シーン2 ターバ神殿
中天に達した太陽が、最後の夏よ届けとばかりに燦々と輝き、ターバ神殿の壮麗な建造物群を皓く照らしている。
神殿の一角に造られた東屋で影に入ると、シンはようやく一息ついた。
「こうして歩くと、けっこう広いんだな」
あと20日も早ければ、流れる汗が止まらないところだっただろう。
だが白竜山脈の峻嶺は雪をかぶり、そこから吹き降ろすのはもう秋の風だ。汗ばんだ肌を撫でるようにして熱気を冷まし、代わりに透明感のある爽やかさを残していく。
「ここには大勢の司祭や神官が暮らしていますし、同じくらいの巡礼者も訪れます。神殿の中だけで、ちょっとした町ですからね」
丸太を輪切りにしただけの椅子を用意しながら、レイリアが少しだけ誇らしげに応じる。
大地母神マーファは結婚の守護神でもあるから、この季節、神殿で将来を誓い合う若い男女の巡礼は途切れることがない。
ターバ神殿へ続く一本道が〈祝福の街道〉と呼ばれているのはそのためだ。
「ひととおり見て回りましたけど、どうですか、リュイナールさん?」
「想像より守りが堅くて安心しましたよ」
振り向いたレイリアに、ローブ姿の宮廷魔術師は温和な微笑みを返した。
「外壁はよく手入れされていますし、神官戦士団も規律正しい。王国の正規兵よりずっと強力でしょう。彼らを正面から打ち破ろうと思ったら、騎士団が必要になりますね」
ロートシルト男爵夫人の滞在に備えて、わざわざ抜き打ちで警備状況の視察に来たのだ。
重要人物が前触れもなしに《転移》してきたため、ニースやシンたちは仰天したが、来たものを追い返すわけにもいかない。
できる限り要望に添うように、とニースに頼まれ、シンたちは朝からリュイナールの護衛兼案内役を務めていた。
外壁の補修状況に始まり、物資を蓄えている倉庫内から、枯れて使われなくなった古井戸の底まで、その点検はありとあらゆる場所に及び、時刻はもうすぐ昼。
さすがの宮廷魔術師も、歩き続けるのは堪えたらしい。
額に飾られた紅玉のサークレットは汗に濡れ、東屋に入ってくる足取りにも重さが感じられた。
「こちらへどうぞ。すぐに飲み物も用意しますので」
「ありがとうございます、レイリア司祭」
リュイナールは勧められた椅子に遠慮なく腰を下ろした。
懐から取り出した手巾で額を拭い、体内の熱と疲労を吐き出すように吐息をもらす。
日陰に吹く涼やかな風が、うっすらと隈の浮かんだ頬を撫でた。
「疲れてるみたいだな。ちゃんと休まないと保たないぞ」
宮廷魔術師に続いてきたのは、金属鎧に大盾で完全武装のライオットだ。
装備の重量だけで相当なものだろうに、疲労などまったく感じさせない底なしの体力。
リュイナールは上目遣いにライオットを見上げ、羨ましそうに苦笑した。
「分かってはいるのですがね。誰か他の者に警備情報をもらせば、その日のうちにラスター公やノービス伯に筒抜けになってしまいます。こればかりは他人に任せるわけにはいかないのですよ」
ラフィット・ロートシルト男爵夫人は、リュイナールの宮廷運営にとって欠くべからざる重要な要素なのだ。無駄なリスクはできる限り減らしておきたい。
「今回の件を知っているのは、男爵夫人ご本人と私、それにニース殿だけです。移動の詳細は国王陛下にすら内密で計画しておりますので、皆様もどうか保秘にはご注意ください」
レイリアが木製のカップに冷茶を注いで手渡すと、リュイナールは律儀に頭を下げて受け取った。
柑橘の香りがする茶は、渇いた身体に一息で染みこんでいった。
あっという間に空になったカップに、レイリアが2杯目を注ぐ。
「あー疲れた。レイリアさん、私にもお茶ちょうだい」
少し遅れてついてきたルージュの遠慮のない要求。
くすりと笑ったレイリアからカップを受け取ったルージュは、ふと、怪訝そうに自分を見上げるリュイナールに気がついた。
「……なに? 女子力が低いとか思ってるの?」
「とんでもない。ただ、ルージュ殿は汗をかいていないなと思いまして」
レイリアでさえ後れ毛が汗に濡れて肌に張り付いているのに、ルージュの肌はさらりと乾き、前髪は涼やかな風を受けて優雅に揺れている。
ドレスに着替えれば、今すぐにでも宮廷の茶会に出席できそうな余裕の表情だ。
「そんなこと? 私暑いの嫌いだから、ローブの下で弱冷気の魔法をかけてただけだよ」
