マスターシーン
最初は、倒れた戦士たちが目を覚ましたのかと思った。
虚ろな顔なのは、まだ朦朧としているだけなのだと。
ひとりひとり死亡を確認するという陰鬱な作業の中、生き残りがいたという喜びに胸を暖かくしながら、レイリアは穏やかに声をかけた。
「大丈夫ですか? どこか痛みませんか?」
だが、差し出した腕を掴んだ、その手の冷たさ。
よだれを垂らした口元から薄気味の悪いうめき声がもれるに至って、さすがのレイリアも悟らざるを得なかった。
もうこのドワーフには、知性と呼ばれるものは残っていないのだ、と。
反射的に腕を引き抜く。
掴まれていた亜麻布の神官衣が肩口から裂けた。
天幕に響いた甲高い音に、別の犠牲者を看ていたカザルフェロやソライア、立会人として同行していたドワーフ戦士たちの視線が集中する。
「何をしておるか!」
無礼を叱責しようとドワーフ戦士のひとりが詰め寄ると、それが合図となって、横たわっていた骸が一斉に動き始めた。
決して狭くはない安置用の天幕に、この世ならぬ者どもの怨嗟が反響する。横たわっていた死体が緩慢に起き上がろうとする光景は、まるでこの世の終わりのようだった。
その数、全部で12体。
「……ッ!」
足首に感じた冷たい感触に、ソライアはおそるおそる足下を見下ろす。
確かに死んでいたはずの骸が、半身をひねって自分の足首を掴んでいた。赤く光る目が邪悪に笑ったように見えたのは気のせいか?
理屈を超えた恐怖で全身の肌が粟立ち、ソライアは声にならない悲鳴を飲み込んで立ちすくんだ。
ゴブリンやコボルトならばダース単位で成敗してきたが、こんなおぞましい感覚は初めてだ。
どうしていいか分からない。自分に何ができるのか分からない。
どうしよう?
どうしよう?
どう……
「ソライア! しっかりしろ!」
鋭い叱声が耳を打つ。
カザルフェロが鉄を仕込んだブーツでドワーフの手首を踏みつけた。骨の砕ける音がして拘束が解ける。
「戦士長……」
「そんな情けない声を出すな! とにかく天幕から出るぞ、お前はレイリアを守れ!」
ソライアを背中にかばいながら、カザルフェロはじりじりと壁際に後退していった。
すかさずドワーフ戦士たちが前面に壁を作る。
だが護衛の戦士は相手の半数にも満たないばかりか、激しく動揺して戦闘どころではない様子だ。
虚ろな目、半開きの口、緩慢な動作など、見れば屍兵であることは明らか。
しかし同時に、彼らはついさっきまで肩を並べて戦っていた仲間でもある。
鎧にも体にも傷ひとつついていない。死を連想させるような出血も皆無。冗談だ、と言って笑えば、すぐにでも今までどおりの日常が戻ってくるような姿なのだ。
そんな仲間に問答無用で戦斧を叩きつければ、取り返しのつかないことになるのではないか?
