シーン3 ロートシルト男爵夫人邸
ラフィットの屋敷は、貴族の館が連なる王都の一等地にあった。
以前は国王の離宮として使われていたものだという。
植え込みや噴水が整然と配置された庭園に、数百人規模の晩餐会が開けそうな大きな館。
維持するために数十人の使用人が働き、さらにラフィットの護衛として数十人の兵士が詰めている。
維持する手間も費用も相当なものだろう。
だが、国王の寵愛を受けているという事実を内外に示すシンボルとして、これ以上分かりやすいものはない。
「けれど、この離宮を使うのは、週に半分程度なのです。もったいない話ですよね」
巨大な晩餐のテーブルを囲みながら、ラフィットは苦笑した。
ここは離宮で一番小さい、私的な食堂なのだそうだ。それでも部屋の広さは20メートル四方に及ぶ。
広大な食堂で、食事をするのはたったの5人。ふつうなら空虚で寒々しい空間になってもおかしくないだろう。
だが、ここは寵姫ラフィットの離宮だ。
天窓から吊されたタペストリーや彫刻、鉢植えの観葉植物などが効果的に視界を遮り、部屋の広さを感じさせないように配慮している。その向こう側には専属の歌手と楽団が控え、会話の邪魔をしない程度に静かな曲を奏でていた。
揺りかごのような心地よさを演出する中、壁際には半ダースのメイドたちが控え、絶妙のタイミングで給仕を務めてくれる。次々と出される料理は、食事というよりむしろ美術品と呼べそうな出来映えだった。
「こんな立派な離宮を週に半分とは、本当にもったいないお話ですね。残りの半分はどちらにいらっしゃるのですか?」
レイリアが不思議そうに尋ねる。
答えは明快だった。
「もちろん王宮ですわ。国王陛下のご寵愛をいただく夜は、王宮に上がりますから」
こともなげに答えるラフィットに、レイリアは顔を赤くしてしまう。
そういえば、この少女は国王の愛妾なのだった。
レイリアとて男女の関係について知識はあるし、すでに恋人と愛を交わし合ったという気の早い友人からは、刺激的な体験談も数多く聞いている。
だが、未だ経験のない彼女にとって、その行為はどこまでも空想の産物でしかなかった。
いずれは自分にも、愛する人と過ごす夜が来るのだろう。それはひどく甘美な時間に思えるが、同時にどこか恐怖も感じてしまう。
もっとも、そんな未知ゆえのためらいに身を置いているうちは、マーファの司祭としてまだまだ半人前だろう。
子を産み、育てるというのはマーファの教義でも根幹をなす営みだ。男女関係を怖れているようでは話にならない。
レイリアが思索の海に沈んでフォークを止めていると、ラフィットが気遣わしげに問いかけた。
「レイリア様、このお料理はお気に召しませんか? お口に合わないようでしたら、違う品を用意させますが」
「とんでもありません。とても美味しいですよ」
まさか、食事そっちのけで男女の営みについて考えていましたとは言えない。レイリアがあわてて料理に意識を戻す。
すると、レイリアの隣に座っているシンに、ライオットが意地悪く声をかけた。
「シン。お前も食事が進んでないみたいだな。理由を当ててやろうか?」
純情というか朴訥というか、このふたりは驚くほど耐性がないらしい。ラフィットの軽い一言で想像の翼がどこまで広がったか、表情と顔色で筒抜けだ。
「頼むからやめてくれ。口にするのはいろいろと失礼に当たるぞ」
浅黒い肌を紅潮させたまま、シンが咳払いして答える。
その拍子にレイリアと目が合うと、ふたりは制御不能と言えるレベルで狼狽した。弾かれたように視線をそらし、茹で上がった顔からは今にも火を噴きそうなほど。
「すみません、ロートシルト男爵夫人。このふたりは今、とってもデリケートな時期なんです」
離宮の主をほったらかしでテンパっている2人に代わって、ルージュが謝罪した。
いかに愛妾とはいえ、男性関係を露骨に想像されれば愉快ではないだろう。そう思って頭を下げたのだが、予想に反して、ラフィットは楽しそうに手を打った。
「まあ、素敵ですわ。シン様とレイリア様は想いを交わした仲でいらっしゃいますのね」
「そうだ、と言うと語弊がありますが、違う、と言うと残念な気持ちになる、そんな関係です」
シンやレイリアが何か言う前に、したり顔でライオットが答えてしまう。
その言葉を否定も肯定もできず、2人は盛大に視線をさまよわせた。互いの顔もラフィットの顔も見られないあたり、微妙な心情がよく現れている。
