マスターシーン
もう日が暮れるというのに、その薄暗い部屋にはランプのひとつもなく、ただ窓から差し込む残照だけが唯一の光源だった。
窓の外には、夕日を浴びて黄金に輝く王宮が見える。
この国の繁栄の象徴。
そして薄暗い部屋に集ったモノたちにとっては、打倒すべき体制の象徴だ。
「宮廷魔術師殿が、ロートシルト男爵夫人襲撃事件の黒幕を突き止めたそうです」
陰鬱な空気をふるわせて、司祭長が皮肉っぽく告げた。
「ほう。して、犯人は何者なのです? ラスター公にせよ、ノービス伯にせよ、我らにとっては都合がよい話になりますが」
応じたのは隻腕の騎士だ。
雪白の肌に妖艶な美貌。一見すれば美々しい武者ぶりだが、男の表情にはまるで毒華のような、危険な匂いが強く感じられる。
「実行犯はスーヴェラン卿の手の者。そして卿は邪神カーディスの教団に荷担しているとか」
司祭長は言うと、見る者を凍りつかせるような冷笑を浮かべた。
「つまり、男爵夫人を襲わせたのは我らということになります」
まったく。貴族同士で諍いをしている分には大歓迎だが、その責任をきっちり他人に押しつけるあたり、アラニアの宮廷には恐れ入る。
カーディス教団よりよほど腹黒い人材が揃っているではないか。
「ふざけやがって! 宮廷の奴ら、一人残らず皆殺しにしてやる!」
身の丈2メートルを超える巨漢が、野太い怒声をあげた。
分厚い筋肉で盛り上がった赤銅色の肌。獣の皮で腰回りを覆った蛮族の戦士だ。両手持ちの巨大な戦斧を背負った姿は、かの“砂漠の黒獅子”さえ凌駕するほどの迫力を漂わせている。
「落ち着きなさい、アンティヤル。これは我らにとっても好機なのですよ」
猛獣をなだめる飼い主のように、司祭長が目を細めて部下を制する。
「スーヴェラン卿が邪教の手先だというなら、そのようにして差し上げればよいのです。宮廷の貴族たちは驚くでしょう。まさか本当に、ここまで邪教の勢力が広まっていたとは、と」
そうなれば、あの切れ者の宮廷魔術師も、事の真相を調べないわけにはいかない。ありもしない邪教との繋がりを求めて、無駄な労力と時間を費やすことになるだろう。
「なるほど。その分だけ我らへの詮議が疎かになる、というわけですな。さすがは司祭長様」
空の右袖を揺らしながら、騎士ラスカーズが追従の笑みを浮かべる。
唇をつり上げた隻腕の騎士に、司祭長は冷たい微笑を返した。
「スーヴェラン卿の屋敷には、今夜にも衛視隊が踏み込むでしょう。ラスカーズ、アンティヤル、そなたたちに命じます。“同志”スーヴェラン卿を助け、衛視隊を皆殺しになさい」
「はっ」
「おう、任せろ」
美貌の騎士は優雅に頭を下げ、蛮族の戦士は傲然と胸を張る。
その様子を静かに眺めると、司祭長は言葉を続けた。
「ラスカーズ。このアラニアの地には、転生者は未だ我ら3人のみ。それゆえ前回の失態は不問としました。ですが、我らの女王に剣を向けるような狂犬は、本来なら駆除の対象なのです。もう次はありませんよ?」
穏やかな口調だが、部下に向ける視線には殺意さえ込められている。
騎士はさらに低く頭を下げた。
「肝に銘じて」
しばし無言でその姿を見下ろしていた司祭長は、その場にいた4人目の男に向き直った。
「導師様。今回も御協力をいただけますか?」
「乗りかかった船だ。助力は惜しまぬ」
そう答えたのは、漆黒のローブを着た長身の魔術師。名をバグナードという。