戦士たちの葛藤がもたらした、ほんの数秒の停滞。いったい誰がそれを責められるだろう。
だが、彼らの逡巡が貴重な時間を浪費したこともまた、非情な現実だった。
さながら砂浜に押し寄せる波のごとく。
距離をゼロに縮めた屍兵たちが、そのままドワーフ戦士たちを混戦の渦中に飲み込んだ。
「こら、やめぬか!」
「目を覚ませ! 魔神ごときに操られるでない!」
必死に呼びかける声は何の役にも立たなかった。
屍兵は身体ごとぶつかるようにして掴みかかり、涎を引く口で喉笛を食いちぎろうとする。
渾身の力で相手を押さえ込む戦士に、横から別の屍兵が腕を振り下ろすと、鉄兜が弾け飛んで額から血が流れた。
天幕に怒号と呻きが交錯する。
生彩を欠く戦士たちが苦戦する様子を見て、耐えられなくなったレイリアが言った。
「戦士長! 《ターン・アンデッド》します!」
胸の前で片手を握って前に出ようとするレイリアを、カザルフェロは即座に止める。
「やめろ。全部調伏できればいいが、恐慌状態になって暴れられると厄介だ。よけいな手出しはせずにドワーフ戦士団に任せる」
「ですが……」
「やめろと言ったぞ」
あえて厳しい口調を叩きつけると、レイリアはようやく引き下がった。
少し前までは素直な性格だったが、最近は芯の強さを前面に出しつつある。
理由は考えるまでもない。カザルフェロはレイリアが変わった原因である、黒髪の冒険者を思い浮かべて舌打ちした。
確かに、この場を切り抜けるだけでいいなら《ターン・アンデッド》は十分に有効だろう。
だが、問題はその先だ。
魔法で恐慌状態に陥った屍兵が部下たちを襲えば、カザルフェロは剣を抜いて相手せざるを得ない。
そして、ターバの戦士が剣で斬り倒した死体がひとつでも残れば、取り返しのつかない結果を招くだろう。
外では大勢のドワーフが仲間の無事と治療の成功を祈っているのだ。
中で戦う護衛の戦士たちも、相手を傷つけずに無力化しようと必死の努力を続けている。
そこでカザルフェロが血まみれの剣をぶら下げたら、ドワーフたちはどう感じるのか?
いま一番有効な策が、最良の未来を招くとは限らない。
レイリアにはそれを理解してもらいたかったが、残念ながら説明している余裕はなかった。
カザルフェロは腰の長剣を抜くと、ためらわずに天幕の壁に振り下ろした。耐水性の強靱な布が斬り裂かれ、大きな出入り口が出現する。
「こっちだ! とりあえず外に出ろ!」
乱戦を繰り広げる護衛のドワーフ戦士たちを、大声で差し招く。
無傷で制圧したいなら、最も簡単なのは数で圧倒することだ。外に出れば味方はいくらでもいるのだから、何も不利な状況で戦い続けることはない。
「レイリア、お前は先に出て応援を集めろ。ソライアはレイリアから離れるなよ」
「わかりました」
「はいッ!」
レイリアが、裾をひるがえして天幕の裂け目から飛び出した。
まず目に入ったのは、驚愕もあらわに見つめてくる2人のドワーフだ。
レイリアは知る由もないが、この2人こそ、昨夜の強襲戦でめざましい活躍を見せたドワーフ族冒険者だった。
「なんと……!」
冒険者のひとりが、片袖のちぎれたレイリアを見て絶句する。
また年若いのだろう。ドワーフ族のアイデンティティである髭は薄く、腹周りもスリムに引き締まっている。
とはいえ、彼は上位魔神と戦って生き残った技量の持ち主だ。鉄鎧と両手斧で武装した姿には、実力にふさわしい風格が漂っていた。
もうひとりは戦神マイリーの司祭らしい。
ドワーフにはあまり見られない黒髪。鎧ではなく神官衣をまとい、手には複雑な意匠の錫杖を携えている。
あくまでも肉体が資本と考えるドワーフ族にしては珍しく、頭脳労働専門の魔術師のような印象だ。
「これはこれは」
司祭は落ち着いた口調だったが、黒い瞳が鋭く光り、相方の戦士に意味ありげな目配せをする。
戦士はうなずくと、レイリアに言った。
「ともかくこちらへ。我らがお守りいたします」
穏やかで礼儀正しい態度。
真摯な表情。
彼は味方だ。どこにも不審な点はない。
そのはずなのに、なぜだろう?
