シーン2 白竜山脈
太陽は西の地平に近づき、空は鮮やかな茜色に染まっていた。
白竜山脈の麓に広がる針葉樹の森にも、夕暮れの涼気とともに、オレンジ色の薄闇が広がってくる。
完全に日が落ちてしまえば、月明かりの届かない深い森の底では、自分の足下すらもおぼつかなくなる。そろそろ野営の準備をするべきだろう。
しかし、徐々に濃くなっていく闇の中。
ターバの神官戦士団は休憩するそぶりもなく、ただ黙々と前に進み続けていた。
マッキオーレが銀貨を湯水のように使って馬をかき集めたおかげで、戦士たちは全員が騎乗しており、自分の足で歩いている者はひとりもいない。
本来なら背負っているはずの重い水や食料も、すべて随伴する馬車の中だ。
かつてない潤沢な装備と補給体制。戦う者にとっては至れり尽くせりの環境が整っていたが、それを手放しに喜ぶ者もまた、ひとりとしていなかった。
「マッキオーレ司祭が金を惜しまないなんてな。この世の終わりが来たらしい」
「どうせ死ぬんだから、最後に餞別代わりってことだろ」
「いやいや、ただで死んだらきっと文句を言われるぜ。どうせなら給料分は働いてから逝けってさ」
転々と灯された松明の明かりの中で、時折、戦士たちが自虐的な冗句を交わしている。
これから自分たちがどこへ向かい、何と戦うのか。
それを知らされてからというもの、戦士たちは皆こんな調子だった。
無理もない。ターバの神官戦士たちはせいぜい3レベルだ。正面から魔神と戦って勝てる道理がない。
「敵は上位魔神、しかも無限に魔法を使ってくるのか。さすがに今度ばかりは生きて帰れないかも」
レイリアと並んで馬を進めていたソライアも、もはや笑うしかないといった風情だった。
魔神戦争の集結から、まだ30年。
幾多の町や村を灰燼に帰せしめた魔神たちの恐ろしさは、人々の間では現実のものとして語り継がれている。
まともにぶつかれば勝ち目はない。
仮に勝ったとしても、必要な犠牲者の数は両手両足では収まらないだろう。その中に自分が入っていないという保証は、どこにもないのだ。
「あ~あ、こんなことなら一度くらいは結婚してみたかったなぁ」
ため息まじりにソライアが天を仰いだ。
ここまでの人生はまだ17年だ。やりたいことも心残りも山ほどある。
「大丈夫、私たちはきちんと帰れますよ」
松明を掲げて愚痴を聞いていたレイリアは、闊達なソライアがめずらしく見せた弱音にくすりと笑った。
皆が不安になるのは分かる。レイリア自身、ザクソンの村で上位魔神に睨まれたときは、指一本動かせずに死を覚悟したのだから。
だが同時に、シンたちがいれば何も恐れる必要はないのだということも、また知っているのだ。
いつもどおり自然体のレイリアに、ソライアは唇をとがらせた。
「ずいぶん余裕じゃない。レイリアは怖くないの?」
「魔神は怖いですよ。でもシンが一緒ですから」
その答えには一片の迷いもない。
レイリアはふわりと微笑むと、自分のすぐ前を進むシンの背中を見つめた。
「ここは世界で一番安心できる場所なんです。私は今まで何度も死にそうな目に遭ってきましたけど、シンは必ず私を助けてくれました。今度だってそうなります」
そう言って愛しい男の背中を見つめるレイリアは、以前とは少しだけ違う表情を浮かべている。
以前は、ただ守られるだけだった。
でも今は違う。シンがレイリアを守るように、レイリアだってシンを守れるのだ。
ゴブリンの洞窟では、シンは自分を信頼して隣を任せてくれた。癒しの魔法にかけては、今ここにいる司祭たちの誰にも負けない。
その力はきっとシンの助けになるはずだ。
「はいはい、ごちそうさま」
ソライアがため息をついて肩をすくめた。
まだ出会って数ヶ月のはずなのに、レイリアとシンの絆の深さは何なのだろう?
少し前までは甘いだけのバカップルでしかなかったが、ザクソンから戻ってからというもの、ふたりの間には恋愛感情ではない、強固な何かが構築されている。
「ま、男どもみたいに悲観的な愚痴を言い合うよりは、そっちの方がよっぽど健康的だけどね」
率直に言えば、レイリアがうらやましい。
ソライアが自分の感情をそう評価すると、唐突にレイリアが尋ねた。
「ところでソライア、恋しい男性がいたんですね」
単刀直入な問いに、思わずソライアは口ごもった。
ここが神殿だったら、きっと誤魔化していたにちがいない。
けれど、これから死地に赴こうというときまで、親友に隠し事?
