マスターシーン アラニア王宮“ストーンウェブ”
少女は王宮のバルコニーから、夕暮れに沈んでいく王都の街並みを眺めていた。
ドワーフ族の手により建設された都は、“千年王国”(ミレニアム)の雅称にふさわしい壮麗なものだ。
王宮を中心にして放射状に伸びる街路は石畳で舗装され、その地下には上水道や下水道まで完備している。
たくさんの窓にひとつ、またひとつと明かりが灯っていくと、アランの都はまるで光の海のようになった。
あのオレンジ色の光の中では、男たちが酒杯を持って大騒ぎし、恋人たちが愛を語らい、家族が暖かい食卓を囲んでいるのだろう。
それに比べて、自分は。
少女はバルコニーから、自分の居室へ視線を転じた。
大人が5人は並んで眠れそうな天蓋付きのベッド。
金糸銀糸で建国英雄譚を描いた、豪奢なタペストリー。
オークの巨木から削りだしたサイドテーブルには、水晶の水差しと硝子杯。
どんな小さな物にも、無駄と思えるほどの手間と金をかけて整えられた部屋だった。
つい先日も、櫛の歯を1本だけ欠けさせた女官が、その値段を知るなり蒼白になって平伏してきた。彼女の俸給では、弁償するのに20年ほどかかるのだという。
少女は歯の欠けた櫛を受け取ると、自分で二つに折ってから言ったものだ。これで、櫛を壊したのは妾(わたくし)ですね。国王陛下のお叱りは、妾が受けることにいたしましょう、と。
今は少女のほかに人の姿のない部屋。
ここは鳥籠だ、と少女は思う。
金網の代わりに金銀と権力で人を閉じこめ、一方的な愛玩を加えるための鳥籠。
ただのラフィットだった少女に『ロートシルト男爵夫人』という名札をつけ、誰もがその名札しか見ない。
国王陛下の愛妾という地位は、王国中の女性がうらやむ貴いものなのだという。
確かにそうなのだろう。
今ではラスター公爵様やノービス伯爵様など、雲上の貴人である王族までもが、自分のような小娘に丁寧に接してくれる。
衣食住に困らず、大勢の女官にかしづかれ、何不自由のない生活が保障されているのだから。
その代わり。
自分に選択肢はなく、未来はなく、ただ時が流れるのを待つばかりの生活。
14歳とは思えないほど諦観に充ちた表情で、少女~ラフィット・ロートシルト男爵夫人は、バルコニーから藍色の空を見上げた。
「神様、もし願いが叶うなら……」
国王が知ったら卒倒するような願い事を、心の中でつぶやく。
そのとき、ノックの音がして、少女の部屋にひとりの男性が入ってきた。
「失礼いたします、男爵夫人」
知的な雰囲気と落ち着いた声。
黒い魔術師のローブを羽織り、桐の薬箱を携えた30歳くらいの男だ。
名をリュイナールという。
アラニア王国宮廷魔術師の地位にあり、ラフィットの侍医も勤める男性だ。
清潔感のある端整な容貌の持ち主で、宮廷の女官たちには随分と人気があるらしい。銀蹄騎士団のラスカーズ卿と勢力を二分している、と聞いたことがある。
だが彼の真価は外見ではなく、アラニア王宮で最高級の頭脳にこそあった。
「ようこそ、リュイナール様。お待ちしておりました」
ラフィットは居室に戻ると、礼儀正しく笑顔を浮かべて、黒髪の魔術師を出迎えた。
「お憩ぎのところ申し訳ありません。今宵も国王陛下のお運びがあるとうかがいまして、薬をお持ちいたしました」
「いつもお心遣い、痛みいります」
優雅に頭を下げて、ラフィットが礼を言う。
宮廷魔術師はどこか申し訳なさそうな表情で、桐の薬箱から丸薬を取り出した。
ラフィットが国王の寵愛を受ける夜は、欠かさずに飲んでいる薬。それには、一晩の間、女性の機能を完全に止めてしまうという効果がある。
「このお薬はとても助かりますが、次の日にお腹が痛くなるのは困りものですわね」
冗談めかして笑うと、ラフィットは魔術師が差し出したワインのグラスを受け取り、その丸薬ごと飲み干した。
「男爵夫人、ご心痛はお察しいたします。しかしながら、今の状況でご懐妊なさるのは、いささか問題がございます」
「判っています、リュイナール様。大貴族の庇護のない妾が、王位継承権者を産むことは危険すぎる。そういうことですね」
「仰せのとおりです」
一歩下がって片膝をつくと、宮廷魔術師は深々と頭を下げた。