しばらく前にふらりと現れ、『墓所』の情報と引き替えに庇護を要求してきた。以来食客のような身分で司祭長の屋敷に匿われているのだが、どうやら司祭長らの持つ転生の魔力に興味があって近づいてきたらしい。
別に探られて困ることでもなし、聞かれれば教えてやっても構わないのだが、今のところは黙って協力し、教団に貸しを作ることに腐心している様子だった。
司祭長にとっては役に立つ手駒がひとつ増えたようなもの。おとなしくしている間は、せいぜい利用させてもらおう。
「御協力、感謝します」
形ばかりは礼儀正しく頭を下げる。
そして顔を上げたとき、司祭長は暗い期待に満ちた微笑を浮かべていた。
この王国に待ち受ける動乱の時代への。
宮廷の混迷への。
そしてささやかとはいえ、その贄に供される数十の断末魔への。
シーン6 スーヴェラン卿の屋敷
「あ~、さすがに緊張するな」
気配を殺して物陰に身を潜めながら、ライオットが小声でつぶやいた。
細く長く吐いた息が、王都の闇の中にそっと溶けていく。
遠く歓楽街から響いてくる喧噪。
用水路で合唱する虫たちの声。
降りそそいだ月光までもが音をたてそうな、そんな静かな夜だった。
銀蹄騎士スーヴェラン卿の屋敷。その正門を覗き見ながら、シンたちは路地裏に身を潜めている。
姿は見えないが、付近には衛視隊も配置についているはずだ。
正門付近に30名、裏門と通用門に20名ずつ。それに突入部隊が30名。部隊の指揮を執るのは、先日の男爵夫人襲撃事件で世話になったベデル隊長である。
「やばい。俺、心臓が破裂しそう」
何度も手を握ったり開いたりしていたシンが、親友の弱音に同調する。
戦うのはこれが初めてではないが、こんなに緊張したのは初めてだった。
今までは身構える間もなく実戦に放り込まれ、無我夢中で剣を振るってきたから、緊張とか恐怖をじっくりと味わう余裕などなかったのだ。
誰かを守る戦いばかりだったから、心に迷いがなかったのもいい方向に作用していたのだろう。
だが今回は違う。
今回は不意打ちの先制攻撃であり、開戦のタイミングはベデル隊長の命令次第。それまでじっくりと緊張に身を焦がさねばならない。
胃にヤスリをかけられるような時間が、もうどれくらい過ぎたのだろう。明らかに健康に悪い経験だ。
「そう言うわりには、ずいぶん余裕があるじゃないか」
「最初に比べればな。けどお前ほどじゃない」
シンは小声で軽口を叩きながら、何とか緊張を解そうとしている。
戦えるようになることを成長と呼んで良いのかどうか、ライオットには分からない。
だがレイリアを守って戦うと決めた以上、恐怖に打ち勝つ胆力は絶対に必要なものだ。シンがそれを身につけていくという事実は、喜んでもいいだろう。
ライオットが親友の変化に思いを馳せていると、後方を警戒していたルージュが、そっとささやいた。
「リーダー、ライくん。ベデル隊長が来たよ」
振り向けば、3名の部下を引き連れた髭の隊長が、小走りに駆け寄ってくるところだった。
衛視隊の指揮を執るベデルは、年齢40歳くらい。上品な口髭にオールバックの紳士然とした男だが、今夜は鎧兜に身を包んだ完全武装。先日とはずいぶん印象が違う。
一緒に走ってくる衛視たちも同様だ。制服の上から鎧や盾を身につけ、手にした武器も小剣や戦槌など、屋敷内での戦闘に向いたものばかり。今夜は文字どおりの実戦装備だった。
出で立ちからして、彼らの本気が伝わってくる。
「お待たせした。こちらの準備は完了だ。ルージュ殿、予定どおりいけるか?」
