シーン7 ゴブリンの洞窟
松明が闇を焦がす音。
オレンジ色の明かりの向こうで蝙蝠が飛び、どこかで水滴が床を打っている。
しんと静まり返った暗闇には、真夏だというのに湿った冷気が漂っていた。
この鍾乳洞を訪れるのは2日ぶりだ。前回は大規模なゴブリンの群れが住み着いていたが、今はその気配すらない。シン、ライオット、ルージュの3人は奥へ奥へと進みながら、未だに1匹の妖魔も見ることができずにいた。
「こいつは無駄足だったかな? ロードが倒された場所だし、もうここにはいないんじゃないか?」
シンが隣を歩く親友にそうこぼした。
曲がりくねった洞窟を進み、すでに一行は乱戦の舞台となったリムストーンプールに到達している。
光ゴケに照らされた巨大な地底湖を見下ろしても、ゴブリンが潜んでいるような気配はない。今までの数百年がそうだったように、悠久の中で静謐を保ってきた空間が広がるのみだ。
「いや、それはない。ゴブリンたちは絶対ここに戻ってきてる」
松明を掲げて地底湖を見下ろしながら、ライオットはあっさりと首を振った。
「どうしてそう言い切れるんだよ? 現に1匹もいないじゃないか」
「根拠ならあるぞ。お前が言うようにゴブリンたちが逃げ散ったなら、ここにはあるべきものがある。それが1つもないんだ」
試すように謎かけをするライオット。シンは腕組みして考え込んだが、すぐに諦めて要求した。
「ヒント」
「そうだな。安西先生、バスケが……」
「したいです」
脊椎反射で答え、それから自分の言葉を吟味する。
その意味することに思い至ると、シンは納得してつぶやいた。
「なるほど。ゴブリンの死体か」
言われてみれば、あったはずの死体が無くなっている。しかも1体残らず。
1つ2つ減っているだけなら、野生動物が餌にしたと仮定してもいいだろう。だが、30を超える数がたったの二晩で消えるはずはない。誰かが片づけたのだ。
誰が?
村の人間が近寄っていない以上、ゴブリン以外には考えられなかった。
「死体ってのは生きてる体よりずっと重いんだ。それを全部片づけるのは大仕事だぜ?」
ダース単位で遺体を扱ってきたライオットには、想像するだけで気の遠くなるような作業だ。少なくとも、ボスのいない2匹3匹程度の小集団ではやる気にならないのではないか。
最初に聞いた40余という数字が本当なら、まだ10匹あまりの残存勢力が残っている計算になる。決して大きな群れではないが、ボスに統率されて村を襲えば、さすがに犠牲者なしというわけにはいかないだろう。
「何とか見つけて殲滅したいところだけど、留守じゃどうしようもない。せめて何か手がかりでも探すか」
ライオットが言いながら周囲を見回す。
とはいえ、ただの洞窟で何の手がかりを探すというのか。提案した本人も、さほどの意味を見出していないのは明らかだ。
「確かに。せっかくここまで来たんだ。何もしないで帰るのもバカみたいだよな」
シンがうなずくと、3人は手分けして辺りの探索に乗り出した。
暗闇の中、光源は頼りない松明が2本と魔法の明かりが1つのみ。求めるものが何であるかも不明なまま、おまけに〈探索〉に必要なシーフ技能の保持者もいない。
きれいに片づけられ、傍目にはただの鍾乳洞にしか見えない薄闇の世界で、ライオットやルージュにできたのは戦闘の痕跡を見つけることくらいだった。
2日前に〈フォース・イクスプロージョン〉でへし折った石筍。白磁色の鍾乳石に残されたわずかな血痕。自分のスパイクが削ったとおぼしき線条痕。
こんなものを見つけたから何だというのだろう? ライオットが諦め顔で首を振っていると。
「ところでさ。ずいぶん寝不足みたいだけど大丈夫なの?」
視線を地面に落としたまま、ルージュがさりげなく声をかけた。
昨夜は隣の部屋から、シンとライオットの話す声がずっと聞こえていた。時には静かに、時には荒々しく、互いの本音をぶつけ合っていたらしい。
いつの間にかルージュは寝入ってしまったのだが、明け方になってふと目を覚ましたとき、シンたちの会話はまだ続いていた。もしかしたら、ふたりは全く寝ていないのではないか?