何かの魔法の品なのだろう、2つの紅玉と金で飾られたサークレットが、魔術師の額できらりと光る。
まるで魔法の目みたいだわ、とラフィットは思った。
魔術師は下を向いているが、サークレットの紅玉は彼女の心を監視するように視線をはずさない。
「ロートシルト男爵夫人は、次期の王位を望む者たちからすれば、邪魔者以外の何者でもありません。万が一にもご懐妊なされば、短慮を起こす者が出るのは必定かと」
今のアラニア宮廷は、大きく2つの派閥が存在する。ラスター公爵派と、ノービス伯爵派だ。
ラスター公爵は妾腹だが王の弟であり、次の王位に最も近いと目されている。
対するノービス伯爵は王の従兄弟という立場だが、母親が隣国カノンの王族であり、貴い血を重視する貴族の中には彼を推す声も強い。
どちらも一長一短。
権勢にも決定的な優劣はない。
現王カドモス7世に王子がいない以上、次の王冠を手にするのは2人のうちのどちらか、ということになるだろう。
だが、ここでラフィットが男児を出産すれば話は変わる。
王位継承権第一位の王子が誕生すれば、ラスター公爵やノービス伯爵の出番などなくなってしまうからだ。
それをおもしろく思わない貴族など、宮廷には掃いて捨てるほどいる。彼ら自身もしかり、彼らの取り巻きもしかり。
そんな貴族たちが邪魔者に対してどれほど冷酷に振る舞うか、ラフィットは嫌というほど知っていた。
「あと5年お待ちください。その間に力を蓄えるのです。男爵夫人の味方をそろえ、ラスター公やノービス伯に負けないほどの権勢を整えれば、晴れて王妃の座に就くことも叶いましょう」
不肖、このリュイナールもお味方いたします。そう言ってさらに頭を低くする宮廷魔術師に、ラフィットは冷めた視線を投げかけた。
人は好いが凡庸なカドモス7世に助言し、貴族たちの権力バランスを調整するのがリュイナールの役目だ。
片方が強くなれば醜聞をあげつらって影響力をそぎ落とし、もう一方が弱まれば重職に登用して力を与える。
どちらも強からず、どちらも弱からず。天秤のように揺らしながら、しかし決して崩壊はさせない宮廷運営能力は、芸術と言ってよいレベルまで洗練されている。
そんなリュイナールにとっては、ラフィットすらもバランスを取るための駒でしかないのだろう。
くだらない。
自分は権力にも財産にも興味はない。
この鳥籠から解放されることが、唯一の望みだというのに。
だが、本音を口に出さないということもまた、この宮廷生活で身につけた知恵のひとつだった。
「あなただけが頼りです、リュイナール様。どうかこれからも、お見捨てなくご指導を賜りますよう」
国王の愛妾にふさわしい気品と、14歳の少女に相応の弱々しさ。それを完璧な演技で漂わせながら、宮廷魔術師に声をかける。
「御意」
頭を下げたリュイナールのサークレットを眺めながら、ラフィットは思った。
本当にくだらない。
自分はあと何年、この鳥籠にいればいいのだろう……。
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ、辺境の島だ。
大陸の住人の中には、ここを呪われた島と呼ぶ者もいる。
かつて神話の時代、邪神カーディスがこの地に倒れ、呪いをまき散らしたと伝えられるが故に。
邪神の骸が今でも、地下深くに眠っていると伝えられるが故に。
そして今、終末の邪神を奉じる者どもが、ロードスの大地に跳梁を始めようとしていた。
SWORD WORLD RPG CAMPAIGN
『異郷への帰還』
第3回 鳥籠で見る夢
シーン1 王都アラン 賢者の学院
小高い丘の上にあるその建物は、王都アランのどこからでも見ることができた。
純白の王宮とは対照的に、すべてが黒大理石で作られ、威厳と風格にあふれた建物群。
丘をひとつ占領し、全周を壁で囲んだ外観は、まるで砦か要塞のようだ。
アラニアでもっとも美しいと評される丘の上の城。そこは、人々から賢者の学院と呼ばれていた。
今から200年前、カストゥール王国時代の叡知を保存・復元し、その継承者たる魔術師を育成するために、当時の国王が建設させた施設である。