ベデルは身を低くすると、押し殺した声をルージュに向けた。
「一撃でいけるかどうか、自信ありませんけど。全力を尽くします」
いよいよ出番が近いらしい。
魔法樹の杖を握り直したルージュが、硬い表情でうなずく。
ベデルはうなずくと、シンたちに向き直った。
「最後にもう一度だけ手順を確認しよう。まずルージュ殿が正門を破壊する。続いて突入部隊のうち10名が先行する。シン殿とライオット殿がそれに続き、屋敷の前庭を制圧した後、後続の20名が屋敷内に突入する。後続部隊は5名ずつ4班に分けて屋敷内をそれぞれ探索、スーヴェラン卿を発見したら合図の警笛を鳴らし、シン殿たちはそこに急行していただく。よろしいか?」
「了解」
「分かった」
シンとライオットが首肯する。
どこから見つけてきたのか、衛視隊は屋敷の見取り図まで入手して、班ごとに探索する部屋の順序まで決めてあった。
スーヴェラン卿が夕方に帰宅して以降、外に出ていないのは確認済みだ。発見までそう時間はかからないだろう。
「ではゆっくり50ほど数えたら、ルージュ殿の魔法をお願いする。門の破壊を確認したら、私は先行部隊とともに突入する予定だ。お前たちは外周部隊に伝令。爆発を合図に状況を開始せよ、と」
「はっ」
ベデルが部下に命令すると、3名の衛視たちはそれぞれの部隊に走っていった。合図があったら、外周部隊は水も漏らさぬ包囲網を構築する手はずだ。
「それではルージュ殿、頼みましたぞ」
「は、はい」
緊張にこわばった様子のルージュを見て、ベデルは返しかけた足を止め、小さく笑った。
「大丈夫だ、ルージュ殿。緊張するのは我らも同じ。かく言う私も足が震えている」
今回の相手は、ストリートで刃物を振り回すだけのチンピラとは格が違う。王国貴族のエリート中のエリート、剣も魔法も使いこなす銀蹄騎士だ。特にスーヴェラン卿は導師級の魔術師として知られている。
正面から戦えば犠牲は免れないだろう。
「それでも、我らは独りではない。仲間がいる。だから戦えるのだ。それだけは忘れるな」
渋みがかった笑みをひとつ残すと、ベデルは突入部隊の指揮を執るため、路地の向こうに姿を消した。
それを見送ったシンが、感心してつぶやく。
「仲間がいるから戦える、か。確かにそうだよな」
ルージュに向けられた言葉は、シンの腑にもすとんと落ちて、不思議なくらい気が楽になった。
今まで、自分の中の恐怖心を克服するには、自分が強くなるしかないと思っていた。
だが、違うのだ。
そんな時にこそ、仲間の存在が助けになってくれる。こいつと一緒なら大丈夫という想いこそが、恐怖心を切り裂く最強の剣なのだ。
「大丈夫だ、ルージュ。君は俺が守るよ。オーガー騒ぎの時は油断したけど、今度こそヘマはしない。約束する」
不安と緊張に震える妻の肩に、ライオットが手を載せ、力強く宣言する。
ルージュは少し驚いた様子で夫を見上げたが、やがて悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、ライくんは私が守ってあげる。教会で誓ったもんね。病めるときも、健やかなるときも、互いを支え助け合うって」
「そうだったな」
そっと手を握り、互いを見つめて微笑み合うライオットとルージュ。
人生を重ね、共に歩むと決めた夫婦の絆。
その強さを羨ましそうに見て、シンは肩をすくめた。
「はいはい、ごちそうさま。少しは独り者にも気を遣えよ。目の毒だぞ」
