ガヤガヤと騒がしい音がする。
 アスナ──エリカが目を開くと辺りはジェイドグリーンでライトアップされたいくつもの塔があり、どれも中ほどで通路が伸びて繋がっている大都市らしき場所にいた。
 ほえ~、と視線を回すと頭上に《スイルベーン》と書かれた看板があった。おそらくこの町の名前なのだろう。
「これがアルヴヘイム・オンライン……? SAOと変わらないくらいのグラフィックね……」
 SAOは相当に高いグラフィックを誇っていると聞いていたが、今やこれくらいが当然の技術力なのだろうか。
 エリカはその辺の知識が豊富ではなく、またこれまで興味も薄かったのでよくわからなかった。
 キョロキョロとあたりを見回してみる。存外人は多い。
 全てがプレイヤーではないだろうが、それを差し引いてもSAOより人口密度は上だろう……と思ってからそれも当然なことに気付く。
 SAOは一万人から人が増えることは無く、減っていくゲームだった。当然、人口密度は減少の一途しか辿らない。
 だがこのゲームは人口密度が増える一方だろう。デスゲームではなく、一万人という制限があるわけでもない。
 利用者がこのゲームに見切りを付けて消えていくこともあるだろうが、現在人気と名高いこのゲームはその人数を補えるだけの新規参入があることは想像に難くない。
 自分が今まで経験してきた世界とは違うのだ、という当たり前のことに気付かされる。
 もっとも、これが本来の姿なのだろうが。
「SAOも、本当はこうなっていくはずだったんでしょうね……ううん、団長の目的を知った今となってはそうとも言い切れない、か」
 エリカは小さく溜息を吐くと、目についた近場の大きなガラス窓に近づいた。
 何かのお店だろうか。よくある壁の一面がガラスウインドウになっていて、中が見える。
 同時に、自分の姿も半透明に透けて映っていた。
「これが、この世界の私かあ……」
 若草色のショートヘア。体は少々小さ目で、背中には淡いライトグリーン光を纏う昆虫のような翅。
 現実世界の自分とはあまり似ていないな、と思う。そもそも髪がここまで短かったのは小学校低学年くらいまでじゃなかっただろうか。
 名前も姿も全くの別人。現実のしがらみもない、もう一人自分。
 そう思うと、他人のはずの目の前の顔が少しだけ……羨ましく思えた。
 このもう一人の自分は、現実とのしがらみが無い。無論中身が自分である以上それは本来切っても切り離せないもの。
 でも、この世界においてエリカは、今生まれたばかりの自由な一個の存在。
 背中にあるこの翅で、どこまでだって飛んで行ける。ガラスに映る姿を見て、この姿の自分が夜空を自由に羽ばたく様子を幻視する。
 そこには彼女を止めるものも、阻むものも、ましてや彼女を縛るものなんて一切無い。
 高く高く、羽ばたきを強くして舞い上がる。夜空に浮かぶ満月の中心を目指して。
 そこに、黒い影が一つ。
 黒い髪に、黒い翅。さらに黒いコートを羽織って、黒い瞳でこちらを見つめ、手を伸ばしてきて。
 彼の手を掴もうと同じく手を伸ばし、
 ──────アスナ。
「っ!」
 我に返る。
 記憶の中のキリトの声は優しく、甘く、そして──切なかった。
 早く本当の声を聞きたい。
 気付けば、いつまでもガラスに映った自分を見てボーッとしている彼女を、周りのプレイヤーが訝しげに見ている。
 エリカは慌ててその場を離れた。
(恥ずかしいことしちゃった……)
 傍から見れば自身の姿に見惚れたナルシストと見えなくもない。
 それは流石にご免被りたかった。
 そのまま羞恥から人混みを避けていくうちに、どこかの裏通りらしき場所に出た。
 あまり人も周りに見えないことからようやくエリカはホッと息を吐く。
 しっかりしなきゃ、とすぐに自分に喝を入れ、まずは世界樹なる場所への行き方をマップでも見て確認しようとメニューを呼び出す為に慣れ親しんだ右手を振る。
「……あれ?」
 ふん、ふん、と何度振ってもそこにシステムメニューは現れない。そんな馬鹿な。
 システムを呼び出せないなんてどんな無理ゲー。いや、呼び出し方が違うのかもしれない。ここはSAOではないのだ。
「出でよ、システムメニュー!」
 ちょっと恰好付けて目の前にもう一度右手を強く振ってみる。
 ……反応は無い。そもそも口語が必要と言う時点でおかしいとは思う。
 あ~んもう! とエリカは肩を落とした。こんなことならもっと調べるなりシステム説明をちゃんと聞くなりすれば良かった。
 右手でシステムが出てこないなんてまるでユイのよう……。
「あ」
 ふと思い立って、エリカは《左手》を振ってみる。
 するとそこには軽快な効果音を伴って半透明なシステムメニューが表示された。
 見た目はほとんどSAOと同じだった。
「まさか、これって……システム権限あり?」
 それこそ馬鹿な、と思い直す。きっとこの世界では左手でシステムを呼び出すのが普通なのだ。
 後でわかったことだが、その考えは間違っておらず、周りのプレイヤーは迷うことなく左手でシステムを呼び出していた。
