マスターシーン 王都アラン
長い長い夜が過ぎ、アランの都に朝が訪れると、ラフィット・ロートシルト男爵夫人はようやく屋敷に戻ることを許された。
王宮に喚ばれた翌朝はいつものことだが、機嫌はすこぶる悪い。
好きでもない男に何度も精を注がれ。
避妊薬の副作用で下腹部には鈍痛が続き。
やっと閨(ねや)から解放されたと思ったら、ラスター侯とノービス伯の取り巻きが群がってきて有形無形の嫌がらせを繰り返す。
もしこの世界に意志というものがあるなら、きっとラフィットのことが大嫌いに違いない。
「親愛なる陛下も、貴族の皆様も。そう遠くないうちに、必ずや絶望と悲憤の海に沈めて差し上げますわ。あの白亜の城を血と炎で染めたら、さぞや美しい終末が見られることでしょう」
見る者が凍りつくような笑みの下で、呪詛の言葉を吐き捨てる。
ひとしきり世界を罵倒して溜飲を下げたラフィットは、離宮の奥の間に集まった男たちを見渡した。
隻腕の騎士ラスカーズと暗黒の島の蛮族アンティヤルは、ラフィットの前世からの配下であり、終末の女神カーディスの忠実なる使徒だ。
手駒として癖はあるが、世界に対する憎悪や破滅への渇望はラフィットに劣るものではない。現に今も、ラフィットの呪詛を言祝ぐべきものと受け止めている。
そして部屋にはもうひとり、客分の魔術師がいた。
名をバグナードという。賢者の学院きっての俊英であり、隕石の召還すらやってのける魔力の持ち主だ。
だが数年前、邪法に手を染めたことで学院長ラルカスの逆鱗に触れ、《ギアス》の呪文で魔法を封じられた上で賢者の学院から追放された。以来、どんな初歩の魔法だろうと使おうとするだけで全身に激痛が走るのだという。
それでもバグナードは、必要とあれば平然と魔法を使ってみせる。魔法への執着と鋼の意志力は、とてもほかの人間には真似できまい。
いつも冷静沈着で、ラフィットに提言をする時は不遜にすら見えるほどの自信を漂わせる。
彼の頭脳と根性をラフィットは高く評価しているのだが、そんなバグナードも、今日はどこか居心地が悪そうに見えた。
理由は簡単だ。
ラフィットも、同じ理由でバグナードに話しかけたのだから。
「導師様。“魔神殺し”の英雄たちの勲(いさおし)、お聞きになりまして?」
努めて穏やかに切り出す。
昨夜、国王から寝物語に聞かされた辺境の村での出来事。
妖魔に襲われた村を救うべく、ザクソンへ赴いた4人の英雄たちの物語だ。
寝耳に水だったラフィットは息を飲んで聞き入ったが、冒険者不在の中でレイリアまでもが剣を振るって戦い、上位魔神を相手に絶体絶命の危機に陥ったくだりでは、思わずバグナードに対する殺意すら浮かんだ。
シン・イスマイールやライオットを抹殺せんとする策謀は、すべてレイリアを手中に収めるためのもの。
にも関わらず、低脳な下級妖魔に上位魔神を託してレイリアを危険に晒すなど、本末転倒にも程がある。
「然り」
苦々しげにバグナードが首肯した。
「奴らを見誤っておった。私の失策だ」
バグナードにも言い分はある。
まさかレイリアがザクソンに同行するとは思わなかったこと。
魔神封印の壷を使う余裕すらなく、ゴブリンの王が倒されたこと。
にもかかわらず、ゴブリンを殲滅せずに逃がしてしまったこと。
その状況でレイリアを放置して、冒険者たちが村から離れたこと。
そして、上位魔神をあっさりと倒してしまうほどの実力をもっていたこと。
すべてが予想外だった。冒険者たちはバグナードの予想を裏切るほどに愚かで、かつ強かったのだ。
「導師様、妾たちの目的はレイリア様をお迎えすることなのです。どうかその点だけはお忘れなく」
言葉も口調も丁寧だが、その裏にある激怒を見抜けないほど、バグナードは鈍感ではない。
「承知している。私の失策は私が取り戻す。もう一度機会をいただきたい」
バグナードがいつになく熱心な口調で主張した。
自分の目的を果たすためには、今ここでラフィットの失望を買うわけにはいかないのだ。
「何かお考えが?」
「次は私が自ら出向く。ラスカーズ卿をお借りできるだろうか。必ずやシン・イスマイールらを葬ってご覧に入れる」
可憐な少女の姿をかぶった邪教の司祭長は、碧玉の瞳に考え深げな光を浮かべてバグナードを見つめた。
