シーン3-1 マーファ神殿
その女性は、遠目にも鮮やかな美人だった。
年齢は20代の半ばくらい。
糸杉のようにすらりとした長身。
腰まで伸びた、絹糸のような黄金の髪。
蒼氷色の瞳が、触れるものを切り裂くような怜悧な光を浮かべて、ゆっくりとシンたちを一巡する。
美人といっても様々だ。ルージュを動物に例えれば猫、レイリアは子犬だが、この女性は明らかに鷹や鷲といった猛禽の類だった。
使い込まれた暗色の革鎧をまとい、腰には2本の細剣。それだけを見ても、この女性が守られる側の人間ではないと理解できる。
「アウスレーゼと申します。国王カドモス7世陛下より、ニース様の護衛を命じられています」
言葉だけは丁寧に、口調は冷たく、女性はシンたちに一礼した。
「彼女は国王陛下から遣わされた、私のお目付け役なの。マーファ教団がアラニア王国に対して不利益を働かないように」
すっかり旅支度を調えたニースが、シンたちにアウスレーゼを紹介する。
「ニース様、決してそのような」
怜悧な瞳を困惑の色に染める美女を、ニースは笑って制した。
「あら、本当のことでしょう? そして、彼女が私を護衛しているというのも本当。貴族の中には、私がいないほうが都合がいいと、そうお考えの方もいらしてね」
「愚かなことです。ニース様がいらっしゃらなければ、今日のアラニア王国は存在しえないというのに」
アウスレーゼが侮蔑を隠そうともせずに吐き捨てる。
アラニアの宮廷にとって、名声の高すぎるニースが厄介な存在なのは間違いないが、ニースを暗殺したなどという風評が流れれば、もっと厄介なことになる。
神殿でおとなしく、しかも壮健でいて欲しいというのが本音だろう。
それを裏舞台から実現するのがアウスレーゼの役目というわけだ。
「故に」
蒼氷色の視線が、刃となってシンたちを切り裂いた。
「あなた方がニース様に危害を加えようとすれば、容赦なく斬ります。心しておかれませ」
「この人たちは、そんなことしません!」
ニースの脇で控えていたレイリアが、むっとした様子で口を挟む。
「レイリア様、あなたは甘い。人は人を騙せる生き物なのですよ」
「すべての人が悪意で生きているわけではありません!」
むきになって食い下がるレイリアに、アウスレーゼは軽くため息をついた。
「よろしいですか。世の中には、善人と悪人がいるわけではないのです。すべての人には等しく善と悪が内包され、心の揺らめきによって善にも悪にもなりうるのです。それが人というものです」
「それは……そうかもしれませんが」
レイリアの反論が力をなくすと、アウスレーゼはさらに追い打ちをかけた。
「私も、今日の彼らがニース様に害を為すとは思いません。ですが、不心得な貴族たちに大金を積まれたら? 親しい人を人質に取られたら? 彼らの心が動かないと、どうして断言できますか」
「もういいだろ。それくらいで勘弁してくれ」
苦々しげな顔で、シンが割って入った。
「レイリアが言うとおり、俺たちにはニース様を傷つける気なんてない。もしそんな日が来たら、君に斬られても文句は言わないよ」
「ゆめゆめ、その言葉をお忘れになりませんよう」
シンの返答に満足したのか、アウスレーゼは平然とした顔でニースの半歩後ろに退がった。
「華麗なまでのツンだな。デレ期が楽しみだ」
黙ってその様子を見ていたライオットが、どこか楽しそうに妻にささやく。
「デレって、誰にデレるの?」
返答によっては只ではおかない、とルージュが夫を睨んだ。
レイリアといいアウスレーゼといい、この世界は若い美人が多すぎる。ルージュは心痛の種が増えた気分だ。
「そりゃシンに決まってるだろ。ああいう現実路線タイプは、夢を追い求める子供みたいな男に弱いのがお約束だ」
「あの女は、お前とは相性悪そうだしな」
足下からルーィエが口を挟む。
「そうかな?」
「お前、あの女をからかったら楽しそうだと思ってるだろ。ああいう冗談の通じないタイプは反応が激しいからな。けど楽しいのはこっちだけで、好感度は絶対上がらないぞ」
「さすが陛下、分かっていらっしゃる」
ライオットとルーィエが、顔を見合わせてニヤリと笑う。ふたりとも同じことを考えていたらしい。
普段は喧嘩ばかりしているように見えて、なかなかどうして、このふたりは相性がいい。