 説明はきちんと聞きましょう、と当然のことを胸に刻みながらマップを開こうとして……あれ? と思う。
「保持スキル、多いわね……」
 ヒットポイント400、マナポイント80。ERIKAという名前の下にシルフという種族名と、いかにも初期値といったステータスがあるのはいい。
 だがスキルは妙に数が多い。SAOの経験から言うと、あっても一つ二つではないだろうか。
 エリカは首を傾げながらスキル一覧を覗いてみた。
「《細剣》、《体術》、《料理》、《裁縫》……え」
 息を呑む。見覚えのあるスキルばかりだ。
 それも熟練度がどれも初期数値とは思えないものばかり。
 まさか……と思いながらエリカはシステムメニューの中のログアウトボタンを押してみる。
【本当にログアウトしますか? YES/NO】
 そこにはきちんとログアウトが可能なことを示すシステムメッセージ。
 それを見て、何故だか思ったほど《安心した》という感情が無い自分にエリカは驚く。
 一瞬持った杞憂と期待。ここはSAOで、SAOのように任意のログアウトが不可なのではないか、という予想はものの見事に外れた。
 任意ログアウトができるというのは間違いなく良いことだ。ここがSAOではないという証明でもある。
 だが、素直にそれを全て《良かった》と取れない心がエリカの中には巣食っていた。
 あの世界に、未練があるのだろうか。
 いや、きっとそれはあの世界というより、あの世界に置いてきた家にだろうとすぐにエリカは気付く。
 暖かかったあの家。ここが自分の居場所なんだと心から思えたあの時。
 失われてしまったはずのそこに一瞬でも行けるような気がして、期待してしまった。
 もしかしたら、目覚めないキリトもそこにいるのではないかという思いもあるのかもしれない。
 だが、現実はここが間違いなくSAOではないということを示していた。任意ログアウトできるSAOなど、もはやSAOではない。
 そう思って、つい自分自身を嘲笑する。今自分は、ここがデスゲームの世界の方が良いとさえ思ってしまった。
 外では家族が必死に無事を祈り、毎日今か今かと目覚めを待ってくれていたというのに、そちらの世界の方が生きていると実感できるとさえ思ってしまった。
 あれほど必死に攻略の鬼などと呼ばれていた自分がその実、今はあの世界に居たいだなどとはとんだ笑い話だ。
 そこまで考えて、ぶんぶんと首を振る。
 ……いけない。どうにもこの所自虐的なことばかり考えることが多くなっている。
 別に現実に戻れたことが嫌なわけではないのだ。むしろ喜びさえちゃんと持っている。
 ただ、そこに《彼》も目覚めているという必須ファクターが欠けているだけで。
 今はそのファクターを埋めるために手がかりがありそうなここへ来たのだ。
 余計なことは考えるな、とアスナは意識を無理やり切り替える。
 嫌な考えを打ち消すようにシステムを適当に弄り、SAOとの差異を見ていく。と、その手が止まった。
「な、なにこれ……?」
 アイテム欄を開くと、そこには酷く文字化けした文字群の羅列がびっしりとあった。
 漢字や数字、アルファベッドや記号……多種多様な意味不明の組み合わせで彩られた謎の羅列。
 そのほとんどはグレイカラーになっていて、使用不可……つまりオブジェクト化さえ出来ないようになっている。
 途端、エリカは雷が落ちたかのような閃きが頭に舞い降りた。
 スキルは恐らくSAOのものだ。それが引き継がれている。何故か、なんていう理由はわからない。この際どうでも良いいことでさえある。
 ただ、スキルがSAOから引き継がれているのなら、このアイテム群だってその可能性は十二分にある。
 だとすれば……そこには《あの娘》がいるはずだ。
「お願い、お願いよ……!」
 エリカは泣きそうな声を上げながら、真剣にアイテム群を見ていく。
 次々とスクロールされていくそれらは、半数以上は名前が意味不明な羅列だったりグレイカラーになっていてオブジェクト化不可だったりした。
 それがどんどんとエリカの恐怖を煽っていく。
 もしも文字化けでわからなくなっていたらどうしよう?
 もしもオブジェクト化できなくなっていたらどうしよう?
 もしもこの中にその存在さえなくなっていたらどうしよう?
 瞳に涙さえ浮かび始めたその時、エリカの……いや《アスナ》の手が止まる。
 息を呑み、ぷるぷると手が震える。
 そこには、グレイカラーに侵されていないアイテムの名前が表示されていた。
【MHCP001】
 奇跡的に文字化けせず、また、使用可能アイテムとして、それはそこに確かにあった。
 アスナは震える手でそれを選び、オブジェクト化する。
 すぐにアイテムが光とともにエリカの手の中でオブジェクトを形成した。
 涙滴型に複雑カットされた無色透明なクリスタル。
 とくんとくんと淡い白光を生みながらほのかに暖かいそれを、エリカ──アスナは見紛うはずもない。
(ユイちゃん─────!)