学院はこれまでに幾多の偉大な魔術師を輩出し、失われた魔法を復活させてきた。内部は強大なマナの力で満たされ、古代王国の再来とまで言われている。
人々の中には、この学院を“象牙の塔”と呼ぶ者もいた。
魔術師を志すには膨大な学費が必要なことから、貴族の子弟や豪商の子息でもない限り、足を踏み入れることができないからだ。
この学院で正魔術師の位を得た貴族の子弟は、騎士の叙勲を受ければ、王国の最精鋭である銀蹄騎士団に迎えられることとなる。
ロードス島において、強大な力をふるう魔術師は恐れられ、嫌われる存在だ。
だがここアラニアにおいては、魔術師は権力や財力の象徴であり、栄達への近道でもあるのだ。
その象牙の塔の最上階。
学院長として広大な部屋を専有する最高導師ラルカスは、来客を告げられて魔術書から視線を上げた。
閲してきた年月にふさわしく、髪と顎髭は雪のように白く染まっている。顔には深い皺が刻まれているものの、その目に宿る峻烈な知性が見る者を圧倒した。
その威厳といい、迫力といい、並の人間に対抗できるものではない。
「客? 私にか?」
ラルカスの秘書役を務める魔術師見習いは、不機嫌そうな視線に震え上がりながら、首を上下させた。
「マーファ教団の最高司祭、ニース様の名代と名乗っておられます。他に護衛の冒険者が3名と、司法官パーシア公爵の使者の方もご一緒に」
ラルカスはしばらく険しい目つきで見習いを睨んでいたが、やがて机上の水晶球に手をかざすと、小さく古代語の合言葉を唱えた。
水晶球が淡く光り、中に応接室の様子が映し出される。
豪華な革張りのソファに3名の女性が座り、武装した2名の男性が後方に立っている。
若い。最年長らしい金属鎧の戦士も、年齢は30に届かないだろう。マーファの神官衣を着た黒髪の娘に至っては、まだ10代の半ばに見えた。
このような青二才どもに、貴重な研究の時間を邪魔されようとは。
「この者たちは、本当にニース殿の使いなのか?」
全員の顔を眺め回すと、不機嫌を隠そうともせずに、ラルカスは見習いに問いかけた。
手の中のメモを見ながら、見習いが答える。
「黒髪の司祭は、ニース最高司祭の令嬢、レイリア様だそうです。金髪の女性がパーシア公爵の使者、アウスレーゼ殿。銀髪の女性魔術師と金属鎧の戦士、黒髪の戦士の3名が、レイリア様の護衛の冒険者だと」
見習いの言葉に少なからず驚いた様子で、ラルカスは再び水晶球に視線を落とした。
何事かを考え込むように眉を寄せた後、ややあってゆっくりと立ち上がる。
「まあよい。ニース殿の名代とあらば、追い返すわけにもいかんのだからな。すぐに参りますとお伝えしろ」
「はい」
はじかれたように見習いが退出すると、儀礼用のローブを羽織って、低くつぶやいた。
「厄介なことになってきたものだ」
ロードス最高の魔術師であり、賢者の学院を預かる身ともなれば、俗世と全く関わらないわけにはいかない。
この面倒事をどうやってあの魔女に押しつけようか、と考えながら、ラルカスは望まぬ足を応接室に向けた。
「遠路はるばるようこそ、と言いたいところだが、できれば先触れくらいは欲しかったものだな。私がラルカスだ」
さんざん待たされた挙げ句、この一言。
入ってきた白髪の老人の態度に、ルージュは内心でため息をついた。
後ろで夫が臨戦態勢に入るのが分かる。
ライオットはこういうタイプの、自分が偉いと思っている人間を何よりも毛嫌いしているのだ。
年寄りの魔術師というから、しょぼくれた枯れ木のような人物を予想していたのだが、今回はハズレだった。
ラルカス最高導師は決して大柄ではないが、全身から発散する威圧感のせいで、実際よりもかなり大きく見える。どこかの国の政権与党で、幹事長くらいなら軽く務まりそうだ。
ただし党代表は駄目だ。党のイメージキャラクターが悪役面では、選挙で票が集まるまい。
それにしても、ルーィエを連れてこなくて正解だった。もしここにいれば、今の一言で確実に喧嘩を買っていただろう。
「お初にお目にかかります。ターバ神殿の司祭、レイリアと申します。お会いできて光栄です」
ソファの中央から立ち上がって、レイリアがにこりと笑った。