「そうだな。寝不足は認める。だけど気分は上々だ。いろんなものが見えるようになったからさ」
肩越しに妻を振り向いて、ライオットがにやりと笑った。
昨日までとは雰囲気が違う。
ここのところ、どこか斜に構えて内心を窺わせなかったが、そもそも思惑を隠して策を弄するのは彼の本領ではない。
その性は果断。深慮遠謀よりも臨機応変を得意として、目的を果たすために柔剛あらゆる手段を駆使できる、突破力にあふれたキャラクターだったのだ。
今のライオットは、そんな昔の彼に戻ったように見えた。
まるで、溜まっていた澱が吹き払われたように。
「そりゃ、あれだけやり合えば、溜まってたものも発散されるだろうけど」
顔中あざだらけで寝転がっていたふたりを目撃したルージュは、呆れた様子でため息をついた。
わざわざ体を痛めつけるのはどうかと思うが、そういうことのできる絆は正直羨ましかった。
殴り合ってから握手という展開は、男同士でしか成立しえない。ルージュでは決して手の届かない聖域なのだ。
「ああ、全部発散した。今日の俺は昨日とはひと味違うぜ? RX-78とRX-93くらい違う」
「つまり、普通の人には分からない程度の違いってことでいいのかな?」
「分かる人には、全然違うことが分かるのさ。まあ、それはともかく」
冷たいツッコミを軽く受け流して、ライオットが話題をゴブリンに戻そうとしたとき。
「ん?」
リムストーンプールの反対側でかがみ込んでいたシンが、小さな声を上げて何かを拾い上げた。
わずかな明かりにも鮮やかな、極彩色の鳥の羽根。
まかり間違っても自然に落ちているものではない。誰かが持ち込んだものだ。
誰が?
ゴブリンの巣穴、大規模な群れ、派手な鳥の羽根とくれば、熟練のTRPGプレイヤーには当然想起されるモンスターがいる。
「……ゴブリンシャーマンがいたみたいだな」
プレイヤー知識で断定して、シンが仲間たちを呼ぶ。
ゴブリンシャーマンはその名のとおり、精霊魔法を使いこなすゴブリンの稀少種だ。ゴブリン種の中でも共通語を解する知性を持つのはロードとシャーマンのみ。おそらく群れでも上位にいたことだろう。
「なるほど。40匹からの群れだ。ゴブリンシャーマンがいても不思議じゃないか」
シンが拾った羽根を横からのぞきながら、ライオットは考え込んだ。
前回の戦いでは見た記憶がないから、おそらく後方に引っ込んでいたのだろう。そしてロードを倒されたのを知って撤退を指令した。
だから、異常なほど戦意にあふれていたゴブリンどもが、突然バラバラになって逃げ出したのだ。その後、洞窟の外で生き残りをまとめたに違いない。
仮説としては十分な推論だ。
「だとすると、残り10匹ちょいか、そいつらは完全に統制がとれてるんだろうな」
数匹単位で散りじりになられるよりは好都合だ。一箇所にまとまってくれれば、殲滅戦が一度ですむ。
「その群れが留守ってことは、まとまってどこかへ出かけたってことか?」
ため息混じりにシンが言う。
昼間なら巣穴に引き籠もっているだろうと考えてわざわざ遠征してきたのに、完全に空振り。延々と2時間も歩いてきたのがアホらしくなる。
「ごはんでも探しに行ったんじゃないの? まだここに住んでるなら、帰ってくるまで待ってればいいじゃない」
ルージュの表現は庶民的だが、生き物の基本は喰うことと寝ることだ。至極まっとうな意見だと言える。
「ごもっとも。じゃあ、飯の調達はどこに行くと思う? ゴブリンが何を喰うかなんて知らないけどさ、少なくとも奴らは草食動物じゃなさそうだ。森の木の実じゃ満足しないだろ」
何もないところから答えを導く必要はない。現に奴らは、ほんの数日前にも大規模な食料調達をしているのだから。
ライオットが何を言いたいかを察して、シンが首をひねった。
「また村を襲うって言いたいのか? けど今はまだ昼間だぞ。ゴブリンは夜目がきくんだから夜襲した方が有利だろうに、わざわざ不利な昼間に仕掛けるかな?」
それはライオット自身も感じた疑問だ。
だが、シンの懐疑的な視線を受けて、天恵のような発想が閃いた。げにも会話というのは効果的だ。思考を言葉に出すだけで、必ず新しい発見がある。
「夜は、村に俺たちがいる」
ゴブリンは2度、シンたちに負けている。1度目はパーンとエトを襲った遭遇戦で。2度目はこの洞窟の強襲戦で。
ただのゴブリンには不可能かもしれないが、ゴブリンシャーマンの知能は“人間並み”だ。強い相手を避ける程度の知恵は回るだろう。
「けどさ、昼間だっているかもしれないじゃない。現に昨日はいたんだし」
ルージュの反論に、ライオットは一言で答えた。