 ギュッと抱きしめる。掌に伝わるほのかな温かみが彼女の涙腺を酷く刺激した。
 あの世界崩壊とともに失われたと思っていた娘。ある意味でキリトの忘れ形見でもあるその存在。
 血が繋がっていなくとも、確かに家族と胸を張って言える相手。
 それが、今手の中にある。
「……ユイちゃん……っ!」
 胸にこみ上げる愛しさと切なさと寂しさ。
 そこにあるのに、そこにいるのに、触れているのに、届かない。
 小さなオブジェクトの姿でしかないそれに、とうとうエリカ──アスナは目尻に溜め込んだ涙を抑えきれなかった。
 ─────ポタッ。
 涙がクリスタルに零れた……その瞬間!
「えっ」
 クリスタルが激しく白い光を放ち始める。とても目を開けていられない。
 ここが人気の無い場所で良かったかもしれない。人がいればなんだなんだと集まりかねない。
 フワリとクリスタルは浮かび上がってみるみる光の大きさを膨らませていく!
 だが、やがてその光はどんどん見覚えのある形に変形していった。
 光が萎むにつれて、その姿が露わになっていく。
 長い黒髪、真っ白なワンピース。そこから伸びる幼い手足。
 忘れるものか。間違うものか。だって、そこにいたのは……、
「ユ、イ、ちゃ……ユイちゃ、ん……!」
 パチッと少女は夜空のように黒い──まるでキリトのそれのような──目を開き、桜色の唇を微笑みに変えた。
 それを見たエリカ──アスナは既に耐えられなかった。彼女を抱きしめ何度も名前を呼ぶ。
「ユイちゃん……ユイちゃんユイちゃん!」
「また、会えましたねママ……ママ!」
 ユイはすぐに抱き返した。
 今のアスナはアスナの姿ではない。
 だが、ユイには分かっていた。彼女は紛れもなく母、アスナだと。
 見た目を違えようと、その魂まで変えることなどできはしない。
 血の繋がりがなくとも、人とプログラムという壁があろうとも、そこには確かに魂による絆が存在していた。
「パパが、目覚めない……?」
 そんな、と不安そうな顔でユイはアスナ──エリカを見つめる。
 エリカはこれまでの経緯を簡単に説明した。キリトによって茅場晶彦は倒されたこと。
 それによってゲームはクリアされ、アインクラッドは崩壊したこと。
 プレイヤーはほとんど目覚めたが未だに三百余名程が目覚めず、その中の一人が和人/キリトなこと。
 そのキリトに間違いないと思われる存在がこの世界の世界樹で見つかったこと。
 それを聞いたユイは目を閉じて何かを検索しだし、ここがSAOサーバーのコピーだということを突き止める。
 基幹プログラム群やグラフィック形式、セーブデータのフォーマットがほぼ同じうんたらかんたら。
 そもそもそうでも無いと自分もこの姿を再現できないうんたらかんたら。
「ふ、ふぅ~ん」
 エリカはウンウンと、とユイの説明に時々頷きながら内心で冷や汗をかいていた。
 彼女は元来あまりそういったことに詳しくない。ゲームコンポーネントは全く別個のものと言われても「それっておいしいの?」と聞いてしまいかねないくらいには知識が無かった。
 まあ話の内容から流石に本当に「おいしいの?」などとは尋ねないが、ようは娘の話がちんぷんかんぷんでついていけないでいた。
 それに薄々ユイは感づき始め、苦笑しながら「ここはSAOのもとのデータを流用し真似して作った場所です」とだけ言い「おおーなるほどー!」とエリカに感動された。
 エリカはその後、ユイに言われるまま文字化けしているアイテムを捨てていく。このままではエラー検出プログラムに引っかかるとか言われたが、よくわからないので、ただ言われた通りに操作していた。
 しかし、その手が一瞬止まる。このアイテムは思い出の品で、大事なものが一杯詰まっている。さらに言えば、恐らくアイテムはキリトのものも混じっている。
「ママ?」
「……ううん、なんでもないの。ごめんね」
 果たして、その「ごめんね」は誰に対してのものか。
 ユイに対してか、キリトに対してか……それとも。
 エリカは、一度だけアインクラッドでキリトにとある《録音結晶》を見せてもらったことがある。
 クリスマスの晩に、時限式で届いたものだと。これには救われるのと同時に、決して消えることのない自分の罪を自覚させられたと。
(……ごめんなさい)
 エリカ──アスナは心からそう謝ると、初期装備と思われる以外の全てのアイテムをゴミ箱へとドラッグさせた。
 作業は一瞬。すぐにアイテムストレージはまっさらな光り輝く無色のウインドウになる。
 少しだけ様子のおかしいエリカに、その姿を《ナビゲーションピクシー》へと変えたユイはなんとなくの事情を察した。
「ママ……」
