シーン2 ザクソンの村
村は急拵えの柵でぐるりと囲われ、いくつもの篝火が盛大に焚かれている。
要所要所に男たちが見張りに立ち、また武器を持って巡回する様子は、さながら戦場にある砦のようだった。
よく見れば、男たちの体には怪我が目立つ。中には腕を吊り、顔にまで包帯を巻いた満身創痍の者もいる。
それでも、動ける彼らはまだ幸運な方なのだ。
妖魔の大群に蹂躙された村は、実に7名もの死者を出した。重傷を負って意識の戻らぬ者はその倍に達する。
犠牲者の血と家族の涙を吸った大地は無惨に踏み荒らされ、精魂込めて育てた家畜は奪い去られ、収穫前の小麦は妖魔の汚毒で全滅してしまった。
これほどの犠牲を払ってなお、終わりは見えない。
ザクソンは死力を尽くした戦いの渦中にあって、興奮と疲労と悲観が混在した奇妙な昴燥が、重苦しく村を支配していた。
そんな村の片隅、恵みの森へと続く門の前で、ひとりの女性が男たちに必死に訴えていた。
「エトとパーンが帰ってこないの! きっと森へ行ったんだわ!」
年は16歳。つい最近大人の仲間入りをしたばかりの、榛色の瞳が印象的な娘だ。ふっくらした頬と機敏そうな挙措は、どこかリスのような印象を受ける。
目の覚めるような美人ではないが、人に好かれそうな愛嬌のある娘だった。
名をシノンという。村にたったひとりの薬草師であり、多数の怪我人を抱える今のザクソンでは、誰よりも貴重な存在だ。
「森へ? どうしてこんな時に?」
シノンを相手をしているのは、猟師のザムジーだ。今まで何匹もの妖魔を仕留めたことがあり、その経験を買われて村の男たちの指揮を任されている。
3日前の戦いでも自慢の弓で数多くのゴブリンを倒し、ザクソン屈指の勇者として村人たちに認められる男だった。
「私のせいよ。あの子たちの前で、薬草が切れたなんて言ったから……!」
シノンはうつむいて涙をこらえる。
嗚咽で上ずりそうになる声を必死に抑えながら、ザムジーのたくましい腕にすがりついた。
「お願い! 森に行ってあの子たちを探したいの! 力を貸してちょうだい!」
「しかしな……」
ザムジーは低く唸って渋面になる。
子供は村の宝だ。言われるまでもなく、すぐにでも助けに行ってやりたい。
これが平時ならば、の話だ。
今この状況で森に捜索隊を出せば、十中八九、妖魔に襲われることになるだろう。それを撃退できるだけの人数を出せば、今度は村の守りが手薄になる。
200名の村人と、2人の子供。
天秤に掛けてどちらか片方しか取れないなら、シノンにとっては気の毒な結論しか出せない。
ザムジーが言葉を継げないでいると、苦しそうな表情から内心を読みとったのだろう。シノンは決然と顔を上げ、涙をふいて言い放った。
「分かったわ。じゃあ私1人で行く」
「待て、落ち着け。今シノンがいなくなったら、村はどうなる?」
言葉どおりに森に向かって歩きだしたシノンを、あわててザムジーが止める。
優秀な薬草師だったパーンの母から、丁寧に教えを受けてきたシノン。去年の冬にパーンの母が亡くなってからは、村にただひとりの薬草師として、ザクソンになくてはならない存在なのだ。
以来シノンは、身寄りのないパーンを引き取って、エトと兄弟同様に育ててきた。両親のない3人は、今ではどんな家族よりも強固な絆で結ばれている。
シノンの中の天秤では、村人すべてより2人の子供たちの方がずっと重いにちがいない。
家族が一番大切。それは誰もが同じなのだ。
シノンの内心を察して、ザムジーも苦渋に顔をゆがめた。
自業自得と決めつけたくはないが、何もこんな時に森に入らなくても。無謀な子供たちにやるせない怒りを感じて、ザムジーは森に視線を向けた。
黒々とした闇に沈む森は、恵みをもたらす昼間とはまるで違う姿を見せている。
仮に無事だったとして、あの中に助けに行けるのか? 行って、皆無事に帰って来れるのか?
