シーン5 王都アラン・冒険者の店〈黄金の太陽〉亭
千年王国アラニアの都アランは、ロードスで最も繁栄している街と言えるだろう。
10万人を超える人々が住むこの街には、冒険者の店も数多くある。その質は様々だが、この〈黄金の太陽〉亭は、中でも格式のある店として冒険者たちに認知されていた。
チンピラに毛が生えた程度の駆け出しでは、敷居をまたくことすら許されない。一定の実力と評価を得たパーティーだけが逗留することから、入る依頼の難易度も、報酬の額も、そして利用する料金も、他の店とは一線を画している。
ターバで〈栄光のはじまり〉亭の女将に紹介されてきたのだが、部屋を取るまでがまた大騒ぎだった。
一見の客を追い払おうとした古株冒険者に因縁をふっかけられ、応対したルーィエの毒舌に相手が激昂し、店中を戦場にした大乱闘に発展した。
もっとも、シンとライオットの2トップを相手にして、そこいらの冒険者で勝負になるわけがない。全員を床に沈めるまで1分とかからなかったのだが。
その日の夜には賢者の学院でもらった宝物を山と持ち込み、翌日には王宮の使者が馬車いっぱいの宝物を運び入れるに至って、ついに〈黄金の太陽〉亭の関係者もシンたちがただ者ではないと理解したようだ。
常連たちは畏怖に満ちた視線を向けてくるし、店の主人も最優先で対応してくれる。
夕暮れ時。王宮から戻り、部屋で着替えてきたシンたちがテーブルを囲むと、店の主人が飛んできて人数分の飲み物を置いていった。どうやらサービスらしい。
少しでも店の印象を良くして、また使ってもらえれば、ということだろう。その魂胆は見え透いているが、決して不愉快ではない。
「まったくお前ら、俺様を荷物番か何かと勘違いしてるんじゃないだろうな? 毎日毎日留守番ばっかりさせやがって。自由を尊ぶ猫族に対する挑戦か?」
ぷりぷりと怒りながら2本の尻尾でテーブルを叩くルーィエの存在も、彼らがただ者ではないと証明する存在のひとつだ。
人語どころか、精霊語に上位古代語まで解する猫族の王は、本来ならこのロードスには存在しない幻獣だ。彼の一応の主人である魔術師ルージュとともに、はるか北方の大陸アレクラストから船で渡ってきた身である。
「いや陛下、ホントに感謝してる。これはほんの気持ち。良かったら飲んで」
カウンターでミルクに蜂蜜を垂らした特注品を作ってもらったライオットが、猫王の前に深皿を差し出す。
甘いものはルージュに禁止されているため、彼女には内緒の一品だ。一口舐めて正体を察したルーィエは、ぴくぴくと髭を震わせて偉そうに論評した。
「まあ、今回だけは大目に見てやる。財宝を守って穴蔵で暮らすドラゴンの気分も分かったからな。手ぐすね引いて侵入者を待つのも、なかなか悪くない経験だった」
彼らの留守に財宝を狙ってきた盗賊に《エネルギーボルト》を乱射して痛めつけた後、白銀に輝く戦乙女を見せつけて撃退したことを言っているのだろう。
盗賊が不心得を起こした相手が誰なのかを知って、冒険者仲間たちはすぐに謝罪に飛んできた。
その2時間後、男爵夫人邸の晩餐から帰ってきたシンたちは、猫を相手に正座して説教を聞いている中堅冒険者たちを見て唖然としたものだ。
ルーィエが蜂蜜入りミルクに舌鼓を打っていると、レイリアは葡萄酒で唇を湿らせて、遠慮がちに切り出した。
「今夜のラフィットの件なのですが、私ひとりで行くというわけにはいきませんか?」
自分が狙われているという自覚はあるのだろう。やっぱりダメですよね、と言わんばかりの上目遣い。あまり期待はできないけど、言うだけ言ってみようという感じだ。
「ひとりで、か……」
シンは渋い表情で言葉を濁す。
レイリアもラフィットも、やっかいな相手に目を付けられているのだ。そこであえて護衛なしというのは、さすがに無謀が過ぎるのではないか。
腕を組んで考えていると、ライオットがあっさりと頷いてしまう。
「別にいいんじゃないか?」
あまりにも気楽に答える親友に、むっとしてシンが噛みついた。
