シーン6 ザクソンの村
厨房から流れてくる特製シチューの匂いが、寝室を暖かく包んでいた。
開け放した窓辺から涼やかな風が吹き込み、レースのカーテンがふわりと波打つ。
水鳥の羽根で作った布団はふかふかで、清潔なシーツも肌触り抜群だ。
部屋を柔らかく照らすオレンジ色のランプでは、アランの都で買ってきた最高級の花油が燃えている。
壁や床はパーンとエトが半日がかりで磨きあげ、積年の汚れをすっかり落としていた。
居心地のよい部屋とは何か?
シン、ライオット、ルージュ、レイリアの4人にパーンとエトも加えて、全員で相談した成果がここに凝縮されている。
今回の依頼は最初から収支決算など度外視だ。フィルマー村長が聞けば卒倒しそうな額の金貨銀貨をばらまき、ライオットに言わせれば「金で買えるものは全部買って」シノンを迎える準備を整えた。
清潔な寝台に横になっているシノンには、もう惨劇の痕跡は残っていない。森から直接ターバまで跳び、ルージュとレイリアの2人がかりで風呂に入れてきた。
長い髪を乾かすのは骨が折れたが、うっすらと色づいた美しい肌艶を見れば、その甲斐は十分にあったと言えるだろう。
「もうやり残したことはないよな?」
穏やかな寝顔を横目に、ライオットは寝室をぐるりと見渡した。
もうすっかり日も沈み、窓の外には闇の帳が降りている。
できることは全てやった。あとは静かに目を覚ましてもらうだけだ。
「本当にありがとうございます。こんなことまでしてもらって」
10歳の子供には似つかわしくない、大人びた物言いでエトが頭を下げる。
枕元でシノンの寝顔を見ていたパーンも、あわててエトに倣った。
「あんたたちは命の恩人だ。オレにできることがあれば何でもするから、いつでも言いつけてくれよ」
乱暴だが裏表のない言葉に、思わずルージュの頬がほころんだ。
原作戦記では、最初から最後まで直球勝負を繰り返した主人公パーン。どんな相手にも本音でぶつかっていくその姿勢は、これからのシノンにとって大きな支えになるだろう。
「気にしなくていい。俺たちがやりたくてやったことだ」
シンは事も無げに言うと、エトの頭にぽんと手を置いた。
「エトも。さっきパーンと依頼料の相談をしてただろう。先に言っておくけど、俺たちはフィルマー村長から報酬をもらってある。これ以上は銀貨1枚だって受け取らないからな」
「けど、さすがにそれじゃ……」
少年たちは困った顔を見合わせる。
冒険者たちがどれだけ本気で取り組んだかを見ていたエトには、何も礼をしないという選択肢はないようだ。
だが受け取らないと宣言した以上、シンは絶対に金品を受け取らないだろう。
このままでは水掛け論になると見て、ライオットが苦笑しながら口を挟んだ。
「エト。パーン。世の中っていうのはそうやって巡り巡ってるんだ。今日のことを恩だと思うなら、返す相手は俺たちじゃない。お前たちが大きくなって、今より強くなったら、そのとき困っている人たちを助けてやれ。それこそが今日の恩返しになる」
先輩から受けた恩は後輩に返す。
警察学校を卒業して現場に出たライオットが、指導役の巡査長から最初に教えられた警察の伝統だ。
「金なんて使ったらそれまでだ。けど、気持ちは伝え続ける限り全員に残るんだぞ。どっちが価値のあるものか、お前たちには分かるだろう?」
ライオットの言葉は完全に先輩の受け売り。オリジナルの要素などどこにもない。
だが、その言葉には世界を超えて通用する何かが宿っていたらしい。
エトとパーンは反論を封じられて黙り込み、ルージュがちょっと感心した顔で夫を見つめる。
「ライくんってさ、たまにすごくいいこと言うよね」
「まあな。隠してもにじみ出る品格ってやつさ」
「ちょっとは謙遜ってものを覚えると、もっといいんだけど」
得意げに胸を張るライオットにルージュがため息を返すと、狭い寝室に笑い声がはじけた。
どことなく重かった空気が嘘のようにかき消え、パーンやエトにも笑顔が戻る。
わずかに軋む音をたてて寝室のドアが開いたのは、その時だった。
食欲を刺激するシチューの匂いとともに、厨房に立っていたレイリアが顔をのぞかせる。
ポニーテールに腕まくりしたエプロン姿。ライオットが採点すれば満点をもらえそうな格好で、レイリアはシンに顔を向けた。
「食事の準備ができましたよ。こちらの様子はどうですか?」
開いたドアの向こう、小さな家の中央にあるリビングには、人数分の食器や花を飾ったグラスが準備万端整えられている。
食事に供されるワインはラフィット・ロートシルトの502年。宮廷の品評会で特等を取り、酒を飲めないルージュをして「すごく美味しい」と言わしめた至高の逸品だ。