その初々しい様子に納得したのだろう。ラフィットはにこりと笑うと、矛先をライオットに向けた。
「ライオット様とルージュ様も、そのようにお見受けするのですが?」
「ルージュは私の妻です。結婚してまだ半年というところですが」
堂々と答えるライオットは、普段尻に敷かれている様子など微塵も感じさせない。
ルージュも幸せそうに微笑んだ。
夫が自分を「妻」と紹介するのを聞くと、照れくさいがちょっと誇らしさも感じる。
雰囲気は対照的だが、それぞれが比翼の鳥のような男女の姿を見て、ラフィットは羨ましそうに目を細めた。
彼女が国王に望めば、手に入らない物などほとんど無いだろう。ドレスでも宝石でも、あるいは爵位や領地でも、国王は無条件で与えてくれるに違いない。
たったひとつの例外が、彼らのように、愛する人と共に生きるという人生だった。
ラフィットがロートシルト男爵夫人である以上、国王以外の男性を望むことは決して許されない。
絶対に手に入らない幻想だからこそ、少女の目には愛というものがよりいっそう輝いて見えた。
「皆様、お幸せなのですね。どうかこれからも、皆様にマーファの御加護がありますように」
ラフィットは心の底で首をもたげた嫉妬と不満から目を逸らして、客人たちに祝福の言葉を贈り、訓練された微笑を浮かべる。
宮廷で最も可憐な花と讃えられる微笑だ。彼女にとっては本音を隠すための仮面にすぎないが、こんな時には便利な道具だった。
「ところで、都へはどのようなご用件でいらっしゃいましたの? お礼と言っては何ですが、妾にできることがあれば、何なりとお力添えいたしますわ」
ラフィットはナイフとフォークを揃えて置くと、視線を客人たちに向けて一巡させた。
その隙に、すっと現れたメイドが皿を下げ、別のメイドが紅茶のカップをテーブルに上げる。
息のぴったり合った連係プレイ。その行為をほとんど意識させないあたり、彼女たちの技量の高さがうかがい知れた。
「実はロートシルト男爵夫人。私たちは、国王陛下に御報告と、お願いがあって参上したのです」
正使の立場にいるレイリアが、居住まいを正す。
ラフィットは少し驚いた様子だ。
「まあ、陛下に?」
「はい。この国を蝕もうとする闇について、重大なお話が」
レイリアも銀器を下ろし、背すじを伸ばして見つめ返した。
凜とした黒い瞳に何かを感じたのか、ラフィットは小さく手を上げて合図を送る。
部屋にいたメイドたちが素早く反応し、一斉に退出していった。それまで食堂を薄く満たしていた楽の音も止まり、潮が引くように人の気配が消えてく。
あたりを静寂が押し包むと、少女は申し訳なさそうに切り出した。
「レイリア様。妾は男爵の爵位こそ頂戴しておりますが、これは陛下のお側にお仕えするための資格のようなもの。貴族を気取って政(まつりごと)に口を出すことは許されておりません」
優雅な手つきでティーカップをつまみ、目を伏せてそっと口に運ぶ。
桜色の唇を湿らせると、ラフィットは初めて会ったときと同じ、諦観に満ちた言葉をもらした。
「妾が泥にまみれた農民の出であることはご存じでしょう? そんな小娘が宮廷で生きていけるのは、妾が陛下の無聊をお慰めすることに徹しているからなのです。もし妾が身の程を忘れ、陛下に分不相応なお願いをするようになったら、先ほどの毒刃はメイドではなく妾を襲うでしょう」
まるで他人事のように話すラフィットに、レイリアは返す言葉もない。
「舌の根も乾かぬうちに前言を翻すなど、恥知らずにも程がありますわね。臆病者とお嘲いになっても構いません。ですが、レイリア様のお話が政治向きのものであれば、妾ではお役に立てそうにありません」
宮廷という毒蛇の巣に身一つで放り込まれ、国王の寵愛だけを唯一の頼りにして生きてきた14歳の少女。
だが皮肉にも、その寵愛が貴族たちに危険視され、暗殺者を差し向けられるような毎日を送っているのだ。
「先ほどのようなことは、これまで何度も?」
言葉を失ったレイリアに代わって、ライオットが尋ねる。
ラフィットはあっさりと肯いた。
「もう3人ほど、私をかばって命を落としました。皆様がいて下さらなかったら、ランシュは4人目になっていたでしょう」
それは想像をはるかに超える、壮絶な返答だった。
