シーン4 鉄の王国・大隧道
大隧道に足を踏み入れると、涼しく乾いた空気が肌を包んだ。
月明かりも星明かりも差し込まない世界だが、一定間隔で焚かれている篝火が白い岩盤に反射し、不思議と暗さは感じられない。
内部はあたかも王城の通廊のごとく、居並ぶ柱や平らに磨かれた壁面には延々と装飾が施されていた。
隧道という言葉からは想像もできない、まるで神殿のような静謐な空気だ。
炎と影の織りなす淡彩色の世界に、神官戦士団の馬蹄と資材を積んだ馬車の車輪が、驚くほど大きな音を反響させる。
天井までどれくらいあるのだろうか。
松明の明かりが届かぬ上層部には闇がたゆたい、ここが地底だという圧迫感すら感じない。
「巨人の国に迷い込んだみたいだよね」
広大な地下空間を支える円柱は、明らかに岩盤から削りだしたもの。ちょっとした高層ビルのような柱が林立する光景を見渡して、ルージュが感嘆の声をもらした。
この大隧道は、幅といい高さといい、明らかに人の利用を前提としたサイズではない。
おまけにギムの言葉によれば、大隧道はロードスの地下深くを縦貫して、遠くモスの地にある“石の王国”まで繋がっているのだという。
どこをどう考えても、人間やドワーフが造ったとは信じがたい規模の巨大構造物だ。
「そうだな」
ルージュの感想にライオットがうなずく。
巨人の国。
ルージュは大きさの比喩として使っただけだろうが、むしろ言い得て妙ではないか。
このフォーセリア世界には、竜も巨人も、そして神々さえも実在するのである。
地平線の遙か彼方まで続くこの巨大な通廊を、いったい誰が、何のために造ったのか。
そこに巨人や神々の介在を考えても、それほど不自然ではないはず。
超絶的な力が振るわれたであろう神代の光景を想像するだけで、ライオットの心は高揚してくる。きっとそれは建設と言うより創造と呼ぶべき行為だったにちがいない。
そんな思索の海をたゆたっているうちに、最初は人気のなかった大隧道も、やがて多くのドワーフたちが暮らす居住区へと姿を変えていった。
もう夜も遅い。すっかり寝静まった居住区では、完全武装の戦士たちが松明を持って巡回している。
警戒を絶やさない様子ではあるが、ザクソンの村で感じたような悲壮感や、ターバでギムが見せた切迫感は見当たらなかった。
戦士たちの表情も落ち着いたものだ。
「想像してたのとずいぶん違うな。やっぱり、魔神を追い詰めたっていうのが大きいのか」
同じ事を感じたらしく、シンが居住区を見渡した。
寝静まっている。
ということはつまり、一般人には眠る余裕がある、という事だ。
「事情はそれだけではないがの。守るべきものを守る算段がついて、状況が一安心なのは間違いないようじゃな」
慣れない馬にまたがったまま、ギムがシンの言葉を肯定する。
滅亡の危機、とまで評した状況は、カザルフェロ戦士長率いる先遣隊によって大きく好転しているらしい。
「さて、今夜の宿はこのあたりに用意してある。戦士たちには休息を。隧道のひとつに寝藁を集めさせたゆえ、馬も我らが預かろう」
ボイルが言うのを待っていたかのように、先頭を歩いていた部隊から足を止め、順次駐留の準備に取りかかっていった。
「ルージュ殿、馬をお預かりします」
近くにいた神官戦士のひとりが、数名の同僚と連れだって声をかけてきた。シンたちの馬も面倒を見てくれるらしい。
よけいな仕事を増やすようだが、自分で抱え込んでも仕方がない。ルージュは素直に好意に甘えることにした。
「ありがとう。どうしようか困っていたの。助かります」
戦士の手を借りて馬から下りると、よそ行きの微笑を浮かべて手綱を渡す。
口にしたのは完全な社交辞令だが、まだ若い戦士には十分な報酬だったようだ。
「お安い御用です。馬には慣れておりますから」
紅潮した戦士は嬉しそうに答え、強行軍の疲れも見せずに軽い足取りで馬を連れていった。
シンやライオットの馬も別の戦士たちが引いていく。
何の気なしに見送ったが、その背中はすぐに、木材を抱えた別の戦士に遮られた。
大勢の戦士たちが、それぞれの役目を果たそうと動き回っているのだ。
ある者は随伴の馬車を大隧道の端に寄せ、ある者はドワーフ戦士の案内で馬を集めて隧道に入れ、また別の者は飼い葉と水を与えて寝藁を敷きつめる。
工作担当の数名は、持参した木材で隧道の入口に急ごしらえの柵を作っていた。
その間、後方支援要員は荷馬車の資材を整理し、弩弓や矢玉、予備の武具の点検を行う。
作業は多岐にわたったが、たびたびの遠征で野営の準備など手慣れたものらしい。分担した任務をそれぞれが手際よく終わらせていく様子は、まるで神官戦士団それ自体が一個の生き物のように見えた。
ルージュが初めて目にする“統制された集団の力”だった。
率直に言って、神官戦士ひとりひとりの戦闘能力は、ルージュたちの敵ではない。
しかし、彼らがカザルフェロ戦士長の下、連携をとって自分たちと戦ったなら?