ルージュは軽く頭痛を感じてこめかみを押さえた。
外見は立派な貴公子なのだから、もう少し上品に振る舞ってくれてもいいのに。悪戯っ子なところは、現実と何も変わらない。
それに。
本人は否定するだろうが、ルージュに言わせれば、ライオットだって夢を追い求める子供みたいな男だ。心配の種はまったく払拭されない。
いささか棘のある視線をアウスレーゼに向けていると、ニースがぽんぽんと手を叩いて出発を告げた。
「さあさあ、そろそろ馬車に乗ってちょうだい。今日中にピート卿のお屋敷に着かないと、明日が大変になりますからね」
総勢6名と1匹。
冒険者レベルの合計58。
現在のロードス島で最強であろうパーティは、神殿の裏庭に用意された馬車に乗り込んで、裏門からひっそりと出ていった。
そしてこの旅立ちが、彼らの死力を尽くした戦いの第一歩となる。
シーン3-2 祝福の街道 ザクソン郊外
ザクソンの村から少し離れたところにある騎士館の前で、馬車は半日ぶりに足を止めた。
石造りの壁がぐるりと敷地を取り巻き、南側と西側に門が設えてある。日本の基準では十分に豪邸と呼べるものだったが、ニースに言わせれば、アラニア王国の騎士としては質素な部類に入るそうだ。
太陽が西の地平に姿を消して、およそ半刻。あたりは薄闇に包まれており、ルージュの《ライト》の魔法がなければ足下すらもおぼつかない。
慎重に御者台から降りたライオットは、こわばった腰を伸ばしてようやく一息ついた。
ここまでの道程は、徒歩なら通常3日だ。それを1日で駆け抜ける強行軍。馬車を使ったとはいえ、さすがに疲労が重くのしかかっていた。
「あなたは何を遊んでいるのです? ニース様がお降りになります。早く手をお貸しなさい」
道中ずっと御者をつとめていたアウスレーゼが、疲労など微塵も伺わせない冷たい視線で、ライオットを串刺しにする。
「……そりゃ失礼」
首をすくめて大盾を小脇に抱えると、ライオットはニースに片手を差し出した。
「ニース様、お手をどうぞ」
「あら、ありがとう」
にこりと微笑みを返し、ライオットの手を取ると、ニースはしっかりとした足取りで馬車から降りる。
続けてレイリア、ルージュと降車していると、騎士館の門が開き、中から壮年の男性が姿を見せた。
「ニース様、お待ち申しておりました。道中つつがなく何よりです」
白いものが目立つ髪を丁寧になでつけ、上品に口髭を整えた壮年の騎士は、恭しくも親しげな様子でニースを出迎える。
「ピート卿もお元気そうね。今年もお世話になります」
「このような田舎では、ニース様のご来訪が年に一度の楽しみですので。何でも遠慮なくお申し付けください」
「ありがとう。そうさせてもらうわ。さあ、レイリアもご挨拶をなさい」
慈愛に満ちた微笑を浮かべて、ニースが振り返る。
レイリアは照れたような、緊張したような顔でぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです、ピート卿」
まるで孫娘でも眺めるように、ピートの目が細められた。
聞く人を落ち着かせるような、低い穏やかな声でレイリアに話しかける。
「レイリア司祭も大きくなられて。ニース様の教えを守って、健やかにお過ごしのようですね」
「はい」
「普段は神殿のお勤めで大変でしょうが、今夜ばかりは我が家と思って、どうかお寛ぎ下さい」
「ありがとうございます」
壮年の騎士は、それからしばらくレイリアの顔を見つめていたが、やがて小さく吐息を漏らすとニースに向き直った。
「粗食ではございますが、妻が夕餉の準備を済ませております。いったん部屋に落ち着かれましたら、いつでも食堂へお越し下さい」
「ありがとう。でもその前に、護衛の皆さんを紹介させていただくわ」
馬車から荷物を下ろしたり、馬をはずして馬房へ収めたりしていた4人を呼ぶと、ニースは順にピートに紹介していく。
「なるほど。これはまた、心強い方々がご一緒ですな」
異常なまでの冒険者レベルを迫力として感じ取ったのか、ピートが感心した様子でシンたちを見る。
「ですが、今回は楽をしていただけますよ。3日ほど前に王都から騎士が派遣されて、遺跡の『掃除』をしたばかりですからな」