「こっちも準備完了だ。腹も減ったことだし、そろそろ起こそうか。パーンとエトはベッドの横に。レイリアも付き添ってくれないか?」
シンが作戦開始を宣言すると、ルージュは魔法樹の杖を手に取った。
できることは全てやった。それは自信を持って断言できる。
次はシノン自身が戦う番だ。
「じゃ、解呪するよ?」
ルージュはそう言って全員を見渡した。
パーンとエトが左右からシノンの手を握る。
レイリアはその傍らに控え、いつでも《サニティ》を唱えられるように待機している。
ライオットは壁際に下がり、平然とした表情の下に緊張を隠しているようだ。
ルーィエは……戻ってこないから、食堂で夕食の味見でもしているのだろう。
「頼む」
シンがうなずくと、ルージュは呪文の詠唱を開始した。
大きく杖を振って精神を集中させ、世界に新しい設計図を重ねる。
イメージするのは光の水だ。シノンを縛る眠りの鎖に光を染み込ませ、内側から鎖を溶かすように。
呪文の詠唱に応じてマナが寄り集まり、繊維に色が乗るようにシノンを包んでいく。
そして魔法の完成。
ルーィエの強力な《スリープ》を、ルージュの《ディスペル・マジック》は易々と打ち破った。もしここに精霊使いがいれば、眠りをもたらす精神の精霊が束縛から解き放たれ、存在を弱めたのを見ただろう。
「ん……」
それまで穏やかに寝息をたてていたシノンが、軽く身じろぎして小さな声を漏らした。
「姉さん」
「シノン」
パーンとエトが交互に呼びかける。
手を強く握られて、シノンは細く長い吐息とともに、ゆっくりと目を開けた。
半分夢の中にいるような瞳が天井をさまよう。
「ここは……どうして私、家に……?」
「冒険者さんたちが運んでくれたんだよ」
耳元でエトがささやく。
いぶかしげな表情でシノンが首を巡らすと、ふたりの少年は笑顔を作った。
「お帰り、シノン。無事でよかった」
「姉さん、遅くなってごめん。でも間に合ったよ」
シノンの瞳が焦点をずらし、過去を見つめる。
あのときと同じ。記憶をたどって反芻しているのだ。
緊張に表情を強ばらせるライオットの前で、永劫とも思える数瞬がすぎる。
やがてシノンは、寝台で上体を起こすと、細い腕を回して少年たちの頭を抱き寄せた。
「ただいま、パーン、エト。きっと心配させちゃったでしょうね。ごめんなさい」
その優しい声音に、胸に顔を押しつけるようにしてエトが嗚咽を始める。
シノンは彼らを強く抱いたまま、今度はしっかりした意志のある目を上げた。
黒髪の女性司祭、銀髪の魔術師、そしてふたりの戦士。村を救った冒険者たちを順番に見て、頭を下げる。
「助けてくれてありがとうございました。それと、すみませんでした。私、森に入るなっていう忠告を無視してしまって」
少年たちに回された腕が小さく震えている。
それをごまかすようにぎゅっと力を入れて、シノンはことさらに穏やかな声を装った。
冒険者たちに見透かされるのは構わない。だが、エトやパーンの前で取り乱すのだけは避けたかった。
「それにさっきも。森で助けてもらったとき、私ひどいこと言いましたよね?」
「そんなことないよ。ただ少し混乱してただけでしょ」
にこりと笑うルージュの頬に、昼間の傷は残っていない。
その言葉に納得したわけではないだろうが、心遣いは正しく伝わったらしい。シノンはそれ以上の謝罪を繰り返さず、顔を巡らせてエプロン姿のレイリアを見上げた。
「とてもいい匂いがします。これはレイリア様が?」
「はい。勝手とは思いましたが、厨房をお借りしました」
ごめんなさい、と生真面目に頭を下げると、黒髪が絹糸のようにさらりと流れる。
少しだけ羨ましそうにその髪を見つめてから、シノンは悪戯っぽく微笑んだ。
「起きるなりこんなこと言うのも恥ずかしいんですけど、私、お腹ぺこぺこです。私の分もありますか?」
「もちろん。もう準備もできています。みんなで一緒に頂きましょう」
レイリアが嬉しそうにうなずく。
傷はすっかり癒えているから、食事をするのに不都合はない。シノンは少年たちの頭を軽く撫でて離れるように促すと、掛け布を捲ろうとして、今さらのように目を丸くした。
「このお布団も冒険者さんたちが? 軽くてふかふかで、まるで雲でも入ってるみたい」
「残念。中に入ってるのは雲じゃなく、水鳥の羽根だってさ」
ルージュがさらりと答える。
レイリアが料理をしている間にアランの都まで跳び、貴族御用達の店で買ってきた品のひとつだ。軽さも保温性も抜群。ザクソンの厳しい冬には、シノンたち3人をしっかりと暖めてくれることだろう。
「これ、きっと高いんですよね?」
「お金のことは気にしないで。今回は全部ライくんが出したから、誰の懐も痛んでないの。それより」
