シーン3 妖魔の洞窟
翌朝。
遠回りでもいいから勾配のゆるい道を、という注文どおり、ザムジーが案内したのはサンダル履きのルージュやレイリアでも苦労なく歩ける道だった。
遠くで小鳥が鳴き、茂みの向こうに鹿が姿を見せ、枝葉の天蓋からはマイナスイオンと陽光が降りそそいでくる。
気分はまるでハイキングだ。妖魔の襲撃など嘘のように、平和でのどかな光景が広がっていた。
「ここは本当に豊かな森ですね」
倒木に腰かけて休憩しながら、レイリアは羨ましそうに辺りを見回した。
丁寧にそろえられた膝、白い神官衣に流れる黒髪。何気ない挙措の一つ一つに品の良さがうかがえる。
絵に描いたような美少女を鑑賞しながら、ライオットが親友の幸運をしみじみと羨んでいると、並んで座っていたルージュが首を傾げた。
「ターバの方にも森はたくさんあったでしょ? そんなに違うかな?」
「白竜山脈の北部は氷の精霊力が強すぎて、ほとんどが針葉樹林なんです。エサも少ないですし、氷竜プラムドという主人もいるので、動物たちはあまり近寄らないんですよ」
「ふぅん、そうなんだ」
レイリアの横で背伸びをし、2時間あまりのトレッキングで凝った肩をぐりぐり回すルージュ。
容姿だけなら傾国級の美女だ。正直、中身がゲームヲタの妻だと知らなければ、ライオットでさえ身構えてしまうほどの。
妻が美人なのは素直に嬉しい。だがこの外見補正に加えて、怒ると容赦のない性格にも磨きがかかり、今ではすっかり逆らえない相手になってしまった。
今の状況を喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、ライオットにはよく分からない。
ただ、魂は肉体に宿るという。
ロードス島に来た自分たちは、少しずつこの新しい肉体に影響されて、以前と違ってきているのではないか。そんな違和感はここしばらく頭を離れなかった。
その最たる例がシンである。
彼女いない歴33年の半メタボSEが、今ではレイリアの心を捕らえて放さないほどの勇者ぶり。常識では到底考えられない変貌だ。
ということは、自分と妻も、少しずつ「ライオット」と「ルージュ」になっていくのかな、などと物思いにふけっていると。
「ただいま。偵察してきたぞ」
ザムジーに案内されてゴブリン洞窟の偵察に行っていたシンが、音もなく藪をかき分けて戻ってきた。
レンジャー8レベルは伊達ではない。声をかけられなければ、姿を見せたことにも気づかなかっただろう。
「お疲れさまでした。様子はどうでした?」
レイリアがにこりと微笑み、立ち上がって迎える。
「見張りは2匹。茂みから洞窟まで20メートルくらいだったから、魔法を使えば奇襲もできるんじゃないか?」
背負っていた精霊殺しの魔剣を下ろすと、シンは鞘の先で地面に図を描きながら説明していく。
「ここが洞窟の入り口。盛り上がった丘にスパッと断層があって、ぽっかり穴が開いてた。廃坑とか古代の遺跡とか、そういう感じじゃないな。自然の洞窟っぽい雰囲気だった。見張りはこことここ。身を隠せそうな茂みはこの辺りまで」
集まってきた仲間たちがシンを囲んで、地面の図に注目する。
「洞窟の前が開けてるなら、堂々と正面から攻撃でいいんじゃない? ルーィエが留守番してるから中の偵察はできないし、わざわざ狭くて暗い洞窟に入るメリットもないと思うけど」
暗い場所の苦手なルージュが、そう提案した。
明かりのないダンジョンは、先日の“墓所”でもう懲りごりだ。
わざわざ怖い思いをして中に入らなくても、手持ちの魔法の中には、広範囲を面制圧する凶悪な攻撃魔法がいくつもある。相手がゴブリンなら一網打尽だ。
するとライオットが首を振った。
「敵は大群だろ。計算どおりに行けばいいけど、広い場所で乱戦になって、後衛が囲まれると厄介だ。俺は中に突入して、前線を狭く限定した方が安全だと思う」
