シーン10 大隧道
ドラゴンのブレス攻撃は、精神抵抗判定に成功してもダメージが消失するわけではない。
打撃力が10下がり、クリティカルしなくなるとはいえ、依然としてレーティングに固定値を加えてのダメージロールが行われる。
そのダメージ値を削れるのは冒険者レベルによる減点のみ。ライオットが着ている鎧の防御力は30に達するが、ブレス攻撃に対する防御の役には立たない。
「だからさ! 毎ラウンド気軽に吐いてもらっちゃ困るんだよ!」
シンが渾身の力を込めた斬撃が、岩でできた竜の首筋に食い込んだ。まるで回避を考えず、ただ相手の防御を貫くことだけに集中した渾身の一撃だ。
白い燐光を発する刃は、硬い岩石の体を易々と断ち切り、化石竜の首に深い傷を穿つ。
生身の竜なら激痛で暴れ回ったことだろう。
だがライオットの盾に拘束された化石竜は、シンの存在などまるで意に介した様子がなかった。
シンは竜の背中に乗ったまま、内心の焦りを隠そうともせず、ひたすらに剣を振り続ける。
早く。
一秒でも早く。
今はとにかくこの竜を沈黙させることが、シンの果たすべき役目なのだから。
精霊殺しの魔剣は、鱗を砕き、筋肉らしきものを裂き、露出した延髄を両断する。
竜の足下ではボイル王以下のドワーフ戦士たちが助勢し、確実に胴体を削っている。
ルージュの《エネルギーボルト》とレイリアの《ホーリーライト》、それにルーィエの《バルキリージャベリン》までもが間断なく降りそそぎ、偽りの生命力を弱らせていく。
これだけのレベルの冒険者が集中攻撃しているのだ。効いていないはずはない。
だが化石竜はあまりにも巨大だった。
全長20メートルを超える巨体から、大人ひとかかえほどの岩が失われたからといって、何ほどのことがあろう?
生きた竜ならば、心臓を貫けば殺すことができる。
しかしストーンゴーレムと変わらぬこの頑丈な体の、どこをどう砕けば止めることができるのか?
いい加減にシンの焦りが臨界に達しようとしたとき、化石竜が何度目かの咆吼を上げた。
牙の並んだ口の中で、闇色の炎が燃える。何が起こるか考えるまでもない。
シンの中で何かが弾けた。
ライオットの信頼に応えられない自分への苛立ち。
攻撃がまるで効かないことへの焦燥。
そして、ひたすらライオットだけを狙い続ける化石竜への怒り。
様々なものが綯い交ぜになってシンの理性を蹴飛ばし、考えるよりも早く身体が動いていた。
「だから! ブレスは!」
化石竜の首筋を駆け上がり、頭頂部を蹴って高々と跳躍。魔剣を逆手持ちにして振りかぶる。
「やめろって言ってるだろ!」
全体重と渾身の力を込めて、シンは化石竜の上顎に剣を突き刺した。
精霊殺しの魔剣は上顎を貫通し、今まさに開かれんとしていた下顎まで一直線に縫い止めてしまう。
剣と足場を失い、ひらりと地面に舞い降りたシンを、ルージュの凄絶な微笑が迎えた。
「お帰りリーダー。次は全力でやるからもう近づかないでね」
今まではシンを巻き込むことを恐れて高位の呪文を使えなかったが、もう遠慮はいらない。
ルージュが見上げる視線の先で、牙の間から黒い炎が洩れだし、化石竜の双眸が戸惑うようにさまよっていた。
シンの魔剣で口を縫い止めたことで、多少の時間は稼げたらしい。
だがもう猶予はない。
「ライくんの精神点を考えたら、あれに10回も耐えるのは無理だよ。せめて5回。ぎりぎりうまくいっても7回が限度だと思う」
化石竜との戦闘を始めてから、ライオットが全部で何度のブレスにさらされたのか。
そして、もし手遅れになったら何が起こるのか。
ルージュは考えたくもなかった。
「だから、何が何でもこれで決める」
紫水晶の瞳に不退転の決意を浮かべて、ルージュは呪文を詠唱していく。
最後の勝負に選んだ魔法は、使い慣れた炎だ。それを光の封緘で取り巻く。
ザクソンで竜神の頭を消し飛ばしたとき、封緘は一重だった。それをさらに2つ追加。全部で三重になった封緘の中には、単純に言ってあの時の3倍のマナを注ぎ込める。
過剰なまでに達成値を上昇させた構成。これならたとえ“火竜山の魔竜”が相手でも、易々と防御を貫けるだろう。
だがルージュは満足しなかった。目的はダメージを通すことではない。一撃で相手を沈めることなのだから。
同じ構成をコピー。右に再配置。左に再配置。上に再配置。下に再配置。
まだだ。これでは全然足りない。
さらに、さらに再配置。全弾を確実に叩きつけるため、射角を調整し、軌道を調整し、射出タイミングを調整する。
隧道いっぱいに広がっていく設計図。幾何級的に増大する情報量に、脳の神経が焼き切れそうになる。
だが、この魔法にかかっているのはライオットの命。マージンを残した妥協などできないし、するつもりもなかった。