「じゃあ見てればいい」
村外れ。森の中に潜んで、シンたちが村を離れるのを監視していればいい。
「思い出してくれ。昨日シノンが襲われたのは、恵みの森でもずっと村に近い場所だった。あそこにゴブリンどもがいたのは偶然か? 前日にロードを倒されたばかりなのに、冒険者がいる村に用もなく近づくか? 俺にはとてもそうは思えない。きっと何かをしてたんだ。村のすぐそばで」
逆に言えば、この広い森にゴブリンはたったの10匹。
村から外に出たのはシノンとエトだけ。
この両者が昼間の森でたまたま出くわすなど、天文学的確率だ。偶然よりも必然を疑った方がいい。
ライオットの鋭い視線を受けて、シンは表情を引き締めた。
「つまり、昨日からゴブリンは俺たちが村を離れるのを見張っていた。見張りがシノンを発見し、俺たちが外に出なかったからシノンを襲った」
シンの言葉をルージュが継ぐ。
「それで、今日は私たちが村から離れたのを見て、全員で村を襲いに行ったってこと?」
すべては、たった1枚の羽根から導いた推論にすぎない。
実際には森で木の実を拾っているのかもしれない。
だが、机上の空論と打ち捨てるにはあまりにも理路整然としすぎていた。
「レイリアとルーィエが残ってるから、10匹程度なら撃退できるだろうけど……」
ライオットが意味ありげにシンを見る。
レイリアが単独で前衛を務めるという危険。
殲滅できずに撃退した場合、逃がしたゴブリンたちが所在不明になるという危惧。
このままのんびりと鍾乳洞観光をしている場合ではあるまい。
「帰ろう。今すぐ」
シンが即決する。
「杞憂なら、それに越したことはないけどな」
ライオットがうなずくと、ルージュは無言で魔法樹の杖を掲げた。
また戦いだと思うと気は重いが、村とレイリアを放置するのはもっと気が進まない。
小さく吐息をもらして、ルージュは呪文の詠唱を開始した。
マスターシーン シノンの小屋
紐でまとめた薬草を幾束も壁に吊るし、時間をかけて丁寧に乾燥させてある。
いくつもの種類が混ざりあい、だがどこか心落ち着くような匂いは、長い年月で部屋に染みついたもの。パーンにとっては母親の象徴とも言えるハーブの匂いだ。
部屋の隅には薬研が据えられ、シノンが乾燥させたリギド草とゼトラの根を混ぜて粉末にしていた。
石がこすれ合う低い音がリズミカルに響く。時折手を止めて具合を確かめ、軽く舐めてはまた作業に戻る。そんな作業がもう四半刻も続いていた。
粉末が出来上がれば、あとは清水で練って膏薬にするだけ。切り傷をあっと言う間に治してしまうシノン特製薬の完成である。
「見事なものですね」
エトが採ってきた薬草を仕分けながら、レイリアが感心してシノンの手さばきを見つめていた。
レイリアの目から見ても、シノンの手さばきは熟練した職人のそれだ。
道具を使った単調な作業の繰り返しの中にこそ、本当の技はある。知り合いの父親がそう言っていたのを思い出して、レイリアは今さらのように納得した。
「私なんてまだまだです。パーンのお母様に比べれば、子供のお遊びみたいなものですから」
小さく苦笑しながらシノンが応じる。
レイリアは仕分けの手を休めて少し考え込むと、やがて席を立ってシノンに歩み寄った。
「シノンさん、ちょっとだけ私にもやらせてもらえませんか?」
「レイリア様に? 別に構いませんけど……」
シノンは少しだけ戸惑ったが、素直に立ち上がって場所を譲る。
「ありがとうございます」
礼を言うと、レイリアは楽しそうに手を揉みながら薬研の正面に座った。
作業自体は単純だ。V字型に切れ込んだフネの中で、車輪に軸を通した摺り具を前後に動かすだけ。ずっとシノンの作業を見ていたからリズムも分かる。
木製の軸に手をかけると、レイリアはゆっくりと石の車輪を動かし始めた。
ごり、ごり、と独特の手応えが伝わってくる。石がフネとこすれ合う感触しかしないが、石の重さで薬剤をすり下ろす仕組みだから問題あるまい。
鼻歌でも歌いだしそうなレイリア。
シノンは隣でそわそわしながら様子を見ていたが、やがて耐えきれなくなって口を挟んだ。
「あの、レイリア様。それだと粉末が同じ大きさにならないので、もう少し左右に揺らすような感じでお願いします」
「こうですか?」
小首を傾げながら挽き方を変えるレイリア。
「あ、やりすぎ。強すぎです。あまり力を入れないで、石の邪魔をしないで下さい。石とフネが噛み合う場所がありますから、そこに入れて砕くように……」
要求が厳しくなってきたところで、レイリアが手を止め、隣に立つシノンを見上げる。