レイリアなら自分を守るくらいの事はできるだろうが、魔法専門のルージュと案内役の猟師ザムジーには、白兵戦能力が全くない。相手がゴブリンとはいえ、囲まれてタコ殴りにされれば生命に関わる。
「だけどさ、中に入って分かれ道とかがあったら、倒しきれなかったゴブリンに逃げられちゃうんじゃないの? 私たちの仕事は村を守ることなんだから、逃げたゴブリンがまた村を襲うことは阻止しないと」
「今回の群れは“王”(ロード)がいるから統制が取れてるんだ。ゴブリンロードさえ倒せば散りじりになるさ。それに、出入口がもうひとつあってロードにまで逃げられたらどうする? 今回は殲滅戦よりも、確実に頭を潰すことを考えた方がいい」
どちらの主張にも一理ある。
議論を戦わせるライオットとルージュを横目に、困ったシンはザムジーに目を向けた。
「ザムジー、中の地図はあるのか?」
「いや。こんな場所の地図なんか作っても、使い道がないからな」
案内役の猟師は無愛想に肩をすくめた。
考えてみれば当然の話だ。洞窟の地図など、ただの村人たちには無用の長物だろう。
「じゃ、中に入ったことは?」
「一度だけ。中は壁も天井も床も、ヌルヌルした白い石でできてる。上からつららみたいにぶら下がってる奴と、下から牙みたいに生えてる奴。それがくっついて柱になってる奴もあった。起伏は大きいし地面は滑るし、走り回るには向かないな」
ザムジーの言葉に、ライオットが舌打ちする。
「……鍾乳洞か」
「厄介だね。出入口はきっとここだけじゃないよ」
石灰質の岩盤を雨水が溶かし、地盤の内部にできる空洞が鍾乳洞だ。下から上に溶けるという行程で作られた洞窟であり、その特徴は地底湖の生成と複雑な内部構造にある。
地下の空洞は時間とともに拡大し、それが外界に接した場所が出入口となる。つまり、出入口が複数あることは理論上の必然なのだ。
「この丘の周りには、分かっているだけで3ヶ所の洞窟がある。調べたことはないが、あんたたちの言うとおり、中で繋がってるかもしれないな」
感心した様子でザムジーが言うと、ライオットとルージュは渋い顔を見合わせた。
突入組と待ち伏せ組を分けることも考えたが、出入口が3ヶ所となると、そのすべてを塞ぐことはできない。
待ち伏せができないなら、採れる戦術はひとつ。
不満そうなルージュが渋々うなずくと、作戦会議を傍観していたシンが言った。
「やっぱり突入か?」
「ああ。ザコの殲滅は無理でも、最低限ゴブリンロードだけは倒す」
「分かった」
シンが頷く。
リーダーの承認が下りれば、あとは行動するだけだ。
見張りを片づける段取り、洞窟内での隊列、明かりの担当などを手早く打ち合わせる。
全員が準備を済ませたのを確認すると、いつものようにシンが号令した。
「んじゃ、ちょっくら村を守りに行くか」
気負うでもなく、侮るでもなく、自然体で前を向くシン。
不意に、ぞくりとするような迫力を感じて、ライオットは一瞬息を飲んだ。
ライオットの知っている半メタボの親友とはまるで違う。
その精悍な横顔は、まぎれもない“砂漠の黒獅子”のものだった。
最前列にシンとレイリアが並び、2列目にルージュとザムジー、最後尾をライオットが固める。
数匹単位で襲いかかってくるゴブリンたちを一蹴しながら、5人は鍾乳洞を奥へ奥へと進んでいった。
「妖魔にはもったいない棲み家ですね」
心臓を貫いた小剣から血糊を振り落としながら、レイリアが周囲を見渡す。
辺りは松明の明かりに照らされて、オレンジ色の世界が広がっていた。
陰鬱な不安感が先行したナニールの墓所とは異なり、内部はまるで美術館だ。純白の石柱が林立し、美しく波打つ鍾乳石はさながら瀑布のよう。
自然の手による造形美は、ここが邪悪な妖魔の巣窟だと分かっていても、神秘的で清浄な空気すら感じさせた。
「レイリア、油断するなよ。こいつらの武器は錆びまくってるから、傷でもつけられたら健康に悪そうだ」