ルージュは紫水晶の視線を男どもに投げかけると、しっしっと手を振った。
「これからレディの着替えだよ。少しは気を使ってさっさと出る」
ふと気づけば、着ているのは薄い夜着1枚だけだ。シノンが頬を染めて胸元をかき合わせると、シンも戸惑ったように視線を背けて咳払いした。
「そうだな。ライオット、とりあえず食堂で待とう」
「了解」
あとは任せた、と目で妻に告げると、ライオットは身を翻して寝室を後にした。シンとパーン、エトがそれに続く。
できるだけ音をたてないように扉を閉めると、そこでようやくライオットの肩から力が抜けた。思わず安堵のため息が洩れる。
「ある意味、敵と戦うより緊張した」
目に見えて脱力した様子の親友に、シンは怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうしたんだ? なんか今回はちょっと変だぞ?」
「そりゃ変にもなるさ。あのシノンを見たらな」
苦々しい顔でライオットがうなずく。
「けど結局は無事だったんだから、それでいいじゃないか」
「それは結果論だ。俺の不手際が原因だったんだから、そこまで割り切っては考えられないよ」
「いや、そもそも俺が言いたいのは……」
そこまで言ったとき、シンは不安そうに見守る少年たちに気付いた。
今この状況で口論しても、得るものはない。続きはまた後にしよう。そう思い直して言葉を切る。
テーブルには、酒場でジェット爺さんに焼いてもらったパン、イメーラ夫人直伝の特製シチュー、ザムジーがくれた雉肉の香草焼き、それに色とりどりの野菜が盛られたサラダや男爵夫人のワインなどが所狭しと並んでいる。
決して華美ではないが、大勢の人の好意に支えられ、レイリアが腕を振るった暖かい食卓だ。きっとシノンの心の傷も癒してくれることだろう。
「ま、いいか。続きはまた今度にしよう。まずは食事だ」
そしてシンは、パーンとエトを手招きして自慢するように笑った。
「旨いんだぜ、このシチュー。レイリアが作るって聞いてから、ずっと楽しみにしてたんだ」
それは誤魔化しでも何でもない、シンの本心。
食欲をそそる香ばしい匂いに、パーンの腹が鳴って空腹を主張した。今日は皆、昼食もとらずに働きづめだったのだから無理もない。
「まあ、おいしそう!」
寝室から出てきたシノンも、テーブルを眺めて目を細める。
皆が先を争うように席につくと、忙しく視線が交錯した。誰が「いただきます」の挨拶をするか、無言だが熾烈な押しつけ合いが展開される。
勝負はすぐにつき、全員がレイリアに注目すると、レイリアは苦笑して姿勢を正した。
「それでは僭越ですが。日々の糧を恵んでくださるマーファの恩寵と光の神々の慈悲に感謝して。いただきます」
「いただきます」
全員が唱和すると、とたんに活気が部屋にあふれた。
シンとパーンは忙しくスプーンを動かし、見ている方が気持ちよくなるような食べっぷりを披露する。ライオットは努めて上品に振る舞っているつもりらしいが、口と皿を往復するスプーンは誰よりも速かった。
他にもおっとりとマイペースに楽しむ者、一口ごとに首をひねって味付けを推測する者など、食べ方にはそれぞれの性格がよく現れている。
そんな中、レイリアはひとり手を膝に置いたまま、食事の風景を見守っていた。シンが無言で問いかけると、心から嬉しそうに微笑み返す。
「母の言ったとおりだなと思って見ていたんです」
「イメーラ夫人の?」
シンが首を傾げる。
「はい。おいしいお料理は食べる人を幸せにしてくれます。そして食べた人が喜んでくれれば、作った人はその何倍も幸せになれるんだそうです」
皆が目を輝かせて舌鼓を打っている情景。
自分がそれを提供したのだと思うと、イメーラ夫人の言ったとおり、見ているだけでレイリアの心を暖かくしてくれる。
「それはどうだろうな?」
忙しくスプーンを往復させながら、ライオットがここぞとばかりに口を挟んだ。
「シン、お前はどう思う? 俺たちとレイリア、どっちが幸せかね?」
シンはほんの一時だけ手を休めると、なにを分かりきったことを、と肩をすくめた。
「そんなの俺に決まってる。悪いけどレイリア、世界中探したって今の俺より満ち足りてる人間はいないぞ? 君の顔を見ながら最高の手料理を食べられるんだから、これ以上の贅沢なんて考えられない」
照れもせず大まじめに答えるシン。
「そんな……大げさですよ」
「大げさなもんか。俺がお世辞を言ってるように見えるのか?」
「そういう訳じゃありませんけど、私だって負けないくらい幸せですから」
レイリアは少しだけ照れながらも、堂々と主張する。
その言葉どおり、幸せがこぼれおちるような笑顔は破壊力抜群だ。色気より食い気だったはずのシンが、完全に魅入って食事の手を止めてしまう。
