シーン4 白竜山脈 オーガーの沢
「この小川に沿って進めば、ベック爺の言っていた沢に出るみたいです」
祝福の街道にかかった小さな橋で足を止めると、黒髪の美少女は地図から顔を上げ、目を細めて清流を見下ろした。
早朝。
川面から立ちのぼる朝靄のせいで、視界は白一色に染まり、遠くまで見通すことはできない。
「やっかいだな」
レイリアと並んでいたシンが、小さく舌打ちした。
人の手の入っていない自然の森は、木々が折り重なるようにして生い茂っており、魔法で一方的に叩けるほどの視程が確保できない。
おまけに、足場も悪かった。
渓流には大小の岩が転がり、まっすぐ歩くのも難儀しそう。とてもではないが、走ったり跳んだり、剣を振り回したりするような地形ではない。
ろくに動けない中でオーガーが暴風のように暴れ回ることを想像すると、絶望的な気分になってきた。
「その辺から、ひょっこり街道に出てきてくれないもんかね?」
シンが川面を示すと。
それに応えるように、大きな影が朝靄の向こうから飛んできた。
鹿の死体だ。しかも前半身だけの。
突然の出来事に、誰も声すら上げらないまま、そう認識する。
死体は放物線を描いて飛び、濡れた音をたてて街道に落下すると、赤黒いナニカをまき散らした。
血と生肉のにおいが立ちこめる。
「あのさ……」
ルージュが乾いた笑みを浮かべて、降ってきた死体を見た。
前半身だけ。
何者かに喰いちぎられたらしく、荒々しい断面を残して、後半身はなくなっている。
「気のせいかもしれないんだけど、鹿の生肉を食べた人に心当たりがあるんだよね」
「奇遇だな。俺もだ」
ライオットも鹿を見つめたまま、平坦な声で同意する。
「こんな重いものを遠くまで投げる生き物も、そうそういませんよね」
レイリアの声は、ちょっとうわずっているようだ。
誰もが無惨な亡骸に注目していた。
いや、現実から目をそらしていると言うべきか。視線を移せば何が見えるか分かりきっているのに、誰もがそれを先延ばしにしていた。
「呆けとる場合か、来るぞ! 早く剣を抜け!」
ギムが両手で戦斧を構えて怒鳴る。
シンとライオットはその怒声に脊椎反射で抜剣して身構えた。
人間の倍はありそうな、毛むくじゃらの太い腕が木をつかみ、川岸から街道へと巨体を引き上げている。
赤茶けた剛毛。
血のこびりついた鋭い爪。
頭頂部は三角形に尖り、爛々と光る目が街道を見渡す。
充血した赤黒い瞳がシンたちを見つけるなり、犬歯をむき出しにした口がにやりと歪んだ。
「Wooooooooow!」
血に飢えた巨人の咆吼が、早朝の大気を振るわせる。
食人鬼の名に恥じない、凶悪きわまる登場だった。
「で、ででで出た出たぞどうする一彦!」
「ちょうど良かったじゃないか。探す手間が省けた。さっさと倒して帰ろう」
「ホントにいいのかあいつまだ吼えてるだけだぞこのままだと正当防衛成立しないんじゃ?!」
自分でも何を口走っているのか理解できないが、とにかくシンはしゃべり続けた。
実際、そうでもしないと恐怖で錯乱してしまいそうだった。
身の丈3メートル近い巨人が、自分たちを襲う気満々で吼え猛っているのである。
明確な殺意を向けられたことのない、善良な一般市民としては、回れ右をして逃げ出さないだけでいっぱいいっぱい。
レベルがどうとか、魔法なら大丈夫とか、そういう問題ではなかった。
もっと根元的な、自分を殺せる相手に対する、圧倒的な恐怖。
こいつと同じ場所にいてはいけない。
逃げるべきだ。少しでも早く、少しでも遠くへ。
生物としての本能がそう絶叫している。
それでもこの場に踏みとどまっている理由は、たった一つ。
逃げ出す余裕がないだけ。