レイリアが1匹倒す間に、シンは4匹のコブリンを片付けている。どれも急所を一撃。断末魔を上げる暇すら与えない、圧倒的な戦い方だ。
「はい」
肩を並べるシンに、レイリアはくすりと笑った。
剣で斬られたら、錆云々は関係なく健康に悪いだろうに。
からかうような視線に、シンは少しだけ頬を上気させると、黙って足を進めた。
レイリアは左手で松明を掲げると、誇らしげにその横に並ぶ。今までは背中で守られるばかりだったが、今回、レイリアに与えられた場所はシンの隣だった。
シンの戦いを補佐し、彼が万が一にも負傷したときは、すぐに治癒の魔法をかけること。レイリアが最前列に起用された理由は、戦士としての能力と司祭としての能力、双方が評価された結果だ。
「シン、ありがとうございます。私を信頼してくれて」
前方の薄闇を警戒したまま、レイリアが小声で言う。
シンも前を向いたまま応じた。
「正当な評価だ。当然だろ」
レイリアはファイター5レベル、プリースト7レベル。この世界では充分に一流と呼べるスペックだ。ただ守られるだけの無力な乙女ではない。
「それより、ホントに油断しないでくれよ。そろそろ本命が出てくる」
松明の明かりの外周、オレンジ色の闇に目を凝らしながら、シンは繰り返し警告した。
大群が動いている。
松明の明かりの向こう側、闇の中で、妖魔どもが手ぐすねを引いている。
肌をチリチリと炙るような殺気が、明確に感じられるのだ。
洞窟に入って1時間あまり。最初は細く曲がりくねっていた洞窟も、次第に規模が大きくなってきた。この辺りは幅10メートル、天井の高さも同じくらいか。
石筍や石柱が林立し、その先には薄く水をたたえた円形の池が、まるで棚田のように集まって階段状の地形を作っている。
リムストーンプールと呼ばれる水たまりの階段だ。足を滑らせないよう慎重に越えて進むと、その先に広がっている光景に、シンは思わず息を飲んだ。
眼下に、差しわたし数百メートルに及ぼうかという巨大な地底湖が姿を現したのだ。
天井や壁には光ゴケが自生し、まるでプラネタリウムのように、ドーム全体が淡く輝いている。
地底湖の中央には大きな島があり、その島から空洞全体を支えるように、巨大な柱が天井へと続いていた。
「……すごいね、これは」
続いてきたルージュも、巨大な空洞を呆然と見下ろす。
RPG風に表現すれば、水の地下神殿と言ったところか。何万年もの時間をかけて雨水が創り上げた自然の芸術だ。
「で、あいつが今回のボスってわけだ」
最後尾から白い階段を上ってきたライオットが、地底湖の湖畔に目を凝らして言う。
距離は50メートルくらいだろう。10匹あまりのゴブリンたちの群れがいる。その中央に、他より二回りは大きな妖魔が斧を構え、仁王立ちになってシンたちを待ち構えていた。
今まで駆逐してきた雑魚とは存在感が違う。まさしく“王”と呼ぶにふさわしい上位種だ。
ゴブリンと言うよりオーガーに近いな、そんな感想を持って眺めていると、目が合ったゴブリンロードが、黄色ずんだ犬歯を剥き出しにした。
『Gobugobu,Gobububububukkkyyyyy!』
ゴブリン語の咆吼。
意味を理解したのは素養のあるルージュだけだったが、
一斉に歓声を上げるゴブリンたちを見れば、何やら威勢のいいことを叫んだのは想像がついた。
洞窟に反響する妖魔たちの奇声に眉をひそめている間にも、“王”の演説は続いている。
『Gobu! Gobu! Gobu!』
『Gobuffuuuuuu! Gobuffooooo!』
ゴブリンたちは足を踏みならしたり、手にした武器を打ち合わせたりしながら、どんどん目を血走らせていく。
「で、奴ら何て言ってるんだ?」
松明を足下に置き、代わりに腰の魔剣を抜きながら、ライオットが妻に尋ねる。
「通訳したくない。言葉が汚れる」
