シーン4 墓所
レイリアとピート卿夫妻を館に残し、ニースたち5名は徒歩で墓所を目指した。
丘を越え、林を抜け、歩くこと1時間。
明らかに人の手が入ったと分かる鎮守の森の中。視界が突然開けると、そこに巨大な遺跡が姿を現した。
「ここが『墓所』よ」
ニースが言う。
遺跡と言っても構造は単純だ。直径50メートルほどの円形に土を盛り、その全周に堀が巡らせてあるだけ。
円墳と呼ばれる形状の、貴人の地下墳墓である。
出入り口はたったひとつ。東側に架けられた橋の先にある、石造りの扉だ。
「ここは、人々にはアラニア王家にゆかりの方の墓所だと思われているわ。それは間違いじゃない。けれど正確でもない」
鎮守の森から降りそそぐ、静謐な沈黙の中。
先頭に立って橋を渡りながら、ニースは説明を続けた。
「今から400年前、戦いがあったの。当時はカストゥール王国滅亡の混乱が収まらず、ロードス島の半分は邪神カーディスの教団の支配下にあったわ。その最高司祭として人々を支配していた女性が、“亡者の女王”ナニール」
人々の命が、たった1枚の金貨よりも軽かった時代。
血で血を洗う凄惨な戦乱の世に、ひとつの思想が広まっていった。
曰く、この世は不完全な仮初めのものであり、すべてが滅びて後、新たなる世界が築かれる。その新しい世界でこそ、人々は幸福に暮らせるというものだ。
カーディスを信仰する者のみが新世界に転生できるという布教もあり、カーディス教団は急速に勢力を広げていった。
「マーモで産声を上げたカーディス教団は、カノンの地を支配下に収めると、矛先をアラニア地方に向けたの。当時のアラニアは混迷の中にあって、絶好の獲物に見えたのでしょうね。けれど皮肉なことに、ナニールの侵略が始まると、アラニア地方に住んでいた住民は結束して邪教に立ち向かった。彼らの中心となった英雄の名が、カドモス」
橋を渡って石造りの扉の前に来ると、ニースは銀髪の魔術師を差し招いた。
「ルージュさん。ここに彫ってある文字が読める?」
高さ3メートルほどの巨大な石扉には、一面に精緻な文様が刻まれている。
その中央部、目線の少し下に、碑文のようなものがあった。
彫ってあるのは下位古代語だ。魔術師ならば、読むことなど造作もない。一般教養のレベル。
唇に指を当てて文字をのぞき込んだルージュは、すぐにうなずいた。
「ええと、こうです」
建国王カドモス1世 蛮族の女王を打ち破り
五つの力を奪いて ここに封印せり
第五の封印解けるとき
呪われた力は蘇り
亡者の女王は立ち上がらん
ルージュは紫水晶の瞳をすっと細めた。
視線を上げて円墳を見渡す。
「つまり、ここは王家の墓所なんかじゃなく、亡者の女王の封印施設というわけですか」
「そのとおり。英雄カドモスは、カーディスの最高司祭ナニールをこの墓所に封印した。ターバに本拠地を置いたマーファ教団にとっても、ここの封印を守ることは最優先事項と言っていいわ。これはもう、神話の時代からの宿命よね」
ニースは口許だけで小さく笑った。
かつて神話の時代、破壊の女神カーディスと大地母神マーファは、ロードスの地で最後の戦いを繰り広げたと伝えられている。
カーディスはマーファに倒されて滅びを迎えたとき、大地に呪いをまき散らした。マーファはその呪いからロードスを守るために、カーディスの骸もろともマーモの地をロードスから切り離したのだという。
ゆえにロードスは呪われた島、マーモは暗黒の島と呼ばれているのだ。