「彼女たちの死はおそらく、妾に対する警告なのです。妾が立場を忘れれば、黒い刃はいつでも妾に届くのだということの」
「そんな無茶苦茶な! 国王はそれを知ってるのか?!」
あまりの理不尽に、シンが怒りの声を上げる。
人の死を目の前で何度も見せつけられて、少女の心はどれほどの衝撃を受けたのだろうか。普通の人間ならPTSDになってもおかしくない。
義憤に燃えるシンに、ラフィットは信じられないほど可憐に微笑んでみせた。
「もちろん、ご存じではありません」
「どうして言わないんだ。君が国王の恋人だというなら、国王には君を守る義務があるはずだろう!」
自分の女は自分で守る。
シンにとって当たり前の事実だが、その論法はラフィットには通用しなかった。微笑は崩さないものの、いささか強い調子でシンを窘める。
「妾は陛下の恋人ではありませんし、陛下にはいかなる義務もございません。シン様のおっしゃりようは不敬罪にあたりますよ。耳はどこにあるか分からないのです。お気をつけなされませ」
専制君主国家において、国王には守るべき法など存在しない。
国王の意思こそが絶対であり、それは神聖にして不可侵なものなのだ。
カドモス7世を単なるNPCとしか認識していないシンの態度は、この世界の常識に照らせば確かに不敬というべきだった。
「シン様は誤解なさっているようですが、妾は陛下の正妃でも側妃でもありません。ただ夜をお慰めするだけの、いわば道具のようなものです」
曲がりなりにも妃として迎えられれば、王国の歴史と伝統に則って、ラフィットにも一定の権限が与えられるだろう。
だが、今のラフィットはそのような立場にはない。
少女を支えるのはただ国王の寵愛があるのみであり、それは極論すれば、飽きたらそれまでという限定的な関係なのだ。
「そんな、道具って……」
同じ女性としてルージュが不満を漏らすと、ラフィットは平然と続けた。
「では、家臣と言い換えても結構ですわ。陛下にはたくさんの家臣がおいでです。政治を担当する者、軍事を担当する者、式典を担当する者。妾は陛下の情欲を担当しております。陛下と妾の間にあるものは主従関係であって、間違えても愛などではございません」
そしてラフィットは言葉を切ると、静かにシンに問いかけた。
「たとえば、妾が陛下に対して、今回の無法を訴えたといたしましょう。その結果、何が起こると思われますか?」
「何がって、黒幕を捜し出して処罰すれば、こんなことは起こらなくなるんじゃないか?」
シンが不機嫌そうに応じる。
確かに、これが一般人同士の犯罪ならそうなるだろう。
だがここは宮廷だ。常識は通用しない。
「黒幕など調べるまでもありません。ラスター公爵様かノービス伯爵様、そのどちらかですわ。貴い血に連なる王族と、愛妾に仕える平民のメイドひとりを天秤に掛けて、王族を処断する国王など何処の世界におりましょうか?」
碧玉の瞳はどこまでも冷静で、怒りも悲しみも感じさせない。ただ現実を正確に分析し、淡々と告げるだけ。
「陛下は、いかに妾を気に入っておられようと、宮廷の安定と引き替えになさるほど愚かではありません。どちらかを切り捨てる必要があるなら、宮廷を追われるのは妾の方です」
他人事のような口調に、ルージュは悟らざるを得なかった。
この少女は、度重なる悲劇から心を守るために、未来への希望を捨て去ってしまったのだ。
守ろうと思っても、守りきれない。
欲しいと思っても、手に入らない。
その絶望に疲れ果て、何かを望むことを放棄して、ただ小舟のごとく波間に漂うだけ。
まだ中学生くらいの年齢なのに。大人たちの欲望に晒されて心を歪めてしまった少女の姿に、ルージュは痛みすら感じた。
それはレイリアも同様だったらしい。
「男爵夫人は、宮廷を出ようとは思わないのですか?」
ここにいては、ラフィットは永遠に幸せになれない。そんな心情が透けて見えるレイリアの言葉に、少女は少し驚いた様子だったが、すぐに目を伏せて首を振った。
「妾の父は、葡萄作り以外には何もできない、ただの貧しい農民でした。ですが昨年、父が造って妾の名を付けた葡萄酒が、宮廷の品評会で特等を頂きましたの。おかげで信じられないような高値で取り引きされ、実家の両親と兄弟たちは豊かな生活ができるようになったと聞いています」
数日の帰省であれば、家族は暖かく迎えてくれるだろう。
だがラフィットが宮廷を追放されればどうなる?