両手を広げた戦士を前にして、レイリアの足は動こうとしなかった。
シーン8 大隧道
大隧道全体を揺るがすような振動が断続的に襲い、きしんだ天井から土埃が降ってくる。
突然の変事に右往左往するドワーフたち。
事態は明白だ。隧道に閉じこめられた魔神が、あるいは化石竜でもよいが、ともかく敵が瓦礫の破壊を始めたということ。
「どうする?」
混乱する戦士たちの中を駆け抜けながら、ライオットが短く問う。
シンの返答は明快だった。
「まずはレイリアと合流だ。後ろで屍兵が暴れ出したなら、安全な場所なんてどこにもない。全部片づくまで一緒に行動する」
「けど巧くいかないね」
真銀を編み込んだローブをなびかせて走るルージュが、やれやれと小さく笑う。
「お前らが未熟なだけだろうが。敵にも知性があって、独自の行動をとるっていう認識がすっぽり欠けてるんだ。敵がちょっと動いたくらいで瓦解する策なんぞ、穴だらけで使えたもんじゃない。これで分かっただろう」
ルージュと並んで音もなく駆けるルーィエが、面白くもなさそうに論評した。
成功率8割、ルージュの反対を押し切って決行されそうになった第二次突入作戦は、この段階ですでに破綻している。
この作戦は、単独で敵の後方に《転移》したライオットが化石竜の闇ブレスを引き受け、その隙にシンたち強襲部隊で魔神を撃破。屍兵はドワーフ戦士団に丸投げするというものだった。
鎮魂の隧道に屍兵がおり、最奥部の鎮魂の間に魔神と化石竜が待ちかまえているという配置が前提条件だ。
しかし、化石竜が前線に出てきてしまうと、ライオットがどこにいても味方が闇ブレスの射程に入ってしまう。これでは単独行動する意味がない。
「そりゃ他人のアイデアの丸パクリだからさ。考えてみれば、イゼルローン要塞は動かないもんな」
ライオットがそう嘯いたとき、またひとつ、激甚な振動が隧道を揺らした。
最前線ではドワーフたちの怒鳴り声が交錯している。
その中でもひときわ大きいのがボイル王の声だったが、王の指示も切羽詰まったものだ。
「本格的に時間がないみたいだな」
シンはそう言って、鎮魂の隧道から大隧道に勢いよく飛び出し。
そして、そこに広がっている光景を目にするなり、ぴたりと足を止めてしまった。
「……何をどうやったらこうなる?」
隣で立ち止まったライオットも眉をひそめる。
大隧道の状況は混迷を極めていた。
まずは赤い瞳を光らせ、緩慢な動きで、だが生前からは考えれない怪力で暴れる、闇ブレスの犠牲者たち。
数はだいたい10体前後。認めたくはないが、認めざるを得ない。彼らはもう屍兵と呼ばれる存在だ。
それに対応しているのは、付近にいた数十人のドワーフ戦士たち。
動き出した屍兵は精神攻撃によるダメージで絶命したため、一切の外傷がない。そのせいで思い切った攻撃をできず、鎮圧に手間取っているらしい。
ここまではいい。
「貴様、ソライアから手を離せ」
鼻にしわを寄せて唸る狼のように、カザルフェロが敵意剥き出しで身構える相手は、どう見ても正常なドワーフ戦士だった。
戦士はターバの女性司祭の腕をひねり上げ、喉元に短剣を突きつけている。
その意図は誤解しようもない。明白な敵意を持って人質にしているのだ。
カザルフェロの隣にはレイリアが、戦士の隣には黒髪の司祭風ドワーフが並んでにらみ合い、周囲をターバの神官戦士団とドワーフ戦士団が取り囲んでいた。
「戦士長どの、立場をわきまえていただきたい。私が怒りのあまり手を滑らせたら、あなたの可愛い部下がどうなるか。想像できないなら実演して差し上げましょうか?」
ドワーフ戦士がこともなげに力を入れると、刃は女性司祭の喉を容赦なく切り裂いた。
ぶつり、と何かが千切れる音とともに、深紅の霧が勢いよく噴き出す。
「貴様! やめろ!」
「ソライア!」