悩んだ時間は一瞬だった。
「……まあね」
「どんな人ですか?」
目を輝かせて食いついてきたレイリアに、ソライアは苦笑を返す。
「そうね、素直じゃないけど仲間思いで、責任感が強くて、誰よりも頼りになる人、かな」
これではまるで、宿坊で寝る前に楽しむガールズトークだ。
自分の恋愛事情に周囲の戦士たちが聞き耳を立てるのを感じるが、レイリアは気にも留めずに質問を重ねてくる。
「それで、想いは伝えたんですよね?」
「もちろん」
「相手の方は何と?」
「せめて一人前になってから出直せってさ」
ソライアはあははと笑いながら暴露したが、一世一代の告白をした少女に返すには、あまりにも酷い台詞だ。
レイリアの目がすっと細くなる。
「何ですか、それ?」
「当時私はまだ12歳だったし、その反応は責められないかな。ただね、年齢はただの口実だったの」
腰に吊った長剣をもてあそびながら、ソライアは少しだけ遠い目で過去を見た。
「私も負けず嫌いだからさ。誰にも負けないくらい剣の腕を磨けば、あの人も認めてくれるって思った。だから本気で訓練したし、自分では結構強くなったつもり。ま、レイリアにはかなわないけどね」
だがある日、その訓練の中で、気づいてしまったのだ。
彼がいつも、1人の女性を見つめていることに。
ほかの女性司祭たちを見るのとはまるで違う、狂おしい光がその目に燃えていることに。
「最初から私が入り込む隙間なんてなかった。彼の心はもう捕らわれていたから」
どれほどの愛を捧げても、愛が返ってくることはない。
誰を恨みようもない、しかし救いのない現実。
「ソライア、その……ごめんなさい」
シンと順風満帆の恋をしているレイリアには、慰めの言葉が思いつかなかった。
きっと何を言っても嫌みにしか聞こえない。
そう思って申し訳なさそうに親友を見ると、ソライアは満面の笑顔を浮かべている。
……満面の、笑顔?
「なんて言うとさ、私も切ない恋に苦しむ乙女みたいだよね?」
悪戯の成功を楽しむ子供のような表情だ。
とても悲恋で苦しんでいるようには見えない親友に、レイリアは頬を膨らませた。
「またからかったんですか?」
「失礼ね。嘘はひとつも言ってないわよ。今言ったことは全部本当。ただね、最近ちょっといいことがあったの」
ソライアはきらきらと輝く目でレイリアを見ると、馬を寄せ、声をひそめてささやく。
「その女がね、他の男とくっついたのよ」
「え?」
「ってことはさ、彼は失恋して心に傷を負ったわけでしょ? ここで優しくすれば、私の名前が彼の傷口に刷り込まれるってわけよ。分かる?」
5年越しの純愛がついに報われるわ、と嬉しそうなソライア。
「私も昔と違ってイロイロと成長したし。顔にも体にも結構自信あるのよ? だから部屋で2人きりになれれば勝算はあると思う」
「ソライア。それ、微妙に純愛じゃありませんよね? どっちかというと色仕掛けじゃ?」
「正攻法でしょ?」
ソライアはふふんと胸を反らすと、勝ち誇った顔でレイリアの胸元を見下ろした。
何を言いたいかは分かる。
レイリアだって形には自信があるが、純粋な物量ではソライアに敵すべくもない。男の人は大きい胸が好きらしいから“戦力”としては有効だろう。
ソライアは純粋に美人だ。
おまけに社交的だし、笑顔は明るいし、裏表のないまっすぐな性格は男性にも女性にも好かれている。
さらに言えばソライアの父はアラニア王国の上級騎士で、地位も財産も申し分ない優良物件だ。
「私、今度の戦いから戻ったら、彼にもう一度伝えるつもり。私の気持ちは5年前から変わってませんって」
「くれぐれも、返事をもらう前に押し倒さないで下さいよ」
「当たり前じゃない。返事の代わりに押し倒してもらうもの」
声をひそめて笑う少女たち。
すぐ背中で繰り広げられる恋愛話に、ライオットとルージュは顔を見合わせた。
「いまの台詞はフラグだよな」
「思いっきり立てちゃったね」
