マスターシーン ロートシルト男爵夫人邸
金で縁取られた高級陶器で蜂蜜入りのミルクを舐めていたルーィエが、ふと顔を上げた。
応接室の大きな窓から、目を細めて西の空を見る。
ほんの一瞬だけ赤い光が瞬き、夜空を照らすと、猫族の王は小さく呟いた。
「始まったか」
低く伝わってきた振動が、窓ガラスを細かく震わせる。
「え? 何か言いましたか?」
優雅な手つきでティーカップを傾けていたレイリアが、ルーィエに問いかけた。
「始まったんだ。捕り物がな。それより男爵夫人とやらは、いつまで待たせれば気が済む?」
離宮についてから、もう2時間になろうとしている。
応対した執事は平身低頭しながら、しばらくお待ちいただきたいと告げてこの応接室に案内したのだが。
「執事さんの話では、王宮からの使者ということでしたから、お話が長引いているのかもしれませんね」
不機嫌そうなルーィエをなだめるように、レイリアが柔らかく微笑む。
約束もなしに突然押しかけたのはレイリアの方だから、ラフィットに先約があったことに文句を言うのは筋違いだ。
応接室には飲み物だけでなく、菓子や軽食なども運ばれていた。晩餐を共にする客人に食事を出すわけにはいかないが、空腹への対処は必要という心遣い。
つまり、相当な時間をここで潰さなくてはならないらしい。
「ふん、使者か。案外使者じゃなくて、国王本人だったりしてな」
ルーィエが鼻を鳴らす。
「国王陛下が、わざわざお運びになって何を……」
言いかけたレイリアが、頬を赤らめて咳払いする。
ラフィットは国王の寵姫だ。国王が彼女を求めれば、それに応じるのは義務と言ってよい。
落ち着きのない様子で視線をさまよわせるレイリア。恥ずかしそうになったり、夢見る乙女のようにうっとりしたり、緊張に顔をこわばらせたり、その百面相はいつまで見ていても飽きそうにない。
ルーィエはしばらく興味深そうに眺めていたが、やがて口を挟んだ。
「妄想の邪魔をしてすまないが、司祭。ちょっと耳に入れておきたいことがある」
「え? も、妄想なんてしてませんよ」
真っ赤になって手を振るレイリアに、ルーィエはさりげなく問いかけた。
「そうか、ならばいい。それでどっちのことを考えていた? 国王か? それともあの黒いのか?」
「もちろんシンです」
即答するレイリア。
なるほど、だいたい分かったとうなずいて、銀毛の猫王が人の悪い笑みを浮かべた。
「脳内で事態がどこまで進展したか聞くのは、失礼に当たるんだろうな?」
すっかり内心を読まれている。
怒ってごまかそうと頬を膨らませたレイリアだが、ルーィエとはまるで役者が違う。
力なく肩を落とすと、上目遣いで猫王を見た。
「あの、私が変なこと考えてたって事は、シンには内緒にしてくださいね」
「何故だ? あの黒いのなら、むしろ喜ぶと思うが」
「そういう問題じゃないんです。もしシンにバレたら、恥ずかしくて顔も見られなくなります。どうか内密に。是非お願いします」
顔を真っ赤にして力説するレイリア。
否とも応とも答えず、さらにからかおうとしたルーィエが、突然厳しい顔で黙り込んだ。
視線を西の窓に向け、2本の尻尾が落ちつきなくテーブルを叩く。
いつもと違う緊迫した雰囲気に、レイリアも我知らず息を飲んだ。
一度、二度と西の空が青白く光る。
何かが起きている。レイリアは変な胸騒ぎを感じて、そっと胸に手を当てた。
どれくらいの沈黙が流れただろうか。
ルーィエの紫水晶の瞳が、まっすぐにレイリアを見た。
「お前の黒いのが戦ってる。この屋敷の主人を襲った犯人を、捕らえるために」
「えっ……」
予想外の言葉に驚くレイリアに、ルーィエはさらに続けた。
「そこに加勢が現れた。お前を襲った騎士と魔術師、それに蛮族の戦士も。犯人は邪教の一味だったらしい。強敵らしいな。こっちが不利みたいだ。あの半人前が混乱してる」
半人前というのはルージュのことだろう。あの冷静な人が混乱するくらい、状況が良くないのか。
じゃあシンは?
彼は無事なのだろうか?