腹の底の知れない男だが、どうやら追いつめられて本気になったらしい。何をする気か知らないが、面白いことにはなりそうだ。
ラフィットは隻腕の騎士に視線を向けると、すずやかな声で命じた。
「ラスカーズ。導師様をお助けして、シン・イスマイールを殺してきなさい」
「御意のままに」
濡れた唇に爬虫類めいた笑みを浮かべて、隻腕の騎士が片膝をつく。
人を殺すことに最高の悦楽を感じるという男だ。さぞや大勢の犠牲を出してくれるだろう。
「ただし。分かっているでしょうね? レイリア様に傷のひとつでもつけたら……」
「承知しております。その時は私の首でお詫びを」
芝居がかった挙措で頭を垂れるラスカーズ。
中身のない右袖が揺れ、ふわりと絨毯に落ちた。
ラスカーズの言葉はまるで信用ならなかったが、この男を貸せと言ったのはバグナードだ。前回の轍を踏むようなことはするまい。
「それでは導師様に委細お任せします。期待しておりますよ」
「お任せあれ」
恭しく頭を下げる黒の導師を眺めながら、ラフィットはふと思った。
もし本当にうまくいけば、今度こそバグナードの求める知識を与えてやるのもよいだろう。
ふたつの鍵、ひとつの扉。
忌まわしい伝承の真実を知れば、この男はさらなる破壊を世界に振り撒くだろうから。
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ、辺境の島だ。
大陸の住人の中には、ここを呪われた島と呼ぶ者もいる。
かつて神話の時代、邪神カーディスがこの地に倒れ、大地に呪いをまき散らしたと伝えられるが故に。
異界から召還された魔神が暴走し、島中に死と破壊をもたらしたが故に。
そして、今なお邪神を奉じる者どもが暗躍し、終末を望んで策謀を巡らせるが故に。
最後の戦乱から30年。
かりそめの平和の陰で、破滅の足音は着実に近づいていた。
SWORD WORLD RPG CAMPAIGN
『異郷への帰還』
第5回 決断
シーン1 ターバ郊外 マーファ神殿
祝福の街道の北端。
涼しげな風に揺れる木々の向こうに、白亜の大神殿が見えてきた。
「やれやれ、着いたか」
野菜や肉を詰め込んだ籠を片手で抱え直して、シンが凝った肩をぐりぐりと回す。
昼食と買い出しを済ませ、ターバの村を出発しておよそ2時間。今日は快晴だ。もう少しすればきれいな夕焼けが見られるだろう。
「いつも本当にすみません。重かったですよね」
隣に並んで歩いていたレイリアが、申し訳なさそうに声をかけた。
「重かったのは認めるけど、俺としては永遠に着かなくてもいいくらいだ。少なくとも、歩いてるうちは一緒にいられるしさ」
「その……ありがとうございます」
恥ずかしげもなく堂々と笑うシンに、レイリアの方が頬を染めてしまう。
ザクソンから戻って半月。
誰の陰謀だろうか、4日に1度巡ってくるレイリアの買い出し当番のたびに、相方の神官が体調を崩したり、ニースに仕事を申しつけられたりして都合が悪くなる。
おかげでレイリアの買い出しは毎回ひとり。それを知ったシンが、荷物持ちとして村から神殿までの道のりを付き合ってくれるのだ。
神殿での勤めや神官戦士団の訓練で、レイリアには自由になる時間がほとんどない。買い出しに出てシンと一緒の時間を過ごすのは、レイリアにとって何よりの喜びなのだが。
「本当に、ただ一緒にいるだけなんですよね……」
レイリアは目尻を下げると、シンに聞こえないよう、口の中でそっとため息をついた。
自分たちは気持ちを確かめ合ったはずだ。この広い世界にたったひとりの特別な相手として、互いを誰よりも大切に思っている。
世間一般に照らしてみれば、この関係は恋人同士といっても間違いではないと思うのだが。
それなのに。
未だにキスはおろか、手をつないで歩いたことすらない。
「荷物がありますから、手をつないで歩けないのは仕方ないです。いちおう口実は買い出しですから。だけどシンも私も子供じゃありませんし、そろそろこう、次のステップに進んでもいいんじゃないかと」
年の近い友人たちに聞いた話では、恋人関係の進展具合には3つの段階があるのだそうだ。それによれば、自分たちはまだ最初歩にすら到達していない。
まさかシンは本当に、一緒にいるだけで満足しているのだろうか? 自分が触れ合いを求めていると知ったら、ふしだらな女だと思われるだろうか?