内心でそう問いかけたとき、ザムジーの心臓が跳ね上がった。
「ゴブリン?!」
同じものを見つけて、シノンがはっと顔を硬くした。
青白い鬼火のような明かりとともに、いくつかの人影が森から出てくるのが見えた。
「いや、違うな。ゴブリンどもはあんなに大きくない」
興奮で立った鳥肌をさすり、努めて落ち着いた声を出しながら、ザムジーが目を細める。
「だけど、こんな時に森から無事に出てくるなんて……もしかして不死の怪物かも」
世界には、非業の運命を諦めきれない魂に支配され、死してなお動き回る怪物がいるという。どこか冷たさを感じさせる青白い明かりは、そんな死者の魂が浮いているものではないのか?
「1、2、3、4。大きい人影が4つ。それに小さいのも2つ一緒だ。どっちにしろ警戒が必要だろう。おい! 誰か!」
背負っていた弓を下ろし、矢筒から鷹羽の矢をつがえながら、ザムジーは見張り係に怒鳴った。
「ライオットの班を呼んできてくれ! 森から何か出てきた! 大至急だ!」
木こりのライオットは村一番の力自慢だ。腕っ節に自信のある男たちを5人ばかり集めて、戦闘班の班長を務めている。
この時間なら、村の中心にある〈良き再会〉亭で妖魔の襲撃に備えているはずだった。
「分かった!」
ザムジーに応えて、見張りのひとりが大急ぎで走っていく。
「他の者は門を閉めろ! 手の空いている男は武器を持って北門に集合! 女子供は家から出ないように! 急いで触れ回れ!」
やがて銅鑼が鳴り始めると、村中が騒がしくなってきた。ライオットに率いられて体格のいい男たちが到着すると、すぐにザムジーのところに駆け寄ってくる。
「妖魔か?」
両手持ちの斧を肩に担いで、ライオットが胸を張った。
何年も斧を振り続けてきた体には分厚く筋肉が盛り上がり、灰色熊もかくやという力強さを漂わせている。
「遠くてまだ判らん。だが森から人影が6つ出てきた」
「そうか」
ライオットは短く答えて、そのままどっしりと腰を据える。彼がそうしているだけで、さながら大樹のような安心感があった。
どんなに不安でも、俺たちだけは自信満々でいよう。そうしないと不安が村人たちに伝染して、誰も戦えなくなってしまう。
ザムジーと交わしたその約束を、この無口な巨漢は忠実に守っているのだ。
武器を持って集まってきた男たちは、全部で20名。村の方々で見張りに立っている者をのぞけば、戦える男は全員が集合したことになる。
彼らが固唾を飲んで見守っていると、青白い鬼火とともに、6つの影はまっすぐ村に近づいてくる。遠目ながらシルエットが判別できるようになると、男たちは目を細めて正体を探ろうとした。
敵か、味方か。
強いのか、弱いのか。
相手によっては女子供を村から逃がし、ターバに避難させることも考えなくてはならない。
ザムジーがめまぐるしく考えを巡らせていると、じっと目を凝らしていたシノンが、突然歓声を上げた。
「エトだわ! あれ、エトとパーンよ!」
喜色を満面に浮かべて門を開き、外に飛び出そうとする。村人のひとりがあわてて止め、ザムジーに目を向けてきた。
「シノン、落ち着け。間違いないのか?」
「私があの子たちを見間違えるはずないでしょう。早く出迎えてあげなきゃ。門を開けてちょうだい」
急拵えとはいえ、妖魔の進入を防ぐための柵だ。女の細腕で開くほど軽い造りではない。
シノンが助けを求めて見上げたが、ザムジーは首を振った。
「いや、まだだ。もしかしたら、ふたりは人質に取られているのかも知れない。一緒にいる奴らの正体が分かるまでは、門は開けられない」
その慎重な態度に業を煮やして、シノンは大声で子供たちを呼んだ。