ふたりが言葉をなくして見つめ合うと、背景にバラが咲き乱れた。
パーンやエトにはまだ少し早いだろうが、シノンにはふたりの関係がはっきりと把握できたらしい。英雄と女性司祭、絵に描いたようなふたりの姿に、羨望の眼差しを向けていた。
「いいねぇ。これが青春ってやつだ」
計算どおりの結果にライオットは小さく笑い、意味ありげに妻を一瞥する。それを目敏く察知すると、ルージュは肩をすくめて夫に返した。
「はいはい、すいませんね。料理が得意じゃなくて」
「とんでもない。俺は幸せだよ。君みたいな妻を迎えられてさ」
「うっわ、白々しいにも程があるよね。ぜんぜん誠意が感じられないんだけど」
「白々しいもんか。俺がお世辞を言ってるように見えるのか?」
「むしろ皮肉にしか聞こえません」
ルージュが不満そうに頬を膨らませると、テーブルに笑い声が弾けた。
言いたいことを遠慮なく言い合い、それでも揺るがないライオットとルージュの絆。表面上の言葉とは裏腹に、相手への深い信頼を感じるから、彼らの応酬は簡単に笑い飛ばせるのだ。
「おい、小娘」
それまでテーブルの隅でおとなしくシチューを舐めていたルーィエが、ふと顔を上げてシノンを見た。
「羨ましいか、あいつらが」
わいわいと騒ぎ続ける冒険者たちを横目に、シノンは美しい銀色の毛並みを見下ろす。
「そうですね。正直、レイリア様には嫉妬してしまいます」
美貌、才能、地位、評価に加えて理想的な恋人まで。およそ女性として、彼女以上に恵まれている人間がいるだろうか?
少しだけ暗い瞳をした少女に、ルーィエは鼻を鳴らした。
「じゃあ聞くけどな、お前はあいつの何が羨ましいんだ? 顔を取り替えたいのか? 魔法が使いたいのか? 神殿で偉くなりたいのか?」
予想外の質問を投げかけられて、シノンはすぐには答えられなかった。
顔を取り替えたい?
いや、そんなことはない。親からもらった顔だし、村の皆も愛嬌があって可愛らしいと言ってくれる。自分の容姿に不満はない。
魔法が使いたい?
もちろん使えれば便利だとは思うが、シノンにとって魔法は絶対ではない。薬草術の限りを尽くせば、大勢の人を助けられると信じて今まで頑張ってきたのだから。
神殿で偉くなりたい?
とんでもない。シノンはザクソンで唯一の薬草師だ。神殿に行ったら村人たちの手助けをできなくなってしまう。
ひとつひとつ考えてみると、シノンがレイリア相手に嫉妬していた内容は、ひとつとして切実なものではなかった。あれば便利、という程度の認識でしかない。
問題は、シノンがレイリアに勝っている点がひとつもないことなのだ。
「そうですね。レイリア様の何かが欲しい、という訳じゃありません。ただ、何か一つでもいい、レイリア様より私が優れていることを証明したかったんです。もしかなうなら、私の得意な薬草術の分野で」
できれば見たくない、自分の醜い部分を可能な限り客観的に評価する。
だが、シノンが苦労して絞り出した一言を、ルーィエは一笑に付してしまった。
「そんなもん、証明するまでもないね。ここに村人を全員連れてきて、ひとりひとりに聞いてみればいい。お前とレイリアと、村に独りだけ残せるとしたらどっちがいいかってな」
紫水晶の瞳が強い輝きを発した。
銀毛の尻尾をぴんと伸ばし、まっすぐにシノンを見る。
「そこでお前の名前が挙がる理由はな、お前が自分自身で築き上げてきた信頼だ。お前が森で行方不明になったと噂が広まったとたん、二日酔いの男どもが青い顔を並べて山狩りを始めようとしたんだぞ。思い止まらせるのに俺様がどれだけ苦労したと思っている? そのとき奴らが俺様に何て言ったと思う?」
相手は猫で、自分よりずっと小さいのに。
その時のルーィエは、まるで父親のように大きく見えた。
「シノンは村にとってかけがえのない人間だから、助けるためなら何でもする、どんな犠牲を払っても惜しくないと、そう言ったんだ」
シノンをターバに連れていって世話をしている間、村人たちが暴発しないようにと留守番を命じられたルーィエ。
その時の苦労を思い出したのか、荒々しい口調で説教を続ける。
「いいか小娘、これだけは覚えておけ。今のお前はな、もう替えのきかないたったひとりなんだ。しょうもない嫉妬で軽挙妄動する暇があったら、村人の信頼に応えられるように研鑽しろ。レイリアが来ようがニースが来ようが、村人が選ぶのはお前だけなんだぞ。そこんところを自覚して行動しろ」
シノンの目にうっすらと浮かんだ涙を見れば、自分の言葉が相手に伝わったのは明らかだ。
以上、と締めくくってルーィエは再び食事に戻る。
まったく、半人前どもが甘やかすばかりだから、王たる者が苦労しなければならない。これも高貴な義務とはいえ、食事時に面倒なことだった。