鬼気迫る表情で呪文に集中するルージュの姿は、この世界で初めて見せた、掛け値なしの本気だ。
とんでもないことが起ころうとしている。そう察したシンがボイルに警告を発しようとしたとき、すべての準備は整った。
達成値上昇プラス30、ダメージ確実化50倍、消費精神点4500点。この空前絶後の巨大魔術を、ルージュは恐るべき演算能力で構成し、世界に描ききった。
あとはマナを流し込み、絵図面を現実のものとするだけ。
「絶対にこれで終わらせるんだから! 黄金樹、お願い力を貸して!」
愛する人を救うために。
きゅっと目を閉じて願ったルージュの周囲に、激しく明滅する閃光が続々と生まれていく。
この中のたったひとつですら、人間の持つ魔力では到底手の届かない、神代の炎だ。
それが全部で50。
黄金樹の小枝は輝きを失い、その葉を散らしながらも、必要な力をルージュに提供しきった。
今、神話の力を手にしたルージュは、無数の輝きとともにあり。
世界は“力ある言葉”の到来を待つばかり。
「撃て! 半人前!」
ルーィエの鋭い叱咤。
紫水晶の瞳が見開かれ、化石竜の目を真正面に捉える。
桜色の唇から、叫ぶような詠唱が流れた。
『万物の根源たる“力”よ! 浄化の炎となれ!』
その言葉とともに、閃光が一斉に撃ち出された。
ひとつひとつがまばゆい輝きを放ちながら、まるで光の滝が逆流するように、破壊の波濤が殺到する。
隧道をうめつくす勢いで続々と華開いていく、直径6メートルの太陽たち。
空気の焦げる音が連鎖し、化石竜の咆吼をかき消した。
「者ども、巻き込まれるぞ! 引け、引け!」
空間が悲鳴を上げる音に頭上を仰ぎ、とんでもない魔法が発動したことを察して、ボイルが声を涸らして叫んだ。
度肝を抜かれたドワーフたちが転がりながら後退する
炸裂した炎には色すらない。ただ化石竜の身体を空間ごと削り取り、瞬時に蒸発、消滅させていく。
勢い余ったいくつかが竜を逸れて壁や天井をえぐり、隧道全体を震撼させた。頭上を覆う岩盤が不気味に鳴動し、シンの脳裏を崩落の二文字がよぎる。
この常識はずれな光景の正体は、ルージュの構成した封緘のひとつにあった。炸裂後に発動した第三の封緘が、まるで卵の殻のように破壊の力を内に封じ込め、乗数的に内圧を上昇させているのだ。
だが、連鎖爆発する究極の炎が同一空間に重なった瞬間、殻のひとつが乾いた音をたてて砕け散った。
解放された“力”の余波が、灼熱の暴風となって鎮魂の隧道を荒れ狂う。
砕けた封緘は、50のうちのたった1つ。
しかもルージュが立っている場所は呪文の効果範囲から遠く離れているにも関わらず、炎の魔法の直撃を受けたかのような熱風が襲いかかった。
炙られた白磁の肌は火傷を負い、銀色の前髪が先端から焦げて縮れていく。
喉を焼かれる痛みにあえぎ、苦しそうに目を細めながらも、ルージュは化石竜から目を離さなかった。
もしこれで駄目なら、すぐにもう一度だ。疲弊した精神は思考すらあやしくなっていたが、今、無茶を承知で踏ん張らなければ絶対に後悔する。
「マーファよ、護りの法円を!」
ルージュが悲壮な覚悟で黄金樹の小枝を握りしめていると、背後からレイリアの声が聞こえ、急に呼吸が楽になった。
淡く輝く巨大な障壁が現れて、暴力的な熱を遮断したのだ。光の護りはルージュやシン、それにドワーフの戦士たちまでもすっぽりと覆っている。
レイリアは法円を維持しながら、ルージュに微笑みかけた。
「もう大丈夫ですよ、ルージュさん」
「ありがと。ちょっと発動の後のダメージ封鎖が不十分だったみたい。威力を甘く見てた。けど今度は失敗しないから安心して」
形だけの笑みを返し、すぐに表情を消す銀髪の魔女に、レイリアはそっと首を振った。
「もう次はいりません。竜は永き眠りに戻りました」
少女の穏やかな声に、ルーィエが同調する。
「司祭の言うとおりだ。あの岩の化け物から、もう負の精霊力は感じられない」
隧道を荒れ狂う熱波が収まると、レイリアの張った守護の法円も溶けるように消えていく。
破壊の余韻が波紋となって薄闇の彼方に染みこみ、鎮魂の隧道は、ようやくその名にふさわしい静寂を取り戻した。
漣ほどの喧噪もない。
誰もが咳ひとつ漏らすことなく、ただ目の前のいびつな巨像を見上げていた。
ドワーフ戦士団を相手に猛威を振るった竜の亡霊は、首の付け根から上すべてと片翼を完全に失い、再び物言わぬ骸となって佇んでいる。
王国を滅亡寸前まで追い込んだ魔神はすでに亡く、魔神に操られた屍兵も、ターバの司祭たちによって1体残らず浄化された。
もはや、戦士たちが戦斧を向けるべき敵はどこにもいない。
勝ったのか?