「簡単に言うなよ。もし何かあったらどうするんだ?」
あの日、血塗れでうずくまっていたレイリアの姿を、シンは今でも鮮明に思い出すことができる。
駆けつけるのがあと10秒遅かったら、彼女はあの騎士に殺されていたかもしれないのだ。
同じ状況になって、また同じ幸運が拾えるとは思えない。そう思うと、レイリアを無防備に送り出すなど論外だった。
「確かに何かあったら困るけどさ。俺たちが一緒じゃできない話だってあるだろ。実は俺も、レイリアが一緒じゃできない相談がある」
冗談めかした口調に本音を少しだけ混ぜて、ライオットがシンを見る。
レイリアを排除してまで、急がねばならない相談。その議題はひとつしか思いつかない。
「あの宮廷魔術師の件か?」
「今日の謁見で分かっただろ? ラフィットはレイリアのために影響力を行使してしまったんだ。ラスター公とノービス伯は黙っちゃいないだろうし、そうなればあいつだって動くだろう」
それまで灰色の監督者の下でバランスが取れていた振り子が、自分たちを重石に乗せたことで大きく揺れだしたのだ。それを看過してくれるほど甘い相手ではない。
事態を察したシンが渋々黙り込むと、今度はルージュが口をはさんだ。
「だけどリーダーの言うとおり、護衛なしは危険すぎると思う」
宮廷の狐と狸が直接動かなくても、その歓心を買おうとする取り巻きが暴発することは、容易に想像できる。
もしかするとカドモス王は、そこまで考えて、護衛代わりにシンたちを利用するつもりだったのかもしれない。
「確かに。というわけで陛下、今回も頼めないかな?」
ライオットの言葉に、深皿でハニーミルクを舐めていたルーィエが顔を上げた。
目立ってはいけない場面で護衛をするのは、いつもルーィエの役目だった。ただの猫として振る舞っていれば誰にも警戒されないため、油断した相手から決定的な情報を入手したこともある。
猫王の紫水晶の瞳がライオットを見上げ、残り少なくなったハニーミルクに落ち、再びライオットに戻った。やれやれと言いたげな表情だが、文句を言う気はないらしい。
「この貸しは高くつくぞ?」
そんな言葉で了承を与えると、銀毛の双尾猫はレイリアを見た。
「運が良かったな、司祭。今夜は俺様が一緒に行ってやる。出発はいつだ?」
ほっとした様子のレイリアは、律儀に頭を下げて言う。
「ありがとうございます、ルーィエさん。できれば今すぐにでも」
あれほどの規模の離宮だ。急な来客のひとりくらい問題ないだろうが、ラフィットの夕食の前には着いておきたい。
「分かった」
深皿に残ったミルクを空にすると、ルーィエはひらりとレイリアの膝に跳び降りた。柔らかい銀毛を受け止めたレイリアは、抱き心地満点の柔らかい感触に頬を緩める。
細い指先が頭を撫でるのに目を細めながら、ルーィエは号令した。
「では出発だ。特別に今回は、俺様を抱いたまま移動することを許してやる。男爵夫人とやらに、俺様の食事を用意させるのを忘れるな?」
「分かりました。よろしくお願いしますね」
銀毛の双尾猫を両手で抱き直すと、レイリアは立ち上がってテーブルを見渡した。
「それではちょっと行ってきます。今夜は先に休んでいてください」
「気をつけてね。何かあったらルーィエに言ってくれれば、すぐ迎えに行くから」
使い魔と魔術師は、いつでも思考や感覚を共有できる。ルーィエの視覚を利用して《テレポート》で跳んでしまえば、どこであろうと1ラウンドで駆けつけることが可能なのだ。
「それは安心です」
レイリアはにこりと笑い、小さく頭を下げると店を出ていった。
白い神官衣の背中を、不機嫌そうにシンが見送る。
一緒に行きたかったんだろうな、とライオットが分析していると、その視線にシンが反応した。
「何だよ?」
レイリアたちの姿が扉の向こうに消えると、タダでもらったエール酒のジョッキを傾けながら、むっとした様子で親友をにらむ。
明らかにご機嫌ななめ。下手なことを言うと火に油を注ぎそうだ。
それでもライオットは、言わずにはいられなかった。
