インターミッション2 ルージュ・エッペンドルフの場合
翌朝。
食欲をそそる匂いに刺激されて、ルージュはいつもより早く目を覚ました。
階下からはリズミカルに包丁を使う音が、窓の外からは小鳥のさえずる声が聞こえる。
気持ちのよい朝。
夏休みに、夫と旅行で泊まった高原のペンションを思い出す。
「ん~~」
客間のベッドで大きく背伸びをすると、ルージュはくるまっていたシーツの海から起き上がった。椅子にかけてあった魔術師のローブを羽織り、申し訳程度に髪に櫛を入れる。
鏡の中にいる繊細な顔立ちの佳人が、眠そうな瞳でルージュを見つめていた。
あの激闘の後。
ニースとレイリアはピート卿夫妻の看護にかかりっきりだったし、シン、ライオット、アウスレーゼの3人は再襲撃を警戒して作戦会議をしていた。
慣れない魔法を連発したルージュは、疲れ果ててソファに横になったのだが、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
「ライくんが運んでくれたのかな?」
であれば、もう危険はないということだ。
普通に考えれば、あの状況で戦力を分散して個室に入れるはずがない。あえてそれをやったということは、やっても大丈夫だという確信があったことを意味する。
血まみれのダイニングに一晩籠城するのもぞっとしないし、夫の判断には素直に感謝しよう。
そんなことを考えながら、朝食の匂いに誘われるように階下に降りる。
窓から朝の陽光が差し込み、館はまるでカントリー・ウェスタンの映画の中のようだ。朝特有のけぶるような空気が、居心地のよさに花を添えている。
これで昨日の事件がなければ最高だったのに。
そう思いながら食堂の扉をくぐって、ルージュは驚きのあまり目を見開いた。
部屋中に飛び散ったはずの血痕は跡形もなく消え去り、壁も床も丁寧に磨き上げられて、まるで新築のような木の香りが漂っている。
大きなダイニングテーブルには糊のきいた純白のクロス。
卓上には人数分の食器が整然と並び、フォークやスプーンなどの銀器も準備万端だ。
砕けたはずの花瓶には昨日と同じように花が生けられ、朝の食卓を飾っていた。
「うそ……」
昨日の激闘の跡など、どこにも見当たらない。
まるで時間を巻き戻したかのようなダイニングに、ルージュが言葉を失っていると。
「おはようございます、ルージュさん。今朝は早起きですね」
清楚なエプロンドレス姿のレイリアが、厨房から顔を出して笑顔を見せた。
「すごいでしょう、この食堂。ルーィエさんが元通りに直して下さったんです。猫の王様はすてきな魔法使いだったんですね」
「ルーィエが……」
ルージュが目を丸くしていると、窓のすぐ下、日溜まりの一等地でミルクを舐めていたルーィエが、つんと澄まして口を挟んだ。
「何度も言わせるな。直したのは俺様じゃない。イメーラ夫人がしつけた小人たちだ。礼ならイメーラ夫人に言え」
「なるほど、館の精霊たちに頼んでくれたのね。ありがとう、ルーィエ」
ルージュは窓際に歩み寄ると、指先で双尾猫の首筋をくすぐって礼を言う。
気持ちよさそうに目を細めた後、ルーィエはふと我に返って尻尾を振り回した。
「俺様は何もしてないと言ってるだろうが。仮にも魔術師の端くれなら、人の話は正しく理解しろ。それと俺様を子供扱いするな。猫族の王に対して不敬だぞ」
「立派なことをしたんだから、そんなに照れなくてもいいのに」
ルージュが苦笑すると、銀色の双尾猫はムキになって喚いた。
「うるさい。無駄口たたいてる暇があるなら、この娘を手伝って朝食の準備でもしてこい。珍しく早起きしたんだから、たまには人様の役に立ってみせろ」
ルーィエが不機嫌そうにそっぽを向く。
ルージュは立ち上がると、レイリアに尋ねた。
「イメーラ夫人は、まだ寝てるの?」
「はい。さすがに瀕死の重傷でしたから。体力が回復するまでは休んでもらおうと思います」
昨日は本当にありがとうございました、とレイリアは深々と頭を下げた。
「それなら、私も朝食の準備くらい手伝うよ」
ローブの袖をまくりながら厨房へ向かう。
すると、レイリアはあわてて手を振った。
「恩人に手伝わせるなんてとんでもない。ここは私が」
「大丈夫、これでも人妻だから。料理くらい任せて」
もっとも、漂ってくる匂いからして、ほとんどの調理は終わっているのだろうが。
そう思いながら厨房をのぞくと、予想通り、いくつもの鍋やフライパンで調理が同時進行していた。
「ほら、卵が焦げちゃう。それは火が半分くらい通ったら、軽く水を入れて蓋をするといいよ。きれいに膜がはるから」
「あ、はい」
「すごくいい匂いがする。パンも焼いてるの?」
「そうです。私が作ったので、味は期待しないで下さいね」
水瓶から汲んだ水を慎重に注ぎながら、レイリアが背中越しに答える。
厨房の隅にしつらえられた窯では、木の板に載せられたパンが順調に膨らんでいた。
「ベーコン入りの目玉焼きに、ソーセージに、サラダに、スープに、パンと紅茶か。ああそうだ、バターとジャムが要るよね」
厨房に用意された食材を眺めながら、唇に指を当ててつぶやく。