精神的に腰が抜けてしまい、何か行動を起こすなど思いもよらなかった。
「そもそもあいつを倒しに来たんだろ……とは言うものの、いきなりは無理だよな」
ライオットは仲間たちの様子を一瞥して、緊張にこわばる頬を無理やり笑みの形に歪めた。
何とか行動できるだけの余裕があるのは、職業柄、荒事の経験を数多く踏んでいるライオットだけのようだ。
怖いことは怖い。心臓は早鐘を打ち、背中は汗でびっしょり。できれば逃げたい。
だが一般市民の目の前で、無様な姿は見せられない。
そういう状況の中で、実際に犯罪者と戦ってきた警察官としての経験が、土壇場でものを言った。
オーガーの正面ではギムが防衛線を張り、後衛をかばう態勢になりつつある。
だがシンとルージュはダメだ。いちおう得物を構えてはいるものの、足に根が生えている。あのままでは戦闘の役には立たない。
ちらりと視線を向ければ、レイリアも蒼白になって立ち尽くしていた。完全に無防備状態だ。
それを見てちょっと安心した。原作キャラクターといえども、蝶よ花よと大切に育てられた箱入り娘。これが普通なのだ。
「使えそうなのは俺とギムだけか」
魔法の輝きを宿す大盾を構えながら、ライオットはギムに並ぶようにオーガーの正面に進んでいく。
ジュラルミンの盾1枚で、鉄パイプを持った極左過激派集団と乱闘した警備現場を思い出しながら、ライオットは緊張で乾いた唇をぺろりと舐めた。
「どうじゃ、後ろは?」
腰を落とし、両手で戦斧を構えながら、ギムがちらりとライオットを見る。
「まだダメだ。混乱してて使えそうにない」
「魔術師の嬢ちゃんはともかく、あれほどの戦士がどうしたんじゃ? 昨日とまるで違うではないか」
「それを今言っても仕方ない。あいつの攻撃は俺が引き受けるから、ギムは回り込んでくれ」
「よし、分かった」
小さくうなずいたギムが、じりじりと後退していく。
魔法の盾を前面に構えたまま、ライオットは防御専念の体勢でオーガーをにらみ続けた。
シンには及ばないものの、ライオットとて9レベルファイターである。正面から戦えば、オーガー程度なら相手にならないはずだ。
それでもライオットは、オーガーに対して先制攻撃を仕掛けることはできなかった。
日本人の甘いところ。
相手が敵だと分かりきっていても、先に手を出すことをためらってしまう。どんなに罵詈雑言を浴びせられても、先に手を出した方が悪い。そういう慣習が染みついてしまっている。
「Gufuuuuuu」
相手のおびえを敏感に察知して、オーガーがにやりと笑う。
自分の方が強い。こいつらは餌にできる。そう感じたのだろう。
オーガーは隙だらけの悠然とした動きで、鹿の死体をつかんで持ち上げた。
どうするつもりかと身構えるライオットの目の前で、毛むくじゃらの豪腕が一閃。50キロ近くありそうな死体を、まるで小石のように軽々と投げつけた。
死体は血と内蔵を飛散させながら一直線に飛び、真正面からルージュに命中。
華奢な体はひとたまりもなく吹き飛び、死体と絡み合うようにして5メートルほども宙を舞った後、その下敷きになって動かなくなった。
不自然な方向に曲がった右手から、魔法樹の杖が転がる。
苦痛のうめき声が聞こえるから意識はあるのだろうが、とても大丈夫といえる状況ではない。
ほんの一瞬の沈黙の後。
「ルージュさん!」
硬直が解けたレイリアが、はじかれたように駆け寄る。
レイリアはプリースト7レベル。ルージュの治療は任せておけば間違いないだろう。
しかし。
ルージュを攻撃されたという事実は、ライオットを沸騰させた。
「こいつ……!」
オーガーへと視線を移すと、汗で塗れた剣を握り直す。