ひらひらと手を振る親友に、ライオットがにやりと笑った。
「羨ましいだろ? 今度はレイリアもいるときに見せびらかしてやる」
その言葉に、思わず笑い声が弾け。
3人を包んでいた焦燥感は、嘘のように消え去っていた。
後に残ったのは、今ならいけるという高揚感。気負うでも焦るでもなく、不思議なほど抑制の効いた心理状態で、ルージュはすっと立ち上がった。
「じゃ、そろそろ始めようか」
仲間たちが頷くのを見ると、魔法樹の杖を握り直し、呪文を詠唱を開始する。
遠い神話の時代に、神々が世界を創造するために使ったという“力ある言葉”。
古代王国の魔術師たちは不完全ながらもそれを模倣し、大地に満ちるマナに干渉する術を得た。その言葉を上位古代語と呼び、発生する事象を古代語魔法と呼ぶ。
ルージュが操る魔術は、言うなれば小さな世界の創造なのだ。
『火竜の息吹、不死鳥の翼、始源の巨人の憎しみの心……』
繊細な音律の呪文に導かれて、周囲のマナが寄り集まってくる。
マナは魔法樹の杖によってさらに増幅され、ルージュのイメージした構成に乗って渦を巻いた。渦の中心で収束されたマナは紅い輝きを宿し、それは次第に強く、明るくなっていく。
風が生まれた。
強大な魔力が物理力を伴って世界に干渉し、ルージュのローブをはためかせる。初めは蝋燭ほどだった輝きが、もはや直視できないほどの光量を発していた。
迫力満点の攻撃魔法の発動に、シンやライオットも息を飲む。
ひとりの人間がこれほどの現象を引き起こせるなど、とても信じられなかった。
魔術師が忌み嫌われるのも無理はない。この現象を見ただけで理解できる。
彼らの力は、普通の人間が対等につき合うには、あまりにも強大すぎるのだ。
「準備はいい? いくよ!」
今にも暴れ出しそうになるマナを意志の力で捻じ伏せ、さらに魔力を注いで圧縮しながら、ルージュが叫ぶ。
シンとライオットは剣を抜いて身構えた。
反対側の路地でも白刃がきらめく。顔を出したベデル隊長が親指を立て、準備完了の合図を送ってきた。
「よし、いつでもいいぞ」
ライオットの言葉に視線だけで応えると、ルージュはトリガーとなる最後の一節を高らかに唱えた。
『万能なるマナよ! 破壊の炎となれ!』
限界まで引き絞った弓を放つように、ルージュが杖をまっすぐ正門に向けた。
紅の閃光が闇をつらぬき、屋敷の正門に吸い込まれる。
ほんの一瞬の静寂。
次の瞬間、爆炎が正門を押しつつみ、轟音と地響きが大地を揺るがした。粉々に吹き飛んだ正門が路上に散乱し、焼け焦げた木材がオレンジ色の尾を引いてシンの頭上にまで降ってくる。
「今だ! 行くぞ!」
まだ爆発煙の収まらぬ正門に剣を向けて、ベデルが叫んだ。10名の衛視たちがベデルに続き、喊声を上げて屋敷に突入していく。
あまりの迫力に呆然としていたライオットも、我に返って立ち上がった。
「シン、行けるか?」
「ここまで来たら、行くしかないだろ」
シンたちよりもはるかに弱い衛視たちが、危険を承知で突入したのだ。この土壇場まで来て、彼らを見捨てるわけにはいかない。
「ああくそ、やっぱりやめときゃよかったかな!」
ほとんど破れかぶれになって、シンが屋敷へと駆け出す。
肩を並べて走りながら、ライオットが応じた。
「男の格好良さってのは、虚勢とやせ我慢だ! 今のお前は、最高にカッコいいぞ!」
「男に褒められても嬉しくない!」
大声で軽口を交わしながら、衛視たちに続いて正門に突入する。