「……ありがとうございます、ルーィエさん」
涙声でシノンが頭を下げる。
すると、それに気付いたルージュが弾劾の声を上げた。
「あ、ちょっとルーィエ。シノンさんを虐めたんじゃないでしょうね? 病み上がりなんだから大事にしないとダメだよ?」
「やかましい。半人前が偉そうに言うな。お前らの代わりに俺様が言ってやったんだろうが」
被保護者を無視して食事を続けようとすると、ひょいと伸びた細い手が、ルーィエの首根っこをつまんだ。そのまま持ち上げられ、気付けば目の前にルージュの顔があった。
「あのね。精神がワイヤーロープでできてるルーィエと違って、女の子はとっても繊細なの。言葉ひとつで傷ついたりするんだよ。心の傷は魔法じゃ治らないんだから、ちゃんと気を遣ってよね」
ルーィエが憮然として二の句を継げないでいると、シノンが横から取りなすように口を挟んだ。
「ルージュさん、違うんです。ルーィエさんは私のためを思って助言を」
「ありがとう、気を遣ってくれて。でもいいんだよ、言うべき時にはきちんと言うのが相手のためなんだから。ルーィエもちょっと反省しなきゃいけないの」
まるで聞く耳を持っていない。
ルーィエは助けを求めるようにテーブルを見渡したが、シンとレイリアは相変わらずピンク色の結界に立てこもったまま。ライオットは怖くてルージュに逆らえないため、見ないフリをしてパーンたちに雉の香草焼きを切り分けている。
増援は期待できそうになかった。
「ちょっとルーィエ、聞いてるの?」
四面楚歌。
銀毛の双尾猫はあきらめて肩を落とすと、視線だけをシノンに向けた。
「いいか小娘。どんなに実力があっても、俺様みたいになったら哀れなもんだ。お前を助けようとする村人を大切にしろよ」
「……はい」
目と目で分かり合ったふたりだが、すぐに銀の魔女によって引き裂かれてしまう。
それからも冒険者たちの飾らない談笑は続き、砂漠の英雄と仲間たちの冒険譚に、パーンとエトは目を輝かせた。
珠玉のワインの栓が抜かれると、子供たちより早くライオットの顔が真っ赤になり、ルージュに厳しく禁酒を命じられてしまい。
砂時計に宝石を砕いて流すような時間が過ぎて、子供たちが眠りの園へと旅立つと、ふたりをベッドに運んで団欒は終わりを迎えた。
宴の後。
大鍋のシチューも雉肉もきれいになくなり、空の皿だけがテーブルに並んでいる。
眠っている子供たちを起こさないよう、静かに洗い物をまとめると、ルージュは次の命令を下した。
「じゃあライくん、リーダー。お皿洗いに行こうか。外に小川があったからそこでやろう。この季節なら水も冷たくないでしょ」
台所には洗い物用の水瓶もあったが、この大量の食器を洗ったら水がなくなってしまう。小川から水を運ぶ重労働を考えれば、食器を持っていった方が効率的というものだ。
「ルージュさん、とんでもない。あとは私がやります」
あわてたシノンが止めようとするが、ルージュは笑って手を振った。
「いいのいいの。働かざる者、食うべからずってね。シノンさんはテーブルでも拭いておいて」
じゃあ出発、と号令して、ルージュが外に出ていく。両手に洗い物を抱えたシンとライオットが召使いのように付き従うと、部屋は急に静かになった。
すっかり物のなくなったテーブルや、しんとした雰囲気。団欒の時は終わったのだと五感が納得するような静けさの中で。
「もういいですよ、シノンさん。よく頑張りましたね」
台所から戻ってきたレイリアが、ねぎらうように微笑んだ。
「……え?」
「パーンとエトは寝ましたし、シンたちも当分帰ってきません。誰も見てませんから、もう我慢しなくていいんです」
ふわりと包むように、レイリアの腕がシノンの背中に回される。
誰かに抱きしめられるなど、パーンの母親が亡くなって以来の感覚だった。太陽の匂いがするマーファの神官衣に顔を埋めると、なぜだか、急に鼻の奥がつんと痛くなった。
目が熱くなって、勝手に涙があふれてくる。
「あれ、おかしいな……私……」
べつに泣きたかったわけではないのに。どうして私は泣いているのだろう。
理性と身体の遊離に戸惑っていると、レイリアが優しい声でささやいた。
「自分でも気付いてなかったんですね。シノンさんは頑張り屋さんで、いつでも頑張ってきたから、それが当たり前になってたんですね」
まだ16歳の若さで、ふたりの子供たちを育て、村人たちに尽くし続けて。
大人でも弱音を吐くような重圧と責任の中で、シノンは走り続けてきたのだ。
だから今日も、当然のように自分を犠牲にして笑顔を見せることができた。笑顔を浮かべることが不自然だとすら思わなかった。