彼女の評判は地に落ち、そんな不名誉な葡萄酒は見向きもされなくなるに違いない。
一度豊かさを味わってしまった家族たちは、昔のつつましい生活には戻れない。彼らから富を奪ったラフィットを、必ずや恨むようになる。
富と権力にまつわる醜い現実を見てきた少女には、その未来が予見できてしまうのだ。
宮廷にいては幸せになれない。それは事実かもしれない。
だがラフィットには、この世のどこを探しても幸福を掴める場所などなかった。
レイリアに言われるまでもなく、悩んで悩んで、悩み抜いた末の結論。
それが、この世界を諦めてしまうことだった。
「少なくとも妾は、ここにいれば飢えも寒さも知らずに暮らすことができます。家族は豊かさを享受し、使用人たちにも少しだけ多めのお給金を渡すことができます。妾にはこれで十分です」
すべての感情を可憐な美貌の下に封じ込めて、ラフィットは笑ってみせる。
愚かな人間なら、この笑顔に安心して引き下がるだろう。
賢い人間なら、これ以上の深入りを拒絶するラフィットの真意を見抜くだろう。
この冒険者たちがどちらであったのかは分からない。
だが彼らはそれ以上の追求をしなかったし、ラフィットにとってはそれで満足だった。
「それに、妾とて安穏として愛妾の椅子に座っているわけではありません。これでも努力はしているのですよ。今日だってお稽古に行ってきたのですから」
14歳の少女にふさわしい、悪戯っぽい瞳がレイリアに向けられた。
「お稽古? 何を習っておいでなのですか?」
興味を引かれた様子で、黒髪の司祭が問い返す。
宮廷儀礼やダンスなら、離宮に教師を呼べば良さそうなものだが。わざわざお忍びで市井に出るような稽古事とは何だろうか。
「ご奉仕のお稽古ですわ。学ぶなら最高の教師につくのが上達への近道ですから、都でも最高の女性にご教授をお願いしています」
「ご奉仕?」
まるで訳が分からないレイリアは、きょとんとしてラフィットを見返す。
少女が言わんとしていることを理解すると、ライオットは咳払いして視線をそらした。暗くなってしまった雰囲気を変えるために、レイリアをからかって遊ぼうというのだろう。
ルージュも同様らしく、困った顔で隣の夫を見上げる。
「レイリア様はご存じありませんの? 閨房で殿方に悦んでいただく技術のことを、専門用語でご奉仕と称するのだそうです」
ようやく何を言われているのか理解して、レイリアは一瞬で真っ赤になった。
最高の女性とはすなわち、歓楽街の高級娼婦のことか。確かにそんな用件なら、護衛の兵士を伴って出かけるわけにはいかない。
「多くの女性は何の気なしにやっているのでしょうが、専門の訓練を受けると、これが意外と奥深いのですわ。先生の指と舌の使い方など、もはや芸術と呼べる域に達しています」
すっと持ち上げられたラフィットの白い指が、テーブルの上で架空のナニカを撫で上げた。
手のひらを返して親指と中指で挟み込むと、愛おしそうに見つめながら唇を近づけ、先端にそっと口づける。
決して下品ではない。むしろ優雅でたおやかな仕草なのだが、ちらりとレイリアを流し見た瞳は、淫美としか言いようのない色を浮かべていた。
ラフィットが発散する艶然とした雰囲気は、媚薬となって部屋中を満たし、その場の全員を取り込んでしまう。
シンとライオットはぞくりとするような色気に刺激されて、自身が昂ぶるのを抑えきれなかった。
ここは食堂なのに、ロートシルト男爵夫人の情事を覗き見ているのだと、全員が納得していた。レイリアなど呼吸すら苦しくなった様子だが、それでも少女から目を離せない。
ほんの一挙動の演技と視線だけでその場の全員を支配してしまったラフィットは、客たちを見渡すと満足そうに微笑んだ。
「とまあ、このようなお稽古ですわ。妾もなかなかのものでしょう? 殿方には目の毒だったかも知れませんが」
