マスターシーン ターバ郊外 マーファ大神殿
「怪我がなくて何よりだったわ。ありがとう、ギム。世話をかけました」
私室に迎えた客から一部始終を聞き終えると、マーファの最高司祭ニースは深々と頭を下げた。
ニースは齢47歳。
かつてロードスを魔神から救った英雄も、今では目尻にしわが刻まれ、髪にも白いものが目立つようになっている。
「いや、わしはほとんど役に立っておらんよ。礼なら彼らに言うがよかろう」
かぶりを振って、ギムはニースが手ずから煎れた紅茶に口をつけた。
力を入れれば折れてしまいそうな陶器のカップに、香り高い琥珀色の液体が揺れている。
ギムとしては木製のジョッキにエール酒のほうが好みだったが、郷に入っては郷に従えという。この部屋に来た以上、部屋の主の趣味に文句をつける気はなかった。
「しかし、奇妙な連中ではあったな」
髭を湿らせる湯気に顔をしかめながら、ギムは思い出したようにつぶやいた。
「奇妙?」
ニースが首を傾げる。
そんな仕草には、年齢とは関係ない、まるで少女のような愛嬌を漂わせていた。
「うむ。剣の腕はわしとは比較にならんのに、戦うのを異常なほど怖がる。相手を傷つけることを恐れ、死体にさわるのを嫌う。まるで心と体のバランスがとれておらん」
「そう」
ギムの言葉に、ニースは記憶を探るように遠い目をした。
今から30年前、ロードスを魔神が跳梁し、人々が恐怖に震えていた時代のこと。
ニース自身も、そのような人々と冒険を共にしたことがあったのだ。
彼らはギムの言う冒険者たちと同じように、異常なほど臆病でありながら、異常なほど強かった。
彼らの顔をひとつずつ思いだし……一瞬だけ生ぬるい表情を浮かべた後、ニースは懐かしそうに微笑んだ。
「その人たちは、時々意味の分からない言葉を使っていなかった?」
ニースの問いに、ギムは髭をしごいて記憶を反芻する。
彼らの言動には奇矯なところが多く、枚挙にいとまがないが、強いて挙げるなら初めて会ったときだろうか。
「そうじゃの、おぬしはナナレベルという言葉を知っておるか?」
「ナナレベル? いいえ」
ニースが首を振る。
「あやつらがレイリアを評した言葉じゃ。レイリアはナナレベルの司祭だそうな。まるで意味が分からん」
ギムが鼻を鳴らして紅茶をすする。
ニースはしばらく目を閉じて考え込んでいたが、やがて静かに立ち上がると、窓辺に歩み寄った。
窓からは遠くターバの村が見える。
初夏。一年でもっとも美しい季節。
ロードス最北端の村は、短い夏の輝きをいっぱいに受けて、平穏な毎日を享受している。
だが、その平穏が破られる日が近づいているのかもしれない。
旧友からの手紙にあった、動乱の気配。
その足音は、確実にこのターバに近づいているようだ。
「これも、マーファのお導きかもしれないわね。私も会ってみようかしら、その冒険者たちに」
複雑な心境と重大な覚悟をその言葉に乗せると、ニースは彼方の空を見上げた。
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ、辺境の島だ。
大陸の住人の中には、ここを呪われた島と呼ぶ者もいる。
かつて神話の時代、邪神カーディスがこの地に倒れ、その骸が今も残されていると伝えられるが故に。
つい30年前には、最も深き迷宮から異界の魔神が解放され、ロードス全土を大混乱に陥れたが故に。
そして今、呪われた島の名にふさわしい災厄が、再びロードスを覆わんとしていた。
SWORD WORLD RPG CAMPAIGN
『異郷への帰還』
第2回 魂の檻
シーン1 〈栄光のはじまり〉亭
「ったく、高貴な俺様には全く信じられないね。おいルージュ、おまえ、つがいの相手を完全に間違えてるぞ。今からでも遅くはない、子供を作る相手はちゃんと選んだ方がいい」