おそらく、最後に立っているのは自分たちではないだろう。
事あるごとにライオットが言う「戦いは数だよ、兄貴」という言葉の意味は、きっと光景にあるのだ。
「すごいな」
複雑な心境を単純きわまる言葉で表現すると、それを耳に挟んだカザルフェロが振り向いた。
「今夜は寝床の準備も水や薪の確保も必要ない。夜は見張り番すら出さずに朝まで寝かせてもらえる。このくらいはやってもらわんとな」
頬に残る刀傷を撫でながら、努めて無愛想を装った口調で論評する。
それでも、部下たちを誉められれば悪い気はしないらしい。目に浮かぶ光は明らかに誇らしげだ。
「満足そうですね、戦士長さん」
「不満があるとは言っていない。だが面と向かってあいつらを褒めないでくれよ。慢心して増長すると困るからな」
どうやらカザルフェロは、部下を称揚すると良くないことが起こると信じているらしい。
まるで、気むずかしい顔をしながら尻尾を振る大型犬のようだ。ルージュの脳裏に“ツンデレ戦士長”という単語が浮かんだ。
ふと興味を覚えて、堂々とカザルフェロを眺めまわす。
よく日に焼け、俊敏そうに引き締まった褐色の肌。
身長はシンよりも高く、ライオットよりは低い。
髪も顔も戦塵で汚れているが、野生味のある精悍な横顔は、汚れすらも魅力の一つにしてしまっている。
頬に残る刀傷と無精ひげが、ただ真面目なだけでなく、ちょいワル親父な雰囲気を醸し出して、とても良い。
声は心地よく響く低いバリトンで、深みのある人柄を感じさせる。
「第一印象はかなり高得点だよね」
若いイケメンよりも渋い中年を好むルージュが、口の中でつぶやいてひっそりと微笑んだ。
今まで出てきたNPCは、レイリアといいアウスレーゼといいロートシルト男爵夫人といい、若くて綺麗な女性ばかり。ライオットとシンが鼻の下を伸ばすのを、ただ不機嫌に眺めているしかなかったのだが。
どうやら、ついにルージュの時代が来たらしい。
「俺の顔に何かついているか?」
「いいえ。いい男だなあと思って観賞していただけです」
ルージュがにこりと微笑むと、カザルフェロは苦笑まじりに返した。
「そりゃどうも。だが観賞用なら、あんたの相棒の方が華やかでいいだろうに」
「あっちは見飽きましたから」
「それじゃ鏡でも眺めるんだな。相当なもんが見られるぜ。俺が保証してやる」
「……その秘密を知っているとは、ただ者じゃありませんね」
一拍おいて返した声に、かすかな漣が揺れた。
ルージュは自分の微笑の威力を知っている。
鏡を眺めて客観的に判断するに、自分は傾国級の美人だ。
例えるなら、おとぎ話の世界から抜け出してきた妖精の姫君とでも言おうか。
生身の女としての「生々しさ」が希薄であるため、華やかにも儚げにも、自由自在に印象を操作することができる。きわめて便利なタイプの美人なのだ。
そのルージュが作った微笑に対して、カザルフェロが返したのは徹頭徹尾完璧な他人行儀。お前に興味はないという意志がはっきりと伝わってきた。
ここまできっぱり無視されたのは初めてだ。
「ほんと、ただ者じゃない」
背中を向けて離れていったカザルフェロを目で追いながら、楽しそうにつぶやく。
「なんて言うか、懐の深そうなおっさんだよな」
黙ってやりとりを聞いていたライオットが論評した。
過剰労働を強いられている神官戦士団が不平のひとつも言わないところを見ると、きっと人望もあるのだろう。
「ライくんとどっちが強い?」
「剣を取って戦えば負けないさ。けどそれだけだ」
年季や引き出しの数ではとてもかないそうにない。
何を指して強いと言うかは、状況次第でいくらでも変わるのだ。
容姿や人格、経済力といった要素まで漠然と全部ひっくるめた「男として」などという評価基準もあるが、ライオット自身、さすがに「男として」勝てるとまで自惚れる気にはなれなかった。
「なるほど。そういう意味では私も子供に見えたんだろうな。バカなことしちゃった」
総じてカザルフェロを好意的に評価するふたりに、シンはため息をつく。
「俺は苦手だ」
控えめな表現だったが、親友の意図するところを察して、ライオットが視線を向けた。
「そう言えば、さっきも何か言いたげだったな。あのおっさんの何が気に入らないんだ?」
「気に入らないのは俺じゃなくて向こう。カザルフェロ戦士長は、俺がレイリアに近づくのが面白くないらしい」
「でも、お前とレイリアの仲はニース様公認だぞ? 戦士長とはいえ、あのおっさん1人が反対したって始まらないだろうに」
「ところがそうでもない」
いつになく疲れた口調。
先をうながすライオットに、シンは言葉を継いだ。
「レイリアの友達に、ソライアっていう司祭がいるんだ。その娘が言ってた。ザクソンの事件からこっち、レイリアの買い出し当番は必ず1人で行かせるようにって、ニース様がこっそり命令してるらしい」
「リーダーがレイリアさんとデートできるようにってことでしょ? 結構なことじゃない」
「じゃあ聞くけど、ニース様はどうしてそんな命令を出さなきゃいけなかったと思う?」
ただデートするだけなら、レイリアが休みの日で十分なのだ。ニースが職権を濫用してまで口出しする必要はないし、本来ニースはその類の行動を嫌うはず。
では何故か?