穏やかな微笑。だがシノンはあわてて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 私ったら、つい」
「そうじゃないんです。これで分かったでしょう、シノンさん。あなたの技は子供の遊びなんかじゃないって」
神官衣の裾をさばいて立ち上がると、レイリアは静かにシノンの両手を握った。
榛色の瞳を見つめながら、穏やかに言う。
「あなたは誇りを持って薬草師を務めています。だから、素人の私にも真摯に助言をくれたんです。私は私なりに真面目にやりましたけど、あなたの目には遊んでいるようにしか見えなかったでしょう? つまり、私とあなたはそれくらい違うんですよ」
確かにレイリアは魔法が使えるし、武器も使える。
だが、薬草師としてはシノンの足下にも及ばないのだ。
当たり前のその事実を目の当たりにして、シノンは心にこごっていた何かがいっぺんに溶けていくのを感じた。
レイリアとは歩いてきた道が違うのだから、身につけた技術だって違う。相手にできて自分にできないことがあるのは当然のこと。
だけどその逆だって、ちゃんとあるのだ。
「……ありがとうございます、レイリア様」
握ったままの手に力を込めて、シノンは深々と頭を下げた。
朝から押し掛けてきたレイリアの意図が読めず、ほんの少しだけ持て余していたが、すべてはこのためだったらしい。
そう知ってシノンが心からの感謝を口にしたとき。
窓の外から、けたたましく銅鑼を鳴らす音がした。
遠くから女性の悲鳴と男たちの怒号が聞こえる。窓辺で午睡を楽しんでいたルーィエが顔を上げ、細めた目を外に向けた。
「まさか……」
シノンが怯えた表情を見せたとたん、薬草庫の扉が蹴り開けられた。台所で昼食の準備をしていたパーンとエトが、必死の形相で転がり込んでくる。
「シノン! 司祭様! 大変だ!」
「妖魔の群れが村を!」
子供たちの知らせに、シノンの肩が跳ね上がった。
過去の出来事になったはずの亡霊が、再び現実に姿を現したのだ。呼び醒まされた記憶が苦痛や絶望を引きずり、負の連鎖となって心を縛り上げていく。
「大丈夫。分かっています」
レイリアは少年たちに微笑を向けると、全身を硬くしたシノンを抱きしめ、聖句を唱える。
『マーファよ、この少女の心に安らぎを』
少女からふっと力が抜けた。
黒いパニックから瞬時に解放されて、シノンの瞳が泣き笑いに揺れる。
何の前触れもなく襲ってくる恐怖もそうだし、魔法で唐突にもたらされる安堵感もそう。思い通りにならない自分の心に、どうしようもないもどかしさを感じて泣きたくなった。
それでも、エトやパーンの前では弱音を吐きたくない。両極端に揺さぶられて折れそうになった心を、意地だけで支えて笑ってみせた。
「レイリア様、私は大丈夫です。だからどうか、村の皆を」
鳴り響く銅鑼の音。
遠い喧噪と悲鳴。
それらが意味するものを充分以上に承知しながら、レイリアは気遣わしげに柳眉を寄せた。
「シノンさん……」
少女の心が大丈夫ではないことなど、レイリアの目には瞭然だ。普通の人間なら泣きわめいてベッドに駆け込むような場面なのに、まだ16歳の少女が平気であるはずがない。
ただ、シノンは自分よりも他人を優先することに慣れているから、自分を二の次にできてしまうだけなのだ。その健気な微笑が痛々しかった。
言葉を継げないレイリアに、黙って様子を見ていたルーィエが鼻を鳴らした。
「こいつを甘やかすな、司祭」
窓枠の上から、紫水晶の深い瞳がレイリアを見下ろす。
「自分で大丈夫と言ったんだ。村の連中が戦っているのに、こいつだけ特別扱いする必要はない」
「ルーィエさん!」
あまりの言いように、思わずレイリアが非難の声を上げる。
だが、それを完全に無視して、ルーィエはシノンに目を転じた。
「昨日言ったはずだな。お前は替えのきかないたったひとりだと。お前は自分の力で、村に自分だけの居場所を作ったんだ。その役目を果たせ。村の連中の信頼に応えてみせろ」
ルーィエの言葉に蒙を撃ち抜かれて、シノンは目を見開いた。
猫王様の言うとおりだ。突然の襲撃で、村人には負傷者が出ているはず。運が悪ければ重傷を負った者もいるかもしれない。
そんな村人たちを救うのがシノンの役目であり、レイリアにだって譲れない居場所ではなかったか。
村が困難にあるときこそ、村人たちを支えるのが自分の役目だと自分で決めたのだ。
試練に耐えられずにうなだれると、足下にある苦痛しか目に入らない。そんな時こそ顔を上げて、未来にある自分の姿を追い求めるのだ。
道に悩んだら、3日後でも10年後でもいい、未来の自分を想像しなさい。そのとき胸を張って生きていられる道を選びなさい、と。