「だけど、今だけは力を抜いていいんですよ。人は誰だって疲れるんです。泣いて泣いて、涙が出なくなるくらい泣いたら、明日はきっと今日よりいい日になりますよ」
ぽんぽん、とレイリアが背中を叩く。
それなら、ちょっと泣いてみようかな。
シノンがそう思った瞬間、堰を切ったように感情の波があふれてきた。心の奥に閉じこめたはずの後悔や恐怖が、今さらのように首をもたげて理性を押し流していく。
心と体が震え、涙がとめどなく頬を伝ってレイリアの肩を濡らした。
声を圧し殺して泣きながら、それでも何かを言おうとしてしゃくりあげるシノンに、レイリアは柔らかく微笑んだ。
「言いたいことはたくさんあるでしょう。けどこういう時に言葉は要らないんです。ただ抱きしめ合えば全部伝わるんですよ」
そして、心の傷も何もかも包み込むように、ふわりと少女を抱きしめる。
「ねえシノンさん。私はニース最高司祭の娘ということになっていますよね。でも、本当は違うんです。この身は邪悪な魂の寄代として呪いを受けたものだから、放置してはおけないという理由で、本当の親からニース様に預けられたんです。マーファ教団は今でも、私が邪悪な魂に負けないか監視しているんですよ」
衝撃的な告白にシノンが思わず顔を上げると、レイリアは何でもないことのように微笑んだ。
「けれど私ね、最近思うんです。確かに私の生まれは呪われたもので、時には殺されかけたりもしましたけど、そのおかげでシンと出会えたのだから、もしかしたら邪教に感謝してもいいんじゃないかなって」
邪教に呪われた運命さえも受け入れて莞爾と笑うレイリアを見て、シノンは思い知らされた。
苦しさだけを見て自己憐憫に陥っても、辛さを押し殺して笑顔を浮かべても、未来を拓くことには繋がらない。
大切なのは、逆境の中にこそ光を見失わないこと。
それを知っているから、レイリアはこんなにも美しく見えるのだ、と。
「シノンさん、あなただって私と同じなんですよ。今日はとても辛い目に遭いましたけど、あなたにはエトや、パーンや、認めてくれる大勢の村人が付いています。みんながいれば、あなたの心を強くしてくれます。心強いって、そういうことでしょ?」
そうか。
みんなのために自分を犠牲にして頑張らなきゃいけないんじゃない。
みんながいてくれるから、私は強くなれるんだ。
だからきっと、本当に強い人っていうのは、ひとりで立ってる人のことじゃないんだ。
心の風景はもうぐちゃぐちゃだ。でたらめにかき混ぜた絵の具のように、自分の感情が何色に染まっているのかも理解できない。
レイリアに伝えたいことがあるのに、混乱を極めた頭では言葉が紡ぎ出せなかった。
だからシノンは、ただ泣きながらしがみついた。そうすれば想いは伝わると、レイリアが言ったから。
「それでいいんですよ。今日はいろんなことがあって大変だったけど、涙がみんな洗い流してくれます。今はたくさん泣けば、それでいいんです」
泣き続けるシノンの背中をそっと撫でながら、レイリアが静かに囁く。
腕の中で震える少女の心に、どうか安らかな夜が訪れんことを祈って。
小屋から漏れてくる嗚咽を背に歩きながら、ライオットは無言で天を仰いだ。
いつかと同じ星空。
日本人が見れば感動で言葉を失いそうな光景だが、今のライオットには何の慰めにもならなかった。
ついにレイリアにまでフォローさせてしまった。小さな失敗は転がる雪玉のように膨れ上がり、もはや自分の力では収拾できない状況を招いている。
事ここに至っては、もうため息しか出てこなかった。
ライオットが陰気な顔で夜空を見上げていると、肩を並べていたシンがぽつりと言った。
「お前さ、いつか俺に言ったよな。何ができるかじゃなく、何がしたいかで決めろって」
「ああ、言った」
口調は平静を装っていても、シンには分かる。
今のライオットは、悩みを抱えすぎて沈没寸前の泥船だ。
普段からあまり人に頼ることをしないライオットは、放っておくと際限なく重荷を引き受けてしまう。もう20年以上の付き合いで、シンはそれを知悉していた。
「じゃあ俺も聞くけどさ、お前はいったい何がしたいんだ?」
「何が……って」
予想もしなかった言葉を投げかけられて、ライオットが言葉に詰まる。
「依頼を受けたから村を守る責任があった。俺に付き合うって約束したから、レイリアを一緒に守らなきゃならない。お前の行動原理はそればっかりだ。右も左も義務だらけ。じゃあさ、他のことは全部気にしないで好きなことしていいぞって言われたら、お前はどうしたいんだ?」
「…………」
答えられない。
今までそんなことは考えもしなかった。
気が付いたらロードス島にいて、レイリアをめぐるキャンペーンシナリオの中にいた。いつかは日本に帰るために、必要な経験値と遺失魔法を集めている。