その問いに答えを用意できず、ルージュが考え込んでいると、シンはあっさりと言った。
「無いんだよ、休みが」
「1日もないの?」
「ああ、1日もない。ザクソンから戻って半月、レイリアの休みは全部潰されて、神官戦士団の訓練に参加してる」
「そんな……」
あまりと言えばあまりな回答に、ルージュが絶句してしまう。
「もちろん、戦士長はきちんとレイリアの健康に配慮してるよ。訓練は午前に1回、午後に1回。それぞれごく短時間だ。休養の時間はたっぷりある」
それでも、朝と夕に集合をかけてしまえば、ザクソンまで遊びに行く暇などなくなる。
カザルフェロにとってはそれで十分なのだ。
「レイリアがザクソンで上位魔神に殺されかかったのは事実だからさ。短時間でいいから毎日訓練が必要だって理屈は通ってる。戦士長がそう決定すれば、ニース様が口を挟むのは無理なんだそうだ」
確かに、男とデートさせたいから訓練を休ませろなどと、ニースには口が裂けても言えないだろう。
ターバ神殿の宿願は“亡者の女王”の封印だ。
レイリアが内に宿している魂を考えれば、身の安全の確保を最優先にするべき。男と遊び回るなど無駄でしかない。
「俺がレイリアを守りたい、一緒にいたいっていうのは、極論すれば俺のワガママだ。ターバ神殿の立ち位置と相容れないものなのは、あの日、墓所で決めたときから分かりきってたはずなのにな……」
シンは疲れた様子でこぼしたが、やがて大きく嘆息すると、気分を切り替えるようにぽんと手を打って口調を変えた。
「ま、それを今考えても仕方がない。今は魔神を倒すことだけに集中しよう」
ターバからの強行軍で疲弊した戦士たちも、ひととおりの作業が終えて、ようやく休息を勝ち取ったようだ。
疲れた足を引きずって、だが解放感のある表情で談笑しながら、宿舎へと姿を消していく。
そのどこかには、レイリアの姿もあるはずだ。
無意識のうちに彼女の黒髪を探していると、そこに数名の護衛を連れたボイル王とカザルフェロが戻ってきた。
「待たせたな」
ボイルの低い声が響く。
今までの余裕が消え去った真剣な声音には、戦場で戦士団を率いる王にふさわしい迫力があった。
「さて、ここから先は本音でいかせてもらうぞ。そなたらには事実を知ってもらわねばならぬ」
援軍の手前、外面を繕うのはおしまいと言うことだろう。
この場に残ったのは、ボイル王とカザルフェロ戦士長、両戦士団の上級幹部、それにシンたちを加えても10名に満たない。
戦士たちはゆっくり休んで英気を養い、士気を高めればそれでよいが、ここにいる指揮官たちは違う。
事実をありのままに知り、その上で魔神を倒す方策を練らねばならないのだ。
全員が徒歩になり、居住区からさらに奥へと足を進めながら、ボイル王は重々しい口調で語りだした。
「ターバの援軍に助けられて、我らは彼奴を隧道のひとつに閉じこめることができた。おかげで王国の崩壊はまぬがれ、我が戦士団の士気も高い。これは事実だ。まことターバ神殿には感謝の言葉もない。だがな、魔神を倒す糸口が見つかったわけでもないのだ」
そう言って冒険者たちを振り返る。
「ギムから話は聞いていよう。あの魔神めは、無限に魔法をまき散らしおる。このハルバードが届けば首を落として見せようが、今は近寄ることさえ叶わぬ。まずは魔法を何とかせねば、討ち取るのは不可能であろうよ」
甚大な犠牲を払ったにも関わらず、一太刀すら浴びせることができなかったボイル王の顔には、砂を噛むような無念さが滲んでいた。
「正面からは近づけませんか?」
「無理だな」
シンの質問に答えたのはカザルフェロだ。
「俺も何度か魔法を使う相手と戦ったことはあるが、あいつは別格だ。届くはずのない遠距離から破壊の魔法が飛んでくるし、威力も大きい。神官戦士団は癒しの魔法のおかげで何とか持ちこたえたが、展開としては一方的な負けだ」
薄闇の大隧道に吹き荒れた爆風と炎。
部下やドワーフたちの怒号と悲鳴。
耳を叩く熱い空気には血と肉の焦げる臭いが混ざり、魔神のあざ笑う声が追い討ちをかけてくる。
灼熱の戦場を思い出し、カザルフェロはかすかに口許を歪めた。
ターバ神殿を護る戦士長として、己の力量には自負も誇りもあった。
シン・イスマイールの活躍が目立つのは機会に恵まれただけで、自分とて戦場に立てば負けぬと信じていた。
だがどうだ。いざ上位魔神と相対してみれば、討伐するどころか剣を交えることすらできない。シン・イスマイールはほんの数名で首をはねて見せたというのに。
「でも、あんたが魔神を追い詰めたんだろ?」
ライオットの言葉に、カザルフェロは首を振る。
「言ったはずだぞ。あれはマッキオーレの手柄だとな。炎晶石を使った」
炎晶石とは、炎の魔力を秘めた古代王国期の宝物だ。投げつければ《ファイアボール》の魔法が発動し、周囲を焼き尽くすという。
武器の間合いまで近づけなかった神官戦士団は、その炎晶石をスリングで集団投擲して対抗した。
「マッキオーレが言うには、あれ1つで銀貨3000枚するそうだ。預かった63個全部使った。もう1個も残っていない」
「それはそれは。魔神もさぞかしビビっただろうな」
思わずライオットが苦笑いを浮かべた。
大隧道いっぱいに炎の花が咲き乱れる光景と、戸惑って後退する魔神の表情が目に浮かぶ。
相手の得意分野を火力で強引にねじ伏せるという、まさに銀貨で横面を張りとばすような戦術だ。マッキオーレがこの成果を知れば、きっと喜んでくれるに違いない。
「そなたらにも見せてやりたかったぞ。地獄の釜のような神官戦士団の猛攻をな。この巨大な大隧道が溶鉱炉のごとく灼け爛れ、魔神めは尻尾を巻いて退くしかなかったのだ。戦士長らは容赦なく追撃し、そのうちにひときわ大きな爆発が起こって隧道が崩れた。あれは壮観であったわ」