だがルージュが言うには、男は定期的に抜いておかないと飢えた野獣になるはず。その理論では、シンだって定期的に女性が欲しくなるはずなのに。
そこまで考えて、レイリアの脳裏に不吉な考えが浮かんだ。
「まさか他に女性がいて、野獣はその女性で発散しているとか? だから私の前ではいつも自然体でいられるのでしょうか?」
頭の中でめまぐるしく思考を巡らせるレイリア。
シンはその様子をしばらく眺めていたが、やがて長々と吐息をもらした。
「ルーィエの言ったとおりだな」
「え?」
思考の海に沈んでいたレイリアが、はっとしてシンを見上げる。
シンは何とも表現しようのない、困った顔をレイリアに向けていた。
「あいつが言うには、レイリアは考えてることがすぐ顔に出るから、妄想が始まると顔を見てるだけで楽しいってさ。頭の回転が速いから、表情の移り変わりが百面相みたいだって」
「も……ッ、いえ、決してそんな!」
頬を紅潮させたレイリアが、あわてて手を振る。
ルーィエによると、妄想を口に出してぶつぶつ呟いてしまう時もあるらしい。まさか今のを聞かれていたのか? シンに筒抜けだとしたら、恥ずかしくて死んでしまいそう。
忙しく表情を変えるレイリアに、シンがにこりと笑いかけた。
「けど安心してくれ。俺が好きなのはレイリアだけだ。他の女と付き合ったりなんかしないよ」
「…………ッ!」
やっぱり聞かれていた!
レイリアの顔から、今度は音をたてて血の気が引く。致命的な失敗だ。
どうしよう。みだらな女だと思われたら嫌われてしまう。
うまい言い訳が思いつかずに絶句していると、今度はシンがそっと顔を寄せてきた。
「それと、俺をあまり挑発しないように。野獣をなだめすかすのも大変なんだから」
最初の一線を越えてしまったら、なし崩し的に我慢できなくなりそうだ。
耳元にささやかれたのは、そんな響きを持ったシンの言葉。
もしかして、シンも私のことを求めてくれている?
予想外のことにかすかな期待が芽生えたが、それは胸の中に隠して、レイリアは上目遣いでシンを見上げた。
「本当ですか? シンは優しいから、私を傷つけまいとして言っているだけなのでしょう?」
一縷の望みにすがるような、切実な表情。
質問の形を取ってはいるが、シンに回答の自由などない。
だがシンは、それがずるいとは思わなかった。
むしろ逆だ。煩悩の発露とも言うべき言葉が、レイリアに好意的に受け止められたのだから。
手探りで距離を詰めていくようなやりとり。
観衆がいれば全身が痒くなるような言葉を、ふたりは大まじめに交わしていく。
「嘘なんか言わない。本当だよ」
「じゃあ、証拠を見せてください」
レイリアが緊張と期待にわななく瞳でシンを見上げる。
「私のことを、ただの仲間でもただの司祭でもなく、ひとりの女として見てくれるなら、その証拠が欲しいです」
彼女いない歴33年のシンといえども、レイリアが何を求めているか理解できないほど鈍感ではない。
このシチュエーションは、シンが今までお世話になってきた参考文献では至極おなじみのものだった。女にここまで言わせたら、もはや男が退くことは許されない。
シンは生唾を飲んでレイリアを見下ろした。
この世界でもっとも可憐な花が、頬を染めてシンを見上げている。
何という無防備で扇情的な表情だろう。胸の奥に正体不明の息苦しさが生じ、肌と魂がぞくりと震えた。
これはもういくしかない。我慢の限界だ。やってやる。俺は男だ。
シンは荷物を片手に抱えると、残った手をレイリアの頬に伸ばした。