こともなげに答えてカップを傾けるルージュに、リュイナールは今度こそ眉をひそめた。
「そんな魔法、ありましたか?」
「自分で編み出した」
あっさりした言葉にリュイナールが絶句するのを見て、ルージュは悪戯を成功させた子供のように笑った。
「なんてね。《ブリザード》の魔法を準備すると冷気が漂うでしょ? そこまで準備して発動をキャンセルしただけ。発動範囲を縮小すれば、ローブの中だけで全部おさまるよ。どうしても暑いときは、威力も極限まで抑えて発動させちゃうこともあるけど、これはローブの中でやると寒くて死にそうになるからおすすめしない。部屋を冷やすにはちょうどいいんだけどね」
リュイナールの顔がさらに厳しくなる。
それが本当だとすれば、ルージュは上位古代語の意味を理解して、呪文を改良していることになる。
古代魔法王国がルノアナの都とともに滅んで以降、魔術師たちは魔法書の呪文をただ暗唱し、あるがままに再現することしかできなくなった。
自分たちが唱えている上位古代語の意味もろくに解さず、だたそういうものだと割り切って詠唱することしか知らないはずなのだ。
だがルージュの領域は、そこを遙かに飛び越えている。
「なんだかルージュの部屋だけ涼しいと思ったら、自分だけ冷房かけてたのか」
炎天下の金属鎧に散々苦労してきたライオットが、恨みがましい半眼を向ける。
「仕方ないでしょ。暑い寒いは個人差があるんだから、他人の感覚までうまく調整できないもん」
「偉そうに言うな半人前。それから魔法の疲労をぜんぶ俺様に肩代わりさせるのもやめろ。今日だけで何回使ったと思ってるんだ」
「いいじゃない、自分だって涼しい思いをしてるんだから」
抗議はそう一蹴したものの、ライオットの恨みがましい視線を受けて、ルージュは渋々と妥協案を提示した。
「分かった。じゃあ次から、ライくんの鎧にも《ブリザード》をかけてあげる。冷えピタみたいに冷たくなって涼しいかもしれないし。それでいいでしょ?」
「頼むから手加減は間違えないでくれよ。真夏に凍傷は勘弁だから」
「おいちょっと待て。それじゃ何の解決にもなってない。俺様の疲労が増える未来しか見えないぞ」
「と言いますか、本当にそんなことで魔法を使っているのですか?」
思わず横から口を挟んだリュイナールを、ルージュが一刀両断する。
「気にしないで。ライくんなんか炎の魔剣でお風呂沸かしてるし」
古代の秘宝も台無しである。
冒険者たちの自由気ままな発言を聞いていると、何もかもを政治力に変換して比べている自分に徒労感を感じる。
ルージュの魔法改変は、リュイナールの認識では、古代語魔法の秘伝にも匹敵する高等技術のはずだ。適切に使えば賢者の学院で最高導師の首をすげ替えることさえ可能だろうに。
それが、ここでは夏に涼をとる程度の価値しかないのだ。羽扇であおいでくれるメイドと何も変わらないレベル。
自分がルージュに感じた脅威がまったくの空振りだったことを悟り、リュイナールは遠い目で2杯目の冷茶をすすった。
国王カドモス7世に突然呼び出され、ロートシルト男爵夫人をターバへ懐妊祈願に行かせると聞かされてから1週間。
本当に怒濤のような日々だった。
日々を暗殺の危険に怯えて過ごす男爵夫人に、たまには安らかな休暇を与えてやりたいという国王の希望。それは分からないでもない。
国王の隣で可憐に微笑む男爵夫人も、まだ懐妊など望んでいないだろう。ただ単にレイリアのところへ遊びに行きたいだけ。
しかし、愛妾の懐妊祈願という名目が、どれほど宮廷の貴族たちを刺激することか。
権勢と銀貨と色欲にしか興味のない、頭が空っぽの貴族たちを激発させるには充分というものだ。
暗殺者か、毒か、それとも正面から兵士を差し向けるか。
いかなる手段であれ、男爵夫人は必ずや命を狙われるだろう。
それに備えて男爵夫人を安全な場所で守り、襲撃者を誘い出して罠にはめ、後腐れのないよう徹底的に殲滅する必要がある。
それができるか、と問われれば、自分にはその全てができると断言できた。
自信もある。
ただ、それを準備するのに、これほどの激務を伴うとは思っていなかっただけで。
そういえば、最後に寝台で眠ったのはいつだっただろうか。
「それで、これからどうする? 特に予定がないならひとつ相談があるんだけど」