「大変! 私も早く行かなきゃ!」
いても立ってもいられなくなり、レイリアが慌てて帰り支度を始める。
「やめておけ。お前が行っても足手まといだ」
「そんな! 私だって戦えます!」
思わず声を荒げるレイリア。
だがそんな彼女に、ルーィエは冷たく言い放った。
「それでまた、あの騎士の嬲りものにされるのか」
あの時の絶望感を思い出し、レイリアの表情に怯えが浮かぶ。
自分では乗り越えたつもりでも、心についた傷は癒えていなかった。気丈に振る舞っても女性は女性。身も心も蹂躙された相手には、拭えない恐怖が刻みつけられている。
「お前が今ここにいるのは、黒いのにとって幸いだ。お前の安全は保証されてて、全力で敵に当たれるんだからな。だから今まで、捕り物のことはお前に黙ってた。そうしろと黒いのが言ったからだ」
静かな口調で言い聞かせるルーィエに、レイリアは返す言葉もない。
「それに、自分で決めてここに来たんだろうが。男爵夫人とやらを放置して帰っていいのか?」
そうだ。忘れていた。
ここにレイリアがいる理由は、権力の闇に怯える少女を慰めるためだった。
シンにはライオットも、ルージュもついている。
だがラフィットの友人は、レイリアしかいないのだ。
「事態は決して良くない。だからこそ考えろ。自分に何ができるのか。自分が何をするべきなのか」
落ち着きなく尻尾でテーブルを打つルーィエからは、いつものような雑言も皮肉も出てこない。
それだけ余裕がないということだ。本当なら、一番に彼らのもとへ駆けつけたいのは、この猫王なのだろう。
それでも、今自分が為すべきなのはレイリアの護衛だと考えているから、この場に留まってくれるのだ。
「……分かりました。すみませんでした、ルーィエさん」
素直に謝罪すると、浮かせた腰をソファに落ち着ける。
レイリアはそっと瞳を閉じた。
自分は司祭だ。ならば、どこにいてもできることがある。
レイリアは静かに手を組んで、激戦の中にいる大切な人たちを思い浮かべた。
「マーファよ、どうかシンたちをお守りください」
真摯なその祈りは、きっとシンにも届くだろう。
祈りは決して無力ではない。
そう信じて、レイリアは仲間たちの無事を願い続けた。
シーン7 スーヴェラン卿の屋敷
何度目かの《ファイアボール》が炸裂し、前庭に炎と破壊をを巻き散らした。また数人の衛視たちが巻き込まれ、力なく倒れたまま動かなくなる。
突入した衛視は30名。すでにその半数以上が、スーヴェランひとりの魔法で打ち倒されていた。
「くそっ! このままじゃジリ貧だ!」
炎の余波を盾で防ぎ、前髪を焦がす熱風に顔をしかめながら、ライオットが舌打ちする。
「どうした小僧! もっと俺様を楽しませろ!」
右から左から、縦横無尽に戦斧を打ち込みながら、赤髪の戦士が歯をむき出しにして哄笑した。
そこらの男では、持ち上げることさえ難しいだろう巨大な戦斧。それを柳の小枝のように軽々と振り回すとは、いったいどれほどの膂力を持っているのか。
技に特化したライオットとは対照的に、アンティヤルはパワーで勝負するタイプの戦士だ。計算された剣技を暴力的な一撃で打ち払う戦い方はシンとそっくり。相性が悪いとしか言いようがない。
「楽しみたいんだったら、少しは手を抜けっての!」
それでも、一撃一撃に必殺の威力を込められた戦斧を、ライオットは1歩も引かずに止め続ける。
後ろには妻がいるのだ。断じて、こんな猛獣を通すわけにはいかない。
必死に攻撃を受け流しながら、ライオットは反撃の隙をうかがい続けた。
その横では、シンがライオットとまったく逆の戦いを繰り広げている。
最初の混乱が収まると、シンの剣は徐々に鋭さを取り戻していった。いきなり激戦が始まり、精神的な余裕を失ったのが良い方向に作用したのだろう。
恐怖や緊張といった感情が根こそぎ削り取られ、攻撃に反応して打ち返すという至極単純な状況が、シンのスペックを強制的に引き出していく。
ラスカーズを相手に、戦況は劣勢から優勢へと移行しつつあった。
「まったく! 厄介な男だな、貴様は!」
ラスカーズが苛立たしげに細剣を繰り出す。
幾多の人命を糧にして鍛えてきた、変幻自在の剣捌き。数十の刺突はことごとく急所を狙ってきたが、シンはそのすべてに反応し、1本残らず打ち払った。
「厄介なのはどっちだ!」
腰を沈め、精霊殺しの魔剣を水平に一閃。
跳びのいたラスカーズだが、ひるがえった右袖が捕まり、両断されて宙に舞う。
袖の中身はもうない。何らダメージは受けなかったが、その光景はラスカーズの心に刻まれた古傷を見事にえぐり返していた。
漆黒の瞳で殺意が沸騰する。激情に駆られて、銀色の剣光はさらに速度を上げた。
正確さは欠いたものの、シンの反応速度を越えた攻撃が小さな傷を付けていく。腕に、脚に、服を裂いて赤い染みが次々と浮かんだ。
血の色。血の匂い。
それを感じて歪んだ精神が歓喜し、紅い唇が笑みの形に吊り上がる。
「変態か、お前は」
嫌悪感を丸出しにシンが吐き捨てる。
「ふッ、何とでも言うがいい。我らが女王の築く黄昏の王国に、貴様のような愚民は不要。今日この場でカーディスへの贄に捧げてくれる」
さながら、劇場で演じる俳優のような台詞回し。
自分に酔っているとしか思えないラスカーズの言葉で、シンの両眼に炎が灯った。
「……女王、女王ってうるさいんだよ。お前がどこで何をしようが、どんな神を信仰しようが、俺には関係ないし興味なんて更々ないけど」