明確な覚悟を持った異性がここまで近づいたのは初めてなのだろう。華奢な肩がぴくりと揺れ、視線が落ち着かなげにさまよった。
桜色の唇が小さく震えていた。
「レイリア……」
シンの声も、緊張のあまりかすれてしまう。
すると、レイリアの瞳が軽く見開かれ、震えが嘘のように止まった。
緊張しているのはお互い様なのだ。この初めての時間を、同じ気持ちで共有できている。それは例えようもない喜びだった。
緊張が解けるとともに、レイリアの表情が花開くようにほころんでいく。
「シン、好きです」
黒い瞳で見つめ合ったまま、ふとそんな言葉がこぼれた。
「俺もだ」
たったの一言で、気持ちが全部伝わる。
それを共有できるということの、なんと幸福なことか。 心からの想いを添わせるように、そっと唇を寄せていく。
ふたりの瞳が、ゆっくりと閉じられた。
気持ちも体も全部、相手と重ね合わせたらどうなってしまうのか。あまりの高揚感に目が眩み、閉じたはずの視界が真っ白に染まった。
その瞬間だった。
ふたりが馬蹄の響きを聞いてしまったのは。
余裕のある走りではない、文字どおりの全力疾走。急を告げる早馬は、神殿の方向から街道を爆走してくる。
反射的に目を開け、その姿を見てしまったシン。
神殿が早馬を出すなどただ事ではない。何か重大な事件が起こったらしい。
瞬時に覚醒した戦士の感覚がそう告げたが、レイリアはまだ目を閉じたまま気付かないふりをしている。
かすかに頬がひきつっているようだが、これは続けてもいいのだろうか?
シンが躊躇していると、今度は声が聞こえた。
「レイリア! シン様!」
うら若い女性の声。葦毛の駿馬に乗ってこちらに駆けてくるのは、どうやら神殿の司祭のようだ。レイリアと同じ純白の神官衣が風になびき、まるでペガサスの羽根のように見えた。
名前まで呼ばれては仕方がない。
渋々と目を開けたレイリアは、相手を見てため息混じりに肩を落とした。
「ソライア……」
「知り合い?」
どうやらふたりきりの時間は終わりを迎えたらしい。
諦めて姿勢を正したレイリアの隣で、シンは食材の籠を抱えなおし、走ってくる早馬に目を向ける。
「はい。私と同い年の司祭で、神殿ではいちばん仲のいい友人です。神官戦士団の鍛錬でも一緒なんですよ」
「そうか……ちょっと残念だったね」
「まったくです」
苦笑していると、早馬は跳ぶように駆け寄ってきて、ふたりの前で脚を止めた。
騎手の少女は褐色の髪をショートカットにし、大きな瞳が活発そうに輝いている。身長はレイリアより少しだけ低いが、きびきびとした動作はまるで若鹿のようだった。
「邪魔しちゃった?」
鞍から跳び降りた少女は、まるで悪気なさそうにレイリアの肩をぽんと叩く。
邪気のない笑顔に、レイリアが拗ねた表情で頬を膨らませた。
「分かってるなら、少しだけ待っててくれれば良かったんです」
「ごめん、それ無理」
「だいたいソライア、あなた熱が出て寝込んでるんじゃなかったんですか?」
「ごめん、それ嘘」
あっさりとした口調で答えると、ショートカットの少女は、罪悪感など全く感じさせない様子でけろりと笑った。
「ニース様の命令でさ。あなたの買い出し当番は何が何でも1人で行かせろって。あ、これあなたには秘密って言われてるから、そこんとこヨロシク」
「お母様……」
レイリアが顔を覆ってうなだれると、ショートカットの少女は興味津々にシンの顔を見上げた。
「あなたがシン・イスマイール様ですね? 私はターバ神殿の司祭でソライアと申します」