「アウスレーゼ。あなたもここに来るのは初めてよね。この扉を見て、何か気づくことはある?」
ちょっと人の悪い笑みを浮かべて、ニースが金髪の密偵に試験を課す。
最後尾で警戒に当たっていたアウスレーゼは、蒼氷色の瞳を扉に向けた。
「私には開けられないということは分かります。この扉は両開きのようですが、鍵穴も取手もない。財宝目当ての墓荒らしには、手も足も出ないでしょう」
「それでは50点ね。他には?」
その言葉にアウスレーゼはしばし沈黙した後、小さく吐息をもらした。
「他に私が知っているのは、この魔法の扉は17年前の大地震で半壊し、賢者の学院が総力を挙げて修復したということくらいです。ピート卿は、この扉を開く鍵の守護者であるとか」
「そのとおり。さすがアウスレーゼ」
ニースは頷くと、懐から掌大の細工物を取り出した。
金銀の装飾が施された魔法の鍵。賢者の学院が秘術の限りを尽くして修復し、ピート卿の屋敷で厳重に保管されていた品である。
ニースは鍵を墓所の石扉に押し当てながら、話を続ける。
「17年前、白竜山脈一帯で大きな地震があったの。村の建物の2軒に1軒は倒壊して、たいへんな被害が出たわ。アウスレーゼが言ったとおり、この石扉も半壊してね。墓所を狙っていた盗掘者に侵入されてしまった」
鍵が淡い光を放つと、魔法の筆がすべるように、刻まれた文様に黄金色の輝きが走り出した。
やがて文様のすべてが光に包まれると、石扉は重々しい音を立ててゆっくりと開いていく。
「王族の墳墓であれば、埋葬品は高価な品ですからね。それは無理もないこと。けれど、ここはただの墓所ではなく、埋葬品もただの宝物じゃない。彼が侵入を果たしたことで、事態は深刻なものになっていくの」
見上げんばかりの扉が完全に開くと、そこには黒々とした闇へと続く通廊が姿を現した。
ひんやりとした空気が流れ出し、初夏の陽気を吹き払っていく。
「では行きましょうか。ピート卿は危険はないと言っていたけど、くれぐれも油断しないように」
ここから先は遊びではない。
緊張の色を強めていくニースの声に、シンたちも意識のスイッチを切り替える。
「ルーィエ、また偵察を頼んでいい?」
魔法樹の杖を握りなおしたルージュが、銀色の双尾猫に言った。
圧倒的な敏捷性能に加えて、双尾猫には闇視・暗視・精霊視の特殊能力がある。明かりの一切ないダンジョンでも視界には不自由せず、発見した敵がアンデッドか否かの判定まで可能。
さらに視界を共有するルージュのセージ判定によって、相手を識別して弱点を見抜き、会敵前に戦闘準備を整えることまでできるのだ。
情報収集を重視する彼らにとって、このホットラインはパーティーの生命線とも呼べる存在だった。
「仕方ない、お前らじゃ話にならないからな。俺様が隠密行動の何たるか、手本を見せてやる」
小さく鼻を鳴らすと、ルーィエはためらう様子もなく、暗闇に身をおどらせた。
音ひとつたてずに銀色の猫王が墓所に消えると、今度はアウスレーゼが進み出た。
「先頭は私が行きましょう。どんな罠が仕掛けられているか分かりませんから」
言いながら、腰までの金髪を後頭部でアップにまとめ、黒い組紐で結ぶ。
懐から取り出した革手袋をはめ、腰の細剣の位置を調節すると、アウスレーゼは戦闘準備完了とばかりにライオットを見た。
鎧の留金や盾のグリップを確認し終えたライオットが、それに答える。
「通路の幅は3メートル。2列縦隊で進もう。先頭はアウスレーゼと俺。2列目にニース様とルージュ。最後尾はシン」