全身につけられた無数の傷が痛みと熱さを訴えていたが、昴ぶった心がすべて押し流し、意識の外にはじき出してしまう。
「レイリアに手を出すことだけは、絶対に許さないからな!」
砂漠の部族に獅子と畏れ称えられた戦士が、怒りの咆吼をあげる。
だがラスカーズは、嘲弄でそれに応えた。
「世迷い言を。レイリア様は400年前より、我らの女王であられた。貴様ごときがいくら吠えたところで、この事実は変わらぬ」
狂気に犯された漆黒の瞳が、すっと細くなる。
獲物に飛びかかる毒蛇が身を縮めるように、ラスカーズは細剣を引いて身構えた。
「あの忌々しい墓所を破った、天恵の地震から17年。この私が17年待ったのだ! 我らが女王を、貴様のような野良犬に奪われてたまるか!」
「何が女王だ! 知ったことか!」
限界まで高まった気がぶつかり合い、そして弾ける。
互いの意地と信念を込めた渾身の一撃が、交錯した。
唐突に始まった激戦は、どうやら負けに向かって転がっているようだった。
シンがラスカーズを、ライオットがアンティヤルを何とか抑え込んでいるが、決して有利な状況にはない。
屋敷の主人スーヴェラン卿の相手をしている衛視隊は、卿の唱える魔法で戦力がどんどん削られていく。このままでは長くは保ちそうにない。
衛視隊が崩れたとき、敗北が決定的になるだろう。
「……つまり、私が戦局をひっくり返さないと、私たちは負ける」
ルージュが乾いた唇を噛む。
分かってはいるのだ。魔法で援護して、シンかライオットを自由にする必要がある。だが、最後に一人残った敵の存在が、ルージュの行動を縛りつけていた。
“黒の導師”バグナード。
彼がその気になれば、星界から隕石を召還して自分たちを一掃することもできる。空気を酸や致死毒に変えて、広範囲に死をもたらすこともできる。
たった1つの魔法で戦局を左右できる戦術兵器。10レベルソーサラーとはそういう存在だ。
ラルカス最高導師の《ギアス》で縛られたバグナードは、全身を苛む激痛のせいだろう、呪文の詠唱自体は決して速くない。今のルージュなら、バグナードが呪文を完成させるより早く介入し、妨害することだってできるはずだ。
だがそのためには、バグナードの行動に神経を尖らせ、自分がいつでも対応できる体勢を維持しなければならない。
もしルージュがラスカーズやアンティヤルを攻撃しようとすれば、バグナードに1ラウンドの自由を与えてしまう。その自由がどれほど致命的な状況を招くか、想像もできなかった。
“黒の導師”にフリーハンドを与えるなど論外。それは分かっているのだ。
(だけどこうしている間にも、ライくんやリーダーが!)
赤髪の戦士が振り回す戦斧がかすめて、ライオットの腕から血がしぶく。
隻腕の騎士が操る細剣は、もうシンの血に塗れて真っ赤だ。
硬質の美貌には涼しげな表情を張り付かせたまま、ルージュは自分への焦りと怒りで胸を焦がし、心で繋がった相棒に悲鳴を上げた。
(落ち着け。確かにあいつらは苦戦してる。だけどお前だってちゃんと戦ってるんだ。敵の魔術師が強敵なら、そいつを真っ先に無力化する方法を考えろ)
ルーィエの指摘は事実だ。
現にバグナードは、ルージュを警戒するあまり一切の魔術を使えていない。二手先、三手先を読み合うような熾烈な心理戦が展開されているのだ。
(得意の《ライトニング・バインド》はどうだ?)
(無理だよ! 他の3人はともかく、バグナードの抵抗を抜けるとは思えない)
(前3人に通用すれば十分。あとは黒いのとお前のつがいが何とかするだろ)
(そうだけど、今はそれをする余裕がなくて困ってるんでしょ!)
完璧なポーカーフェイスを維持したまま、相棒と必死に打開策を練る。
圧倒的に不利な戦況の中、冷静な助言をくれるルーィエの存在だけが、ルージュの持っている唯一のアドバンテージだった。
「ままならぬものよな。我らほどの魔術師がいながら、魔術を使うことができぬとは」
戦士たちの激戦を眺めながら、バグナードが余裕の笑みを見せる。
「だが、この戦いは我らの勝ちだ。転移の魔術で逃げるなら邪魔はせぬぞ。レイリアという娘さえいなければ、貴様らに用はない」
「強がっちゃって。邪魔したくてもできないんじゃないの? ラルカス導師にかけられた《ギアス》、相当痛いらしいじゃない」
バグナードがアクションを起こした。これは状況をひっくり返すための、千載一遇のチャンス。
理屈によらず直感で悟ったルージュは、思いきり挑発的に鼻で笑った。
安い挑発に乗ってくれる相手ではないが、ここはバグナード最大の泣き所だ。徹底的に攻撃し、全力で平静を崩しにかかる。
「《ディスペル》なんていう初級呪文で脂汗流してるんだもんね。ラルカス導師が知ったら小躍りして喜びそう」
「…………」
バグナードにとって、魔術とは人生そのもの。魔術師としてのプライドを他人が貶すことは許さないはずだ。
見た目には表情ひとつ変えない。
だが急激に膨れ上がった威圧感が、秘められた怒りの大きさをうかがわせた。
言葉の刃は確実に相手を傷つけている。それを確信して、ルージュはとっておきの一言を突き刺した。
「何なら私が解呪してあげようか? あんなヒヒ爺の魔法なんか、私なら一発だよ?」
「……小娘。調子に乗るのも程々にするがいい。私が挑発に乗って魔術を行使すれば、困るのは貴様の方だぞ」
(かかった!)