パーンの母が最後に残した言葉を思い出して、シノンの瞳に力がこもった。
「今は立ち止まるな。力を出し惜しみするな。最後までやり遂げろ。悩むのはその後でいい」
ルーィエは最後にそう締めると、音もなく窓枠から跳び降りた。
「行くぞ、司祭」
「ルーィエさん……」
昨日の今日であまりにも厳しい要求ではないか。
そんな非難がましい視線を受けて、ルーィエは不機嫌そうにレイリアを振り向く。
「こいつを見くびるな。この娘には分かっているぞ。自分に何ができるのか。自分が今何をすべきなのかをな。司祭、お前にはそれが見えているのか?」
いつになく冷たい口調に、レイリアが思わずたじろいだ。
刺々しくなりかけた空気。
それを治めるように、シノンが横から口を挟む。
「レイリア様」
私はもう大丈夫です、と。
だから村の皆をお願いします、と。
心の傷にあえぐ少女の顔ではない。精一杯の役目を果たそうとする薬草師の顔で、レイリアに頷いてみせる。
「……分かりました」
レイリアが表情を引き締めた。
どのみち他に選択肢はないのだ。シンたちが洞窟に行ってしまった今、村を守るのはレイリアとルーィエの役目。それを疎かにするわけにはいかない。
「妖魔は私たちが何とかします。シノンさんもお気をつけて」
レイリアも凛とした気迫を取り戻す。
「ふん」
目を覚ますのが遅すぎる、と言わんばかりの一瞥を残して、ルーィエが音もなく駆けだした。
愛用の小剣を携えてレイリアがそれを追う。
ふたりの姿が見えなくなると、部屋は急に静かになった。穏やかな微笑を振りまく女性司祭と、小さいのに巨大な存在感を漂わせる猫王様。彼女たちがいなくなっただけで、ぽっかりと大きな穴があいたような気がする。
「私たちはお父さんって知らないけど、もしいたら、ルーィエさんみたいな人だったのかもしれないわね」
シノンが嘆息して言った。
決して甘やかさず、厳として道を示すことで相手を育てようとする。レイリアに抱きしめられるのは心地良いけれど、為すべきことを教えてくれるのはルーィエの方。
「さて。あの人たちをがっかりさせないように、私たちもできることをしましょうか」
ぽん、と手を打って雰囲気を切り替えると、シノンはパーンとエトを見た。
「この騒ぎだと怪我人がたくさんいるはずだから、きっと忙しくなる。悪いけど手伝ってもらうわよ。覚悟してちょうだい」
戦いが怖い。
暴力が怖い。
ゴブリンに襲われたことを思い出すと、今でも体が震えてくる。
それでも、とシノンは思った。
村の皆が恐怖を堪えて戦っている今、村の一員として、シノンも自分にできる戦いをするのだ。
最初に村が襲われたときと同じ。あの時はできた。だから今度だってきっとできる。
できる自分の姿を追い続ければ、必ず追いつけるはずだ。
パーンの母が言ったとおりに。
「分かった。任せてよ、姉さん」
「オレは何をすればいい?」
子供たちが真剣な顔で応じる。
村の危機に。村のために。
突きつけられた現実を前に、悩む余地などどこにもない。
「パーンは包帯をたくさん用意してちょうだい。ありったけ持っていくわ。エトはお湯を沸かして。私は傷薬と毒消しを用意するわ」
シノンが言うと、子供たちがきびきびと動き始める。
断続的に聞こえてくる喧噪が、静かに彼らを駆り立てていた。
言葉もなく作業を進めていると、窓の外、村の一角に大きな赤い炎が閃いた。一拍遅れて大地を揺るがす轟音が伝わり、窓枠が細かく震える。
「レイリア様と猫王様が戦ってるんだわ」
薬草を詰め込んだ背負い袋をテーブルに置くと、シノンが窓の外を見てつぶやいた。
台所では、エトが煮立てた湯で縫合用の針と糸を消毒し、清潔な布で包んでいる。
パーンは1つ1つ丁寧に巻いた包帯を、別の背負い袋に詰めていた。
「じゃあ、もう大丈夫だね」
「ザムジーの話だと、レイリア様の剣の腕は、ライオットよりずっと上らしいからな」
ホッとした様子でエトとパーンが言葉を交わす。
どれほどの妖魔が襲ってきたのか分からないが、先日の群れは全滅に近かったはず。残党程度ならすぐにやっつけてくれるだろう。
戦いが終われば、次は治療の時間が来る。
シノンたちの出番も近いということだ。
「エト、パーン、準備はいい?」
「ごめん姉さん、もうちょっと」
「こっちはいつでも行けるぜ」
シノンは大急ぎで自分の荷物をまとめ、子供たちが用意した治療用具を点検する。
ここ数日で何度も繰り返した作業だから、エトたちも手慣れたものだ。消毒用にドワーフ族の火酒があるのを確認して、シノンが立ち上がったとき。
弱々しく玄関を叩く音がした。