軍師役のキースがいない場合、参謀役はライオットの任務だ。策略を巡らすのは苦手でも、段取りを踏んでの戦術展開なら得意分野。
「明かりはいつもどおり2種類用意。《ライト》はランタンにかけて、ルージュが持ってくれ。松明は2本、シンと俺。そんな感じでいいか?」
ルージュとルーィエが組んで先行偵察と情報処理、ライオットが参謀なら、最終的な判断をする指揮官はシンということになる。
「それでいこう。だたし、入るのはルーィエの偵察が終わってから。ニース様もいいですか?」
「その辺りのことは、全部お任せするわ」
シンの確認に、ニースもうなずく。
この1週間ですっかり熟練した火打ち石と火口を取り出すと、シンは慣れた手つきで松明に火を灯した。
「中の様子は? 陛下は何か言ってるか?」
目を閉じてルーィエと視界を共有している妻に、ライオットが問いかける。
「ええとね、とりあえず通路は突きあたってT字路になってる。ルーィエは右に曲がって進んでるんだけど、通路の右側の壁に鉄の扉があるよ」
すると、それを聞いていたニースが口を挟んだ。
「そこは左手の部屋ね。ルージュさん。猫王さまに、その扉には罠が仕掛けてあるから触らないようにって伝えてくれる?」
「はい、分かりました」
「中は四角い回廊になっているわ。扉は東西南北の外側にひとつずつ。回廊の内側に向かって、南側からひとつ。合計5つあります」
回廊が胴体だとすると、回廊の外側に頭の部屋、右手の部屋、左手の部屋、足の部屋。内側に胴体の部屋があるというわけだ。
ルージュが念話でそれを伝えると、了解の思念が返ってくる。
ニースの情報もあって偵察は順調に進み、ルーィエは5分ほどで戻ってきた。
「中の構造は単純だな。分かれ道もない。中には誰もいなかったぞ。生きてる奴も、死んでる奴も」
ピート卿が言ったとおり、王都から来た騎士たちが中のモンスターをすっかり駆除してしまったらしい。
思わず安堵の空気が流れたが、アウスレーゼは冷たい口調でそれを一掃した。
「まだ分かりませんよ。部屋の中は未確認です」
何が襲ってきても不思議ではない、と釘を刺す。
「そのとおりだな。油断は禁物。緊張していこう」
シンのその言葉を合図にして、一行は暗い墓所へと足を踏み入れた。
中は、爽やかな外とは隔絶した雰囲気だった。
400年近くも解かれることのなかった封印のせいだろうか。
空気が黒く、重い。
妄執と怨念が渦巻く死者の世界に繋がっているような、そんな錯覚すら覚えた。
松明の炎が揺れて5人の影が踊るたびに、ルージュの肩がびくりと震える。
これはもう、敵がいる・いないの問題ではない。
ここは幽霊もゾンビも実在する世界で、なおかつ自分たちが歩いているのは、ロードス史上最凶の怨霊が封じられた墓所なのだ。
怖くないはずがなかった。
わずかな物音にも弾かれるように反応しながら、ルージュが前を歩く夫に視線を向ける。
手を繋ぎたかった。
夫の体温を肌に感じていれば、きっとこの空気にも耐えられるから。
しかしライオットの右手は松明を掲げ、左手は愛用の大盾を携えている。並んで歩くアウスレーゼと共に、その視線は油断なく前方を警戒中。
とてもではないが、怖いから手を繋いでほしい、などと言い出せる状況ではない。
石畳で砂を踏む足音が反響する中、ルージュが独りでじっと耐えていると。
「大丈夫よ、みんな一緒だから」
ニースの暖かい手が、そっとルージュの繊手を包んだ。