ボイルが我が事のように誇らしげに言うが、カザルフェロは淡々と補足する。
「そもそもこいつは俺のアイデアじゃない。戦場にいたドワーフの冒険者が、苦しまぎれに炎晶石をひとつ投げたんだ。俺はそいつを模倣しただけだ」
「ふうん、冒険者もいたのか……」
興味を引かれたルージュが、口の中でつぶやいた。
森に引っ込みたがるエルフたちと違い、ドワーフは人間との交流も盛んだ。ギムも含めて、冒険者として活躍するドワーフは数多い。
炎晶石を持っているくらいだから、少なくとも中堅以上の実力者だろう。
もしかして原作キャラクターの誰かだろうか。脳裏に何人かの名前が浮かぶ。
「いずれにせよ、あれをもう一度やるのは不可能だ。今の俺たちに残されたカードは、もう最後の切り札だけって事になる」
飄々とした口調。
冗談めかして軽ささえ乗せた言葉には、しかし、抑えきれない自嘲が滲んでいる。
武器を取って戦う戦士として、敵に手も足も出ない、他人に頼らざるを得ないという屈辱。
その無念はボイル王にも通じるところがあったのか、ふたりの指揮官は無言で視線を交わすと、それきり口をつぐんだ。
しばらく、無言の行軍が続いた。
すっかり人気のなくなった大隧道に、松明の炎がオレンジ色の影を踊らせる。
一行はひたすら奥へ奥へと進み、やがて採掘区画に入ると、周囲は絵に描いたような典型的なダンジョンに姿を変えていた。
無数の分岐。
縦横に巡らされた坑道。
やがて、打ち捨てられた台車や折れたマトックが目に入るようになると、ボイル王の歯がぎりりと噛みしめられた。
「ここだ。魔神めが現れおったのはな」
突き刺すような眼光が坑道のひとつに向けられる。
壁や柱は黒く焼け焦げ、堅い岩盤にいくつもの傷跡が刻まれていた。
大隧道いっぱいに残る激戦の痕。
ということは、地面に残された黒い染みは。
「我が戦士たちは勇敢に戦った。ターバに援軍を求めてから、カザルフェロ戦士長らが到着するまで3日。その間魔神をこの場に留めておくために、ただ時間を購うためだけに、100名以上の戦士たちの命が必要だった」
その淡々とした口調に、どれほどの激情が込められていたのか。
犠牲になった戦士たちの無念を想うように、ボイルはしばし言葉を切って黙祷を捧げたが、すぐに顔を上げて大隧道の先を指さした。
「そしてカザルフェロ戦士長らの援軍を得て、あそこに魔神めを追いつめたのだ」
50メートルほど奥に、横へ伸びる分岐が口を開けている。
「あの奥は“鎮魂の隧道”と呼ばれておる。本来、我らの祖霊が眠る神聖な場所だ」
「魔神は今も中に?」
傍らで問うシンに、ボイル王はうなずく。
「隧道は1本道で、鎮魂の間で行き止まりになっておる。脱出は不可能だ。見れば分かる」
ボイル王に続いて鎮魂の隧道に入ると、中では煌々と篝火が焚かれ、ドワーフの戦士団が駐屯していた。
百人あまりの戦士たちは、武器を持って警戒する者ばかりではない。食事をとる者、仮眠する者など、どうやらローテーションを組んで昼夜を問わずに臨戦態勢を保持しているらしい。
先遣隊と一緒に来たターバ神殿の司祭たちは、隧道の一角に救護所を設営して、負傷したドワーフたちの治療に当たっている。
篝火の燃える臭いと、緊迫感で張りつめた空気。
ここは今も戦場なのだ。
血だらけの包帯で腕を吊った戦士を見て、シンたちは神妙な顔になって居住まいを正した。
「ご苦労」
黙礼する戦士たちに手を上げて応えると、ボイルは隧道の奥を見上げた。
隧道はしばらく入ったところで天井と壁を崩され、今は蟻の這い出る隙間もない。
「異常はないか?」
「ございませぬ」
ボイルの短い問いに、ドワーフ戦士団の指揮官はさらに短く答える。
その一言にどれだけの想いが詰まっているのか。
指揮官は戦意をたぎらせた瞳を王に向けた。
「我らの準備はすでに整っております。ご命令があればいつでも」
「ターバ戦士団の本隊も到着した。犠牲となった戦士たちの無念を晴らすときは近い。心して待て」
「はっ!」
ボイルは隧道の奥をひと睨みすると、護衛の戦士たちを引き連れて、再び大隧道に戻っていく。
カザルフェロ戦士長は、先遣隊の司祭たちと合流して何やら話し合っているようだ。
案内役としてギムだけが留まると、ライオットは天井まで完全に塞がれた隧道を見上げた。
遮断は完璧。静かなものだ。
教えられなければ、この向こうに上位魔神が閉じこめられているなどとは気づくまい。
「異常なし、か」
どこか腑に落ちないといった表情のライオットに、ギムが問いかける。
「何やら言いたげじゃの」
「異常がないのが異常かな、と思ってさ」
ギムに無言で先を促され、ライオットは癖のある金髪をかき上げた。
「取り越し苦労ならいいんだけど。相手が本当に上位魔神なら、どうして大人しく閉じこめられてるんだろうな? この隧道を塞いでるのは、魔法の扉でも何でもない、ただの岩と砂利だ。魔法でぶっ飛ばしたっていいし、鉤爪で砕いたっていい。外に出てくるのは簡単なはずだろ?」
だが、ギムの意見は懐疑的だった。
「おぬしはそう言うがな。この隧道を塞ぐ瓦礫を見てみよ。あまりの高熱で溶けて、硝子状になっている部分さえある。わしは魔法のことは知らんが、これがどれほどの熱かはよく分かるぞ。賭けてもよい。この熱に晒されれば鉄でも溶ける。いかに魔神といえども無傷ではすむまい」
「それならいいんだけどな」
ギムの言うとおり、上位魔神が本当に重傷を負っているなら、わざわざ戦場に立とうとはしないだろう。