戦いは本当に終わったのか?
現実をにわかには信じられず、誰もが武器を持ったまま立ち尽くし、動けずにいた、その中で。
たったひとりルージュだけが、ローブの裾をさばいて駆けだした。
その目に入るものはひとつだけ。
「ライくん!」
化石竜に向かって魔法の盾を構え、微動だにせず立ち塞がっている戦士に、一直線に飛び込んでいく。
あわてたライオットが剣と盾から手を離すと、ルージュは躊躇なくその胸に身体を投げ出した。
「ライくん、生きてるよね?」
震える声で問いかけながら、両手を夫の背中に回し、存在を確かめように力を込める。
「ちゃんと生きてるよね? あんなブレスに負けたりしてないよね?」
「当たり前だろ」
疲労の色こそ隠せないものの、笑みを含んだ穏やかな声が降ってきた。
「いつも言ってるじゃないか。俺はハッピーエンド以外認めないって」
無骨な手甲でよろった腕に抱き寄せられ、ライオットの暖かい指がルージュの頬を撫でる。
「君こそ、顔に火傷までして。髪なんか縮れてアフロになりかけだぞ。せっかくの美人が台無しだ」
ライオットが短く聖句を唱えると、暖かな光がルージュを包んだ。
熱を持った頬が白磁の色を取り戻し、光の粉がまとわりついて絹糸のような髪を修復していく。
ああ、この人は生きてるんだ。
ルージュの胸に安堵が広がる。
だがそれは、なぜかすぐに怒りへと変わった。
私がこんなに心配したのに、どうしてこの人は平然としてるの?
そんな理不尽な思いとともに、たぶん今は必要のない言葉ばかりが、口をついて出ていく。
「精神点ほとんど残ってないんでしょ。魔法なんか使わなくていいの! それより心配したんだからね。だいたい10ラウンドは保証するっていう計算が甘いよ。ドラゴンブレスの固定値は冒険者レベルだけで相殺できるほどー」
どうして。こんなこと言いたいわけじゃないのに。
暴走する感情を制御しきれず振り回されているルージュに、ライオットは一言。
「もう大丈夫だから」
そして、ライオットの指がルージュの細い顎にかかり、強引に上を向かされた。
文句を言おうと口を開きかけたとき、驚くほど近くにライオットの顔があった。
ロードスに来て初めて、ふたりの唇が重なりあう。
たったそれだけで、ルージュはあらゆる言葉を奪われてしまった。
魔法のように全身から力が抜け、そっと瞳が閉じていく。
力強い熱に抱かれながら、ルージュはようやく悟った。
そうか、私はこんなにも怖かったのか。
ライくんがいなくなってしまうことが、自分を見失うほどに不安だった。
だけどもう大丈夫。ライくんはここにいる。
私たちは間に合ったんだ。
全身から伝わってくる体温が、心を縛っていた不安をほどいていくのを感じる。
やがてゆっくりと唇が離れると、ルージュは静かに目を開けて夫を見上げ、莞爾と笑った。
「ライくん、無事でよかった」
妻が見せたその表情を、どう形容すればいいのだろう。
無垢で無防備で、心の全てを自分に委ねた笑顔。
紫水晶の瞳に浮かぶ涙に、ライオットの魂がふるえた。
今自分は、この腕で奇跡を抱いている。
自分が望む人と、同じ時を生き、同じ想いを重ねて同じ道を歩ける。
これが奇跡でなくて何なのか。
たとえ百回生まれ変わったとしても、今この瞬間を越える価値には、きっと巡り会えないだろう。
胸に湧き上がってきたものに目眩すら感じて、ライオットは視線を上げて明後日の方を向き、ぽつりと言った。
「心配させて悪かったな」
「ばか」
抱き合ったまま離れようとしないふたりに、シンが悪戯まじりの声をかける。
「せっかくの時間をじゃまして悪いんだけど、いくつか質問してもいいかな?」
「バグナードたちならいないぜ。2回目のブレスが消えた時にはもういなかった。《テレポート》で逃げたんだろ」
話がそれだけならあっちに行け、と言わんばかりにライオットが手を振る。
すると、シンの横にいたレイリアが微笑んだ。
「ルージュさん。ターバであの夜私が言ったことは、本当に見当違いだったんですね」
涙に濡れた目のまま、いささか気恥ずかしそうにルージュが顔を上げる。
「あの夜って、王都から帰った日のこと?」
ルージュがライオットと関係を持たないから、夫婦関係が破綻寸前だと指摘された日のことか。