ためらいがちにその手を握りかえすと、ニースは包容力にあふれた微笑を浮かべ、静かにうなずく。
たったそれだけのことで、ルージュは心が楽になっていくのを感じた。
ニースは魔神戦争の英雄とはいえ、敵を倒すことに長けた戦士ではない。実働戦力としては、ファリスの神官戦士フラウスの方がずっと上だっただろう。
だがもしも、英雄と呼ばれた戦士たちが、最も深き迷宮の最奥部で恐怖や不安に震えることがあったなら。
彼らの心を癒し、支え続けたのは、きっと“マーファの愛娘”であったに違いない。
「ニース様、先ほどの『左手の部屋』です。扉を開けますか?」
足を止めたアウスレーゼが、振り向いて確認する。
ルージュと手を繋いだまま、ニースは首を振った。
「いいえ。物事には順序というものがありますからね。まずは『頭の部屋』に行きましょう。この先の角を曲がってすぐよ」
「了解しました」
回廊は左手から肩を曲がり、首の位置へ。
右手には先ほどと同じ鉄の扉がある。
その上には金属のプレートが打ちつけられ、錆の中には下位古代語の文字が刻まれていた。
「これは……『小冠の間』?」
「そのとおり。全部の部屋には名前が付いているの。理由は中を見れば分かるわ。アウスレーゼ、扉を開けてくれる? 毒針が仕掛けてあるから気を付けて」
「分かりました。ルージュさん、明かりをお願いします」
細かい作業を照らすには、ゆらゆらと動く松明は不向きだ。ルージュが青白い魔法の明かりを持って近寄ると、アウスレーゼは細い針金を取り出して、錠周りを丹念に調べ始めた。
「さて、昔話の続きをしましょうか」
それぞれ松明を持ったライオットが前方を、シンが後方を警戒する中、ニースは再び語り始める。
「17年前。ここに盗掘者が侵入したとき、ピート卿がそれを発見したの。地震の影響で墓所が崩れていないか、確認に来たのね。盗掘者は5つの宝物のうち、4つまでも盗み出していた」
かちり。
小さな金属音は思いのほか大きく響き、ニースは言葉を切った。
アウスレーゼが下がると、ライオットとシンが視線を交わし、扉の前に進み出る。
ライオットは松明をそっと床に置くと、空いた右手で剣を抜き、腰を低くして身構えた。
このような時、先頭に立って突入するのはライオットの仕事だ。
体をすっぽりと覆うカイトシールドと、城壁級の防御力を誇るミスリルプレート。この2つにものを言わせて1ラウンド耐える間に、シンとルージュの攻撃で敵を粉砕する。
それがいつもの戦術だった。
「いいか、開けるぞ」
「いつでも」
呼吸を合わせて、シンが一気に扉を開き、中に松明を放りこんだ。
同時にライオットが突入。2歩で部屋に入り、3歩目で立ち止まって周囲を確認。
部屋は円形だった。
中にある物はたったひとつ、部屋の中央に据えられた黒大理石の台座だけ。
その上には女性の胸像が飾られており、床に落ちた松明に照らされて、オレンジ色の影を壁に伸ばしている。
だが生者も死者も含めて、動くものは何もいなかった。
「……どうやら、大丈夫みたいだな」
すぐに続いてきたシンが、精霊殺しの魔剣を振りかぶったまま、安堵の吐息を洩らす。
「そうらしい。けど以外だな」
ライオットは、シンがすぐに突入してくるとは思っていなかったのだ。
いくら実戦経験を積んだとはいえ、戦ったのはたったの1度。それも格下相手に1回剣を振っただけ。
それで戦いに順応できるはずがない。
「そりゃ超怖いよ。けど俺さ、強くなりたいんだ」
シンの答えに、ライオットはふっと笑った。
なぜ? 誰のために?
