シーン5 恵みの森
「すぐに始めよう。現場班は俺、レイリア、エトで組む。ルージュとライオットは洞窟方面を頼む」
森の中に忽然と姿を現すと、シンは即座に行動を始めた。
「了解。見つけたら念話で連絡するね」
「分かった。シノンが現場にいなければ、俺たちも洞窟に向かうから、そこで合流しよう」
シンはルージュと手早く打ち合わせると、エトに案内させてすぐに緑の向こうへと消えていく。ぺこりと会釈を残してレイリアがその後を追うと、辺りには思い出したように静寂が戻ってきた。
森を吹き抜ける涼やかな風。
柔らかく揺れる木漏れ日。
さえずりあう小鳥たちの声。
こんな時でなければ居心地のよい場所なのだろう。だが生憎と、今のルージュには自然を楽んでいる余裕はなかった。
「ライくん、ルーィエ。何が何でもエトより先に見つけたいの。お願い、力を貸して」
せっぱ詰まった様子のルージュに、ライオットは困ったように頭をかいた。
レイリアの《キュア・ポイズン》で酒精は強制除去されたが、暴飲暴食と不完全な睡眠のせいで体調は最悪だ。状況説明もなしに連行されたため、森に来た理由すら把握していない。
文字どおり着の身着のまま、平服に剣だけを携えた格好で、ライオットは口を開いた。
「まずは説明してくれ。いったい何があったんだ?」
「エトとシノンさんが森でゴブリンに襲われたの。シノンさんはエトを逃がすために、囮になって森に残ったって」
ルージュが簡潔に説明する。
事態をすぐに理解すると、ライオットの顔に渋面が浮かんだ。
妖魔が逃げているから不用意に森に入るなと警告したはずだが、どうやら無駄に終わったらしい。シノンという娘には機転の利きそうな印象を持っていたのだが。
危機意識の欠如が招いた事態。物事の表面だけを見れば、自業自得と言えなくもない。
だが、しかし。
妖魔征伐の依頼を受けながら、10匹ものゴブリンを取り逃がしたのはライオットの落ち度だ。無論ライオットにも言い分はあるが、とことん冷酷に振る舞えば、あの場でゴブリンを皆殺しにすることは可能だった。
1匹でも逃がせば女子供には十分な脅威になる。知っていたのにそうしなかったのは、美学という名の怠慢だ。
「……俺の責任か」
苦々しく舌打ちしながら認める。
「ライくん、そんなこと今はどうでもいいの。とにかくシノンさんを見つける方法を考えてよ」
ライオットを叱咤するように、ルージュが前を向かせる。
「エトの話だと、襲われたのは30分くらい前。場所はここから少し村の方に降りたところだって。どうする?」
「どうって言われてもな」
ライオットは腕組みをして考え込む。
妖魔が人間の娘をどのように扱うか。昨日の憂さ晴らしに嬲り殺しにするか、奴隷として連行するか、あるいは食料にするということも考えられる。
ゴブリンの生態など知らない以上、そんな予想もすべて憶測でしかない。いずれにせよ、襲撃が30分も前では全ては終わっているだろう。悲劇的な結末は避けられまい。
そんなライオットの内心を見透かすと、ルージュはいつになく強い視線を夫に向けた。
「ねえライくん。シノンさんがどんな状況なのかは分からない。もしかしたら手遅れかもしれない。だけどね、どんな状況だろうと、絶対エトより先に見つけたいの。本人だってエトにだけは見られたくないはずだから」
男には、こういう感覚が分からないのだろうか。
自分の愛する人にだけは、ボロボロになった自分の姿を見せたくない。たとえ命がなかったとしても、せめて恥ずかしくない姿でエトのところに帰してやりたい。
その真摯な想いを察してか、どこか煮えきらなかったライオットの態度と表情が引き締まった。
「分かった」
自省と諦めをとりあえず脇に置き、考えるのは後回しにする。今すべきことはシノンの捜索。エトより先にシノンを見つけだすこと。