嫌悪感を丸出しにして、ルージュが顔をしかめた。
「俺たちの悪口でも言ってるのか?」
「そうじゃなくて、下品な欲望を堂々と吐き出してるの。ああもう、我慢できない。とりあえず攻撃していい? 攻撃するね?」
これ以上聞くに耐えないとばかりに、ルージュが魔法樹の杖を構える。
ライオットが無言でシンに問いかけると、シンはあっさりと頷いた。
「別にいいんじゃないか? いつまでも演説に付き合う必要もないだろ」
どうせ倒すのだ。魔法の炎で焼こうが、剣で両断しようが、結果は変わらない。
「じゃあ遠慮なく」
桜色の唇が上位古代語の呪文を詠唱していく。
何もない空間に世界の設計図を広げながら、ルージュは紫水晶の目を細めた。
『火竜の咆吼、不死鳥の翼、始源の巨人の憎しみの心……』
ルージュの頭上に光の点が生まれる。
空間が軋む音をたててマナが集中し、まるで星が誕生するように輝きを増していった。
紫水晶の瞳が怜悧な光を宿し、眼下に集まっている妖魔の群れを射抜く。
光が様相を反転させて炎となった。
風が生まれる。
『Bukyyyyy!』
すると、眼下の地底湖畔で、ゴブリンロードが何やら大声で叫んだ。
『Gobu! Gobu! Gobu!』
『Gobu! Gobu! Gobu!』
突撃を命じたのだろう。10匹あまりのゴブリンたちが喊声を上げ、小剣や棍棒を振りかざして一斉に駆けだした。
その時、どうして振り向こうなどと思ったのか。
自分でも分からないままに視線を返したライオットは、次の瞬間、全身が総毛立つのを感じた。
松明の明かりの届かぬ、闇の向こう。自分たちの後背に、緑色の瞳が点々と光っていたのだ。
音もなく忍び寄っていたゴブリンの大群。その数20を遙かに超える。ライオットたちは完全に退路を断たれ、地底湖への斜面を背に半包囲されていた。
『万能なるマナよ、破壊の炎となれ!』
鋭いルージュの声。
一拍遅れて洞窟に地響きが起こり、轟音と悲鳴と熱波が斜面を駆け登ってライオットの背を叩いた。だが、その魔法がどれだけの戦果を挙げたか確認している余裕はなかった。
「シン。後ろが面倒なことになってる。乱戦に持ち込まれると厄介だ。ここでくい止めるから皆で下に降りてくれ」
ゴブリンの大群を前に盾を構え、威嚇するように大きく剣を振る。
幸いなことに、このリムストーンプールは地底湖側へ降りる唯一の裂け目だ。ここを塞いでおけば追撃されることはない。
ちらりと背後を振り向いたシンは、一瞬で状況を見て取ると、すぐに肯いた。
「任せた。レイリア、下のゴブリンは残り4匹だ。斜面の下まで降りたら、動かずにザムジーとルージュを守ってくれ。俺はあのデカいのを倒してくる」
精霊殺しの魔剣を構え、シンが地底湖の湖畔を見下ろす。
「ザムジー、よく見ておいてくれよ。これがザクソンが雇った冒険者の実力だ」
見届け役の猟師に不敵な笑みを残すと、シンは飛ぶような勢いで斜面を駆け下った。途中、駆け抜けざまに1匹斬り倒すと、一直線にゴブリンロードを目指す。
「レイリアさん、私たちも早く降りよう。ここにいるとライくんの邪魔になる」
ローブの裾をつまんだルージュが、鍾乳石の斜面を慎重に降り始める。
「分かりました。ザムジーさんもルージュさんと一緒に来て下さいね」
右手に小剣、左手に松明を持ったレイリアは、若鹿のようにしなやかな動きで斜面を駆け下る。
シンは言った。ザムジーとルージュを守ってくれ、と。
ならば、今はその信頼に応えることがレイリアの役目だ。襲ってくるゴブリンは残り3匹。その程度なら自分ひとりでも何とかなる。
「おい、ちょっと待てよ。ライオット独りに20匹以上相手させるつもりか?」
迷うそぶりもなく先に進む女性陣に、ザムジーが戸惑って声を上げた。
まったくもって常識的な反応だ。数の少ない方に戦力の大半を投入し、大群をひとりで食い止めるのは理に反している。