そんなこと、考えるまでもない。
「納得した。頼りにしてるぜ」
用済みとなった剣を鞘に収めると、親友を励ますように肩を叩く。
そしてライオットは床の松明を拾い上げると、部屋の中央にある胸像に歩み寄った。
「なんか、ずいぶん不気味な彫像だね」
魔法の明かりを放つランタンを掲げながら、ルージュが夫に寄り添う。
祈りを捧げるような姿勢で、頭を垂れた女性の胸像。その顔は、まるで苦悶するかのように歪んでいた。
「この台座にも碑文があるな。なんて書いてある?」
「ええと……『偉大なる建国王カドモス1世、アラニアを平定し国を興す』だって」
ルージュの言葉に、シンは首を傾げる。
「なんかさっきから聞いてるとさ。アラニア王国ってのはまるで、ナニールを倒すために作られた国みたいだよな」
「そうね。もしナニールがいなかったら、今のアラニア王国は存在しなかったでしょうね」
ニースはシンの言葉に頷くと、胸像の頭部にすっと手を伸ばした。
「そしてこれが、身封じの小冠。この部屋に祭られている宝物よ」
ニースが手に取ったのは、4色の水晶が放射状に飾られたティアラだった。
とはいえ金銀の装飾もないし、宝飾品としての価値はさほど高そうに見えない。
「ずいぶんシンプルなティアラですね」
ライオットの評価に、ニースは苦笑した。
「外見だけはね。けれどこの品の魔力を知ったら、笑っていられないわよ? 言ったでしょう、これは身封じの小冠だと」
そのまま、ティアラを自分の頭に乗せる。白いものの混じったニースの黒髪の中で、水晶がきらりと輝いた。
「ライオット。全力で抵抗してちょうだい」
反射的にライオットが身構える。
が、無駄なことだった。
ニースの視線がライオットを射抜くと、金髪の貴公子は肩をびくりと震わせて、指一本動かせなくなってしまう。
「く……ッ!」
ニースの瞳が、まるで突きつけられた銃口のように感じた。
動けない。1歩でも動いたら殺される。
そんな恐怖が全身を縛り上げ、呼吸すら苦しくなった。
顔から血の気が引き、額にはびっしりと脂汗が浮かび。
小刻みに震える手から、大盾が大きな音をたてて床に転がる。
「分かった? これが、身封じの小冠。ナニールが愛用した品のひとつよ」
ニースがティアラを外すと、ライオットの膝が崩れ、ミスリルプレートががしゃりと鳴った。
地面に両手をつき、肩を荒げて空気をむさぼる。
「ライくん、大丈夫?」
ルージュが夫の肩に手を置いて、心配そうに顔をのぞきこんだ。
「いや、あんまり大丈夫じゃない。あれはヤバい」
額の汗を拭いてくれる妻に感謝の視線を向けると、盾を拾って立ち上がった。
そして、ニースが小冠を胸像に戻すのを待って、問いかける。
「ナニールが愛用した品、ですか」
「ええ。愛用した品のひとつ、と言ったわ。残りの品々もこの墓所にあるから、順番に見ていきましょう」
そう言って、ニースが踵を返す。
「この部屋はもうおしまい。アウスレーゼ、出たらもう一度鍵をかけて、罠を直しておいてね」
「はい」
金髪の密偵が頭を下げ、ほんの一瞬、胸像の小冠に視線を向ける。
「あとで持ち出そうなんて考えちゃダメよ?」
この人には心を読む魔力でもあるのだろうか。
背中越しに投げかけられた声に、アウスレーゼは苦笑を浮かべ、さらに深く頭を下げた。
「承知しました」
回廊で警戒に当たっていたルーィエと合流すると、『首』から『右肩』を回り、今度は『右手の部屋』に入った。
細長い長方形の部屋。
奥には黒大理石の台座があり、やはり苦悶の表情を浮かべた女性の胸像が飾られている。
像は右手を差し伸べるような格好で、その薬指には黄金の指輪が輝いていた。
「これは回復の指輪。これをはめた者は、強力な回復の魔法を使えるようになるんですって」
自分の尾をくわえた蛇というデザインの指輪を手にして、ニースが説明する。
「腕を1本落としても、たちどころに癒してしまうそうよ。シン、試してみる?」
ニースの悪戯っぽい瞳が向けられると、シンは即座に首を振った。
「遠慮しときます」
さっきのライオットのように、実験台にされてはかなわない。
シンが腰の引けた様子で退がっていくと、そこにルージュが進み出て黒大理石の台座を見た。
「ここにも碑文がありますね」
邪なる神カーディスを信仰する蛮族ども
カドモス王に刃を向けたり
カドモス王 蛮族を何度も打ち破る
されど蛮族の女王ナニール その度に転生す
ゆえに亡者の女王と呼ばれん
「これが、亡者の女王の秘密」
指輪を胸像に戻して、ニースが言う。
「カドモス王は邪神の教団を何度も打ち破り、ナニール自身、何度も討ち取られた。それでもナニールは滅びなかった。肉体が死を迎えるたびに、魂は新たな肉体に転生して戦い続けたの」