すると淫猥な霧が一瞬で消え去り、元の空気が戻ってくる。
期せずして、一斉にため息が洩れた。
強制的に彼女の舞台に引きずり込まれ、よほど緊張していたのだろう。
「まるで魔法ですね」
ライオットが感嘆する。
嫌というほど思い知らされた。ラフィット・ロートシルト男爵夫人は、ただの無力な少女などではない。超一流の女優だ。
その能力の一端を垣間見ただけでこの有様。すべてを使って『ご奉仕』されたら、国王だろうが何だろうが、男なら骨抜きになるのは当然だろう。
今はまだ、政治的には無力かも知れない。
しかし。
「少しずつ宮廷に人脈を作って味方を増やしていけば、10年で皆が男爵夫人に頭を下げるようになりますよ」
ライオットが言うと、ラフィットは鈴が転がるような声で笑った。
「ライオット様は、リュイナール様と同じようなことをおっしゃいますのね。もっとも、あの方は5年と言っておいででしたが」
「リュイナール?」
原作では聞いたことのない名前だ。
「王国の宮廷魔術師様ですわ。まだお若くていらっしゃるのに、操る魔術はラルカス最高導師に匹敵すると言われています。妾も、宮廷での身の処し方などご教授を頂いておりますわ。今はまだ目立たぬように。しかしゆくゆくは、妾に王妃の座を、と」
言葉だけを聞けば賞賛とも受け取れる内容だ。
しかしラフィットの顔には、それだけでは済まない何かがにじみ出ていた。
怪訝そうに見返すライオットに、ため息混じりに付け加える。
「けれど妾は、王妃の地位にも宮廷の権勢にも興味などないのです。こんな贅沢な暮らしをさせていただいて、その上何かを望むなど、神々の罰が当たりますわ」
ほんのわずかに憂いを帯びた、まるで自分に言い聞かせるような口調だった。
地雷を踏んだか、と内心ライオットが舌打ちした。
宮廷に対して好意を持っていない相手に、宮廷での立身出世を話題に振っても逆効果だ。少女が変えたがっていた雰囲気も逆戻りしてしまい、自分の失策に天を仰ぎたい気分。
「男爵夫人、その……」
レイリアも何かを言いかけて、ふさわしい言葉を見つけられず、もどかしそうに口を閉ざす。
だが音にされなかったレイリアの想いは、きちんと相手に伝わったようだ。
ラフィットは小さく頷くと、今までとはまるで違う、弱々しい笑みを浮かべた。
「それでも、こんな妾にも許されるのであれば、たったひとつだけ夢があるのです」
そんなことを口にするのは、きっと初めてなのだろう。
何度もためらい、迷いながら、レイリアを見つめ続ける。
どれほどの沈黙が流れたのだろうか。
促すような黒い瞳に背を押されて、ようやくラフィットは重い口を開いた。
「レイリア様。妾は友人が欲しいのですわ」
それは、夢と呼ぶにはあまりにもささやかな願いだった。
国王の寵愛を一身に受け、良くも悪くも注目の的となっている愛妾が、初めて見せた14歳の少女の顔。
そんなものをさらけ出すのは初めてなのだろう。羞恥と緊張に上気した顔で、ラフィットは話し続けた。
「権力も金銀も関係なく、ただ互いの本音を語り合って、心から笑い合える、そんな対等の友人が欲しいのです。無論、理屈では分かっています。妾が国王陛下以外の方と必要以上に親しくなれば、相手にも迷惑がかかるのだと。妾の要求が無茶なものだということも。それは分かっているのですが、それでも妾は」
「男爵夫人」
そっとラフィットの言葉を遮ったレイリアの声は、マーファの司祭にふさわしい、慈愛に満ちたものだった。
裏表のない、掛け値なしに暖かい微笑を浮かべて、ラフィットに頷きかける。
「友人を欲しいという気持ちに、理屈など必要ありませんよ。それは人として自然な気持ちなのですから」
そしてゆっくりと立ち上がり、ラフィットの席へと歩み寄る。