いつものように罵詈雑言を連射しながら、ルーィエは足取りも荒く食堂に入ってきた。
ルーィエは猫である。
が、ただの猫ではない。
アレクラスト大陸の南に浮かぶアザーン諸島から渡ってきた、誇り高き猫族の王、双尾猫だ。
その名の通り2本の尻尾と、銀色の美しい体毛がチャームポイント。
特技は古代語魔法と精霊魔法。
表向きは魔術師ルージュ・エッペンドルフの使い魔ということになっているが、実際には頼りないルージュを指導してやっている立場である。
猫族の王という身分に付随する、いわゆる“高貴な義務”(ノブレス・オブリージュ)というやつだ。
食堂では、初日から指定席にしている一番奥のテーブルで、すでにシンとルージュが飲み物を片手にくつろいでいた。
ルーィエは当然とばかりにルージュの膝に跳び乗り、不機嫌そうに毛づくろいを始める。
「今度は何を怒ってるの、ルーィエ?」
なでごこち満点の柔らかい背中に手を乗せると、その毛皮は水で濡れていた。
ルージュが思わず苦笑する。おおかたの予想はついていたのだが。
夕食には少し早い時刻。
食堂には他の客もちらほらといたが、しゃべる猫に関心を寄せる者はもういなかった。
彼らがオーガーを退治した熟練冒険者であり、ルージュが高位の魔術師だということは、すでに村中に知れ渡っている。
魔術師ならば、しゃべる猫の1匹くらい飼っていても不思議ではないだろう。
純朴なロードスの人々は、その程度の認識で現実を受け入れてしまったらしい。
「知りたいか? ならば教えてやる。おまえのつがいのライオットが、俺様にいかなる不敬を働いたかをな」
「そう言うなよ陛下。せっかくの銀毛がホコリで薄汚れてたから、綺麗にして差し上げただけじゃないか」
ルーィエに続いて食堂に入ってきたライオットが、心外だと肩をすくめる。
白い麻のズポンにタンクトップのシャツという姿で、彼の金髪も濡れたまま。肩にはタオルをかけている。
いかにも風呂上がりという風情だが、金髪碧眼の貴公子然とした容貌のおかげで、不思議とだらしない印象は受けなかった。
「だけだと? 貴様、よくぞそんな台詞が言えたもんだな! ちょっとばかり俺様よりすばしっこいからって、あんまりいい気になるなよ?!」
2本の尻尾を逆立ててルーィエがライオットを威嚇する。
ライオットが空いていた椅子に座ると、ルージュが横から麦茶のジョッキを滑らせた。
「それで、ルーィエに何をしたの?」
「いや、ただ風呂に入れただけだよ。こうやって……」
ライオットは、ルージュの膝にいたルーィエの首根っこをひょい、とつまんだ。
ルーィエはあわてて逃げようとしたが、彼の回避点では9レベルファイターの攻撃を避けることはできない。
抵抗むなしく、ルーィエはライオットに持ち上げられてしまった。
遙かな昔、母猫にくわえられて移動した子猫時代を思い出して、だらりと手足を下げる。
そのまま、ライオットは腕を上下に動かしながら、ルーィエの腹や背中をこすって見せた。
「こんな感じで。もちろん石鹸はつけて洗った」
「湯船でそれをやったのか。なんかこう、猫しゃぶって感じだな」
我関せずとエール酒をなめていたシンが、風呂場の光景を想像して、思わずつぶやく。
その言葉で我に返ったルーィエが暴れ出し、再びルージュの膝に戻されると、今度はふてくされて丸くなってしまう。
「それはひどいよ、ライくん」
ルーィエの背中を撫でながら、ルージュが頬を膨らませた。
「いや、結構熱い風呂だったからさ。長くつかってると陛下がのぼせちゃうんじゃないかと思って、これでも気を遣ったんだけど」
「猫はふつう、お風呂に入れないものだよ。洗面器でぬるま湯をかけて、優しく洗ってあげなきゃ」
そして、ルージュの紫色の瞳が、すっと細くなってライオットを射抜く。