「大丈夫だ、こういうのは得意分野だから」
コマンドワードを唱え、魔剣に炎を纏わせると、ちらりと振り向いて不敵な笑みを見せる。
「それよりあんたに怪我をされると困るんだ。ふたりと一緒に降りてくれ」
じりじりと距離を詰めてくるゴブリンどもが、松明の明かりの中に入ってきた。
ネバネバした涎で汚れた牙。血走った目。生臭い吐息が耳元で聞こえてきそう。
改めて向き合うと、見ているだけで嫌悪感を覚える。邪悪という言葉でくくるのは好みではないが、少なくとも先方はこちらを殺す気満々だった。
だったら、こちらもそれに応じるだけのこと。むしろ良心の呵責なしに戦えるのはありがたい。
互いの距離が10メートルほどまで近づくと、不意に弓弦が鳴った。ライオットの耳元をかすめて矢が唸り、中央にいたゴブリンの腹部に突き刺さる。
『Bukyyyyy!』
『Kikki! Kikki!』
『Gobugobukkyyyyy!』
とたんに憎悪が沸騰し、ゴブリンたちが一斉に足を踏み鳴らした。
だんだん、だんだん、と洞窟に威嚇音が響く。
そのペースはどんどん速くなり、一触即発の緊張が高まっていった。
「俺も援護する」
「無用だ」
2本目の矢をつがえたザムジーに、ライオットが即答する。
「それより下を頼む。シンが突撃したから女しかいない。女を見捨てて完全武装の戦士を守ろうとするのは、男としてどうかと思うぞ?」
「しかし……」
なおもザムジーが躊躇っていると、白い繊手が猟師の襟首を掴んで引っ張った。
「ちょっとザムジーさん。一緒に来てって言ったでしょ。私たちの指示には従うことって最初に約束したよね?」
「いや、しかしだな」
「問答無用。危ないからライくんの邪魔しないで。それにレイリアさんの援護もしなきゃいけないんだから、よけいな手間かけさせないでちょうだい」
ルージュはぴしゃりと言って、強引にザムジーを引きずっていく。
情けない顔で引きずられていくザムジーを見送った時、ちょうどゴブリンたちの儀式も終わったらしい。
だん、と一際大きく地面を蹴ると、20匹余りのゴブリンたちが一斉に襲いかかってきた。
“勇気ある者の盾”の魔力に拘束されて、全員がライオットを目指している。下級妖魔とはいえ、これだけ数が集まれば迫力は満点だ。
内心の緊張をごまかすように口許に笑みを刻むと、ライオットは大きく息を吸い込み、裂帛の気合いとともに聖句を吐き出した。
『Falts!』
ライオットを中心として、不可視の衝撃波が全周囲に吹き荒れる。
石筍をへし折り、石柱を砕き、ゴブリンの群れに殺到した衝撃波は、まるで木の葉のように妖魔たちを弾き散らした。
ずん、と天井を打った衝撃波が洞窟全体を軋ませ、白い破片がパラパラと降ってくる。
《フォース・イクスプロージョン》。打撃力30という極悪な破壊力を持った面制圧魔法だ。術者中心という制約はあるものの、破壊の範囲と威力という点ではルージュの《ファイアボール》を凌駕する。
最前列でまともに食らったゴブリンは、全身の骨を粉々にされて息絶えただろう。後方にいた者も大なり小なり傷を負い、無傷で武器を構えているのはごく少数だ。
ただの一撃で半数近くを仕留め、ライオットは折り重なるようにして転がるゴブリンたちを睥睨した。
「分かったか。貴様らでは人間には勝てないんだ。命が惜しければ森に帰って、二度と人里には近づくな」
『Kikki! Kikki!』
『Bukikikikikikiki!』
いったい何がそうさせるのか。
圧倒的な実力差を思い知ったはずのゴブリンたちだが、戦意は全く失っていなかった。
緑色に光る目に狂気と呼べそうな何かを浮かべ、起き上がるなり一斉に足を踏み鳴らしてライオットを威嚇する。
「……ったく、厄介な奴らだな」
ライオットは舌打ちしながら炎の魔剣を構えた。