そうすっぱり割り切ってしまうと、ライオットの雰囲気ががらりと変わる。
ここは2日前、パーンとエトを助けた森の広場だ。村から歩いて30分ほどだったから、森全体で見れば辺縁に位置している。
「シノンの目的がエトを逃がすことだったら、村とは反対方向に逃げるだろう。その途中で捕まって格闘、ってのがありそうな流れだけど」
そこでライオットが言葉を切った。
エトがシンたちと一緒に行ってしまったので、襲われた正確な場所が分からない。これでは捜索の起点が設定できないのだ。
シンは洞窟まで拉致された可能性が大きいと考えているようだから、先に洞窟内部を検索するというのもいいだろう。
どうしたものかと顔を見合わせていると、やれやれと言いたげな声が足下から聞こえてきた。
「おい、ゴブリンに捕まった小娘ひとり探せないのか。その調子じゃ何もしないうちに日が暮れるぞ。無能にも程がある」
いつもの調子で被保護者たちをこき下ろしながら、ルーィエは偉そうに胸を張った。
「え、なに? ルーィエは見つけられるの?」
なにやら自信ありげな態度に、ルージュが驚いて見下ろす。
銀毛の双尾猫は、ぴんと尻尾を伸ばしてルージュを見返した。
「当たり前だ。俺様を誰だと思っている? 天と地と精霊たちに祝福されし猫族の王だぞ? 俺様が直々に手本を見せてやるから、その情けない頭に焼き付けて参考にしろ」
その言葉にふたりが期待に満ちた顔を向けると、ルーィエはまんざらでもなさそうに髭をふるわせ、目を閉じて森のささやきに耳を澄ませた。
猫族の王は優秀な精霊使いでもある。森の精霊たちに妖魔の居場所を聞いているのだろう。
枝葉の鳴る音や森を吹き抜ける風に耳を傾け、小さな声で言葉を交わすことしばし。ルーィエは紫水晶の瞳でふたりを見上げた。
「ここから北にすこし進んだ樫の大樹の下に、ニンゲンの女が横たわってるそうだ。お前たちが探している娘だろう」
「さすが陛下。それで、ゴブリンたちは?」
「いない。いるのは娘ひとりだ」
まだ生きてるか、と聞きかけて、ライオットは口を閉ざした。不吉な言葉を紡ぐと、言霊が現実を招くのではないか。そんな怖れが湧き上がって。
ルーィエは超然とした表情で人間たちを眺めている。内心の動揺などすっかりお見通しらしい。
どの道、今の段階では選択肢などないのだ。一刻も早く急行して、まだ息があれば治療する。もし手遅れだったら……その時はその時だ。
「ここで考えていても仕方ない。行こう」
「そうだね。ルーィエ、お願い」
魔法樹の杖を両手で抱いて、ルージュがうなずく。
それ以上の言葉を交わすことなく、ライオットは猫王の後を追って歩きだした。
今はプレートメイルやシールドを装備していないため、単純計算でいつもより30キロ近く体が軽い。ふわふわした肩は頼りなくて落ち着かないが、剣で道を斬り拓きながら山道を歩くには好都合かもしれない。
先頭に立ったルーィエに続いて、茂みをかき分け、小川を跳び越えてひたすらに進む。
銀毛の猫王の先導はザムジー以上に巧みだった。
ルージュの足を気にしてか、ルーィエが選ぶのは落ち葉が柔らかく降り積もった道だ。起伏をうまく避けながら歩くこと10分。
不意にルーィエが脚を止めた。
ルージュが顔を上げると、そこには樹齢500年はありそうな樫の大樹が聳えている。
その根本に見えたものに、ルージュは唇を噛みしめた。
力なく横たわる、小さな人影。
手足は不自然な方向に折れ曲がり、栗色の髪が泥まみれになって地面を這っている。
何度も棍棒で殴られたのだろう。全身は青黒いアザと血にまみれ、白い肌などどこにも残っていなかった。
残虐という言葉では表現しきれない、非道な暴力に晒されたことが一目瞭然だ。
これが本当に、あのシノンなのか?