「ああ、よろしく」
どういう態度をとればいいのか分からず、シンが曖昧にうなずく。
ソライアの視線は、まるで婿を品定めする小姑のようだ。無遠慮に全身を眺め回され、シンが落ち着かなげに身じろぎすると、レイリアが険のある口調で割って入った。
「ソライア、シンに失礼ですよ。困ってるじゃないですか」
「あはは、想像以上にいい男だったから、つい」
悪びれずに笑ってごまかすと、ソライアは態度を豹変させ、礼法の手本のような一礼を見せた。
「失礼いたしました。本日は、ニース最高司祭から伝言を言付かって参りました。必ずシン・イスマイール様御本人に、直接お伝えするようにと」
もとの造形が整っているからだろう。こうして改まった態度もさまになっている。凛とした挙措のひとつひとつが小気味よく、見ていて壮快な気分にさせてくれる少女だ。
「ニース様は何と?」
「火急の依頼をお願いしたい、事態は一刻の猶予もない、と申しておりました。恐れ入りますが、今すぐライオット様とルージュ様を呼んでいただけますか? ニース最高司祭が神殿でお待ちです」
想像以上に重たい内容に、シンとレイリアが顔を見合わせる。
「この馬をお使いください。馬はターバで乗り捨てていただいて結構です。申し訳ありませんが、帰りは《テレポート》で神殿までお願いします。食料も含め、必要な物はすべて神殿で用意いたしますので、武装を整えたら可能な限り早くのご到着をお待ちするとのことです」
事情は分からないが、あのニースがここまで急かすとなると、よほどの事件が起きたのだろう。
勢いに飲まれるようにしてシンが手綱を受け取ると、ソライアは親友に視線を転じた。
「レイリア、あなたも。神官戦士団に非常呼集がかかったわ。カザルフェロ戦士長と先遣隊はもう現地に向かったし、私たち本隊も今日中に出発するからそのつもりで」
シンに馬を押しつけ、代わりにレイリアを引っ張る。
「ほら急いで。とっとと帰るわよ。戻ったらすぐに出征の支度」
「あ、ソライア、ちょっと待って」
「いいから来なさい。遊びの時間は終わり。ではシン様、私どもはこれで失礼いたします。後のことはよしなに」
レイリアの抗議には耳も貸さず。
嵐のような口上と形は完璧な一礼を残すと、ソライアはレイリアを引きずって街道の向こうへと去っていった。
神殿ではいつもこんな感じなのだろう。ややおっとりしたレイリアを、問答無用で振り回すソライア。ふたりの神殿生活を垣間見た気分だ。
シン自身も呆気にとられてふたりを見送っていたが、ふと、隣で待っている馬と目が合って我に返った。
「馬……乗ったことないんだけどな」
シンの呟きは聞く者もなく、ただ祝福の街道にむなしく溶けていった。
神殿は上を下への大騒ぎだった。
境内には10台ほどの馬車が並べられ、大量に投入された人員によって、倉庫から次々と荷物が運び込まれている。
用意されたのは槍、槌、弓といった武器から、食料、水、木材など多岐にわたる。派遣される神官戦士団が必要とする1週間分の物資をすべて、この10台の馬車で賄うのだ。
「なるほど、こりゃ大事件らしいな」
ルージュの魔法で中庭に転移したライオットが、周囲を見渡して顔を引き締めた。
大声で指示や確認がとびかう中、両手に荷物を抱えて右往左往していた見習い神官が、苛立った先輩神官に怒鳴られている。
戦士団は数名ずつの分隊ごとに整列し、点呼を行っている最中だ。さすがに妖魔退治で実戦を繰り返している部隊であり、このあたりの手際は見事と言うべきだった。