深い知性を感じさせる不思議な輝きに、ライオットは思わず視線をさまよわせて頭をかいた。
隠し事をしているとき特有の、夫の反応。顔や体が変わっても、仕草だけは変わらない。
ルージュはそのまま視線の圧力をあげて、無言の追求を続ける。
ルーィエと同じ銀色の髪に、象牙を彫り上げたような肌。なまじ整った美貌だけに、その迫力たるや尋常ではない。
ライオットは速やかに白旗を揚げ、妻に服従した。
「風呂に入ると湯が汚れるので、陛下に《ピュリフィケーション》の魔法をかけてもらいました」
「それだけ?」
さらなる追求に、今度はルーィエの背中がぴくりと震える。
ルージュの口許が迫力満点の微笑を刻み、いったん双尾猫に視線を落とした後、再び夫に向けられる。
もちろん、ライオットはすべて白状した。
「最初はイヤだと断られたので、お礼に砂糖菓子を献上すると約束しました。陛下は喜んで協力してくれました」
「ライオット、貴様それは黙ってる約束だろう!」
「悪いな陛下。今のルージュに逆らえるわけないだろう。恨むなら自分か神様にしてくれ」
小声で言い合いをする夫と使い魔に、ルージュは深々とため息をついた。
「ルーィエ。甘いものは虫歯になるからダメだって、いつも言ってるよね?」
「いやほら、たまには王たる者も、庶民の楽しみというものを味わった方が……いや、何でもない。砂糖菓子は諦める」
抗弁を試みたルーィエも、紫水晶の瞳に射すくめられて瞬時に断念。
自分では勝てない相手を見極めるのは、冒険者として必須の能力だ。
「じゃあ罰として、ライくんにはお風呂の水くみ1週間。ルーィエは、全員のお風呂の後に《ピュリフィケーション》をかけること。いい?」
けっこう重労働なんだけど、とふたりは目で愚痴をこぼしあったが、声に出す勇気はなかったため、判決は確定した。
「じゃあ早速、私もお風呂行ってくるね。ルーィエ、行こうか」
「ちょ、なんで俺様まで。風呂は入ったばっかりなんだけど」
「あれ、ライくんには協力できて、私にはできないって言うの?」
他に精霊魔法を使える人がいないんだから、仕方ないじゃない。
こともなげに言い放ったルージュに。
「分かった。ちょうど、もう一回入りたい気分だったんだ。仕方ないから付き合ってやる」
力なく2本の尻尾を床に落として、ルーィエは再び食堂を後にした。
全員が風呂をすませて指定席に集合したのは、それから1時間後のことだった。
湯船を3回にわたって浄化させられたルーィエは、さすがに精神点を使い果たし、テーブルの上でぐったりと寝そべっている。
共犯者として心を痛めたライオットが《トランスファー》で精神点を融通したものの、起き上がる様子はなかった。
「そういえばリーダー、今日はレイリアさんと買い物の日じゃなかったっけ? ずいぶん早く帰ってきたね」
すでにテーブルには、全員分の夕食が並んでいる。
ロードス島に来て1週間。
嵐のような初日以外は特に事件もなく、ファンタジーな世界の生活にもようやくリズムを掴めてきた。
ライオットの言葉ではないが、想像以上にふつうに生活できている。
まるで変わってしまった仲間の顔も、普段どおりの会話をしているうちに心が受け入れてしまった。
古来日本では、美人は3日で飽きる、不美人は3日で慣れるという。魂の形さえ変わらなければ、外見が変わったくらいで友情は揺るがない。
ターバの村には城も衛兵もいないし、町中で剣を振り回す輩も、ルージュ以外の魔術師も、もちろんいない。
テレビやPCといった文明の利器を諦めてしまえば、ヨーロッパの片田舎に旅行に来たと言っても納得できそうな雰囲気。
ファンタジーな世界といえども、日常的に魔法が飛び交っているわけではないのである。