 ユイはエリカの肩に乗り、瞳にうっすらと溜まった涙を小さな手で拭う。
 エリカは「ありがとう、ユイちゃん」とその小さくなった娘の励ましに頭を優しく撫でることで答えた。
 ……これは罪だ。無事に彼と再会できた時、謝らなければならない。
 そう心に留めながら。
 たとえそうしなければいけない事情があったにしても、それは本来決して踏み込んではいけない領域だ。
 娘に悟られぬよう、これは許されない罪だと、心の中に刻み込む。
 このALOでは残念ながら管理者権限が無いというユイは、この世界にある《ナビゲーションピクシー》に該当すると言った。
 すぐにその姿を既定の姿に変え、これでもう自分はエラー検出プログラムによって消されることは無いと言う。
 難しい話のわからないエリカは、とにかくユイは問題なく一緒にいられるということに喜んだ。
 ユイは十センチほどの大きさになり、ライトマゼンタカラーの花びらを象ったようなワンピースを着こんで背中からは薄い半透明の翅が二枚生えていた。
 ユイの励ましにエリカはようやく元気を取り戻し、一路、世界樹を目指すことにした……のだが。
「ええ? リアル換算値で五十キロメートル強!?」
「はい、マップによるとそう計算されます」
 ナビゲーションピクシーとユイの能力としてゲームのリファレンスと広域マップデータのアクセス、接触プレイヤーのステータス確認が可能なことがわかり、さっそくエリカはユイに案内を頼んだのだが、そのあまりの遠さに愕然とした。
 こんなことならもっと近い位置にホームがある種族を選ぶべきだったかとエリカは消沈するが、ユイ曰く「どこからも似たようなものです」と言われ、どうあがこうとその距離は縮まらないことに少しだけヘコんだ。
 キリトの存在を確かめるだけで、少々遠い距離を旅しなければならない。
「ごめんなさいママ、私が主データベースに入れればすぐにでもわかることなのですが……」
「ううん、ユイちゃんは悪くないよ。むしろここで会えて本当に嬉しいんだから」
「ママ……」
 ユイは器用に飛んでアスナの周りを一周すると、再び肩に降りてアスナの頬に自分の頬を撫でつけた。
 甘えるしぐさのそれはユイがアインクラッド時代からよくやるものだ。
 キリトの膝の上に座ってキリトの胸に頬を擦り付けることもしばしばあり、本当に少しだけエリカ──アスナは嫉妬したものだった。
 甘えるユイに愛しさを増幅されながら、エリカ──アスナは先ほどよりもやや自分が落ち着いていることを自覚していた。
 やっぱり、自分には彼やこの子が必要なのだと強く思う。ユイも、キリトが大好きなことは想像に難くない。
 とにもかくにも、世界樹へと向かい、事の事実を突き止めるのが今一番の急務だ。それについてはあえて聞かないがユイも反対はすまい。
「さて、じゃあとりあえず行けるところまで行こうか、ユイちゃん」
「はいママ!」
 ユイの笑顔でさらに元気をもらったエリカは、ふと気づく。
 翅があるなら飛んでいけば楽じゃないかと。
「う~ん」
「どうしましたママ?」
「あのね、せっかく翅があるんだし飛んで行こうかとも思うんだけど……飛び方がわからなくて」
 てへ、と小さく舌を出すエリカにユイはクスクス笑い「そんなときの為の私です!」と胸を張った。
 エリカはユイのレクチャー通りに左手を立てて握るような形を作り、補助コントローラーを出現させる。
 なるほど、これを使って飛ぶのか、とエリカが上昇したその時、
「待ってよリーファちゃ~ん!」
「ついて来ないでって言ってるでしょレコン!」
「そんなぁ~!……って前! 危ないよリーファちゃん!」
「へっ!?」
「えっ!?」
「ママ!?」
 運悪く、アスナが上昇したその場所めがけて高速飛行してきた男女二人組の同族、そのうちの少女の方がエリカをかわせずに激突する。
 どーん! と大きい音を立てて二人は絡み合ったまま不快な感覚を得ながら叫び声を上げつつ地面に落ちたのだった。
「いたたた……って痛くないんだった」
「ひゃあ……」
 頭を押さえながらリーファ、と呼ばれていた少女が起き上がる。
 淡いグリーンのロングヘアを花びらのような髪留めで留めてポニーテールにし、その背中からはライトグリーンの翅が生えていた。
 最初に辺りを見た時から思っていたことだが、どうも風妖精(シルフ)は緑を基調カラーとしているらしい。
 エリカ自身も含め服装やら翅やら髪やらは緑を薄めたり濃くしたりした色合いが強かった。
「ご、ごめんなさい。この辺いつもほとんど人が来ないから誰かがいるなんて思わなくて……」
「こ、こちらこそ……まだ始めたばかりで勝手がわからなくて」
