インターミッション5 ライオットの場合
ふと気づいたとき、ライオットは緩やかに波打つ闇の中をたゆたっていた。
何となく上下の感覚があり、肌は心地よい暖かさに包まれている。
耳元で流れる落ち着いた音色は、死んだ戦士の魂を導くという戦乙女たちの話し声か。
だとすれば、彼方に見える小さな光は“喜びの野”とやらの入口に違いない。
自分は生きているのか、それとも死んでいるのか。
それすらも判然としない世界の中で、ライオットはぼんやりと、思索の海に身を任せた。
死そのものに対する恐怖はない。
ただ、このまま死ぬのは嫌だった。
ルージュに、あるいはシンやレイリアに、やり残したことが多すぎたから。
ラスカーズたちを相手にした戦闘もそうだし、もっと大きな、未来とか将来とかいう視野で考えるべきものだってたくさんある。
それに何より、自分が死んだらルージュが悲しむ。
その事実はライオットにとって、自らの死それ自体よりも、はるかに重大なことだった。
自分のいない薄暗い部屋で、たったひとり、ルージュが膝を抱えて泣いている様子を想像すると、それだけで魂がざわつくような痛みを感じる。
「帰りたいな……」
ただただ皆に申し訳ないという陰鬱な気分で漂っていると、何か大きなものが近づいてくるのを感じた。
以前も2度、感じたことのある感覚。
ふつうなら緊張して萎縮するような圧倒的な存在だが、今はそんな気力は湧いてこない。
不肖の信徒が戦いに敗れたから、迎えにでも来たのか?
そんな投げやりな心境で、ライオットはため息まじりに言った。
「負けましたよ」
答えは闇を震わす意志の波動となって、すぐに返ってきた。
『敗北は忌避すべきことではない』
それだけの言葉に、様々な意味が付与されてライオットの中に流れ込んでくる。
真に忌避すべきは、戦いに背を向けて逃げること。
為すべきことを為さずに諦めること。
勝利を目指さず、ただ自暴自棄になること。
力を尽くした結果の敗北は、むしろ誇りと共にある。
それらのイメージを受け止めて、ライオットは弱々しく笑った。
名誉ある敗北も結構だが、その結果残されるのが家族の涙では、死んでも死にきれない。
不名誉でも逃げた方が幸せにできるのなら、逃げたっていいのではないか?
マイリーの司祭として教義を全否定するようなことを考えながら、ライオットは聞いてみた。
「やっぱり、私は死んだんですか?」
答えはすぐにあった。
『汝が望むならば、このまま“喜びの野”へと導こう』
ほぼ質問を肯定する言葉。
ただし前提条件、ライオットが『望むならば』だ。
マイリーの存在に、試すような、面白がるような雰囲気を感じて、ライオットの目の色が変わった。
要望が入る余地のある以上、生死はまだ未確定なのだ。
もう諦めかけていたルージュの笑顔が脳裏に浮かぶ。
失ったと思った未来に、今ならまだ手が届くかもしれない。
そう直感した瞬間、悩むより先に即答していた。
「じゃあ帰ります。帰してください。俺の戦いはまだ終わってないんです」
まだ終わっていない。
これからできることがある。
たゆたう闇に希望という名の灯がともると、疲弊しきった心に震えるような活力が湧いてきた。
もう一度あそこに立つことが許される。ならば今度こそ、いつ死んでも後悔のない生き方をしよう。
故人が“一期一会”という言葉で表現した心境。
そこへ至ったライオットが感じたのは、もう一度存在することが許されたことへの感謝だった。
結局、人はどこにいても同じなのだ。
どんな状況でどんな場所にいようとも、未来を決めるのは他人ではなく、自分自身の選択。
選択肢とは他人が並べてくれるものではなく、自分自身の目で探し出すもの。
『汝の戦いとは何か?』
マイリーの声が降ってくる。
いつかも聞かれた問い。あの時はシンと殴り合って一晩考えても、結局答えは出なかったのだが。
今、すべてを失う場に立ってみれば、答えなど考えるまでもなかった。
ライオットの望みは、ルージュを守ること。
彼女の願いを叶え、彼女の笑顔を見ること。
シンを助けること。
レイリアが安心して生きていける世界を手に入れ、親友とレイリアが幸せに暮らす姿を見ること。
もし自分とルージュに、あるいはシンとレイリアに子供が産まれたら、その子供たちだって守りたい。
そしてそれは、戦場で誰かを倒せば終わるような、そんな簡単なものではないのだ。
生きている限り、様々な困難や逆境は無限に発生し、戦いはずっと続く。
つまり、一言で表現すれば。
「生きることが、戦いです」
迷いなく断言したライオットに、マイリーは再び問いを投げかけた。