突発事案が発生したとき、緊急出動を命じられた部隊が行う慌ただしい準備。
警視庁機動隊に身を置いていたライオットにとっては、身が引き締まるような懐かしい雰囲気だ。
「で、俺たちはどこに行けばいい?」
ターバ神殿はお前の担当だろ、と隣のシンに目を向ける。
ここ最近ターバ神殿に入りびたっているシンは、ニースの情報工作もあって、今ではすっかり“レイリア司祭の許嫁”として認知されている。
初めて神殿を訪れたときは誰何されたものだが、今ではどこへ行くのも顔パスだ。通りすがりに会釈をしてくる神官は多いが、今さら話しかけてくる者はいない。
「とりあえずニース様の部屋に行ってみよう。あそこは私室って言うより執務室みたいなものだからさ」
前回来たときはレイリアに案内された道を、今度はシンが先導していく。
大勢の神官たちとすれ違ううちに報告が上がったのだろう。宿坊に差し掛かったあたりで、数名の部下を従えた顔なじみの司祭が出迎えた。
「皆様、お待ちしておりました。わざわざお呼び立てして申し訳ない」
穏やかな顔立ちに抜け目なさそうな瞳。司祭というより老獪な商人のような印象の持ち主。
最高司祭ニースの片腕にして、ターバ神殿の財布を一手に預かる財務担当司祭、マッキオーレだ。
「いいさ。今回は大変なんだろ?」
「正直なところ、我らの手には余りますな」
挨拶代わりにシンと言葉を交わすと、マッキオーレは客人たちの前に立って歩きだした。
足を進める間にも、入れ替わり報告する神官たちに指示をとばし、出征の下準備を整えていく。神官戦士団が正面戦力だとすれば、彼らを送り出し、維持するための後方支援がマッキオーレの戦いなのだ。
下級妖魔相手の討伐戦とは規模が違う。後ろで聞いているだけでも、前代未聞の予算を執行しているのが伝わってきた。
シンたちへの報酬として支出を指示した金額など、前回の王都ミッションの10倍だ。上司の理性と自分の耳を疑った部下たちが、顔を見合わせて絶句している。
「銀貨30万枚? 正気か?」
ライオットが神官たちの心の叫びを代弁すると、さも心外といった様子でマッキオーレが振り向いた。
「この程度の金銭で戦士たちの命が買えるなら安いものでしょうに」
締まり屋のマッキオーレがここまで言うとは。
黙り込んだシンたちに、マッキオーレが淡々と続ける。
「残念ながら今回は、ターバの神官戦士団には荷が重すぎます。彼らだけで送り出しても、人命と費用の無駄遣いに終わりますからな。それを避けようとすれば、私には皆様の前に銀貨を積み上げることしかできません」
銀貨の山の高さで誠意を示せるはずもないが、そこにはマッキオーレの願いが込められていた。
彼の立場では、シンたちに「依頼を受けてくれ」とも「戦士たちを助けてくれ」とも言えない。
許された職権の中で、最大限に気持ちを伝えるための記号。
それが今回の依頼料なのだ。
「俺たちも偉くなったもんだ」
複雑な心境でライオットがつぶやく。
元はといえば、立場の違いこそあれ、ただの一般市民だったのに。
降りかかる火の粉を払い、親友の恋を応援しているうちに、“砂漠の黒獅子”とその仲間たちは、ターバ神殿の切り札とでも言うべき存在になってしまった。
最高司祭ニースに信頼を寄せられ、マッキオーレにここまで頼られて、誇らしくないと言えば嘘になる。
だが、名声が先行して中身が伴っていないのではないか?
いつか大きすぎる看板に押し潰される日が来るのではないか?