 先に立ち上がったリーファがエリカに手を差し出し、未だ少し目を回しているような──酔っているような──感覚に囚われながらエリカはその手を掴んで立ち上がった。
 とと、とふらつきながらも姿勢を正して「えへへ」とはにかむ
「ママ、大丈夫ですか?」
「あ、うん大丈夫だよユイちゃん」
「え? 何この子? プライベート・ピクシーってヤツ? プレオープンの販促キャンペーンで抽選配布されたっていう……」
「むぅ……危ないじゃないですか! ママにぶつかるなんて!」
「あ、ああごめん、それは本当にごめん。って、このピクシー随分性能良いのね」
「あ、あはは……」
 アスナの苦笑いにぷぅ、と小さい頬を膨らませたユイがリーファを睨む。それに慌ててリーファは何度も頭を下げた。
 そこに「リーファちゃ~ん」と一緒にいた少年シルフが降りてくる。
「大丈夫? リーファちゃん」
「大丈夫よ、それより追いかけてこないでって言ってるでしょう? おかげで無関係の人にまで迷惑かけちゃったじゃない」
「あれはリーファちゃんが前を見ないでスピードを上げたせいじゃないか……僕は危ないって注意したよ」
「来るなって言ってるのにアンタが追いかけて来るからでしょ」
「僕もついて行ったっていいじゃないか、これまで一緒にいたんだし」
「もう……」
 リーファはやれやれ、と呆れるようにレコンと呼ばれた少年エルフを見やる。
 その姿はやはり緑を基調としたカラーだが、背は低く、黄緑色のおかっぱ頭、長い耳も垂れ気味で泣き顔のような顔がデフォルトという姿をしていた。
「私は約束があるの!」
「相手は誰なのさ?」
「最近知り合った子よ」
「男?」
「なんでアンタにそんなこと言わなくちゃいけないの?」
「お、怒らないでよ。だって酷いじゃないか、急に僕を置いて世界樹攻略に行くだなんて」
「世界樹?」
 その言葉に、エリカはハッとなった。
 今彼らは世界樹攻略と言わなかったか。
「世界樹へ行くの?」
「そうだけど?」
「私も世界樹へ行きたいの!」
「え……? でもまだゲーム始めたばかり、なんでしょう? いきなりグランドクエストは早すぎるわよ。ましてやこのゲームがオープンしてから一年経っても誰もクリアできないでいるのに」
「ぐらんどくえすと……?」
「……何も知らないの? なんでそれ世界樹に行きたいのよ?」
「……探してる人がいて、その人が世界樹にいるかもしれないの」
「……へぇ」
 リーファはしゅん、と項垂れた少女に少しだけ興味が湧いた。
 過去の自分を見ているようだ、と言ってもいい。
「……ついてくるだけなら止めないけど、死んでも知らないわよ?」
「さっすがリーファちゃん!」
「あんたはダメよレコン」
「なんでさ!?」
 レコンは自分だけ同行を許されない事に不服を漏らすが、リーファはそれを無視してエリカに尋ねる。
「それでどうする?」
「うん、それで構わないから連れて行って欲しい」
 強い意志を宿した仮初の瞳。
 この世界では全てが作り物で、借り物だ。
 本当の自分を偽ることさえ可能な世界。そこで、これだけ意志力を込めることは難しい。
 一年ここで過ごした経験のあるリーファは、彼女なら信じても大丈夫だと思える一年の研鑽で磨かれた勘に従うことにした。
「私はリーファ、よろしくね」
「私はアス……エリカよ、この子はユイ、よろしく」
 握手を交わして微笑み合う。
 なんだが、初めて会う相手とは思えない相手だった。
「わぁ? これプライベート・ピクシー? 初めて見たよ! 可愛いなあ!」
 と、そこで女の友情が育まれていた時、隣ではユイに目をキラキラと輝かせるレコンがいた。
 その捲し立てるような勢いにユイはビクビクと怯えている。
「こら、怖がってるでしょ!」
 ポコッとリーファが軽く頭をはたいて、レコンを諌める。
 当のレコンは恨みがましそうな目でリーファを見つめた。
「何よ?」
「今日知り合ったばかりの子は連れて行くのに僕はおいていくなんてさ。前にアルンに行こうって誘った時は断ったくせに」
「あのねぇ、あなたと一緒に行ったら何度デスペナルティもらうかわからないでしょ?」
 レコンは決して初心者と言うわけではない。
 強さも中位程度はあるだろう。しかし、リーファの強さ、速さは既にアルヴヘイムでも上位に位置していた。
 残念ながら彼に合わせていては足を引っ張られる事は目に見えている。
 だがリーファはこれまでそのことを鬱陶しく思ったことは一度も無い。
 この世界を教えてくれたのは彼だし、それなりに感謝もしている。
 ただ、彼女は折角できた友人との約束を遅らせてしまっていることに申し訳なさと焦りを感じ始めていて、一刻も早くアルンに辿りつきたかったのだ。