降りかかる火の粉を払うために邪教と戦い、困った人を救うために妖魔と戦う。
その生活に疑問が介入する余地はなかったし、ライオット自身もそれでいいのだと納得していた。
「最初にオーガーと戦った時さ、俺はヘタレもいいところだっただろ? お前の《戦いの歌》がなければ何もできずに殴り殺されてたかもしれない。だから、俺たちはお前にとって保護する対象になったんだと思う」
「保護って、そんなつもりは……」
ライオットが反駁しようとすると、シンは首を振って遮った。
「いいんだ。それが事実だ。実際あのとき、スペックどおりに戦えたのはお前だけだった。警察官として犯人と戦ってきたお前は、ただのSEだった俺と違って肝が据わってたのさ。ともかく、最初にそういう形ができちまったから、お前は今でもそれを引きずってる」
シンの眼光が、漆黒の槍となってライオットを貫いた。
「自分は警察官だから、民間人を守らなきゃいけないって、今でもそう思ってるだろ?」
たとえどんなにファイター技能が成長しても。
プリーストとして何度神の声を聞いたとしても。
いみじくもライオット自身が言ったとおり、自分が何者かと決められるのは自分自身だけなのだ。自分はこうあるべきと決めてしまえば、その殻は決して破れない。
「俺はオーガーと戦ったとき、まだ桧山伸之だった。でも今はシン・イスマイールだ。“砂漠の黒獅子”とかいう厨二ネームが付いてるけど、それに恥じない自分でありたいと思ってる。レイリアを守るためにはどうしても力が必要だから、自分でそう望んだんだ。だけどお前は違う」
逃げることを許さない、真正面からの直球を、シンは親友に投げつけた。
「お前は非道な暴力から民間人を守るためだけに、警視庁警察官のままで、今日まで戦い続けてきたんだ。ライオットって呼ばれながらも、お前の中身はライオットじゃない。まだ井上一彦巡査長のままなのさ」
それを考えれば、山賊に襲われても相手を殺さなかったことや、背を向けて逃げ出すゴブリンを殺せなかったことも納得できる。日本の警察官は、逃げる犯人の背中に発砲することを厳しく禁じられているのだから。
警察官の責務とは、犯人を殺すことでも裁くことでもない。生きたまま捕らえることなのだから当然だ。
ろくに法整備もされていない中世レベルのファンタジー世界で、『警察官の本分』という金科玉条を奉じて戦うことの矛盾。
現代日本人のメンタリティのまま、真剣を振り回して生命を奪うことの罪悪感。
それを繰り返してきたライオットの心中を想像するだけで、シンは胸が痛くなった。
しかも、それをやらせたのは弱かった自分なのだ。
「ナニールの墓所でさ、俺、お前に言ったよな。キャンセルは受け付けないって。あれ撤回するわ」
その言葉を聞いて、ライオットの身体が電撃を浴びたように強ばる。
だが、シンは心を鬼にして言いつのった。
ここから先、バグナードや邪教の司祭どもを相手にしたら、戦いは先手必勝の殺し合いとなる。躊躇すればライオットが死ぬし、相手を殺せばライオットの心が壊れていく。
そんな親友だけは見たくなかった。
「今はもう、俺もただの民間人じゃないからさ。お前に守ってもらわなくてもやっていける。レイリアも俺が守る。お前も義務感とか使命感とかに縛られないで、自分の望む道を探せよ」
「…………」
決定的な言葉を叩きつけられて、ライオットが奥歯を噛みしめた。
自分自身を縛り、逆に言えば支えてきたものを一撃で断ち切られた。例えようもない喪失感、そして無限に落下していくような錯覚。
シンがどのような意図で挑発的なことを言っているのか、それを洞察できないほどライオットは凡庸ではない。
それでも、今まで歩いてきた道を否定され、目の前にあった道標を破壊されれば、腹の底にどうしようもない灼熱感が沸きあがってくるのは我慢できなかった。
「なあシン。とりあえず、持ってるその皿を下に置こうぜ」
自分も抱えていた洗い物を地面に下ろす。
早く行かないと、小川でルージュが待ちくたびれているだろう。ふとそんな思考が脳裏をよぎったが、今はそんなことはどうでもよかった。
シンが素直に皿を置くと、ライオットはいつになく獰猛な笑顔を浮かべた。
シノンの小屋からは十分に離れている。ここなら、少しくらい騒いでも聞こえはしないだろう。
今から自分がやろうとしているのは、きっと愚かなことだ。だが挑発したのはシンの方なのだから、責任をとってもらうのは当然のこと。
「今ごろそんなことを言われてもさ」
右足を引き、じっくりと体重を乗せる。
次の瞬間、ライオットが迅雷となってシンに襲いかかった。
「困るんだよ!」
右拳が稲妻のごとく閃いてシンの顔面を捕らえた。