執務室の惨状を思い出して無言になったリュイナールに、シンがさりげなく声をかける。
「視察の方はもう充分です。今できることはやりましたので、シン殿にお話があるならどうぞ。私にできることがあれば何なりと協力しましょう」
「それはありがたい。実は俺さ、王になりたいんだ」
夕食にはシチューが食べたい、と言うのと全く同じ軽い口調。
リュイナールはゆっくりと木のカップを下ろし、口元に諦念の笑みを浮かべると、“砂漠の黒獅子”に生ぬるい視線を返した。
「もう勘弁してください」
巡礼者や神官戦士団が踏み固めた〈祝福の街道〉。
ロードス北辺に最後の夏を届ける太陽は西に傾き、針葉樹林に刻まれたまっすぐな道を残照がオレンジ色に染める。
さくり、さくりと足音は優しく、ヒグラシや鈴虫の鳴く声が遠く聞こえる。
この道を、今まで何度歩いただろうか。
そして、これからあと何度、歩けるのだろうか。
シンと肩を並べたレイリアの中を、ふと、そんな想いが横切った。
初めてシンとここを通ったのは、オーガー退治の依頼をした時だ。
あの時は神官戦士団が出払っていたが、ドワーフのギムが偶然ニースを訪問していたから、ターバまでの道中で不安を感じることはなかった。
生まれて初めてオーガーと対決した時、レイリアの足はすくんで剣を抜くことさえできなかったけれど、シンは一刀で妖魔を斬り伏せてレイリアを助けてくれた。
それから何度も、シンとふたりでこの道を歩いた。
大切なこと、くらだないこと、たくさんの話をしてお互いを知り合い、少しずつ心の距離を詰めた。
シンに追いつけなくて、守られるばかりだった頃も。
想いが通じ合って、舞い上がっていた頃も。
そして今も。
この道を歩きながら交わす会話は、ふたりにとって原点で、きっといちばん大切な時間。
本当に名前のとおり、ここは〈祝福の街道〉なのだ。
すっかり涼しくなった風に、黒髪がふわりと揺れた。
「少しだけ、複雑な気持ちです」
何の前振りもなく、ぽつり、と口にする。
それでも、レイリアが何を思ったのか、シンには正しく伝わった。
「リュイナールの話か」
「はい。私は“亡者の女王”の生まれ変わりで、だからピート卿……お父さんやお母さんから離れなくてはならなくて、大勢の人が運命を狂わされて今があるのに」
ターバ神殿はレイリアを監視し、ニースは最高司祭として封印の墓所を守り続けている。
ドワーフの王国では、カザルフェロ戦士長は断腸の思いでソライアを切り捨てる決断を迫られ、レイリア自身、目の前で親友の心が砕け散る光景を見た。
レイリアが転生体であるという現実は変わらず、誰もが逆らうことができずに耐えるしかなかった。
ニースは口にこそ出さないが、きっと自分さえいなければ、最高司祭の地位を誰かに譲って、自分は心に決めた男性と添い遂げることだってできたはず。
それがいいとか悪いとか、そういうことではなく。
レイリアとターバ神殿にとって、現実はそれくらい重いものだったのだ。
「それなのにリュイナールさんは言いました。シンたちと一緒にターバ神殿を離れるなら、反対はしない。好きにすればいいって」
宮廷にとって“亡者の女王”とはそんなに軽い存在なのか。
それでは、今まで耐えてきた皆の苦しみは、一体何だったのか。
そう思ってしまう。
「俺はさ、宮廷の都合とか、政治の事情とか、そういうことには興味がない。細かいことはライオットに聞いてくれ。今日はあいつが満足してたから、そっち方面ではいい話だったんだろ」
シンは、3歩前を行くライオットとルージュを見る。
会話は聞こえているだろうに、反応は全くない。
悪戯と茶化すのが大好きなのに、大事なところは空気を読んでくれるふたりだった。
「ただ俺は、運命っていうのは他人に狂わされるものじゃないと思う。“亡者の女王”っていう重たい荷物があるのは分かるよ。だけど、その荷物にどう対処するかは、関わった人たちが自分で選んで決めたことだ。たとえ選択肢が減らされてたとしても、それでも、選んだのは自分なんだ。レイリアが責任を感じるなんておかしいし、本人たちに言ったらきっと怒られる。いや、悲しむかな。俺なら悲しいから」
流されたように見えようと、強制されたように感じようと、人生を決めるのはいつだって自分自身の決断で、その結果として今があるのだ。