愛嬌のある笑顔や榛色の瞳を求めて顔をのぞき込み、ルージュの表情がこわばった。
骨は砕け、肉は裂け、腫れ上がった頭部は原型をとどめていない。顔から本人を識別するのはもはや不可能だ。
若い女性が、こんなになるまで殴られるなんて。
どんなに痛かったことだろう。
どんなに怖かったことだろう。
シノンの心境を想像するだけで、あまりの怒りに腹の底が冷たくなってくる。
顔を上げて無惨きわまる光景を遮断すると、ルージュはライオットに視線を向けた。
「ライくん。私、ゴブリンが許せないよ」
凍るような、だが灼熱の感情を秘めた声音。
人は本気で怒ると、怒鳴ったり叫んだりはしないものらしい。抜き身の日本刀のような冷たさを漂わせて、ルージュは宣言する。
自分では冷静なつもりだが、きっとこの状態を冷静とは呼ばないのだろう。頭の中で何かのスイッチが切り替わり、今はゴブリンを皆殺しにすることに何の躊躇も感じられない。
ルージュの言葉を聞いたライオットは、小さく吐息を洩らした。
「そうだな」
妖魔とは何で、邪悪とはどういうことか。
今まで知識でしか知らなかったことを、目に見える現実として突きつけられて、ライオットの声も硬かった。
ライオットが強者としてゴブリンの生殺与奪を裁定したように、ゴブリンたちも相対的強者として思うがままに振る舞った。
その結果がこれ。
弱肉強食の4文字ですべてが説明できる。
だがこれは、肉食獣が生きるために獲物を狩るのとはわけが違う。ゴブリンたちはただ悲鳴と苦痛を楽しむためだけに、年若い少女を嬲り殺しにしたのだ。
現代日本の常識とはおよそ相容れない。
考えてみれば当然のことだ。罪刑法定主義が確立され、憲法で平和主義を謳うような法治国家の常識が、剣と魔法のファンタジー世界で通用するはずがない。
それでもライオットは、現代日本の常識をこの世界にも期待していたらしい。そう簡単に人が殺されたりはしないという平和な日本の感覚が、このロードス島でも通用するのだと、心のどこかで決めつけていたのだ。
「俺は甘かったよ、ルージュ」
ザクソン防衛の依頼を受けた以上、ライオットには村の安全を守る責任があった。
だが自分には、村を守るという行為の意味が分かっていなかった。
遅すぎる自覚。自分自身の甘さのツケを払わせた少女にひざまずくと、ライオットは懺悔をするように頭を垂れた。
「すまなかった。今さら言っても遅いけど、犠牲は君で最後にする。俺自身の良心に賭けて誓う」
普段おちゃらけたライオットからは想像もできないような、重く沈んだ声を絞り出す。
「シノンさん、エトたちは私たちが必ず守るから。それだけは絶対に約束する」
夫に並んでルージュも手を合わせ、瞳を閉じた。
精一杯の哀悼を込めて祈りを捧げる。
今はせめて、シノンの魂が迷わずに逝ってくれるように。
すると、大人びた目でその様子を見ていたルーィエが、横から口を挟んだ。
「おい、半人前。俺様からも一言いいか」
ふたりが無言でシノンの正面を空けると、ルーィエはシノンではなく、ライオットを見て言う。
「魔法はどうした?」
「…………は?」
何を言われたのか理解できず、ライオットが間の抜けた顔で聞き返す。
銀毛の猫王は、2本の尻尾で苛々と地面を打った。
「治癒の魔法だ。お前、この娘を助けに来たんじゃないのか? このまま放っておくと本当に死ぬぞ?」
放っておくと、本当に死ぬ。
唐突なその言葉が理性に染み込むには、いくらかの時間が必要だった。
やがて理解に至ると、ルージュが跳びあがって夫の肩を叩く。
「ちょっとちょっと! まだ生きてるってことじゃない! ライくん早く!」
「分かってるって。とりあえず心の準備をだな。魔法はほら、集中しないと」
「あ~もう! 人の命がかかってるんだから早くしてよね!」
アホかと言いたげなルーィエの前で、泡を食ったふたりが大騒ぎを始めた。