「シン。レイリアはお前の所有物じゃない。彼女の意志は彼女のもの。それを思い通りに操ろうとすると、あっという間に破局するぞ」
相手には相手の意志がある。恋人だろうと夫婦だろうと、それを尊重できないようでは関係を維持できない。
苦い経験に基づいたライオットの助言に、シンは舌打ちした。
「分かってるよ、そんなことは」
レイリアにはレイリアの都合があるのだと、理屈では理解している。
それでも納得はできないのだ。命の危険を冒してまで単独行動をする意味があるとは、シンにはとても思えなかった。
そんな苛立ちを込めたシンの言葉に、ライオットはおとなしく引き下がる。
「ならいい。悪かった」
ライオットにとって最も大事なことは、レイリアが一緒にいる間、彼女に息苦しさを感じさせないことだ。
行動を共にすることで自由を束縛される、と彼女が感じてしまっては、仲間になんかなってくれない。
もし襲撃があったら、すぐに飛んでいって守ればいいだけの話だ。今の自分たちならその程度の芸当はできるはずだし、彼女を守ればシンの好感度はさらにアップするだろう。
レイリアの安全を真摯に考えるシンとは対照的に、最初から最後まで打算ずくめの思考。自分でもそれを自覚して、ライオットは自嘲気味に頬を歪めた。
男たちが黙り込むと、ぎこちない空気がテーブルに流れる。
どんな時でも明るく、ふざけたほど前向きな彼らには似つかわしくない沈黙。
だがその重苦しい停滞は、長くは続かなかった。
ルージュが困った顔でオレンジジュースに口をつけていると、横からかけられた声がそんな雰囲気を一瞬で吹き飛ばしてしまったのだ。
「おや、空気が良くありませんね。取り込み中ですか?」
若い男性の、穏やかな声。
初日の乱闘騒ぎ以来、この店には親しく声をかけてくる冒険者などいないはずだが、その声にはからかうような調子さえ感じられた。
今は闖入者の相手をしている気分ではない。
「ああ、今ちょっと忙し……ッ!」
一瞥をくれて追い払おうとしたライオットが、相手の顔を見て、驚愕に頬をひきつらせた。
その様子に首を巡らせたシンとルージュも、男を見て凍りつく。
昼間、謁見の間で見たばかりの赤いサークレットが、男の額に輝いていた。
「どうやら私の顔を覚えていてくれたようですね。良かった、お忘れだったらどうしようかと思いました」
宮廷魔術師リュイナール、正しくは彼の肉体を支配する灰色の魔女カーラ。
ロードス最強の魔術師が、人当たりの良い笑顔を浮かべてそこに立っていた。
「なんでこんな所に……」
シンがうめく。
少なくともここは、キャンペーンのラスボスが友好的な笑顔で話しかけてくる場面ではないはずだ。
ついさっきまで口論していたのも忘れて、3人の視線が忙しく行き交った。カーラを相手にどのような対応をするか、それはこれから相談するところだったのだ。まだ何の方針も決まっていない。
そしてこの魔女は、行き当たりばったりで対処するにはあまりにも危険な相手だった。
「何故と問われれば、あなたに用があったからですよ、シン・イスマイール殿」
至極当然という口調であっさり答えると、宮廷魔術師はそこで初めて首をひねり、硬直したままの3人を順に見た。
「もしかして私、歓迎されていないのでしょうか?」
「というか、ふつう驚くだろ。こっちにも心の準備ってものが必要なんだ。来るなら来ると、前もって言ってもらわないと困る」
何とか驚愕から立ち直ったライオットが、心から不服そうに訴える。
そういえば、昨日ラルカス学長に同じ事を言われたばかりだった。突然の来客に爆弾を投げつけられた彼の気持ちが、やっと分かった。
財宝を差し出してお帰り願えるなら、カーラ相手にもそうしたい気分だ。
「それは失礼しました。しかし、私は貴族でも何でもありません。ただの魔術師ですよ。あまり大仰に構える必要もないでしょう」
リュイナール・カーラは言うと、レイリアが立ったばかりの椅子を引いて、遠慮なく腰を下ろした。