「はい。こんなに嬉しいことはありません。どうかおふたりの未来に、マーファのご加護がありますように」
レイリアは心からの祝福を込めて印を結んだ。
そしていつか、自分とシンも。
そんな願いを込めてこっそり隣を見上げると、自分を見下ろす黒い瞳と目が合った。
何か言われるより先に、シンの腕をとって胸に抱く。
ライオットとルージュは正面から抱き合える関係だが、自分たちの気持ちはまだまだ未熟だ。手を取り合い、一緒に前を向いて進んでいくのがふさわしいのだと思う。
「レイリア?」
いつもと少し違う様子に、シンが怪訝そうに首をかしげる。
「ねえシン。私、思うんです。目に見える形だけを求めて、少し急ぎすぎてたんじゃないかなって」
大切なのは口づけを交わすという形ではない。
口づけとともに交わされる想いを育てることが、大切なのだ。
ライオットとルージュの絆に比べれば、自分たちの恋などおままごとのようなもの。
だから今は、これで十分。
言葉には出さなかった気持ちを、きっとシンは汲み取ってくれたのだろう。
「そうか」
シンはひどく優しい目でうなずき、そしてすぐに表情を引き締めた。
「お見事、と言わせてもらおうか。シン・イスマイール」
シンの天敵、カザルフェロ戦士長が、ひとりの女性司祭の肩を抱いて歩み寄ってくる。
「ここに来る前から分かってたことだがな。お前さんがいなければ全滅していた。礼を言う」
「あんたの指揮もさすがだったよ」
シンも素直に認めた。
大隧道の混乱を収拾したのは、ほとんど全てがカザルフェロの手柄だ。
シンやルージュが魔神討伐に向かったとき、大隧道は敵と味方、疑心暗鬼になったドワーフ戦士団と邪教の司祭までが入り乱れ、まるで収拾がつかない状況だった。
だが化石竜に集中攻撃を加える段では、ブレスの先にはライオットしか見えなかったのだ。
それはつまり、シンやボイルたちが犠牲度外視で「敵を倒す」ことに注力している間に、カザルフェロは戦闘の処理と混乱の収拾ばかりか、闇ブレスの巻き添えで倒れた戦士たちの手当までやってのけたことを意味する。
「で、その子はどうだ?」
カザルフェロに抱かれているのは、ソライア。
邪教の司祭ラスカーズに心を砕かれ、意思を失ってしまった少女だ。
大丈夫ではないことは見れば分かる。
ぼんやりと遠くを眺める瞳は、まるでガラス玉を填めたよう。
顔に表情はなく、腕はだらりと下がり、本当にただ立っているだけ。あれほど闊達だったソライアが見る影もない。
確かに死んではいないが、これではとても生きているとは呼べなかった。
「ソライア……」
レイリアが両手を取って握っても、親友の指には少しも力が入らない。
レイリアの脳裏に、あの日の記憶が蘇った。
最後の最後まで力の限り抵抗し、それでも力及ばず、ラスカーズの思うがままになぶられた屈辱と恐怖。
ソライアはラスカーズに2度殺され、しかも信頼するカザルフェロに見捨てられたのだ。心が受けた傷はレイリアの比ではないだろう。
それもこれも、亡者の女王の魂などという罪を背負った自分のせいで。
レイリアが自責の念に押しつぶされそうになっていると、その空気を粉々に砕くように、カザルフェロが呵々と笑った。
「おいおいレイリア。こいつを甘く見るなよ? ソライアはちゃんと自分の足で立てる。手を引けば歩けるし、目も耳も心も生きてる。大丈夫だ」
カザルフェロの手が力強く背中を叩くと、ほんの一瞬、ソライアが迷惑そうに目を細める。
「ちょっとばかり拗ねて殻の中に閉じこもっちまったがな。ま、そいつは俺の責任だ。俺が何とかするさ」
飄々とした口調で重大な決意を隠し、カザルフェロはにやりと笑ってみせる。
シン・イスマイールに言われるまでもない。
ソライアを守るのは自分の役目だ。もう二度と、ソライアを諦めるつもりはなかった。
「あんたがそう言うんなら、そうなんだろうな」
口で言うほど簡単ではない。それは本人にも分かっているのだろう。だがカザルフェロは、やると言ったことは必ずやる男だ。
シンが納得してうなずいたとき、《テレポート》特有の振動音とともに、予想もしなかった声が聞こえた。
