「っ」
万力の様な力で首を掴まれ、それだけで悠二は剣を取り落としてしまった。やはり、敵にすらなり得ない。判り切っていた事だった。
「中に何が、在るのかな………?」
右手で首を掴んだまま、フリアグネの左腕が悠二の胸に潜り込んだ。突き刺さった腕は、しかし背中に抜けず、彼の内に宿る宝具に向けて伸ばされる。
「(僕の、中に……腕が……!)」
肉を抉って内臓を掻き回されるわけではない。存在そのもの、己が核たる根源的な何かを揺さ振られて、悠二はかつてないほどの恐怖を感じる。
ガタガタと震える歯の根は合わず、全身から冷や汗が流れ落ち、目を閉じてもいないのに何を見ているか判らない。
「(掛かった………!)」
そんな消滅の恐怖を傍らに、悠二の理性は到来を待つ。“狩人”の左手が、“それ”を掴んだ。
(ピシッ)
何かが罅割れる、小さな亀裂音に僅か遅れて……
(ボギッ!!)
悠二の身体に潜り込ませていたフリアグネの左腕が、“もぎ取られた”。
「ぐあああぁぁああああぁああ!!?」
「ご主人様!?」
左腕を……失った左腕の傷口を押さえて、フリアグネは断末魔の如く絶叫する。放り出された悠二は無様に尻餅を着いて、そのままの体勢で後退る。
「はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……!!」
消滅寸前まで追い詰められた悠二もまた、激しい消耗に半ば自失する。いくら吸っても足りないように呼吸を繰り返し、自分の存在を確かめるように何度も胸を掻き毟る。体内に残ったフリアグネの腕が異様な存在感を持って総身を苛んでいた。
「これ、が……“戒禁”……!?」
恐慌状態から緩やかに覚めていく悠二は、自身の策が見事に働いた事を知った。
『その宝具には“戒禁”……それを奪おうとする者に攻撃を加える自在法が刻み込まれています。不用意に手を出せば、私でも只では済まないほど強力なものです』
そう、既にミステスを手にしていたヘカテーが、宝具に手を出せなかった根本的な理由。それが自在法・『戒禁』。非力な悠二が唯一フリアグネに加えられる攻撃手段なのだった。
「くそっ……くそっ……貴様よくもォ……!!」
左腕の傷口から薄白い炎を噴き出させる“狩人”の顔が、喩えようもない憤怒に歪む。
「(戒禁って、こういうものだったのか……!?)」
消滅の危機すら利用した罠も……ここで終わりだった。悠二の戒禁は、宝具に干渉しようとした腕……ただそれだけを斬り落とした。
フリアグネはそれによって左腕を失ったが、そこまで。手負いの狩人にトドメを刺すヘカテーこそが今、動けない。もう……どうする事も出来なかった。
「(どうせなら、触れた相手そのものに攻撃してくれよ……!)」
無意味と知りつつ、己が内に眠る宝具を罵倒する。フリアグネの右手が薄白い炎を燃やして、悠二の前で振り上げられる。
「(ここまでか………)」
迫る炎に、悠二が今度こそ自身の消滅を覚悟した時―――
(トンッ)
小さな衝撃が、彼の背中に当たった。
瞬間――――
(ドクンッ)
怖気を誘う脈動と共に、未だ体内に漂っていたフリアグネの腕の不快感が消えた。……否、“溶けた”。
「なにっ!?」
それとほぼ同時、悠二の左腕が、悠二にはあり得ない反応速度でフリアグネの右手を弾く。自分自身の反射に呆気に取られる悠二は、それでも何とか立ち上がって後退する。
背中に当たった衝撃は、そのまま懸命な抱擁となって悠二の胴体に回されている。ヘカテーが、悠二の背中に抱きついている。
「何だ……これ……?」
ヘカテーの不可解な行動以上に、悠二は自身に何が起きているかが気になって仕方ない。
別に操られているわけではない。悠二の意志で身体は動くが、だが感覚がまるで違う。自分の身体が、自分の物ではないようだった。
「うっ!?」
困惑に耽る暇など無い。薄白く燃えるフリアグネの右手が、炎の弾を撃ち出す力を練り上げている。