心臓が破れそうなほど緊張しながら、顔には余裕たっぷりの笑みを浮かべる。
バグナードに喧嘩を売って本気で怒らせるなど、ふつうに考えれば死亡フラグだ。正気の沙汰ではない。
正直、あまりの恐怖に足が震えそう。
それでもルージュは、芝居がかった動作で髪をかき上げ、ふふんと笑ってみせた。
この苦境から仲間たちを救うには、とにかくバグナードを揺さぶり、切り崩すしかないのだ。
「魔術合戦ならいくらでも付き合うわよ。私は魔法使っても全然痛くないから。羨ましいでしょ?」
冷や汗でびっしょりの内心などおくびにも見せず、完璧に表情を作るルージュ。
そしてついに、バグナードの顔に酷薄な笑みが浮かび、由緒ありそうな樫の木の杖がゆっくりと動いた。
「よろしい。ならば、我が最強の魔術でお相手しよう。私を挑発したことを地獄で後悔するがいい」
強靱な精神を集中させ、“黒の導師”が呪文の詠唱を始める。
天秤は揺れた。あとはこれをひっくり返すことが、ルージュの仕事だ。
バグナードが選んだ魔法は《メテオストライク》。召還魔術の奥義にして、打撃力50という非常識な破壊力を持つ10レベル魔法だ。
これが発動すれば、直径20メートルの効果範囲内はすべて灰燼に帰し、クレーター以外のものは残らないだろう。前庭の半分は消滅し、ルージュとて助かる見込みはない。
(発動すればね!)
魔法樹の杖を振りかざし、ルージュは勝ち誇った表情でバグナードを見据えた。
「使える魔法の難易度が、能力の決定的な差でないことを教えてあげる。忘れてるんじゃないの? 私は“奇跡の紡ぎ手”。魔術の力押しでこの名を戴いたわけじゃない!」
高位の魔法ほど長い詠唱を必要とする。ルージュの前でだらだらと詠唱を始めたのが、バグナードの敗因だ。
ほんの一瞬だけ、バグナードの目に警戒が浮かぶ。
だが、その姿はすぐに閉ざされた。
『万能なるマナよ! 光を閉ざす闇となれ!』
ルージュが選んだ魔法は1レベル。難易度で言えば初歩中の初歩だ。詠唱は瞬時に終了した。
あらゆる光を遮る魔法の闇が、スーヴェラン卿の屋敷ごとバグナードを覆い、戦場から切り離してしまう。
どんな魔法でも、魔術師は発動させる地点を明確にイメージしなければならない。ルージュは魔法の闇を生み出し、《メテオストライク》の着弾地点をバグナードの視界から奪い去ったのだ。
もちろん、見えないからといって発動できないわけではない。座標を特定して魔法を発動させることもできる。
だったら、一言こう叫べばよい。
「みんな、隕石が降ってくるよ! 動いて!」
本当に動く必要はない。バグナードにその可能性を認識させれば十分だ。
バグナードは、命中する保証のない盲目撃ちで、無駄に魔法を使うタイプではない。しかも奥義といえる大魔法を使っておいて、空振りしましたではいい笑いものだ。
そんな状況には絶対に耐えられまい。その点に関して、ルージュは相手のプライドの高さを確信している。
彼の次の行動は、魔法の闇を解呪するか、闇の外に移動するかの二択。攻撃魔法は使えない。
事実上、バグナードの魔法をひとつ無力化した瞬間だった。
そうして手に入れた1ラウンドを、ルージュは無駄にしなかった。
『風の咆吼、光の疾走、始源の巨人の大いなる息吹……』
唱えるのはもっとも使い勝手の良い、彼女の得意とする呪文だ。
隻腕の騎士、赤髪の戦士、屋敷の主人と順番に視線を流し、目標を定める。
唐突に、ルージュの生み出した闇が消えた。
バグナードが解呪したのだろう。
(ほう、反応が早いな)
(さすがバグナードね。だけどもう、遅い)
先手を封じられた段階で、バグナードの行動順はルージュの後。イニシアチブは彼女にある。
天地に満ちるマナを操り、強大な魔法を準備する彼女を妨げるものは、何もなかった。
「降伏しろ。その傷じゃ、もう戦えないだろ」
右肩から左わき腹に、袈裟掛けに負った重傷。
大きく開いた傷口から血があふれ、足をつたって大地に黒々とした池を作っていく。
答えようとして咳き込み、口からも吐血しながら、ラスカーズは嘲った。
「甘いことだな、シン・イスマイール。ためらわずに殺せばよいものを」
大量の出血で、意識が朦朧としているのだろう。杖代わりの細剣に寄りかかり、揺れる視界に目を細めて、もはや立つこともおぼつかない様子。
そんなラスカーズに、シンは苛立たしげに繰り返した。
「俺は人を殺すために戦ってるわけじゃない。降伏して誓え。もう二度とレイリアには手を出さないと」
「断る」
ふらつく足で大地を踏みしめながら、隻腕の騎士は苦痛の中で嗤ってみせる。
「覚えておけ。貴様の、その甘さが命取りだとな」
まだ何かするつもりか?