先制攻撃がどうとか、相手を傷つけたくないとか、そういう躊躇は一瞬で霧散。
妻を傷つけられた。
言葉もろくに話せないような半獣人に。
その怒りは理性を真っ赤に塗りつぶした。
許さない。相応の報いをくれてやる。
精神のスイッチが一斉に切り替わり、ライオットはオーガーを睨みつけた。
ルージュを沈黙させたオーガーに、今度はギムが殴りかかっている。
ドワーフ戦士の大斧は銀色の暴風となって荒れ狂っていたが、分厚い毛皮に阻まれて、致命傷を与えるには至らない。
「ギム! もういい、どけ!」
もし精霊使いがいれば、ヒューリーの怒号に聞こえただろう。
ライオットの放つ殺気に反応したのか、オーガーはギムを捨ておいて向き直った。
即座に“勇気ある者の盾”の魔力が発動。オーガーの攻撃対象をライオットに固定する。
「おい。土下座して謝れば、俺にも慈悲はある。楽に逝かせてやるぞ」
右手の長剣をまっすぐ眉間に突きつけ、ライオットが宣言する。
「Gyaaaaaaaaoooooooow!」
その不遜な態度に怒りを覚えたのか。
オーガーは天に向かって吼えると、思い切り振りかぶった右腕をライオットに叩きつけた。
あまりの威力に大地が鳴動し、空気が震える。
盾で正面から受けたライオットの鉄靴が、10センチ余りも地面を削る。
だが。
それだけだった。
「ダメージは、0だ」
ライオットが酷薄に口許をゆがめる。
「この程度か。緊張して損した」
そして反撃。
ファイター9レベルという圧倒的な技量で打ち込んだ剣は、2桁に到達する追加ダメージの恩恵をいかんなく発揮し、オーガーの腕をあっさりと切断した。
ソーセージでも切るような、軽い手応え。
それだけで、剛毛に包まれた右腕が、血の尾を引いて地面に転がった。
「Gyuaaaaaaaaaaaaaaaa!」
今度の絶叫は苦痛か。
まごう事なき恐怖に顔を歪めながら、オーガーが今度は左腕を振りおろす。
「何度やっても同じ」
正面から盾で受ける。
衝撃。
踏張る鉄靴が大地を削り。
「ダメージは、0だ」
冷酷に告げる声とともに、ライオットの剣が一閃。
あっさりとオーガーの首を斬り飛ばした。
生き物を殺したという特別な感慨はなかった。
感じたのは、腕に止まった蚊を潰したときと同レベルの、ちいさな爽快感だけ。
勝った。その余韻にひたる間もなく。
ライオットの首筋にチリチリした悪寒が走る。
反射的に振り向いた先、シンとレイリアの後方には。
「シン、後ろだ! もう1匹いるぞ!」
「Guaaaaaaaaa!」
今度は、根本から引き抜いた樺の木を軽々と振り回しながら、新手のオーガーが迫っていた。
ルージュを治療中のレイリアを後ろにかばい、剣を構えなおすシン。
背後からは、緊迫した様子でマーファに祈りを捧げるレイリアの声が聞こえる。
やるしかない。今、ルージュとレイリアを守れるのは自分しかいないのだから。
とはいえ。
怖い。今度は武器付き。さっきよりも迫力は上。
ここにいるのが怖い。
戦うのが怖い。
傷つけるのも、傷つけられるのも怖い。
剣を握る手には力が入りすぎ、すでに感覚が麻痺していた。
全身の筋肉がこわばり、息が苦しい。
自分はライオットとは違う。戦う訓練などしたことないし、殴り合いの喧嘩だって小学生の頃が最後だ。
逃げようか。
戦うのはライオットに任せて、自分は逃げよう。1人くらいいなくても大丈夫。あいつがいれば何とでもなる。あいつプロだし。
よし決定。逃げよう。
シンがそんな結論に達するまで約1秒。スーパーコンピュータ並の演算速度でそこまで考えたとき。
その歌は聞こえてきた。
汝の運命は神の御手に
神は汝を支えたまわん
我、神の御名をば呼ぶ
神は我が声を聞きとどけ