「王都から?」
ニースが驚いて問い返す。
ピートは微笑を浮かべてうなずいた。
「騎士が3名に兵士が10名ほど。それに賢者の学院の導師様もいらっしゃいましたな。今回はニース様のお手を煩わせないようにとのことで」
王都の貴族も心を入れ替えたのでしょうか、とピートは笑った。
「信じられません。何かの罠では?」
アウスレーゼが硬質の美貌を曇らせる。
「いいえ。私もそれを疑って、昨日のうちに中を見て回りました。不死生物の類は完全に駆除されて、魔法の壁の修復も終わっておりました。危険は感じられませんでしたよ」
「ピート卿がおっしゃるのであれば、そうなのでしょうが……」
この騎士は信じられるが、王都の貴族はそれ以上に信じられないということか。
疑惑を拭いきれない様子のアウスレーゼに、ニースは事も無げに笑ってみせた。
「心配いらないわ。たとえ罠でも、今回の護衛は頼りになるから。それより早く鎧を脱いで、汗を拭かせていただきましょう。さすがに今日は皆、疲れたでしょう?」
「これはこれは、気がきかなくて申し訳ない」
ピートは館の扉を開けると、一同を招き入れた。
「なにぶん田舎騎士ですので、何かと行き届かない点もありましょうが、どうかご容赦下さい」
綺麗に清められた邸内には、ほのかに花の香りが漂っている。
花瓶に敷かれたレース飾りは夫人の手作りだろうか。
夫婦の人柄がしのばれるような、居心地のよい屋敷だった。
「ようこそいらっしゃいました、ニース様。ご壮健で何よりでございます」
玄関ホールのすみに控えていた初老の女性が、穏やかな微笑を浮かべて一礼した。
「こんばんは、イメーラ夫人。お元気そうね。今年もお世話になります」
旧友に会ったかのように、ニースが親しげに声をかける。
「こちらこそ、お迎えする準備から楽しませていただきました。どうかゆっくりとご逗留ください。護衛の皆様も、御用がおありでしたら、遠慮なく仰って下さいね」
丁寧だがへりくだることのない、ごく自然な態度。
ニースと並んでも遜色のないほど、品格のある女性だった。
夫人はシンたちの顔を順番に見つめ、最後にレイリアに微笑みかけると、客人を奥へといざなった。
「長旅でお疲れでしょう。皆様もお部屋へご案内いたします。どうぞ2階の方へ」
ゆっくりとした歩調で階段を登っていく。
人はどのような人生を送れば、こんなにも美しく年を重ねられるのだろうか。
ルージュは夫人の後に続きながら、羨望にも似た思いで白髪を見上げていた。
ランプの光に照らされた食卓には、兎肉のシチュー、川魚のバター焼き、鴨肉のロースト、彩りのサラダ、赤白のワインなど、華美ではないが手の込んだ料理が所狭しと並べられていった。
「なにぶん田舎料理ですので、皆様のお口に合うかどうか」
イメーラ夫人が自ら給仕を勤め、温かい料理の数々が運ばれてくる。
「これをすべて、奥様が作られたのですか」
感心することしきりのライオットに、イメーラ夫人が上品に微笑んだ。
「あら、ライオットさんの奥様だって、このくらいの料理はお作りになれますよ?」
「そうでしょうか?」
かなり疑わしげにルージュを見る。
銀髪の佳人は、にっこり笑うと小首をかしげた。
「あら、何か?」
ピート卿夫妻の上品さに当てられたのだろう、ルージュは盛大に猫をかぶっている。
どこから突っ込むべきか。
幾とおりかの台詞を思い浮かべたが、結局ライオットは首を振った。
「……いや、何でもない。君が俺の想像以上に料理を作れたのは事実だからな」
「ちょっとそこ。私がどんだけ料理できないと思ってたんですか」
あっと言う間に猫を脱ぎ捨てたルージュが、頬を膨らませて抗議する。
「だって仕方ないだろう。結婚前に付き合ってるとき、手作りの弁当が食べたいっていったら、作ってきたのサンドイッチだったんだから」
「失礼な。マドレーヌも作りました」
「どっちも弁当じゃないだろ」
「そりゃまぁ、そうだけど」
ルージュがやりこめられて黙ると、レイリアがシンに尋ねた。
「弁当って、バスケットのことですよね? サンドイッチじゃ駄目なんですか?」
不思議そうな様子のレイリアに、シンは大きくうなずく。
「男っていう生き物は、料理の上手な女性を好む習性があるからね。ライオットは食事がしたかったわけじゃなく、ルージュの料理の腕を知りたかったんだと思うよ」
