シーン8 ピート卿の館
熾烈な殴り合いの末に鋼の衛兵をスクラップに変え、休む間もなくピート卿の館に《転移》してくると、ライオットはあまりの惨状に言葉を失った。
館の食堂は荒れはて、壁や床には生々しい血痕が飛散している。
全身血だらけで倒れているピート卿とイメーラ夫人。それを必死に介抱するレイリアの神官衣も、ズタズタに切り裂かれて赤黒く染まっていた。
「ひどい……」
思わず漏れたルージュの呟き。
ピート卿を看ていたシンが振り返ると、仲間たちに気づいて、力ない笑いを浮かべた。
「こっちはギリギリだった。もうちょっと遅かったら、レイリアもヤバかったよ」
「バグナードはいたのか?」
惨劇の現場を見回しながら、ライオットが問う。
「《テレポート》で逃げた。もうひとりの騎士と一緒に。この有様の犯人は、全部その騎士だ」
シンが視線だけでダイニングテーブルを示す。
すると、卓上に腕ごと転がっている剣を見て、アウスレーゼが目を剥いた。
「これは“ピアシング・スレッド”ではありませんか! まさかラスカーズ卿が?!」
「そういえばバグナードが、そんな名前を呼んでたな。毒蛇みたいな印象の若い騎士だ。知ってるのか?」
シンが目を向ける。
「ラスカーズ卿は銀蹄騎士団の上級騎士です。レイピアを使わせたらアラニア随一でしょう。この剣は、国王陛下が卿に下賜された王家伝来の宝剣なのですよ。まさか卿まで邪教に毒されていたとは」
アウスレーゼがうめく。
宮廷を蝕む毒があまりにも上まで広まっていた事実に、驚きを隠せない。
宮廷の過激派とは、カーディス教団の隠れ蓑か?
すぐにその疑問が浮上したが、とりあえずライオットはそれを封殺した。
事件・事故の現場に行ったら、疑問の解消より先にやることがある。それは警察学校でたたき込まれる基本中の基本。
「とりあえず話は後だ。ニース様はピート卿を頼みます。俺はイメーラ夫人を」
「分かりました」
硬い声でニースがうなずく。
ライオットがイメーラ夫人に駆け寄ると、夫人はうっすらと目を開けて、傍らのレイリアに弱々しく話しかけていた。
「あなたは無事だったのね、よかった」
袈裟掛けに切り裂かれた衣服の下に、もう傷はない。すでにレイリアの《キュアー・ウーンズ》で癒したようだ。
だが彼女の魔法では、出血を止めることはできても、失われた血液まで取り戻すことはできない。
青白い顔でレイリアを見つめるイメーラ夫人は、誰が見ても今際のきわにあった。
「イメーラ夫人! 諦めちゃだめです、頑張って!」
どんどん冷たくなる手を握って、レイリアが涙まじりに呼びかける。
夫人はうっすらと微笑んで、それに応えた。
「レイリア司祭、ごめんなさいね。お料理を教える約束だったのに」
「イメーラ夫人!」
「あなたには何もしてあげられなかった。無力な私たちを許してください。そしてどうか、ニース様の教えを守って、これからも健やかに、幸せに……」
咳こみながらも、必死に最後の言葉を伝えようとするイメーラ夫人に。
そして、その想いを泣きながら受け止めているレイリアに。
ライオットは思わず舌打ちした。
この期に及んでこの態度。
許せなかった。
「ふたりとも何を言ってるんだ!」
視線を交わし合うふたりに、低く抑えた、だが怒りに満ちた声を上げる。
「イメーラ夫人。何もしてやれなかったって? ふざけるな。レイリアに命を与えたのも、名前を与えたのも、みんなあんただろ。ほかの誰でもない、自分の腹を痛めた娘だろ」
そしてレイリアも見据える。
「レイリア。お前もだ。その相手に呼びかける言葉が『イメーラ夫人』か? ニース様に今まで何を習ってきたんだ? 情けないにも程がある」
ニースが娘として引き取ったから、ニースを母と呼ぶ。それはいい。
だがレイリアは、もうピート卿とイメーラ夫人の娘ではなくなるのか?
イメーラ夫人を母と呼んではいけないのか?
レイリアを娘だと思ってはいけないのか?
最後を看取ろうとするその瞬間まで他人行儀か?
誰がそんなことを決めた?