リーンカーネーション。
輪廻転生、と呼ばれる魔法である。
ナニールがこの加護を受けている以上、戦うという行為自体が無意味なものになってしまう。
「倒しても殺しても、戦いは終わらない。ではどうすれば終わるの? その答えがこの墓所よ」
次にニースがいざなった部屋は『胴体の部屋』。
大理石の台座には、やはり苦しそうに顔を歪めた、両腕のない女性の上半身像。
「着ているのは『生け贄の鎖帷子』。ナニールが愛用した魔法のチェインメイルよ。持ち主に代わって血を流すことで、ナニールの傷を肩代わりした、と伝えられているわ」
そしてルージュを差し招く。
黒大理石の台座には、やはり400年前の碑文。
カドモス王 亡者の女王を捕らえ
身につけたる品々を奪い
黒き壁の内にその肉体と魂を封印す
女王の魂は呪縛され
この墳墓を出ることあたわざるなり
「つまりこの墓所の構造自体が、ナニールの体を模しているのですね」
肘を抱くようにして立っていたアウスレーゼが、感心してつぶやいた。
胴体を示す回廊。
頭の部屋には愛用の小冠を。
右手の部屋には愛用の指輪を。
胴体の部屋には愛用の鎧を。
まだ見ていないが、足の部屋と左手の部屋にも、それぞれの部位に応じた愛用の品が飾られているのだろう。
体の構造を模した墓所に、愛用の品を媒体として配置することで、魂を転生させずに封印したということか。
次第に明らかになっていく墓所の秘密に、シンの表情も硬くなっていく。
そんな親友に歩み寄ると、ライオットは耳元でささやいた。
「シン。『第五の封印』っていうシナリオ読んだことあるか? 戦記リプレイの巻末に小さく載ってたやつ」
「いや、ないな。俺、戦記は小説とアニメしか知らないからさ」
「そうか……」
ニースが、ここに自分たちを連れてきた理由。
見せたいもの。
教えたいこと。
それに気付いているライオットは、複雑な表情を浮かべた。
亡者の女王ナニール。その魂を封印するのに、どれだけの血が流れ、どれほどの年月を要したことだろう。
あまりの規模と墓所の厳粛さに、ライオットは畏れを感じずにはいられない。
本当にこの魂に手を出してしまっていいのか。
自分たちの能力で責任を取りきれるのか。
身を引くなら、今しかないのではないか。
ライオットがそんな逡巡に身を焦がしているうちに、ニースは『長靴の間』に一行を導いていく。
南北に長い長方形の部屋。台座にはやはり、苦悶する女性の姿。
だが今度は全身像だ。
台座に横座りしているような姿で、すらりとした両足が台座の左側に伸びている。
その足には、黒い皮膜のようなもので作られたブーツが履かされていた。
「浮遊の長靴、と呼ばれているわ。使用者は《レビテーション》の魔法を使えるようになるとか。これが何なのか、説明は要らないわよね」
そしてライオットから受け取った松明で、黒大理石の台座を照らす。
長い年月で錆の浮いたプレートを、ルージュの白い指先がぬぐった。
黒き壁破れ
五つの封印奪われしとき
亡者の女王は蘇る
「ちょっと待った。さっきニース様、17年前の盗掘者が4つまで宝物を盗み出したって言いましたよね?」
シンが声を上げる。
「言ったわね」
「8割方の封印が奪われて、その時は大丈夫だったんですか?」
「結論から言えば、大丈夫じゃなかったわ。それでもピート卿の機転と6人の冒険者たちの活躍で、最悪の事態だけは免れた」
そして、まるで迷いを振り切るように大きく息を吐くと、ニースは真正面からシンの瞳を見つめた。
逃げることも誤魔化すことも許さない、心の奥底まで貫くような深い瞳。
初めて会ったときと同じ目だ。
「17年前に何があったのか、これからすべてを話します。すべてを知った上で、あなたには決めてもらいたいことがあるの。無理だと思ったら、そう言ってちょうだい。誰もあなたを責めたりはしないから」
気圧されたシンが、それでも黙ってうなずくと、ニースは手に持っていた松明を掲げた。
「それでは行きましょうか。次は『剣の間』よ」
先頭はアウスレーゼとライオット。
2列目にニースとルージュ。
4人の背中を見ながら、シンは胃に穴があきそうな緊張を味わっていた。
自分にとって重大な何かが起ころうとしている。それはニースの態度を見れば明白だ。
それも、亡者の女王関連のイベントで。
逃げてもいい、と宣言されるほどの。
「けどさ、どうして俺なんだよ?」
口の中でつぶやく。
中の人はしがないシステムエンジニアなのだから、400年ものの怨霊とかを任されても困る。
だいたい決めるって何だ?