要素のひとつとしては妥当な指摘だが、相手は無限の魔力を持った異常個体だ。それだけで済むような生易しい敵だとは思えない。
「ルージュはどう思う?」
ライオットに問われて、ルージュの脳裏に、ザクソンで戦った双頭の魔神の巨躯が甦った。
鱗に覆われた強靱な手足。
一撃でルーィエを行動不能に陥れた魔力。
アイテムごときで無力化はされないというライオットの主張には説得力がある。
しかし、一定限度を超えた熱を加えれば、首を消し飛ばすこともできるのだと、ルージュ自身の魔法が証明してもいるのだ。
これはシュレディンガーの猫だ。人が観測するまで、瀕死の魔神も無傷の魔神も両方存在するということ。
「分からないんだから、見てみればいいと思うよ」
ルージュはそう答えると魔法樹の杖をかざし、小声で呪文を唱えた。目に魔力を付与し、瓦礫の向こう側を見通せば、疑問はそれで氷解する。
紫水晶の瞳が魔法の輝きを宿した。
わずかに細められて瓦礫の向こうへと魔力の視界を延ばしていく。
仲間たちが無言で見守っていると、しばらくして、ルージュは眉と肩を落とした。
「……ごめん、ダメだった。どこまでいっても真っ暗闇しか見えない。せめて向こう側に明かりがないと」
「見えないものは仕方ない。明日はぶっつけ本番だ。まあ、ちょっと厳しくなるかもな」
「けどさ、逆に言えば厳しいのは突入だけだろ?」
あっさりした口調でシンが言う。
「無限の魔力があろうと、1度に使える魔法は1つだけなんだ。1ターン耐えて《テレポート》で距離を詰めれば、あとはどうにでもなるさ。油断は禁物だけど、悲観的になる必要もない」
ボイル王やカザルフェロは苦戦したようだが、たかが数十メートルの距離など、ルージュの魔法があれば一瞬でゼロにできる。
そして、剣の届く距離まで詰めれば、勝敗は決したも同然だ。残るのは時間の問題でしかない。
「それじゃ、あとはレイリアの件だけど」
大まかな方針が決すると、ライオットが次の議題を提示する。
今回、レイリアは神官戦士団の一員として“鉄の王国”へ来ている。
今はカザルフェロの指揮下にあり、彼女がどう配置されようとも、本来自分たちが口を出せる筋合いではないのだが、あえてライオットは言った。
「彼女を守るのは俺たちの最優先課題だ。何もしないってわけにはいかないだろ?」
横車なのは百も承知で、こちらの方針に沿うよう、カザルフェロに要求を突きつけることになるだろう。
この戦いはシンたち抜きでは成立し得ない。相当不愉快にさせるだろうが、こちらが要求すればカザルフェロは従うしかない。
完全な恫喝だ。
さらなる人間関係の悪化を予見して、シンは渋面になったが、やがてぽつりと言った。
「レイリアは後方に残してもらおう。できれば前線から離れたところに」
レイリアにどうしたいかと尋ねれば、きっとシンの隣で戦うことを望むだろう。
彼女がそう望むことは、シンにとっても喜びだ。
だがシンは、彼女には傷つくことも傷つけることもして欲しくなかった。
ターバから来た司祭たちには女性が大勢いるし、神官戦士団の中にだって女性の姿はあちこちに見られる。レイリアと仲のよいソライアもそのひとりだ。
そんな状況で、たったひとりレイリアだけを特別扱いするのは、シンのエゴなのだと自覚している。
レイリア自身、神官戦士団の一員として、後方で守られているだけでは納得するまい。
それでも彼女を戦場に出したくないというのが、シンの偽らざる本音だった。
相手は望まないはずの想いを吐露すると、背中に低く渋い声がかけられた。
「おいおい、そいつは本気で言ってるのか、シン・イスマイール?」
苦笑混じりの軽い口調。
シンが振り返ると、形だけの笑みを頬に張り付けたカザルフェロが、シンを見下ろしていた。
「部下どもには、今回だけはお前さんの機嫌を損ねるなと言われてるんだがな。お前さん、本気でレイリアを守る気があるのか? 今のはいくら何でも無責任に過ぎるぞ」
「俺が無責任?」
シンの眉が跳ね上がった。
その反応を冷静に観察しながら、カザルフェロはさらに言いつのる。
「“砂漠の黒獅子”サマのご機嫌を損ねたのなら恐縮だが、レイリアがどれほど重大な存在か、お前さんには理解できてない気がしてな」
「あんたは俺が何をしに来たと思ってるんだ? 言っておくけど、俺は正義にも平和にも興味なんかないからな。俺が守りたいのはレイリアだけだ」
「笑えない冗談だな。お前さんがザクソンで守った正義と平和は“ついで”か?」
「俺は本気だ」
シンの口調が剣呑に尖っていく。
オーガー事件の時も、ピート卿の屋敷で邪教の司祭に襲われた時も、ザクソンで上位魔神と戦った時も、レイリアを守ったのはカザルフェロではない。
シンだ。
彼女を守ることに何ひとつ寄与していないカザルフェロに、そこまで罵倒されるいわれなどない。
「口ではそう言うが、お前さんは困った人間がいれば助けちまうんだろ?」
シンの敵意を柳に風と受け流して、カザルフェロが飄々と続ける。
「王都では愛妾のお嬢ちゃんを助けた。ザクソンでは村を丸ごとひとつ助けた。そして今回は、ドワーフ族を王国ごとだ」
「それが俺たちの受けた依頼だからな」
すべてはニースに受けた依頼を完遂しただけのこと。誰に対しても恥じることのないシンたちの実績だ。
それを意味ありげに指摘するカザルフェロの真意が分からず、シンの顔に戸惑いが浮かぶ。
「そう。依頼。お前さんたちは冒険者だから、依頼をこなすのが本業だ。それが当たり前のこと」
そこまで言って。
初めて、カザルフェロの表情から笑みがすっと消えると、言葉が抜き身の刃となってシンに突き立てられた。
「で、その間、レイリアは誰に守られることもなく、ひとりで放置されるってわけさ」