戦いに赴く前にプロポーズの花束を準備するなど論外。生きて帰る機会を自ら棒に振るようなもの、というのは多くのTRPGプレイヤーにとって常識だ。
だが残念ながら、この世界ではそこまで周知されていないらしい。
「ソライアに好きな男がいると知って、折れたフラグも結構ありそうだけどな」
聞き耳を立てていた男どもが無言で血涙を流しているのを察して、シンがにやりと笑う。
「ねえシン。私たち、無事に帰れますよね?」
背中に投げかけられるレイリアの声。
シンは振り向くと、大きくうなずいた。
「必ず帰れるよ。約束する」
「安心して、レイリアさん。私たちはそのために、今ここにいるんだから」
フラグを折るのが大好きな人もいるしね、とルージュが目を向けると、ライオットがにやりと笑う。
「前も誰かに言ったけどさ、俺はハッピーエンド以外は認めないから。みんな一緒にターバに帰って、マッキオーレの奢りで祝杯といこうじゃないか」
その言葉で、周囲の戦士たちに笑いがはじけた。
マッキオーレなら皆の無事を喜びつつ、余計な支出に渋面になりながら、さぞ盛大な宴席を設けてくれるだろう。
そして次の日から、またケチくさい神殿運営が始まるのだ。
今までと同じ日常が、これからも続いていく。
そんな未来への希望を思い出して、戦士たちの表情も明るくなったようだ。
「酒なんぞ飲めないくせによく言う。お前には扇動家か詐欺師の素質があるな」
ルージュの鞍で器用に丸くなっていたルーィエが、細目を開けて口を開いた。
「いや、それほどでも」
「ライくん、謙遜しないで。そこ褒められてないから」
思わずつっこんだルージュを、ライオットは何を言ってるんだと見返した。
「ちゃんと褒められてるよ。なあ陛下」
「ふん、調子に乗るなよ半人前が。結果が伴うまではただの妄言なんだからな」
不機嫌そうにルーィエが鼻を鳴らす。
どうやら本当に褒めていたらしい。
ルーィエは素直とはとても言えない性格だが、ライオットも同じくらいひねくれているから波長が合うのだろう。憎まれ口を叩きながらも、この2人の呼吸はぴったりだ。
かつてない危機を前にしながら、特に緊張した様子も見せない冒険者たち。
彼らが“魔神殺し”の称号を持つ凄腕であることを思い出して、周囲の戦士たちの雰囲気も明るくなる。
隊列の前方が騒がしくなったのは、その時だった。
先頭は相当混乱しているようだ。誰かの怒号が聞こえ、オレンジ色の薄闇に包まれた森の中、点々と灯る松明が大きく揺れている。
「何だと思う?」
シンは目を細めて前方を見たが、間に数十騎の騎馬がいては見通すことなどできない。
深い森に刻まれた交易路の幅も、せいぜい馬車1台を通すのがやっとだ。無理やり見に行けば隊列が崩れてしまうだろう。
「獣か妖魔でも出たんじゃないか?」
「こんなに大勢の人が、鉄の装備を持って集まってるところに?」
「けどさ、何かが出ないとあそこまで騒がないだろ」
ライオットとルージュが首をひねっていると、前から停止を命じる号令が伝わってきた。
訓練どおりの要領で復唱が後ろへ後ろへと伝達され、中段以降の戦士たちも馬を止める。
皆が何事かと聞き耳を立てていると、隊列の向こうからかすかな地響きが鳴り、
『Vooooooooooooooooow!!』
壮絶な咆吼が轟きわたった。
森が沸騰した。
ねぐらに戻っていた鳥たちが一斉に飛び立ち、まるで黒い滝が逆流するように空を覆う。
馬たちも大パニックだ。逃げだそうとするもの、竿立ちになるもの、騎手を振り落とそうとするもの。
混乱が混乱を呼び、戦士たちは自分の乗馬をなだめるだけで精一杯。
そんな中。
「行くぞ! レイリア、馬は頼んだ!」
シンは何の躊躇もなく跳び下りると、馬を捨てて駆けだした。
「そんな! 私も行きます!」
「悪いけどレイリアさん、こっちの馬もよろしく」
「すまないな」
ルージュとライオットが続き、ルージュの鞍で丸くなっていたルーィエも軽やかに地面に降り立つ。
冒険者たちにあてがわれたのは、専門の訓練を受けた高価な軍馬だ。騎手が下りたのを悟ると、その場で主人の帰りを待とうと脚を止める。