この中では最年少ながら、ターバで鍛えた接待技能は伊達ではない。初対面でシンとライオットを撃墜した交渉用の微笑は、この老人にも十分な効果を発揮した。
ラルカスは高圧的だった態度を軟化させると、客たちに座るように促して、自分も対面のソファに腰を下ろした。
「アウスレーゼ殿には、1度だけ会ったことがあるな。こちらの魔術師殿は見覚えがないが、賢者の学院にはいつ頃おられた?」
「私は大陸の出身ですので」
あなたの教え子ではありません、とやんわり告げる。
ルージュ・エッペンドルフが誕生したのは西暦1990年5月、新王国歴498年のことだ。アレクラスト大陸中央部の軍事国家レイドの皇族出身で、見合いが嫌で実家を逃げ出した、なんていう厨二設定もあった。まあ、当時はリアル中学生だったのだから仕方ない。
何をしでかすか分からないというプレイスタイルから“奇跡の紡ぎ手”(ファンタジスタ)などと呼ばれた恥ずかしい過去を思い出していると。
「それにしても、見事な品をお持ちだな。魔法樹マグナロイの杖とは」
ソファに立てかけてあったルージュの杖を目敏く見つけて、ラルカスが感嘆した。
マグナロイは、エルフの森にあるという黄金樹と同じく、世界樹の直系の子孫だと言われている。世界の源となった始源の巨人の力を色濃く残しているため、落とされた枝の1本でも強いマナを宿すことで有名だ。
もはや物質界には存在しないと考えられており、魔術師たちにとっては伝説そのものとして知られる樹だった。
「金を積めば買えるという代物ではないだろう。これをどこで?」
見た目は偉そうでも、魔術師は魔術師ということか。
ラルカスは新しいおもちゃを見つけた子供のように、目を輝かせて身を乗り出す。
「うちの古い倉庫に眠っていたのを、勝手に拝借してきたものです。放っておいて盗まれるのも、もったいない話ですから」
レイド帝国滅亡のどさくさに紛れて、皇宮の宝物殿から持ち出したというわけだ。
ルージュの故国レイドは3年前に隣国ロマールに併合され、現在の地図には残っていない。思えば、ルージュが初めて経験したキャンペーンシナリオが、ロマールの軍師を相手に故郷を守るというものだったはずだ。
「ラルカス様。そろそろ宜しいでしょうか? 非礼を承知で突然押し掛けたのは、喫緊の用件があるからなのです」
魔術師同士で世間話でも始めそうな様子に、それまで黙っていたアウスレーゼが口を挟んだ。
いささか名残惜しそうに魔法樹の杖を見てから、ラルカスも居住まいを正して向き直る。
「ふむ。私も暇を持て余しているわけではない。本題に入るとしようか」
用件を伺おう、と腕を組むラルカスに、アウスレーゼは簡潔に告げた。
「バグナード導師の居場所を教えていただきたい。彼は邪神カーディスの教団の一味です」
蒼氷色の瞳で切りこむアウスレーゼを見返して、しばし沈黙した後、ラルカスは失笑をもらした。
「アウスレーゼ殿は、あのバグナードが邪神に帰依したとおっしゃるか。冗談としては面白いが、ありえん話だ。バグナードが信じるのは唯ひとつ、絶対にして万能の力たる魔術のみよ。あやつが求めるのは自身が魔術を極めることであって、神にせよ何にせよ、他人に救いを求める性格ではない」
人の悪い表情を浮かべて、白髪の老魔術師はアウスレーゼの言葉を鼻で笑う。
魔術は万能と言い放つその態度は、誇りと驕りに凝り固まり、控えめに表現しても腹立たしい限り。これでは魔術師が嫌われるのも当たり前だ、とルージュは肩をすくめた。
あからさまな挑発に、アウスレーゼの声がさらに冷たくなる。
「あなたがどう考えようとあなたの自由です。しかし事実、バグナード導師は邪教の司祭とともにレイリア様を襲撃している。彼を放置することはできません」
居場所を教えてください、と繰り返すアウスレーゼ。
だが、ラルカスは首を振った。
「無理だな。私はあやつの居場所など知らぬ」
「なぜです? バグナード導師は、あなたの高弟でしょう?」
「数年前まではそうであった。だが今は違う。バグナードは私が《ギアス》の魔法で縛り、魔術の一切を封じて追放したからな」
アウスレーゼの眉が跳ね上がる。
「何故それを、すぐに報告しなかったのです?」