「放置なんかしない。俺はレイリアを守る」
反射的にシンが主張する。
だが、脊椎反射で使った言葉では、カザルフェロには通用しなかった。
「笑わせるな。レイリアを前線から遠く下げろと、今自分で言ったばかりだろうが。最前線にいるお前さんが、どうやって守るんだ? それとも魔神の前には出ないつもりか?」
シンが返答に窮すると、カザルフェロは容赦なく追い打ちをかける。
「貴様は、ザクソンでもレイリアをひとりにした」
事実を指摘する重々しい一撃が、シンから完全に言葉を奪い去った。
「そこの猫1匹を助けるために、レイリアは上位魔神の前に身を投げ出したそうだな? あと一歩遅ければレイリアは死んでいた。助かったのはただの幸運だ。違うか?」
カザルフェロの痛烈な言葉が、不可視の槍となってシンを抉る。
「王都でも、レイリアをひとりで愛妾の屋敷に送り出した。途中で貴族なり邪教なりの暗殺者に襲われたらどうするつもりだったんだ?」
目に見えて怯んだシンを庇おうと、横からライオットが口を挟む。
「ちょっと待てよ。それは俺が勧めたんだ。それに陛下が一緒だったから、いつでも《テレポート》で助けに行けた。無策のままひとりにしたわけじゃない」
「俺なら、助けが来る前にその猫ごとレイリアを殺せるぜ」
カザルフェロはライオットに一瞥をくれると、一言でばっさり切り捨てた。
「それくらい、貴様にだってできるだろう。シン・イスマイールにもできる。広い世界だ、もうひとりくらい腕の立つ奴がいて、そいつがレイリアを襲ったらどうするつもりだったんだ?」
淡々と突きつけられる糾弾に、誰も反論ができなかった。
彼女をひとりにしたのも事実、邪教の司祭が彼女を狙っているのも事実だ。あの時ラスカーズやアンティヤルが彼女を直接襲っていたら、シンたちは為すすべもなくレイリアを失っていただろう。
冒険者たちが返す言葉もなく黙り込むと、カザルフェロはようやく、言葉と表情から力を抜いた。
「俺はな、お前さんたちに手を引けとまで言う気はない。けどな、本気でレイリアを守りたいなら、あいつに恨まれても憎まれても、安全な場所に閉じこめておくくらいの覚悟が必要なんじゃないのか?」
カザルフェロの言葉は、口先だけではない。
実際に彼は、レイリアに恨まれるのを承知の上で、休日を全部潰して神殿内に確保しているのだから。
「さっきの答えだがな。レイリアを後方に下げるのは却下だ。配置は中段とする。万一の時には神官戦士団全員を盾として使い捨ててでも、レイリアだけは無事に帰さなきゃならんからな。あいつはそういう存在なんだ」
お前は本当に、そこを分かっているのか?
カザルフェロは心の奥底を見通すような視線でシンを見つめ、今度は一転して、若者を教え諭すように言う。
「レイリアは佳い女だ。お前さんが惚れるのも無理はない。けどな、あいつは誰が何と言おうと“亡者の女王”の転生体なんだ。お前さんのやり方を続けたら、邪教だけじゃなく、いずれはマーファ教団とアラニア王国全部を敵に回さなきゃならん。ひとりの人間にはどだい無理な話だと思わんか?」
シン・イスマイールほどの実力があれば、戦場に限定すれば、神官戦士団や王国騎士団ともある程度は戦えるだろう。
だがそれだけだ。
生きていくためには食事や寝床が必要で、それを遮断されてしまえば戦闘にすらならない。
シン・イスマイールに物を売るな。宿に泊めるな。
マーファ教団やアラニア王国が住民たちにそう命令するだけで、シンたちはあっと言う間に日干しになってしまうだろう。
「今はまだいい。ニース様が存命のうちはな。だがその先、お前さんたちだけじゃ必ず無理が出てくる」
カザルフェロの理路整然とした言葉は、シンが今まで見ないようにしてきた事実を白日の下に照らし出した。
今、レイリアに降り懸かる火の粉を払うのはいい。
だがその先はどうする?
何とかして邪教を殲滅できたとして、ニース亡き後、ターバ神殿やアラニアの宮廷とどう付き合っていくのか。
「あんたの言うとおり、俺たちだけで神殿や王国と戦うのは無理なんだろうな」
そう認めてしまうと、シンの心がふっと楽になった。
ひどく凪いだ心境で、目の前の戦士長を見上げる。
「でもさ。それでも俺は諦めたくないんだよ。レイリアには亡者の女王の寄代としてでなく、ピート卿とイメーラ夫人が慈しんだひとりの女の子として生きて欲しいんだ」
「シン・イスマイール。そのふたつは……」
カザルフェロが言いかけた言葉を、シンは首を振ってさえぎった。
「分けられないって言うんだろ? 分かってるさ。あんたが正しいのは分かってる。けどそれじゃ俺が納得できないんだよ。いくら何でもレイリアが可哀想だ。あんたはそうは思わないのか?」
カザルフェロの言葉は正しい。
理屈としては完璧だ。
だが、人は理屈だけで生きている動物ではない。
時に感情が社会を左右するし、彼女の境遇に納得できないという感情は、きっとカザルフェロにだってあるはず。
「転生体だからって、それだけの理由で、レイリアを神殿に縛りつけて隠しておけって言うのか? それじゃあ彼女の気持ちはどうなる? あんたそれで満足なのか?」
シンが守りたいレイリアは籠の鳥ではない。
彼女が行きたいところに行ける自由。
話したい相手と話せる自由。
心の感じるままに喜び、怒り、哀しみ、楽しむ自由。
それこそが真に価値のあるものであり、シン・イスマイールが守り抜くと誓ったものだ。
レイリアの意志を無視して神殿に閉じこめたのでは、ナニールの墓所であの“棺”に封印するのと何も変わらないではないか。
「シン・イスマイール……」
カザルフェロはうんざりした表情と口調を隠そうともせず、ため息混じりに言った。
