですから」
「ほう、ご同業ですか」
目の前の美しい少女も葡萄農園の出身と聞いて、親近感がわいたらしい。
カントナックは楽しそうに目を細めて、ラフィットに向き直った。
「して神官様、あなたの目から見て、私の葡萄はいかがですかな?」
「一粒いただいても?」
「どうぞ、構いませんよ」
差し出された籠から、細い指が葡萄を一粒つまみ上げる。
ラフィットは粒を太陽に透かし、匂いを確かめ、半分だけ噛みちぎって断面を見つめ、そして目を閉じると存分に味を感じ取った。
その表情は決して明るいとは言えない。
懐から取り出した手巾で指と唇を拭うと、ラフィットはレイリアを見上げた。
「レイリア様、この方に失礼を申し上げても許されましょうか?」
どう見ても、年若い少女が葡萄の味見を楽しんだ顔ではない。
超一流葡萄酒を生産するシャトー・ロートシルトの娘として、不出来な葡萄に酷評を下す目をしていた。
「それは……」
「いえ、レイリア司祭。是非聞かせていただきたい。我々にとって同業者からの批評は千金の助言です」
思わず止めようとしたレイリアを、今度はカントナックが制する。
礼拝に来た好々爺の顔は消え失せ、葡萄に全力で向き合う農園主の表情になっていた。
自然との戦いは遊びではないし、葡萄は放っておけば勝手に実るものでもない。
相手はそれを身をもって知っていると、お互いに理解できたからこそ、年齢差も性別差も超えて率直な批評を欲したのだ。
ラフィットは居住まいを正して、老農園主の顔を見上げた。
「きっとこの葡萄は、栄養豊かな土で、ふんだんに水を与えられて大事に育てられたのだと思います。カントナック様は先ほど、大豊作だったとおっしゃいました。1本の葡萄の木に、鈴なりに房が実っている光景が見えるようです」
「神官様のおっしゃるとおりですな」
一般的に、食用にする穀物ならばそれでよい。
だが、葡萄酒はそれではダメなのだ。
「いただいた葡萄は渋みが控えめで、ほんのりとラズベリーの香りがしました。皮は薄くて食用にも耐えうるかと。ですがカントナック様は、食用のためにピノ・ノワールを選ばれたのではないでしょう?」
「もちろんです。私の農園は葡萄酒を作る場所ですからな」
「であれば……すみません、失礼をお許し下さい。これで葡萄酒を作っても、味わいが少々薄いのではないでしょうか?」
想像以上に厳しい指摘に、カントナックの顔が強ばった。
口に出してしまった以上は、もう戻れない。ラフィットは言葉を続ける。
「父が言っておりました。葡萄は人と同じだと。水はけの悪い粘土質の土、冷涼な気候、少ない降雨。過酷な環境が生命力を育て、それが実るから葡萄は甘いのだと。苦労を知らずに育った人間が幼いのと同様に、苦労を知らない葡萄も味が薄いと」
ラフィットが宮廷に召し出されるその日まで、家族は全員で泥にまみれて葡萄の世話をしてきた。
嵐が来れば葡萄の房の1つ1つに藁を編んだ笠をかぶせ、日照りが続けば土が割れないよう河から水を運び、爪の間には泥が詰まって指の色さえ変わってしまうような、そんな生活だった。
「父の農園では、結実した葡萄の房を、まだ青いうちにほとんど落としてしまうのです。枝1本に残す房は多くても2つ。樹1本に残す房は多くても10。他は全部落とします」
「何と……それでは半分も残りますまい」
「そうですね。葡萄畑が落とした房でいっぱいになってしまいます。それでも、残った葡萄が成長すれば、皮は厚く固く、味の凝縮した実となります。きっと樹が、残った実を確実に育てようと力を尽くすのでしょう」
皮の厚い葡萄は渋みも強く、食用には耐えられない。
その代わり、しっかりした皮が発酵することで葡萄酒は美しい赤色となり、味わいに深みをもたらしてくれるのだ。
「カントナック様。土や水や風、様々なものが葡萄を育ててくれるのですから、気候も風土も違うターバの畑で、王都の畑と同じことが通用するとは思いません。ですが来年は、醸造樽1つ分だけでも、水を少し控えめにして“青の収穫”を試してみてはいかがでしょうか?」
ついに難しい顔で黙り込んだ老農園主に、ラフィットは最後の止めを押す。
「“宮廷の貴婦人”という葡萄酒も、そうやって造られているそうですよ」
その名を聞いて、カントナックの顔が跳ね上がった。
この少女が口にしたのは、葡萄農園主たちの羨望の的であり、秘中の秘とされた最上級葡萄酒の製法のヒントなのだ。
純粋な驚きだけが胸を満たす。
「神官様。どうしてそこまでご存じで……いや、それはどうでもよろしい。どうして私などにそれを教えて下さるのですか?」
「ここにあったのが葡萄で、カントナック様が会えなくなった父とそっくりだったから、で答えになりましょうか?」
ほんのりと郷愁を滲ませる少女。
この神官の少女が心から父親を敬愛していることも、そんな父親と一緒に暮らすことはもうできないのだという寂しさも、カントナックにはまっすぐに伝わってきた。
そのような少女に父親と重ねてもらえるとは、何と光栄なことだろうか。
老農園主は深々と頭を下げた。
自分の葡萄を貶された苛立ちも、この少女を子供と侮る気持ちも、もうどこにも残っていなかった。
「ありがとうございます、神官様。たとえ“青の収穫”とやらが上手くいかなくても、この出会いを心から感謝いたします」
そして頭を上げると、神殿の支援者たる好々爺の笑みを浮かべ、レイリアに向き直る。
「レイリア司祭、今日は誠によい礼拝になりました。また参ります」
自慢の葡萄を抱えて立ち去る老農園主の背中を、ラフィットは少しだけ切なそうな表情で見送る。
レイリアはかつてラフィットに言われた言葉を思い出した。
一度豊かさを味わった家族たちは、もう昔の慎ましい生活には戻れない。ラフィットが宮廷を出て家族の元に帰れば、財を奪った彼女を必ずや恨むようになる、と。
カントナックは彼女にとって、幸せだった家族との時間を想起させる存在だったのかも知れない。
「少し話しすぎましたね」
ラフィットは小さく息を吐いて表情を切り替えると、また子供っぽく笑ってレイリアを見上げた。
「お姉様、いかがでしたか? 今度こそ神官っぽかったでしょう?」
「農園の方の悩みを手助けできない私より、よほど役に立っていると思いますよ」
少しばかり悔しそうなレイリアに、ラフィットはふふんと胸を張る。
「葡萄のことと閨房のことなら、お姉様には負けない自信がありますもの」
そしてふたりは顔を見合わせ、可笑しそうに吹き出した。
姉を慕う妹と、妹を慈しむ姉。まるで本当の姉妹のようなふたりの軽やかな笑声は、ターバ神殿の素朴な風景の中へ染みこんでいった。