「何故報告せねばならん? バグナードは王国の法に背いたわけではない。学院の規則に反しただけだ」
正面から突っぱね、相手を怒らせて追い返す心算なのだろう。ラルカスはさらに高圧的に言い放った。
「そもそも、邪教の跳梁を抑え、王国の治安を守るのは宮廷の責務であろう。我らがそこに何の責を感じる必要がある? 邪教を殲滅し、バグナードを捕らえるのはそなたらの役儀ではないか」
交渉決裂。ラルカスはそれを望んでいる。
だが、この場でそれを求めたのは彼だけだった。
シンとライオット、ルージュは互いに視線を交わし、頷き合う。
今ここで必要なのは情報ではない。バグナードの居場所をラルカスが知っているはずはないからだ。
必要なのは、現実を正しく認識させ、今後の対応について協力させること。
海千山千の相手を揺さぶり、脅し、協力させるためにいくつものカードを用意したし、どの順番でどのカードを切るか、綿密に打ち合わせもしてある。
「では、バグナード導師はその《ギアス》を解呪したのですね。実際、私たちの目の前から《テレポート》で消え去ったのですから」
まずは軽いジャブ。澄ました顔でルージュが言った。
ラルカスは最高位の魔術師だ。シンやライオットではまともに相手をしてもらえないだろう。
交渉するならルージュが適役。これも相談の結果だ。
「……どういう意味かな、魔術師殿?」
見習いたちを震え上がらせる低い声音で、ラルカスが唸る。
師匠がかけた魔法を弟子に打ち破られるなど、魔術師にとって屈辱でしかない。
内心びびりながらも、肩に置かれた夫の掌を支えにして、ルージュは平静を装う。
「そのままの意味ですよ。あなたは禁断の呪法を求めた直弟子を、何の首輪もつけずに野放しにしてしまったということになる。違いますか?」
シャギーのかかった肩までの銀髪。紫水晶の瞳。
陶器の人形のような美貌にうっすらと浮かべた微笑は、どこか超然とした雰囲気を漂わせている。
ライオットやルーィエを震え上がらせる、絶対零度の微笑だ。
血が受け継ぐ能力というものがあるなら、この迫力はレイドの帝室に由来するものだろう。
「そういう言い方は失礼ですよ、ルージュさん。ラルカス様、申し訳ありません。私たちは喧嘩をしに来たのではないのです」
剣呑な気配を察して、すぐにレイリアがフォローする。
ルージュとアウスレーゼが恫喝担当なら、レイリアは誠意担当だ。鞭と飴を交互に繰り出して、相手の混乱を計る。ライオットが書いた筋書きを、女性陣は完璧に演じていた。
「いや、謝罪には及ばん。ただ私には信じられんのだ。バグナードの力量では、あの《ギアス》を解呪することなどできるはずがない」
「では、解呪はできなかったけれど、痛みに耐えることはできた、というところですね。バグナード導師は呪文を唱える間ずっと、とても苦しそうにしていましたから」
さすがはラルカス様の高弟です、とレイリアは感心してみせる。
間接的に持ち上げられて、白髪の老魔術師はまんざらでもない顔をした。自分の自尊心が傷つかない範囲内なら、現実を受け入れるつもりはあるようだ。
「しかし困りましたね。これではパーシア公爵の疑念を晴らすことができません」
腕を組んだアウスレーゼが、わざとらしくため息をつく。
「私は公爵に言われてきたのですよ。賢者の学院が、太守の魔法書を解読するために、カーディス教団と手を組んだ可能性がある。そのためにバグナード導師が派遣されたのではないか、と」
「何だと!」
効果覿面。
ラルカスは立ち上がると、すさまじい形相でアウスレーゼをにらんだ。
太守の魔法書とは、以前バグナードが手に入れてきた、ロードス最後の太守サルバーンの魔法書のことだ。
サルバーンは優秀な死霊魔術師として知られており、その魔法書は古代王国の英知の結晶とも言える貴重なもの。賢者の学院でも選りすぐりの俊英を動員して、現在も研究が続けられている。
だが死霊魔術という特性上、死と破壊を司る女神カーディスにつながる部分があるため、学院の外には漏れぬよう細心の注意を払ってきたはずだった。
その情報が、パーシア公爵の耳にまで入っているとは。
もらしたのは誰だ?