悲痛な声を上げたレイリアが即座に癒しの魔法を使い、戦士に拘束されたままの親友の傷をふさぐ。
出血こそ止まったが、ソライアの顔は恐怖で歪んだままだ。レイリアの機転がなければ、今ので致命傷になったのは自分でも分かる。
指一本動かせず、悲鳴すら上げられずに、初めて経験する修羅場に身も心も竦み上がっていた。
「……野郎ッ!」
瞬時に沸騰したシンが、思わず飛び出す。
だがとっさにその腕を掴み、ライオットが力ずくで引き戻した。
「何で止める?!」
シンは怒りも露わに、ライオットの腕を振り払おうとする。
だがライオットは、シンを眼光だけで抑えつけた。
「落ち着け。人質を取られたら、解放するには方法はふたつしかない。ひとつは相手の要求を完全に飲むこと。もうひとつは完璧な奇襲だ」
ひとつ目の条件は論外。
魔神相手に一致協力しなければならない大事なときに、こんな騒ぎを起こす輩の要求など飲めるはずがない。
「奴らはまだ俺たちに気付いてない。中途半端な行動はチャンスを潰すだけだ。今はまだ目立つな」
理不尽な暴力を誰よりも嫌うライオットが、感情を圧し殺した目でシンを見る。
「敵はあのふたりだけなのか? 周りのドワーフたちはどうだ? ターバの戦士団に呼応しそうな連中はいるか? 突入するのは見極めてからじゃないと意味がないぞ」
憤怒のオーラが立ち上りそうなライオットの声に、シンは腕から力を抜いた。
言われてみれば、シンはドワーフ戦士を叩きのめすことしか考えていなかった。
これが組織的な行動なら、現場にいるレイリアにも危険が及ぶのだ。軽挙はできない。
「で、あれは誰なの? これはどういう状況?」
ルージュが、遠巻きに眺めているドワーフを捕まえて尋ねた。
そうこうしている間にも、瓦礫による封鎖線を破壊しようとする魔神の攻撃は続いている。
後方の混乱と前線の動揺。
落ち着かなげに視線をさまよわせていたドワーフは、ルージュの問いに首を振った。
「わしにも分からんのじゃ。連中は昨日、魔神めと直接戦った冒険者じゃ。なぜ突然、ターバの司祭殿に危害を加えようとするのか。皆目見当もつかん」
魔神と戦った冒険者。
最初に炎晶石を投げつけ、戦況をひっくり返すきっかけになった功労者たち。
言うなれば鉄の王国を守った英雄だ。
そんな好意的な評価とは正反対の行動に、遠巻きに見守る者たちの心で疑念の種が芽吹く。
おかしいのは、本当にあの冒険者たちなのか?
冒険者たちは昨日、実際に命を賭けて魔神と戦った。その彼らが敵対しているということは、もしかして、ターバ神殿からの増援に裏切り者がいたのではないか?
最初の戦闘の犠牲者が、この司祭たちと接触した直後、屍兵となって暴れ始めたのは偶然なのか?
疑う心は、存在しない敵の姿を際限なく見せ続ける。
鉄の王国の戦士たちは、生じた暗鬼に踊らされてターバからの増援部隊を警戒し、この混乱を収拾できずにいるのだ。
「なるほど。だいたい分かった。ありがとう」
ルージュはドワーフを解放すると、目を細めて混沌の巷を見つめた。
カーラからもらった指輪が宿した魔力を発動させ、ルージュの視界に“万物の根元たる”力の存在を見せる。
本来、ドワーフ族に魔術師はいない。
鉄の王国に存在するマナは自然界と同じくあるべきなのに。
「あるべきところにマナはなく、人為的に集めている者がいる、か」
口の中でつぶやく。
ドワーフ戦士はなおもソライアを人質にしたまま、カザルフェロ戦士長と対峙している。年端もいかない少女を殺しかけたのに、まるで気にするそぶりもない。
その様子を遠く見ながら、シンたちは我知らず、身と声を小さくして囁き合った。
「普通じゃないだろ。いくら人質とはいえ、あそこまで自然に喉をかき切れるか? あいつ、これっぽっちも躊躇しなかったぞ」
ライオットがドワーフ戦士の人格を評すると、シンが応じた。
「喉を裂いた後に笑ってたからな。完全に狂ってる。殺人狂の変態だ」