すっと右手を挙げると、飛んできた店の主人に葡萄酒を注文し、テーブルの上で手を組んで顎をのせる。
シンたちが何か言う前に、すでに長話をする状況ができあがっていた。
「さて、ちょっとお時間を頂いてよろしいでしょうか?」
「嫌だって言っても、引き下がる気なんてないんだろ」
憮然として応じるライオットに、リュイナールは柔らかく微笑んだ。
「まさか。嫌だと言われれば素直に退去いたしますよ」
礼儀正しく応じる黒髪の魔術師は、彼が灰色の魔女だという予備知識さえなければ、誰もが好感を覚えるだろう。
年齢よりも多少幼く見える童顔は、どこまでも柔和な人柄を感じさせる。表情は軟らかく、声は穏やかで、これが本当にあの魔女かと信じられないほどだ。
「それで、話ってのは?」
シンがやけになってエール酒を呷りながら、招かれざる来客に先を促す。
「ロートシルト男爵夫人に関してです」
リュイナールは微笑を浮かべたまま、さらりと言った。
「単刀直入に申し上げましょう。事態は非常にまずい。あなたたちが男爵夫人襲撃の犯人を捕らえたことで、宮廷は大混乱。男爵夫人は危機に瀕しています」
「たかが市井の冒険者に、宮廷の話をされてもな」
曖昧な表情で答えるライオットを、リュイナールは一言で切って捨てた。
「市井の冒険者? ご冗談を」
穏和な微笑の中に鋭い視線をひらめかせ、3人を順番に見つめていく。
「“砂漠の黒獅子”とその仲間たちがどれほどの勲を打ち立ててきたか、今さら説明の必要はありますまい」
「いやほら、それはリーダーの武勲であって、私たちはその他大勢だったし」
ひらひらと手を振って誤魔化そうとするルージュ。
だがリュイナールには通用しなかった。
「そうですか。ところで、北の大陸のとある国に、希代の魔術師で“奇跡の紡ぎ手”とまで称された皇女がいらしたそうです。ルージュ殿は大陸から渡ってこられたとか。その方をご存じですか?」
「…………」
いったいどこまで知っているのか。
為すすべもなくルージュが黙り込むと、ライオットは降参とばかりに両手を上げた。
ろくな材料もなしに灰色の魔女に対抗しようというのが、そもそも無茶なのだ。
「悪かった。もう邪魔しないから、話を最後まで頼む」
3人が諦め顔で話を聞く態勢になると、リュイナールは軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。結論から申し上げれば、皆様にはロートシルト男爵夫人を助けていただきたいのです」
「それは、ラフィットの護衛をしろって事か?」
シンの問いに、リュイナールは首を振った。
「護衛と言うよりむしろ、後ろ盾になっていただきたいのですよ。男爵夫人は平民の出身で、庇護してくれる実力者が誰もいません。ですがマーファ教団と“砂漠の黒獅子”が支援するとなれば、貴族たちも簡単には手を出せなくなるでしょう。これはあなたにとっても悪い話ではないはずだ。違いますか、シン・イスマイール殿?」
悪くないどころか、願ってもない話である。渡りに船とはまさにこのこと。
シンたちの目指す宮廷構造が、灰色の魔女の目指すものと一致しているなら、もはや構築は成功したも同然だ。
だからこそ、シンは疑わしげな視線を灰色の魔女に向けた。
「違わない。だけど話がうますぎる。俺たちを利用すると、あんたにどんな得があるんだ? そこを教えてくれ」
お互いのカードを伏せたまま、ポーカーフェイスで着地点を探るような交渉など、シンには最初からやる気がない。
身も蓋もない直球を投げ込まれて、リュイナールは思わず苦笑した。
「そうですね、あなたはそういう方でした」
マーファ教団の最高司祭ニースをして、実直にして至誠、と言わしめたほどの人柄。シン・イスマイールを動かすために必要なのは、利益ではなく誠意なのだ。
リュイナールは即座に軌道修正して居住まいを正すと、まっすぐにシンを見つめた。
「私の望みは、このアラニアに平和を維持することです」
無言で先を促すシンに、リュイナールは言葉を続ける。