昨日今日ロードスに来たばかりの自分たちが、こんな原作の最終巻まで決着のつかない問題に口を出すべきじゃない。
そういうのはパーンとかスパークとか、ふさわしい人物がこれから育ってくるから、そっちに頼む。
そんなことを考えながら現実逃避していると、先頭の2人が足を止めた。
回廊を左に曲がり、入口へと続く通廊を通り過ぎた地点。最初に無視した扉の前だ。
ルージュのランタンに照らされながら、アウスレーゼが慣れた手つきで開錠にとりかかる。
「17年前。ピート卿は封印のほとんどを解放してしまった盗掘者を見つけ、すぐに成敗した。それがここ。入口のすぐ近くで幸運だったわね」
封印の解放とともに魔力を取り戻していったナニールは、盗掘者が最後の封印を破るのを今や遅しと待っていたのだ。
それをピート卿に阻止されて、怒ったナニールは、召還したアンデッドモンスターを差し向けた。ピート卿は深手を負わされたが、死力を尽くして屋敷に戻ることができた。
「ニース様、開きました」
アウスレーゼが立ち上がる。
「ご苦労様。では入りましょうか。大丈夫、何もいないわ」
止める間もあらばこそ。
ニースは無造作に扉を開くと、松明を掲げて部屋の中に入っていく。
あわててそれに続いたライオットが見たものは、今までと同じ、黒大理石の台座と女性の胸像だった。
今度の胸像は左手を前に差しだし、真っ赤な刀身の長剣を握っている。
「魔剣フィール。ナニールの愛用した剣として、アラニア建国譚にも謳われているわ。周囲にいる人々の感情を剣が読みとり、持ち主に教えてくれるそうよ」
ニースは胸像の手から剣を引き抜くと、それをシンに差し出した。
「ものは試し。持ってごらんなさい」
おそるおそるシンが長剣を受け取ると、周囲の仲間たちの感情が怒濤のように流れ込んできた。
何を考えているのか、思考が読めるわけではない。だが仲間たちを支配している感情は、まるで色を見分けるように鮮明に理解できた。
ライオットからは怯みと迷い。
いつも余裕だらけに見える親友が、何をこれほど怖れているのだろうか。何か巨大な困難を前にして、進むか引くか、どうしても決めかねているという印象だ。
ルージュは恐怖でいっぱいだ。
いつになく大人しいと思ったら、墓所の中が恐くて、無駄口を叩いている余裕がないらしい。
アウスレーゼは緊張と警戒心。鋭い視線がシンに向けられているから、変な呪いに支配されてシンがニースを襲うのではないか、と危惧しているのかもしれない。
そして、ニース。
このマーファの最高司祭を支配している感情は、なんと苦悩だった。
彼女は出口の見えない迷宮の底から、ほんの一筋の光を目指してもがき苦しんでいた。思い出すだけで胃が焼けるような後悔と絶望をいくつも抱えながら、それでも希望を掴もうと、懸命に足掻いていたのだ。
そんな内心など全く見せず、他人には慈愛の表情を向けるニースの顔を見て、シンはすぐに後悔した。
人の心は、他人が覗いてはいけないもの。
この剣は、人が手にしてはいけない代物なのだ。
人を支配するには重宝するかもしれない。だが、それで何年も正気を保てるとは、シンにはとうてい考えられなかった。
「もう充分です、ニース様。2度と持ちたくありません」
剣を返すと、ニースは優しくうなずいて、胸像に戻した。
「そう言ってくれて良かったわ。これが欲しいって言われたら、どうしようかと思った」
そう言って笑うと、今度はルージュに視線を向ける。
「これが最後の碑文よ。頑張って、ルージュさん」