汝を向かいくる敵から守り給う
それは、二千年の時を経て伝えられてきた祈りの言葉。
国を滅ぼされ、故郷を追われた民が、絶望の淵を旅しながら連綿と伝え続けてきた、神の降臨を願う祈りの言葉だ。
そして千年が過ぎたころ、彼らの祈りには、いつしか旋律がつけられていた。
祈りは歌になり、雨が大地にしみわたるように、世界に広がっていった。
来たれ、聖霊よ
天より御光の輝きを放ち給え
貧しきものの御父
天寵を授くる御方
心の光に坐す御者よ
歌っているのはライオットだ。
主として男性聖職者が六音階で歌う単旋律・無伴奏の祈りは、後にグレゴリオ聖歌と呼ばれるようになる。
文字を知らない人々にとって、歌とはすなわち祈りだった。
古ヘブライ語で歌われた聖歌である。意味など分からなかっただろうことは想像に難くない。
しかし、荘厳に響く歌に心を震わせ、目の前の試練に自らを奮い立たせるのに、言葉の意味などさしたる問題ではなかろう。
それより問題は。
シンは突進してくるオーガーに視線を転じて、こわばった指をほぐすように、剣を握りなおす。
シンの理性を縛り上げていた恐怖と緊張が、嘘のように消え去っていた。
こよなき慰め手
魂の甘美なる友
心のなごやかなる楽しみ
疲れたるときの憩い
灼熱のうちの安らぎ
憂うるときの慰めよ
戦神マイリーの奇跡のひとつ《戦いの歌》。
聞く者の勇気を呼び起こし、恐怖を駆逐し、戦いの加護を与えるという効果を持つ神聖魔法だ。
バード技能込みで朗々と響くライオットの歌声は、その場にいる全員の心から、脅えや怯みをきれいに消し去っていく。
後に残るのは爽快に晴れわたる理性と、勇気に満ちた高揚感だけ。
おお、幸いなる清き光よ
御身が信徒らの心の最奥をば満たしたまえ
御身の助けなくして
罪なきもの、誰も在らじ
この中で唯一理系のルージュならば、魔法の影響でβエンドルフィンが過剰供給されていると分析しただろう。
マイリーの加護によって大量生成された副腎皮質ホルモンが、中脳腹側被蓋野のμ受容体に作用してGABAニューロンを抑制。A10神経のドーパミン遊離が過剰反応を起こし、精神的なストレスを排除したのだ。
願わくは
穢れたるを禊ぎ
乾けるを潤し
傷つきたるを癒し
固きを柔らげ
凍えたるを暖め
迷えるものを導きたまえ
なぜ、逃げようなどと思ったのか。
そんな必要はなかったのに。
シンは小さく笑いながら、ゆっくりと剣先をオーガーに向けた。
なるほど中の人は一般人だが、大学卒業を棒に振ってまで演劇とTRPGに青春を捧げたプレイヤーだ。
父に怒鳴られ、母に泣かれ、それでもやめなかった演じ手として。
10レベルのファイターを演じる以上、敵に背を向けて逃げ出すようなみっともないロールプレイなど、誇りに賭けてできようはずがない。
御身の忠実なる信徒らに与えたまえ
御身が七つの貴きものをば
彼らに徳の誉れをば
彼らに救いの扉をば
彼らに永遠の喜びをば
新手のオーガーの標的は、間違いなく自分だ。根本から引き抜いた樺の木を丸々1本振り回しながら、一直線に襲いかかってくる。
背中には、すがるようなレイリアの視線を感じた。
脅える美少女をかばって、凶悪な敵と対峙する戦士。そんな自分を客観的に認識できる。
シナリオのクライマックスで、最高の見せ場だ。
この期に及んで、戦わないという選択肢はなかった。
「来たな、プレッシャー」
つぶやきながら、シンは冷静にオーガーの動きを分析する。
勢いだけで大ざっぱな突進。
一言で言えば隙だらけ。負ける要素など全くない。
確かにオーガーの怪力は脅威だ。
だが、シンの尊敬するサングラスの大尉は言っている。当たらなければどうという事はない、と。