太守の魔法書のことを、宮廷はどこまで知っている?
脳裏にいくつもの疑念が浮かんだが、それを口にすることは、アウスレーゼの言う疑惑を認めることに繋がる。
カーディス教団とのつながりなど事実無根とは言え、ラルカスの高弟だったバグナードが一緒にいるとなれば、ラルカス本人や学院の上層部が疑われるのはやむを得ないのだ。
学院内の醜聞を広める必要もないと思い、バグナードの追放を王宮に報告しなかったのは失敗だったようだ。
内心で舌打ちしながら自分の短慮を悔やんでいると、今度はレイリアが口を開いた。
「ニース最高司祭が“墓所”に入った際、賢者の学院からお借りした鋼の衛兵が、突然襲いかかってきたそうです。ゴーレムに命令を下せるのは高位の魔術師のみと聞いています。ニース最高司祭も、賢者の学院が無関係だとは考え難い、とおっしゃっておいででした」
そして神官衣の懐から、ライオットが粉砕した衛兵の破片を取り出し、テーブルの上に載せる。
一目見てそれが何なのか分かったのだろう。ラルカスは頬をひきつらせると、がくりと椅子に崩れ落ちた。
学院長ラルカスの高弟が、レイリアを襲い。
学院が用意した鋼の衛兵が、ニース最高司祭を襲った。
この状況で賢者の学院が無実だと主張する者がいたら、ただの阿呆だと断定してよかろう。
すべては濡れ衣。
学院が邪教と手を結ぶことなどありえない。
だがラルカスの明敏な知性は、それを証明できない今の状況を正しく理解していた。
すべては数年前、自分自身が処理を誤ったバグナードの一件が原因で。
「信じていただきたい。すべてはバグナード個人の仕業であろう。我らはこの学院の中で、正しき魔術の研鑽に励むだけの学術の徒だ。邪神の教団に力を貸すなどありえぬ」
言葉だけでは何の説得力もない。そう思いながら、ラルカスは主張せざるをえない。
だが上位古代語と異なり、ロードス共通語のなんと力の無いことか。
魔法を使えば、いとも簡単に嘘を聞き分けることができる。だが、嘘だ真実だと保証するのが魔術師では、まるで意味がないのだ。
「もちろん、私どもはラルカス様を疑ったりなどしておりません。ご安心下さい。ただ、バグナード導師の捜索に協力をお願いしたいだけなのです」
レイリアが穏やかに話しかける。
疑っていないのは本当だ。誠意にあふれた声は、ラルカスの顔に安堵の表情を引き出す。
だが、わずかに戻ったラルカスの生気を、ルージュの切った手札はあっさりと粉砕してしまった。
「とはいえ、襲った相手が悪かったですね。『ふたつの鍵、ひとつの扉、かくしてカーディスは蘇らん』。太守の魔法書をお持ちなら、この言葉の意味はご存じでしょう?」
あなたの弟子は、カーディス復活の儀式に必要不可欠な、ひとつの扉たる少女を襲ったのだと、ルージュが静かに指摘する。
ただの司祭を襲うのと、ひとつの扉たる少女を襲うのでは、宮廷に与える衝撃はまるで違う。
自分たちは真実を知っているのだ、そう告げる紫水晶の瞳に、ラルカスは初めて畏怖を覚えた。
青二才と侮っていたが、実はとんでもない相手なのではないか。
そういえば、無敵とも思える鋼の衛兵を倒したのは、この冒険者たちなのだろうか。あの狭い墓所の中では、大勢で取り囲むこともできない。1対1に近い状況で戦って、衛兵を文字どおり粉砕するなどと、常識では考えられないことだ。
「レイリア様は協力をお願いしたいとおっしゃいました。ですが、今の学院の立場は違いますよね? 自らの手でバグナード導師を捕らえ、宮廷に差し出して、自らの潔白を証明せねばならないはず」
異議がありますか、と言わんばかりに、ルージュの双眸がラルカスの目を射抜く。
立場の上下は歴然としていた。
ラルカスは肩を落とすと、力無く答えた。
「私にできることがあれば、何でもしよう。どうすればいい?」
他の答えを、彼は許されていなかった。