『汝の勇気とは何か?』
ライオットの脳裏に、鮮やかな光景が浮かぶ。
宮ヶ瀬湖のほとりで、初春の太陽をうつしたダイヤモンドの指輪の輝き。
そして、炭素の結晶などよりもっと眩しかった、ルージュの笑顔。
ライオットの生きる意味そのもの。
「勇気とは、戦うための力をくれるもの。誰かを大切だと思い、その大切な誰かを守りたいと願う心です」
その自信と確信に満ちた答えに、マイリーの気配が満足そうに身じろぎした。
最後の諮問が向けられる。
『汝が倒すべきものは何か?』
倒すべきもの。
ライオットが生き抜く上で、最大の障害となるもの。
それはつい先ほどの、道を踏み外しかけていた自分自身に他ならない。
「マイリーよ。さっき私は、負けたって言いましたよね。訂正します。今はちょっと不利だけど、まだ負けてない。諦めて白旗を揚げるまでは、戦いは終わってないんですから」
諦めたらそこで試合終了ですよ、と教える白髭の教師が、ホッホッホと笑った気がした。
人は剣を握ってしまうと、視野が狭くなるのだ。
目の前の敵を排除すれば勝ち。自分が戦闘不能になれば負け。そんな近視眼的なものしか見えなくなる。
だが、戦いとはそんな小さなものではない。
どうしてその敵と剣を交えているのか。どうなれば自分の望みを叶えることができるのか。
そこから目を離したら、ほんの一時の有利不利に目がくらんで、永遠に勝ちには手が届かなくなる。
「倒すべき敵は、隙あらば諦めよう、絶望しようとする己の心です。つまりさっきまでの俺自身です」
怠けようとしてもいい。
楽をしようとしてもいい。
だが、諦めることだけは許さない。
回り道でも休みながらでも、目指す目的地から目を離さないこと。それこそが戦いなのだ。
「とりあえず今、私は敵を倒しました。だから元の世界に帰してください。まだ“喜びの野”へは行けません」
『汝を意思を承認しよう』
マイリーの声は暖かく、大きく、波紋となって闇の中へ広がっていった。
周囲の空気が一変し“喜びの野”の光が消えていく。
同時に、まるで夜明けのように、頭上の“空”が黒から藍へ、そして青へと変じていった。
ルージュたちのところへ帰れるのだ。
勝ちも負けも関係なく、ただ帰れるという事実に無上の感謝と喜びを感じながら、浮遊感のもたらすままにひたすら上を目指す。
そんなライオットの背中に、マイリーが最後の言葉を投げかけた。
『汝は、我が祭祀を司る者である』
何を言われたのか心が理解するよりも早く、まるで水底から浮かび上がっていくように、意識の覚醒が始まった。
徐々に重くなっていく身体。
周囲の空気が粘り気を強め、瞼が引っ張られて開かない。
頭の芯がしびれるような感覚と共に、誰かが呼ぶ声が次第に大きくなってきた。
「……、…………、…………!」
体は動かずまだ眠っているが、五感が覚醒し、音の認識を始めたのだ。
耳に心地よい、聞き慣れた声。
ろくに動かない理性がルージュという名前と一致させたとき、ゆっくりとライオットの瞼が開いた。
目に入ったのは、耐水布でできた天幕の天井と、涙を浮かべて自分を見下ろす銀髪の佳人。
天幕自体はそう広くない。
視線を動かせば、ルージュの後ろにはシンも気遣わしげな顔を並べているのが見えた。
ライオットは右手を持ち上げ、拳を握ったり開いたりしてみる。
特に異常はない。身体はいつも通り、自分の思うがままに動いて痛みも支障もない。
「当たり前か。怪我で死にかけたわけじゃないもんな」
正確には右肩をラスカーズに貫かれたが、そこは誰かが治療してくれたらしい。
上体を起こすと、何かを言いかけたルージュを制し、ライオットはまずシンに問いかけた。
「バグナードたちはどうなった?」
「撃退した。いや、してもらったって言った方が正確だな」
めずらしく自嘲したシンに、ライオットが続きを促す。
シンは表情を改めて親友を見た。
「カザルフェロ戦士長が死んだ」
言葉は簡潔だった。
小さく息を飲んだライオットに、シンは淡々と告げる。
「お前が倒れた後、戦士長がラスカーズの相手をしたんだ。戦士長は我が身を犠牲にして時間を稼いだ。そこにボイル王とドワーフ戦士団が来て、バグナードたちは《転移》で逃げた。俺たちは何もできなかったよ」
あの奇襲に対応できなかったことを失策と呼びたくはないが、それでも、為すすべなく一蹴されたのは事実だし、そのツケをカザルフェロに払わせたのも事実。
人望といい能力といい、カザルフェロはターバ神殿にとってかけがえのない人材だったと言えるだろう。
その彼を、自分たちの無力のせいで死なせたのか。