シンはあまりにも邪悪な気配に身構えたが、相手は満足に立つことすらできない瀕死の重傷だ。何をしたところで、シンに通用するとは思えなかった。
「無駄な抵抗はやめろ。本当に死ぬぞ!」
「……実に愚かだな、シン・イスマイール」
苦しそうに喘ぎながら、ラスカーズが天を仰いだ。
その顔に浮かんでいるのは陶酔だ。死と破壊をまき散らしてきた美貌の騎士は、自分自身の痛みと流血にすら、快感を覚えているのだろうか。
うわごとのように何かをつぶやき、そして再びシンを見たとき。
その目には、殺戮への期待にあふれた、あの残忍な光が浮かんでいた。
「貴様の負けだ」
何の前触れもなく、灼熱感がはじけた。
シンの上体から熱い液体が吹き出し、漆黒の衣をさらに黒く染める。
未だかつて味わったことのない感覚だった。自分の身体から生命がこぼれるように、魂が軽く、身体が重くなってゆく。
思わず胸を押さえた手が、真っ赤に染まっていた。
血だ。
それを認識した瞬間、全身を激痛が駆け巡った。
「な……ッ!」
右肩から左わき腹にかけて、ラスカーズと同じ位置に裂傷ができていた。失った血の分だけ意識が薄くなり、ふわふわと浮くように、あらゆる感覚が遠くなっていく。
まずい。直感的にそう思ったとき、すでにシンは地面に両膝をついていた。
うずくまって自分の身体を抱いたまま、何とか顔を上げる。
そこで見た光景に、シンは目を疑った。
ラスカーズが負っていた重傷が、みるみるうちに塞がっていくのだ。
「私の傷を、貴様に移させてもらった。気分はどうかな、シン・イスマイール?」
完治とはいかないまでも、戦闘に支障がない程度には回復したのだろう。
ラスカーズは地面に突き立っていた細剣を引き抜き、軽くひと振りする。刃に付いていた血が散って、シンの頬に紅い染みをつくった。
「最低、だ」
気が遠くなるが、傷が痛すぎて気を失えない。
だがその痛みさえもゆっくりと希薄になっていく。もどかしい感覚は拷問そのものだ。
「そうか。だが楽には殺さんぞ。たっぷり苦痛と絶望をくれてやる。せいぜい自分の甘さを呪うことだ」
ラスカーズの言葉は、文字通りの死刑宣告。何とかしないと本当に殺される。
手はまだ剣を持っているのか?
まるで握力を感じない両手で、必死に剣を構えようとする。
霞む視界の中でラスカーズが嘲った。
何か言っている。何と言った? よく聞こえない。
何度も目をしばたかせた時、シンの視界を青白い閃光がうめつくした。
『万能なるマナよ! 雷の縛鎖となれ!』
その呪文を聞いたのは今日2度目。
思わず身構えたライオットのすぐ横を、空気を震わせながら電撃が駆け抜ける。
痛みの記憶がフラッシュバックしたのだろう。赤髪の戦士は顔をひきつらせたが、もちろん回避するすべなどない。
殺到した青白い光はアンティヤルを飲み込み、電撃の網で全身を絡め取っていた。
「おのれぇぇぇッ!」
沸きあがる憤怒の絶叫。
赤褐色の筋肉が盛り上がるが、激しく明滅する雷の縛鎖は小揺るぎもしない。
重量級の戦斧が、地響きをたてて大地に転がった。
完全に無防備。
千載一遇の好機だ。今なら何の造作もなく心臓を貫ける。
別に1対1で試合をしているわけではない。敵は邪教の刺客。自分を殺すとまで宣言した敵だ。この機会を逃せば、死ぬのは自分の方かもしれない。
理性は全力で主張した。
ためらわずに殺せと。
剣を水平に構え、切っ先をまっすぐ心臓に向ける。
そのとき、視線が交錯した。
アンティヤルの顔に浮かんでいたのは、力を出し切ることなく殺される現実への怒りと、避けられない死という運命への諦めだ。
ライオットは眦をつりあげ、奥歯を噛みしめる。
バカなことは考えるな。ここは平和な日本じゃない。安っぽい騎士道精神を発揮しても、しっぺ返しを食らうだけだ。
自分に言い聞かせる。
迷っている時間はない。またすぐバグナードに解呪される。そうなったらルージュの援護が台無しだ。
名前をつけられない感情が膨れ上がり、胸の中で爆発する。
ライオットは大きく息を吸い込み、叫んだ。
「くそッ! バカか俺は!」
構えていた剣を引き、視線を横に転じる。
ラスカーズが同じように雷に囚われ、その前ではシンが苦しそうにうずくまっていた。互角以上に戦っていたはずだが、目を離した隙に一太刀あびたようだ。
「マイリーよ、勇者の傷を癒したまえ!」
祈りはすぐに効果を現し、シンの顔から苦痛が消える。
すぐさま立ち上がったシンが、視線を前に向けたまま言った。
「悪い、助かった」
「おう」
短く言葉を交わしたその時、アンティヤルとラスカーズを縛っていた雷も消滅する。
ルージュが先手を取ったようだが、さすがはバグナード。好き放題にはやらせてくれない。
逃した好機はいかに貴重だったか。ライオットは自分に蹴りを入れたい気分だった。
「おのれ、小娘めが……」