「エト! パーン!」
叫びながら、篝火の下で大きく手を振る。
返事はすぐに帰ってきた。
「姉さん!」
小さい2つの人影は、手を振り返すと、大きい人影の手を引いて村へと駆け寄ってくる。
やがて、人影が篝火の明かりに入ってくると、ザムジーは声を張り上げた。
「悪いが、一旦そこで止まれ! あんたたちは何者だ?!」
先頭を歩いているのは、浅黒い肌に黒髪の戦士。仕立ての良さそうな黒の長衣に銀の飾り帯。背中には両手持ちの曲刀を背負っている。その動きはしなやかで隙がなく、まるで獲物を狙う肉食獣のよう。
次は白銀の鎧を着て大きな盾を持った、まるで騎士のような風体の男。金髪碧眼の貴公子だが、その眼光の鋭いこと、最初の男に全く引けを取らない。
残りの2人は女だった。
ひとりは大地母神マーファの司祭。まだ若く、シノンと同年代だろう。白い神官衣に、腰までの黒髪。穏やかな微笑を浮かべているが、隠しきれない疲労が足取りを重くしているようだ。
最後は魔術師。銀色の髪に紫色の瞳という珍しい組み合わせ。染みひとつない象牙色の肌。信じられないほど整った顔立ちは、魔術師でなければ女神の化身と言われても信じられそうなほど。
戦士、騎士、司祭、魔術師。
そんな取り合わせが意味するものはひとつしかなく、村人たちからは何かを期待するざわめきが起こっている。
「この人たちは冒険者だぞ! 村を助けに来てくれたんだ!」
ザムジーたちの態度を糾弾するように、パーンが大声で答えた。
エトはそれを保証するように肯いている。
自分自身が歓声を上げそうになりながらも、ザムジーは男たちに念を押した。
「子供たちを連れてきてくれたのは感謝する。だが、あんたたちは本当に、村を助けに来た冒険者か?」
村の全員が固唾を飲んで返答を待つ。
仲間たちを振り向いて確認すると、先頭に立っていた黒髪の戦士が、大きく肯いた。
「そうだ。ザクソン防衛の依頼を受けてきた」
村人たちの希望を明確に肯定する、戦士の言葉。
周囲にどんどん膨れ上がる興奮は、軽くつついただけで爆発してしまいそうだ。
妖魔の大群に襲われて以来、暗いニュースしかなかったザクソンの村。そんな彼らにとって、子供たちの生還と冒険者の到来は久々の明るい話題だった。
ザムジーは村の男たちに向き直ると、腹の底から大声で叫んだ。
「みんな! パーンとエトが冒険者を連れてきたぞ! 門を開けろ!」
『うおおおおおお!』
20人の男たちが一斉に腕を突き上げ、歓喜を爆発させた。
掛け値なしに全力の大歓声が、ザクソン中に轟いた。
閉塞感と絶望に支配されていた村人たちにとって、冒険者たちの到来は、雪解けの太陽にも等しい輝きを放っているのだ。
皆が満面の笑顔を浮かべ、誰彼かまわず抱き合って喜びを分かちあう。
気のきいた数人が門に飛びつき、引きずるようにして門を開くと、4人の冒険者と2人の子供はあっという間に取り囲まれた。
「よく来てくれたな! 歓迎するよ!」
「これで助かった!」
「ザクソンの救世主だ!」
100%混じりっけなしの大歓迎に、冒険者たちはいささか戸惑っていた様子だったが、どうやらこの空気を察してくれたらしい。
「待たせたな。けど、俺たちは強いぜ?」
金髪の騎士がにやりと笑うと、村人たちの興奮は最高潮に達した。
親しげに肩を叩くもの、パーンとエトをねぎらう者、顔を赤くしてルージュとレイリアに見とれる者。彼らに共通するのは、長い暗黒の日々が終わったことに対する解放感と喜びだ。
誰もが大騒ぎに全力を尽くしていると、ザムジーは大声で追加の指示を飛ばした。
「お前ら、大切な客人をいつまで立たせておくつもりだ! 早く〈良き再会〉亭に案内しろ! 大急ぎでフィルマー村長を呼んでこい!」