ライオットは漠然とした不安を感じたが、シンはそれを一刀両断にしてしまう。
「偉いとか偉くないとか、関係ないだろ、そんなの」
迷いのないまっすぐな瞳が、虚飾に惑う親友に向けられた。
「前に言ったよな? 何ができるかじゃなくて、何をしたいかで決めろって」
他人が自分たちをどう見ようと。
最高司祭という権威がどれほどの信頼を示そうと。
神殿がどれほどの銀貨を積み上げようと。
そんな飾りには、大切なことなど何もない。
「今回はレイリアも出征するんだ。だから俺も行って彼女を守る。俺だけだと不安だから一緒に来てくれ。どこまでも付いてくるって約束しただろ?」
名声、評価、期待。
大きくなりすぎてライオットには無視できなかったものだが、シンの眼中には全く入っていないらしい。
「……そうだった」
あの日、墓所の奥深くで真実を知った日から、シンにあるのはレイリアを守るという目的だけ。
単純至極。だからシンは決してぶれない。
自分ではすぐに忘れてしまう大切なことを教えられて、ライオットは苦笑した。
そう、何も悩むことはなかったのだ。
何者が襲ってこようと、ライオットは盾となってシンとルージュを守り続ける。
それこそが、自分でライオットに課した“役割(ロール)”ではないか。
やがて廊下の突き当たり、ニースの部屋の前まで来ると、必要な指示伝達をすべて終えたのだろう。マッキオーレに従っていた神官たちが書類の束を抱えて持ち場に戻っていく。
「それで、銀貨30万枚に値する敵ってのは何者なんだ?」
シンが尋ねる。
目の前には重厚な樫の扉。それを軽くノックしながら、マッキオーレは首を振った。
「話は中で。私が話すより、直接お聞きになった方がよろしいでしょう」
扉はすぐに中から開いた。
戸口に立っていたのは冴え冴えとした美貌の女性だ。
すらりとした長身。まっすぐに流れる金髪。細い眉や切れ長の目元が、まるで抜き身の刃のような印象を与える。
彼女の名はアウスレーゼ。
アラニア国王直属の密偵にして、今はニースの護衛と監視役を務める女性だ。
「ようこそ。ニース様がお待ちです。どうぞ中へ」
「久しぶり。今日はポニテじゃないのか。せっかく綺麗な髪なのにもったいない」
結わずに流した長髪を、ライオットが残念そうに見下ろす。
「お久しぶりです。髪を褒めていただくのは光栄ですが、今はニース様がお待ちだと申し上げました」
アウスレーゼはライオットの無駄口をばっさり切り捨てると、追い立てるように室内に送り込んだ。
何度か入ったことのあるニースの私室。
よほど待ちかねたと見え、応接用のソファからニースが立ち上がって出迎える。
「待っていたわ。ごめんなさいね、急に呼び出したりして」
「今回は大騒ぎみたいですね」
シンが応じながら、招かれるままに部屋に入り、そして、中にいた人物に目を見開いた。
部屋にはアウスレーゼの他に、ひとり先客がいた。
ドワーフの戦士だ。年季の入ったプレートメイルは血と泥で汚れたまま。豊かな口髭も旅塵にまみれている。
ソファに腰掛けた姿は一見落ち着いたそぶりだが、来客に向けられた目は軽く血走っていた。
荒事にはあまり縁の無かったルージュにも分かる。これはつい半月前、ザクソンの村で感じたばかりの空気。
戦場帰りの戦士の昴燥だ。
「ギム……」
このロードスで最初の師ともいえるドワーフの戦士に、シンが驚きの声を上げた。
「待っておったぞ、シン・イスマイール」
低くうなるような声で旧知の冒険者を迎えるギム。
猛々しいものを押し殺した口調に、シンの頬が引き締まる。
ギムほどの戦士がここまで興奮するとは、どうやら相当な修羅場が待っているらしい。
シンたちが勧められるままに応接用のソファに腰を下ろすと、ニースが口調を改めて切り出した。
「シン、ライオット、ルージュさん、それに猫王様も。事態は一刻を争うの。無理強いはできないけど、今回だけはどうか助けてほしい。依頼の内容は神官戦士団への助勢。報酬は30万ガメル用意したわ」
「もちろん受けます」
一も二もなくシンが即答する。
部屋に入る前から決まっていたことだ。ライオットやルージュにも迷いがないことを見て取ると、ニースの目に少しだけ安堵の色が浮かんだ。
「ありがとう。あなたたちに心からの感謝を。ではギム、さっそくだけど状況を説明してちょうだい」
はやる心を抑えながらじっと待っていたドワーフの戦士は、ニースの言葉を受けて視線を上げた。
鋭い目つきで3人の冒険者たちを見つめ、重々しく口を開く。