サディストという言葉ではとても足りない。
命の価値や相手の人生、自分の行為がもたらす悲劇というものに対して、まったく興味がないのだ。
存在するのは、ただ流血と殺人の悦楽を求める衝動のみ。
「俺さ、あの目を見たことあるよ。他人の苦痛と血を見るのが楽しくて仕方ない男の目を」
「レイリアさんを襲った、ラスカーズとかいう騎士でしょ?」
ルージュが意味ありげに声をかぶせる。
シンとライオットが無言で視線を向けると、ルージュは冷たい笑みを浮かべた。
「あのふたり、たぶんあの姿は嘘だよ。全身から強いマナの力を感じる。マナで覆い隠された嘘を《ディスペル》したら、どんな真実が見えるんだろうね?」
その言葉の意味がふたりの脳裏に染み渡ると、ひとつの仮説が鮮烈な光となって閃く。
「あれがラスカーズ本人だって言うのか?」
ルージュが言外に指摘した事実に、シンが小さく驚きの声を上げた。
だが、納得はできる。
あんな変態が世界に何人もいてはたまらないし、何よりもシン・イスマイールは剣士だ。相手を“気配”のようなイメージで識別するのは本能に近い能力である。
例えばボイル王はそびえ立つ巌。ライオットは逆巻く風。レイリアは早春の雪解け水。
そしてドワーフ戦士の、粘りつく闇ような陰湿なイメージは、邪教の司祭ラスカーズとまったく同質のものだった。
「女の勘だけどね」
「その勘が当たってれば、黒髪のドワーフ司祭はバグナードなんだろうな」
ライオットが小さくため息をつく。
魔神と化石竜だけでいっぱいいっぱいなのに、この上邪教の相手までしなければならないとは。
「優先順位を決める。第1にレイリアの安全確保。第2にソライアの奪還。第3にあいつらの殲滅。これでいいか? もう時間がない、すぐに始めよう」
シンの言葉に呼応するように、一際大きな衝撃とともに瓦礫の崩れる音が聞こえ、それきり振動が止んだ。
岩を擦り合わせるような化石竜の咆吼が響き、ボイル王が何やら叫び、ドワーフ戦士団の喚声が応える。
おそらく、向こうも始まったのだ。
「それでいい。レイリアは俺に任せろ。シンはソライアを助けて“戦士”を倒せ。ルージュは《ディスペル》したら“司祭”を牽制。陛下、確か音を遠くに移す精霊魔法があったよな?」
ライオットが矢継ぎ早に指示を出す。
作戦会議はすぐに終わり、必要な準備を終えると、シンたちは四方に散った。
「あなたは……!」
被虐の愉悦に酔うドワーフ戦士に、レイリアは声を震わせた。
涙を浮かべて、だが声ひとつ出せずに震えているソライア。傷は癒したとはいえ、恐怖まで無くなるわけではない。
剛力のドワーフ戦士に拘束され、たおやかな首に刃を突きつけられたまま、ソライアは依然として生命の危機にある。
すぐに助けなければならない。
自身も小剣の柄を握りしめる。だがレイリアの意志に反して、体は硬直して動こうとしなかった。
怖いのだ。
異常なドワーフ戦士の目が怖い。
毒華のような笑みが怖い。
レイリアの深層につけられた古傷が痛み、魂が血を流して抗がっている。
それを悟ったドワーフ戦士が、粘りつくような視線をレイリアに向けた。
「ほう。どうやら私を覚えておいでのようですね。嬉しいかぎりですよ、レイリア様」
「私はあなたなど知りません」
毅然とした声で否定する。
だが、それが口先だけの嘘なのは、発したレイリア自身が誰よりもよく分かってしまった。
知っている。
自分はこの目を知っている。
為すすべもなく蹂躙され、心を完全に折られた陵辱の記憶を、忘れられるはずもなかった。
「いいですね、レイリア様。怯えながらも懸命に虚勢を張るウサギのようだ。さあ、一緒に来ていただきましょう。あなたと同じ思いを、この少女にも経験させたくはありますまい?」
喉の奥で嘲いながら、ドワーフ戦士はソライアを捻る腕に力を込めた。