それに応じて、男どもは冒険者たちを取り囲んだまま、背中を押すようにして村の中央へ案内していった。ちゃっかりした数人が司祭と魔術師の腰に手を回しているようだが、お祭り騒ぎのような空気に配慮してか、彼女たちは苦笑したのみで大目に見てくれるようだ。
やり方はどうあれ、ザクソンの村が彼らを歓迎しているという状況は分かってもらえただろう。
再び森に視線を向け、妖魔の姿はないことを確認すると、ザムジーは開いたままの門を閉めた。
後に残ったのはザムジー、見張り番、シノン、それにパーンとエトの5人。
歓喜に沸く村人たちを見送ってから、シノンはしゃがみこんで子供たちを抱き寄せた。
「無事で良かったわ。怪我はない?」
順番に抱きしめてから、両手を体に這わせて負傷を確認する。
森で小枝に引っかけたのだろう、小さな擦り傷は無数にあったが、舐めておけば一晩で治る程度のものばかり。治療を要するような大怪我はなかった。
「うん。危ないところを冒険者の人たちに助けてもらったから」
パーンがうなずく。
「姉さん、これ、森で採ってきたんだ。リギド草。これだけあれば足りるかな?」
大きく膨らんだ背負い袋を、エトが誇らしげに差し出した。
中を見ると、尖った葉が特徴的なリギド草がびっしりと詰め込まれている。これだけあれば、村にあふれている怪我人をひとり残らず治療できるだろう。
「まあ、こんなに沢山……大変だったでしょうに」
シノンが言うと、パーンは誇らしげに胸を張った。
「俺たちも、村のために何かしたかったんだ。子供だって役に立つんだってことをさ、分かっただろ?」
「ええ。薬草もそうだし、冒険者さんたちも連れてきてくれたし、きっと村の皆があなたたちに感謝するわ」
シノンが微笑むと、子供たちは嬉しそうに顔を見合わせた。
妖魔に追いかけられた時は生きた心地もしなかったが、苦労の後にはいいことが待っている。シノンに誉められて、充分に報われた気分だった。
「エト、パーン、今度は私の話を聞いてくれる?」
穏やかな声。
何事かとふたりが向き直った瞬間、シノンの右手が閃いた。
乾いた音がふたつ。
平手で思い切り頬を張られて、子供たちはたまらずに尻餅をついた。
驚いて見返すと、顔は微笑んだまま、シノンが涙を浮かべてふたりを見下ろしていた。
「エト。薬草は嬉しいわ。これだけあれば、沢山の人を助けることができる。ありがとう。だけどね、馬車にいっぱいの薬草より、私はあなたの方が大事なの」
シノンは呆然と見上げる弟から、恩師の忘れ形見に視線を移す。
「パーン、冒険者を連れてきてくれたのは立派だわ。おかげで村は助かるでしょう。けどね、もし森で冒険者さんたちに会わなかったら、あなたがどうなっていたか分かる? 私が助けたいのは村人ぜんぶより、あなたひとりなのよ?」
叫ぶでも怒鳴るでもなく、穏やかとさえ言えるような、ゆっくりとした口調。
だが目を赤くしたシノンの心中を察すると、少年たちの顔は次第に暗く沈んでいった。
「あなたたちは村を救ったわ。それは本当のことだから、今回は皆に誇っていい。だけどこれだけは覚えておいて。あなたたちに万が一のことがあったら、悲しむ人がいるってことを。そして、もし死んだら、その人はもう誰の役にも立てないんだってことを」
薬草師という仕事柄、誰よりも近く死というものを看取ってきたシノンの言葉は、ふたりの少年に深く染み込んでいった。
10歳には小難しい理屈など分からないが、シノンの言いたいことが何なのか、子供たちにははっきりと分かっていた。
「……ごめん、シノン」
「ごめんなさい、姉さん」