黒い瞳に吸い寄せられるようにラフィットも席を立つと、レイリアはそのたおやかな手を取った。
「ロートシルト男爵婦人。私はマーファ教団の最高司祭、ニースの娘です。この身は信仰に捧げると決めましたので、生涯、宮廷とは無縁でしょう」
「……はい」
「ターバの片田舎で過ごすには、十分なお手当も頂いています。必要以上の金銀財宝は、一司祭には無用の長物です」
「はい」
何もかも受け入れてしまうような、包容力に満ちたレイリアの微笑。
それが意味するところを察したのだろう。碧玉の瞳を期待に輝かせて、ラフィットは頭半分だけ背の高いレイリアを見上げる。
レイリアの言葉は、その期待を裏切らなかった。
「男爵夫人。あなたが私を認めてくださるなら、今日から私の友人になっていただけますか?」
「はい……はい、レイリア様。妾からもぜひお願いします」
鉛色の雲に蔭っていた大地に、春の陽光が射し込むように。ラフィットの表情がぱっと明るくなり、握る手に力がこもる。
レイリアも、その華奢な手を握り返した。
「では男爵夫人。あなたのことを、今日からラフィットと呼ぶことをお許し下さい。あなたが男爵夫人ではなくなっても、あなたの友人としてあるために」
そんな言葉をかけられたのは初めてだったのだろう。ラフィットは喜びを通りこして驚きの表情を浮かべた。
この都における彼女の存在意義は、ロートシルト男爵夫人であることが全てだ。それは国王が彼女につけた名札であり、貴族だろうと平民だろうと、その名を呼ぶことに疑問を感じる者はいない。
今までも、ラフィットと親しく付き合おうとする者はいた。だがそれは、彼女がロートシルト男爵夫人であるからだ。もし彼女が国王の寵愛を失い、この離宮を追われたら、ただの小娘には見向きもしなくなるだろう。
ロートシルト男爵夫人という名札には、それだけの価値があるのだから当然の話だ。それを嫌だとか悔しいとか思ったことはない。
だがレイリアは、たった一言でその前提を飛び越えてしまった。今まで誰も見ていなかった、ただのラフィットだけを相手にしている。
「それは、本当ですか?」
信じられない、といった様子でラフィットがレイリアを見上げる。
慈愛の微笑を浮かべた司祭は、力強く肯いた。
「もちろんです。もしラフィットが国王陛下の御勘気をこうむったら、いつでもターバにおいで下さい。冬は長く寒いですが、暖かな暖炉が用意してあります。一緒に毛布にくるまって、お茶とお菓子を楽しみましょう」
国王の愛妾としてではなく、ただの14歳の少女としてだ。
むしろそっちの方が、ラフィットにとっては幸福なのではないか。レイリアは本気でそう思っていた。
「では妾も、レイリア様のことを、その、」
おそるおそる、ラフィットが問いかける。
「お姉様、とお呼びしてもよろしいですか?」
予想外の呼び名に少し驚いたが、レイリアはすぐに破顔した。
年齢不相応に大人びた少女が不器用に甘える様子は、まるで相手を試す子猫のよう。この顔を見て、否と答えられるはずもない。
今まで年長者に囲まれて背伸びしてきたレイリアにとっても、久しぶりに等身大で付き合える相手だった。
「もちろんです。私に妹はいませんから、私をそう呼ぶのはラフィットだけの特権ですね」
「お姉様……」
握っていた手を離すと、ラフィットはためらいがちに、その手をレイリアの背に回した。
白い麻の神官衣と、絹の豪奢なドレスが重なり、そっと抱きしめ合う。
レイリアの甘い匂いに包まれながら、ラフィットは小さくつぶやいた。
「ずっとお待ち申し上げておりました、お姉様」
少女の真珠色の頬を、涙がひとしずく、こぼれ落ちる。
それには気づかない振りをして、レイリアは抱きしめる腕に力を込めた。
今はただ、腕の中の少女を少しでも暖めたかった。