全身を焼く激痛から解放されたラスカーズが、ルージュをにらみつけて低く呪いの言葉を漏らす。
シンの一撃とルージュの雷は、決して小さくない傷を負わせたようだ。
赤髪の戦士はさらに重傷だ。赤褐色の肌には、まだらになるほど広く火傷の跡が残り、鬱血してケロイド状の傷になっている。
だが自分の傷に頓着する気配もなく、アンティヤルは唸った。
「小僧、なぜ殺さなかった?」
地面に落ちた戦斧を拾おうともせず、ただまっすぐに目の前の戦士を見る。
「知るか。自分でもバカなことをしたと思ってるよ」
ライオットは舌打ちしながら答えた。
言い訳はいくらでもできる。だが一言で言えば、理由は簡単。
ライオットは人を殺したくないのだ。
ここは平和な日本ではない。自分の認識は甘い綺麗事で、この世界の現実にはそぐわないのだろう。
ゲームとして遊んでいた今までのキャンペーンでは、数え切れないくらいの敵を殺してきたのも事実だ。
策を巡らすのは嫌いじゃないし、その通りに状況が動いて成果が上がれば、正直嬉しいと思う。
それでも、現実に自分の手で剣を振るい、自分の手で人の命を断つという行為は、ライオットの中で越えられない一線の向こう側に位置していた。
シンが剣で殺すのはよくて、ルージュが魔法で殺すのはよくて、自分が直接殺すのは駄目なのか。
それでは単なる卑怯者だ。仲間たちを都合よく利用しているだけではないか。
その思いは、常にライオットの深層に根付いている。仲間の盾となって全ての攻撃から庇うという立ち位置を免罪符に、今までは何とか自分をごまかしてきた。
だがアンティヤルの視線は、その嘘を暴きたててライオットに突きつける。
内面の迷いをどこまで読みとったのか、アンティヤルは犬歯を剥き出して笑うと、ゆっくりとした動作で戦斧を拾った。
「なるほど、小僧。貴様には戦う理由がないのだな。ならば俺様が理由をくれてやる」
「……?」
盾を構えて攻撃に備えながら、ライオットが怪訝そうに眉をひそめる。
次の瞬間、アンティヤルは雄叫びをあげると、ルージュに向かって駆けだした。
間にいるシンとライオットには目もくれない。振り上げた戦斧は銀髪の女性魔術師だけを狙っている。それを悟って、ライオットの心臓が跳ね上がった。
「どこを見ている、シン・イスマイール! 貴様の相手はこの私だ!」
立ち塞がろうとしたシンに、ラスカーズの剣が嵐となって襲いかかる。完全に足を止められた親友を横目に、ライオットは全身が熱くなるのを感じていた。
そうだ、忘れていた。自分が戦う理由など、最初からたったひとつ。
それは敵を倒したいからでも、悪を成敗したいからでも、邪教を殲滅したいからでもない。
「そうかい! ありがとうよ、理由をくれて!」
腹の底から声が出た。
盾を構える左腕にも、剣を握る右腕にも、震えるほどの力が湧いてくる。
今度こそヘマはしない。そう妻に誓った言葉を、もう一度噛みしめた。
それを見たアンティヤルが獰猛に笑う。
先ほどまで手足を縮めた亀のように、防御力抜群だが攻撃力ゼロだった小僧が、今は違う。
間合いに入ったものは即座に両断しようという殺気が漂い、全く迷いがない。
戦斧の一撃でライオットを倒せれば、自分の勝ち。
それを受けられれば、続く反撃で自分の負け。
単純で無慈悲な未来。
「いいぞ小僧! 俺様を楽しませろ! これこそ戦いだ!」
歓喜の叫びを上げ、戦斧を握る両腕に渾身の力を込めて、真正面から叩きつけた。
あまりの威力に空気が割れ、重い風切り音が鳴る。
「負けるか!」
腹に力を込め、歯を食いしばって、ライオットは真正面からそれを受けた。
白銀の盾が火花を散らし、耳障りな衝突音が響く。
迫力といい質量といい、攻城兵器が城門を穿つような一撃だった。
あまりの重圧に全身が軋む。鉄靴が地面に沈み、筋肉が悲鳴を上げる。
それでもライオットは、アンティヤルの戦斧を受けきった。
鋭い視線が赤髪の戦士を射抜き、即座に反撃に転じる。
『炎よ!』
下位古代語のコマンドワード。
純白の刀身に刻まれたルーンが輝き、秘められた魔力を解放した。魔剣“フレイムブリンガー”。一瞬で刀身が真紅に染まり、刃を魔法の炎が取り巻く。
そのとき、光の奔流が再び前線を蹂躙した。ルージュの攻撃魔法だ。
数え切れないほどの光の矢に打ち抜かれ、アンティヤルが苦痛のうめき声をあげる。
ライオットにもう躊躇はなかった。
動きを止められ、無防備になった脇腹を、容赦なく炎の魔剣で打ち抜く。
肉を裂き、骨を断つ感触。
威容を誇っていた赤髪の戦士の巨体が、バランスを失ってゆっくりと傾いていった。
ラスカーズ、アンティヤル、スーヴェラン。
前線の戦士たちに掛けた雷の縛鎖は、即座にバグナードが解呪してしまった。
だが、これでいい。戦闘が始まってからというもの、脅威となる10レベルソーサラー相手に、ルージュは《ディスペルマジック》以外の魔法を使わせていない。