その時はどれだけ苦しかったとしても、数年後には飲み会で鉄板ネタの笑い話になっていたりする。
不幸なんて、本人の受け取り方ひとつで、あっという間に違うものに変えられる。
他人の人生を哀れむのは、その人に対する最大の侮辱だ。
「俺はさ、自分の人生を振り返って、ああすれば良かったなって後悔することはあるけど、過去に戻ってやり直したいって感じたことは一度も無いよ。成功も失敗も、全部が集まって俺を作ってる。俺は自分で決めて、今レイリアの隣に立ってる。これが俺の運命だって言うなら最高だよ。“亡者の女王”さまさまだ。絶対誰にも譲らない」
シンが足を止めると、当たり前のようにレイリアも立ち止まり、ふたりは正面から見つめ合った。
前を歩いていたライオットとルージュは、微笑ましげに視線を交わした後、そのままゆっくりと歩みを進めた。
ここは少し離れてやるのが礼儀というものだろう。
この道で少しずつ距離を縮めてきたシンとレイリアが、最後の一歩を詰めようとしているのだ。
「レイリアは今まで、ターバで過ごすことを強制されてきた。ニース様の娘だから、マーファに仕える司祭だから、そして転生体だから」
シンには、レイリアが感じている混乱の正体が分かる。
かつて自分も通ってきた道だ。
一歩間違えれば転落人生まっしぐらだし、事実シンもそうなりかけた。
「だから、ニース様やリュイナールに『ターバから出ても良い』って言われて、戸惑ってるんだろ? 今まで当たり前だったものが、自分の大部分を占めていたものがいきなり無くなって、まるでぽっかり穴が開いたようで。自分が大きな何かから切り離されたみたいで頼りなく感じてるんじゃないかな」
だけど、間違えてはいけない。
レイリアは、自分で選んだのだと、自分自身で知らなければならないのだ。
「その空虚な不安のことを『自由』っていうんだ」
原作で、レイリアが奪われたもの。
カザルフェロ戦士長が、レイリアに与えたくなかったもの。
シンが、レイリアにどうしても与えたかったもの。
自分で道を選び、決め、進む権利。
「レイリアに開いた穴を何で埋めるのか、決めるのは君自身だ。その代わり、決めた結果何が起こっても、たとえ邪教の司祭に殺されても、世界に絶望して“亡者の女王”が甦ったとしても、他の誰でもない君自身の責任だ」
ひたすらに真摯な声が、レイリアの心に染みこんでいく。
うまく言葉にならないシンの真意を、レイリアは余すところなく受け取っていた。
今まではニースが、カザルフェロ戦士長が、ソライアたちターバ神殿の皆が背負ってくれた重い荷物を、これからはレイリアが自分で背負わなければならないのだ。
確かに、レイリアの抱えている荷物は、他の人に比べれば少しだけ重いのかもしれない。だが荷物は誰もが当たり前に持っていて、休んだり走ったりしながら未来へと進んでいく。
その荷物を、人は『責任』と呼ぶ。
「つまり、私は『特別』だったのに、『ふつう』を手に入れたのですね」
レイリアの脳裏に、ソライアの晴れやかな笑顔が浮かんだ。
ラスカーズに心を折られ、目の前でカザルフェロ戦士長を殺された時も。
ライオットの奇跡で、カザルフェロ戦士長に言葉を伝えるチャンスをもらった時も。
ソライアは自分で決断し、行動し、結果を手に入れた。
それはレイリアのせいでもレイリアのおかげでもない。ソライア自身の決断がもたらした成果。
自分の責任で選び、行動して、手に入れる。それが『ふつう』なのだ。
「シン。私も選びましたよ。私はあなたの隣にいたい。この場所を他の誰にも譲りたくないです。私の荷物は重いですけど、代わりに、私もシンの荷物を半分持ちますから。王様になろうっていう人の荷物です、シンのだって同じくらい重いから、いいですよね?」
ふたりの間にあった最後の一歩を、レイリアが詰める。
ごく自然に、シンの腕がレイリアをふわりと包んだ。
「ありがとうレイリア、俺を選んでくれて。絶対に後悔させないって誓うよ。たとえ世界中を敵に回しても、俺は君を守りぬいてみせる」
「お言葉ですけどシン。たとえ道半ばで倒れたって、私は後悔なんかしません」
だって、あなたと並んで同じ道を歩くことが、私の幸福ですから。
完爾として微笑んだレイリアは、肩に回されたシンの手に力がこもるのを感じて、そっと目を閉じた。
そういえばソライアは、返事の代わりに押し倒してもらったのだろうか?