「はい。けどもう肝試しはこりごりです。早く帰ってお風呂に入りたい」
ルージュの口調も冗談混じりだったが、それが掛け値なしの本音だと、今のシンには分かる。
シンのいたわるような視線の先で、青白い光を放つランタンを持ったルージュが、台座を見下ろした。
カドモス王
いにしえの魔法の秘術と
大地母神の加護を受け
ついに亡者の女王を檻に封ず
「転生を繰り返す魂を封印するために、カドモス王が手に入れた古代語魔法の秘術とマーファの加護。それこそがこの墓所の心臓部なの。『黒き壁』の向こう、玄室の中に全てがあるわ。行きましょう」
ニースが決然として顔を上げる。
「最高司祭。本当にこの黒いのでいいのか。やめるなら今のうちだ」
一行が部屋から出てくると、回廊で待っていたルーィエが、最後通牒とばかりに声をかけた。
ニースは足を止めると、静かに双尾猫を見下ろす。
「ありがとう、猫王さま。けれど、この役目を果たすために必要なものを、シンなら育ててくれると思うの。違うかしら?」
銀色の尻尾で床を叩きながら、ルーィエがシンを見た。まるで出来の悪い弟子を眺める師匠のように。
ややあって、ルーィエはため息をついた。
「この黒いのは見てくれは悪くないが、中身は欠点だらけだぞ。例えば勇気、経験、知性、品格、威厳、何もかも人並み以下だ。はっきり言って足りないものだらけ。未熟にも程がある」
際限なく続くダメ出しに、シンがげんなりと肩をすくめる。
ニースが苦笑して止めに入ろうとしたところで、双尾猫がすっと顔を上げ、ニースを見上げた。
「だけど、たったひとつだけ誇れるものがある。こいつの魂は、ひたすらに真摯で汚れてない。他人のために本気で泣き、笑い、怒り、喜べる。そういう奴だ」
ニースがシンに求めていた最大の素質。
それを明確に保証されて、ニースは安堵と感謝の視線を猫王に返した。
シンは、ルーィエの口から出たとは到底信じられない賛辞に、きょとんとして双尾猫を見る。
ルーィエは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「調子に乗るなよ、黒いの。お前はまだ何者でもないんだからな」
言い捨てると、ニースの後を追って歩き出す。
すると、シンの肩を、ライオットがぽんと叩いた。
振り返ると、親友は自嘲気味に口許を歪めていた。
「いつも決断を丸投げでごめんな。俺、決められた目標を実現させるのは得意だけど、大事なことを決めるのは苦手なんだよ」
ライオットが何かに悩んでいるのは、魔剣フィールの力で知っていた。
それが何なのか、やっと分かった。
ライオットは、これからシンが迫られる決断の中身を知っているのだ。
「その代わりと言っちゃなんだけど、お前がどんな決断をしようと、俺たちは必ずついていく。何ができるかじゃなくて、何をしたいかで決めてくれ」
その言葉に嘘はない。ライオットは、やると言ったことは必ずやる男だ。
学生時代。じゃんけんに負けて、降り積もった雪の中に全裸で飛び込んだあの勇姿(?)を、シンは忘れない。
「言ったな。頼りにさせてもらうぞ」
「おう。任せとけ」
自分は独りじゃない。
改めて認識したその事実が、信じられないほどシンの心を軽くしてくれる。
「おい、何をぼけっとしてるんだ。さっさと来い。ここがどこだか忘れてるんじゃないだろうな。緊張しろ、緊張」
前を行くルーィエが、苛々と怒鳴る。
それに手を上げて応えると、シンは小走りに追いかけた。
決断の時が、迫っていた。