どうしようもない罪悪感から苦労して目をそらすと、ライオットは質問を変えた。
「レイリアは?」
「司祭たちの取りまとめをしてる。今の神官戦士団には指揮官がいないからな」
ターバから来た増援部隊には、指揮系統がふたつ存在する。
ひとつは神官戦士団。もうひとつは随行してきた神殿の司祭たちだ。
今まではカザルフェロ戦士長が統括していたが、神殿の位階で言えば、残された戦士団の幹部よりも司祭たちの方が上になってしまう。
そこで戦士団の指揮は古株の戦士頭が、司祭たちの指揮は最上位の司祭であるレイリアが、それぞれ担当して合議することになったのだ。
「……ライくん。カザルフェロ戦士長はね、ソライアさんを守ったんだよ」
重苦しい空気に、ルージュがそっと口を挟んだ。
「人質にされたソライアさんを守れなかったから。もう二度と見捨てないって私たちにも約束したから。ソライアさんの心を閉ざしたのは自分だって責めてたから」
玲瓏な声にルージュの心が乗り、悲しい響きを奏でる。
「きっとカザルフェロ戦士長は知ってたんだよ。ソライアさんが、自分のことをずっと想い続けていたことを」
それを承知の上で、一度はレイリアを守るために見捨てざるを得なかった。
自分の行動がソライアの心にどれほどの傷を付けるか、カザルフェロは知っていたのに、彼には他の選択肢がなかったのだ。
ターバ神殿の戦士長として、邪教の司祭に“亡者の女王”の寄り代を渡すわけにはいかない。そんな当たり前の行動が、どれほど救いのない結末をもたらしたことか。
「ソライアさん泣いてた。まだ愛してるって言ってないのにって」
ルージュはやるせない吐息をもらした。
「……そうか。やっぱりフラグ発動しちゃったか。戦いの前に恋の告白を画策してたもんな」
ライオットは冗談めかして言ったが、これはさすがに不謹慎だろう。
厳しい表情を浮かべて、シンがライオットを睨む。
「言い過ぎだぞ」
しかしライオットは答えず、穏やかな微笑を浮かべてふたりを見上げた。
「俺さ、信じてたことがあるんだ。命の価値ってやつ。人は死んだら絶対に蘇らない。命はひとりにたったひとつしかない。だからこそ至上の価値のあるものなんだって」
自分の思いを、言葉は正確に表現できているか。
ライオットはそれを確かめるように、丹念に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だから俺さ、『人は死んだら蘇らない』っていう常識を、ゲームといえども捨てたくなかった。それが命の価値を守ることだと信じてたから。だから《リザレクション》とかいうふざけた魔法は許せなかったし、俺自身、プリーストを9レベルには上げたくなかった」
命はひとつ。決して蘇らない。
それはプレイヤー時代のライオットが、ゲームは所詮ゲームだと“思わない”ために、自分で自分に課したルールだ。
「でも俺、今回死にかけてやっと気がついたよ。そういう手加減は、ゲームだから許されるんだ。現実に“できるけどやらない”をひとつでも作れば、死ぬときに後悔でねじ切れそうになる」
事ここに至れば、ライオットが何を意図しているかは明らかだった。
シンとルージュの顔に希望の光が灯るのを見ながら、ライオットは力強く断言した。
「俺がカザルフェロ戦士長を《蘇生》させる。儀式が必要だ。レイリアとボイル王に言って、儀式に参加できる司祭をありったけ集めてくれ」
それは覚悟。
ライオットが、日本とは違う法則の支配する世界で“現実”を生きると決めた、覚悟の表明だった。
冒険者の司祭が、カザルフェロ戦士長の《蘇生》の儀式を行うそうだ。
その情報はまたたく間に鉄の王国に広まった。
知られている限り、このロードス島で《リザレクション》の奇跡を起こすことができるのはたったのふたり。ターバ神殿の最高司祭ニースと、ヴァリス神殿の最高司祭ジェナートだけだ。
もしこの冒険者が3人目であったなら、彼は六英雄に肩を並べるほどの実力者という事になる。
「かかる儀式をこの神殿で執り行えようとは。我が神殿始まって以来の晴れ舞台ですな」
魔神との決戦の翌日。
ボイル王に儀式の準備を命じられたドワーフの老司祭は、わずか1日でやりとげた仕事を前に、しみじみと述懐した。
聖堂内陣には臨時の祭壇が築かれ、カザルフェロの遺体が眠っている。
内陣から左右に広がる翼廊に居並ぶのは、儀式に参加する司祭たちだ。
鉄の王国のマイリー神殿から、老司祭を筆頭に15名。
ターバ神殿から来たマーファの随行司祭も、レイリア以下15名。
合わせて30名の司祭たちが、真剣な面もちでそれぞれの座についている。