取り残されたレイリアが文句を言うのを聞き流して、シンたちは疾風のように駆けた。
「シン。さっきの声、聞き覚えがあると思わないか?」
大盾を抱えて走るライオットが、シンに並ぶと意味ありげに言う。
「聞き覚え?」
怪訝そうに問い返すシン。
だがその答えは、ライオットの言葉よりも早くシンの視界に入ってきた。
隊列の先頭には、案内役を務めるギムと、増援部隊の指揮を執っていた古株の戦士が並んで武器を構えていた。
他にも10人ばかり、前方にいた戦士たちが道いっぱいに広がって臨戦態勢をとっている。
皆、すでに馬は捨てていた。
この狭い森の中では馬の機動力は活かせないし、そもそも騎乗戦闘は専門外だ。判断としては順当だろう。
「なるほど。聞き覚え、あるはずだよな」
戦士たちが並べた白刃の壁の上。
松明に照らされた大きな影を見て、シンが小さく笑った。
茶色い剛毛に覆われた、見上げんばかりの巨体。
頭頂部は三角形に尖り、歪んだ口元には濡れた牙が光っている。
武器こそ持っていないが、分厚い筋肉で膨れ上がった腕は、それ自体が十分な凶器だった。
見忘れるはずもない。
シン・イスマイールが、この世界における初陣で戦った敵。食人鬼の異名で知られる凶暴な巨人。
オーガーだ。
「1、2、3……森の奥にもう1匹いるな。全部で4匹か」
戦士たちの壁の後方で足を止めると、シンは薄闇の向こうを見透かすように視線を巡らせた。相手の巨体のおかげで、戦士たちの頭越しにでもよく見える。
オーガーは道の中央に1匹、左右の茂みに1匹ずつ、交易路を塞ぐように立ち、低く唸りながら戦士たちを威嚇しているようだ。
戦士たちが対峙しているのはこの3匹だけだが、右手の木立の奥にもう1匹、小柄なオーガーが身を隠していた。前回は物を投げるという遠距離攻撃もしてきたから、油断していると痛い目を見るだろう。
「しかし最近よく出るな。この辺に巣でもあるのかね」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。このまま襲われたら、あの人たち死んじゃうよ」
この狭隘な地形では、戦士団の武器である『数』が殺されている。
少数同士で正面からぶつかれば、互角に戦えそうなのはギムと指揮官の戦士だけだ。他の戦士たちではあっという間に蹴散らされてしまうだろう。
それでも、戦士たちは一歩も引かずにオーガーと対峙していた。
半分闇にのまれた森の中、炎に照らされるオーガーたちの姿は迫力満点だ。爛々と光る目や、剥き出しの牙が必要以上に目に入ってくる。
緊張は杯に水を注ぐように張り詰めていき、もう間もなく限界に達するだろう。
そのとき、犠牲を覚悟しての消耗戦が始まる。
しかし。
「どうする? また《戦いの歌》がいるか?」
「アホか。暢気に歌ってないで前に出ろ。ひとり1匹ずつだ」
「ちょっと待て黒いの。俺様もこき使う気か?」
「あのねルーィエ。今日はあなた何も仕事してないんだから、少しくらい働いてよね」
シンたちは軽口を叩きながら、身構えるでもなくオーガーの前に進み出た。
最前線に冒険者たちが姿を見せると、ギムの顔に大きな安堵が浮かんだ。
「シン・イスマイールか。見てのとおりじゃ。4匹相手とはなかなか厳しいが、手を貸してくれ」
「待たれよギム殿。シン殿たちは魔神相手の切り札。このような場所で消耗させるわけにはいかぬ。ここは神官戦士団が引き受ける」
ギムと並んでオーガーとにらみ合っていた指揮官が、悲壮な声で反対する。
「しかしの」
「いえ、ここは譲れませぬ」
オーガーとにらみ合いながら2人が揉めていると、シンは軽く苦笑して指揮官の肩に手を置いた。
「気持ちは嬉しい。だけど、俺たちが受けた依頼は、神官戦士団への助勢だ」
そのまま手に力を込めて、後方へ引き下げる。
どのような技を使ったのか。指揮官は抵抗もできずにたたらを踏み、ふと気づけば前にはシンの背中があった。