「ああ、今日は相方の娘と一緒だったから、送っていかなかった。それよりさ……」
いつものようにエール酒のジョッキを空けながら、シンは少し言い淀んだ。
黒髪に浅黒く焼けた肌。まるで黒豹のような印象の戦士は、どこから話したものかと悩んでいるようだ。
C言語やJAVAならどんと来いなのだが、あいにくとプログラミング言語は物語をつむぐにはいささか不向きだ。
いろいろと考えた末、きっと誤解されるんだろうな、と思いながらも、結局は結論から口にしてしまう。
「レイリアに言われた。ニース様が会いたいと言ってるそうだ」
果たして。
「わぉ。早くもご挨拶?」
「やるな。いちおう手土産は持っていった方がいいぞ。手ぶらだと気まずいからな」
予想どおり、目を輝かせて食いついてくる。
夫婦で息もぴったり。
本気でそう思っているわけではあるまいが、とりあえずからかうチャンスは逃さない。このふたりはそういう人間だ。
シンはやれやれと言わんばかりにため息をついた。
「俺だけじゃない。みんなで神殿に来いってさ。どうする?」
ここから先は、マジメな話。
真剣な議論になるだろうと思っていたのだが。
「そうか。いつにする?」
「明日とかでもいいのかな? レイリアさんは何か言ってた?」
会話はあっさりと結論をすっ飛ばしていた。
ふたりの中では、面会を断るという選択肢はないらしい。
「それでいいのか? 原作キャラクターには関わらない方針だっただろう」
だが、いちおう述べたシンの反対意見は、一笑に付されてしまった。
「レイリアと会ってる時点で、その方針は瓦解してるだろ。今日だって楽しそうにしてたじゃないか」
あわててルージュが夫の口をふさごうとするが、もう遅い。
「見てたのか?」
「わざとじゃないよ、リーダー。私たちもおやつの買い出しに行ったら、偶然ね」
「そこから後は偶然じゃないけどな」
デートの様子を盗み見ていたことを、ライオットが堂々と認める。
とはいえ、レイリアの相方の娘も一緒だったのだ。ただ会話をしながら買い物をして、シンおすすめの屋台で買い食いをして、村の入り口で別れただけ。
どう贔屓目に見ても、気の合うお友だちという段階だ。
手をつないで歩くのは当分先だな、というのがライオットの評価である。
「まあ冗談はさておき、ニース様の面会を断っても、百害あって一利なしだろ」
むすっと黙り込んだシンに、ライオットが言う。
「相手は魔神戦争の英雄で、マーファ教団の最高司祭だ。彼女ににらまれたらターバにはいられなくなるよ。それに、もう決めただろ?」
レイリア対カーラというキャンペーンシナリオに乗ることを。
灰色の魔女が襲ってきたら、レイリアに付いて戦うということを。
「覚悟を決めるっていうほど大それた意識はないけどさ。俺の経験で言わせてもらえば、自分で決めたことなら、突然その場に放り出されても諦めがつくもんだよ」
それに。
彼女いない歴33年の親友が、レイリアのような最上級美少女と幸せになれるなら、原作ストーリーなど知ったことか、とライオットは思う。
カーラだろうとスレインだろうと、レイリアを渡すわけにはいかない。
相手が誰であれ、こいつのためなら全力で戦ってやる。
ライオットにとって親友とはそういうもので、シンは一番の親友なのだ。
「……レイリアはいつでもいいって言ってた」
「じゃ、明日にでも行ってみる? どうせ宿にいてもすることないし」
ルージュの提案に、ふたりはうなずいた。
やると決めたからには、プレイヤーの方から動かないと、シナリオは進まない。
TRPGとはそういうものだ。
「ま、あれだ。俺とルージュはニース様に結婚の祝福をしてもらうとして」
にやりと笑って、ライオットが言った。
「とりあえずお前は手土産を買ってきた方がいいぞ。相手の親に初めて会うんだ。手ぶらだと気まずいからな」