聖堂には大勢の戦士たちが詰めかけていた。
信者たちが祈りの場とする身廊では入りきれず、左右の側廊にまであふれ、ひしめき合うようにして儀式を見守っている。
宗派も種族もバラバラだが、誰もが儀式の成功とカザルフェロの復活を願っている。もし人々の祈りが力になるなら、これほど力強い助けはない。
「うまくいくと思うか?」
身廊の最前列で、ボイルがシンに問いかけた。
「もちろんです」
シンの答えには寸毫の迷いすらない。
あのライオットが、やると宣言したのだ。
発言の中身がどうあろうと、言ったことは必ず成し遂げる。それだけは間違いない。
ざわめいていた地下の聖堂が静まり返ったのは、その時だった。
聖堂の大扉から、真新しい礼装に身を包んだライオットが姿を見せたのだ。
純白の長衣には金糸で縁取りが施され、腰には橙色の直垂が、肩には緑のマントが、ライオットの歩みに合わせてひるがえる。
ドワーフの職人が一晩で縫いあげた最高司祭の礼装は、ライオットの毅然とした歩みに、風格という名の装飾を見事に調和させていた。
「あれ、ホントにあいつか?」
「ライくんっていい服を着ると、ほんと見栄えするよね」
普段のミスリルプレートとはあまりにも違う印象に、シンとルージュが小声で感想を交わす。
そこにいたのは、悪戯とフラグ折りが大好きで、話を面白くするためなら自虐すら厭わない冒険者の戦士ではない。
ニース、ジェナートという伝説級の人物にさえ比肩しうる第三の導き手として、マイリー教団を背負って立てるほどの聖職者の姿だった。
ここまで盛大に準備し、ここまで注目を集めたからには、やっぱり失敗しましたでは済まされない。ライオットも人間である以上、想像を絶するプレッシャーに苛まれているはずだ。
それでもライオットは、万人の視線を受けながら臆することなく堂々と進んだ。
「あなたのような勇者が行う儀式へ参加できることは、我が信仰の中でも特筆に値すべき栄誉でしょうな」
神殿長をつとめる老ドワーフが、深いしわの刻まれた相好をくずし、満面の好意でライオットを出迎えた。
上位魔神を倒し、竜を滅ぼした勇者たちの勲は、たった一晩で鉄の王国全土に広まっている。
そのような勇者に力を貸せることも、そしてマイリー教団からついに《リザレクション》の使い手が輩出されたことも、老司祭にとっては素直に喜ばしい出来事だ。
「あなたの助力に感謝します。当神殿の協力なしでは、ここに立つことすら叶わなかったでしょう」
祭主という立場上、ライオットに謙遜は許されない。
あくまでも上からの目線を堅持したまま、それでも精一杯の感謝を込めた言葉を、どうやら老司祭は正確に受け取ってくれたようだった。
「すべてはマイリーのお導きですかな」
穏やかな微笑で応え、上座へとライオットをうながす。
祭主を補佐する侍祭の位置にいたのは、黒髪をまっすぐに下ろしたレイリアだった。
戦場でのことゆえ、どうやら礼装の準備は間に合わなかったらしい。清潔だが装飾のない純白の神官衣をまとい、ターバの代表としてライオットに一礼する。
「カザルフェロ戦士長のためのご尽力、感謝の言葉もありません。私ども一同、微力を尽くしてお手伝い申し上げます」
「戦士長のような勇気ある戦士に尽くすのは、マイリーの司祭としてこの上ない喜びです」
公の発言には公の返答を返す。
そしてライオットは、他人に見られないように背中を向けると、レイリアにひっそりと笑いかけた。
「大変だけど頼むよ。君の魔法がうまくいけば《リザレクション》の成功率は跳ね上がる。ダメだったら俺が何とかするけど、巧くいってくれるとありがたい」
「全力を尽くします」
レイリアは硬い表情でうなずいた。
ライオットを除いた司祭たちの中で、最上位は7レベルのレイリアだ。
ここがマイリー神殿であるにも関わらず、儀式の補助者にレイリアを指名したのは、純粋な技量を頼んでのこと。神殿の主である老司祭の顔は潰してしまったが、儀式の成功にはかえられない。
ライオットはふたりを従えると、法衣をさばいて祭主の座に立った。
聖堂に集まった数十人の司祭と、数百人の戦士たち。
その全員を前にして、朗々たる声で宣言する。
「私はマイリーの啓示を受けました。『汝は、我が祭祀を司る者である』と」
神殿において祭祀を司る者を、司祭と呼ぶ。
高位のプリーストは教団から司祭たるを命じられて、初めて神殿ひとつを取り仕切る権限を得る。
つまり司祭とは、神殿の長を示す単語でもあるのだ。
では、マイリーから直接司祭たるを命じられたなら、それは何を意味するのか?