いろいろと手順を飛ばした気もするが、ライオットの祈りはどうやらマイリーに通じたらしい。シノンに手をかざすと全身を暖かな光が包み、痣や傷が嘘のように消えていく。
腫れ上がっていた頭部も愛らしい顔立ちを取り戻し、シノンは小さな呻きを上げて身じろぎした。
まだ血や泥で汚れてはいるが、肌も赤みを取り戻している。
どうやら間に合ったらしい。ライオットとルージュはほっと安堵の視線を交わした。
「これで一安心だな」
「まずはお風呂が必要だね。あと着替え。エトも呼んで安心させてあげないと」
ルージュはシノンをそっと抱き起こすと、ライオットから没収した上着を肩に羽織らせた。
「シノンさん、シノンさん」
優しく肩を揺する。
「ん……」
耳元に呼びかけるルージュの声に反応して、薬草師の少女はうっすらと目を開けた。
「…………?」
ルージュの顔を見て、シノンは惚けた表情を浮かべる。まだ現実を認識していないらしい。
「冒険者さん? どうしてここに?」
「もう大丈夫だよ。安心して」
「大丈夫? いったい何が……?」
記憶を反芻するように遠くを見る。
少しずつ思い出してきた。
「そうだ。私、薬草を採ろうとしてエトと森に……」
靄のかかっていた理性が少しずつ晴れていくと、記憶も甦ってきた。
順番に出来事をたどる。
エトと森に来たこと。
レイリアに嫉妬していたこと。
想いを割り切って村に帰ろうとしたこと。
そしてゴブリンに襲われたこと。
醜悪な妖魔の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、シノンに恐怖と苦痛がフラッシュバックした。
馬乗りになってくるゴブリンたち。
容赦なく棍棒で殴られ、肩や腕の骨がおもちゃのように壊れていった。
醜悪な顔と生臭い吐息。泣いても叫んでも許してくれない。
恐怖。激痛。絶望。そんなものしか浮かばない悪夢に、シノンの心と体はそう長く耐えられなかった。
抵抗する気力を無くしてぐったりと横たわると、ゴブリンたちは嘲いながら棍棒を振りかざし、シノンの顔面に振り下ろした。
何度も。
何度も。
何度も。
頭蓋の抱ける音がして、目が見えなくなった。
側頭部を打たれると、音も聞こえなくなった。
あまりの痛みに全身が熱い。だが、その感覚すらも徐々に薄くなっていく。ただ、どこかを殴られる度に体が揺れることだけは分かった。
そして暗転。
「あ、あ……いやぁぁぁぁぁッ!」
瞳孔がいっぱいに開かれ、口が悲鳴を紡ぎ出す。
ルージュの腕から逃れようと、シノンは両腕両足を振り回して暴れ始めた。
「やめて! 放して! もう殴られるのはイヤ!」
「痛ッ」
全力でルージュを振り解こうとするシノン。
爪がルージュの頬を裂き、その拍子に手が弛むと、少女は魔術師を突き飛ばして腕の中から逃れた。
2、3歩でよろめき、樫の根本に再び倒れると、自分の両肩を抱くようにしてうずくまる。
「お願い、もう許して……何でもするから殺さないで……」
呻くような細い嗚咽。
頬から流れる血にも気づかず、震える背中に手を差し伸べたまま、ルージュは立ち尽くした。
この小さな少女の上に、どのような時間が流れたのか。あまりの痛ましさに、ルージュにはかける言葉もなかった。
「シノン、もう大丈夫だ。妖魔はどこにもいない」
ライオットも努めて穏やかに声をかける。
だが、足音にびくりと肩を揺らし、ライオットを振り向いたシノンは。
「いやっ! こっちに来ないで!」
明らかにゴブリンの姿を重ねていた。
現実を見る余裕などどこにもなく、ヒステリックに悲鳴を上げるばかり。顔は醜くひきつり、目には涙があふれ、全身はガタガタと震えている。
この1時間の体験で、心が限界を超えてしまったのだ。
ひったくりや暴力犯罪の被害者によく見られる症状。典型的なPTSDだ。