「考えてみてください。2本足の人間が足を1本失ったらどうなるか? かろうじて立つことはできましょうが、もう歩くことはできません。ですが4本足の獣なら、足を1本失っても何とか走ることができるでしょう?」
リュイナールが語りだした、灰色の魔女が考える理想の世界については、3人ともよく知っている。
強大な中央集権体制を嫌い、群雄割拠の状況を作ることで、カストゥール王国滅亡期のような大破壊を回避しようとしているのだ。
それと同じ考え方をアラニアに向ければ、リュイナールの行動も理解できる気がした。
「今のアラニア王国には、国を支える足が3本しかありません。すなわち国王陛下、ラスター公爵、それにノービス伯爵です。陛下が健在なうちはいいでしょう。しかし陛下に万一のことがあれば、次の王権を狙うラスター公とノービス伯が内戦に突入するは必定。どちらが勝っても残る足は1本だけ。しかも長い内戦で国土は荒れ果て、民は疲弊します。そんな状態ではアラニアも滅亡を待つばかりです」
「そこで、ラフィットとマーファ教団の連合勢力が必要ってことか?」
シンの問いに、リュイナールは首を振った。
「正確には、ラフィット王妃が産む王子が、です。国王陛下亡き後、陛下の地位を引き継いでラスター公とノービス伯を制肘できるのは、正当な王位継承権者をおいて他にありません」
「しかし、平民出身のラフィットが王妃の座に就くには、相応な後ろ盾が必要になる。そうじゃないと貴族連中が納得しないからな。確かにその点、マーファ教団なら文句なしって事か」
腕組みするライオットに、リュイナールは我が意を得たりと肯く。
「古来、王妃の選定には、どうやって外戚の影響力を排除するかという難問がつきまとってきました。ですがロートシルト男爵夫人をマーファ教団が後援すれば、その点について何の心配もいりません。健全な宮廷運営を考えた場合、男爵夫人はまさに理想的な王妃候補なのですよ。だから私は、何としても男爵夫人をお守りしたい。そこで最初の話に戻ります」
いったん言葉を切って、自分の話を理解してもらうための時間を作る。
3人の顔を順に見つめ、十分に浸透したと判断してから、リュイナールは言った。
「今現在、問題は2つあります。1つは、皆様が男爵夫人襲撃の犯人を生け捕りにして、国王陛下がそれを知ってしまったという事。黒幕はおそらくラスター公爵でしょうが、真相を究明して公を糾弾すれば、宮廷の権力バランスが大きく崩れ、内戦に1歩近づいてしまいます」
その仕組みは、シンにも理解できた。
勢力が拮抗しているからこそ、今の宮廷は派閥抗争の中でも秩序が保たれているのだ。言ってみれば、アメリカとロシアが対立しながらも戦端を開けないようなもの。
だがバランスが崩れ、明らかな力の差ができてしまったら? アメリカがイラクを、ロシアがグルジアを蹂躙したように、気に入らない相手を滅ぼすことに躊躇はしないだろう。
「もう1つは、男爵夫人が国政に口を出したという事実です。今の男爵夫人は、平民出の無力な少女にすぎません。その少女が陛下の寵愛を盾にして、ナニールの封印という建国以来の最優先事項をひっくり返してしまった。これは非常にまずい。宮廷全体を敵に回してしまいます」
「そうだよな。ラフィットの言葉が国王を動かすようになったら、貴族たちの既得権益を守る“宮廷のルール”が通用しなくなるからな」
「そう。本質はそこです」
ライオットの言葉に、リュイナールが深く頷き、少し意外そうな視線を向けた。
この中ではもっとも平民に近いはずのライオットが、宮廷貴族の行動原理を理解していることに驚いたのだろう。
「それで、リュイナールさんは私たちに何をさせたいの? 今の流れだと、私たちにできることなんて何もなさそうなんだけど」
頬杖をついて話を聞いていたルージュが尋ねる。
今のラフィットを取り巻く状況はわかった。それを打開するためには、どう考えてもマーファ神殿の介入が必要だ。