ロードス全土の祭祀を取り仕切る権限を与えられたに等しいのではないか?
ライオットの言葉が浸透するにつれ、主にマイリーの信者たちのざわめきが大きくなってきた。
長年にわたって空位だった教団最高司祭の座。そこに就くべき人物が、マイリーに見出されたということではないか。
壇上に立つライオットが最高司祭の礼装をまとっていることも、信者たちの興奮に拍車をかける。
ロードスにおいてファリス教団やマーファ教団に比べて勢力の劣るマイリー教団が、ついに求心力の核となる英雄を輩出した。
しかもその英雄は、ドワーフ戦士団の目の前で“竜殺し”という偉業を成し遂げた最高の戦士なのだ。
うねるような熱気が沸き上がり、聖堂を支配しかけたとき、ライオットは右手を挙げてそれを制した。
熱は波が引くように静まり、続く言葉を待つ沈黙が降りる。
「私は最初の祭祀として、カザルフェロ戦士長の《蘇生》を望みます。皆さん、共に祈ってください。猛き戦神マイリーに、そして慈愛の女神マーファに。誇り高く戦い、そして散ったカザルフェロ戦士長の魂に、今一度の生をもたらすために」
ライオットの言葉で、聖堂に集まったすべての人々が祈り始めた。
祈る作法も願う言葉も様々だが、その想いはひとつだ。
人々の祈りは聖堂を包み、静謐と呼ぶにはあまりにも熱い空気が充満する。
ライオットの目配せを受けて、レイリアが大きく両手を広げると、祈りの“場”が形成された。
誰よりも強く《蘇生》を願うソライアの、そして大勢の司祭たちの祈りが集まり、大きな力となって“場”にそそぎ込む。
集まった想いは“力”そのものだ。
ひとりで支えきるには余りにも熱く、大きく、レイリアの制御を崩そうと激しく波打っては溢れ出そうとする。
「まだ全然足りないぞ。レイリア、もっと広げろ。司祭だけじゃなく、今ここにいる戦士たちの分も残さず拾い上げるんだ」
額にびっしりと汗を浮かべて法術を制御するレイリアに、ライオットが無理難題をふっかけた。
「無茶を言わないでください! これ以上は無理です!」
小声でレイリアが悲鳴を上げる。
ともすればこぼれ落ちそうになる力を引き戻し、壁を高く上げ、強く引き締めて、何とか制御するので手一杯なのだ。
現状維持すらおぼつかないというのに、これ以上の力をまとめられるわけがない。
「情けないこと言うなよ。カザルフェロ戦士長を助けたいんだろ? そのための想いの力がこれほど溢れてるのに、自分が制御できないからって、そんなみっともない理由でみんなの祈りを無駄にするのか?」
みっともなくてすみませんね!
でも無理なものは無理なんです!
私は、あなたやシンやルージュさんみたいな英雄とは違うんです!