だから、子供たちは素直に頭を下げた。
冒険者たちに出会った興奮の炎は、すっかり消し止められていた。
「そうだな。シノンの言ってることは正しい」
少し離れて様子を見ていたザムジーが、彼女たちには聞こえないように、小声でつぶやく。
「けどな、危険を承知で無茶ができないようじゃ、村は守れないんだぜ?」
妖魔の大群が襲ってきたとき、村の男たちは武器を持って戦った。無茶をするなとか安全第一とか考えていては、妖魔と斬り合いなどできようはずがない。
村を、大切な人を、そして肩を並べて戦う隣人を守ろうという使命感。それを一番に考えるから男たちは戦えるし、互いを信頼し合える。
そうやって信頼を勝ち取って、男はようやく一人前なのだ。
女の理屈で育てられた子供たちが、次第に男になっていく過程。
パーンとエトは、その真っ直中にいる。
「こいつら、でかくなるかもな」
素直に涙を流して謝る子供たちを見て、ザムジーは頬を緩めた。
ザクソンの村は貧しいが、将来有望な子供たちがいる限り、未来は明るいと思えた。
知らせを受けたフィルマーが足腰にむち打って酒場に駆けつけると、そこには冒険者を一目見ようとする村人たちが詰めかけて、外まで人があふれていた。
酒場〈良き再会〉亭は、ターバ神殿への巡礼者向けの、村にたった1軒だけの宿でもある。冒険者が来た際には宿舎として使用できるよう、必要なものは取りそろえてあったはずだ。
「しかし、本当に来たのか?」
ザクソンが用意できた報酬は、たったの2500ガメル。
村の若い衆に毛が生えた程度の駆け出し冒険者ならともかく、司祭や魔術師までそろえた熟練冒険者など、とても雇える金額ではない。
首をひねりながらフィルマーが顔を出すと、待ちかねたように〈良き再会〉亭の主人、ジェット爺さんが出迎えた。
「待っとったぞ、村長。こちらがリーダーのシン・イスマイール殿。それから順に戦神マイリーの神官戦士ライオット殿。魔術師のルージュ殿に、大地母神マーファの司祭レイリア殿じゃ」
中央のテーブルに腰掛けた若者たちを順に紹介する。
礼を失しないよう気を払いながら、フィルマーは冒険者たちを観察した。
いずれも若い。もっとも年長に見えるマイリーの神官戦士でさえ20代の前半だろう。マーファの司祭にいたっては、まだ成人を迎えたばかりに見える。
だが同時に、彼らが漂わせる存在感は、まるで猛獣と同席しているような迫力に満ちていた。彼らがちょっとその気になれば、村の若者では手も足も出ぬままに制圧されてしまうだろう。
この若者たちは本物の冒険者だ。
そう理解して、フィルマーが頭を下げようとしたとき。
「おいジジイ。もう耄碌したのか? 一番大事な奴を紹介し忘れてるぞ。頭は使わないとすぐ退化するんだ。かわいい孫娘にシモの世話をされたくなければ、ちょっとはものを覚える訓練をするんだな」
情け容赦のない雑言が、テーブルの上からジェット爺さんに浴びせられた。
驚いたフィルマーが視線を向けると、見事な銀色の毛並みをした猫が、2本の尻尾をゆらゆらと揺らしながら堂々と胸を張っている。
「しゃべったのはお前さんかな?」
「誇り高き猫族の王、ルーィエだ。この半人前どもの保護者をしている」
しゃべる猫を前にして、フィルマーが自分の目と耳を疑っていると、ルージュという女性魔術師が苦笑して口を挟んだ。
「ルーィエは、北の大陸から渡ってきた幻獣なんですよ。口は悪いですけど、猫の王様というのは本当です」
「左様ですか」
呆然と答えながら魔術師を見返して、フィルマーはそのまま目を離せなくなった。
ザクソンではついぞお目にかかったことのない佳人だった。薄く雲をかぶった朧月のような美貌は、まるでおとぎ話に登場する王侯貴族の姫君のよう。