「シノン、逃げろ。ゴブリンが襲って来やがった」
苦しそうな声。
パーンとエトが顔を見合わせる。
シノンが駆け寄るよりも早く扉は開き、血まみれの村人が転がり込んできた。
「モートじゃない! ちょっと、しっかりして!」
服が血で汚れるのも構わず、シノンが男を抱き起こす。目の上あたりから出血して顔の半分が朱に染まっているほか、右腕をだらりと下げて力が入らない様子。肩の骨を砕かれているようだ。
「俺はいいから、エトとパーンを連れて、早く!」
何とか動く左手でシノンを押し退け、モートと呼ばれた男は苦しそうに顔を歪めた。
「そんなことできるわけないでしょ! モート、ちょっと触るわよ」
他に怪我はないか。相手の顔を見ながら、シノンは無遠慮に全身に手を這わせる。
頭部と右肩の他にも、わき腹、左下肢など負傷は全身に及んでいた。その悉くが何かに殴られたような挫傷。特に足のダメージは骨も痛めており、これではまともに歩くことすらできないだろう。
「けどまあ、命に関わる傷はないわね。痛いでしょうけど、しばらく我慢してちょうだい」
「治療なんかしてる場合か! 裏口から出れば間に合う、早く行け!」
「妖魔なら大丈夫よ。レイリア様と猫王様が退治に行ったから。エト、消毒用のお酒を取ってくれる? パーンは包帯を4本お願い」
モートのうめきには耳を貸さず、シノンは手際よく治療を進めていった。
目の前にいる負傷者の治療に専念していれば、余計なことを考えずにすむ。暴力への恐怖も昨日の絶望も、何もかも忘れて行動することができる。
それは今のシノンにとって救いだった。
清潔な布で血をぬぐい、傷薬を塗って包帯を巻く。何かに憑かれたようにシノンが手を動かしていると、モートの表情に諦めが浮かんだ。
「遅かったか……」
悲壮感をにじませた呻きにシノンが顔を上げ、開いたままの戸口へと視線を向けた瞬間。
あるべきではないモノの姿を見て、表情が凍りついた。
赤褐色の肌に短い獣毛。粗末な毛皮の貫頭衣から節くれ立った手足を伸ばし、残忍そうにゆがんだ口元からは鋭い犬歯がのぞいている。
赤黒く汚れた棍棒を持ち、殺戮に酔って目を血走らせた、醜悪な妖魔の姿がそこにあった。
「シノン、どいてくれ」
モートが左手でシノンを押すと、今度は抵抗せずに手が離れる。
恐怖に硬直したままの少女を見て、モートの傷だらけの顔に苦笑が浮かんだ。
これでは自力では動けないだろう。だが、シノンは村に唯一の薬草師。絶対に失うわけにはいかない。
テーブルにすがりつくようにして何とか立ち上がると、モートはシノンを庇うようにゴブリンと対峙した。
ゴブリンは決して強力な妖魔ではない。しかもここにいるのは1匹だけ。体格もモートより頭ひとつ小さいし、普段なら簡単に負けはしないだろう。
だが今は満身創痍で武器もない。時間を稼ぐのが精一杯だ。
「パーン、エト。シノンを連れてレイリア様のところへ行け」
「それならモートも一緒に逃げよう!」
モートの言葉で硬直から解き放たれたエトが、テーブルの奥から叫ぶ。
それを聞いて、モートの頬がゆがんだ。
「俺には無理だ……分かるだろ?」
この足では逃げたところですぐ追いつかれる。
だったら、どうせ助からない命なら、せめて誰かのために使ってやる。
そんな思いを込めた言葉に、エトは絶句して立ち尽くした。
パーンが双眸に怒りをたぎらせ、唇を噛みしめる。
決して豊かではないが、平和だったザクソンの村。
村の皆に慕われ、若い男たちの話題に上らぬ日はなかったシノン。
わざと怪我をしてシノンに看てもらおうか、などと冗談を言う者までいた平和な日々は、すべて妖魔たちがぶち壊してしまった。
そしてまた、今日も。
「オレにもっと力があれば、ゴブリンなんかにでかい面をさせないのに……!」
血を噛むような低いつぶやきに、エトが隣でうなずく。
「そうだね。僕たちにもっと力があれば、みんなをこんな目に遭わせなくて済むんだ」
少年たちは無力感に歯ぎしりしながら、竦んだままのシノンを助け起こす。
すると、獲物を物色していたゴブリンが、生臭い息で奇声を上げながら棍棒を振りかぶった。誰ひとり逃がすつもりはないらしい。
「行け!」
モートが叫んだ。
もう迷う余地はなかった。雑貨屋などいなくても少しばかり不便になるだけだが、薬草師や子供たちは村の宝だ。命の天秤でいえば損な取引ではなかろう。
左足は動かない。モートは1本だけ残った右足で踏み切ると、ゴブリンの前に身を踊らせた。
つかみかかった左腕に棍棒が唸り、鈍い音を立ててまた骨が砕けた。
右足だけでなんとか踏ん張り、さらにゴブリンに詰め寄る。だがもう動く腕がない。そうか、だったら喉笛を喰いちぎってやるまで。