レイリアは内心で悪態をつきながら、歯を食いしばって制御を強めようとする。
今まで、一番厳しいのはルーィエだと思っていたが、訂正だ。ルーィエの教育的指導など、ライオットのスパルタに比べれば春のそよ風の如しだ。
全身からふき出す汗が麻の神官衣を重く濡らす。
額から滴った雫が目にしみたが、それを拭う余裕すらなかった。
「ライオットさん、やっぱり私にはー」
負荷に耐えかねて意識が遠くなり、レイリアの口から最後の言葉が漏れそうになったとき。
ライオットが言った。
「レイリア。想いは力になるかもしれないが、力は決して想いにはなれない。今自分が託されたものが何だか理解しているか?」
託されたもの。
それはソライアの、ターバの司祭たちの、そして手伝ってくれるマイリー神殿の司祭たちの祈りの力。
レイリアが維持する“場”には大勢の司祭の祈りが集まり、濁流となって暴れ回っている。
それが何だというのか。
あまりにも激しい力に飲み込まれ、うすれていく五感。
レイリアの視界から色が消えかかったとき、その声は聞こえた。
『戦士長、どうしても聞いてほしい言葉があるんです! だから絶対戻ってきてください!』
悲痛なまでに鋭いソライアの声。
レイリアが弾かれたように親友を見ると、親友はひざまずいたまま、顔を伏せて一心に祈っていた。
『カザルフェロ。わしは鉄の王国を、おぬしはターバを守ると約したのではないか。仕事を放り出すにはまだ早すぎるぞ。ひとりだけ楽をしておらんでさっさと目を覚ませ』
秋の夕暮れのように落ち着いた声で呼びかけていたのは、ドワーフの老司祭だ。
魔神戦争が現実のものだった時代、肩を並べて魔神と戦ったふたり。共有した若き日の熱情までもが、祈りを通してレイリアに伝わってくる。
『戦士長、このままじゃソライアが可哀想すぎますよ。正直あなたには渡したくないけど、ソライアが望むんじゃ仕方ない。戻ってきてください。彼女を幸せにするために』
『はるばるターバから増援を招いておいて、我らの手落ちで指揮官に死なれたとあっては鉄の王国の名折れ。なんとしても蘇っていただきますぞ』
司祭たちの想いは様々で、ひとつとして同じものはない。それぞれの願いはそれぞれの強さで“場”の中を飛び回り、互いをかすめ、ぶつかり合っている。
祈りの“場”に取り込まれたレイリアの意識は、やっとそれに触れることができた。
『想いは様々。理由もバラバラ。だけど皆、カザルフェロ戦士長に戻ってきてほしいと願っているんですよね』
レイリアがふと考えると、それまで無秩序だった祈りの奔流に方向性が生まれた。
故人を現世に呼び戻したい。そう願うレイリアの意識に同意するかのように、祈りがレイリアに沿って流れ、渦を巻き始める。
レイリアは祈りの渦の中央で、ひとりひとりの祈りに耳を傾けた。
カザルフェロを好きだった者。
嫉妬していた者。
戦士長という看板しか見ていない者。
儀式の成功だって、ソライアのように我が身と交換でもと強く願う者もいるし、ダメでもともとという冷めた視点の持ち主もいる。
レイリアが全員の祈りに触れ、全員の願いを知ったとき、“場”に満ちる力は整然として、レイリアとともにあった。
「皆の祈りは、誰かがねじ曲げたり、押さえつけたりすべきものではなかったんですね」
大きく吐息を漏らして、レイリアは祭主の座を仰いだ。
驚きを隠しきれないライオットに、少しだけ誇らしげな微笑を向ける。
「司祭としてどうあればいいか、分かった気がします。私たちの役目は人々に祈りを教えることじゃない。人々の祈りに耳を傾けることなんですね」
「もう大丈夫みたいだな」
「はい。けれど、聖堂にはまだまだたくさんの人がいます。私は皆さんの祈りを聞いてみたいです」
レイリアが広げていた手を胸の前で組むと、祈りの“場”が急激に広がり、流れ込む力が激増した。
最前列で見守るボイル王やシン、ルージュの気持ちが伝わってくる。
後列で指揮官の帰りを待つ戦士たちの願いが、我先にと中に入ってくる。
だが、レイリアはもう揺るがない。
そのすべてに耳を傾け、受け入れて“場”の流れへと導いた。
聖堂に集まった人々すべての祈りの力は、今、聖堂内陣に螺旋を描いて保持されている。
力ずくで押さえつける必要などなかったのだ。
レイリアはただ、皆の言葉を聞き、祈りを捧げる先を案内するだけでいい。
「偉大なるマイリーよ……」
そして最後に、ライオットの言葉とともに、大いなる力に最後の一滴が加わる。