その違和感が炎弾の予兆だと理解できる事自体が異常だと気付く余裕は無い。危機感に任せて横っ跳びに“20メートルくらい”逃げた。
「どっ、どうなってるんだ!?」
薄白い爆炎を眺めながら、悠二は堪らず声に出して動転した。こんな事、坂井悠二に出来るわけがない。しかし身体は、この感覚が初めから自分のモノであるように捉えていた。
「この……ミステス風情がぁ!」
理解も動揺も、今という瞬間には許されない。怒り狂う狩人の指先が数多の燐子を喚び出し、それらが一斉に悠二に襲い掛かって来る。その手には、先ほどフリアグネがバラ撒いた種々の宝具が握られている。
「…………来ます」
消え入りそうな声が、耳のすぐそばで聞こえた。それが、パニック寸前の悠二をギリギリで現実に繋ぎ止める。
「(何がなんだか、解らない)」
右上から袈裟斬りに振り下ろされる直剣を掻い潜り、カウンター気味に振り上げたアッパーでマネキンの頭を砕く。
「(今、僕に何が起きているのかも)」
風を切って横殴りに飛んで来る斧の背中を軽く叩いて、別の燐子の胴を両断させる。振り切った隙だらけの胸に足裏を叩き込み、後ろの燐子ごとドミノ倒しに転倒させる。
「(でも、別に構わない)」
ここに到って、得体の知れない自分の状態を自覚して、やっと気付いた。
自分がいつか消えるトーチだろうと、ヘカテーが紅世の徒だろうと、そんな事は関係ない。
「自分が何物だろうと、ただ、やる」
そう、それだけ。
それだけの真実を掴み取るのに、随分と思い悩んだ。今はもう、迷いは無い。
「消し飛べ!!」
怒鳴り声と同時、いつまでもミステスを仕留められない燐子に業を煮やしたフリアグネの『ダンスパーティ』が鳴り響く。
しかし、甘い。最初に燐子の爆発を察知したのは、ヘカテーではなく悠二の方だ。
「はああああっ!!」
凝縮し、弾ける寸前の燐子を置き去りにして、悠二は全力でフリアグネ目がけて前に跳躍した。一拍遅れの爆圧を背中に受け、道阻む燐子を悉く砕いて、悠二はフリアグネに迫る。
「ご主人様、お下がりください!」
得体の知れないミステスに驚き、主の危機を怖れたマリアンヌが前に出た。その肩を……フリアグネが力任せに引き倒す。
「大丈夫だよ、マリアンヌ。私の背中に隠れておいで」
“狩人”としての彼の眼は、悠二の力の正体を見抜いていた。あれはつまり、体内に残されたフリアグネの左腕を取り込み、使っているのだ。
ほんの少し前まで普通の人間だったミステスにそんな力を使いこなせているのは疑問だが、大方 不自然にミステスの背中に貼りついている“頂の座”が関係しているのだろう。
「(どちらにせよ、無駄な足掻きだ)」
火除けの結界は使えない。『アズュール』を着けていた左手は、ミステスに奪われてしまったのだから。つまり、この距離で燐子は爆発させられない。
だが、それが何だと言うのか?
「(私の腕で、私に勝てるか……!)」
ミステスが奪ったのは左腕一本。フリアグネにはそれ以外の全身分の力が残っている。マリアンヌでは万が一が在るから下がらせたが、フリアグネが負ける理由など皆無。
「これで、終わりだ!」
ハンドベルが長衣の奥に消え、代わりに握られたのは煌びやかな造りの細剣。その切っ先が高速で回転しながら悠二の眉間を狙い――――
「っ………!!」
悠二は咄嗟に、首を捻って避けた。刃の掠めた頬が抉り切れ、血飛沫が飛び散るのも構わず、悠二は拳を握り締めた。
「無駄だ」
フリアグネは細剣を手放し、右手に盾を構える。直撃しようと倒されはしない、という確信の上に。
「(今を、限界まで、燃やせ!!!)」
存在全てを叩きつけるように、悠二が拳を振りかぶる。
その背中……フリアグネからは死角となる場所で――――彼の背中に、ヘカテーが右腕を潜らせた。
「―――――――」
陽炎の世界に、炎が爆ぜる。
それは燦然と輝く………銀の炎。