「Bukyyyy!」
「やらせるかあああああッ!」
牙を見せて威嚇するゴブリンに、モートは頭から飛び込んでいった。
生きるとか死ぬとか、もうそんなことはどうでも良かった。自分に残されたものを全部叩きつけて、とにかく相手に傷をつけてやる。残されたのはそんな意地と気迫だけだ。
そしてそれは、妖魔相手にあまりにも非力だった。
予想外に素早く振るわれたゴブリンの左拳が、モートの頬を殴りとばす。
折れた左足では、よろめいた体を支えられない。モートがもんどり打って倒れると、ゴブリンはその体に容赦なく棍棒を振り下ろした。
「Gobu! Gobu! Gobu! Gobukkyyy!」
脚を。腹を。肩を。頭を。
鈍く湿った音とともに肉が裂け、昨日磨きあげたばかりの床に、熱い深紅の飛沫が散る。
「早く……行け……」
血泥の下から、モートの目が子供たちに、そして凍りついたままのシノンに向けられた。
自分を諦めた者に特有の凪いだ瞳が、何よりも雄弁に語りかける。
命を代償にした時間を無駄にするな、と。
「エト。オレの親父はさ、ヴァリスの聖騎士だったんだ。お袋とオレがこんな田舎に来たのは、親父が騎士団の命令に背いて不名誉な死に方をしたからだって、村のみんなに言われてきた」
エトと挟むようにシノンの肩を抱いたまま、じりじりと後ずさりながらパーンが呟く。
「けどさ、お袋が死ぬ前に言ったんだ。親父は聖騎士として、村人を守って最後まで立派に戦ったんだって。オレは聖騎士テシウスの息子として、親父の名に恥じないように生きなきゃいけないんだって」
まだ11歳のパーンにとって、それは何物にも代え難い神聖な誓いだった。父が遺した聖騎士の鎧は、まだ大きすぎて着られない。村人たちを守ったという剣は、重すぎて扱えない。
だが、テシウスの息子として受け継いだ正義の心は、誰にも負けないくらい燦然と輝いているのだ。
「エト。ここでモートを見捨てるのは、テシウスの正義じゃない。オレはここで逃げたら、今を生き残っても、きっと一生後悔する」
「パーン! ちょっと待ってよ!」
親友が何をするつもりなのか悟って、エトはあわてて窘めた。
「僕たちはまだ子供なんだよ! 妖魔相手に戦うなんて無茶だよ!」
「オレもそう思う。けどさ」
パーンはそっとシノンの肩から腕を抜くと、イスの背に両手をかけた。
ゴブリンはまだモートに夢中で、子供たちの動きには注意を払っていない。その隙を突こうと、慎重にタイミングを測る。
「けどさ、オレは男だ! 聖騎士テシウスの息子なんだ!」
パーンはイスの背を腰だめに抱えると、脚をまっすぐゴブリンに向けて突進した。
子供にしては体格に恵まれているとはいえ、妖魔と力比べをして勝てるはずがない。勢いだけが勝負だ。
パーンに反応してゴブリンが身構える。突然入った邪魔に苛立ちを浮かべる緑色の瞳。
怯みそうになる自分に喝を入れて、パーンは叫んだ。
「邪悪な妖魔め! 村から出ていけ!」
ゴブリンが振り下ろした棍棒と、樫の木で作った頑丈なイスが激突する。
パーンは重い衝撃にイスを弾かれそうになったが、どうやら神が手を差し伸べてくれたらしい。棍棒が乾いた音をたてて2つに折れ、回転しながら窓の下に転がっていった。
「よし!」
パーンは快哉の声を上げると、そのままゴブリンを家の外に押し出そうとする。ゴブリンが握りだけになった棍棒を投げ捨て、イスの脚を掴んだが、押し合いになっても今なら勢いのついているパーンが有利だ。
至近距離で睨み合い、腹の底から吼えながら渾身の力を振り絞る。
次の瞬間、目に火花が散って視界が揺れた。
鼻の奥が熱くなったかと思うと、あふれた血で口や喉が濡れてく。
顔を殴られたんだ。それを理解したとたん、2発目の拳が顔面に炸裂し、パーンはたまらず床に転がっていた。
「くそっ!」
かすむ目を細めながら上体を起こそうとすると、今度は腹を蹴られた。
あまりの痛みに悲鳴すら出てこない。痙攣した胃から酸っぱいものがこみ上げ、床に黄色い液体をまき散らしながら苦悶して転げ回る。
「パーン!」
為すすべもなく立ち尽くすエト。
ゴブリンは、反応のなくなったモートからパーンに標的を変えたらしい。残忍な顔に愉悦の表情が浮かび、落ちていたイスを拾ってゆっくりと振りかぶった。
楽しんでいる。
わけもなくエトは悟った。
この妖魔は、人が傷つき、苦しんでいるのを見て楽しんでいるのだ。モートや、パーンや、昨日のシノンや、他の村人たちも。皆が必死になって大切なものを守ろうとしているのに、ゴブリンどもは苦しんでいる皆を見て喜んでいるのだ!