凶悪な顔で人間たちを見下ろすオーガーの前で、シンはようやく背中の剣を抜いた。
白い燐光がゆるやかに軌跡を描き、ぴたりと青眼に構えられる。
「まあ、とりあえず見ててくれよ」
自信たっぷりの落ち着いた表情。
決して強い口調ではないが、逆らうことを許さない響きを持った声だった。
戦斧を構えていたギムが軽く目を見張る。
数ヶ月前、共にオーガーと戦ったときとはまるで違う。本当に同一人物かと思えるくらいの変わりようだった。
「俺たちも報酬分くらいは働かないとな」
抜き放った魔剣に炎をまとわせ、ライオットも進み出る。ミスリル製のプレートメイルが松明の光をはじき、余裕の笑みを浮かべる横顔を照らした。
左手に持った大盾が正面を向き、オーガーの1匹と視線が交錯する。
『Gyaaaaaaaaaaaaaaaaaw!!』
それまで低く唸るばかりだったオーガーが、再び盛大に吼え猛った。魔法の大盾が秘められた力を発動させ、緊張に最後の一滴を落としたのだ。
正面のオーガーは丸太のような腕を振りかぶり、地響きをたてて襲いかかってくる。
「おいライオット。その盾があるとこっちに獲物が来ないぞ」
「諦めろ。そういう仕様だ」
超重量級、体高3メートル近い巨人の突進に、周囲の戦士たちが息を飲んだ。
頭では行かねばと思っていても、自分が死ぬと分かっていて身を投げ出すなど、そう簡単にできるものではない。
緊張で身をこわばらせる戦士たちを守るように、ライオットは左腕1本で大盾を構え、腰を低くして攻撃に備えた。
正面からでも、受けようと思えば受けられるだろう。
だが以前と同じでは芸がない。
オーガーの太い腕が、重量と勢いを乗せて叩きつけられる寸前、ライオットは盾から手を離して真横に身をさばいた。
シンのように非常識な速さはないが、風を受け流す柳の細枝のごとく、しなやかで角のない動きだった。
対するに、オーガーの攻撃は勢いまかせ、力まかせだ。狙った場所を粉砕する以外の自由度はない。
壮絶な金属音が響いた。
オーガーが腕を振り抜くと、殴りつけられた盾が地面に跳ね返り、回転しながら高く高く舞い上がった。
体重を乗せすぎたため、ほぼ空振りになったオーガーの上体が泳ぐ。
それが致命的な隙となった。無防備に伸ばされた首筋はライオットの目の前だ。
巧くいった。ライオットは片頬をかすかに歪めると、剣を両手持ちにして、狙いすました一撃を放つ。
「じゃあな」
“致命的な一撃”(クリティカル・ヒット)。
炎の残光を引いて魔剣が一閃すると、宙に舞う盾を追うようにオーガーの首が飛び、直後に赤い噴水が上がった。
首を失った胴体が、やがて傾いで地面に倒れるまで。
起こった出来事をすぐには受け入れられず、ターバの戦士たちは静まり返ったまま眼前の光景を見つめていた。
「派手に決めてくれる」
回転しながら落ちてきた大盾が魔法のようにライオットの手に収まると、シンは苦笑いしてつぶやいた。
技巧を極めたライオットだから、あそこまで水際立った手並みが披露できるのだ。
倒すだけでなく『魅せる』ことまで計算した動きは、たぶんシンにはできない。
ライオットの剣を“技”だとすれば、シン・イスマイールの剣は“格”だ。駆け引きもフェイントもなく、ただ防御を許さない速度と威力を乗せるだけ。
黒い長衣の裾をひるがえしてシンは地面を蹴った。
間合いを測って跳躍すると、精霊殺しの魔剣を大上段に振りかぶり、真正面から振りおろす。
清冽な気迫と、名工の手による大業物と、そしてそれを振るうシンの技量が最高レベルで調和したとき、いったい誰にその一撃を止められるというのか。
精霊殺しの魔剣は白い燐光を引いてオーガーの眉間に食い込むと、のどを裂き、背骨に沿って胸部を両断し、そのまま股間まで一気に斬り下げられた。
シンはとん、と軽く着地するや、返り血を避けて即座に跳び退く。
赤黒い驟雨が大地をたたいた。
誰よりも驚いた表情のまま、唐竹割りにされたオーガーはゆっくりと左右に分断され、濡れた音をたてて地面に崩れる。