 その為には、少々残酷だが彼をおいて行った方が速い。
「でもその人は初心者(ニュービー)なんでしょ? だったら変わらないじゃないか」
「さっきも言ったけど、もし死んでしまっても面倒は見てあげられない。私だって約束があるんだから本当は一刻も早く行きたいの。《シグルド》のことが無ければとっくに出て行ってたくらいよ」
「じゃあその時は僕もおいていっていいからさ!」
「……」
 だから嫌なのだ、と内心でリーファ溜息を吐く。
 レコンなら最悪そう言うことは想像がついていた。だがだからこそ彼女はレコンを置いていきたかった。
 恐らく、レコンが死んだらリーファは見捨てられない。【蘇生猶予時間】が許す限り、手を差し伸べてしまうだろう。
 それぐらいには、リーファもレコンを嫌ってはいない。だからこそそこに多大な消費とロスが生じてしまう。
 ただ世界樹を目指すだけならそれもいい。だが今はダメだ。《彼女》をあまり待たせたくなかった。
 この気持ちが熱いうちに、《彼女》の決意の冷めないうちに。リーファはなんとしても世界樹にたどり着きたかった。
「それに、僕心配なんだ。追放された《シグルド》はリーファちゃんを恨んでる。一人でフィールドにいたらきっと連中襲ってくるよ」
「それは……」
 そのことはリーファも全く考えていないことではなかった。
 リーファは一つ、いざこざを抱えていた。いや、いざこざを解決したが為に抱えるはめになった、というべきか。
 それが本当はもっと早く出発するはずだった彼女の遅れてしまっている理由でもある。
「あの……?」
 状況を掴めないエリカは疑問符を浮かべながら片手をあげた。
 世界樹に向かわないのか、という疑問半分、その《シグルド》という人と何があったのかが半分。
「……話せば少し長くなるわ。でも、私と一緒にいたら確かにその《シグルド》に貴方も襲われるかもしれない。悪いけど守ってはあげられない。一緒に行くのをやめておくというのなら……」
「良いですよ別に。私も早く世界樹に行きたいのは変わらないし」
 少しバツが悪そうに視線を外したリーファに、エリカはあっけらかんとした声で答えた。
 「それに私こう見えても他のVRゲームで鍛えてるから」と微笑んで。
 それに毒気を抜かれたリーファはやれやれ、と首を振って覚悟を決めた。
「レコン、本当に助けてあげられないからね」
「オッケーオッケー、任せてよリーファちゃん」
「もう……じゃあ行きましょうか! まずは風の塔に登って飛距離を稼ぎましょう」
 フワリ、とリーファが浮かぶ。それを見てエリカは驚いた。
 彼女は補助コントローラーを使っていない。
「え? 補助コントローラーが無くても飛べるの?」
「コツがいるけどね。そっか、エリカさんは初心者だったわね。出来る人はすぐに出来るし出来ない人はレコンみたいに一年経っても出来ないみたいだけど……《随意飛行》って言うのよ。ちょっとやってみよっか」
 リーファは浮かんだ体をすぐに地面に戻し、エリカの背後に回った。
 エリカは説明を受けながら仮想の筋肉と骨をイメージしていく。
 それによって翅が動き、少しずつ推進力を生み始め、
「行けっ!」
「っ!
 ビュン! と勢いよく上空へとエリカは舞い上がった。
 「おお、やるわね」とリーファが感心したのも束の間、エリカはあっちへフラフラこっちへフラフラ。
 レコンが「初心者(ニュービー)に負けた」とガックリ項垂れる。
 しかしそんな彼に急に影が差して「ん?」と上を見上げると、そこにはどんどん近付く三角の……、
「きゃああっ!?」
「ぶぎっ!?」
 降ってきたエリカはレコンに激突した。
 「ちょ!? 大丈夫!?」とリーファが駆け寄ると、何故かレコンは鼻血を出しており、口元がニヤけている。
 それで彼女は全てを察した。リーファはレコンを汚いものでも見るかのような目で見つめる。というか鼻血エフェクトが妙に生々しくリアルでいやらしい。
 同時に、その事実に気付いた者がもう一人いた。
「この……ママのパンツ見ましたね! 変態さんです!」
 ユイが怒り心頭で倒れているレコンの頬を蹴り飛ばす。
 何度も「えいっえいっ」と力を込めて。
 たいした威力ではないが、地味に鬱陶しい。
 レコンは「ごめん、ごめんってば」と謝りながらユイを見て……再び鼻血を吹いた。
 レコンがユイに振り向いた時とユイが足を蹴り上げた時が重なり、ワンピースの中身がレコンからは丸見えだったのだ。
「えっ」
「ば、馬鹿な……!? は、穿いていない、だと……? げふん!?」
 リーファのかいしんのいちげき!
 レコンはたおれた!