ルージュの魔法による破壊の爪痕は、優に直径5メートルを超えるだろう。木製の門は完全に吹き飛び、地面は真っ黒に焼けて小さなクレーターが出来上がっている。
どうやら門衛はいなかったようだ。前庭にも敵の姿はなく、完全な奇襲攻撃となったらしい。
広い前庭の向こうには、瀟洒な造りの洋館が見えた。
2階建ての屋敷は所々で明かりが揺れ、騒がしく人が動く気配がするから、間もなく迎撃が始まるに違いない。
「今のところは予定どおり、順調だな」
前庭の中央部で辺りを警戒しながら、遅れて走ってきたルージュと合流する。
前衛にシンとライオット。後ろでルージュが援護するという、いつもの戦闘隊形。キースとレイリアがいないのは痛いが、今それを言っても仕方がない。
四方に散った衛視隊が前庭を検索している間に、ルージュは《カウンターマジック》《シールド》《プロテクション》と支援魔法を矢継ぎ早にかけていく。《ファイアーボール》と合わせて、魔法樹の杖に貯蔵されていた魔力の7割を消費したが、まだ大丈夫。自前の精神点や魔晶石には余裕がある。
「前庭は制圧した! 突入隊、前へ!」
シンたちが戦闘準備を整えたころ、ベデル隊長が大声で後続部隊20名を差し招き、号令した。
両開きの大きな玄関に部隊が集合すると、目配せを交わして衛視たちが扉に手をかけ、一気に開く。その訓練された無駄のない動きは、まるでSATの特殊部隊のようだ。
開け放たれた扉から、5名ずつ4組の突入部隊が飛び込もうとした、刹那。
『雷よ』
轟ッ!
鳥肌がたつような大気の震えとともに、純白の輝きが玄関から奔った。
魔法の雷が嵐となって荒れ狂い、扉の前にいた衛視たちをまとめて薙ぎ払う。
超高電圧の電撃に貫かれた衛視たちから、肉の焼ける臭いと絶叫が広がった。
苦悶してのたうち回る衛視たち。ただの一撃で10人以上が無力化されていた。
思わず立ちすくんだシンとライオットに、帯電した空気がまとわりつき、全身の毛が逆立つ。
扉に密集した敵を貫通力のある《ライトニング》で一掃するというのは、中レベル以上の冒険者にとって戦いの常識だ。敵が魔術師だと知っていたのに、どうしてそれを見落としたのか。
助言しなかったのは自分たちのミスだ。油断の代償と言うにはあまりにも大きな被害に、ライオットが奥歯を噛みしめる。
そんな侵入者をあざ笑うように、屋敷の玄関から、ことさらゆっくりと人影が現れた。
まるで獰猛な獣。それが第一印象だった。
日に焼けた肌に褐色の髪。精悍な顔に猛々しい笑みを浮かべて、その男は傲然と言い放った。
「たかが下級官吏ふぜいが、誰の許しを得てこのスーヴェランの屋敷に入ってきたか?」
着ているのは柔らかい皮鎧だが、鍛えられた長身のせいで弱々しさは感じない。
剣の技量にも自信があるのだろう。抜き身で持っている長剣が、衛視隊の掲げる松明を反射してオレンジ色に輝いた。
「スーヴェラン卿。宮廷魔術師殿の命により、ロートシルト男爵夫人襲撃の罪で逮捕する。命が惜しければ、無駄な抵抗はなさらぬがよい」
怒りで声を震わせながら、進み出たベデルが対峙する。
預かった部下を無為に傷つけて、もっとも自分を責めているのは彼だろう。
沸騰寸前の怒りを必死になだめているベデルに、スーヴェランは嘲弄で報いた。
「少しは使える男と聞いていたが、所詮は平民よな。貴顕に対する礼儀もわきまえぬと見える。貴様の目の前にいるのは、貴様ごときが立ったまま言葉を交わせる相手では……ッ!」
その時、シンが動いた。