すると、レイリアは驚いてルージュを見た。
「バターなんて、何に使うんですか?」
予想外の言葉に、ルージュも驚いて黒髪の少女を見返す。
「え? ふつうパンに塗って食べるよね」
「……ルージュさんって、貴族の出身なんですね。どうして冒険者なんかしてるんですか?」
フライパンに蓋をすると、レイリアが意外そうな顔をする。
「ええとごめん、話がぜんぜん見えない。パンにバターを塗ると、貴族なの?」
「だって贅沢じゃないですか。バターって作るのも大変だし、日保ちしないし、朝食に間に合わせるには相当早起きしなきゃいけないですよ?」
レイリアの言葉に、ルージュはなるほどと頷いた。
スーパーで200円で買ってきて冷蔵庫に入れておけばいい日本とは、まるで物の価値が違うのだ。
常温で溶けてしまうバターは、確かに使うたびに作らなくてはならない。
たった100グラムのバターを作るのに必要な牛乳は、実に5リットルにも及ぶ。それを延々と振り続ける作業行程を考えれば、一般家庭の朝食にはとても使えないだろう。
「じゃあ、昨日出た川魚のバター焼きも、相当手間がかかってたんだね」
「革袋に入れたミルクを木の枝につるして、父が半日も木刀で叩き続けたそうです」
「うわ、そりゃ大変だ」
その苦労を察して、ルージュが顔をしかめる。
フライパンを火から下ろして皿に取り分けながら、レイリアは楽しそうに笑った。
「母が言うには、年に一度だけニース様と娘が帰ってくるのだから、その準備だと思えば苦労すら楽しい、と」
父、母、と呼ぶレイリアの顔は幸せそうで、見ているだけで微笑みがこぼれてくる。
「じゃあご両親のために朝食を作るレイリアさんも、今は楽しくて仕方ないんだね」
「そうですね。両親だけじゃないですけど、誰かに喜んでもらおうと思って作る料理なんて、これが初めてですから」
かいがいしく食事を準備する新妻のごとく、まるで歌でも歌い出しそうな様子のレイリアを見て、ルージュは少し考え込んだ。
準備を手伝うのは構わない。だが、この朝食はレイリアがすべて用意したというところに、最大の価値があるのではないだろうか。
であれば、自分が手を出すのはあまり宜しくない。
「……なるほど、贅沢品か」
そのアイデアは、天恵としか言いようがない。
ルージュはにこりと笑うと、レイリアに尋ねた。
「ミルクはまだ残ってる?」
「はい。毎朝、近所の方が届けてくれるそうなので。そこの瓶にたくさん入ってますよ」
「分かった。これ、私が使っても構わないかな? 朝食までにバターを作ろうと思うんだけど」
今度は包丁を片手にトマトを切ろうとしていたレイリアが、軽く苦笑する。
「それはやめた方がいいのでは? 時間もないですし、朝から重労働ですよ?」
「大丈夫。力仕事担当を連れてくるから」
「使うこと自体は構いませんけど」
寝起きでバター作りでは、ライオットさんがお気の毒です、と申し訳なさそうに言う。
ルージュは笑って答えず、あとはよろしく、と言い残して厨房から出ていった。
しばらくしてルージュが厨房に戻ってきたとき、手には魔法樹の杖を持ったままだった。
「やれやれ、我が妻ながら信じられないよ」
あきれ顔のライオットが首を振りながら一緒に入ってくる。朝だというのに完全武装。ミスリル銀のプレートメイルを身につけ、手には剣まで持っている。
「はいライくん、この牛乳をこっちの容器に移してね。レイリアさん、塩はどこ?」
「ええと、右手の方に陶器の箱がありませんか?」
挨拶代わりにレイリアと苦笑を交わしあうと、ライオットは妻に命じられた仕事に取りかかった。
金属製の円筒型の容器。アルプスの少女が牛乳を売りに行きそうな大きなミルクボトルに、景気よく牛乳を注ぐ。
ルージュはその上から塩を振ると、きっちりと蓋を閉めた。
「じゃあライくん、彼に持たせてあげて。そしたらみんなを起こしてきてね。朝食が冷めちゃうから」
「はいはい」
夫を引き連れてダイニングに戻る。
ライオットがミルクボトルを持たせるのを確認すると、ルージュは魔法樹の杖を構え、高らかに呪文を唱えた。
『万能なるマナの力により命ずる。鋼の衛兵よ、そのタンクを勢いよく振り続けなさい!』
全高2メートル。
昨日、彼らをさんざんに苦しめた甲冑姿のアイアンゴーレムは、命令に忠実に従ってミルクタンクを振り始める。
ぞぶん、ぞぶんと盛大な音が響き、何事かと降りてきたシンやアウスレーゼが、その光景を見て絶句した。
「まあ、あれだ。この発想力だけは俺様にも真似できないね」
微妙な沈黙が支配するダイニングで、ルーィエが呆れ半分、感心半分に論評する。
そんな空気も何のその。
「これでよし。あと20分もすれば、おいしい自家製バターの出来上がり」
満足そうに鋼の衛兵を眺めると、ルージュは満面の笑みを浮かべた。
思い思いの表情で見つめる冒険者たちの前で、鋼の衛兵は、ただ無表情にミルクを振り続けた。
シナリオ2 『魂の檻』
獲得経験点 4500点
今回の成長
技能、能力値の成長はなし。
アイアンゴーレム(ML9)を手に入れた。
経験点残り 9500点。