インターミッション5 ルージュの場合
ほのかに脈動する淡い光が、ルージュにあてがわれた宿舎の室内を照らしていた。
暖かな輝きを放つ小さな木の枝。
創世神話に登場するその存在は、この世界の住人たちに“黄金樹”と呼ばれている。
上位魔神が持っていた頃はいっぱいに葉が茂っていたが、度重なる巨大魔術に使用されて、今や残っている葉は半分ほどか。
「それでも7000点分は残ってるよね……」
左手の中指からカーラの指輪を抜き取ると、ルージュは疲れた目を閉じて揉みほぐした。
カーラの指輪がもたらす魔術的な視界の中で、黄金樹の枝はまさに太陽だった。強烈なマナを持続的に放射し、あまりの眩しさに実体すら霞むほど。
これは危険だ。少なくとも、一個人がアイテム代わりに所持していい代物ではない。
ルージュは外した指輪を弄びながら、背もたれに身を預けて天井を見上げた。
肉眼に映る黄金樹は、さながら電飾の施されたクリスマスツリーだ。葉脈が暖かな黄金色に脈動する光景は、誰が見ても綺麗だと感じるだろう。
同時に、シンが評した“無限魔晶石”という言葉も本質を言い当てている。
黄金樹本体はどうだか知らないが、少なくともここにある小さな枝には、意識や精神も存在しない。神話級の魔力を内包したこの枝は、手に取るだけで誰にでも利用できる、単なる力の結晶なのだ。
この甘い餌の存在を人々が知れば、どれほどの厄介事が群がり寄ってくることか。
「ざっと思いつくだけでもバグナード、カーディス教団、ラルカス学長と賢者の学院だって黙ってないだろうし、アラニア宮廷も見逃してくれないよね」
そして忘れてはならないのが、帰らずの森のハイエルフたち。
世界樹の子孫を自称するエルフにとって、黄金樹は祖霊のような存在に当たる。
ただでさえ森だの樹木だのが絡むと攻撃的になる種族だ。彼らがゴミ屑扱いする人間の手に黄金樹があると知れば、どんな攻撃をしてくるか知れたものではない。
「で、どうするんだ半人前?」
「捨てる。こんな物、手元に持ってるの嫌だもん」
間髪入れない答え。
ベッドの上で丸くなっていたルーィエは、呆れた口調で尋ねた。
「捨てるってどこに捨てるんだ? その辺の森に埋めるのか? 海に沈めるのか? まさか脳筋樽どもの溶鉱炉にでも放り込む気じゃないだろうな?」
「それをいま悩んでるんでしょ。文句ばっかり言ってないで、ルーィエも一緒に考えてよ」
明朝には鉄の王国を出発し、ターバへの帰還の途につく。できれば外の世界に出る前に、こんな危険物は処分してしまいたかった。
右手に持ったカーラの指輪を唇に当てながら、ルージュは難しい顔で壁をにらむ。
存在を隠すだけなら、6レベルの古代語魔法に《シール・エンチャントメント》という呪文がある。物体に付与された魔法効果を完全に隠蔽するという便利な呪文だ。
だが残念ながら、これは遺失魔法。ルージュの呪文書には掲載されていない。
「隠すだけでいいなら、ナニールの墓所で“玄室”に入れちゃうのが楽なんだけどな」
特殊な魔法で完璧に防護されたあの玄室は、外界から完全に隔離されている。いかなる魔法であろうとも外から中に干渉することはできないし、その逆も然り。
純粋に機能だけで考えたなら、この世界に玄室以上の場所は存在しないだろう。
だがもし、あの部屋が“使用”される日が来たら。
それを考えると、ルージュの口調は否定的にならざるを得ない。
「何かの間違いで黄金樹と亡者の女王が結合したら、ちょっと面倒なことになるんじゃないか? 劇薬を同じ場所で保管するのはいい考えとは思えないぞ」
銀毛の猫王はえらそうに論評すると、黄金色に輝く木の枝を眺めて考えこんだ。
理想論を言えば、妖精界に戻すのが一番なのだろう。
だが、妖精界への扉を開くことができるのは、ハイエルフと呼ばれる古代種だけだと聞く。
ではそのハイエルフとやらに、どうやったら会うことができるだろう。そもそも実在するかどうかも疑わしいではないか。
だからといって海に捨てれば、やがて海流に乗って岸に打ち上げられるかも知れない。森に隠しても、狩人や妖魔に見つけられてしまうかも知れない。
空には空の、海には海の、森には森の獣がいる。誰にも行くことができない場所というのは、この世界にはほとんど存在しないのだ。
「仕方ない。深い穴でも掘って埋めるか……」
理想的と評するにはほど遠いが、少なくとも持ち歩くよりは安全だろう。
誰が、どこに、どうやってという問題は残るが、それは単に技術的なものだ。解決できないことはない。
具体的な検討に入ろうとしてルージュを見る。すると銀髪の魔女は悪戯っぽい笑みを浮かべ、魔法樹の杖をとって立ち上がった。