ライオットが祈り捧げた本音に、レイリアはくすりと笑った。
聖堂にいるすべての人々の中で、もっとも打算に満ちたライオットの思い。
だが同時に、それは唯一、カザルフェロが蘇った後の世界を向いた願いでもあった。
「勇気ある戦士の御霊を今、ここに喚び戻し給え」
レイリアが《パワーリンク》で集めた精神点の総量は、おそらく2000点を超える。
それを惜しげもなく天上に返しながら、ライオットは思った。
神が人々の信仰を力にできるという話は事実なのだろう。こんなにも分かりやすく数字で証明できるのだから。
ならば、神が人々の祈りに応えられることもまた、自明の理。
聖堂に集まったすべての人々の願いが、希望が、ライオットのつけた道筋を通って神の御下へと駆け昇っていく。
尊くも力強い祈りたちがマイリーに届くと、神の奇跡はすぐに地上に舞い降りた。
聖堂に神気が満ち、世界の色さえ変わった。
しわぶきひとつなく、誰もが無言で見守る中、黄金の輝きが粒となってカザルフェロ戦士長の亡骸に吸い込まれていく。
どくん、と、聞こえるはずのない鼓動が皆の耳に届いた。
血の気を失った肌に赤みが差し、カザルフェロの胸がゆっくりと上下を始める。
聖なる祈りの場であった聖堂に、歓喜と興奮がじわりと浸食してきた。
「奇跡じゃ……」
老司祭が震える声でつぶやいた。
そう。これは奇跡なのだ。
断じて魔法などではない。
奇跡を呼び起こしたのは聖堂に集った司祭や戦士たちの祈りであって、ライオットは単に祈りを案内したにすぎない。
その“事実”を誰よりも正しく知るが故に、ライオットは、蘇生の儀式の成功を意外なほど穏やかな気持ちで受け入れていた。
少し前の自分を罵倒したい気分だった。
生命の軽視などと、思い上がりも甚だしい。自分ひとりで何ができたものか。これほど大勢の人々の祈りがあったからこそ、神は応えてくれたのではないか。
「偉大なるマイリーは、皆さんの祈りをお聞き届けになりました」
蘇生の儀式を成功させた功労者たちに、ライオットは心からの賛辞を送った。
「誇ってください。聖堂に集まった皆さんの力が、カザルフェロ戦士長を喚び戻したのです」
聖堂に歓喜が爆発した。
歓声が何度も轟き、誰もが隣人と抱き合い、笑顔を交わす。
喧噪と興奮が支配する中、ソライアがカザルフェロに駆け寄った。
温かい手。無精ひげの浮いた頬。騒がしい周囲に迷惑げな眉。
生きている。
「戦士長! 起きてください! 戦士長!」
だが、その目が開くまで。
その口が自分の名を呼んでくれるまで、安心できない。
ソライアは両手でカザルフェロの手を握りしめると、何度も繰り返し呼びかけた。
「絶対聞こえてるよ」
少女に場所を譲り、傍らで見守りながら、ライオットは微笑んだ。
小さく首を傾げたレイリアに、自信たっぷりに断言する。
「だって、俺も聞こえたからさ。俺を呼ぶルージュの声が」
やがてソライアの声に揺り起こされ、カザルフェロの目が開く。
周囲を見渡し、お祭り騒ぎの中心に自分がいることを認識すると、カザルフェロはゆっくりと上体を起こした。
「……何なんだ、この辱めは?」
涙を浮かべて手を握るソライアからあえて目を逸らし、カザルフェロはライオットを見上げた。
「人は、大勢の人々に支えられて生きてるってことさ。それに、辱めはこれからだ」
ライオットの人のわるい笑みを遮るように、ソライアがカザルフェロの手を引いた。
様々な事情から罪悪感がわいてくるが、とりあえず謝罪しないことには話が始まらないだろう。
カザルフェロは腹を決めると、正面からソライアの顔を見た。
美しい少女だ。ただ造形が整っているだけではなく、まるで太陽のように生命を発散させる表情が、目を惹きつけてやまない。
「ソライア、あのときはー」
「愛してます」
ためらいがちに発したカザルフェロの謝罪を、ソライアの真剣な告白がかき消した。
迷いのあるカザルフェロと、全身全霊で必死に想いを伝えるソライアでは、言魂の持つ力がまるでちがう。
単刀直入に突きつけられた想いに圧倒されて、カザルフェロが返答に窮すると、ソライアはたたみかけた。
「愛してます、戦士長。5年前からずっと。私の気持ちは変わってません」
一息に想いを伝える。
そしてカザルフェロの目を見つめ、自分の言葉が相手に届いたのを知ると、ソライアは大粒の涙を浮かべて微笑んだ。
「言えた……」
最初の一雫がこぼれると、涙が止まらなくなった。