ぐらりと傾いだ黒獅子に、左、右と追撃を仕掛けて地面に叩き伏せようとする。
「ああそうさ! 俺は警官根性が抜けてないよ! できれば殺したくないさ! だけどそれが俺なんだから仕方ないだろうが!」
不意を打たれて先制を許したが、シンもすぐに体勢を立て直した。ライオットの拳をかいくぐり、非常識な反応速度で反撃を開始する。
「これからは仕方ないじゃ済まないんだ! 自分でも分かってるんだろう! バグナード相手に中途半端は通用しない!」
「だったらお前は人を殺せるのかよ!」
「レイリアのためなら、俺は何だってできる!」
迷いのない瞳がライオットを射抜き、それに苛立ったライオットがさらに力を込める。
ノーガードで殴り合いながら、ふたりは怒鳴り続けた。
「ああそうかい! 悪かったな! 余計なお世話だったよ!」
「他人のことより自分のことを考えろ!」
互いの拳がうなり、不可視の気迫が衝撃波となって周囲にはじける。
強烈な力のぶつかり合いに、草むらで鳴いていた虫たちが一斉に逃げ出した。
「ふざけるな! ここまで俺を連れてきたのはお前だろうが! いきなり放り出しといてその台詞はおかしいだろ!」
古武術さながら。右足の踏み込みと同時に右肘がシンの水月を突く。急所を貫いた打撃に息が詰まったが、反射的に繰り出した拳は、同時にライオットの臓腑をえぐっていた。
ほんの刹那、動きが止まり、闘志に燃える瞳が至近距離で睨み合い。
悔しそうに表情をゆがめたライオットが崩れ落ちると、シンも咳込みながら地面に膝をついた。
限界に達した身体を支えきれず、ふたりはそのまま大の字になって地面に転がる。しばらくは言葉もなく、ただ荒い息だけが静寂に響いた。
やがて、満天の星空を見上げながら、ライオットがぽつりと呟いた。
「……俺はさ、自分だけ楽をしてるみたいで、申し訳なかったんだよ」
「はぁ?! 一番苦労したのがお前じゃないか。どうしてそうなる?」
シンの声が跳ね上がった。
こいつアホかと言わんばかりの視線を向けられて、ライオットは不機嫌そうにそっぽを向く。
「だってそうだろ。ライオットのプレイスタイルって、盾の後ろに隠れて全力防御ばっかりだ。相手を殺すっていう罪悪感のある作業は、お前とルージュに任せっきりじゃないか」
言われてみれば、そういう見方ができなくもない。
できなくもないが、先頭に立って一番最初に敵の攻撃を引き受けてきた人間が、ふつう「自分だけ楽をしている」などと言うだろうか?
呆れて口を開けるシンから目を背けたまま、ライオットは内心を吐露し続けた。
「お前の言ったとおりだよ。俺はずっと状況に流されるままだったし、義務感と使命感に雁字搦めだった。けどな、それがおかしいとは思わなかったんだ。警察官ってそういう存在なんだから当然だろ」
日本には様々な職業があるが、刃物を振りかざす相手から逃げることを許されないのは、ただ警察官と自衛官あるのみだ。
シンやルージュにとって、戦いとは非日常の象徴と言えるものだった。だがライオットにとっては、日々の仕事の延長線上でしかなかったのだ。
だから、順応するために変化を余儀なくされたシンやルージュとは違い、警察官としての自分をずっと固持してきた。それができてしまった。
「……ほんと、お前はすごい奴だよ」
ロードス島に転生しても、普通に生きていけると。
そう豪語していた親友に、シンはしみじみとため息をついた。
普通どころではない。現代日本人の意識のまま、バグナードや邪教の司祭を敵に回して、ガチで殺し合いができるほどの胆力を持ち合わせていたとは。
「けどさ、レイリアも言ってただろ? 一緒に戦う仲間がいるから、心って強くなれる。今の俺ならお前の横に立てると思ってるんだけどな」
「分かってる。それもお前の言うとおりだ」
全身の痛みをこらえて上体を起こすと、ライオットはあらためて親友を見つめた。
顔中あざだらけ。頬は腫れ、目には隈ができ、絵に描いたような負傷者ぶりだ。
「ひどい顔だな」
思わず頬をゆがめたライオットに、シンが笑い返す。
「お前もな」
10レベルファイターが本気で殴り合ったのだ。お互い無傷で済むはずがない。
それでも屈託のない笑みを浮かべ、握った拳を打ち交わすと、わだかまりは嘘のように消え去っていた。
「なあシン。相談があるんだ。宿に帰ったら付き合ってくれないか」
「お前がそう言うのを、ずっと待ってた」
胸襟を開くというのは簡単ではない。
誰だって自分の弱さは見せたくないし、自分自身でも見たくない。
だが、それができる相手がいるというのは、人として最高の財産なのではないか。
急にこぼれそうになった涙をこらえて、ライオットは再び上を向く。
視界がぼやけて、星が見えなかった。