サンドイッチだって手間のかかるメニューなのだが、作り手の技量によって味が変わるかと言われれば、よほどの失敗がなければ違いなど分かるまい。
「そんなわけで、結婚するにあたって、妻に『料理がうまい』っていう要素は全く期待してなかったんですよ。食べられる物を出してくれれば、それで十分かなと」
そう言われたイメーラ夫人は、若い夫婦を微笑ましげに見つめながら応じた。
「ですけど、その期待は良い方に裏切られたのでしょう?」
「まぁ、そうです。時には奇妙な創作料理に失敗することもありますが、妻の技量には満足しています」
「私、ほめられてる? 何か釈然としないんですけど」
複雑きわまる表情でルージュがつぶやくと、ニースがぽんと手を叩いた。
「楽しいお話だけれど、このままでは料理が冷めてしまうわ。せっかくだから温かいうちに頂きましょう。イメーラ夫人の料理は絶品よ」
その言葉を合図として、いただきますの唱和とともに、一斉にナイフとフォークが動き出す。
ニースの宣言どおり、イメーラ夫人の料理は胃袋だけでなく、心まで暖めてくれる出来だった。
長旅の空腹もあり、それぞれ夢中で料理を腹に収めていく。
「いや、これは美味しいな。アラニアに来て一番の料理ですよ」
見ている方が気持ちよくなるような食べっぷりで、シンが絶賛した。
「そうでしょう? この妻を射止めたのは、私の人生最大の成功だったと自負しておりますからな」
満足そうにピート卿がうなずく。
「まったくですね。こんな食事を毎日食べられるなんて、ピート卿がうらやましい」
その横で、ニースとイメーラ夫人がおかしそうに顔を見合わせた。射止められたのは果たしてどっちだろうか。
男を射んとすればまず胃袋から。マーファの教えは確かに真理を言い当てているようだ。
「私も、少し勉強しようかな」
難しい顔で鴨肉のローストをつつきながら、レイリアがつぶやく。
「あら。レイリア司祭は、お料理は苦手なのですか?」
以外そうにイメーラ夫人が言った。
黒髪の美少女は、少し恥ずかしそうにうなずく。
「神殿のお勤めと、剣術の訓練で忙しくて。なかなかそこまで手が回りません」
レイリアとて、厨房の大鍋で大量の給食を作るくらいなら朝飯前だ。これは修行の一環として当番制で回ってくるため、ターバ神殿の神官なら誰でもできる。
だがターバの女性神官全員に聞いても、その給食で男性の心を射止めようとする勇者はいないだろう。
「お料理の修行なんて簡単ですよ。作ったものを、親しい殿方に食べていただけばいいんです」
相手に喜んでもらいたい、相手に褒めてほしいという想いが、料理にとっては何よりの調味料だとイメーラ夫人は言った。
「親しい殿方に、ですか」
成長期の少年のような健啖ぶりを発揮しているシンをちらりと見る。
偶然、目が合った。
「ん?」
「あ、いえその、何でもありません」
あわてて手を振る。
兎肉のシチューに夢中のシンは、特に追求もせずに食事に戻る。
ほっと胸をなで下ろしたレイリアは、今度はイメーラ夫人が意味ありげに自分を見つめているのに気づいて、頬を染めた。
「食べていただきたい方に、心当たりがありそうですね」
「あの、特にそういうわけでは……ないのですが……」
尻すぼみになっていくレイリアの声。
食卓の明かりがランプで幸いだった。そうでなければ、耳まで真っ赤になったレイリアは、さぞかし目立ったことだろう。
「なあシン。このシチューどうだ?」
今まで戦況を見計らっていたライオットが、ここで援護射撃を開始する。
「最高。なんかシチューってふつう甘いだろ? でもこれはちょっと香ばしくて、大人の味って感じがする。胡椒か何か効いてるのかな?」
完全に同感だ。
だが、ここは感想を言い合う場面ではない。
ライオットはさらに言葉を続けて、親友とレイリアを追いつめていく。
「ターバに帰ってからも食べられるといいんだけどな」
「そしたら最高だけど、さすがに無理だろ。イメーラ夫人特製なんだから」
シチューの皿を空にしたシンが、ごちそうさま、と手を合わせる。
「お気に召していただけて何よりでした。けれど、特別な材料は何も使っていませんよ。レシピも簡単だから、どなたかにお教えしましょうか?」