年甲斐もなく見とれてしまい、ジェット爺さんの咳払いで我に返ったフィルマーは、あわてて視線を逸らした。
もうひとりマーファの司祭も美しい女性だ。村の若者たちが〈良き再会〉亭に押し掛けた理由の大部分は、どうやらこの女性たちにあるらしい。
同じ男として気持ちは分かるが、今は彼らに失礼があってはならない。フィルマーは店の出入り口を振り向くと、しっしっと手を振った。
「皆の衆。これから村のために大切な話がある。その扉を閉めて、用のない者は家に帰りなさい。当番の者は、くれぐれも見張りを怠らぬようにな」
穏やかだが有無を言わさぬ口調に、若者たちは渋々と去っていった。
後には猟師のザムジー、木こりのライオット、それに腕っ節の強い5名ばかりが残るだけ。村の実状を語るにはこれで充分だ。
野次馬がいなくなると酒場は静まり返り、雰囲気も張りつめたものに変わった。
この冒険者たちが本当に妖魔の大群を退治してくれるのか。その正否によって、ザクソンの運命が決まるのだ。
「失礼した。私が村長のフィルマーです。この度は依頼を引き受けていただいて、感謝の言葉もない。しかしですな、その……」
フィルマーが言い澱むと、金髪碧眼の戦士が言葉を継いだ。
「あの額の報酬で、本当に依頼を引き受けたのかとお尋ねですか?」
白銀の甲冑に大きな盾。由緒ありそうな長剣を佩いた、マイリーの神官戦士。
村一番の勇者ライオットと同名の彼は、碧い瞳に思慮深そうな光をたたえて、フィルマーの内心をずばりと言い当てた。
「左様、言いにくいことですが、この村は貧しい。用意できるのはあれで精一杯でした。しかし、あなた方のような冒険者が雇える額ではないということもまた、分かっておったのです」
申し訳なさそうにうなずくと、ライオットという神官戦士は軽く微笑んだ。
「そのあたりにいる普通の冒険者なら、確かにそのとおりでしょうね。しかし、本当に優れた人物を動かすのに必要なのは、金銀ではないのですよ」
穏やかだが断定的な口調。
どのような経験を積んできたのか知らないが、20そこそこの若さとは釣り合わない深みのようなものを感じる。
「私たちのリーダー、シン・イスマイールは、金では動きません。その代わり、本当に困っている人、彼を必要とする人がいれば、金額の多寡など度外視で助けようとします。あなたが巡り会ったのは、そういう勇者なのですよ」
まるでおとぎ話のように都合のいい話だ。
いささか疑わしげにフィルマーが一同を見渡すと、黒髪の女性司祭は誇らしげに肯いた。
「ライオットさんの言うことは本当ですよ。シン・イスマイールは、ニース最高司祭が認めた勇者です。困っている人を見捨てたりはしません」
信頼と言うより信仰に近い眼差しを受けて、黒髪の戦士が照れたようにそっぽを向く。
「そんな大したもんじゃないよ。目の前に困った人がいたら、誰だってできる範囲で助けようとするだろ。それと同じだ。勇者とか英雄とか、そんなんじゃない」
聞きようによっては、上から目線の傲慢な台詞だ。
だが、理由はどうあれザクソンは彼らの力を必要としている。必要なのは納得のいく説明ではなく、妖魔どもを打ち払う力なのだ。
フィルマーは、どうやら本当に妖魔たちと戦ってくれるらしいと知ると、安堵の吐息を漏らした。
「分かりました。ザクソンの運命は皆さんにかかっております。どうか私たちの村を助けて下され」
深々と頭を下げる。
「報酬をもらって引き受けた以上、依頼は必ずや完遂します。ご安心を」
金髪の神官戦士は自信たっぷりに請け負う。
彼が大丈夫と言う以上、もう心配はいらないだろう。そう信じられる力を持った態度だった。