だがそれはレイリアとニースの仕事であって、ぶっちゃけ自分たちでは何もできない。
ルージュがそう問いかけると、リュイナールは穏やかに首を振った。
「とんでもない。国王陛下に命じられたとおり男爵夫人襲撃の黒幕を処断し、ラスター公爵に恩を売り、ノービス伯を牽制して実力行使を控えさせ、マーファ教団の庇護を示して男爵夫人の権勢を盤石にする。そういう一手を打つには、皆様の協力がどうしても必要なのです」
「そんな魔法みたいな策があるのか?」
一石を投じて三鳥も四鳥も落とすようなもの。世の中そんなに都合よくは回らないのではないか。
シンが疑わしげな視線を向けると、リュイナールは懐から黄色い油紙の包みを取り出し、テーブルに載せた。
長さは20センチくらい。ごとりと重い音がしたので、何か固い物が入っているようだ。
「これは、皆様も見覚えがあると思いますが」
そう言いながら、慎重な手つきで包みを開く。
中からでてきたのは、黒い毒液で塗れた、古びた短剣だった。
忘れもしない。ロートシルト男爵夫人を襲った、あの暗殺者が持っていた凶器だ。
「この短剣の柄には、ある紋章が刻まれています。ルージュ殿、これが何だかご存じですか?」
「知らない。不勉強ですいませんね」
不機嫌そうにルージュが即答する。
その様子にリュイナールは苦笑して謝罪した。
「申し訳ない。この紋章を普通の人間が知っているはずはないのです。何故なら、これは邪神カーディスの紋章だからです」
その一言は、3人の意識に爆弾を放り込んだ。
どこか他人事だったリュイナールの話が、一気に身近なものに降りてくる。
一瞬で顔色を変えた3人を見ながら、リュイナールは話を続けた。
「皆様がとらえた暗殺者は、私が直々に尋問しました。色々と吐いてくれましたよ。あの男は銀蹄騎士団の上級騎士、スーヴェラン卿に仕える使用人でした。このスーヴェラン卿という人は、一言で言えばラスター公爵の腰巾着のひとりです」
「また銀蹄騎士団か……」
シンが忌々しげに舌打ちする。
その様子に、リュイナールは思い出したように付け加えた。
「そういえば、レイリア殿を襲ったラスカーズ卿も銀蹄騎士団でしたね。ラスカーズ卿は少し前まで、ノービス伯に仕える掃除屋として知られた男でした。スーヴェラン卿はラスター公爵の派閥。ふたりはライバル同士と目されていたのですが、まさかこんな共通点があろうとは。邪教の毒が広まるのは忌々しいことですが、今の私たちにとっては逆に都合がいい」
リュイナールの穏和な顔に、ほんの一瞬だけ人の悪い笑みが閃く。
ルージュはそれを見逃さなかった。
「男爵夫人を襲ったのが邪教の仕業であれば、ラスター公爵が国王陛下の問責を受けることはありません。ノービス伯も、配下のラスカーズ卿の一件がある以上、この件に関して強く口出しはできないはず」
慎重に表情を消すと、ルージュは紫水晶の瞳をすっと細めて、宮廷の裏事情を語る魔女を見つめた。
スーヴェラン卿に邪教の短剣を渡したのが、この灰色の魔女だというのは考えすぎだろうか。
本来はラスター公の陰謀でも、邪教の仕業と決めつけてしまえば、宮廷のバランスは崩れず、ラスター公に貸しを作った状態で事件を解決できる。防げない陰謀ならコントロールしようというのは、この魔女に似合いの策ではないか。
「そこであなたの出番なのです、シン・イスマイール殿。あなたがレイリア殿の想い人であるというのは、今日の謁見で貴族たちの知るところとなりました。つまり、あなたがスーヴェラン卿を討って邪教の陰謀を解明すれば、その功績はレイリア殿に帰します」
その結果、マーファ教団の代表者であるレイリアが、男爵夫人のために事件を解決したという形が出来上がるわけだ。
まさしく状況を一気に好転させる妙手。
灰色の魔女の鬼謀を目の当たりにして、ライオットは思わず唸った。
「なるほどな。確かにそうすれば、マーファ教団が男爵夫人を庇護しているように見える。ついでに邪教に責任を全部押しつけて、ラスター公に貸しも作れるってわけだ。シンはどう思う?」