この状況を見過ごすなど、ライオットには絶対に我慢ならなかった。
「俺はな、そんなくだらない台詞を聞くために、怖い思いをして戦ったんじゃない。俺はハッピーエンド以外は認めない。最初からやり直せ」
今さら隠し事をしても意味がないだろう、と語気も荒く命令するライオットに、イメーラ夫人が弱々しく笑った。
この若い司祭の言うとおり。
今となっては、真実を隠す意味など何もない。
「私たち夫婦には、それを口にする勇気がなかった。それがいちばんの弱さだったのかもしれません」
そしてレイリアの手を、そっと力を込めて握る。
「この方の言うとおり。あなたは私の娘です。今まで言えなくてごめんなさい。けれどあなたの成長は、父も母も、嬉しく見守っていたのですよ?」
レイリアの顔に驚きはなかった。
まだ幼い頃、父親のことを質問してニースを困らせて以来、彼女が心の中で封印してきた疑問。
それ以来、ニースがことある毎に引き合わせてきたピート卿夫妻。
そこに何の因果関係も感じないほど、レイリアは鈍い娘ではない。
「…………お母さん」
ぽろりと、レイリアの口からその呼び名がこぼれた。
イメーラ夫人の目が幸せそうに細められ、透明な滴が頬を伝う。
「あなたが司祭の位をいただいて、初めてターバで説法をした日がありましたね。私と主人は、その聖堂の一番後ろから、ずっとあなたを見ていました。緊張したあなたが祈りをトチった時は、あの人はまるで冬眠からさめた熊のようにオロオロしていましたよ」
イメーラ夫人の瞳が、レイリアの顔を通り越して過去を見つめている。
次第に焦点を失いながらも、今まで告げられなかった娘への愛を伝えようと、必死に思い出を紡いでいく。
「そう、あなたが初めて神の声を聞いたときも、ニース様のお手紙を頂戴して、ささやかにお祝いしたのです。その年に造った記念のワインを神殿にお届けしたのだけど、あなたの口にも入ったかしら?」
「お母さん!」
目に見えて力を失っていくイメーラ夫人を、レイリアは力を込めて抱きしめた。
「そうそう、こんなこともありました……」
思い出は、語り尽くせぬほどに湧いてくる。
娘の腕の中で、残された力はすべてこのために使うのだと、イメーラ夫人は懸命に語り続けた。
一度たりとも娘と呼ばなかった母親でも。
注いだ愛に偽りはなく、娘もまた、それを確かに受け取っていた。言葉は、単にそれを確認するための窓にすぎない。
だが、その窓越しに見える情景の、なんと美しいことか。
ライオットはレイリアの横にひざまずくと、そっと手を掲げてイメーラ夫人の額に近づけた。本当はいつまでも見ていたいが、もう時間がない。
静かな声で、この初老の女性に語りかける。
「疲れたでしょう、イメーラ夫人。続きは明日にしましょう」
「……そうね、そうしましょうか。あなたには心からの感謝を。おかげで思い残すことは何もないわ」
ささやくような声で言うと、イメーラ夫人の瞳がライオットに向けられた。
何もかもを悟りきったような、達観した瞳。
最期の時が近いのだと、自分が一番よく分かっているのだろう。
「それと、思い出話も結構ですが、レイリアに料理を教えるのもお忘れなく。楽しみにしている男がいますのでね」
「シンくんね。彼がいれば、レイリアも安心だわ」
いつか娘とふたり、この家の古めかしい厨房で、新しい家族を迎えて料理を作る日が来たら。
夫は娘が選んだ戦士と酒を酌み交わしながら、大きな満足とささやかな悔しさを味わう日が来たら。
そんな未来が迎えられたら、どんなにか素晴らしかったことだろう。
残念ながら、自分にも夫にも、それを見ることは叶わない。
だが、娘を守り続けるだろう戦士の笑顔と人柄は、昨夜存分に見ることができた。
今は、それで十分だと納得できる。
娘の幸福な未来を確信したように、安らかな微笑を浮かべてうなずくと、夫人の瞳がすっと閉じられた。
もう休んでもいいと思ったのだろう。
普通ならその通りだ。
だが今回に限っては、単なる思い違いだった。
「ところで夫人。最初に言いましたよね。俺はハッピーエンド以外は認めないって」
目を閉じたイメーラ夫人に、ライオットが確信にあふれた声をかける。
「ファイター10じゃなくプリースト8を選んだ過去の自分に、心から感謝しますよ。おかげで今、俺にはできることがある」