「いい場所に心当たりがあった。ちょっと行ってみようか」
言うなり、それ以上の説明をしようとせずに転移の呪文を唱え始める。
ルーィエは小さく肩をすくめると、不肖の弟子の肩に跳び乗った。
鈍色の雲が夜空にたなびき、まるで天の川にかかった橋のように見えた。
足下に影が伸びるほどの明るい星明かり。
頭上にひしめく星々と三日月を観衆にして、茂みでは過ぎゆく夏を惜しむ虫たちが鳴き、大地を渡る風が木々を揺らして優しい伴奏をそえる。
そして、眼前には煌々と輝く大きな湖面が広がっていた。
「ここは?」
短くルーィエが尋ねる。
この居心地のよい空気は、水と風と木の精霊たちが穏やかに過ごしていることの証だ。
少なくとも数百年間、人や妖魔の手で荒らされることはなかったはず。
「ルノアナ湖。そう呼ばれてるんだってさ」
そう答えるルージュの声は、ひどく懐かしげに響いた。
かつて“灰色の魔女”カーラと、ほんのひとときの郷愁を共有した場所。
あの日カーラと交わした言葉や過ごした時間が、昨日のことのように思い出される。
もう一度故郷を見たい。
ずっとじゃなくていい。1日だけでもいい。もう一度故郷の風景を見るために。
シンの決意やライオットの覚悟に比べれば、どうしようもなく庶民的な願いなのだろう。
だがカーラはそれに応えて、最高位の遺失魔法を伝授してくれたのだ。
かけがえのない思い出を胸に、遠い目で穏やかな微笑みを浮かべるルージュ。
その傍らでは、ルーィエが風の精霊のささやきに耳を傾けていた。
「この近くには人間の集落もないし、妖魔や魔獣が争うこともないそうだ。この湖に目を付けたのは、半人前にしては悪くない選択じゃないか」
きょとんとして相棒の言葉を聞いたルージュは、ふっと破顔すると小さく笑った。
「ああ、ごめん。まだ説明してなかったっけね。違うの。黄金樹はここには沈めないよ。別の場所に持っていく」
「だったら何しに来たんだ?」
とたんに不機嫌になったルーィエが尻尾を振り回し、棘のある口調で問いつめる。
「縁起をかつぎに」
「縁起?」
意味が分からないと語尾を跳ね上げたルーィエに、ルージュは素直にうなずいた。
「そう。毎晩練習してたけど、今まで一度も成功しなかったから。だけど、ここでなら巧くいきそうな気がして」
かつてカーラが描いて見せた、異界への門の設計図。
常軌を逸したケタ違いの難易度に、あの日のルージュは到底不可能だと諦めてしまったが、今は違う。
確かに自分の実力では、カーラほどの緻密さは望めない。
だったら全天を覆うほど巨大に描こう。
必要なのは小さくまとめることではない。正確に構成すれば、魔術はきちんと発動するのだ。それは黄金樹の力を借りて化石竜を消しとばしたとき、ルージュ自身が実演したばかりではないか。
ならば故郷への想いを絵筆として、この地に宿るマナを絵の具として、世界というキャンバスに異界への門の姿を描ききってみせよう。
奇跡が起きなければ帰れないというなら、この手で奇跡を紡ぐまで。
今の自分には、きっとできる。
ルージュは目を閉じると、右手に魔法樹の杖を、左手に黄金樹の小枝を持ち、心からの郷愁を込めて呪文を唱え始めた。
春には並木道から降りそそぐ桜吹雪が。
夏には夜空に咲く大輪の花火が。
秋には店先に並ぶ魅力的なスイーツが。
冬には色とりどりの電飾で街や家を飾る人々の笑顔が。
様々な思い出が脳裏に浮かび、ルージュはそれを余すところなく絵筆に込めた。
世界そのものが輝くのではなく、世界を美しくしようとする人々の想いで輝く故郷が、たまらなく愛おしかった。
やがてルージュの詠唱が止まったとき、ルノアナの湖上には、マナで描かれた巨大な塔が屹立していた。
カーラが見せたものとは全く違う姿。
だがルージュはその構成を見上げて、満足そうに微笑んだ。
姿が違うのは道理だ。そもそも行き先が違うのだから、同じ姿になるはずがない。
『万能なるマナよ……』
ひどく穏やかな最後の一節に応えて、ルージュが描いた塔が輝き、回転しながら湖面に沈んでいく。
やがて塔のすべてが姿を消したとき、魔女たちの郷愁を受け止めた湖面には、銀色の魔術文字で描かれた複雑な魔法陣が輝いていた。
直径10メートル。カーラのものよりもずいぶんと大きいが、精密さではまったく引けを取っていない。
呪文が成功したことは明らかだった。
フォーセリア世界で前代未聞の、異世界へとつながる次元門。
ルージュが求め続けてきた故郷への扉が、今、ルノアナの湖面に開いている。