「一度ならず二度までも見捨てておいて、そんな台詞が吐けるとは恥知らずにもほどがありますね、戦士長どの」
毒の雨が大地に染み込むように、心を容赦なく傷つける言葉。
シンが身構え、ライオットが反射的にルージュを突き飛ばしたとき、敵はすでに至近だった。
黒の導師と隻腕の騎士。
逃げ去ったと思われた邪教カーディスの使徒たち。
「ラスカーズ!」
シンの右手が背中の鞘に伸びる。
が、あざけるようなラスカーズの視線の先で、シンは凍りついた。
剣がない。
精霊殺しの魔剣は、化石竜の口を串刺しにした後、ルージュの魔法に巻き込まれて行方知れず。
むなしく空を切った右手をどうすることもできず、シンの混乱がごくわずかな空白を生む。
その一瞬が命取りだった。
『万能なるマナよ、雷の縛鎖となれ!』
飛来した青白い網がシンに絡みつき、全身を電撃で縛り上げた。
「ぐぅぅッ!」
後方に弾かれ地面に倒れると、噛みしめた奥歯の間から、殺しきれなかった悲鳴が漏れた。
雷に焼かれる肌から血がにじみ、血と肉の焦げる臭いが広がる。
「シン!」
レイリアが即座に駆け寄って癒しの魔法を唱え始めた。
だが、足りない。
バグナードの強力な魔力で与えられるダメージは、レイリアの魔法による治癒速度をはるかに上回っている。このままでは時間の問題だ。
「ルージュ! 解呪だ!」
せめて剣だけでも拾おうと、右手を伸ばしながらライオットが叫ぶ。
敵を前にして身を屈めるなど自殺行為だが、ラスカーズもまだ剣を抜いていない。
今はリスクを犯しても、とにかく時間を稼がなくては。
そう判断したライオットが炎の魔剣に手をかけたとき、誰かが白銀の刀身を踏みつけた。
「あなたが言ったのですよ? 私は邪教の司祭だから、剣も魔法も使うと」
反射的に顔を上げると、手袋に包まれた指が額に突きつけられる。
「Zalts」
薄く嘲ったラスカーズの唇が、聞いたこともない音節の神聖語を紡ぎ出した。
指を通して伝わった波動が脳を揺らす。
闇ブレスとまったく同種の衝撃に、疲弊しきったライオットの精神は耐えられなかった。
細い木が洪水に押し流されるように、意識が奔流の中に飲み込まれていく。
「くそ……」
勝ち誇ったラスカーズの笑みが、幽くなっていく視界の中に霞んだ。
立たなければ。
解呪する時間を稼がないと。
その思考を最後に、ライオットの意識は闇に落ちた。
全身から力が抜け、ゆっくりと傾いて地面に崩れる。
「ライくん!」
ルージュが悲痛な声を上げたが、完全に意識を失ったライオットは、もはやぴくりとも動かなかった。
「おやおや、ずいぶんとお疲れのご様子ですね。戦闘中だというのに寝てしまわれるとは。あの化け物との遊びが過ぎたのではありませんか?」
シン・イスマイールを倒し、ライオットを倒し。あふれる笑みを抑えることができずに、ラスカーズが喉の奥を鳴らした。
「遊びが過ぎるのはそなたの方だ、ラスカーズ卿。無駄口を叩かずに早く残りを殺せ」
高位の魔術を連発し、全身を駆け巡る激痛に顔をしかめながら、バグナードが低い声で促す。
顔色から察するに、アルトルージュ皇女と使い魔のツインテールキャットは、化石竜との戦いで疲弊して気力を使い果たした様子。
無理をすれば雷の縛鎖を解呪する程度はできようが、破壊の魔術を使う余裕はないはず。ここまでは計算どおりと言える。
「承知」
獲物を狙う毒蛇が鎌首をもたげるように、ラスカーズがゆらりとレイピアを抜き。
電光石火。
剣尖が、もっとも手近にいたソライアに襲いかかった。
柔らかい女の肉を貫く感触を想像して、ラスカーズの顔に狂った笑みが浮かぶ。
ルージュとレイリアは一歩も動けず、ただ凄惨な未来を予見して言葉を失うばかり。
だが響いたのは、少女の悲鳴ではなく、鋼同士が打ち合う重い響きだった。
「残念だったな。だがこれ以上はやらせん」
寸前でレイピアを打ち払ったカザルフェロが、犬歯を剥き出しにして獰猛に笑う。
その顔は野生動物そのもの。我が子を襲われ、決死の覚悟で天敵に牙を剥く親の姿だ。
右手には長剣を。
左手には、峰に凹凸のついた小剣を逆手に持ち、カザルフェロはソライアの前に立ちふさがる。
「ゴミが……邪魔だてするな!」