少女の口からくぐもった悲鳴が洩れる。
「やめて!」
「やめますとも。私はこんな小娘に用などないのです。傷ひとつ付けずに解放して差し上げますよ。レイリア様さえ来てくださればね」
問答無用で喉を裂き、一旦は殺しかけた自分自身の行為など無かったかのような言動。
ソライアの瞳からは涙があふれ、すがるようにカザルフェロに向けられている。
だが。
「論外だな。レイリアは渡さん」
カザルフェロは即答した。
悩む余地などないと言わんばかりの態度。
内心はどうあれ、それがターバの神官戦士長として求められる対応だった。
「そうですか」
ドワーフ戦士はつまらなそうに答え、あっさりと右手を動かす。
再びソライアの喉が切り裂かれた。
噴出する鮮血。
レイリアの悲鳴と魔法。
少女の血で熱く塗れた袖を煩わしげに振ると、ドワーフ戦士は口の端に嘲笑を浮かべてカザルフェロを見た。
「あなたは冷酷な方ですね、戦士長どの。守るべき部下が泣いているというのに、まるで助けようともしないとは」
ドワーフ戦士は芝居がかった口調で、大仰に嘆いてみせる。
「確かにレイリア様に比べれば、この少女の命などゴミのようなものです。レイリア様さえ助かれば、ゴミが生きようが死のうが関係ないと、その判断は間違いではないのでしょう。しかしこの少女は実に不憫だ」
悪意を持って並べられる言葉に、カザルフェロは反論できない。
自分自身も含めて、今この場にいる誰よりも、レイリアの命は重いのだ。何があろうとも失うわけにはいかない。 唇を噛みしめて憤怒を押さえつけながら、カザルフェロはドワーフ戦士の隙を待ち続ける。
だが、一切抗弁しないカザルフェロの姿は、ソライアに残されたわずかな希望の灯を吹き消してしまった。
今の自分では、決してカザルフェロに助けてもらえないのだと、ソライアの心が理解してしまったから。
それまで抵抗していた少女の体から力が抜けたのを知ると、ドワーフ戦士はこれ幸いと、少女の耳に毒を注ぎ込んだ。
「かわいそうに。あなたの戦士長どのは、あなたよりレイリア様の方が大切だそうですよ。あなたはね、見捨てられたんです。あの男に」
いたわるように甘く囁かれた毒の強さは、全員の想像をはるかに超えていた。
ソライアの目が見開かれると、大粒の涙をこぼしたのを最後に、顔から一切の表情が消えた。
絶望に濁った瞳は、もはや何も映していない。
決して折れてはならぬものを折られたのだと悟り、カザルフェロが奥歯を噛みしめる。
あまりにも無力だった。
ターバ神殿の盾を気取ったところで、自分を慕う少女のひとりも守れない程度のものなのだ。戦士長などという地位は。
だが自分は、シン・イスマイールに豪語したばかりだ。神官戦士団全員を使い捨ててでもレイリアを守ると。
その覚悟はとうの昔に決めてあったはず。
だから自分は正しい。間違えてはいない。
そう言い聞かせる。
後悔と自虐でねじ切れそうになりながら、カザルフェロは責任という名の杖にすがって立ち続けた。
「……お前の仇はかならず俺が取る、ソライア」
低く唸る声で宣言する。
それが、少女に報いてやれる唯一の道だから。
だが、返ってきたのはドワーフ戦士の哄笑だった。
「おやおや、戦士長どの! 本当に見捨ててしまわれたのですね! この少女はまだ生きているというのに!」
そして瞬時に笑いをおさめ、今度はレイリアを見据える。
「あなたはどうなのです、レイリア様? あなたも御同僚を見捨ててしまわれるのですか?」
「私は見捨てません!」
決然としてレイリアは叫んだ。
怒りが恐怖をねじ伏せると、腰の小剣が乾いた音をたてて鞘走る。
「あなたを倒してソライアを助けます。絶対です」
「ですからそれは無理だと、あの日にご理解いただけたのではないのですか?」
ドワーフ戦士は苦笑しながら肩をすくめた。