目を閉じて心をいっぱいに開き、祈りの言葉を唱えてマイリーの巨大な意思に接続する。
奇跡の泉に直結した精神の回路から、神の力が奔流となって流れてくるのを感じると、ライオットはそれを惜しげもなくイメーラ夫人に注ぎ込んだ。
《リフレッシュ》。
レイリアでは届かない、最高位の治癒魔法。
ライオットはそれを願うことができる。
ニースに癒されたときと同じ、暖かい光がイメーラ夫人の全身を包んだ。
「あ……」
レイリアが呆然としてその光を見つめる。
徐々に夫人の肌に赤みが差し、レイリアが握ったままの手にも体温が戻ってきた。
途切れそうなほど浅かった呼吸も、ゆっくりとした深いものに変わっていく。
「ほんと性格悪いなお前。癒せるんだったらさっさとやればいいだろう、もったいつけやがって。おかげで色々と台無しだ」
母娘の会話を聞いて目を赤くしていた双尾猫が、不機嫌そうにそっぽを向く。
ルージュもこっそりと涙を拭っていた。
うかつにも失念していた。
彼女の夫は、やると言ったことは必ずやる男だった。
生意気で悪戯っ子で後先考えず、下ネタが大好きで話を台無しにするのが趣味でも、大事なところはきっちりと押さえてくる。
ハッピーエンド以外は認めないと宣言した以上、強引にでもハッピーエンドに漕ぎつけてみせるのだ。
「だから好きになったんだよね」
誰にも聞かれないように口の中でつぶやいて、にっこりと笑う。
夫の望んだ結末には、涙よりも笑顔が似合うにちがいないから。
「完全に、美味しいところを持っていかれたわね」
同じくピート卿を《リフレッシュ》で完全治癒させたニースは、苦笑して若者たちを眺めていた。
全部ぶち壊してやる、と言い放った若者たちは、その言葉のとおり、手始めにレイリアの悲劇から壊しだしたようだ。
この分だと、本当に何もかも壊して、残るのは幸せだけという状況になりかねない。
「ニース様、どうしてレイリアには両親のことを教えなかったんです?」
ピート卿を介抱していたシンが、ふとニースに尋ねた。
最初から教えておけば、ライオットに持っていかれることもなかったのに、と。
「怖かったからよ」
ニースはあっさりと答える。
「教えるのは簡単だったわ。けれど教えれば、すぐに次の質問が来るでしょう? 『どうして私はニース様に預けられたの?』とね。私は、その質問に答えるのが怖かったの」
レイリアは勘のいい娘だ。口先だけの嘘などすぐに見破ってしまう。
では正直に、あなたは亡者の女王の生まれ変わりだから、私が保護する必要があった、と告げれば良かったのか?
「レイリアが真実を知って、それで亡者の女王が覚醒したらどうしよう。私はそう考えていた。あの子の強さを信じきれていなかったのね」
亡者の女王の覚醒はすなわち、レイリアを墓所へ封印することを意味する。
それを恐れたニースは、この17年間ずっと、問題を先送りにしてきたのだ。
「私にできなかったことを、あなたたちは簡単にやってしまう。人を見る目には自信があったけど、正直なところ、これほどとは想像もしていなかったわ」
言ってニースは、シンの肩をぽんと叩いた。
「ピート卿は私が看るわ。あなたもレイリアのところへ行って、そして誉めてあげてちょうだい。よく頑張った、ってね」
うなずいたシンが仲間たちの方へ歩み寄ると、ニースは眩しそうな視線を若者たちに向けた。
彼らがレイリアを守るために見せた答え。
彼らの強さの根源は、個人の武勇や魔力ではない。
心から信頼できる仲間との、絆の強さなのだ。
それはまさしく、これからレイリアがナニールと戦っていくために必要不可欠な要素。
「マーファよ、あなたのお導きに心から感謝いたします」
この奇跡のような出会いに、祈りの言葉が、自然に口をついて出た。
猫王様は、楽隠居は早すぎると言っていたけれど、それほど長く待つ必要もなさそうだ。
血まみれの食堂に、強引にハッピーエンドを手繰り寄せた若者たちを見て、ニースは久しぶりに、心が晴れていくのを感じた。
今、この場所から。
ロードスに新しい風が吹き始めたのだから。
シナリオ2『魂の檻』
MISSION COMPLITE
獲得経験点
アイアンゴーレム9レベル×500=4500点