まるで眼中になかった格下に邪魔され、ラスカーズの顔が怒りに染まった。
瞬時に剣を引き、今度は目の前の男に向かって迅烈な刺突を打ち込む。
シン・イスマイールをも傷つけた必殺の一撃だ。この程度の田舎剣士では、剣筋を見ることすら叶うまい。
ラスカーズの剣はカザルフェロの二刀を苦もなくかいくぐると、容赦なく左胸を貫いた。
傷つけられた肺から大量の血が逆流し、咳こんだカザルフェロの口から溢れる。
「貴様ごときが私の前に立とうなどと」
不遜極まる。
ラスカーズが冷笑とともにレイピアを引き抜こうとしたとき、カザルフェロが血まみれの口で笑った。
「おいおい、ちょっと待てよ」
右手の長剣と左手の小剣で、自らの胸を貫く細い刃をはさみ、抜かせまいと押さえつける。
「ほう?」
単に即死しなかっただけで、間違いなく致命傷のはず。
それでも動けるのは称賛に値するが、最後の力を振り絞るにしては、あまりにも意味のない行動ではないか。
ラスカーズがわずかに眉を上げたが、カザルフェロはそれ以上の時間を与えなかった。
小剣の峰に刻まれた凹凸でレイピアを咥えると、残された力を込めて思いきり捻る。
もとよりレイピアは突くことに特化した細剣だ。“刃を折るための剣”が相手では勝負にもならない。
鈍くこもった音をたてて、ラスカーズの刃は根本からへし折れた。
刃のほとんどをカザルフェロの胸に埋めたまま、握りこぶし2つ分を残して折れたレイピアを、美貌の騎士が無表情に眺める。
最後の力を使い果たしたカザルフェロが、霞む目で会心の笑みを浮かべた。
これほどの実力差があるとは想定外だったが、それでも敵の唯一の武器を奪ったのだ。悪い取引ではないはず。
どんどん狭くなっていく視界。世界から色と音が遠ざかり、自分の意識が軽くなっていく。
視界の隅でルージュが雷の縛鎖を解呪したのを見て、カザルフェロは呼びかけた。
「ふん……シン・イスマイール、あとは任ー」
「その名をほざくな!」
とたんに悪鬼の形相を浮かべたラスカーズが、折れた剣を一閃、カザルフェロの喉を切り裂いた。
末期の言葉は生命の灯とともにかき消され、力を失った手から2本の剣がすべり落ちる。
高くあがった血の間欠泉も、心臓の停止とともにすぐに止んだ。
あまりにも一方的で凄惨な最後に、誰もが言葉を失う中。
「……何それ?」
目の焦点を失ったままの少女が、ぽつり、とつぶやいた。
胸を貫く刃。
半ば断ち切られた頚部。
そして、非業の死にも関わらず満足そうな表情。
あらゆる活動を停止したカザルフェロの肉体が、力なく大隧道に横たわっていた。
「勝手に見捨てて。勝手に助けて。挙げ句の果てに、勝手に死んじゃうの?」
能面のようだった顔に、少しずつ表情が戻ってくる。
「殺しても死なないような男だったくせに、こんなにあっさり死なないでよ。私よりレイリアが大切だから、私を見捨ててでも守るんじゃなかったの? 邪教の司祭がまだここにいるのに、見捨てたはずの私をかばってどうするのよ?」
悪い夢を見ているようだった。
邪教の司祭に2度も喉を裂かれ、上司に見捨てられ、そして何故か、自分を見捨てたはずの上司に手を引かれて大隧道を走り回った。
屍兵を浄化し、闇のブレスから逃げ遅れた戦士たちを避難させて治療し、その光景をソライアはどこか遠くから他人事のように眺めていた。
「冗談じゃないわよ。私、まだあなたに理由聞いてない。まだあなたに文句言ってない。まだあなたに仕返ししてない」
自分の“死”に割り込んだカザルフェロの背中から、細い刃が生えてくる光景が脳裏から離れない。
白銀の刃を伝った深紅の滴が、点々と地面に落ちる音が耳から離れない。
「まだあなたにありがとうって言ってない。まだあなたに恩返ししてない。やりたいことだって、話したいことだってたくさん残ってる」
カザルフェロの名が呼び起こす思い出は、どれも苦しい記憶ばかり。
だが、それでもよかった。
ソライアの声に振り向いて顔を見てくれるなら。あの低い声で自分の名を呼んでくれるなら。
それだけで十分だった。
なのに今はもう、どんな言葉も、どんな想いも届かない。
「私、まだあなたに愛してるって言ってないのに!」
ソライアの悲痛な叫びは、現実と心を隔てていた分厚いガラスを、粉々に叩き割った。