「いい加減にしなさいよアンタ、ハラスメントコールで一発アウトもらってもおかしくないわよ」
「え、えへ、えへへ…………」
 リーファは呆れ顔で拳を掲げていた。
 レコンは妙な笑い声をあげながら地面に倒れ伏してピクピク痙攣している。
 ユイは涙目になってエリカの肩に降りた。
 エリカはよしよしとユイの頭を撫でながらレコンを睨む。
「ううママ……ユイは、ユイは穢されてしまいました……」
 ユイの涙声のようなそれを聞いた瞬間、エリカはユイを一度抱きしめ、ぬらりと立ち上がった。 
 ユイはすぐにエリカの胸ポケットに体を隠して頭だけをぴょんと出す。
 エリカの手にはいつ装備したのか、初期装備の剣があった。瞳には怖いくらいの光を宿している。
 そのただならぬ気配に歴戦の強者であるはずのリーファですら「げ」と数歩後ずさってしまった。
「ユイちゃんに、なんてことを……」
「でへ、えへへ……へ……? ぎゃぶっ!? あばばばばばばばっばばば!?」
 リーファのかいしんのいちげき! を受けて尚おかしな笑いを続けていたレコンが、潰されたカエルのような声を出して動かなくなった。
 何が起こったのかは、きっと彼にしかわからない。
 それを、エリカの胸ポケットから頭だけだしてユイは見届け、本当に小さい声で呟く。
「……うう、ごめんなさいクラインさん」
 その声は、幸か不幸かエリカ──アスナの耳にも届かなかった。
「今日は一段と機嫌が悪そうじゃないか」
「うるせー」
 私不満です、という顔を隠しもしないで、少女──然とした《少年》は純白の豪奢な天蓋付きベッドの上で胡坐をかいて膝の上に肘を置き、頬に拳を当てている。
 いつの間にかそこに来ていた長身の男が、その様子を見て意外そうな顔をしていた。
「いい加減にここから出してくれる気になったのか、妖精王オベイロンさんとやら」
「いいや」
 クックック、と妖精王と呼ばれた長身の男はいやらしく嗤う。
 長く波打つような金髪に額には白銀の円冠。纏う濃い緑色のぶかぶかとした衣には銀糸で細やかな装飾が為されている。
 一目で「偉い人」とわかるような出で立ちに、彼女……いや彼は不満を隠そうともしない。
 もっとも、今ある彼の不満は久しぶりに“怒り”も孕んでいるようだった。
「君も諦めが悪いねぇ、そんな日が来ないことくらいわかっているだろう? だというのに何故今日はそんなにイライラしているんだい?」
「知るか」
 彼は苛立ちを隠そうともしない。いつもの不満、というよりは不機嫌、を通り越した《怒り》一歩手前のような顔だ。
 彼はここにきて既に二か月ほどになるが、こうも怒りの感情を表出させるのは最初の二、三日以降ほとんど見られなかったことだった。
 実際、彼も何故自分がこうも苛立っているのかはわからないでいる。ただ、何か激しく感情が揺さぶられるような、怒らないとやっていられないような、許されるならプレイヤーキルさえしてしまいそうな、そんな心境に陥っていた。
「ふむ、自分でもわからない怒りとは興味深いね。外界との接触を一切絶っているはずの君に、外部からの影響があるとは考えられない。となるとその感情は君の内部から君の知っている範囲で生まれ出でるはずのものだけど」
「だから知らないって」
「クックック、久しぶりに威勢がいいじゃないか、お姫様」
 嗤いながら、妖精王と呼ばれた男は彼の長い髪を掌で一掬いする。
 それを自らの鼻まで持っていき、すぅっとその匂いを嗅いだ。
 途端にやられた少女……いや少年は背筋がゾクゾクと冷え、鳥肌がブワッと立つ……ような錯覚にとらわれる。
「止めろ! お前男相手にそんなことして気持ち悪くないのかよ!」
「男相手、ねぇ……確かにそうだけど、今の君の姿を見て一体何人が男と言ってくれるだろうかね?」
「くっ……何度も言ってるだろ、ならさっさとこの姿だけでも変えてくれよ!」
「そのつもりはないよ。それじゃあつまらない」
「ふざけるなこの変態野郎」
「おいおい、これ以上生意気な口を叩くと君の《アバター》の股間についている貧相な《ソレ》も消すよ?」
「くっ……お前……っ」
「クックック、アッハッハッハ! いいねその顔、その表情! それが見たかったんだよ僕は! アッハッハッハ!」
「…………」
「おや、だんまりかい? つまらないねぇ」
 何を言われようと、これ以上彼は会話を続行するつもりは無かった。
 こんな姿に変えられて、なけなしのプライドはズタズタだ。それでも、最後の一線くらいは守りたい。
 《コレ》を消すなど、この男にとっては本当に造作もないことだ。あまり機嫌を損ねてそこまでやられた日には、立ち直るのに時間がかかる。
 それを見て、妖精王は切り札を切った。
「桐ヶ谷君」
「…………」
「僕と明日奈の結婚が決まったよ」
「……!?」
 その言葉に、何を言われても無視を決め込むつもりだった彼、桐ヶ谷和人/キリトは反応せざるを得なかった。
 馬鹿な、と。その顔は驚愕に彩られている。それを、楽しくて仕方がないとばかりに妖精王は嘲りを込めた笑い声を上げた。
「何そんな顔してるのさ! 当然だろう? 言っただろう? 僕は彼女の婚約者なんだと! まさか嘘だとでも思っていたのかい?」
「……っ!」