だったら話はシンプル。
殴られる前に殴る。それだけだ。
オーガーが大枝を振りかぶったところを、シンは狙いすまして反撃に出た。
シンの右足が力強く大地を蹴り、数メートルの間合いが一瞬で詰まる。
刹那、オーガーの全身が、雷の網に絡め取られた。青白い稲妻が毛皮を焼き、肉の焦げる臭いが漂う。
それを知覚しながら、シンは委細構わず全力で魔剣を振り抜いた。
「どおおおおおりゃああああああッ!」
電撃で体を硬直させたオーガーに、白い燐光を放つ魔剣が食い込む。
10レベルファイターの剛剣が巨人を腰断すると、血の尾がきれいな円形を描いた。
下半身に別れを告げた上半身が、回転しながら鈍い音をたてて地面に落ちる。
剣を振り抜いた姿勢のまま、肩で荒い息をつきながら、シンは上下に分断されたオーガーを油断なく見下ろした。
うつ伏せに倒れた上半身は、何度か砂をかくような動作を見せた後、完全に動かなくなる。
その死を見届けたか、全身を焼いていた雷の網も消滅した。
敵は死んだ。間違いなく。
それを確認して、ようやく肩から力を抜く。
「さすがじゃな。まさか一撃で倒すとは」
ギムが、ぽんとシンの背中を叩く。
「魔術師の穣ちゃんも無事のようだし、何よりじゃ」
その言葉に、ルージュの方を振り向く。
言われてみれば、さっきオーガーの動きを止めたのは《ライトニング・バインド》の呪文。レイリアの回復魔法が間に合ったらしい。
「もう、一張羅が血まみれ。最低」
レイリアの手を借りて自分の上から鹿をどかすと、ルージュはぶつぶつ文句を言いながら立ち上がっていた。
「悪い。油断してた。大丈夫か?」
ライオットが妻に駆け寄って、腕の具合を確かめる。
「骨折なんて高校以来の激痛だよ? 本気で泣こうかと思った。なんかまだ痛い気がする」
ルージュは、右腕をさすりながら肩をすくめた。
落ちていた魔法樹の杖を拾いながら、レイリアが申し訳なさそうに言う。
「昼までに痛みは引くと思いますが、しばらく違和感は残ります。すみません、私の魔法では完全に癒すことはできないんです」
怪我を癒すことはできても、何もかも元どおりとはいかないらしい。
重傷ならば、すぐに歩いたりはできないそうだ。これは覚えておいた方がいいだろう。
「さっきの《ライトニング・バインド》は杖なしでやったのか?」
「うん。達成値はちょっと下がるけど、正直腹立ったからね」
ルージュは答えると、あらためてオーガーの死体を見下ろし、細く吐息をもらした。
ライオットが、妻を気遣うように肩に手を置く。
そんな夫婦を横目で見ながら、シンは言った。
「それにしてもさ。死体を見たら取り乱すと思ったけど、想像以上に無感動だな」
小説なんかでは、見ただけで吐き戻す描写があったのだが。
動き出したら怖いな、とは思うものの、ただそこに転がっているだけで気分が悪い、という感じはしない。
「まだ腐敗してない新鮮モノだし、蛆虫もわいてないからな」
端切れの布で血糊をぬぐって剣を納め、ライオットが答える。
「俺も交番で初めて死体の通報をされたときは、肉なんか食えなくなるんじゃないかって心配したけどさ。ふつうに晩飯は牛丼食えたよ」
以来ダース単位で遺体を扱ってきたが、気分が悪くなったことは一度もないという。
「そこにあるだけなら、人形と変わらないしね」
ルージュも、中の人は臨床検査技師だ。大学の実習では人体解剖をやったし、肉片を細切れにして遺伝子検査をする仕事柄、人の筋肉組織や臓器など見慣れたもの。
「ま、実際そんなもんだよな。安心したら喉が渇いたし、腹も減ってきた」
シンがうなずいた。
さすがに今朝は緊張して、朝食は軽く済ませていたのだ。