あとは夫と親友を信じて、援護を繰り返すだけだ。
持っている中で一番大きな魔晶石を握りしめ、杖を振りかざして次の魔法を唱える。
唱える呪文はまたしても1レベル。詠唱はすぐに終了した。
『万能なるマナよ、光の矢となれ!』
周囲のマナが1点に集中し、白い光が灯る。
ルージュの強大な魔力で生成した《エネルギーボルト》は、1レベルソーサラーのものとは格の違う破壊力を内包している。命中すればただでは済まないだろう。
「とはいえ、所詮は初級の呪文よ。魔力を使い果たしたか?」
雷の縛鎖を解呪して、バグナードが嘲った。
もっとも、その表情に決して余裕はない。度重なる魔法の使用で、精神と肉体への苦痛は無視できないダメージとなっている。
長期戦で不利なのはバグナードの方なのだ。杖を構えなおし、今度こそ致命的な一撃を見舞おうとする“黒の導師”。
だがルージュの答えは、うっすらとした微笑だった。
「本気でそう思ってる?」
次の瞬間、空間が歪むほどのマナが集中し、一斉に渦を巻いた。
ルージュの頭上で続々と光の点が生まれていく。その数は5を超え、10を超え、20を超えてまだ増えていく。
「なんと……」
非常識としか言いようがないルージュの行為に、バグナードが絶句した。
初級の魔法であっても、高位の魔術師が相応な魔力を注ぎ込めば、その効果を拡大することができる。
だが、初歩といえる最下級の攻撃魔法に、これほどの魔力を浪費するなど考えられない愚挙だった。
そして驚くべきは、その魔力量だ。並の魔術師では10を超える矢を作ることなど不可能。今のバグナードでも、全力で20を超えるかどうかというレベルだ。
それをこの女性魔術師は、30に届かんとする数の光を生み出して見せた。
下級の魔法とはいえ、これほどの数を一斉に浴びせれば、急所を貫くものもあるだろう。雷の魔法で傷ついたラスカーズやアンティヤルが、それに耐えられる公算は低い。
「いくわよ、黒の導師。魔力の貯蔵は充分かしら?」
光り輝く無数の矢を背にして、ルージュが冷たく問いかける。
バグナードが思わず身構えると、口許にうっすらと笑みを浮かべたまま、ルージュは杖を振りおろした。
光の奔流が前線を蹂躙し、戦士たちのうめき声が上がる。
魔法による飽和攻撃。それは生命を削り取るには至らなかったものの、十分すぎる援護射撃となったようだ。
アンティヤルは致命傷を受けて膝をつき、ラスカーズも満身創痍で荒い息をしている。
前線の戦士が倒れた方が負け。それがこの戦いの核心。
ルージュがもたらした惨状を苦々しげに眺めながら、自分たちが敗北の縁に立たされたことを、バグナードは認めざるを得なかった。
司祭長が自ら介入すれば、ここからでも勝ちを拾い直すことはできる。だがここに“砂漠の黒獅子”がいる以上、司祭長が姿を見せることはないだろう。
アラニアの宮廷を混乱させるという目的は達した。これ以上ここで戦うことは無意味だ。勝ったところで得るものはないし、退いたところで失うものもない。
「今夜はこれまでといたしましょう、導師様」
どうやら、司祭長も同様の結論に達したらしい。
何処からともなく流れてきた声は、彼らに撤退を促すものだった。
「ラスカーズ。アンティヤル。もう充分です。疾く導師様の元へ」
その命令に、戦士たちは悔しそうな表情を浮かべるが、逆らうそぶりはない。傷を押さえながら足を引きずり、バグナードの所へと後退してくる。
これ以上の深追いは危険だ。視線を交わしてシンとライオットは相手を見送ったが、それでは収まりのつかない者たちもいた。
「逃がすか! 奴らを捕らえよ!」
この戦いで少なからず犠牲を出した衛視隊が、一団となってバグナードに襲いかかったのだ。
「待て、お前たち!」
ルージュの援護を受けてスーヴェラン卿を打ち倒し、地面に押さえつけていたベデルが、慌てて声を上げる。
だが、止める間もあらばこそ。
衛視のひとりが掲げていた松明が、大きく不自然に揺らめいた。
この場に精霊使いがいれば、炎の中で火蜥蜴が身じろぎしたのに気づいただろう。
松明は一瞬で燃え上がり、花火のように弾けて庭中に広がった。地面に落ちた炎は、まるで生き物のように縦横無尽に走り抜け、驚いた衛視隊が足を止める。
炎の舌は敵味方を隔てるように広がった。
ほんの一瞬の静寂。
後日の再戦と雪辱を誓って、3対の視線が睨み合う。
言葉はない。
次の瞬間、轟音とともに燃え上がった炎が、長大な壁となって屋敷を覆い隠した。
高さ3メートル、長さ10メートルにわたる炎の壁。
それが赤々と庭を照らすのを、衛視隊は腰を抜かして見上げるしかなかった。
こうなってしまっては、もう追撃は不可能だ。
「《スピリットウォール》か。精霊使いまでいるのかよ」
手をかざして熱を遮りながら、シンが舌打ちした。
正直、訳が分からない。
この屋敷の主人はラスター公爵の腰巾着で、公の歓心を買うためにラフィットを襲ったのではないのか。