「あなたの剣では私には勝てません。何度やっても同じことです。それとも、もう一度あの日のような目に遭いたいのですか?」
ぬらり、と紅い舌が唇を舐める。
フラッシュバックした絶望の記憶に、レイリアの顔から血の気が引いた。
その時だった。
「同じ目に遭うのは貴様の方だ、ラスカーズ! このド変態が!」
背後から誤解しようのない罵声が叩きつけられた。
この薄汚い地底世界で、誰にも知られていないはずの名呼ぶのは、ラスカーズが一生忘れようもない声。
レイリアを一瞬で意識の外にはじき出し、ドワーフ戦士は声の方を振り返った。
「シン・イスマイール!!」
歓喜と憎悪で醜くゆがんだ顔は、だが、すぐに怪訝そうな表情に変わる。
そこにいたのは鉄の王国のドワーフばかりだった。期待した相手が見つからず、眉をひそめて視線をさまよわせる。
その戦場に次なる変化を呼び込んだのは、銀の鈴を転がすような上位古代語の響き。
『万能なるマナよ、交わりを解き、在るべき姿に戻れ!』
間髪入れずにルージュが放ったのは、あらゆる魔法の効果を除去する対抗魔法《ディスペル・マジック》だ。
想定した魔法強度はバグナード級。最高級の魔晶石を惜しげもなく使い潰し、充分すぎる威力を練り込んだ魔法の網は、ドワーフ戦士に絡みつくと、至極あっさりと偽りの姿を消し去った。
一瞬の閃光の後、そこに立っていたのは、銀色の金属鎧をまとった隻腕の騎士だ。
名をラスカーズという。
アラニア王国銀蹄騎士団の上級騎士にして、ノービス伯爵に仕える暗殺屋。
そして、邪神カーディスに仕える暗黒司祭でもある。
周囲でなりゆきを見守っていたドワーフたちが、思わずどよめいた。
ソライアに突きつけられていた短剣が、乾いた音を立てて地面に落ちる。
魔力で創られていた仮初めの肉体が霧散したことで、短剣を握っていた右腕も消失したのだ。
中身のない右袖が対抗魔法の余韻にたなびく。
隻腕の騎士は雪白の美貌に驚きの表情が浮かべ、事態の急変に対処できない様子。
シン・イスマイールは、その一瞬の隙を見逃さなかった。
黒い影が風となって襲いかかる。
今度ばかりは一切の迷いなく、精霊殺しの魔剣が振りかぶられた。
体ばかりか心までも残虐になぶるラスカーズの暴挙は、とうの昔にシンの許容限界を超えていた。
ただ己の快楽のためだけに、罪もない人々を、何の躊躇いもなく傷つけるなどと。
この男の存在は、世の中にとって害悪にしかならない。
「ラスカーズ! 消えて無くなれ! この世界から!」
「シン・イスマイール!」
声とは反対方向からの奇襲に、かろうじて反応できたのは誉めてやるべきなのだろう。
ラスカーズは回避できないと見るや、シンに向かってソライアを突き飛ばし、自分は反対側に跳びすさった。
抵抗せずによろめいた少女を抱き止め、シンも足を止める。
「気をつけろ! こいつは邪神カーディスの司祭だ! 剣も魔法も使ってくるぞ!」
ライオットがドワーフたちに警告を発すると、ほとんど間をおかずに白刃の輪が周囲を取り巻いた。
誰が裏切り者で、誰が味方なのか。
先ほどからの惨劇を見せつけられた戦士たちには、もはや疑う余地などない。
「貴様……」
ラスカーズが憎々しげに睨みつけたとき、ライオットはすでにレイリアを背中に庇い、剣と盾を構えて臨戦態勢をとっている。
護衛対象を確保。
人質を奪還。
敵を完全包囲。
ほんの二呼吸ほどの間に、状況はライオットの描いた絵図面のとおり、完全にひっくり返っていた。
「バグナード。あなたの方は解呪してあげない。そのみっともない姿が嫌なら、痛い思いをして自分で《ディスペル》してよね」
魔法樹の杖を携え、とことん冷酷に嘲うルージュの視線を受けて、黒髪のドワーフ司祭は愉快そうに頬を歪めた。
「まことに侮れぬ敵よな。されど魔術に関する研鑽がまるで足りぬ」
ドワーフ司祭はそう言って腕を振る。