自分の無力さと現実の非情さにエトが立ち尽くしていると、それまで人形のように呆けていたシノンがエトの手を振り払った。
弾かれたように駆けだし、床に転がるパーンに覆いかぶさって妖魔から守ろうとする。
「ちょ……姉さん!」
「エト! あなたは逃げなさい!」
ゴブリンは耳元まで裂けた口を笑いの形にゆがめ、勢いよくイスを振り下ろした。
頑丈な樫材が華奢な背中を打つ。
シノンはくぐもった悲鳴を飲み込むと、エトに叫んだ。
「逃げて応援を呼んできて! 早く行きなさい!」
「そんな……そんなのってないよ……」
昨日と同じ状況。
昨日と同じ言葉。
パーンを守って妖魔に襲われる姉。
胃液と血の中で苦しんでいるパーン。
ぐったりとして動かないモート。
こんなことが許されていいのか?
あまりの理不尽に頭の中が真っ赤になり、全身が震えた。
「エト! お願いだから逃げて!」
何度も何度も打擲されながら、シノンが必死に訴える。
姉の美しい顔に赤いものが流れた。
殺戮に酔ったゴブリンが嘲いながら、ひときわ高くイスを振りかざす。
あれが頭に当たったら助からない。今から応援を呼びに行っても、絶対に間に合わない。
姉の死を目前に見て、エトは生まれて初めて渇望した。
力が欲しい。
ゴブリンを倒し、邪悪な妖魔から姉やパーンたちを助けられるだけの力が。
許せない。
自分が壊すものの価値すら知らず、ただ楽しみのためだけに人を殺す妖魔が。何もできず、ただ守られるだけの自分が。
そして、こんな邪悪の存在を許す神々が。
「こんな世界、間違ってるッ!!!!」
エトが絶叫し、眦をつり上げて妖魔を睨みつけた時だった。
『然らず。世界は光に満ちている』
声とともに、金色の風が世界を打ち据えた。
逆巻く光が凝縮して大気を震わせ、囂々とうなる神気がエトを翻弄する。
神の声だ。
だが、唐突にかけられたその声の主が誰なのか、エトには興味すら湧かなかった。
ただ分かったのは、荘厳きわまる声の主が、エトの悲憤を傲然とした視点から否定したという事実だけ。
「…………ッ!」
あまりの怒りに返す言葉もない。
こんな非道がまかり通る世界を、神が自ら許容するというのか!
どこにどれだけ光があふれていようが、人々に届かなければ意味がない。貴族や金持ちや、一部の恵まれた人だけが安全に暮らせる世界など、絶対に間違っている。
この世界が光に満ちているの言うのなら、ザクソンにも光の祝福があってしかるべきではないか!
『然り。なれば、汝に光の加護を与えよう』
魂が血を流すような怒りに応えて、超然とした声が一転、エトを肯定する。
周囲に満ちていた力が相を反転させた。
まばゆい黄金の光がエトの周囲で螺旋を巻き、もの凄い勢いで流れ込んでくる。まぶしさに耐えかねて目を閉じると、まるで自分の中に炉が作られたように、とめどなく力が湧きだして全身が熱くなった。
『汝自身の力を以て、あまねく世界に光を示せ』
輝きの奔流になぶられるままに身を任せ、どれほどの時が過ぎたのだろう?
神の存在が薄れるのを感じてエトが目を開くと、世界は黄金色の嵐の中で、まるで時が止まったかのように微動だにしていなかった。
変わらずパーンをかばう姉の姿があり、残忍な笑みを浮かべた妖魔が、高々とイスを振りかざし。
何もかもが固まった世界で、エトはひとり、静かに両手を突きだした。
神は言った。世界に光を示せと。
そのための力を与えると。
望むところだ。姉やパーンを守れるなら、何だってやってやる。
エトが大きく息を吸い込むと、止まっていた世界が動き出した。
視界から黄金が薄れて本来の色を取り戻し、ゆっくりと時間が流れ始める。
シノンの頭部へと落ちかかる死の影。でも大丈夫。僕の方が速い。
興奮した頭の片隅で冷静に計算しながら、腹の底で熱く渦巻く何かを、エトは根こそぎ振り絞って妖魔に叩きつけた。
『Falts!!!!』
凛とした叫びとともに、空気が重くうなった。
不可視の神罰が妖魔を木の葉のように弾きとばし、そのまま壁に叩きつける。
家を丸ごと揺るがすような衝撃音。あまりの威力に壁板が砕けて散乱した。妖魔がボロ布のように床に転がると、その上に小さな木片が散る。
不自然な方向に折れ曲がった首。
一瞬で光を失った緑色の瞳。
壁際に崩れ落ちた妖魔は、もう2度と起き上がることはないだろう。
法術を最大威力で解放して精神力を使い果たしたエトは、消耗のあまりくらくらする頭で、何とかそれだけを見極めた。
「エト……あなた……」
両手を突きだした姿勢のまま、肩で荒い息をするエトに、シノンが驚愕の視線を向ける。
焦点の定まらない目で姉を見て、エトはつぶやいた。
「だってさ、おかしいよ、こんなの」
視界がぐにゃりと歪み、黒く遠ざかっていく。
姉が何か言っているのが聞こえたが、言葉までは聞き取れなかった。
僕はみんなを守れたのかな?
そう思ったのを最後に、エトの意識は水底へと沈んでいった。