まるで麻酔から覚めるように、身体の隅々まで意識が行き渡る。
カザルフェロ戦士長が死んだ。
それも自分の目の前で。
その単純な事実が、ようやく現実のものとしてソライアに落ちてきた。
「絶対に許さない」
ソライアは燃える瞳で、目の前に立っている邪教の司祭を睨みつけた。
「許さなければどうします?」
「死んでもらうわ。カザルフェロ戦士長が死んだのに、あなただけ生きてるなんて納得できないもの」
ソライアの言葉を聞いて、ラスカーズの笑みが大きくなる。
「それがあなたにできると?」
「悪いけど、そのきれいな顔はぐちゃぐちゃに潰させてもらうわよ」
そう言ってソライアが取り出したのは、予備に持っていた近接戦闘用の戦鎚だ。
剣のように急所を一撃とはいかないが、重量に任せて相手に叩きつけるだけという扱いの平易さは、技量の差をいくらか補ってくれるだろう。
「安心して。私だけ生き残ろうなんて虫のいいことは言わないから。マーファの御元に行かなきゃカザルフェロ戦士長に会えないんだったら、もう未練なんて何もないし」
長い眠りから醒め、過酷な現実を突きつけられたソライアは、さっぱりとした表情で戦鎚を構えた。
「ラスカーズ、お前の相手は俺だ」
癒しの魔法でかろうじて持ち直したシンが、ふらつく足取りで前に出た。
ルージュの解呪まで時間がかかり、雷に受けたダメージは計り知れない。
電撃で痺れ、違和感の残る手足。
それをごまかしながら素手で身構えるシンに、すっとレイリアが寄り添った。
「私もお相手します」
この中で気力体力に最も余裕があるのはレイリアだろう。
凛とした気迫は清冽で、端然と小剣を構える姿も以前とは違う。
シンに対する信頼と、自分に対する自信。
この人と共にあれば大丈夫という揺るぎない確信が、今のレイリアに力を与えている。
自分の前に立った3人の男女を等分に眺めながら、ラスカーズは肩をすくめた。
「導師様?」
「魔術の援護は1度きりと言ったはずだがな。卿が遊んでいるからこうなる」
背中に返ってきたバグナードの返答はにべもない。
バグナード自身、2度も化石竜のブレスを浴びて気力には余裕がないのだ。
「それは失敬」
剣を折られた騎士と、魔法の使えない魔術師。普通に考えれば撤退以外の道はない。
だが今、状況は敵も同じなのだ。
シン・イスマイールは雷の縛鎖で焼かれて満身創痍の上、剣を失って徒手空拳。
焼かれた傷は魔法で癒したようだが、電撃で麻痺した筋肉は痙攣を繰り返す。しばらくは繊細な動きなどできないだろう。
それは、あの魔法を実際に味わったラスカーズが一番よく知っていた。
レイリアともうひとりの少女は、そもそも対等の敵として考慮に値しない。
そして後方に下がった敵の魔術師は、蒼白な顔で立っているだけだ。あれだけ疲弊すれば魔法など使える状態ではないはず。
正面から戦っても、今なら問題なく勝てるだろう。
剣さえあれば。
ラスカーズが珍しく悩みを見せた。
剣なしでも勝てぬとは思わないが、時間はかかる。だがここは敵地だ。時間をかければ当然。
ちらりと横を見ると、予想どおりのものが目に入り、ラスカーズは軽く一歩跳びのいた。
「我が王国で、これ以上の狼藉は許さぬ!」
ボイルの鋭い声と、鈍く空気をかき分ける音。
一瞬前までラスカーズが立っていた場所に巨大なハルバードが飛来し、重々しい地響きをたてて突き立つ。
その刃が完全に地面に埋まっているのを見て、ラスカーズの秀麗な頬が苦々しげに歪んだ。
どれだけの膂力があれば、持ち上げるのがやっとというハルバードを、これほどの威力で投擲できるというのか。
力任せの武芸は決して美しくなかったが、脅威であることには違いない。
「邪教の司祭だそうだな。おおかた、この魔神騒ぎも貴様らの仕業であろう。その首をはね飛ばして、戦士たちの墓前に手向けてくれる」
ボイルが率いてきた戦士たちが、ラスカーズとバグナードを包囲する。
どうやらここまでらしい。自分たちを取り巻いた戦斧の壁を眺めながら、バグナードは苦々しく認めた。
形勢が逆転したことは明らかだ。ここは敵地。正体が露呈した時点で分が悪すぎる。
どこから計画の歯車が狂ったのだろう?