黙って話を聞いていたシンは、親友に水を向けられて、不機嫌そうに応じた。
「気に入らない」
腕組みをしたまま、じろりとリュイナールをにらむ。
そんな反応は予想外だったのだろう、黒髪の宮廷魔術師は、穏雅な微笑にかすかな困惑をにじませた。
「お気に召しませんか」
「ああ、気に入らないね。要するに、都合のいい事実だけを繋ぎあわせて嘘の話をでっち上げ、真相は闇から闇に葬り去ろうってことだろ? そうすれば一番うまくいくってことは俺にも分かる。だけど気に入らないんだよ、そういうの。どこかに落とし穴が待ってる気がしてさ」
ルージュのように理詰めで考えるわけでも、ライオットのようにリスクとリターンを比較衡量するわけでもない。
だがシンが物事の本質を嗅ぎ分ける嗅覚は、これまで何度もパーティーの危機を救ってきた。それゆえにパーティーのリーダーを務め、仲間たちはシンの最終決定を行動の条件と定めているのだ。
渋い顔をしたまま、首を縦に振ろうとしないシンに困り果てて、リュイナールが助けを求めるようにライオットを見る。
ライオットは苦笑いすると、肩をすくめてみせた。
「悪いけど、シンがこう言ってる以上、その提案には乗れないな。俺ひとりなら協力しても構わないけど、あんたの案には“砂漠の黒獅子”が必要不可欠なんだろ?」
「そのとおりです」
理屈や利害関係が理由で拒否されたなら、まだ交渉の余地はある。だが「気に入らない」の一言で切って捨てられては取りつく島もない。
リュイナールは下を向いて考え込んでいたが、やがて深々とため息をついた。
「本当にあなたは、敵に回したくない相手ですね。ノービス伯が手も足も出なかった理由が、よく分かりました」
もはや万策つきたと言わんばかりに苦笑すると、どこか開き直った風情でシンを見る。
「もう隠し事はしません。私の窮状をすべてお話ししますから、どうか協力してください。もちろん冒険者に仕事を依頼するわけですから、報酬も用意します」
黒髪の宮廷魔術師は、全面降伏の体で懇願した。シンが貫く無言を都合のいいように解釈して、リュイナールはまくしたてた。
「正直、男爵夫人の後援者がいなくて困っていたんですよ。利害に聡い貴族たちは、ラスター公やノービス伯の不興をこうむってまで、男爵夫人に通じようとはしません。ニース最高司祭ならば後ろ盾として十分な名声と影響力を持っていますが、彼女は宮廷権力には全く近付こうとしない。それが今回、邪教の襲撃という事態とともに、マーファ教団が宮廷に協力を要請してきた。私は千載一遇のチャンスだと思いました。邪教という共通の敵に立ち向かうため、私たちは手を取り合えるのですから」
「……もしかして、レイリアさんの封印を撤回させるために、あなたが国王陛下に何か言ったの?」
ふと思いついて、ルージュが口を挟む。
リュイナールは首を振った。
「いえ。これはロートシルト男爵夫人が国王陛下におねだりをした結果です。私は陛下からどう思うかと問われて、監視さえ怠らなければ問題ないでしょうとお答えしただけです。このおねだりが、致命的な危機を招くことは分かっていました。しかしそのときの私は、シン殿の協力があれば状況は打開できると考えてしまったのですよ。ここで断られると知っていれば、絶対に賛成しませんでした。いかなる手段を用いてでも撤回させたでしょう」
まぁ、今さら言っても詮無きことですが、とリュイナールが肩をすくめる。
「そんなわけで、男爵夫人は分不相応なおねだりで貴族たちの反感を買い、しかも守ってくれる保護者が誰もいないという状況なのです。だからお願いです、今回だけでいいので、どうか協力してください。この状況を招いたのは私の失策です。私は何とか男爵夫人をお守りしたい。ラスター公とノービス伯の権力争いに巻き込まれて命を落とすには、あの方はまだ若すぎると思いませんか?」
言ってリュイナールは、お願いします、と頭を下げた。
恥も外聞もなく懇願するリュイナールの姿に、ライオットとルージュはもの言いたげな視線をシンに向ける。