「戦士長、私、言えました。ずっと伝えたかったんです。でも見捨てられちゃうし、戦士長勝手に死んじゃうし、死んじゃったらもう何も言えないじゃないですか!」
ふてぶてしさが持ち味のカザルフェロも、さすがに少女の涙には勝てないらしい。
困惑し、自分の腕をソライアの背中に回すべきか悩んでいる様子を、ライオットは満足そうに眺めた。
「ずるいです。自分だけ勝手に私を守って、私は戦士長の仇も取れなかった。でもいいです、文句だけは言えましたから。そうだ、私、まだ仕返ししてない。戦士長、仕返ししていいですか?」
「ソライア、あなた告白したいんじゃないの?」
支離滅裂なソライアにレイリアが小声で助言する。
ソライアの声はよく通るから、この告白劇は大観衆の注目の的だ。せめて恥ずかしくない対応をと思ったのだが、残念ながら、ソライアの耳には届かなかったらしい。
「仕返しか。いいだろう。お前にはその権利がある」
平手打ちか何かが飛んでくるのだろう。
その程度なら安いものだ。カザルフェロがうなずくと、予想通り、ソライアの右手がひるがえった。
だが、想定した衝撃が来ない。
けげんそうに見上げるカザルフェロの頬に、ソライアの手が優しく添えられた。少女は祭壇に身を乗り出し、そっと顔を近づける。
「ちょ、ま、ソラ……」
「仕返しです」
瑞々しい唇が戦士長の口をふさぐと、聖堂の興奮は最高潮に達した。
8割の歓声と2割の悲鳴が交錯し、雰囲気が純粋な祝福から奇妙な混沌へと姿を変える。
潤んだ瞳で親友を見つめているレイリアに、ライオットは悪戯っぽく言った。
「羨ましいなら、シンにそう言えばいい。何なら俺から伝えてやろうか?」
「ライオットさん!」
レイリアが頬を染めて文句を言う。
だがすぐに、それがライオット流の照れ隠しであることに気がついた。
自分が導いた奇跡と、その結果伝えることができた想いの価値に、自分で感動してしまっているのだ。
ならば、仕返しにはいい方法がある。
レイリアは声と表情を改めると、深々と頭を下げた。
「ライオットさん、本当にありがとうございました。ターバ神殿と神官戦士団を代表して、心からお礼を申し上げます。ライオットさんがいなければ、今ごろ鉄の王国は魔神と化石竜に蹂躙されていたでしょうし、私は邪教の司祭に連れ去られ、カザルフェロ戦士長は亡くなったまま、ソライアも失意の涙にくれていたに違いありません。それもこれもすべてライオットさんのー」
「ごめん、俺が悪かった。それくらいで勘弁してくれ」
賛辞の連呼にたちまち根を上げ、ライオットが全面降伏の体で両手をあげる。
「しかしレイリアも言うようになったよな。初めて会った日は、箱入りのお嬢様の見本みたいだったのに」
「ひどい。私をこんな風にしたのは、シンとライオットさんじゃないですか」
ふたりは顔を見合わせると、やがて声を上げて笑った。
いくつもの失敗を乗り越えて、最後に笑うことができた。
今がどれほど貴重な時間なのか。ライオットが噛みしめるように味わっていると、レイリアが小声でぽつりと言った。
「でも、私が感謝してるのは本当なんですよ?」
「分かってる。ありがとう。君とシンがいるこの世界だから、俺は戻ってこれたんだ」
真剣な本音には、本音で返す。
それがライオットなりの礼儀だから、返した答えだったのに。
レイリアが浮かべた慈愛に満ちた笑顔は、今までに倍する威力でライオットの涙腺を刺激した。
心にじわりと熱いものが広がるのを感じて、ライオットはあわてて咳払いする。
ここはしんみりとする場面ではない。大団円は楽しい笑顔でなければならないのだ。
「まあ、あれだ。男は有言実行。ハッピーエンド以外は認めないって、常々言ってるしさ」
「ほんとフラグブレイカーの面目躍如だよね」
身廊の最前列から祭壇に上ってきたルージュが、ちらりとレイリアに視線を向ける。
「それとレイリアさん。ライくんにそういう笑顔向けないで。今度やったら意地悪するからね」
氷の魔女の一瞥にレイリアが震え上がると、周囲の司祭たちから笑いの声がはじけた。
英雄たちの交わす何でもない雑談が、白竜山脈の地下にとけていく。
この日、聖堂に満ちる笑顔とさざめきを最後に、ひとつの戦いが終幕を迎えた。
シナリオ6『決断』
獲得経験点 5000点
今回の成長
ライオット プリースト 8→9(12000点)
経験点残り 5000点
レイリア プリースト 7→8