「オーガーの首はわしらが預かって構わんか? マーファ神殿で報奨金の交渉をするのに役立つのでな」
「それは構わないけど、死体はどうする?」
シンの問いに、ギムは髭をしごきながら考え込んだ。
新婚夫婦が歩く祝福の街道に、巨人の死体が転がっているのはあまり宜しくない。
「脇の木立に寄せておくしかないのでは? 私たちだけでは移動させられないでしょう?」
レイリアの提案に、ライオットは首を振った。
「野犬や狼が集まってきたら危険じゃないか? 俺たちはいいが、そこいらの新婚さんには十分な脅威だろう」
「それもそうですね」
燃やす、埋めるなどの意見も検討されたが、今さら血まみれの死体なんか触りたくないので、できれば他人に押しつけたかった。
「では、神殿に戻って荷車と人手を呼んできましょうか?」
「なんか面倒だね。要は死体を処分すればいいんでしょ? オーガーは首だけ残ってればいいんですよね?」
「そうじゃな」
ルージュの問いにギムがうなずく。
大斧が重くうなって首を両断すると、ルージュは古代語の呪文を唱えながら魔法樹の杖を胴体に向けた。
オーガーの死体に白い燐光が宿り、それは次第に明るくなっていく。
呪文の詠唱に力が入ると、光は目も眩むような輝きとなり、そして弾けた。
「すごい……」
レイリアが信じられないという表情でつぶやく。
光が弾けた後、そこにあったオーガーの死体は、跡形もなく分解されていた。ただ地面に広がる血の染みだけが、戦闘の名残をとどめるのみ。
「死体相手に使うのも、魔力の無駄遣いだけどね」
「いや、助かったよ。お疲れさん」
ライオットが肩をたたいて労う。
「本当にありがとうございました。おかげで助かりました。私たちも、巡礼の皆さんも」
レイリアは改まった口調で言うと、深々と頭を下げる。
艶やかな黒髪が、白い神官衣の背中をさらりと流れた。
「皆さんがいてくれたのも、マーファのお導きかもしれません」
「出会ったのはお導きかもしれないけど、冒険者を探そうって決めたのは、君の決断だろ」
シンの言葉に、レイリアが顔を上げる。
「困ったことがあったら、またあの店に来てくれ。いつでも力になるよ」
「ありがとうございます、ぜひ」
黒髪の美少女が輝くような笑顔を浮かべる。
その頬がうっすらと染まっているのに気づいて、ライオットとルージュが、思わず顔を見合わせた。
「……吊り橋理論って言うんだっけか、こういうの」
「オーガーから身を挺して守った上に、今のリーダーはかなりイケメンだからね。きっと第一印象は相当いいよ」
小声で論評しながら、黒髪の美少女と見つめ合っている親友を眺める。
中身はヘタレでメタボ寸前のSEだが、外見は実直そうな砂漠の部族の戦士である。
この2人が並ぶと非常に絵になるというのは、否めない事実だった。
「問題は、誰とフラグ立ててるのかあいつが理解してるかってことなんだけど」
「いいじゃない。お似合いだよ。リーダーもやっと春が来たんだから、頑張ってもらわないと」
「頑張れるかな。あいつ、彼女いない歴33年だぞ」
「お互い気になってるみたいだし、大丈夫じゃない?」
「“灰色の魔女”を蹴散らしてか?」
そんな外野の心配など気にも留めずに、シンが晴れやかに宣言した。
「それじゃ、帰ろうか。とりあえず一杯飲んで、一休みして、それから服と装備の洗濯だ」
ロードス島へ来て二日目の早朝、彼らの最初の冒険は、何とか成功に終わった。
祝福の街道を覆っていた朝靄はゆっくりと晴れ、東の空から朝日が差し込んでくる。
だが、世界はもう少し、まどろむべき時間の中にあった。
シナリオ1『異郷への旅立ち』
MISSION COMPLETE
獲得経験点
オーガー5レベル×500=2500点