一瞬の後、彼の姿は長身の魔術師に変わった。
切り揃えられた髪、秀でた額、底なしの知性を宿す漆黒の瞳。
おそらく、ロードス全土でも五指に入る大魔術師のひとり。
灰色の魔女カーラに勝るとも劣らない陰謀家。
「《ポリモルフ》の呪文は、術者ならばいつでも任意に解除できる。《ディスペル》など無用だ。もう一度呪文書を読み直すがよい」
“黒の導師”バグナード。
原作で主人公をさんざんに苦しめた黒幕のひとりが、敵として立ちはだかっていた。
「……不勉強ですいませんね。ホント嫌なやつ」
「嫌なやつはお互い様であろう。美しいバラには刺があると言うが、そなたの場合は刃でバラを造ったようにしか見えぬ」
「そんなに誉めても、手加減なんかしてあげないよ?」
「誉めたように聞こえたなら、感性も手直しすべきだな」
軽口の応酬。
だが魔術師にとって、呪文を詠唱させないのも立派な戦闘だ。
言葉の剣戟でルージュがバグナードを牽制している間に、シンは腕の中の少女をカザルフェロに押しつけた。
「……すまん」
「あとは任せた」
ソライアはかろうじて立っているものの、ぼんやりと中空を見つめるばかり。あれほど闊達だった瞳からは表情がすっぽりと抜け落ち、自我というものすら感じられない。
邪教と魔神、そして化石竜。
これから始まる激戦を考えれば、自分で動けない者が生き残れる確率はゼロに近いだろう。
だがそれでも、シンはあえて言った。
「もう見捨てるなんて言うなよ。あんた戦士長だろ? あんたが部下を守らないで誰が守るんだ?」
部下を盾に使い捨ててでも、などと、そんな台詞が軽々しく出てくること自体、シンに言わせれば逃げでしかない。
全員を助ける方法はないのか。
皆が幸せになる道はないのか。
それを模索し続け、決して諦めないことが指揮官にとって最低限の義務のはず。
力の限りに戦い、知恵を絞り、最後の最後まであがいて、それでも手が届かなかったとき。初めて犠牲者を悼むことが許されるのだ。
命にはそれだけの価値があり、その命を預かるのが指揮官の役目なのだから。
「言いたいことは沢山あるけど、話は後だ。今は時間がない」
シンはちらりと鎮魂の隧道を振り向いた。
戦いの喧噪が近づいてくる。化石竜の進撃を止められず、ドワーフ戦士団が後退してくるらしい。
怒号や叱咤が交錯する中、大隧道でも屍兵やラスカーズたちが大暴れして支援体制がとれない。
化石竜の攻撃と、闇ブレスに倒れた犠牲者たちの覚醒、それに邪教による破壊工作。
3つの敵が最悪のタイミングで行動を開始したため、味方はほぼ総崩れだった。
事態を打開するには、どこから片付ければいい?
最も脅威レベルが高いのは化石竜だろうが、一番弱そうな魔神でもシンたち抜きでは戦線が成り立たない。
「シン」
必死に打開策を練っていると、親友の声が聞こえた。
横目で見れば、ラスカーズと対峙したままのライオットが、片頬でにやりと笑う。
かつて“墓所”からシンを送り出したときと同じ表情。
無茶を承知で博打に出るときの顔だった。
「もうすぐ化石竜が来るんだろ? こいつらと化石竜は俺に任せろ。シンとルージュは魔神を倒せ」
「ちょっとライくん!」
「いくらなんでもそれは……」
口々に反対する仲間たちに、ライオットは言った。
「お前ら、ザクソンで俺に説教したばかりじゃないか。もっと仲間を信じろってさ。俺はお前らを信じる。俺が倒れる前に帰ってくるって信じるよ。だから俺を信じろ。自分たちが帰ってくるまで、俺が立ってるって信じろ」
そして視線を戻し、ラスカーズとバグナードを正面から見据える。
「古竜だろうが魔神王だろうが完封してやるさ。俺は自分で望んでそう在るんだからな」
碧い双眸に気迫をみなぎらせ、ライオットは宣言する。
“不敗の盾”。
帝都レイド攻防戦で伝説になった聖堂騎士が、今、白銀に輝く城壁となって立ちはだかっていた。