「では、よろしくお願いします。詳しい話は猟師のザムジーと、木こりのライオットから聞いて下され。この2人が若い衆のリーダーをしておりましてな」
村長が紹介すると、木こりのライオットは無愛想な顔に奇妙な表情を浮かべて金髪の冒険者を見た。
自分と同名ながら、きらびやかな容姿と圧倒的な戦闘力を持ち、自信たっぷりに村長に対している若い男。生まれも育ちも違うのだから当たり前だが、寒村で薪だけを相手にしてきた自分と比べて、なんと華やかなことか。
いささかコンプレックスに近い感情を覚えて無言を貫いていると、金髪のライオットが屈託のない笑みを向けてきた。
「奇遇だな。俺もライオットっていうんだ。パーンたちから聞いたよ。あんた、村を妖魔から守った勇者なんだってな」
「そんなんじゃない」
一回り年下の若者に、むっつりと答える。
「運が良かっただけだ。このザムジーだって、雑貨屋のモートだって、みんな必死に戦った。死んだ奴らだって大勢いる。たまたま俺は生き残って、刈った首が一番多かったから、皆が持ち上げているだけだ」
無愛想だが実直な言葉は、どこかシンに通じるものがある。金髪のライオットは居住まいを正すと、正面から朴訥な大男を見つめた。
「偉大なるマイリーは、刈った首の数で勇者を決めたりはしない」
その意外なほど真面目な口調に、冒険者仲間たちも驚いた様子だ。
「戦うことは怖い。俺はそれを知ってる。それでも、大切なものを守るために恐怖をこらえて戦った人間を“勇者”って呼ぶんだ」
金髪の司祭は、有無を言わさぬ視線をライオットに投げかけた。
「村のために戦って、村を守ったあんたは勇者だ。それは村の連中がそう呼ぶからじゃない。自分の価値は、他人には決められない。自分の行動だけが決められるんだ。だから自分を卑下するな。胸を張れ。自分のやったことに誇りを持て」
そう主張する碧い瞳は、強烈な存在感でライオットを飲み込んでしまう。
身構えていた相手が、誰よりも明確に自分を評価したという事実に、劣等感で鎧っていた心が毅然と頭をもたげるのが分かった。
自分がこの冒険者より強いか弱いかは、さしたる問題ではないのだ。ただザクソンの村の代表者として、自分が成し遂げたことに誇りを持って対応すればいいだけ。
村のために全力を尽くしたという事実は、誰よりもライオット自身が知っているのだから。
「なんだお前、たまには司祭っぽいこと言えるんじゃないか」
冒険者たちのリーダーが金髪の司祭をからかうように言った。
銀髪の女性魔術師もうんうんと頷き、マーファの司祭は困ったように曖昧な微笑を浮かべている。
「失礼な奴だな。もうちょっと頑張れば、マイリー教団にライオット派を作れるくらいの実力者らしいぞ、俺」
金髪の司祭が憮然として言い返すと、横から魔術師が混ぜっ返した。
「ライくん、社交辞令って知ってる? そんなお世辞を真に受けちゃダメだよ」
「そうそう。適当なことばっかり言ってると、マイリーに怒られるぞ」
右と左から叩かれて、金髪の司祭は何か言い返そうとしたが、すぐに諦めたらしい。
気の毒そうに眺めるライオットと目が合うと、軽く肩をすくめてみせた。
「これが周囲の評価って奴さ……不本意だけどな」
どんなに強くても、頭の上がらない相手はいるらしい。
村人たちとは比較にならない戦闘力を持ち、妖魔を一蹴する実力があっても、この冒険者たちも自分たちと同じ。
冗談を言い、笑い合い、時には愚痴を言ったりもするただの人間なのだ。
相手が同じ人間なら、気圧されることもない。
ザムジーと視線を交わすと、ライオットは胸を張って椅子に座りなおした。