黒い疾風となって一気に距離を詰め、屋敷の主に豪速の斬撃を見舞う。
一切の無駄のない直線的な動き。スーヴェランが気づいたとき、すでにシンは間合いに入っていた。
誰もがシンに目を向けたが、誰ひとり反応できない。完全に虚を突かれ、顔をひきつらせるスーヴェランに精霊殺しの魔剣が襲いかかる。
だが。
横から伸びてきた銀色の閃光が、まるで蛇のように絡みついて、シンの一撃を巻き落とした。
軌道をそらされた剣は虚しく空を切る。
驚いたシンが1歩跳びすさると、暗い愉悦に満ちた声が響いた。
「相変わらず人の話を聞かない男だな、貴様は!」
中身のない右袖をひるがえし、左腕1本で細剣を操って、声の主はシンに襲いかかった。
粘着質の殺気をまとい、急所を狙って続けざまに繰り出される剣尖。本気で自分を殺そうとする意志に圧倒されて、シンは後退を余儀なくされる。
「……ラスカーズ!」
隻腕の男が誰なのか知って、シンが目を見張った。
「会いたかったぞ、シン・イスマイール! これでやっと貴様を殺すことができる!」
雪白の肌に黒髪。
病的なまでに妖しい美貌と、爬虫類めいた雰囲気の騎士。
忘れもしない。ピート卿の屋敷を襲撃し、夫妻とレイリアをなぶって瀕死の重傷を負わせた邪教の司祭だ。
だが何故、この男がここにいる?
スーヴェラン卿が邪教に通じているというのは、カーラが捏造した表向きの話ではなかったのか?
頭の中で疑念が渦巻き、困惑がシンの剣を鈍らせる。このままでは抗しきれない。変幻自在の剣捌きに圧倒され、そう悟ったシンは、大きく跳びのいて距離を取った。
「貴公、ラスカーズではないか。これはどういうことだ?」
危機を救われたスーヴェランも、唐突に現れ、しかも自分に加勢した敵手に困惑を隠しきれない。
詰問するような声を向けると、美貌の騎士はぬらりと濡れた笑みを浮かべた。
「何をおっしゃる。我らは終末の女神に仕える同志ではありませんか。互いの危機を救うのは当然のこと」
「……何だと? 貴公は何を言っている?」
「まあ、詳しい話は後ほど。まずはこの無礼な連中を皆殺しにして、カーディスへの贄に捧げるとしましょう」
紅に濡れた唇をぺろりと舐め、殺戮への歓喜に震えるラスカーズに。
「そう簡単にいくかな!」
今度はライオットが斬りかかった。
ライオットの剣はシンと対極。徹底的な修練を積み重ねた技の結晶だ。
後の先をもって奥義とする警察剣術を、シンの暴力的な剣風と稽古してさらに磨き上げ、その技はもはや完成の域に達している。
何故ここにラスカーズが出たのか知らないが、ライオットにとってはむしろ好都合だ。ここで倒してしまえば、わざわざ探す手間が省けるというもの。真相の究明はその後でよい。
一切の疑問を封殺して割り切り、ラスカーズの首に斬撃を打ち込もうとした刹那。
首筋にチリチリと焼けるような感覚が走り、ライオットは反射的に盾をかざした。
次の瞬間、鋼鉄の暴風が吹き荒れた。
信じがたいほど重い打撃が防御魔法の力場を易々と貫き、“勇気ある者の盾”に炸裂する。
強烈きわまる衝撃。わけも分からず身を固くすると、問答無用に弾き飛ばされ、胃が口から出てくるような浮遊感に襲われた。
短い空中遊泳の後、為すすべもなく前庭に叩きつけられたライオットは、全身の痛みを堪えてすぐさま跳ね起きた。
驚愕と屈辱にこわばった顔で、自分を一蹴した敵を睨みつける。
赤銅色の肌に赤い髪。身長は2メートルほどだが、分厚く盛り上がった筋肉のせいでもっと巨大に見える。