「……悪かった」
シノンの歪んだ目を見たライオットは、壮絶な表情で奥歯を噛みしめ、足を止めた。
シノンをこんな目に遭わせたゴブリンどもに、そしてその原因を作った張本人である自分自身に、憤怒以外の感情が湧いてこなかった。
かなうことなら罵声を上げ、あたり構わず暴れまわりたい。だが、それではシノンを怯えさせるばかりだ。
沸騰した苛立ちに胸を焼かれながら、ライオットが何もできずに歯ぎしりしていると。
『眠りを司る砂の小人よ、娘の瞳に砂をまけ。安らかな眠りにいざなうために』
銀毛の猫王が、謡うような旋律で精霊に呼びかけた。
精神を司る精霊たちは、双尾猫のもっとも近しい盟友だ。ルーィエの呼びかけはすぐに効果を現した。
恐慌状態になっていたシノンは再び意識を失い、そのまま大地に崩れ落ちる。
眠りの小人がもたらす眠りは永遠だ。誰かに魔法を解除されるまで、飢えも渇きも知らずに眠り続けることになる。
「おい、半人前ども」
シノンの意識を安息の庭園へと送り出すと、ルーィエは呆れ果てた様子で首を振った。
「お前たちには想像力ってものが欠落してる。ここまで痛めつけられた娘が、にこにこ笑って礼を言うとでも思ったか?」
痛烈な指摘に、ふたりは返す言葉もない。
悄然と立ち尽くす不肖の弟子たち。
それを一瞥すると、ルーィエはふんと鼻を鳴らした。
「お前たちが何を言おうが、この娘には薄っぺらい台詞じゃ何も届かないぞ。この娘を残酷な現実に引きずり戻す前に、お前たちには為すべきことがあるだろうが。少しは無い知恵を絞って行動してみせろ」
言いたいことを言うと、手近な岩の上に登ってそっぽを向いてしまう。これ以上は説教も助言もしないという意思表示だ。
それでようやく金縛りから解放されて、ふたりは素直に頭を下げた。
「そうだね。ありがとう、ルーィエ」
「陛下がいてくれて助かった。恩に着る」
絶望と歓喜の間を行ったり来たりして、どうやら精神的に浮ついていたらしい。シノンとルーィエに冷水を浴びせられ、ようやく地に足をつけた気分だ。
改めて顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑を浮かべる。自嘲としか形容できない表情だったが、ともかくも笑ったことで、体は動くようになった。
とりあえずシノンをまっすぐに寝かせ、ライオットの上着を掛けると、ルージュは夫を見上げた。
「もうこうなったらさ、夢だったんじゃないかって思うくらい、徹底的に痕跡を消そうよ」
血は洗い流す。
破れた服は処分する。
悲劇の現場になった森は視界に入れない。
「次に目を覚ますのは、自宅のベッドの上がいいと思う。エトとパーンにも一緒にいてもらって。あとおいしい料理も用意しよう」
レイリアに、イメーラ夫人直伝のホワイトシチューを作ってもらうのもいいだろう。
お腹いっぱい食べて、一晩ゆっくり眠れば、記憶は少しずつ過去へと流れていく。人はいつの時代もそうやって悲劇を乗り越えてきたのだ。
「分かった。とりあえず〈栄光のはじまり〉亭で風呂の準備がいるな。あっちに戻ればロートシルト男爵夫人の特級葡萄酒もあるし。使えるものは何でも使ってやる。もう出し惜しみは無しだ」
そしてライオットは、懐から魔晶石の入った皮袋を取り出した。20点の最高級魔晶石を鷲掴みにして妻に握らせる。
「とりあえず《マインドスピーチ》でシンたちの居場所を確認して、《テレポート》で迎えに行こう。ターバまで往復すれば相当な消費だけど、それだけあれば足りるだろ?」
「ライくん、大赤字だね」
遠慮なく魔晶石を受け取りながら、ルージュが小さく笑った。
この魔晶石は1個4万ガメル。1個でも使えば、今回の依頼料の20倍だ。
「金で済むなら安いもんさ」
事もなげに答えて、ライオットは肩をすくめた。