ふとそんなことを思ったが、唇に感じた熱の奔流はレイリアの思考をあっという間に押し流してしまう。
レイリアは生まれて初めての感覚に翻弄されるばかりで、あとはただ溺れないように、シンの身体にしがみつくことしかできなかった。
「ついにくっついちゃったね」
ルージュは茜色に染まった空を見上げ、感傷的につぶやいた。
足を止めた後ろのふたりが、少しずつ離れていく。
きっと今この瞬間に、シンの道とルージュの道は決定的な別れを迎えたのだ。
ロードスに来た時、自分たちは右も左も分からない子供のようで、ただライオットに守られるばかりだったのに。
最初はただ、面白がって黒髪のヒロインへけしかけただけなのに。
シンは次々に襲いかかる強敵を打ち払い、弱い自分の殻を破って成長し、このファンタジー世界にふさわしい英雄となって自分の進む道を決めた。
「でかくなったよな。女ひとりのために国ひとつ征服するとか。ほんと凄い」
ライオットもしみじみと頷く。
剣を取っての戦いなら、シンに負けるつもりはない。
仮にどちらかが倒れるまで戦い続ければ、最後に立っているのはきっと自分だと思う。
しかし、その「仮に」という条件を満たして戦う理由を持っているのは、きっとシンだけなのだ。
「俺は結局、小市民だからさ。現状に満足しちゃうんだよな。ターバの村の冒険者のままでも良かったし、ニース様の切り札として神殿に居候しても良かった」
だから現状を変えよう、世界を相手に戦おうなどと、考えたことすらなかった。
ルージュに付き合って日本に帰ったっていい。
ライオット自身には、確固とした希望がないのだ。
別にどこでもいい。どこへ行こうとも、ある程度うまくやって成功する自信はあった。
「でも、最後まで付き合うつもりなんでしょ?」
「約束したからな」
亡者の女王を封印する墓所で、ライオットはシンに言った。
何ができるかではなく、何をしたいかで決めろ。どんな決断をしても必ずついて行く。そう約束した。
シンが世界を変えると決め、道を選んだなら、次はライオットが責任を果たす番だ。
「やってやるさ。ふっかけられた無理難題をクリアするのは俺の得意分野だ」
「……まあ、仕方ないね」
ライくんはそう言う人だから。
ルージュは何とか口元を笑みの形に整えると、小さく肩をすくめた。
話を面白くするためなら悪戯も自虐もためらわず、フラグを折るのが大好きで、でもやると言ったことは必ず成し遂げる人。
時折見せる真剣な目には、まるで吸い込まれそうな深さがあって、ルージュはそれに心を囚われてしまったのだ。
ここだけの話、ドワーフの王国でカザルフェロを甦生させた時のライオットには、かなり惚れ直してしまった。
だからライオットに息を飲ませたレイリアの笑顔に、本気で嫉妬したのも事実。
今度やったら意地悪する、という宣言は、掛け値なしの本気だ。
「それはそれとして、ライくんもシンも、大事なことを忘れてるんじゃない?」
「リュイナールと宮廷のことか? 大丈夫だよ、あいつがシンの邪魔をすることはない。宮廷にとって、ターバ神殿とシンのコンビが強力すぎるってのは事実だからさ、あいつの視点で見れば、出てってもらった方がありがたいだろう」
「そうじゃなくて。まあ、それと完全に無関係なわけじゃないけど、もっと根源的な話。ここはどこで、私たちは誰なのかってこと」
シンもライオットも、ここがロードス島で、自分たちは冒険者だという生活にすっかり染まっている。
今はそれがどうやら現実だから、染まること自体は構わない。人は環境に適応しなければ生きていけないのだから。