先ほどのように、足音のリズムがどんどん早くなっていく。それが限界に達したとき、第2波の突撃が始まるのだろう。
もっとも、律儀にそれを待ってやる義理はない。
「やめる気がないなら、今度はこっちから行くぞ!」
右足で白い地面を蹴る。
鉄靴のスパイクが石灰岩を削り、ライオットは一瞬で5メートルの間合いを詰めた。
袈裟掛けに一閃。正面にいたゴブリンをあっさりと斬り伏せる。続いて逆袈裟に剣を跳ね上げると、隣にいたゴブリンの首が宙に飛んだ。
目を見開いたままの首を追って、紅の噴水が上がる。
返り血を嫌ったライオットが胴体を蹴り倒すと、反対側にいたゴブリンが襲いかかってきた。錆びた小剣が腰のあたりに突き込まれる。
上半身をひねって盾で受けると、青白い火花が散って、醜く歪んだ妖魔の顔が薄闇に照らし出された。
その表情。
存在そのものが邪悪と規定されるにふさわしい、憎悪と狂気に満ちた顔を見て、ライオットの胸中にふと哀れみが浮かんだ。
光に対する闇、人間に対する敵として創られた存在。
その中でも最下級であり、作りたて1レベルのキャラクターにすら及ばない妖魔。
彼らはひたすらに悪であり続け、その顔に笑顔や愛を浮かべることは生涯ないのだろう。その存在意義は冒険者に倒され続けることだ。倒すことに罪悪感を覚えるようでは役目が果たせない。
その存在の、なんと不自然で悲しいことか。
「……なんてな!」
感傷に揺れる内心ごと斬って捨てるように、魔剣を一閃。
刃を取り巻く炎がオレンジ色の軌跡を残し、ゴブリンの首を両断する。
またひとつの生命を刈り取ると、ライオットは身を翻して後退した。リムストーンプールがガラ空きだ。自分の役目はゴブリン相手に無双をすることではなく、ゴブリンたちをここから進ませないこと。たとえ数匹でも通すと面倒なことになる。
「生命が要らない奴からかかってこい。せめてもの慈悲だ。苦しまないように逝かせてやる」
自分自身に言い聞かせるように、そう宣言する。
さながら城門のごとく、地底湖畔へと続く唯一の通廊を塞ぐと、ライオットはちらりと後ろを見下ろした。
ルージュとザムジーを守って、レイリアは順調に戦っているようだ。そのはるか前方では、シンがゴブリンロードに接敵しつつある。
戦いは、まもなく終わろうとしていた。
「主力部隊を隠しておいて、洞窟の最奥部で挟み撃ち。なかなかいい作戦だよね。普通の冒険者なら窮地に陥っただろうけど」
3匹のゴブリンを相手取って、レイリアは危なげなく剣を交えている。その向こうでは、シンがゴブリンロードに肉迫していく。
終始優勢に進んでいる戦況を見守りながら、ルージュは傍らのザムジーに話しかけた。
「三軍も帥を奪うべし、ってね」
どれほどの大軍だろうと、きちんとした統率がとれていなければ、大将を討つなどたやすいことだ。そして、大将を失った軍は烏合の衆に成り下がる。
「それはいいが、少しはレイリア司祭を援護したらどうだ? 俺の弓だと司祭に当たってしまうかもしれない。魔法なら百発百中なんだろう?」
若い娘ひとりに守られている状況が我慢できないらしい。ザムジーが苛立った様子で答えると、ルージュは首を振った。
「だめ。あの3匹はレイリアさんに倒してもらわないと。あんまり手を出しすぎると、あとでリーダーに怒られるもん」
ただ倒すだけなら、レイリアが剣を交える必要などなかった。ルージュがもう一度呪文を唱えれば、それだけで残ったゴブリンをこの世から一掃できるのだから。
だが、この戦いの目的の一つは、レイリアに経験と自信を積ませること。自分たちが彼女を信頼し、彼女がそれに応えたという実績が必要なのだ。
適当な数まで敵を減らし、レイリアに「守ってくれ」と告げたシンの意図を考えれば、これ以上の手出しは控えるべきだった。
「しかしな……」
渋い顔のザムジーに、ルージュが艶やかな一瞥をくれる。