自分のミスでシノンは死ぬところだったのだ。その事実に比べれば、魔晶石の重さなど無に等しい。
視線を転じれば、どんな夢を見ているのか、シノンは平穏な表情で寝息をたてていた。
ルーィエの言葉を借りれば、残酷な現実と向き合う前の、束の間の休息ということになる。
「ルージュ。俺は本気出すよ」
自分自身の決意を固めるように、ライオットは低くつぶやいた。
それはつまり、自分より圧倒的に弱い相手を、背を見せて逃げる相手を皆殺しにするということ。
もちろん、シノンを襲った実行犯なら、この世から追放することに何ら躊躇はない。
だが今回は、相手がまた同じ事をする「かもしれない」という理由で、ゴブリンを「群れごと」根絶やしにすることになる。
ベトナムで枯葉剤を撒き、ゲリラ掃討と称して村を襲ったアメリカ軍と全く同じ戦術行動。
人はこれを戦闘とは言わない。虐殺と呼ぶべきものだ。
だが、こんな悲劇を繰り返さないために必要なら。ゴブリンと人間が共に天を戴けない関係なら。
ライオットは、その汚れた血で手を染める覚悟を決めた。
はたしてこの決意は、勇気と呼べる代物なのか。
マイリーが聞いたら何と答えるだろう。
少女の穏やかな寝顔を見下ろしながら、心の中で皮肉っぽく考えた瞬間。
『見極めよ。勇気とは何か。戦いとは何か』
魂を張り飛ばされるような衝撃と共に、重く低い声が脳裏に響いた。
ライオットの意識を圧倒的な重圧が飲み込み、奇跡の泉に直結した精神の回路に、ただ強烈な意思が伝達されてくる。
穏やかな森の中にもかかわらず、自分が暴風に吹き飛ばされそうな恐怖感を覚えて、ライオットは身を硬くして天を仰いだ。
戦神マイリーの神託。
聞くのはこれが2度目だ。だが今回は、前回のような暖かさが全く存在しない。
怒りもなく、優しさもなく、ただ無感情に観察する眼差しだけを感じて、自分が萎縮していくのを自覚する。
『汝が倒すべきものは、守るべきものは何か』
ルージュが怪訝そうな顔で見ているが、その相手をする余裕はなかった。
崩れそうになる膝を支えるので精一杯。
轟雷のような意思と津波のような存在感に圧倒されて、五感が正常に機能しない。あまりにも巨大なマイリーの意思に曝されて、精神が完全にオーバーフローしていた。
『汝自身の言葉で答えを出すがよい』
最後にその言葉を残して、顕現していたマイリーの意識は、潮が引くように拡散していく。
重圧が薄れるに従って、世界に色と音と匂いが戻ってきた。森は青く、木々は精霊たちと楽を奏で、風は深緑に薫る。
枝葉がざぁっと鳴って前髪を揺らすと、ライオットは降り注いだ陽光に目を細めた。
ここはザクソンに実りをもたらす、豊かな恵みの森だ。思い出したようにそれを認識する。
絶望、憤怒、自棄など、様々な感情で荒れ狂っていた自分の心を、マイリーは一瞬でリセットしてしまった。
あらゆるものが取り払われ、奇妙な空白だけが残されている。感情は空っぽ。理性は混乱して、今は何も考えられない。
だがこれだけは分かった。
「つまり、状況に流されてるだけじゃ駄目ってことだ」
勇気とは何か。戦いとは何か。
そして、自分は何のために何と戦うのか。
心の根っこになる部分を、自分自身でしっかりと見極めなければ、ここから先には進めないらしい。
「ライくん、どうしたの?」
心配そうにのぞきこんでくる妻に、ため息と苦笑を返す。
「俺に足りないものを教えてもらった。依頼を受けたからゴブリンと戦う。それだけじゃ全然話にならないんだ」
意味が分からず首を傾げるルージュをよそに、ライオットはシノンの体を抱き上げた。
血と泥で汚れた少女。課された宿題はとりあえず置き、今はシノンを家に帰すことだけを考えよう。
そして少女に暖かい食事と寝床を用意したら、頼りになる親友に相談してみよう。
そう決めて、眩しい太陽を見上げる。
出口が見えた。ふとそんな言葉が脳裏に浮かんだ。