彼らとしても、男爵夫人と人脈を築くのはこの旅の目的の一つ。それで灰色の魔女に貸しが作れるのなら、この状況は願ってもないものだ。
依頼を断って男爵夫人を窮地に落とし、灰色の魔女の恨みを買い、ついでにレイリアを不機嫌にさせたら、何のために王都まで来たのか分からなくなってしまう。
そこのところを考えてくれ、という無言の圧力に耐えかねて、シンはついに折れた。
「……ふたつだけ確認したい。ひとつ目。そのスーヴェラン卿がラフィットを襲わせたというのは、間違いないんだな?」
「はい。間違いありません」
飛びつくようにリュイナールが顔を上げる。
シンはじっと相手の目を見て、次の質問を投げかけた。
「ふたつ目。スーヴェラン卿に邪教の短剣を渡したのは、あんたか?」
「違います」
リュイナールは即答する。
「あまりにも都合が良すぎるので、そう勘ぐられるのも分かりますが。この短剣に関しては、私は一切何もしていません。ラスター公爵かスーヴェラン卿が、隠蔽工作のために用意したのでしょう」
そしてしばしの沈黙が降りた。
不機嫌そうなシンと、真剣な顔のリュイナール。
やがて、その言葉に嘘はないと判断したのだろう。シンは大きく息を吐くと、リュイナールに頷いた。
「分かった。ラフィットを襲撃した犯人として、スーヴェラン卿を捕らえることに協力する」
「……ありがとうございます。本当に助かります」
安堵の表情を隠そうともせず、リュイナールは微笑んだ。
もっとも、胸をなで下ろしたのは灰色の魔女だけではない。ライオットとルージュも、ほっと息をついて視線を交わし合っていた。
「報酬は10万ガメルだ。前金はいらない。スーヴェラン卿を捕らえたら成功報酬の形で」
めずらしくシンが金品を要求する。
たぶん嫌がらせをしたいだけだろうな、とライオットが思っていると、リュイナールは迷うそぶりもなく頷いた。
「分かりました。明日までに用意します」
「それから、うちの魔術師に新しい魔法を教えてほしい。あんたなら秘蔵の呪文がたくさんあるだろう? いくつか頼む」
「私の知っている魔法でいいなら、喜んで」
リュイナールはこの要求も受け入れた。
教えてほしい魔法など、本当は1つしかない。だがおかげで遺失魔法の問題はクリアできそうだ。
教わる相手が古代王国の魔女なら、さぞかし完全な形で教授されることだろう。
あとはルージュのレベル次第だが、これはそのうち何とかなるに違いない。
「じゃ、交渉成立だ。これであんたは俺たちの雇い主。命令には従うよ。スーヴェラン卿の屋敷には、いつ行く?」
「善は急げです。これから衛視隊を動員して、卿の屋敷を包囲します。出発は2時間後でよろしいですか?」
「分かった。ライオットとルージュも、それでいいか?」
「了解、異議なし」
「私もそれでいいよ」
ふたりも頷くのを見て、リュイナールは立ち上がった。
飲み物代のつもりか、テーブルに数枚の銀貨を置くと、シンに言う。
「それでは、私は衛視隊に連絡をしてきます。2時間後、ここに迎えをよこします。私は別の任務がありますのでご一緒できませんが、よろしいですか?」
「もちろんだ。依頼を受けた以上、俺たちで何とかするよ」
シンの返答に満足そうな顔をすると、リュイナールは一礼を残し、急ぎ足で店から出ていった。
彼のこれからの2時間は多忙を極めるだろう。残務の処理を考えたら、今夜は眠れないに違いない。
「さて、俺たちも準備するか。レイリアを呼び戻す時間はないよな」
剣を取ってシンが立ち上がる。
もう決めた以上、難しいことを考えても仕方ない。政治とか陰謀とかは、そういうのが得意なライオットに任せておけばいいのだ。
自分はただ、あの少女を襲った犯人を捕らえることに集中すればいい。それがいつものやり方なのだから。
そう開き直ってしまうと、もやもやしたものが嘘のように晴れていった。
仲間たちの視線の先で、まっすぐ前を向く“砂漠の黒獅子”の顔には、もう迷いはなかった。