「お前さんはいったい、レイリアにどんな生活をさせたいんだ? 『神殿に縛りつける』と言うがな。ターバ神殿はレイリアにとって牢獄でも何でもない。もう17年以上を過ごしてきた我が家なんだぞ?」
カザルフェロは、シンの知らないレイリアの過去を知っている。
ターバ神殿でマーファの加護とニースの慈愛を一身に受けて育てられた日々を。親友らと肩を並べて切磋琢磨してきた少女時代を。
レイリアにとって、ターバ神殿は決して居心地の悪い場所ではないということを知っている。でなければどうして、あれほど素直でまっすぐな娘に育つものか。
一方シンは、カザルフェロが知らないレイリアの未来を知っている。
“灰色の魔女”カーラに肉体を乗っ取られた7年間を。ロードス全土に戦乱をもたらすため、自己の意志を殺され利用された暗黒の時代を。
人が最も美しく輝く時代を他者に奪われたレイリアが、後にどれほどの苦痛に苛まれたかを知っている。たかが20代半ばの娘を、数百年かけて老成したかのような人格に換えてしまうほどの悲劇を、絶対に繰り返すわけにはいかない。
現状維持を目指すカザルフェロと、現状打破を目指すシン。
互いの主張が平行線をたどるのは自明の理だった。
「そろそろよいか、戦士長、それにシン・イスマイールよ。そなたらに見せたいものがある」
不穏な火花を散らしていた戦士たちの背中に、ボイル王の重々しい声がかけられた。
それに気づくと、カザルフェロは感情を隠すように仰々しく一礼した。
「これは陛下、失礼しました」
「すみません」
シンも小さく頭を下げると、ボイルは冒険者たちを伴って、再び大隧道を奥へと進み始める。
今度は護衛のドワーフ戦士も、神官戦士団の幹部も、同行を許されなかった。
松明を手にしてボイル王の供を勤めるのはギムひとり。
それにカザルフェロ戦士長とシンたち3人を加え、総勢6名まで減った一行は、さらに大隧道の地下深く、“鉄の王国”の中枢へと潜っていく。
「先ほどギムから話は聞いたが、あまりうまくいっておらぬようだな」
頭を下げたまま、カザルフェロが弁解する。
「陛下、ご安心ください。我らは上位魔神を倒し、鉄の王国に平和を取り戻すためにここまで参ったのです。感情に流されて足を引っ張りあうことはないと断言いたします」
「そう願いたいものだ」
齢140年を重ねたボイル王の目には、カザルフェロやシンなどまだ子供に見えるのだろう。
意味ありげに唇を歪めたが、それ以上の追求はせず、ボイルはふと話題を変えた。
「人にはそれぞれ、戦う意味というものがあろう。戦士長はターバ神殿を守るため。シン・イスマイールは好いた女を守るため。そこな戦士と魔術師にもそれはあるはずだ」
ギムが掲げる松明が、小さく踊って火の粉を舞い上がらせる。
オレンジ色に揺れる王の横顔を見つめながら、人間たちは言葉の続きを待った。
「無論、それは我らドワーフ族にもあるのだ。我らが刃を交えてでも守らねばならぬもの。それをこれから見せよう」
「……これから?」
ふとライオットが首をひねる。
これから見せる。
ということは、今まで見たものの中には答えがないということか。
王国の居住区でも、溶鉱炉を中心とした工房区画でもない、ドワーフ族にとって真に価値のあるものとは一体何だろう?
そんなことを考えながらボイル王についていくと、唐突に視界が開けた。
大隧道もかなりの広さだが、ここは大広間と呼べるほどに巨大な空間だった。ひと抱えもある石柱がずらりと並んで天井を支え、測ったように真四角の空間が掘り抜かれている。
まるでアラニア王宮にあった謁見の間のよう。
だが、双方を見比べれば明瞭な相違があった。向こうは模造品でしかない。あくまでも人為的に演出された空間だ。
しかし、ここは違う。
人智を超えた何かにしか宿らない厳粛な雰囲気が、数百年、あるいはそれ以上の年月をかけてこの場に染み着いている。
鏡のように平らに整えられた壁面といい、正門と同じく荘厳な装飾といい、ここが岩盤を掘り抜いた地底だとは到底信じられなかった。
そして正面。
磨き上げられた大理石の階の中段に、玉座とおぼしき豪奢な椅子が。
その最上段に、御影石で造られた炉が据えられていた。
内部に燃える物など何もない。薪がくべられているわけでも、油が引かれているわけでもない。
それでも、御影石の炉の中では、青白い炎が勢いよく渦巻いていた。
この広間を覆っているものを神気とするならば、その根元は間違いなくあの青い炎だ。
訳もなく理解したシンたちが足を止めると、その様子を満足げに眺めてから、ボイル王は人間たちに向き直った。
「ここは我が王国の玉座の間。古から“ブラキの鉄床”と呼ばれきた部屋だ。ここに入った人間はそなたらが初めてだ。おそらく次はおるまい」
鍛冶神ブラキが鋼を鍛える部屋。
神話の時代から受け継いできたと言われても納得できそうな雰囲気に、全員が圧倒されて押し黙る。
「そして玉座の上にあるのが“永久(とこしえ)の炉”。石の王国亡き今、ロードスに唯一残されたブラキの炎よ」
ボイルは言うと、炎に向かって恭しく礼を施した。
「陛下。ブラキの炎とは?」
人間たちを代表して、カザルフェロが尋ねる。
ボイルは顎髭をしごいて沈黙した後、言葉を選びながらゆっくりと答えた。
「古から伝えられてきた神の炎だ。“鉄の王国”はあの炎を守るために作られたと伝承されておる。この国の王になるということは、すなわち、あの炎の守人になるということ」
王たる身分をただの見張り番だと言いきったボイルに、ライオットが驚いて尋ねる。
「あの炎は、王の権威の象徴ではないのですか?」