ただのゲーム好きの一般市民だったルージュが、ファンタジー小説を1冊書けるくらいの波瀾万丈の末、自分自身の力を磨いて勝ち取った成果。今まで紡いできた奇跡の中でも、極めつけの逸品だった。
この門をくぐれば、もとの平穏な世界に帰れる。
無数の思い出で彩られた故郷へ。
しばらく無言で銀色の魔法陣を見つめたルージュは、やがて静かな声を相棒に向けた。
「ルーィエ、一緒に来てくれる? あなたにも見てほしいの。私の生まれ育った世界を」
その声に含まれた、ほんのわずかな怯みに気づいたのか。
ルーィエは髭をふるわせると、ことさらに胸を張ってルージュを見上げた。
「ふん、当たり前だ。半人前だけで放り出せるか。俺様が引率してやる。そっちこそ迷子になるなよ」
湖畔に立ったまま動かないルージュの足下をすり抜け、さっさと魔法陣の上に跳び乗る。
星空を映して輝く湖面。
銀色の魔法陣。
そして、湖面に降り立つ銀毛の双尾猫。
その光景を目の当たりにしたとき、唐突にルージュの中で何かが身じろぎした。
日本に帰れば、この光景ともお別れなのだ。
向こうでは魔法陣など何の意味もないし、湖の上に立つことなど不可能だし、そもそも猫はしゃべらない。
どれかひとつでも非常識で非現実的。世界の常識が全力でルーィエの存在を否定する以上、ルーィエは向こうの世界では生きられない。
「そっか。考えもしなかった」
向こうへ帰るということは、ルーィエと別れるということなのか。
ロードスで過ごした一夏。
もしルーィエが隣にいなければ、ルージュは今ここに立っていなかっただろう。
意識や五感を共有し、魂を分けあったとさえ言える相棒との別離。
心をちくりと刺した痛みに、ルージュは足を動かすことができなくなった。
故郷に帰りたい。それは間違いないこと。
だが自分はルーィエに、この世界のすべてに別れを告げられるのだろうか。
本当に行っていいのか。
向こうの世界に戻ってしまったら、何かが壊れてしまうのではないか。
だが、そんな心の迷いを、湖面に立つ双尾猫は軽く一蹴した。
「さっさと来いノロマ。その黄金樹を捨てに行くんじゃないのか? おうちが恋しいだけの子供じゃないなら、今の自分が何を為すべきか、常に頭に置いておけ。そんなんだからいつまでたっても半人前なんだ」
容赦なく尻を蹴飛ばす言葉に、ルージュの顔に苦笑が浮かぶ。
ルーィエの言うとおりだ。今はとりあえず、この黄金樹を始末すること。
それに、自分でカーラに言ったのではないか。“帰れない”のと“帰らない”のは違うのだ、と。
今はただ、選択肢を手に入れたことを喜べばいい。これからは、いつでも望んだときに《門》は開くのだから。
「そうだね、行こう」
ルージュもサンダルに包まれた足を踏み出し、湖の上に立つ。
ひとりと一匹を支えた魔法陣は、淡く輝くと、ゆっくりと来客を飲みこんでいった。
足首からふくらはぎへ、そして腰へと沈みながら、ルージュは祈るように目を閉じる。
前回も感じた軽い目眩。
今目を開ければ、もう景色は一変しているはずだ。
電線と高層ビルで切り取られた空に。
アスファルトとコンクリートで覆われた大地に。
だが、本当に?
もし違ったらどうしよう?
ファンタジー小説の世界から現実に帰ることなど、本当にできるのか?
訳もなく不安に襲われ、きゅっと強く目をつむったルージュの顔を、甘い排気ガスの臭いのする風が、かすめていった。
鉛色の夜空に街の明かりが反射し、うっすらと白く輝いていた。
雲がかかっている訳でもないのに、ほとんど星が見えない。
折り重なるようにして聳える高層ビル群では赤色の衝突防止灯が規則的に明滅し、街中に張り巡らされた道路に自動車のヘッドライトが連なる。
眼前に広がる世界は、さながら煌々と輝く光の海だった。
「この世界では、星を捕まえて明かりにしてるのか?」
唖然としてルーィエが尋ねる。
マナの力も、精霊の気配も感じられない虚無の世界。
それなのに、この不自然なまでの光の洪水は何としたことか。
「詩人だね」
甘い毒を含んだ風に髪をなぶられながら、ルージュはうっすらと微笑んだ。
喜び、懐かしさ、そして不安。
様々な感情がごちゃ混ぜになった不思議な気分で、排気ガスの臭いのする空気を胸いっぱいに吸い込む。
うれしいはずなのに、どこか漠然とした虚無感が胸にこびりついて離れない。
自分が何を感じているのか理解できないままに、けれど、たったひとつだけ間違いのない事実がある。
ルージュは、帰ってきたのだ。
シナリオ6『決断』
獲得経験点 5000点
今回の成長
ソーサラー 9→10(25000点)
経験点残り 0点