あの凶暴な巨人が、抵抗すらできずにただの一撃で。
しかも、文字通りの一刀両断などと。
ありえない。
たてつづけに見せられた常識はずれの光景に、観衆が唖然とする中、今度はルーィエの魔法が発動した。
『戦乙女よ、おまえの槍で敵を討て!』
銀毛の猫王が命じると、精霊語の呼びかけ応じて、白銀の甲冑をまとった精霊が姿を現す。
底冷えのする瞳が交易路に残った最後のオーガーを刺し貫くと、暗い森に白銀の閃光がほとばしった。
『Gyaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!!!!』
悲痛な絶叫。
戦乙女が投擲した魔法の投槍はオーガーの右胸に突き刺さり、胸から肩にかけてを跡形もなく消し飛ばす。
霧状になった血と肉片がしぶき、右腕がぼとりと地面に転がった。
胴体に大穴を開けられたオーガーが、血走った目に憎悪を燃やしてルーィエを睨みつける。
この期に及んでまだ戦意を失わないのはさすがだが、オーガーに許されたのはそこまでだった。
『魔狼の咆吼、雪娘の抱擁、始源の巨人の悲しみの心……』
玲瓏な上位古代語の旋律とともに、真夏の森にうっすらとした冷気が生まれる。
ルージュの強大な魔力に反応して、マナが目に見える形で世界への干渉を始めたのだ。
今はまだ足下に白い霧が流れる程度だが、霧の領域は森の奥へ奥へと広がり、木立の向こうに隠れている最後のオーガーをも飲み込んでいく。
半身を失ったオーガーが、残された左腕でルーィエに襲いかかるが、すでに遅かった。
『万能なるマナよ、氷雪の嵐となりて吹き荒れよ!』
詠唱の最後の一節が撃鉄となってマナを打ち、ルージュが描いた構成が世界を一気に書き換えた。
地面に漂う冷気が爆発するように膨れ上がり、視界を白一色に染める。
極低温の嵐は容赦なくオーガーたちに襲いかかった。氷の刃が肉を切り裂き、噴き出す血を瞬時に凍りつかせていく。
オーガーが悲鳴を上げようと息を吸えば、冷気は肺を凍らせて呼吸すらできなくなった。
白い氷雪の爆発は、1度では収まらない。
何度も何度も繰り返し荒れ狂い、そのたびにオーガーの強靱な生命力を容赦なく削り取っていく。
見守る戦士たちに鳥肌が立ったのは、魔法の余波で下がった気温のためか、それとも恐怖のためか。
冒険者たちの締めを飾るにふさわしい、圧倒的な力。
理不尽な破壊をまき散らす古代語魔法の猛威に、ギムも、戦士たちも、もはや言葉もない。
やがて霧が晴れるように視界が開けたとき、真夏だというのに森の木々や大地にはびっしりと霜がおり、オーガーの物言わぬ躯も立ったまま氷の彫像と化していた。
「容赦ないな」
蹂躙と呼ぶにふさわしい妻の所行に、思わずライオットがこぼす。
「私、オーガーには個人的に恨みがあるからね」
ルージュが硬質の美貌にうっすらと笑みを浮かべた。
「それに、ただ倒すだけじゃダメだったんでしょ?」
ふつうに戦えば、さして苦労もせずに倒せただろう。
だが、ふつうでは足りなかった。
弱気になった神官戦士団の士気を取り戻すためにも、鎧袖一触で蹴散らし、オーガーなど敵ではないと知らしめる必要があったのだ。
だからシンもライオットも『一撃』にこだわり、ルージュは無用と思えるほどの拡大魔法を使った。
「……シン・イスマイールよ」
一歩も動けずに冒険者たちの戦いぶりを見ていたギムが、乾いた唇からかすれた声を出した。
言いたいことは分かる。
シンは振り向くと、少しだけ誇らしげに笑った。
「これが俺たちだ」
ロードス島に来て2日目の早朝、ギムやレイリアの前でさらした醜態を、シンはやっと挽回することができたのだ。
「敵が上位魔神だろうとさ、俺たちは勝つよ」
決して大きくはない声だったが、静まり返った森に、シンの自信に満ちた言葉が染みわたる。
幾ばくかの余韻の後、戦士たちの大歓声が沸き起こった。
“砂漠の黒獅子”を讃える歓呼は、絶望に閉ざされた未来を照らす光となって、深くなっていく闇に何度も何度も轟きわたった。