イメーラ夫人の完璧な連携。
ライオットは目だけで感謝を告げると、おまえ分かってるんだろうなと言わんばかりの視線を、今度はルージュに向ける。
銀髪の魔術師は、当然のように夫の視線に反応してみせた。
「ああごめん、私ちょっと料理はパス」
「私も遠慮させていただきます」
目を伏せてナプキンで口許をふきながら、アウスレーゼもあっさりと断る。
これで外堀は埋まった。
あとは誰かの決定的な一言があればよい。
皆の期待を一身に背負って、ニースがおもむろに口を開いた。
「レイリア。あなた明日はお屋敷に残る予定だったんだし、イメーラ夫人に色々と教わったらどうかしら?」
チェックメイト。
退路をふさがれた後に王手を打たれて、レイリアにはもはや選択肢がない。
「……そうですね。イメーラ夫人、よろしくご教授ください」
「喜んで。これで、明日の夕食はレイリア司祭の手作りですね。皆さん、期待して大丈夫ですよ」
楽しそうに手を打つイメーラ夫人の言葉に、シンがにっこりと笑った。
「そうか。これは明日の夜も楽しみだな」
他意はないのだろう。
シンは、ただ単純に明日も美味しい夕食が食べたいだけ。完全に色気より食い気。
それが分かるだけに、レイリアは苦笑した。
比べられる対象はイメーラ夫人の力作。素人と変わらないレイリアにとって、ハードルはかなり高い。
「あらあら。墓所の攻略と夕食の調理と、どっちが難しいか分からないわね」
ニースの冷やかすような一言に、レイリアがまったくですと頷き、楽しげな笑い声がランプの明かりに染み込んでいく。
ピート卿が地下室から秘蔵のワインを持ち出してくると、席はさらに暖まり、夜は賑やかに更けていった。
翌朝。
各々が準備を整えて屋敷の外に集合すると、地平線から顔を出したばかりの太陽が光の槍を突き立てた。
「冒険者の何がつらいって、早起きが多すぎるよな」
ライオットがまぶしそうに手をかざし、眼を細めて空を仰ぐ。
緩やかに連なる丘陵の向こうには、雲ひとつない青空が広がっていた。
青空といっても一色ではない。地平線の近くは薄い水色。上を向くにしたがってどんどん濃くなり、天頂は藍色に近い深みが残っている。
夜明け直後、今しか見られない自然のグラディエーションだ。
「まあ、こんな空気が味わえるなら、早起きも悪くないけどさ」
初夏とはいえ、まだ早朝。
辺りは少し肌寒いが、澄んだ大気は清涼感にあふれ、頭に淀んでいる眠気を爽快に吹き払ってくれる。
「まだ5時頃でしょ? 私は眠い。あと3時間寝かせて欲しかった」
昨日に続いての早起きに、ルージュはあくびを堪えきれない。
紫水晶の瞳はとろんと濁り、細い指が桜色の唇を覆う。
外見は幻想的なまでに整った佳人なのだが、緩みまくった言葉と表情がすべてを台無しにしていた。
「おい半人前。ちょっとはシャキッとしたらどうだ? あの怖そうな女を見てみろ。朝早いってのに準備万端、髪のセットから化粧まで完璧だぞ。寝ぼけた牛みたいなお前とは大違いだ」
銀色の双尾猫が、あきれた様子でルージュを眺める。
「私は1日8時間寝ないとダメなの。ルーィエだって知ってるでしょ?」
ん~、と背伸びをして、ルージュが言う。
目尻に浮かんだ涙を拭いていると、今度はアウスレーゼが冷たい声を突き立てた。
「そんなことは理由になりません。化粧云々は個人の自由ですが、ニース様の護衛を引き受けた以上、体調管理はあなたの仕事です」
「ごもっとも」
正論すぎて返す言葉もない。
憮然として黙り込んだが、またしてもあくびをかみ殺しているルージュに、アウスレーゼはため息をついた。
「それに、私などよりレイリア様の方がずっと早起きをしているのですよ」
視線を転じれば、レイリアがシンと向き合い、何やらバスケットを渡しているようだ。
長い黒髪をポニーテールにまとめ、エプロン姿で腕まくりをしたレイリア。
向き合っているシンは、どことなく落ち着かない様子だ。
「あ、リーダー赤くなってるよ?」
「無理もない。あれは反則」
ライオットが羨ましそうに言う。
抜けるように白い首筋や、たおやかな曲線を描く二の腕など、普段は隠された肌を惜しげもなく見せているのだ。
芍薬の花のような楚々とした立ち姿は、もはや芸術品の域に達していた。
