非日常を内包した日常を送る御崎市坂井宅、その朝の一幕。
「悠ちゃーん、食べ終わった食器下げとくれー」
いつものように真南川の河川敷に足を運び、悠二とヘカテーが派手に打ち合い、平井とヴィルヘルミナをも伴って家に戻り、ヘカテーと悠二が交代でシャワーを浴び、揃って朝食を摂る。
「悠ちゃんって言うな!」
朝食が済み、悠二と平井が食器を片付け、
「奥様、今日のゴミはこれで全部でありますか」
「あらカルメルさん、いつもありがとうございます」
「いえ、帰るついでに持って行く程度の手間。礼を頂くほどの事ではないのであります」
千草とヴィルヘルミナが燃えるゴミを纏めている頃、坂井家の居候たるヘカテーはと言えば………
「………………」
ソファーに座り、朝の連続テレビ小説を鑑賞していた。やや古めかしい学園ドラマの風景が、画面の中で淡々と流れている。ヘカテーはそれを、食い入るように見つめていた。
「ヘカテーそろそろ行くよ。どうせ最後まで見れないんだから」
乾拭きした食器を棚にしまい終えた悠二が小さな後ろ頭に声を掛けるも、ヘカテーは微動だにしない。
画面の中では間抜け面した生徒が居眠りをしていて、教師の額に青筋が浮かんでいる。
「ヘカテーちゃん、遅刻しちゃうわよ?」
困ったような千草の声に、ゆっくり動き出すヘカテー。しかし視線はテレビから離れない。
教師の怒りが臨界点を突破した。しなる様なフォームから放たれた“それ”は一直線に白き軌跡を描き、吸い込まれる様に居眠り生徒のつむじに直撃。
「言う事きかない悪い子は~……こうだ!」
背後の平井に脇から持ち上げられるヘカテーを余所に、教師は生徒達に畏敬の眼差しを向けられている。
「………これです」
ヘカテーは、何かを見つけた気がした。
それは、全く唐突な出来事だった。
入学試験の延長のような内容の中間テストも終わり、次の本番……期末テストの範囲を学ぶ時期。一時限目と二時限目の間の五分休憩の事。
「……ちょっと、トイレに行って来ます」
隣席のヘカテーのさり気ない一言に、
「うん」
悠二もまた、何気なく応えた。応えてからたっぷり五秒後、
「………ん?」
違和感に気付く。
女子が男子にトイレ報告、という行動自体も間違っているのだが、悠二の違和感はそういった類のものとは違う。
「(………ヘカテーが、トイレ?)」
即ち、“紅世の徒はトイレになど行かない”という事実と噛み合わない矛盾である。
どういう事か訊ねようと顔を向けるも、既にヘカテーは教室に居ない。気になるものの、まさか女子トイレに様子を見に行くなど出来るわけもない。
「(平井さんは……ダメか)」
今や悠二らの事情を知る心強い親友も、今は中村公子と雑誌を眺めている。あそこに割って入るのは少々勇気が必要だった。
「(………まぁ、いっか)」
それで悠二はあっさりと諦めた。
所詮は五分休憩。前に過保護だと言われた事も思い出しつつ、ちょっとしたお茶目くらいは見逃して然るべきだと思い直す。
―――この十分後、悠二は自分の判断が単なる油断に過ぎなかった事を痛感する。
二時限目の授業開始時刻になって五分以上が経過した現在、教師が来る気配は無い。
とはいえ、この程度の遅刻は大して珍しくもない事もあり、クラスの多くが雑談に興じる中で、吉田一美はせっせと数学の問題集を解いていた。
「じゃあ、ホテルで働いてるわけじゃないんだ?」
「うん、あそこは史ちゃんが受付やってるだけ。支部があるのは大戸の方だよ」
三問目の例題に取り掛かろうかというところで、気になる声が楽しげな響きと共に耳に届く。顔を上げれば、斜め前方の席で坂井悠二と平井ゆかりが仲良く話している。
「(何か……ゆかりちゃん、変わった……?)」
悠二が絡むと過敏にならざるを得ない吉田は、その様子に胸騒ぎの様なものを覚える。
元々吉田が羨むほどに親しい間柄ではあったが、今の二人にはそれだけではない。今までどうしても埋まる事の無かった溝が埋まり、より距離が近くなっている。
具体的な接し方の変化があったわけでもないのに、吉田にはそう思えて仕方なかった。
「(……あれ? 近衛さん居ない)」
そう思うと自然に追ってしまう目線の先には何故か、たったいま気になった人物が居ない。さっきの授業までは普通に居たと言うのに。
「(そういえば、あの日も………)」
少し前に彼女が休み、その次の日に悠二や平井も休んだ事を思い出して表情を暗くする吉田。胸を苛む根拠の無い不安は……
(ガラッ)
次の瞬間、地平線の彼方まで吹き飛んだ。教室のドアを開けて入って来た、小さな先生の姿によって。
『…………………』
あまりの衝撃に、或いは感動に打たれて、教室中が静まり返る。
入って来たのは、幸薄そうな顔をした痩せぎすの中年ではなく、どう見ても近衛史菜。ただし、常のセーラー服姿ではない。円柱に四角い板を乗せたような学者帽子を被り、同色のマントに身を包んでいる。
「数学教師が体調を崩したので、代理を務める事になりました近衛史菜です。皆、私語は慎んで下さい」
眼鏡を掛けてもいないヘカテーは、眼鏡を直すような仕草をする。静寂が弾けた……というより、平井が弾けた。
「うきゃー! さっすがヘカテーあたしが見込んだ………」
(ドキュンッ!)