シンに至っては、それで人生をかけるにふさわしい伴侶を手に入れた。本当に喜ばしいことだと思う。
だが、だからこそ忘れてはならない。
「私も政治の話は得意じゃないけどさ、リュイナールさんがシンの邪魔をすることはない、そういう状況なのは分かる。分かるけどねライくん、ここはどこ?」
「どこって、ロードス島だろ。アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ」
まだ真意が飲み込めない様子のライオットに、ルージュはため息をついた。
ほんの少しだけ口調に棘が混ざる。
「本当に染まっちゃってるね。そうだよ、ロードス島。だけど原作そのままのロードスじゃない。ここは“あの”悠樹くんが創ったロードスでしょ?!」
シンやライオットやルージュや、そしてここにはいないキースが生きる世界を創造したのは、それぞれのプレイヤーたちと、ゲームマスターの悠樹。
「だいたい“灰色の魔女”がイケメンの宮廷魔術師をやってるところからおかしいじゃない。綿密なシナリオと大ドンデン返しの大好きな“あの”悠樹くんが、“灰色の魔女”は実は味方でしたなんて、そんなシナリオ用意すると本気で思ってるの?」
愛らしいヒロインと、強大な敵と、登場する魅力的なNPCたち。
彼らとともに日常を過ごすうちに、少しずつキャラクターと同化していった自分たち。
ルージュ自身だって魔術師としてここに存在しており、現実に古代語魔法を行使できるのだから、そうなることは必然の流れだ。
それでもルージュは日本に帰りたいし、この肉体を自分のものとして生きるつもりもなかった。
数年前に滅びたレイド帝国の皇女、“奇跡の紡ぎ手”アルトルージュの肉体は、あくまで借り物であって、自分自身ではないのだ。
その意識は、この世界をいつも冷めた目で、斜め上から見下ろしている。
ライオットは二の句を継げずに黙り込んだ。
状況を読むことには自信があったが、ルージュの視点はそのずっと上。
この世界を創造する“神”(GM)の意図の指摘だったから。
「レイリアさんは本当にいい子で、シンとふたりで幸せにしてあげたい。だからふたりが生きられる国を創るのに、私たちも協力したい。それは本当の気持ちだよ。だったらライくん、油断しちゃ駄目」
紫水晶の瞳に本気の光を浮かべて、ルージュは夫の顔を見上げた。
「敵はカーディス教団で、あのラスカーズとバグナードと、アンティヤルとかいう闇の蛮族の戦士を倒したら、このキャンペーンは終わる? もしこんな転生なんかしないで、東京の家でダイスを転がしてたとしたら、ラスボスはあの3人だったと思う? そんなはずないよね」
いつでも陽気に自由気ままで、傍若無人な魔術師ルージュではなく。
怜悧な分析と緻密な計算を得意とするTRPGプレイヤーとして、ルージュは断言する。
「きっと必要になるよ。カーラがレイリアさんの身体を狙った時、あのサークレットを何とかする方法が」
邪教や宮廷貴族の派閥を敵に回して、ターバ神殿とリュイナールは味方陣営だ。ライオットの見たところ、今の状況で、リュイナールがレイリアを襲う理由は何もない。
この世界が悠樹の創ったロードスだというならなおさらだ。悠樹は絶対に、状況に矛盾するシナリオ展開をしない。
それでも。
「分かった。みんなで考えないとな。ここがロードス島である以上、その命題とは無縁じゃいられないか」
それがいつになるのかは分からない。
これからの戦いで必要になるかもしれないし、シンの王国ができた後の話かもしれない。
それでも、いつか必ずその日は来ると、ライオットには信じられた。