「ちょっとライくん。食いつきすぎなんじゃない?」
「悪いな。実は俺、ポニーテール萌えなんだ」
妻の冷たい視線をものともせず、ライオットは全力で鑑賞を続けた。
レイリアは黒い瞳に真摯な光を浮かべて、正面からシンを見つめている。
「シン、怪我しないように気を付けてくださいね」
「分かった」
「母のこと、お願いします」
「大丈夫。任せて」
「これ、お弁当を作ってみたんです。イメーラ夫人が保証してくれたので、味は大丈夫だと思うんですが」
「ありがとう。楽しみにさせてもらうよ」
本人たちは大まじめに、聞いている方が痒くなるような会話を繰り広げていた。
手を伸ばせば肩を抱ける距離まで、あと半歩。
その絶妙な間隔を保ったまま、2人の視線は互いを見つめる。
実直な浅黒い肌の戦士と、美しい黒髪の司祭。見上げる瞳と、見下ろす微笑。
実に絵になる光景だ。
そこには完全に2人だけの世界ができあがっており、興味津々に眺める周囲の視線など、全く気にも留めていなかった。
「シン、前に言いましたよね。俺は弱いって。覚えてますか?」
「ああ、もちろん」
その時の会話を思い出して、ちょっと恥ずかしそうにシンが頷く。
レイリアは穏やかな声で続けた。
「けど、本当はそうじゃない。私は知っているんです。だってあの時、あなたの背中を見たんですから」
確信に満ちた表情と迷いのない口調は、まさに聖女のよう。
若い頃のニースもこうだったのだろうか、とシンは思った。
「信じてください。あなたは誰よりも強い。あなたの力と想いがあれば、守れないものなんてありません」
その真摯な言葉は、自分でも驚くほど素直に、シンの心に染みわたっていった。
正直なところ、戦士としての自分には、さほどの実感はない。
シンが剣を抜いて戦ったのは、オーガー事件が最初で最後。その時だって無我夢中で、自分が何を感じたかなんて覚えていないのだ。
この状況で、自分が最強の戦士だと信じられる方がどうかしている。
それでも。
「信じるよ。君の言葉なら」
たとえハードウェアに頼ったスペックだろうと、レイリアが望むシン・イスマイールでありたい。レイリアに訪れる危機から、彼女の人生と笑顔を守りたい。
彼女の前で恥じない自分になりたいと、そう思ったのだ。
シンの決意を感じたのか、レイリアが嬉しそうに頷いた。
清楚な美貌に、好意を隠そうともせず暖かな笑顔を浮かべる。
涼やかな風がレイリアの黒髪をふわりとなびかせると、シンはそれに吸い寄せられるように、すっと近づいた。
手を伸ばせば、肩を抱ける距離。
ライオットとルージュが目を輝かせて見守る中、緊張と期待にレイリアが肩を震わせたところで。
「はい、そこまで」
ぽんぽんと手を叩いて、ニースがため息混じりに介入した。
「ああっ。ニース様、もうちょっとだったのに」
思わずライオットが慨嘆する。
「お黙りなさい」
めっ、とライオットを一瞥して黙らせると、あわてて距離をとったシンにも苦言を呈する。
「こんな朝も早くから、母親の目の前で娘を口説くものじゃありませんよ。キスを迫るなら、時と場所をわきまえなさい」
「キ、キスってそんなつもりは……」
予想外の言葉にうろたえたシンが、顔を真っ赤にして手を振る。
「あら。この子にキスをするのは嫌だって言うの?」
「あ、いや、できればしたいですけど、今はまだ早いというか彼女の気持ちも考えないといけないしですね、その前にそもそも俺たちはまだニース様が心配するような関係ではありませんし……」
脊椎反射でまくし立てたシンは、してやったりという笑顔を浮かべたニースと、頬を赤くして俯いたレイリアを見て我に返った。
自分は今、何を口走った?
それを反芻して、顔から火が出そうになる。
楽しそうに笑っているライオットとルージュ。対照的に冷たい視線を投げかけるアウスレーゼ。誰も口を出そうとせず、ただシンの醜態を眺めるだけだ。
「おい、黒いの。こういう時はどうすればいいか、教えてやろうか?」
我関せずと眺めていた双尾猫が、仕方ないと言わんばかりに助け船を出した。
「頼む。ぜひ」
シンは一も二もなく飛び乗る。
全員の注目を集めた猫族の王は、満足そうに髭を震わせると、厳かな口調で宣言した。
「あきらめろ」