「その目はまだ信じ切ってない目だねぇ、まぁ外界との接触は絶ってるから当然と言えば当然か。でもねぇ、世の中どうにもならないこともあるんだよ。今度彼女と君の病室に行って結婚報告をするから、そうしたらその時のことを教えてやるよ」
「この……っ!?」
「おっと」
 彼、キリトがとうとう我慢できずに一歩妖精王へと近づいた時、彼はその動くと言う《行動》そのものを制限されてしまった。
 ここは相変わらずのシステム世界。システムに逆らうことなどできはしない。仮想世界における悲しいまでのリアリズム。
 妖精王は相変わらず嘲笑をその顔に貼り付けながら指でキリトの薄い唇をなぞる。
 気持ち悪いことこの上ないが、今のキリトにはそれを振り払う動作をすることが許されていない。
「なんでここまで話しているかわかるかい?」
「……知る、か……!」
「そりゃそうだろうね。じゃあ考えたことはあるかい? なんでSAOにいた君がこうやって別の仮想世界にとらわれているのか」
「……お前が、乗っ取ったんだろ」
「おや、そっちの知識は思ったよりあるようだね。なら話が早い。理由はなんだと思う?」
「……人体実験」
「ブラボー、実にブラボーだよ桐ヶ谷君、君は非常に頭がいい。そこまで気付いているとはね。ではその内容を聞こうか」
「……脳に関することだとは思うが、あとはわからない」
「まあそうだろうね。そこまで看破されてしまったら流石に君を捨て置けないよ。でも今日は特別サービスで話してあげよう、何、結婚が決まったんでね、僕も気分が良い」
「っ」
「そう嫌そうな顔をするなよ桐ヶ谷君、なんなら結婚式の様子から初夜の様子までストリームで見せてあげられるよう手筈を整えてあげようか」
「~~~~~っ!」
 妖精王は楽しくて仕方がない、と嘲笑を続けながら唇をなぞる指を止め、つつ……と徐々に頬、顎へと触る場所を下降させていく。
 顎から喉を、鎖骨を撫でて肩へ。そのまま腕を人撫でしてようやくキリトに触れるのを止めた。
「考えたことはあるかい? このフルダイブ用インターフェースマシン、ナーヴギアは仮想現実を直接脳に見せているわけだが……脳の全てに影響を与えているわけじゃない。その必要は無いからね。では、全てに影響を与えられるようになったとしたら……」
「何を、言って……お、おま、え……まさ、か……そんな……!」
「流石だよ桐ヶ谷君、君は一を知って十を知る才能を得ている。実に素晴らしい逸材だ。《ピッタリ》だよ。クックック」
「何て事を……何て研究をしているんだお前は! 人を、人を操る気なのか!」
 もし、脳の全てに任意の影響を与えられるなら、それは不可能な話、ではない。
 現在、脳の感覚野に限って信号を送り込むことで、仮想世界で仮想の感覚を得る仕様となっているのがフルダイブシステムの根幹だが、その枷を取ってしまったら、それは人が踏み込んではいけない領域だ。
 仮想世界では本来無いはずのものを見ることが出来る。それを見ているという信号を送られているからだ。もしその信号を自在に制限なく弄れるようになってしまったら、人に自由意志はなくなってしまう。
 それもそうだと知らないうちに。
「研究が完成した暁には君をリアルでの被験者一号にしてやるよ、桐ヶ谷君。そうだな、明日奈にでもこう言ってもらおうか。「僕はもう君の事なんてなんとも思っていない」とね。そうすれば彼女も何の憂いもなく僕の妻になれるさ」
「ッッッッッ!!」
「なに、悪いようにはしないよ。君は賢い。そのあとは僕の部下として使ってやってもいいよ。アハハハハハ! いや実に運がいい、SAOサーバー自体に手を出すことは出来なかったがプレイヤー解放時に一部のプレイヤーを僕の世界に拉致するようルータに細工することはそう難しくなかった。おかげで現実なら絶対に不可能ともいえる三百人近くもの被験者を僕は手に入れた! 最初はその中に彼女、明日奈が入ってることを期待したが、蓋を開けてみればそれ以上の収穫だよこれは!」
 妖精王は高笑いをしながら部屋を出ていく。いや、部屋と言うよりは鳥籠のそれを。
 その表現も厳密に言えば正確ではない。人を閉じ込めているのだから人籠……金の格子でできた檻だ。
 世界樹と呼ばれる馬鹿でかい樹の枝から吊り下げられているここは現実なら考えられないとんでもない高さにある。
 彼が最初に座っていた豪奢な天蓋付きベッド以外のインテリアは白い大理石でできたテーブルと椅子のみ。
 白いタイルが敷き詰められた床は端から端までは十数メートルはあるだろう。
 狭いとも広いとも言えないその空間の天井は半球を描くように格子が中央に収束していて、形は鳥籠そのものになっている。
 妖精王が姿を消してからようやく動けるようになったキリトは、その檻の中心に立ったまま右手で自身の顔を覆った。
 体が震える。《彼女》が唯一の心の支えだった。彼女が現実で待ってくれていることだけが、彼がここで必死に自分を保つ最後の砦だった。
 だが、その彼女が自分以外の男と結婚してしまうという。最悪、自分は操られ、彼女に思ってもいないことを言わされるかもしれない。
「アスナ……っ!」
 声を殺して泣くキリトの涙が零れる。
 それを、知ることが出来るものは誰もいない。
 手を差し伸べる者も、誰もいない。
 フラフラと倒れるように豪奢な天蓋付きのベッドに腰掛けた彼の瞳は、既にその輝きを失っていた。