カーラはそれを知った上で、責任を邪教に押しつけたとばかり思っていた。
ところが蓋を開けてみれば、シンたちが死力を尽くして戦った相手は、ラスカーズをはじめとするカーディス教団の司祭たちだ。
「まあ、詳しい話はスーヴェラン卿とやらを締め上げて、カーラが吐かせるだろうさ。俺たちの役目はここまでだ」
炎の魔剣を鞘に納めて、ライオットがほっと一息つく。
ろくな準備もなしに罠の中に飛び込んで、何とか生き残った。
この戦いがもたらした結果とか、その後の展開とか、難しいことは明日考えよう。
とりあえず今夜は、宿に戻って毛布にくるまり、ベッドで眠ることができる。
今はそれで充分だった。
「んじゃ俺、衛視隊の人たちを治療してくるわ。助からない人もいるだろうけど、息がある人なら何とかなるし」
言ってきびすを返したライオットに、ルージュが硬い声をかけた。
「待って、ライくん。まだ終わってないみたい」
震える紫水晶の瞳が、驚愕と畏怖に見開かれて、屋敷の方向を見上げている。
その視線を追って、シンが、ライオットが、ベデルや衛視隊が、恐怖に顔をひきつらせた。
囂々と燃える炎の壁の中から、巨大な腕が伸びていた。
サラマンダーが燃え上がらせた炎を門にして、精霊界への扉が開いたのだ。
右腕に続いて左腕が、頭が、胴体が、炎の壁の上に顕現する。
3階建ての屋敷より大きな炎の巨人。
シンの部族が守護神とあがめる存在。
破壊を司る炎の精霊王。
「イフリート……」
シンがうめいた。
見ただけで分かる。
これは、人間とは格の違う存在だ。戦おうなどと考えるだけで不遜。相手がちょっとその気になっただけで、10レベルだろうと何だろうと一瞬で殺される。
そういう存在だ。
誰もが指一本すら動かせず、ただ見上げる中、イフリートはゆっくりと右腕を振り上げた。
炎で構成された顔が大地を見下ろし、一点に視線を向ける。
その先にいたのはベデルだった。
スーヴェラン卿を地面に押さえつけたまま、ただ呆けたように、自分を見下ろす炎の巨人を見上げている。
「全員逃げろ! 門から外へ! 早く!」
ライオットが叫んだ。
その怒声は庭中に響きわたり、硬直した思考を張り飛ばす。
思考停止に陥っていた全員が、具体的な指示を聞いて反射的に従った。腰を抜かしていた衛視たちがあわてて立ち上がり、持っている武器を投げ捨てて全力で駆け出す。
シンやルージュも例外ではない。ライオットにせき立てられてイフリートに背を向け、ルージュが破壊した門から転がるように外に飛び出した。
「ベデルさんは?!」
「知らん!」
ルージュの疑問に怒鳴り返しながら、ライオットは肩越しに振り返る。
必死の形相で走ってくる髭の隊長。
イフリートが追いかけてくる様子はない。炎の精霊王は先ほどと同じ場所を見下ろしたまま、振り上げた腕を地面に叩きつけた。
灼熱の炎が嵐となって吹き荒れ、熱風が渦巻いて、辺りにある物を手当たり次第に飲み込んでいく。
庭の木々が炎に包まれたかと思うと、一瞬で炭化して粉微塵に吹き飛んだ。動けない負傷者や逃げ遅れた衛視たちは、悲鳴すら上げられずに燃え上がる。彼らの生存は絶望的だろう。
地面が真っ赤に焼け、煮えたぎっていた。
エフリートは炎の嵐の中で、地面に潜るようにゆっくりと姿を消していく。
何とか門の外に逃げきったベデルは、地面に両手をつき、肩で息をしながら、呆然とその光景を見つめていた。
しばらく、誰も口をきけなかった。
目にした光景のあまりの理不尽さに、口にする言葉が出てこなかった。
それでも、どうやら自分が助かったらしいと理解すると、少しずつ理性が働き出したようだ。
生き残った衛視隊は点呼を行い、損害の確認を始める。
しばらくして生存者の数を取りまとめると、蒼い顔をした下級指揮官がベデルの元に報告に来た。
「隊長。突入部隊30名のうち、脱出できたのは9名のみです」
このわずかな時間で20名以上の犠牲者が出たことになる。ついさっきまで言葉を交わしていた部下たちの死に、ベデルが表情を歪めた。
「……分かった。突入部隊は任務を解除、負傷者を後送せよ。包囲部隊は現任務続行だ。20名抽出して、炎が収まったら屋敷内を検索する。各部隊に連絡しろ」
「はっ」
苦い顔で指示を与えたベデルは、怒りと無力感を同居させたやるせない様子で、傍らの冒険者に乾いた笑みを向けた。
「これが魔法か……恐ろしいものだな」
為すすべもなく大勢の部下を失った男の言葉。
あまりにも重い言葉に、シンたちは何も答えられなかった。
今回は衛視隊が一緒だったから、邪教の司祭たちを撃退することができた。
だが、敵がレイリアを狙っている以上、第二第三の襲撃は必ずある。
そのとき、自分たちだけで、敵を追い払うことができるのか?
圧倒的な破壊力をまざまざと見せつけられて、シンは心に不安が広がっていくのを抑えられなかった。