「ザムジーさん、さっきから『しかし』ばっかりだね。それは私たちに対する侮辱だよ。レイリアさんがどう見えてるか知らないけど、彼女はザクソンの木こりライオットさんよりずっと強いんだから」
冗談めかした口調だが、紫水晶の流し目に反論を許さない強い意志を感じて、ザムジーは口を閉ざした。
ルージュの言葉を証明するように、レイリアは余裕を持ってゴブリンたちの攻撃を捌いている。
3匹相手だけに思い切った攻撃には転じていなかったが、それでも隙を見て繰り出す反撃は大きなダメージを与えているようだ。ゴブリンたちに最初の勢いはもうない。
『Bukyyyyy!』
その時、後方でゴブリンロードが吼えた。
ルージュには分かる。それは怒りを込めた命令だ。
殺せ、と。
できればもうやってるよ、とルージュは皮肉っぽく笑ったが、ゴブリンたちは別のとらえ方をしたらしい。恐怖に蹴飛ばされるようにして、レイリアに破れかぶれの突撃を仕掛けてくる。
その迂闊なアクションは、膠着した戦況を一気に動かした。
「私の勝ちです!」
汗に濡れた髪をなびかせながら、レイリアが凛とした声で宣言する。
相手が複数とはいえ、囲まれているわけではないのだ。
ゴブリンが横一列に並んで襲いかかってくると、レイリアは素早く左に回り込んだ。それだけのことで、中央と右側にいたゴブリンは目標を失ってしまう。
複数を同時に相手取る必要はないのだ。連携のとれていない相手なら、ちょっとした移動で1対1の局面を作ることができる。
神官戦士団の対妖魔戦訓練で教え込まれる、基本中の基本だ。
一番左にいたゴブリンとすれ違いざま、伸ばした小剣で首筋を薙ぐ。切り裂かれた頸動脈から深紅の噴水が迸り、ゴブリンは両手で傷口を押さえて仰け反った。
レイリアはその身体を盾に回り込み、2匹目に左掌を突きつける。
『Falts!』
不可視の気弾は顔面を直撃し、問答無用で相手を殴り飛ばした。不自然な方向に首を捻じ曲げたゴブリンは、緑色の目を白く濁らせている。もう2度と起き上がることはないだろう。
これで残り1匹。
呼吸と体勢を整えながら、レイリアが小剣を構え直した時。
再びゴブリンロードが吼えた。
「聞ケイ、人間ノ戦士ヨ!」
今度は、片言のロードス共通語で。
どこかの木こり小屋から失敬してきたのだろう。ゴブリンロードは両手持ちの大斧を携えてシンを待ち構えている。
身長はシンより少し大きい程度。他のゴブリンよりはましだが、今まで相手にしてきた邪教の司祭たちに比べればザコもいいところだ。
シンの間合いまであと5歩。
「我ハ白竜山脈ノ王、ハビエラ! 我ガ王国ヲコノ地ニ築キシハ、人間トノ約定ニヨルモノナリ!」
何やら伏線らしきことを口走っているようだ。
思わずルージュが眉を寄せる。
だがシンは気にした様子もなく肉迫すると、精霊殺しの魔剣を振りかぶった。
「直チニ剣ヲ引カネバ、誓約ノ証タル壷ヲ解放スルゾ!」
歩幅を調整し、最後の1歩を大きく踏み込む。
両手斧を掲げ、完全に防御の体勢を取っているゴブリンロードに、シンは一言だけ返した。
「勝手にほざいてろ」
ライオットの鉄壁ぶりを相手に稽古を重ねているシンにとって、この程度の防御などザルもいいところだ。
「あ、ちょっ、待……リーダー!」
約定、誓約の証、壷とキーワードに反応したルージュが、あわててシンを止めようとする。
が、遅かった。
精霊殺しの魔剣は両腕ごと斧を斬り飛ばし、返す刃が無防備になった首をはねる。
口をはさむ間もない、鮮やかな連撃だ。
これで、ゴブリンロードの魂もろとも、貴重っぽい情報も永遠に闇の中。
「あぁ……」
あまりのことにルージュからため息がこぼれた。
両腕と首を失った胴体が地面に転がると、シンは初めて後ろを振り向いた。
「ん? 何か言ったか?」
「ほんとさ、リーダーって相手の話を聞かないで倒しちゃうよね。もうちょっと情報収集しようとか思わないの?」