「否。さように小さなものではない。あれはドワーフ族すべての誇り。言い方を変えれば“鉄の王国”そのものよ」
「それでは、ドワーフ族が戦う理由というのは……」
カザルフェロが発した言葉を、ボイルはこともなげに認めた。
「そうだ。我らが守らねばならぬのは、王国の民でも鉱山でもない。この世界にただひとつ残された神の炎だ。王国の民ことごとくが死滅しようとも、我らドワーフ族は“永遠の炉”を守らねばならぬ」
「民の命より、あの火の方が大事だって言うんですか?」
シンの眉が跳ね上がる。
王たる者の責務は、まず第一に国を守ることではないのか。
国の礎は人だ。上位魔神という災厄から民を守らずして、何が王か。
口には出さなかったが、シンの目が雄弁にその想いを主張する。
だが、シンの非難など意にも介せず、ボイル王はじろりとにらみ返した。
「30年前。そなたら人間が引き起こした魔神戦争で、南にあったドワーフの王国が滅びた。“石の王国”だ。フレーベ王を含め、王国の住民は最後の最後まで戦った。誰ひとりとして逃げ出さなかった。何故だか分かるか?」
重々しい王の威厳は、どっしりと構えて小揺るぎもしない。
即答できないシンに、ボイルは低く唸るように言葉を続けた。
「すべては神の炎を守るためだ。だが石の王国は滅び、南の“永遠の炉”は失われた。ここにあるのが最後のひとつ。もはや退くことは許されぬ」
寸毫の迷いもなく断言するドワーフの王。
厳しい視線が人間たちを一巡し、やがてシンのところに戻ってくると、ボイルはいくらか口調を和らげて問いかけた。
「シン・イスマイールよ。そなたは何のために生きている?」
今度はシンも即答した。
「レイリアを守るためです」
「では問う。その娘が死んだら、次は何のために生きるのだ?」
ボイルの質問は想像するだけでも不愉快な前提だ。
思いきり顔をしかめたシンは、しばらく悩んだ後、不機嫌に言い放った。
「俺は、そうならないために戦ってるんです。レイリアに万一のことがあるようなら、とっくに俺も死んでます。だからその質問は無意味ですよ」
王の諮問を正面から蹴飛ばしたシンに、カザルフェロが咎めるような視線を向ける。
だがボイルは、我が意を得たりと満足そうにうなずいた。
「であろう。我らも同じよ。“永遠の炉”は我らドワーフ族の誇りなのだ。これを失うことになれば、もはや鉄の王国に存在意義はない。誇りを失った民では、何千人生き残ろうと四分五裂して瓦解するだけだ」
魔神戦争の後、南にあった“石の王国”が再建されなかった理由もそこにあるのだろう。
多くのドワーフたちが集まり、社会を形成してひとつにまとまれるのは“永遠の炉”という核があってこそ。
それを失った石の王国には、再建するだけのメリットが残されていなかったのだ。
「だからギムは、王国が滅びの危機に瀕しているって表現したのか」
ライオットがようやく得心したようにうなずく。
王国の核である“炉”を守る戦士団が、初期の戦闘で消耗してしまった。魔神と居住区画の間には数百の戦士たちが残っていても、“炉”を守るべき戦士はいなかった。
“炉”を失えば王国も失われる以上、ギムの言葉は大げさでも何でもなかったわけだ。
「そこが俺には理解できません。由緒正しい炎なのは分かりましたけど、どうしてただの炎が何千人ものドワーフ族を惹きつけるのか」
なおも釈然としないシンに答えたのは、ボイル王ではなくルージュだった。
「あの“永遠の炉”はね、この世界でたったひとつ、ミスリル銀を精錬できる炉なんだよ。リーダーが持ってる剣もミスリル製だけど、それは無限の魔力の塔から莫大な魔力を供給して鍛えられた物なの。だから魔力の塔が失われた今、人間にはミスリル製品を作り出す能力が残ってない」
それができるのは唯一、“鉄の王国”のドワーフのみということだ。
「なるほど……」
ようやく納得してシンがうなずく。
死んだらそれまでの生命とは違って、“永遠の炉”は次の世代にも、その次の世代にも世界でただひとつという価値を伝えていく。
だが、本当に大事なのはその価値ではない。その価値が、千年先までドワーフたちの誇りであり続けることが重要なのだ。
ボイル王やドワーフたちが“永遠の炉”を守ろうとするのは、まだ見ぬ子供や孫たちに生きるための誇りを伝えるため。
それを思えば、非情に聞こえるボイル王の言葉も理解できる気がした。
「先ほども申したがな。戦う理由はそれぞれ違う。だからわしはそなたらにここを見せた。我らが守らねばならぬのはここなのだ。どうか頼む。そのつもりでそなたらの力を貸してもらいたい」
そしてボイルは、初めて人間たちに頭を下げた。
王たる者がただの冒険者に施すには、あまりにも過ぎた礼だ。護衛の戦士たちがいれば黙っていなかっただろう。
だがボイルにとって、施す礼などささいなことだった。いま重要なのは自分のプライドではない。
「分かりました」
ボイルが見せた本音に、シンも素直に答える。
頭を下げていようとも、ボイルは決して卑屈ではない。
己の為すべきことを見定めた王の姿は、シンにはどこまでも誇り高く見えた。
「魔神は絶対にここへは入れません。この剣と戦士の誇りに誓ってお約束します」
ボイルに触発されて、シンの目の色も変わる。
それを悟ったライオットとルージュが、無言で微笑を交わした。
傲るでも気負うでもなく、ただ静かな決意をみなぎらせるシン。
もしレイリアが今のシンを見たら、きっと『勇者』という言葉で評しただろう。
その評価は万人が認めるはずだ。
今のシンはただ強いだけでなく、周囲に勝利を確信させる不思議な力を持っているのだから。
そんな“砂漠の黒獅子”の横顔を、カザルフェロはただ無言で見つめていた。