直後に、額にチョークを直撃されて卒倒する平井。
「私語は慎んで下さい」
チョークが当たったにしては可笑しな衝突音が聞こえたが、誰もそこに突っ込まない。怖いから。
(ピコンピコン)
続け様に、ヘカテーの帽子に飾られし紅玉が明滅を始める。その警鐘にヘカテーの瞳がわざとらしく煌めき、ある一点を射抜いた。
机の上に数学の教科書を縦に置いて隠れる、田中栄太を。
「おしおきです」
「ほげぇえーー!?」
しなる様なフォームから繰り出されたチョークが鮮やかな白の軌跡を描き、弾丸の如き威力を以て田中の額を撃ち抜く。
パタンと倒れた教科書の後ろから、食べ掛けのコンビニおにぎりが姿を現した。
「早弁は見逃しません」
無表情の上にご機嫌なオーラを纏って鼻を鳴らすヘカテーの姿に、誰からともなく視線が一人の少年に集まる。
視線を受けた少年は、ただ静かに……両手を合わせて謝った。
余談だが、本来この授業を行うはずだった数学教師は、後に保健室のベッドでノびている姿で発見される事となる。
その日の放課後、二人の男女が学校からの帰路に着く。
一人は、控え目ながらも可憐な少女・吉田一美。もう一人は、頭脳明晰にして公正明大なメガネマン・池速人。
一緒に下校しているからと言って、別に二人が付き合っているわけではない。さっきは五人で帰っていて、方向が違う『いつもの三人』と別れた結果として二人になっただけに過ぎない。
「あ、平井さんと中学は違うんだ?」
しかし別に、それで空気が重たくなるわけでもない。むしろ池は、吉田にとって一番話しやすい男子と言って良い友人だった。
悠二と平井に引っ張られるように友人となって二ヶ月余り。それ以上に、他者との距離感を掴むのが上手い池の気配りが、引っ込み思案な吉田には有難かったというのが大きい。
「うん。幼馴染みって言うとよく『小さい頃からずっと一緒』みたいに思われるけど、小学校も中学校も違うの」
それは同学年でも男子には敬語を使う吉田が、池にだけは女子と同じように話す事からも見て取れた。
………だからだろうか。
「同じなのは幼稚園だけ。………今は、坂井君の方がゆかりちゃんと仲良しだと思う」
“こういう話”も、いつしか当たり前に話してしまうようになっていた。
池はその寂しげな横顔を見て、いつまでも眺めるべきではないと、すぐ視線を前に戻す。
「(………中学までは考えた事もなかったな、こんなの)」
眼鏡を押さえて表情を隠し、不自然にならない間で言葉を探す。
誰を応援しても角が立つ、強いて言うなら悠二を応援するしかなさそうな状況だとは思う。の、だが……
「……坂井もさ、元々女子と積極的に話せるタイプじゃないんだよね」
今、敢えて、池は吉田に味方する。自発的に誰かに肩入れするのはルール違反に思えるが、遠回しにせよ“頼られた以上は応える”。それが池が、スーパーヒーロー・メガネマンたる所以であった。
「だから、はっきり言ってあいつには期待しない方がいい。吉田さん自身が頑張るしかない。それは解ってる?」
わざと厳しく、まずは心構えを問う。「今は頑張れていない」と言われたように感じた吉田の頭に、涙滴型の何かが落ちた。
然る後に、復活する。
「わ、わ……解ってる! 自分で頑張らないとって、事くらい……!」
彼女らしからぬ勇ましい(……と呼ぶには迫力に欠ける)声を上げて、胸の前で両の拳を握る吉田。甚だしく不安ではあるものの、やる気は十分と、池は心中で合格通知を出した。
「オーケー、なら今度の土曜………」
池の眼鏡が妖しく光り、
「坂井とデートだ」
「…………………………………………え?」
吉田の意識が、地平線の彼方まで飛び去った。