獣の皮で腰回りを覆っただけの、蛮族の戦士だ。
両手持ちの巨大な戦斧を振り抜いたままの姿勢で、戦士は犬歯をむき出しにして獰猛な笑みを浮かべた。
「こいつを受けたか。小僧、少しは遊べそうだな」
とっさに盾をかざしていなければ、今の一撃で腰断されていただろう。冷たい汗が全身から噴き出し、今さらのように心臓が早鐘を打つ。
こいつは強い。少しでも手を抜けば殺される。
腹の底に生まれた恐怖を抑え込んで、ライオットは慎重に盾を握りなおした。
「闇の森の蛮族……ベルドの同族か」
戦士の特徴的な容姿は、暗黒の島マーモで闇の森にひっそりと根を張る蛮族“ナグ・アラ”のものだ。
閉鎖的なため知名度は高くないが、原作では、この部族の男女は屈強な戦士だと設定されていた。
ニースと並ぶ魔神戦争の英雄、ロードス最強の戦士である“赤髪の傭兵”ベルドも、この部族の出身だ。
「ほう、ベルドを知っているのか。ならば小僧、アンティヤルの名も覚えておけ。ナグ・アラの戦士にして、終末の女神の忠実なる従僕。そして貴様の命を刈り取る男の名だ!」
赤髪の戦士は、そう吼えるなりライオットに襲いかかった。両手持ちの戦斧がうなり、大上段から打ち下ろされる。
「くッ!」
正面からでは受けきれない。ライオットはとっさに半身をずらし、盾を斜めにして必死に打撃を受け流す。魔法の盾を削りながら滑った戦斧は、地響きをたてて大地に打ち込まれたが、勢いを殺しきれなかったライオットもたたらを踏んだ。
両者の視線がぶつかり合い、互いに武器を振りかぶりながら、弓が引き絞られるように殺気が高まっていく。
それが臨界に達する寸前、ルージュの魔法が完成した。
『万能なるマナよ! 雷の縛鎖となれ!』
スーヴェランのものとはケタの違う、圧倒的な光量の電撃が網となってアンティヤルに絡みついた。
「がぁぁぁぁぁぁッ!」
青白い雷が赤銅色の肌を焼き、絶叫と肉の焦げる臭いがはじける。
妻の魔法で完全に身動きを封じられた赤髪の戦士を、ライオットは渾身の力で蹴り飛ばした。
直視できないほどの眩光に縛られたまま、今度はアンティヤルが宙を舞い、そのまま大地を転がって玄関口に横たわる。
その間もルージュの《ライトニング・バインド》は戦士を焼き続け、青白い閃光が前庭を昼間のように照らし出していた。この魔法の持続時間は18ラウンド。効果が切れる頃には、いかに強靱な戦士といえども命はないだろう。
その結末を予想し、ライオットは一息つこうとしたが。
雷の縛鎖は何の前触れもなく消滅し、戦場にはすぐに静寂と暗闇が戻ってきた。
熟練の戦技と、高位の魔法の応酬。
相手の虚を突こうとする奇襲の繰り返し。
その最後に登場したのは、秀でた額が印象的な、壮年の魔術師だった。
「噂にたがわぬ強大な魔力だ。あと10年も研鑽すれば、大賢者ウォートに匹敵する魔術師になるかもしれんな」
平然とした口調だが、顔には脂汗が浮かび、肩も荒々しく上下している。相当な苦痛を代償としてルージュの魔法を解呪したのだろう。
「黒の導師……バグナード」
ルージュの唇がその名を紡ぎ出すと、魔術師はにやりと笑った。
「いかにも、“奇跡の紡ぎ手”アルトルージュ皇女殿下。お初にお目にかかる」
激戦の中、ぽっかりと生じた静寂に、バグナードの声が波紋となって広がっていく。
今この屋敷で、何が起こっているのか。
この戦闘にどんな意味があるのか。
誰もがそれを理解できぬまま、事態は新たな局面を迎えようとしていた。