「“鉄の王国”が滅びの危機に瀕しておる」
想像以上に厳しい言葉だった。
いったいどんな敵が現れれば、彼らがそこまで追いつめられるというのか。
「何があったんだ?」
眉をひそめるシンに、ギムは歯ぎしりしながら唸った。
「敵は恐ろしい魔法を使う上位魔神じゃ。もう100名以上の戦士たちが喜びの野に召された。わし程度の技量では近寄ることもできん」
全身で無念を表しながら、ギムはシンを見た。
「あやつを地下の隧道から出せばえらいことになるぞ。どんな犠牲を払ってでも討ち果たさねばならん。お主らの手を貸してほしい」
「たった1体の上位魔神が、そこまで一方的に?」
「わしも認めたくはないが、それが事実だからの」
ドワーフ族は力強さも頑健さも人間をはるかに上回る、屈強な戦士の種族だ。もし人間が“鉄の王国”を攻め落とそうとすれば、万を超える数の軍勢が必要だろう。
そのドワーフ族が、たった1体の敵に手も足も出ないなどと。
「ありえないだろ」
そう言ってライオットが首をひねる。
相手が上位魔神程度であれば、どれほどの犠牲が必要かはさておき、決して倒せない敵ではないはず。
だがギムは、滅亡の危機、という言葉を使った。
苦戦という次元を越えている。
「本当に上位魔神で間違いないのか?」
疑わしげなライオットに、ギムは憤然として答えた。
「奴めはギグリブーツと自分で名乗りおったからの。ニースが言うには上位魔神の中でも弱い部類らしいが、とんでもない。呼吸の代わりに破壊の魔法が飛んでくるのじゃぞ? 手の施しようがないわい」
拳をソファの肘掛けに叩きつける。
すると、今度はルージュが怪訝そうに口を挟んだ。
「呼吸の代わりに魔法って、それならすぐに精神力が尽きちゃうでしょうに。どんな魔法を使ったにしろ、ギグリブーツの精神点じゃ30回が限界だよ?」
ルージュの脳裏に浮かんだデータによれば、ギグリブーツは魔法特化型の上位魔神だ。
魔法強度は19。これはルージュに匹敵するほどの魔力だが、反面、白兵戦能力はかなり低い。命中点も回避点も、シンやライオットなら“致命的な失敗”がなければそれで上回ってしまう程度でしかない。
「残念だが魔術師の嬢ちゃん。30回では到底きかぬな。わしらは半日以上も戦い続けた。その間に奴が使った魔法は千に届こうよ」
「そんな……」
ありえない。
魔法とは無から有を創り出すものではない。発動と消費は等価交換であり、生み出す破壊は厳密な計算に基づいている。
ここぞと言うときに必要十分な魔力を注ぐため、ルージュがどれだけ周到な精神点管理をしてきたことか。
魔術師は、何度でも好きなだけ殴れる戦士とは違うのだ。
「いろいろと不可解なことは多いわ。だけどね、そういう魔神が“鉄の王国”に現れたことだけは事実なの。そして私たちは、なんとしてもその魔神を倒さなくてはならない」
ニースが重々しく口を開いた。
ニースとギムは、剣を振るって実際に魔神戦争を戦い抜いた世代だ。魔神がどれほど非常識な敵か、嫌というほど思い知らされている。
理屈に合わない。
ありえない。
それは事実だから、議論は大いに結構。
だが口先で相手を否定するのは時間の無駄だ。現実に彼らは存在するのだから。
その存在を認めた上で魔神を倒す段取りを組むのが、今のニースの役目だった。
「すでに先遣隊として、カザルフェロ戦士長の率いる神官戦士30名と司祭10名を送ったわ。今日中に本隊も出発する。あなたたちには、本隊と一緒に“鉄の王国”に行ってもらいたいの」
神官戦士も司祭も可能な限りの動員が行われ、ターバに残るのはごくわずかな留守役のみだ。
もし今回の派遣で甚大な被害を被れば、ターバ神殿は維持すらままならずに瓦解するだろう。
「これは乾坤一擲の賭けになるでしょう。けれど、ドワーフ族とターバ神殿は一蓮托生。全力で事態に臨みます」
有無を言わさぬニースの宣言。
彼女にここまで言わせるほど、事態は切迫しているのだ。
「分かりました。俺たちも全力を尽くします」
確かに、ここで言い合っていても状況は改善されない。
ニースの厳しい口調に、シンも居住まいを正して頷いた。
その隣で、ルージュが何気なくつぶやく。
「それにしても、また上位魔神か……」
ふと思いついて、こぼれただけの言葉だ。根拠のある発言ではない。
だが、ニースの思慮深そうな目で見つめられて。
“また”という言葉に意味があるのではないか?
ルージュの胸に、ふとそんな考えが浮かんだ。