レイリアが最後の1匹にとどめを刺すのを横目に、ルージュが首を振る。
「どうせ口から出まかせだろ? この期に及んで手加減なんかして、しなくていい苦戦を強いられたらバカみたいだ」
ルージュの抗議など、シンは気にした様子もなかった。
彼が言うのも一面の真理ではある。古来、ボスの能書きに最後まで付き合うのは、逃げられフラグである場合がほとんどだ。
「ザクソンを襲ったゴブリンの大群と、そのボスを倒したんだ。今回のミッションはこれで成功。あとは怪我なく帰るだけ。今は余計な伏線より、ライオットの無事でも気にした方がいいんじゃないか?」
自分はしっかりとレイリアの無事を確認しながら、からかうように斜面の上を指さす。
「私のライくんは、ゴブリンなんかに負けないもん」
そう言い返しながらも視線を向けると、ライオットが手を振りながら降りてくるところだった。
負ける要素はないと分かっていても、やはり無事な顔を見ればほっとする。
それぞれが互いに無事を確認し合っていると、ザムジーが慨嘆した。
「見せてもらったよ。これが冒険者の戦い方か……」
妖魔の巣穴で挟み撃ちにされながら、前後同時に罠を噛み破ってしまうとは。しかも“王”を討ち取るところまで同時進行だ。
「色々と邪魔して済まなかった。これほど強いとは思わなくてな」
一番弱そうなレイリアですら、木こりライオットよりずっと強い。ルージュの宣言どおりの結果に、ザムジーは素直に頭を下げた。
これが村人だったら、屈強の男が100人集まってもこうはいかなかっただろう。これほどの冒険者を雇えたという幸運を、改めて神々に感謝したくなる。
「ザムジーも怪我がなくて何よりだった。村に帰ったら村長に報告してくれよ。とりあえずボスは倒しましたってな」
シンが笑いながら応える。
すると、下まで降りてきたライオットが口を挟んだ。
「シン、上にいたザコの群れだけど」
すっきりしない、渋い表情。あまりいい知らせではないらしい。
シンが無言で先を促す。
「半分ちょっと倒したら突然統制が乱れて、残ったザコが猛ダッシュで逃げ出したんだ。こう、散りじりにさ。追撃して何匹か倒そうかとも思ったんだが、結局そのまま見逃した。逃げたのは10匹くらいだと思う。すまん」
「そうか……ま、何とかなるだろ」
群れのボスたるゴブリンロードを倒し、集団を構成していたゴブリンも30匹近く始末している。
包囲したわけではないのだから、多少の逃亡が出るのは仕方ないだろう。
「ゴブリン10匹くらいなら、村の自警団でも十分対応できる。あんたたちは十分な戦果を挙げてくれたよ。多少のことは気にしないでくれ」
ザムジーもシンに同意したが、ライオットは釈然としない表情だった。洞窟への突入前、妻に言われた言葉がずっと引っかかっているのだ。
すなわち、逃げたゴブリンが村を襲ったら元も子もない、と。
「とりあえずさ、もう2~3日は村で様子を見てみようよ」
ルージュはそう提案すると、リーダーが叩き潰した伏線の件もあるしね、と内心で続けた。
シンとレイリアはふたりで過ごす時間が増えて嬉しいだろうし、ライオットは逃がしたゴブリンを警戒したいだろう。
ルージュ自身、妙な胸騒ぎが収まらず、すぐに村を離れる気にはなれなかった。
「これからのことは、フィルマー村長も交えて相談だ。それより気を抜くなよ。村に帰るまでがミッションだ。ダンジョンの最奥部で気を抜くと思わぬ危機を招くって、こないだ墓所で学習したばかりだからな」
シンが改めて気合いを入れ直す。
あの時のピンチぶりを思い出して、場に再び緊張感が戻ってきた。
洞窟に入ったときと同じ隊列。
今まで同様の警戒態勢を保持して、シンたちは改めて地上を目指す。
「誓約の証たる壷、か。壷ってふつう『解放』するものじゃないよね」
ふと地底湖を振り返って、ルージュがつぶやく。
その声は誰の耳にも届かず、闇銀色の湖面に漣となって溶け込んでいった。