魔神の持つ黄金樹の枝に驚いて、ドワーフ側に手を貸しすぎた時か。それとも、化石竜の出現を予想できず、無防備に打撃を受けたときか。
「導師様」
珍しく冷静なラスカーズに、バグナードはうなずいた。
「潮時であろうな」
バグナードでは対抗する術すら思いつかなかった上位魔神を、シン・イスマイールは苦もなく捻り潰した。
化石竜には多少苦労したようだが、その化石竜もライオットひとりに拘束され、最後まで防御を貫くことができなかった。
どうやら、上位魔神がいれば彼らを倒せると思った前提自体、間違っていたらしい。
「では?」
「戻るとしよう」
転移の魔術を準備しながら、ちらりと敵の姿を見る。
今回も負けだ。
だが、得るものがなかったわけではない。
倒れたままのライオットを一瞥すると、バグナードは魔術師の杖を掲げた。
全身を万力で締め上げられるような激痛に耐えながら、呪文を詠唱していく。
無言で見逃すドワーフ族の王。
よろめきながら立つ砂漠の黒獅子と、それを支える転生体の少女。
安堵の表情を隠そうともしないアルトルージュ皇女と、険のある目つきでにらむツインテールキャットの使い魔。
「ちょっと待ちなさいよ! 逃げる気?!」
その中でたったひとり、ラスカーズに殺されかかった名も知らぬ少女がいきり立つのを横目に、バグナードは最後の一節を唱えた。
黒の導師と隻腕の騎士の姿が、今度こそ隧道から消え去る。
「どうして逃げるのよ!」
敵の残滓を求めるように、ソライアが戦鎚を振り回した。
「私と戦いなさいよ! カザルフェロ戦士長だってかなわなかったんだから、私を殺すのなんて簡単なはずでしょう!」
ドワーフ戦士団がつくった包囲網の中で、ソライアは激情を発散するように叫び、暴れ、やがて力なく膝をついた。
「どうして? カザルフェロ戦士長が犠牲になったのに、どうして私なんかが生き残ってるの?」
「己を卑下することは許さぬ」
黙って少女の傷心を見守っていたボイルが、そこは許容できぬと口を開いた。
「カザルフェロ戦士長は戦士として強敵と戦い、力及ばず討ち死にしたのだ。見事な最後であった」
威厳と敬意にあふれた声に、ソライアが顔を上げる。
ボイルは厳しい表情で少女を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「分かるか? カザルフェロ戦士長はそなたを守るために戦った。そなたには、戦士長が犠牲になるほどの価値があるのだ。それを自ら卑下してどうする? 戦士が命を懸けて守ったものを貶すことは、戦士の死に様を貶すことと同じだ。他の誰が許そうとも、わしは断じて許さぬ」
「だけど私は……」
何もできなかった。
ただ見ていただけ。ただ怒っただけ。
戦士長を手伝うことも、癒すことも、仇を討つこともできなかった。
カザルフェロと引き替えにできるほどの価値なんてないのに。
「ならば、磨け」
言葉にならない言葉を聞いて、ボイルの声が柔らかくなる。
「戦士長の魂に恥じぬよう、己を磨いて価値を高めよ。いずれそなたが神の御元に召され、戦士長と再会したときに胸を張れるような生き様を見せよ。それが戦士長への礼儀であろう」
140年の齢を重ねてきたボイルの言葉は、膝をつき、うなだれたソライアの心に染み込んでいく。
この日、カザルフェロの血とソライアの涙を最後の犠牲として、戦いは終わった。
ドワーフ族の戦死者144名。
ターバ神殿の戦死者1名。
勝利と呼ぶにはあまりにも後味の悪い余韻が、鉄の王国に広がっていた。
シナリオ5『決断』
MISSION COMPLETE
獲得経験点
化石竜/ドラゴンゾンビ(モンスターレベル10)
10×500=5000点